夜明け前の影の国 〜TS転生した影の女王は、死んだはずの者たちを拾い続ける〜 作:姉御肌っていいよね
誕生日の朝、羊の家は甘い匂いで満ちていた。
焼けた小麦の匂い。
溶けた砂糖の匂い。
煮詰めた果物の匂い。
いつもの薄いスープの匂いとは違う。
朝から、家の中が少し浮いているようだった。
「リンリンちゃん、起きて!」
ロージーが寝台の横で跳ねていた。
リンリンは目を開ける。
身体は、昨夜と同じように丸めたままだった。
隣の子どもを潰していない。
壁も壊していない。
寝台は軋んでいるけれど、まだ形を保っている。
リンリンは、まずそれを確かめてから息を吐いた。
「おはよう」
「おはよう! 今日はリンリンちゃんのお誕生日だよ!」
ロージーが笑う。
その声で、近くの子どもたちも起き出した。
「おめでとう!」
「今日はごちそうだって!」
「甘いやつあるんだろ!」
ハンセルが、もう半分起き上がっている。
髪は跳ねていて、毛布は足元に落ちている。
「リンリン、今日はいっぱい食べられるな!」
「いっぱい……」
リンリンの腹が鳴った。
ぐう、と大きく。
寝室の木壁が、少しだけ震えた。
子どもたちが笑う。
リンリンは顔を赤くした。
でも、怒らない。
笑われても、床を割らない。
ここに来てから、少しずつ覚えた。
みんなが笑っている時、その全部が自分を馬鹿にしているわけではない。
楽しいから笑うこともある。
嬉しいから笑うこともある。
それを、リンリンはまだ少しずつ覚えている途中だった。
「リンリンちゃん」
寝室の入口に、カルメルが立っていた。
白い修道服。
柔らかな笑み。
優しい声。
「お誕生日、おめでとう」
その言葉を聞いた瞬間、リンリンの胸がきゅっとなった。
おめでとう。
自分に向けられた言葉。
置いていかれた子どもではなく。
壊す子どもでもなく。
ここにいていい子として、祝われている。
「……ありがとう、マザー」
「今日は、あなたのために、みんなで準備したのよ」
あなたのため。
その言葉は甘い。
甘いものより、もっと奥に入ってくる。
リンリンは、思わずカルメルの方へ一歩踏み出しかけた。
けれど、止まる。
寝台の端。
床。
ロージー。
周りにいる子どもたち。
全部を見る。
ゆっくり立つ。
急がない。
嬉しくても、走らない。
カルメルは、それを見て微笑んだ。
「本当に、いい子ね」
いい子。
リンリンは、俯きそうになった。
嬉しい。
けれど、昨日聞いた言葉も胸に残っている。
情をかけているように見せる。
母だと思ってほしい。
扱いやすい。
あの声も、カルメルの声だった。
今の「いい子ね」と同じ人の声だった。
分からない。
どちらが本当なのか。
どちらも本当なのか。
リンリンには、まだ分からない。
だから、覚える。
忘れない。
それでも、誕生日を祝ってもらえることは嬉しかった。
食堂には、布の飾りがかけられていた。
きれいな布ではない。
古い布を切って、子どもたちが結んだものだ。
長さもばらばら。
形もばらばら。
でも、食堂はいつもより明るく見えた。
食卓の中央には、まだ布をかけられた大きなものが置かれている。
甘い匂いは、そこからしていた。
リンリンの目が、吸い寄せられる。
喉が鳴った。
手が伸びそうになる。
でも、伸ばさない。
「リンリンちゃん」
カルメルが言った。
「まだよ」
「……うん」
「みんなが揃ってからね」
「待つ」
リンリンは自分の手を握りかけて、開いた。
手を握ると力が入る。
だから開く。
膝の上に置く。
食卓を壊さないように。
布を引きちぎらないように。
カルメルは微笑む。
「えらいわ」
その言葉に、リンリンの胸がまた揺れた。
