シグウィンの夢小説
not旅人

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第1話

 

 

後の世に『公爵』と呼ばれた男が、この地を秩序立てるよりも、ずっとずっと昔のこと。

メロピデ要塞が、ただの冷たい檻でしかなかった頃の話。

 

医務室の扉を開ければ、消毒液と花の香りがした。鉄と湿気と、人の悔恨に包まれた最果ての地で、その匂いだけが異様に清潔だった。

部屋の奥には人がいた。

小柄な背中であった。棚に並んだ薬品をひとつひとつ眺めて、確かめるように触れている。陰を帯びたその目元に、流れるような水色の髪に、本当にここにいるべき人なのかとあなたは声をかけることすら躊躇って、しばし呆然とした。

「あら」

彼女は振り返る。果実のような赤色がまっすぐにこちらを見据えた。

「新しい方かしら?」

「あっ。その、看護師長はいらっしゃいますか。ご挨拶を」

「ウチよ」

なんでもないように彼女は言う。あなたは慌てて頭を下げた。

 

 

「シグウィン看護師長は......ここにいらっしゃってから、何年ほどなのですか」

我ながら間の抜けた第一声だと思いながら、あなたはシグウィンの言葉を待った。これまで見たこともないような可憐さをした要塞の天使に、すこしの畏怖と尊敬をもち、そのために忙しなく目線を右往左往させながら。結局あなたはどこを見れば良いのかわからないまま、曖昧に彼女の顎のあたりを見つめていた。

医務室のパイプ椅子に腰を下ろして、シグウィンは指を顎に添えて数を数えている。五本折り曲げた。五年ほどということか?

「おおよそ五十年、かしら」

「ご、五十年!?それは、どうしてですか」

そのとき、あなたの目にはゆらゆらと揺れるシグウィンの角が目に入った。

彼女は目を閉じて口角を上げる。どこか諦めたようにも、単に無邪気な顔のようにも見えた。

「ウチは人間に近いメリュジーヌなの。……これを知ると、みんな眉間の筋肉を収縮させるんだけどね」

「いっ、いや。可愛らしいで……、失礼しました」

シグウィンは困った様子で顎に指を添えた。

しばしの沈黙に耐えきれず、あなたは口を開く。

「ええと、わたしは先日メロピデ要塞に配属された、(情報欠損)です」

あなたが自分の名前を告げると、シグウィンは思案するのをやめて居直った。表情が改まった、しかし柔らかいままだった。

「(情報欠損)さん。よろしくね。ウチ、誰かと医務室を管理するのは初めてなのよ」

「そう......ですか」

あなたは一つ深呼吸をする。

「その、シグウィン看護師長。どうかわたしの、お友達になっていただけませんか。……あ、いや、強いるわけでも、部下以上の扱いをしろというわけでもありませ」

「ふふ」

シグウィンはくすくすと笑う。その鈴を転がすような声に、子供のような無邪気さに、あなたは言葉をつまらせて、医務室には彼女の笑い声だけがこだました。

「ええ。そうしましょう、お友達になりましょうか、(情報欠損)!」

 

 

「あなたの仕事はね、カルテを書くことよ」

「カルテを、書く」

シグウィンは紙を数枚、万年筆を一本あなたに手渡す。渡された万年筆はやけに軽かった。持ち主の背丈や筋力のためか、とあなたは思って、申し訳なさも覚えた。

「厳密に言えば、ウチの代わりに荷物を持ってもらったりもするかもしれないわ」

つまりは、シグウィン専用の、簡易的な何でも屋だろうか。彼女の不得手とするところを手伝うための。

「しかし、看護師長。荷物はまだしも、カルテはわたしに任せるよりも、あなた自身が書くのが最もはやいのではないですか」

シグウィンは二度瞬きする。そのたびに隠されるガーネットは、こちらをまっすぐ見据えていた。彼女はちいさな両手をこちらに向ける。

「ウチはね、まだこれに慣れていないのよ。ようやく文字を書けるようにはなったけど、やっぱりあなたよりは遅いから」

あなたはその手を見た。

人のそれと、まったく見分けのつかない両手であった。手袋をしているとはいえ、指はどう見ても完璧な形状である。しかし、おおよそ三秒かけて、手を握って開くほどに、確かに動作は緩慢であった。

「……わかりました」

「ありがとう。よろしくね、(情報欠損)」

シグウィンから手渡された万年筆を握る。大きさの割には間違いなく軽いはずが、何年も前から使っていたように手に馴染んだ。やはり良い品なのだろうか、とじっと見つめていれば、シグウィンが覗き込む。

「気に入ったの?それなら、あなたのものよ」

「いえ。そんな、受け取れません」

「いいのよ。ウチには合わないもの」

シグウィンはさらりと言って、その小さな背中でまた薬品を並べ始めた。しばらく万年筆を眺めて、そっとポケットに仕舞う。

 

 

