星の棘に触れた少年 ――使徒聖第十二席、最前線で「恋」を分解する―― 作:雨風 時雨
天帝国 帝都ル・エルム。
空を覆い隠すほどの高層ビル群と、冷たい金属光沢に満ちた天守府の一室で、使徒聖第十二席・アルゴは直立不動の姿勢をとっていた。
「――以上が、ネレント採掘基地における戦闘の報告になります。僕の力不足で敵を取り逃がし、基地の防衛にも失敗しました。申し訳ありません」
静かな報告に対し、巨大なホログラムモニターを背にした女性が、眼鏡の位置を直しながら浅く息を吐いた。
使徒聖第五席にして帝国の参謀役でもある、
「謝る必要はないわよ、アルゴ。むしろ、相手が悪すぎたわ」
璃洒は手元の端末を操作し、アルゴが戦闘中に網膜センサーで記録していた映像データをメインモニターに出力した。
そこに映し出されているのは、爆風の中で黒い棘を操る漆黒のドレスの少女。
「映像と照合した結果、情報部から1つの回答が出たわ。黒のドレスに、ゾア家の紋章。そしてあらゆる物質を原子レベルで分解する異常な出力の星霊術」
「……皇庁の過激派であるゾア家が、外界から完全に秘匿して育て上げてきた王女。いわゆる『秘蔵っ子』の存在と一致するの」
「秘蔵っ子……ですか」
「ええ。皇庁の内部でさえ、その姿を見た者はごく一部に限られているそうよ。帝国側にも、これ以上のデータは一切ない。名前すら不明の、正体不明の化け物よ」
璃洒は淡々と事実を告げる。
「まさか初陣があなたの対応した戦場になるなんてね。あなたが1人で1個師団を退避させて、しかも生還しただけでも十分すぎる戦果だわ」
名前も分からない、鳥かごの中の少女。
その事実を聞き、アルゴの胸の奥で奇妙な痛みが疼いた。誰からも個人として認識されず、ただ「兵器」として扱われている彼女の孤独が、痛いほど理解できたからだ。
「ただ……あなたのバイタルデータは、決して褒められたものじゃないわね」
璃洒のトーンが1段下がり、彼女は咎めるような視線をアルゴの右腕へと向けた。
「知覚加速の酷使で、脳髄の温度が危険域の寸前まで達していた形跡があるわ。人工神経の冷却が間に合ってなかった。……少しでも戦闘が長引いていたら、今頃あなたは自分の脳を焼き切って廃人になっていたかもしれないわよ」
「……少し、無茶をしました。彼女の星霊術を相殺するには、最低でも深度4での連続展開が必要でしたから。でも、まだ僕は正常です。次の任務も問題なくこなせ――」
「ダメよ。却下」
璃洒は食い気味に言い放ち、デスクの引き出しから1枚のカードキーを取り出してアルゴの胸に押し付けた。
「あなたには本日から3日間の特別休暇を与えるわ。これは第五席としての命令よ。頭の熱が冷めるまで、帝都の基地に戻ってくることは許さないわよ。中立都市にでも行って、ぼんやり休んできなさい」
半ば強制的に執務室を追い出され、アルゴは手元のカードキーを見つめた。
部品に休息など必要なのだろうか。そう思いつつも、身体が深い疲労を訴えているのは事実だった。
***
翌日。中立都市アイン。
そこは、天帝国とネビュリス皇庁の間に位置し、双方の国家が「武器の持ち込みと魔法の使用」を固く禁じている完全な中立地帯だ。
兵士たちにとっては唯一の息抜きの場であり、民間人も行き交う平和な喧騒が街全体を包み込んでいる。
アルゴは使徒聖の軍服を脱ぎ、私服姿で街を歩いていた。
すれ違う人々は、彼が帝国の最高戦力であることなど夢にも思わないだろう。彼自身も、この街の穏やかな空気を吸っている間だけは、軍の任務を忘れることができた。
(せっかくの休みだし、とりあえず何か口に入れておかないと。味はしないかもしれないけど)
近くのカフェを探そうと、人通りの少ない裏路地寄りの公園に差し掛かった時だった。
「……動かない。この箱。……私を、拒絶しているの、ですね」
アルゴの足が、アスファルトに縫い付けられたようにピタリと止まる。
木陰に設置された自動販売機。その前に、1人の少女が立ち尽くしていた。
ツバの大きな黒い帽子を目深に被り、ひざ丈のシンプルな黒いワンピースを身に纏っている。
しかし、横髪の隙間から覗く左目の黒い眼帯と、透き通るような肌の白さは、アルゴの網膜に焼き付いた記憶そのものだった。
(……なんで彼女が、ここに)
皇庁の王女であり、自分を本気で殺そうとした敵。
その少女が今、自動販売機のコイン返却口を力強くガチャガチャと押し込みながら、低く物騒な声を漏らしている。
「……私の、意思を、無視するのなら。……壊れて、中身を、出しなさい」
少女の右手の指先に、微かに黒いオーラが集まり始めた。星霊術だ。
ここで彼女が『分解』の力を振るえば、自販機どころかこの公園の一角が消し飛ぶ。
「待って、壊しちゃダメですよ!」
アルゴは咄嗟に駆け寄り、星霊を込めようとしていた彼女の右腕を真横から両手で掴んだ。
「……!」
ビクッと、少女の肩が大きく跳ねた。
アルゴを見つめる左の青い瞳が見開かれ、警戒の色を強める。
「……あなた。あの時の、糸の。……天帝国の、猟犬」
「星霊をしまってください。ここは中立都市です。自販機ひとつ壊すだけで、あなたにも問題が及びますよ」