えらい。
いい子。
あなたのため。
嬉しい。
嬉しいのに、胸の奥に棘がある。
昨日の言葉が、そこに刺さったままだった。
「リンリン、緊張してんのか?」
ハンセルが隣に座った。
「きんちょう?」
「なんか、顔こわいぞ」
「こわい?」
リンリンは慌てて頬に手を当てた。
強く押さえすぎないように。
「こわくしたくない」
「いや、別に怖くはねぇけど」
「今、こわいって」
「えーっと……真剣すぎるってこと!」
ハンセルは笑った。
「誕生日なんだから、もうちょっと笑えよ」
リンリンは笑おうとした。
大きく笑いすぎると、声が響く。
だから、少しだけ。
ロージーが隣で手を叩いた。
「リンリンちゃん、笑った!」
グレーテも笑う。
「かわいい」
「かわいい?」
リンリンは首を傾げた。
かわいいと言われることは、あまりない。
大きい。
強い。
怖い。
そう言われることが多かった。
「リンリン、かわいい?」
「うん」
ロージーは当然のように頷いた。
「だって、嬉しいの我慢してる顔してる」
リンリンは、どう答えていいか分からなかった。
嬉しいのを我慢している。
それは、当たっている気がした。
嬉しい。
でも、怖い。
食べたい。
でも、待たなきゃいけない。
信じたい。
でも、覚えていなきゃいけない。
胸の中が、いっぱいだった。
カルメルが手を叩いた。
「さあ、みんな。リンリンちゃんに、お祝いの言葉を」
子どもたちが一斉に立ち上がる。
ばらばらの声で。
大きな声で。
笑いながら。
「リンリン、お誕生日おめでとう!」
声が、リンリンに降ってきた。
リンリンは目を見開いた。
こんなふうに、自分に声が集まることは初めてだった。
責める声ではない。
怖がる声ではない。
逃げろと言う声でもない。
おめでとう。
その言葉だけが、いくつも重なる。
リンリンの目に涙が浮かんだ。
でも、泣き叫ばない。
地面を割らない。
食卓を揺らさない。
手を膝の上に置いたまま、唇を震わせる。
「……ありがとう」
声は小さかった。
それでも、子どもたちには届いた。
カルメルは、静かに微笑む。
「では、開けましょうね」
布が外された。
食卓の中央に現れたのは、菓子の塔だった。
丸い菓子がいくつも積み上げられている。
白いクリーム。
甘い果物。
砂糖の光。
焼けた生地の香り。
リンリンの視界が、その塔でいっぱいになった。
甘い。
絶対に甘い。
口の中に、唾が溜まる。
腹が鳴る。
胸が熱くなる。
手が、少し浮いた。
「リンリン」
どこかで、声がした気がした。
スカディアの声ではない。
でも、似ていた。
待て。
見る。
聞く。
覚える。
リンリンは、手を止めた。
「……食べていい?」
カルメルを見る。
カルメルは、にこりと笑った。
「もちろんよ。今日はあなたが主役なのだから」
あなたが主役。
食べていい。
許された。
リンリンは、そっと手を伸ばした。
菓子の塔の一番下。
大きな一つを摘まむ。
潰さないように。
クリームを崩さないように。
口へ運ぶ。
噛んだ。
甘さが、弾けた。
「……あまい」
声が漏れた。
甘い。
甘い。
甘い。
今まで食べたどんな菓子よりも甘い。
影の国で褒美にもらった小さな菓子とも違う。
羊の家で出た少しの甘いものとも違う。
これは、自分のために作られた甘さだった。
リンリンの涙がこぼれた。
けれど、笑っていた。
「おいしい?」
ロージーが聞く。
リンリンは頷いた。
大きく頷きすぎないように、必死で小さく。
「おいしい」
「よかった!」
「もっと食えよ!」
ハンセルが言う。
「いっぱいあるぞ!」
いっぱい。
その言葉が、胸の奥を揺らす。
