『死んだはずの雷神、璃月で狐面を被る』 作:悲劇のキャラに救済を
璃月の空は、稲妻よりも高く見えた。
岩山の輪郭は夕陽を受けて金に染まり、帰離集の灯りはその足元でひとつずつ増えていく。槌の音、荷車の軋む音、遠くで子どもが笑う声。そのすべてが、まだ未完成な国の息遣いだった。
眞は帰離集の外れに立ち、しばらくその光を見ていた。
稲妻には、灯の社ができた。鬼が帰る飯、天狗が帰る空、白狐が帰る鈴、影が帰る茶の音。どれも小さく、頼りなく、それでも確かに誰かを呼び戻すための道になり始めている。
だが、ここ璃月には、まだそれがない。
帰終を救うための道。
帰終が帰る場所。
そして、帰終が表から消えた後に残るもの。
「難しい顔ね」
背後から声がした。
振り返ると、帰終が歩いてきていた。手には小さな機巧鳥を乗せている。木と金属と塵の力で作られた鳥は、彼女の指先で首を傾げ、まるで生きているように小さく羽を動かしていた。
「考え事をしていました」
「あなたはいつもそう」
「最近、よく言われます」
「でしょうね」
帰終は隣に並び、帰離集を見下ろした。機巧鳥は彼女の手から飛び立ち、少しだけ空を回ってから、肩へ戻ってくる。
その様子があまりにも自然で、眞の胸がまた痛んだ。
帰終はこの街にいる。
人々の暮らしの中にいる。
水車の仕組みにも、農具の改良にも、子どもが遊ぶ小さな玩具にも、彼女の知恵が残っている。
この人をただ隠せばいいわけではない。
彼女が消えれば、この街のどこに穴が空くのか。
それを見ないまま、救済など口にしてはいけない。
「眞」
「はい」
「今日は、私から話があるの」
帰終の声は穏やかだった。けれど、いつもの軽い調子ではなかった。
「聞かせてください」
「その前に、少し歩きましょう」
二人は帰離集の中を歩いた。
夕餉の支度をする家々から湯気が立ち、職人たちが作業道具を片づけている。帰終が通ると、人々は自然に声をかけた。
「帰終様、明日の水路ですが、北側を先に直した方がよいでしょうか」
「ええ。南側は一日なら持つわ。北は夜に雨が降ると崩れやすいから、先に補強して」
「帰終様、これ、昨日の機巧の羽です」
「あら、よくできているわ。ここを少し薄くすると、もっと長く飛ぶはずよ」
「帰終様、子どもがまた発明品を分解してしまって」
「興味がある証拠ね。でも、危ない部品は先に外しておいて」
帰終はひとつずつ応えた。
笑いながら。
考えながら。
時にはしゃがんで子どもの目線に合わせ、時には職人の手元を真剣に覗き込み、時には老人の話を最後まで聞いた。
眞は、その一つひとつを見ていた。
これが、帰終がいるということだ。
ただ神として祀られているのではない。ただモラクスの隣にいるのでもない。帰終は、この場所の細部に溶け込んでいる。
なら、彼女がいなくなった時、消えるのは命だけではない。
答えてくれる声。
直してくれる手。
褒めてくれる笑み。
明日を少し良くする知恵。
そういうものが、まとめて失われる。
「眞」
帰終が呼んだ。
「はい」
「今、私がいなくなった後のことを考えていたでしょう」
眞は答えられなかった。
それだけで、帰終は十分だと分かったように頷いた。
「怒っていないわ」
「……すみません」
「謝ることでもないわね。あなたはそれを考えるために、ここへ来ているのだもの」
帰終は小さく笑った。
その笑みは、少し寂しかった。
「でも、眞。私も考えたいの」
「帰終が?」
「ええ」
帰終は立ち止まった。
そこは帰離集の中央から少し外れた、小さな広場だった。昼間は子どもたちが遊び、夕方には人々が集まって話す場所らしい。今は人もまばらで、夜の支度を終えた街の音が遠くに聞こえていた。
「私のいない帰離集を」
その言葉に、眞の胸が軋んだ。
「そんなことを、あなたが考える必要は」
「あるわ」
帰終は静かに言った。
「勝手に救わないで、と言ったでしょう?」
「はい」
「なら、私も知らなければいけない。私を救うということが、この場所に何を残して、何を奪うのか」
眞は何も言えなかった。
帰終の言葉は正しい。
救うなら選ばせる。
なら、選ぶための情報を渡さなければならない。
しかし、その情報の多くは未来に触れる。
口にすれば、世界が聞くかもしれない。
「全部は言えません」
「分かっているわ」
「具体的なことも、言えないものがあります」
「それも分かっている」
