龍が目を覚ましてから、数日後。
彼はようやく、車椅子であれば病院内を移動できる程度まで回復していた。
全身に走る裂傷と打撲。
右腕にはまだ固定具が巻かれており、少し動かすだけでも鈍い痛みが走る。
それでも――。
「……先生。お願いします」
病室の入口で、龍は担当医を真っ直ぐ見上げた。
「那由他に、ちゃんと伝えたいんです」
医師は難しい顔をした。
「百済君。君の精神状態も、まだ安定しているとは言えない。無理をすれば――」
「それでもです」
龍は遮った。
普段の彼からは想像もできないほど、強い声音だった。
「僕が……お兄ちゃんとして、言わなきゃいけないから」
短い沈黙。
やがて医師は、小さく息を吐いた。
「……わかった。ただし、無理はしないこと。気分が悪くなったらすぐに呼びなさい」
「はい」
龍は静かに頭を下げた。
その隣で、氷華が不安そうに龍を見つめていた。
「龍くん……本当に、大丈夫?」
「うん」
龍は小さく笑う。
だが、その笑顔はどこか無理をしているようにも見えた。
「大丈夫じゃなくても、行かなきゃ」
氷華は何も言えなくなる。
代わりに、そっと車椅子の持ち手を握った。
「……私が押すね」
「ありがとう、氷華ちゃん」
二人は静かな病院の廊下を進んでいく。
消毒液の匂い。
白い壁。
無機質な蛍光灯の光。
車椅子のタイヤ音だけが、やけに大きく響いていた。
そして――。
病室前のネームプレート。
『百済 那由他』
龍の喉が、小さく鳴った。
氷華が心配そうに顔を覗き込む。
「……龍くん」
「うん。行こう」
龍は数秒だけ目を閉じ、覚悟を決めるように深呼吸した。
氷華が扉を開ける。
「――あっ、お兄ちゃん!」
病室のベッドの上で、那由他がぱっと顔を明るくした。
少し痩せてはいるが、その笑顔は事故以前と何も変わらない。
「氷華ちゃんも来てくれたんだ!」
「う、うん……」
氷華はぎこちなく笑う。
だが次の瞬間、那由他の表情が固まった。
「……え」
視線が、龍へ向く。
包帯だらけの身体。
固定された右腕。
青白い顔色。
「お兄……ちゃん……?」
震える声。
「どうしたの、それ……!」
「……ちょっと、事故に巻き込まれちゃって」
龍はできるだけ穏やかに答えた。
しかし那由他は首を横に振る。
「ちょっと、じゃないよ……! そんな……そんなの……!」
今にも泣きそうな顔だった。
龍は一瞬だけ目を伏せる。
そして、静かに言った。
「那由他。大事な話があるんだ」
空気が変わった。
那由他も、それを感じ取ったのだろう。
ベッドのシーツを握る指に力が入る。
「……うん」
龍は言葉を探すように、数秒沈黙した。
喉が痛い。
胸が苦しい。
それでも――逃げるわけにはいかなかった。
「お父さんと、お母さんが……」
声が掠れる。
「事故で、死んじゃった」
那由他の瞳が、大きく見開かれた。
「……え?」
理解が追いついていないようだった。
「な、に……言って……」
「……ごめん」
龍は唇を噛み締める。
「もっと、早く伝えたかった。でも……僕もずっと意識がなくて……」
「うそ……だよね……?」
那由他の声が震える。
「だって、お父さんもお母さんも……この前だって……」
ぽろり、と。
涙が零れ落ちた。
「やだ……」
震える声。
「やだよぉ……」
那由他は顔を覆い、そのまま嗚咽を漏らした。
「やだぁっ……!」
病室に、少女の泣き声が響く。
龍は何も言えなかった。
自分だって、まだ受け止めきれていない。
両親が死んだという現実を。
もう二度と会えないという事実を。
けれど。
それでも。
龍は震える左手を伸ばし、那由他の手を握った。
「……那由他」
少女が涙に濡れた顔を上げる。
龍は必死に笑おうとした。
「僕たちまで、止まっちゃだめだ」
「……っ」
「お父さんもお母さんも、きっとそんなこと望まない」
それは、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
「つらいよ。僕も……すごくつらい」
声が震える。
「でも、僕は那由他のお兄ちゃんだから」
龍は那由他の手を、ぎゅっと握った。
「これからは、僕が那由他を守る」
那由他の瞳から、大粒の涙が溢れる。
「……お兄、ちゃん……」
「一緒に頑張ろう」
龍は静かに言った。
「お父さんとお母さんがいなくても……僕たちは、生きていかなきゃいけないから」
那由他は泣きながら何度も頷いた。
「……うん……っ」
「うん……!」
兄妹は、互いの手を握り合ったまま泣いていた。
その光景を――。
病室の隅で見ていた氷華は。
「っ……ぅ……」
顔を押さえ、声を殺して泣いていた。
涙が止まらなかった。
龍も、那由他も。
二人とも、自分よりずっとつらいはずなのに。
それでも前を向こうとしている。
その姿が、あまりにも痛々しくて。
あまりにも優しくて。
「ぅぅ……っ……」
氷華は堪えきれず、その場で泣き崩れるようにしゃがみ込んだ。
そんな彼女に気づいた龍が、困ったように小さく笑う。
「……氷華ちゃん、泣きすぎ」
「だ、ってぇ……!」
氷華は涙声で叫ぶ。
「こんなの……泣くに決まってるもん……!」
その言葉に、那由他が少しだけ笑った。
つらくて。
苦しくて。
それでも、温かい時間だった。