少女は腕を掴むアルゴの手を不快そうに見下ろし、軽く身をよじって振り払った。
「……触れないで。不潔な、鉄屑。……私が、いつ、この箱を壊そうとしたと、言うのですか」
「いや、今モロに壊す気満々でしたよね?」
「……これは、ただの指の準備体操、です」
そっぽを向いて明らかな強がりを言う少女を見て、アルゴは思わず拍子抜けした。
あんな戦場で悪夢のような力を見せていた彼女が、ただジュースを買う機械の使い方がわからなくて腹を立てていたのだ。その危なっかしさが、どうしようもなく人間らしく見えてしまった。
「自販機に何か買おうとしてたんですよね。お金を入れる場所が違います。こっちの丸い穴に入れないと反応しないんですよ」
アルゴが手伝い、硬貨を正しい投入口に入れ直した。
チャリン、という音と共に、すべてのボタンに赤いランプが点灯する。
「……光りました」
「ええ。何が欲しいですか?」
少女は迷った末に一番端にあった赤い缶――コーラを指差した。アルゴがボタンを押し、取り出し口に転がり落ちた缶を拾って、プルタブを開ける。
「どうぞ。毒は入ってませんから」
少女は疑り深い視線で缶を見つめていたが、意を決したように両手でそれを持ち、口をつけた。
「…………ッ!!?」
少女は缶を口から離し、むせそうになるのを必死に堪えながら目を白黒させた。
「炭酸っていうんですよ。飲んだこと、ありませんか?」
「……あるわけが、ありません。ゾアの奥座敷には、このような野蛮な飲み物はありませんでした。私が飲むのは、いつも無機質な調整水だけ、です」
少女は文句を言いながらも、もう一度恐る恐る口をつけ、少しだけ含むように味わった。
戦場では絶対に揺らぐことのなかったその青い瞳が、かすかに見開かれる。
「……甘い。そして、冷たい。……野蛮で、乱暴な刺激なのに、最後は、優しいです」
アルゴはその横顔を、静かに見つめていた。
味覚が半分以上失われているはずなのに、彼女がそれを美味しいと言って飲んでいる姿を見ているだけで、自分の喉の奥まで甘さを感じたような錯覚に陥っていた。
「……よかった。口に合ったみたいですね」
「……口に合ったとは、一言も言っていません。帝国の安っぽい毒など、私にかかれば水と変わりないということです」
強気な言葉とは裏腹に、少女は缶を両手でしっかりと抱え込んでいる。誰かに奪われないように守っている子供のようだった。
「……そういえば」
少女は顔を上げ、アルゴの目を真っ直ぐに見返した。
「……あなたは、どうして私に使い方を教え、怒らずに、これを渡したのですか。……私は、あなたを殺そうとした敵、です」
「……ここは中立都市ですから。誰だって、休む権利がある場所でしょう?」
アルゴは少し寂しげに笑った。
「それに、休日の時にまで憎み合ったり、いがみ合ったりするのは疲れるだけです。僕はもう十分、仕事で戦いすぎました」
「仕事……。あなたにとっては、殺し合いも、ただの仕事に過ぎないのですね」
「僕の名前はアルゴ。使徒聖・第十二席。天帝国の兵器です」
アルゴは真っ直ぐに名乗った。
「あなたは? 帝国の資料には、あなたがゾア家の秘蔵っ子だということしか載っていなかった。誰もあなたの名前を知らない。……あなたは、何ていう名前なんですか?」
名前を聞かれ、少女はわずかに目を伏せた。
ゾア家の屋敷でも、仮面卿は彼女を「秘蔵っ子」としか呼ばない。名前で呼んでくれる者など誰もいなかった。
「……私の名前を、知って。……どうするつもり、ですか。帝国の兵器」
「別に。また中立都市で会った時に、話しかけやすいじゃないですか」
そんなくだらない理由。けれど、少女の凍っていた心には、そのささやかな理由が不思議と温かく響いた。
少女は空になったコーラの缶を大切そうに握りしめ、ぽつりと呟いた。
「……キッシング。……キッシング・ゾア・ネビュリス9世。……それが、私に与えられた、名前です」
「キッシング。いい名前ですね」
「……あなたには、関係ありません。アルゴ」
名前を呼ばれ、彼女は帽子を深く被り直した。
「……この『たんさん』の野蛮さは、私がすべて飲み干して無効化してあげます。……また、いつか。ここに来た時は、別の毒を用意しておきなさい。……調査のため、です」
空の缶を持ったまま、キッシングはアルゴに背を向けて歩き出した。
帽子に隠れて見えないが、彼女の耳元がわずかに赤くなっているのを、アルゴは見逃さなかった。
「……ははっ。調査なら、いくらでも協力しますよ」
アルゴは彼女の背中を見送りながら、ズボンのポケットに手を入れた。
休暇の始まりとしては、最高に厄介で、最高に充実した数十分だった。
戦場での絶望的な邂逅は嘘のように、彼の中でキッシングという少女の存在が特別な位置を占め始めている。
「じゃあな、キッシング。……次は、甘いクレープでも教えてやるよ」
彼自身の小さな呟きは、噴水の音に紛れて空へ溶けていく。
こうして、決して交わるはずのなかった天帝国の使徒聖と皇庁の秘蔵っ子は、名乗り合い、小さな秘密を共有したのだった。