リンリンは二つ目に手を伸ばした。
今度もそっと。
食べる。
甘い。
三つ目。
甘い。
四つ目。
甘い。
子どもたちが笑っている。
カルメルも笑っている。
みんなが見ている。
嬉しい。
楽しい。
おいしい。
ここにいていい。
今日は自分のための日。
リンリンの手が、少し速くなった。
「リンリンちゃん、ゆっくりね」
カルメルが言った。
優しい声だった。
でも、リンリンには少し遠く聞こえた。
「うん」
答えたつもりだった。
けれど、声が出ていたか分からない。
五つ目。
六つ目。
甘い。
もっと。
七つ目。
八つ目。
みんなで食べる。
そう思っていた。
みんなの分を残す。
そう思っていた。
でも、口の中の甘さが、胸の奥の寂しさを埋めていく。
置いていかれた日の海。
戻らなかった船。
いい子だと言われたかった気持ち。
ここにいていいと言われた時の温かさ。
全部が甘さに溶ける。
リンリンの目の前が、少し白くなった。
「リンリン?」
ロージーの声。
「おい、ちょっと速くないか?」
ハンセルの声。
遠い。
甘い。
もっと。
もっと食べたい。
全部食べたい。
自分のために作ってくれた。
みんなが祝ってくれた。
だから、全部受け取りたい。
全部。
全部。
全部。
リンリンの手が伸びる。
菓子の塔が崩れる。
食卓が揺れる。
子どもたちが声を上げる。
「リンリン、待って!」
その声に、リンリンは一瞬だけ止まりかけた。
待つ。
そうだ。
待つ。
でも、口の中が甘い。
目の前も甘い。
胸も甘い。
耳の奥で、自分の心臓が鳴っている。
ぐう、と腹が鳴った。
まだ足りない。
まだ、足りない。
「リンリンちゃん」
カルメルの声が低くなった。
「落ち着きなさい」
落ち着く。
落ち着かなければ。
そう思った瞬間、別の言葉が頭に浮かんだ。
甘いものと祝福には弱いでしょう。
愛されたいものですから。
扱いやすい。
リンリンの手が止まった。
ほんの一瞬。
視界の白さが、少し薄くなる。
リンリンはカルメルを見た。
優しい顔。
でも、その奥に、昨日の声がある。
「マザー」
声が震えた。
「リンリン、物?」
カルメルの笑みが、わずかに固まった。
周囲の子どもたちは、何のことか分からず黙っている。
カルメルはすぐに優しい顔を作った。
「何を言っているの、リンリンちゃん。あなたは子どもよ」
「リンリン、商品?」
「違うわ」
「価値、落ちる?」
今度こそ、カルメルの目が変わった。
一瞬だけ。
優しい母ではない目。
計算する目。
リンリンは、それを見た。
見てしまった。
「……聞いていたのね」
カルメルの声は、ほんの少しだけ冷たかった。
子どもたちがざわつく。
「マザー?」
「どういうこと?」
カルメルは子どもたちへ笑いかけようとした。
けれど、リンリンはもうその笑顔だけを見られなかった。
胸が痛い。
甘いものが口の中に残っている。
嬉しかった言葉も残っている。
でも、冷たい言葉も消えない。
「マザー、リンリンのこと、好き?」
その問いは、小さかった。
けれど、食堂の空気を止めた。
カルメルは黙った。
ほんの一瞬。
答えるには、短すぎる沈黙。
でも、リンリンには長すぎる沈黙。
その沈黙が、答えだった。
リンリンの胸の中で、何かが割れた。
食卓の脚が、ぎしりと鳴る。
子どもたちが悲鳴を上げる。
リンリンは動いていない。
ただ、息をしているだけ。
それだけで、床が震える。
「リンリン!」
ハンセルが叫んだ。
その声で、リンリンは我に返りかけた。
だが、次の瞬間、カルメルが手を伸ばした。
手のひらに、薄い光が灯る。
不思議な光。
魂に触れるような、ぞっとする光。
「落ち着きなさい」