帰終は眞を見た。
「だから、言える形にして」
「言える形」
「ええ。私がいつ、どこで、どうなるかではなく。私が表から消えた時、何が起こる可能性があるのか。あなたの言葉で、未来を固定しない形で教えて」
それは難しい要求だった。
けれど、逃げてはいけない要求でもあった。
眞は少し考え、広場の石段に腰を下ろした。帰終も隣に座る。機巧鳥は帰終の膝の上で羽を畳み、静かに止まった。
「帰終」
「うん」
「あなたが表から消えれば、この場所は大きく変わります」
「そうでしょうね」
「あなたを頼っていた人々は傷つく。モラクスも、きっと深く傷つく。あなたの知恵で支えられていた仕組みは、一度崩れるかもしれない」
「うん」
「けれど、その喪失から生まれるものもあります」
帰終は目を伏せた。
「人々は、あなたに答えをもらうだけではいられなくなる。自分たちで考え、自分たちで直し、自分たちで新しい場所へ向かうことになるかもしれない」
「それは、悪いことではないわね」
「はい」
眞は喉の奥に苦いものを感じた。
「でも、それがあなたを失っていい理由にはならない」
帰終は眞を見た。
「あなたは、そこを譲らないのね」
「譲りません」
「優しいわがまま」
「わがままです」
「ええ。とても」
帰終は少しだけ笑った。
それから、広場の向こうにある灯りを見つめる。
「私が残れば、どうなると思う?」
「分かりません」
「分からない?」
「はい。未来は大きく変わると思います。あなたが残ることで救われるものもある。けれど、あなたが残ることで、人々が自分で歩き出す時が遅れるかもしれない。モラクスの歩みも変わるかもしれない」
「モラクスの歩み」
「はい」
これ以上は言えない。
後の璃月。
岩王帝君が人の時代を見届けること。
神としての立場をいつか手放すこと。
その歩みの中に、帰終の喪失がある。
それをそのまま言うわけにはいかない。
帰終は、眞の沈黙を見て小さく頷いた。
「つまり、私が生きて表に残ることは、救いであると同時に、誰かの歩みを変えすぎるかもしれない」
「……はい」
「なら、やはり必要なのね」
「何がですか」
「表から消える道」
眞の指先が冷たくなった。
帰終は怖がっていないわけではない。
けれど、逃げてもいなかった。
「帰終」
「勘違いしないで。私は死にたいわけではないわ」
帰終はすぐに言った。
「ここが好き。人々が好き。モラクスと作っているこの未完成な国が好き。まだ見たい未来がある。まだ作りたいものも、直したいものも、山ほどある」
「はい」
「だから、生きたい」
眞は頷いた。
その言葉を聞くたび、胸が痛くなる。
生きたい。
帰終は、ちゃんと生きたいと言う。
だからこそ、彼女を救う意味がある。
「でも、ただ残ればいいとも思わない」
帰終は機巧鳥の頭を撫でた。
「私が残ることで、この街が私から離れられなくなるなら。それは、この街のためにならない。私が守りたいものは、私に頼り続ける帰離集ではなく、私がいなくても明日を作れる人々だから」
「強いですね」
「怖いわよ」
帰終は即答した。
「怖いに決まっているでしょう。私のいない場所で、皆が進むのを見るなんて。しかも、私はそこにいるのに、いないことにするかもしれないのよ」
眞は息を呑んだ。
「怖くて、寂しくて、腹も立つわ。どうして私が隠れなきゃいけないの、って」
「……はい」
「でも、それでも考える価値はある」
帰終は眞を見た。
「眞。私を救うなら、私を殺さないで」
「はい」
「でも、私を残しすぎないで」
その言葉は、夜の広場に静かに落ちた。
眞は答えられなかった。
あまりにも難しい願いだった。
死なせない。
けれど、残しすぎない。
忘れさせない。
けれど、世界に捕まえさせない。
それが、帰終の選び始めた道だった。
「……できます、と簡単には言えません」
「ええ」
「でも、探します」
「うん」
「あなたが選べる形にします」
帰終は、ようやく少しだけ安心したように笑った。
「ありがとう、眞」
「礼を言われることではありません」
「言いたいから言うの」
眞はその言い方に、影を思い出して少し笑った。
「何?」
「いえ。妹に似たことを言われます」
「影さん?」
「はい」
「いい妹ね」
「はい」
その時、広場の奥から低い声がした。
「帰終」
モラクスだった。
彼はいつからそこにいたのか、静かに歩いてきた。夜の光を受けた黄金の瞳は、眞と帰終をまっすぐに見ている。
「聞いていたの?」
帰終が問う。
「途中からだ」
「どこから?」
「私を殺さないで、というところから」
「一番重いところね」
「そうだな」
モラクスは二人の前に立った。
その表情はいつも通り静かだった。だが、眞には分かった。彼の内側もまた、穏やかではない。
「モラクス」
帰終は彼を見上げた。
「怒っている?」
「怒ってはいない」
「では?」
「受け入れてもいない」
帰終は小さく笑った。
「あなたらしいわ」
「当然だ」
モラクスの声は低かった。
「お前が表から消える道を、軽く受け入れられるはずがない」
帰終の笑みが少しだけ揺れた。
「うん」
「たとえ生きているとしても、喪失は喪失だ。人々が失ったと信じるなら、その傷は本物だ。私が失ったと認識するなら、それも本物だ」
「うん」
「そして、お前自身も傷つく」
「……うん」
帰終は俯かなかった。
けれど、声は少し小さくなった。
モラクスはしばらく沈黙したあと、眞を見た。
「雷電眞」
「はい」
「この道は、救いであると同時に、長い罰になる可能性がある」
「分かっています」
「本当にか」
眞はすぐには答えられなかった。
分かっている。
そう言いたかった。
けれど、簡単には言えない。
表から消える。
生きているのに、死んだことにする。
近くにいるのに、触れられない。
覚えている者だけが、忘れた世界を見続ける。
それがどれほど残酷なのか、眞はまだ本当には知らない。
「完全には、分かっていないと思います」
眞は答えた。
「でも、軽く見ないと誓います」
モラクスはしばらく眞を見ていた。
そして、静かに頷いた。
「なら、今はそれでよい」
帰終が小さく息を吐く。
「モラクス」
「何だ」
「私は、まだ決めたわけではないわ」
「分かっている」
「でも、考えたい」
「それも分かっている」
「なら、手伝って」
モラクスの目がわずかに揺れた。
帰終はまっすぐに彼を見ていた。
「私が表から消える道を、本当に選ぶかどうか。選ぶとして、どこまで消えるのか。何を残すのか。何を残さないのか。それを、あなたにも一緒に考えてほしい」
モラクスは長く黙った。
風が広場を通り抜ける。
機巧鳥が帰終の膝の上で小さく羽を震わせた。
「……契約にするには早い」
「知っているわ」
「だが、考えることはできる」
「うん」
「そして、条件を定めることもできる」
帰終の表情が少しだけ明るくなった。
「では、最初の条件は?」
「本人の同意」
モラクスは即答した。
帰終は笑う。
「それはもう眞から聞いたわ」
「なら、二つ目だ」
「何?」
「残された者の傷を軽んじない」
眞の胸に、第8話で影と書いた契約が蘇った。
同じ言葉だ。
場所も相手も違うのに、辿り着く場所は同じだった。
「三つ目」
モラクスは続ける。
「戻る道を残す。隠すだけの匣にはしない」
「棺ではなく、灯」
帰終が言った。
「そうだ」
モラクスは帰終を見た。
「そして、四つ目。お前自身が、自分を罰するために選ばないこと」
帰終は目を見開いた。
眞も、息を呑んだ。
「モラクス」
「お前は聡い。だから、この道に意味を見出せてしまう。人々のため、国のため、未来のため。そう言って、自分の寂しさを後回しにすることができる」
モラクスの声は静かだった。
「だが、自分が苦しむことを正しさの証にしてはならない」
帰終は何も言わなかった。
いつもの軽口も、返さなかった。
ただ、モラクスを見ていた。
「……それは、少し痛いわ」
「知っている」
「あなた、時々本当に容赦がない」
「必要なことだ」
帰終は小さく息を吐き、それから笑った。
少しだけ、泣きそうな笑みだった。
「分かった。四つ目も入れましょう。自分を罰するために選ばない」
眞は胸の奥が熱くなった。
帰終は一人ではない。
モラクスが見ている。
眞も見ている。
いつかこの道が本当に必要になるとしても、帰終を一人で選ばせない。
「五つ目は?」
帰終が眞を見る。
「私ですか」
「ええ。あなたも言って」
眞は少し考えた。
影との約束。
灯の社。
千代、笹百合、狐斎宮。
そして、影自身に渡した帰る音。
そのすべてを思い出す。
「戻った後の日常を残すこと」
帰終が目を瞬いた。
「日常?」
「はい。戻る道だけでは足りません。戻った先に、茶や食事や、軽口や、誰かの小言が必要です」