カルメルの声は優しい。
けれど、目はもう優しくなかった。
「あなたは、私の言うことを聞けばいいのよ」
リンリンの身体が強張った。
子どもたちの何人かが震えた。
カルメルの力が、部屋の中の小さな恐怖に触れようとする。
その瞬間。
床の影が、音もなく広がった。
黒い手が、子どもたちの足元から伸びる。
ロージーを包む。
ハンセルを包む。
グレーテを包む。
トマを包む。
子どもたちは叫ぶ間もなく、影の中へ沈んだ。
消えた。
リンリンの目が見開かれる。
「みんな!?」
その叫びで、食卓が砕けた。
菓子の塔が崩れる。
甘い欠片が宙を舞う。
カルメルが振り返る。
「何を――」
影の奥で、紅い瞳が光った。
スカディアは姿を見せない。
まだ。
子どもたちは拾った。
先に拾う。
壊すのは、その後。
カルメルの顔が歪む。
「誰かいるのね」
その声は、もう聖母のものではなかった。
リンリンには、何が起きたのか分からない。
子どもたちが消えた。
甘い匂いがする。
カルメルの手が光っている。
自分の胸が痛い。
床が震えている。
そして、目の前の菓子の山に、見慣れない果実が転がっていた。
いつの間に混ざっていたのか。
丸い。
奇妙な模様。
甘いクリームの中に埋もれている。
リンリンはそれを見る。
食べ物。
甘いものの中にある食べ物。
頭が熱い。
涙で視界が歪む。
子どもたちがいない。
マザーが優しくない。
胸が空っぽになる。
何かを埋めたい。
食べたい。
泣きたい。
叫びたい。
リンリンの手が、果実へ伸びた。
その瞬間、影が動きかけた。
だが、スカディアは止めなかった。
紅い瞳だけが、細くなる。
「……それを選ぶか」
リンリンは果実を掴んだ。
潰さないように、ではなかった。
ただ、掴んだ。
口へ運ぶ。
噛んだ。
甘くなかった。
ひどく、苦かった。
「っ……!」
リンリンの顔が歪む。
吐き出しそうになる。
けれど、飲み込んだ。
喉の奥を、冷たいものが落ちていく。
次の瞬間。
世界の音が変わった。
床が鳴っている。
壁が震えている。
暖炉の火が怯えている。
食卓の欠片が、小さく震えている。
カルメルの身体の奥に、薄く揺れる何かが見える。
それは光のようで、炎のようで、声のようだった。
リンリンは、自分の胸の奥にも、それがあるのを感じた。
大きい。
とても大きい。
自分の中に、見えない何かが満ちている。
「なに……これ……」
カルメルの顔が変わった。
驚き。
恐怖。
怒り。
「まさか」
その声は震えていた。
リンリンはカルメルを見る。
さっきまで優しかった人。
ここにいていいと言ってくれた人。
自分を商品と呼んだ人。
母になってほしかった人。
「マザー」
リンリンの声は、震えていた。
「リンリンのこと、好きじゃなかったの?」
カルメルは答えなかった。
代わりに、後ずさった。
その一歩が、答えだった。
リンリンの目から涙が落ちた。
床が割れた。
けれど、その瞬間、影が割れ目を飲み込んだ。
家全体が崩れる前に、黒いものが支える。
スカディアが、ようやく姿を見せた。
黒紫の髪。
紅い瞳。
影を纏う女王。
彼女はカルメルとリンリンの間に立った。
身体はリンリンよりずっと小さい。
カルメルよりも若く見える。
だが、その場の誰よりも大きく見えた。
「そこまでだ、聖母」
カルメルは目を見開いた。
「あなたは……」
「名乗る気はない」
スカディアの声は冷たい。
「子どもの名に値札をつける者に、私の名を渡す道理はない」
カルメルの顔が歪む。
「邪魔をしたのね」
「子どもを拾っただけだ」
「私の子どもたちよ」
「違う」
スカディアの紅い瞳が、細くなる。
「お前の商品ではない」
その言葉に、リンリンは小さく震えた。
商品ではない。
スカディアが、そう言った。
カルメルは笑った。
もう、優しい笑みではなかった。
「何を偉そうに。あの子たちを拾い、食べさせ、寝かせてきたのは私よ」
「売るためにな」
「生きる場所を与えたのよ。捨てられた子どもたちに」
「値をつけるためにな」
「世界はそういうものよ」
カルメルの手に、また光が灯る。
「強いものには使い道がある。美しいものにも、賢いものにも、従順なものにも。何も持たない子どもだって、誰かに買われれば生きていける」
リンリンは、言葉を全部は理解できない。
けれど、分かった。
カルメルは、本当にそう思っている。
子どもを売ることを、悪いと思っていない。
リンリンの胸の奥に、熱が戻る。
今度は甘さではない。
怒り。
悲しみ。
痛み。
「リンリン、物じゃない」
リンリンは言った。
声は震えていた。
でも、聞こえた。
「ハンセルも、ロージーも、グレーテも、トマも、物じゃない」
カルメルはリンリンを見た。
その目に、ほんの少しの苛立ちが浮かんだ。
「あなたはまだ子どもなの。分からなくていいのよ」
「分かんない」
リンリンは涙をこぼしながら言う。
「でも、嫌」
スカディアが、わずかに目を細めた。
それでいい。
分からないまま壊すな。
だが、嫌だと思う心は捨てるな。
カルメルが何かを言う前に、影が伸びた。
黒い槍のように鋭く。
けれど、カルメルを貫くのではない。
彼女の足元の影を縫い止める。
カルメルの身体が動かなくなる。
「なっ……」
「帳面は見た」
スカディアが言った。
「買い手も、道も、印も、すべて拾った」
カルメルの顔色が変わる。
「まさか」
「お前だけを消して終わるほど、私は甘くない」
影の中から、無数の紙片が浮かぶ。
帳面の写し。
名簿。
取引の印。
男たちの足跡。
すべてが影に刻まれている。
「羊の家は終わりだ」
カルメルの目が、初めて恐怖に揺れた。
その恐怖に、彼女自身の力が反応する。
魂に触れる力。
ソルソルの力。
だが、その力はもう、彼女の内側で乱れていた。
リンリンが食べた果実。
奇妙な模様の果実。
それに宿ったものが、カルメルの力の流れを変えていた。
スカディアは見ていた。
悪魔の力が、継承された瞬間を。
リンリンの中に、魂へ触れる力が根を張った瞬間を。
カルメルは、それを悟った。
「返しなさい」
低い声だった。
リンリンは震える。
「返す?」
「それは私の力よ」
カルメルの顔は、もう母ではなかった。
奪われた商人の顔だった。
「返しなさい、リンリン」
リンリンは自分の胸を押さえる。
何かがある。
さっきまでなかったもの。
怖い。
分からない。
でも、カルメルに返したくない。
この力が何なのか、まだ分からない。
でも、カルメルに戻れば、また子どもたちを商品にする気がした。
「やだ」
リンリンは言った。
「返さない」
カルメルの顔が怒りに歪んだ。
その瞬間、影が彼女を包んだ。
音はなかった。
悲鳴もなかった。
白い修道服が、黒い影の中に沈んでいく。
リンリンは手を伸ばしかけた。
母になってほしかった人。
優しいと言ってくれた人。
ここにいていいと言ってくれた人。
でも、子どもたちを売ろうとした人。
商品と呼んだ人。
リンリンの手は、途中で止まった。
届かなかった。
影が閉じる。
カルメルの姿は消えた。
食堂には、壊れた食卓と、崩れた菓子と、甘い匂いだけが残った。
リンリンは呆然と立っていた。
「……みんなは?」
声が震える。
「ハンセルは? ロージーは? みんな、どこ?」
スカディアは振り返った。
紅い瞳は、いつも通り冷たい。