帰終はしばらく眞を見ていた。
それから、ふっと笑った。
「それはいいわね」
「本当に?」
「ええ。とてもいい」
帰終は機巧鳥を両手で包む。
「もし私が表から消えて、それでもどこかに戻る道を残すなら。そこには、発明の失敗作を置く棚がいるわ。お茶も欲しい。あと、モラクスに説教される場所も」
「説教は必要か?」
モラクスが問う。
「あなた、放っておいてもするでしょう」
「必要ならする」
「ほら」
帰終は笑った。
その笑い声に、眞も少しだけ笑った。
重い話の中に、小さな日常が戻ってくる。
それが大切なのだ。
戻るとは、ただ生存を確認することではない。
戻った後に、その人らしく息をすることだ。
「では、条件は五つね」
帰終は指を折る。
「本人の同意。残された者の傷を軽んじない。戻る道を残す。自分を罰するために選ばない。戻った後の日常を残す」
「まだ増えるかもしれません」
眞が言うと、帰終は頷いた。
「もちろん。こういうものは、考えながら増やすものよ」
モラクスは空を見上げた。
夜が深くなっている。
帰離集の灯りは、少しずつ数を減らしていた。
「今夜は、ここまでだ」
「ええ」
帰終は立ち上がる。
だが、すぐには歩き出さなかった。
広場を見渡し、人々の家の灯りを見つめる。その瞳には、確かな愛着があった。
「眞」
「はい」
「私は、ここを忘れたくない」
「はい」
「たとえ表から消えるとしても、この場所を愛していたことは消したくない」
「消しません」
眞は言った。
「名を残せなくても、想いは残せます。存在を隠しても、帰る方向は残せます」
「それが灯ね」
「はい」
帰終は微笑んだ。
「なら、私の灯には、この帰離集の音を入れたい」
「音」
「槌の音。水車の音。子どもの笑い声。モラクスが私をたしなめる声。発明が爆発した時の誰かの悲鳴」
「最後は入れてよいのですか」
「大事な音よ」
帰終はいたずらっぽく笑った。
その笑みが戻ってきて、眞は少しだけ安心した。
帰終は怖がっている。
悩んでいる。
それでも、笑える。
笑いながら、重い道を考えている。
「眞」
「はい」
「私、まだ選ばないわ」
「はい」
「でも、選ぶ準備は始める」
「……はい」
「それは、死ぬ準備ではない。消える準備でもない」
帰終は自分に言い聞かせるように言った。
「戻るための準備よ」
眞は深く頷いた。
「はい」
モラクスも静かに頷いた。
その夜、三柱は小さな紙片に条件を書き残した。
具体的な未来は書かない。
死の名も、場所も、時も書かない。
ただ、選ぶための条件だけを。
本人の同意。
残された者の傷を軽んじない。
戻る道を残す。
自分を罰するために選ばない。
戻った後の日常を残す。
墨は地脈へ沈まなかった。
世界も、それを未来の記録として聞きに来なかった。
これは運命ではない。
ただ、選ぶための灯だ。
帰終は紙片を見つめ、静かに息を吐いた。
「重いわね」
「はい」
「でも、不思議と少し軽い」
「なぜですか」
「一人で考えていないから」
その言葉に、眞の胸が温かくなった。
帰終は紙片を折りたたみ、小さな機巧鳥の胸にしまった。
「この子に預けておくわ」
「大丈夫なのですか」
「失敗作だけれど、失敗作は役に立つことがあるのよ」
帰終はそう言って笑った。
機巧鳥は小さく羽を震わせ、りん、と金属音に似た鳴き声を出した。
モラクスがそれを見て、静かに言う。
「その鳥の名は?」
「まだないわ」
「名前をつけないのか」
「今はまだ」
帰終は眞を見る。
「名前を与えれば、役割が定まってしまうもの」
眞は微笑んだ。
「帰終らしいですね」
「あなたの影響もあるわ」
「私の?」
「ええ。名を残さず、想いを残す。最近、私たちがずっと考えていることでしょう」
帰終は機巧鳥を夜空へ放った。
鳥は広場の上を小さく旋回し、帰離集の灯りの上を飛んだ。まるで、この街の音を覚えようとしているようだった。
眞はその姿を見上げながら思う。
帰終はまだ選んでいない。
だが、選ぶ準備を始めた。
それは救済の始まりであり、喪失の始まりでもある。
怖い。
とても怖い。
けれど、眞はもう一人で抱えない。
帰終も一人で選ばない。
モラクスも、ただ失う側には立たない。
それだけで、未来は少し違う形になる。
夜の帰離集に、機巧鳥の小さな羽音が響く。
その音は、まだ名を持たない。
けれど確かに、帰る方向を探していた。