けれど、声はほんの少しだけ低かった。
「拾った」
「拾った?」
「影の中にいる。眠っているだけだ」
リンリンの膝から力が抜けた。
床に座り込みそうになって、影が受け止める。
家が壊れないように。
リンリンが怪我をしないように。
「生きてる?」
「ああ」
「みんな、生きてる?」
「生きている」
リンリンの目から、涙がぼろぼろ落ちた。
今度は、床が割れなかった。
影が支えていたからではない。
リンリン自身が、歯を食いしばっていた。
泣いても、壊さない。
嬉しくても、悲しくても、壊さない。
そうしようとしていた。
「マザーは?」
その問いに、スカディアはすぐには答えなかった。
リンリンは顔を上げる。
「マザーは、死んだの?」
「消えた」
「消えた……」
「少なくとも、お前たちの母ではなかった」
リンリンは唇を噛んだ。
母ではなかった。
でも、優しい時もあった。
名前を呼んでくれた。
皿を用意してくれた。
頭を撫でてくれた。
あれは、全部嘘だったのか。
全部、商品にするためだったのか。
分からない。
分からないから、苦しい。
「ししょー」
「何だ」
「リンリン、悲しい」
「ああ」
「怒ってる」
「ああ」
「でも、マザーに優しくされたのも、覚えてる」
「なら、覚えておけ」
スカディアは言った。
「優しさと悪意は、同じ手から出ることがある」
リンリンは震えた。
それは、とても怖いことだった。
優しい手を信じたい。
でも、その手が誰かを売るかもしれない。
優しい声を聞きたい。
でも、その声が自分を商品と呼ぶかもしれない。
「どうすればいいの?」
「見る」
スカディアは短く答えた。
「聞く」
リンリンは涙を拭く。
「覚える」
「そうだ」
リンリンは頷いた。
小さく。
壊さないように。
その時、暖炉の火が小さく揺れた。
リンリンの耳に、声のようなものが聞こえた。
熱い。
怖い。
消えたくない。
リンリンは暖炉を見る。
「ししょー」
「何だ」
「火が、しゃべってる」
スカディアの目が細くなった。
「そうか」
「これ、なに?」
「お前が食べたものの力だ」
「変な果物?」
「ああ」
「リンリン、何になったの?」
スカディアは、少しだけ沈黙した。
それから言う。
「魂に触れる者だ」
リンリンは自分の手を見る。
大きな手。
物を壊す手。
誰かを支えるために練習している手。
そこに、見えない何かが宿っている。
魂。
まだ意味は分からない。
けれど、とても重いものだと感じた。
「リンリン、また壊す?」
「使い方を誤ればな」
「じゃあ、教えて」
リンリンは、スカディアを見た。
涙で濡れた目。
甘いクリームのついた頬。
誕生日の飾りの下で、幼い少女は震えていた。
けれど、逃げていなかった。
「壊さないように、教えて」
スカディアは、リンリンを見た。
そして、短く頷いた。
「いいだろう」
影が広がる。
壊れた食堂を包む。
眠る子どもたちを抱えた影が、奥から戻ってくる。
羊の家は、もう同じ家ではいられない。
聖母はいない。
帳面は暴かれた。
子どもたちは、売られる前に拾われた。
そしてリンリンは、甘い誕生日の中で、魂に触れる力を得た。
祝福ではない。
呪いでもない。
力だ。
どう使うかは、これから決めなければならない。
リンリンは崩れた菓子の前で、もう一度だけ泣いた。
食べたいからではない。
祝われて嬉しかったからだけでもない。
優しい母が消えたからでもない。
ただ、全部が混ざって、胸の中に収まらなかった。
それでも、彼女は泣きながら手を開いていた。
何も握り潰さないように。
誰も壊さないように。
その手の中で、見えない魂の火が、かすかに揺れていた。