「主に目と肩が痛むのね」

「うん、症状は五日前から」

「最近はちゃんと眠れているかしら?」

全身の痛みを訴える男がやってきて、初めてのカルテを筆記する。シグウィンの質問は大事だから聞いているのだろう、全ての質問とそれに対応する答えをあなたは書き続ける。

シグウィンは患者の手首に触れ、目を覗き込み、肩を撫でた。それがあまりに流暢で、五十年という月日の長さを、彼女の指先に宿った時間を想起させた。

「(情報欠損)さん、ル・エトワールの粉末を取ってきてくれる?」

「えっ、あ、はい!」

医務室を出て、あなたは言われた通り、生産エリアの端にある倉庫へ辿り着く。ル・エトワールの粉末って、実際飲むと何が起こるのだろう。そんなことを考えていたら、じきに見つかった。布袋に包まれたそれからは、かすかに雨の匂いがした。

「あら、早かったわね。ありがとう」

「毎食後に、これとこれを飲んで安静にすれば、三日くらいで良くなるわ」

「お大事に」

シグウィンはカルテを受け取って、あなたの書いた文字を静かに読んでいく。

「上手ね」

「慣れているだけです」

「とっても素晴らしいことよ」

シグウィンはカルテを棚に納めた。その横顔を、あなたは黙って見つめている。

 

 

「看護師長、今度水の上に行きませんか」

シグウィンは首を傾げる。

「買いものなら、月に一回の物品の輸入で足りてるのよ」

「そ、そうではなく……お友達、として。遊びに行きませんか」

「遊び」

シグウィンはただ言葉を繰り返す。純粋に考えているようにも、ひどく理解できないものを見たようにも。

「……それは、休憩時間の散歩と何が違うのかしら」

あなたは少し考えた。

「目的でしょうか」

「目的?」

「はい。一緒にいたいから、自発的に一緒にいる、みたいな」

シグウィンは顎に指を添えた。

言葉を口にだしてから、あなたは悶々と考える。もっと簡単にいえばよかったかもしれない、気分転換をしませんか、ただ外に出ませんか、とか。そういう言い方が。

「あなたといる時間は嫌いじゃないのよ」

あなたは顔を上げた。

シグウィンは何かを意図した様子もなく、ただ事実を述べたような、そんな調子で言った。

「では、来週末。いかがですか」

「ええ。楽しみにしているわ」

シグウィンは微笑む。

今週末と言えば良かったかな、とあなたは思った。

 

 

「看護師長。なんですか、この、……変わった色の飲み物は」

シグウィンは、彼女の髪の毛にも似た水色をたたえたカップを差し出した。

「ウチお手製のミルクセーキよ」

「はあ」

あなたは曖昧に喉を鳴らして、水色と白色の狭間で色を変え続ける何かを見る。本当に飲み物なのだろうか、これは。そう思った瞬間、表面がひとつ泡立って、ぷつりと音を鳴らした。そのあたりからはまた別の色が混ざった。

「あなた、最近働きづめでしょ。なにかウチにできることはないかしらって」

どうにかシグウィンの役に立とうと、慣れないながらもあなたはがむしゃらに働いていた。目の下の隈に気づかない看護師長もいなかった。

そして、どうやらこのミルクセーキが、彼女の純然たる善意からできていることがわかった。それが真に善となるかは置いておいて。

シグウィンは何かを期待した目でこちらを見ている。料理を人に出すということは、そういうことなのだろう。

一つ深呼吸をした。

「いただきます」

カップに口をつけた瞬間、甘ったるさと酸っぱさの入り混じった匂いが鼻をついて、すこし体が固まったが、とにもかくにも覚悟を決めて一杯煽る。喉が焼けるように熱くなり、舌の上で果てしない渋みが踊ったが、とにかく飲み込んでしまえば大したことはなかった。

「どうかしら?」

熟慮の後に、あなたは答えを絞り出した。

「……健康そうな味がします」

 

 

あなたも、ずいぶん病状を書くのにも慣れてきた。

今日は一目でわかるほどに全身の腫れ上がった男が来ている。

「うん、うん。あんまりにもお腹が空いて、パンを盗っちゃったのね」

「それで、大勢の人たちに殴られちゃったの。よーく見せてね」

「あら。痛かったわね」

あなたにもわかるほどの怪我なのだ、ひどい状態なのは考えるまでもない。シグウィンも一先ずは事情聴取に専念している。

「沁みるわよ」

「必ず三日に一回は来てちょうだいね。包帯を替えるから」

「お大事に」

 

 

「看護師長、月が綺麗ですね」

十何回目かの、水の上へ遊びに出かけた時。月明かりの下で、あなたは秋月を見上げてそう呟いた。夜空の星星はその明るすぎる月光のために、殆どかき消えて見えなかった。

「それは、どういう意味かしら?」

シグウィンは月を見上げたまま、首だけをこちらに傾けていた。彼女の横顔は月光を受けて、水面のように光っている。あなたは少しだけ目を細めたくなった。

「ううんと。あなたが愛おしいってことですよ」

シグウィンは愛おしい、とだけつぶやき、困った様子で顎に指を添えた。返事のないままに彼女が顎に指を添える時は、どうにもよくわからない、という意味だと、長年の付き合いから、あなたにはよくわかっていた。

しかしこれはあなたには好都合であった。まさかその愛おしいの意味を、知識だけでなく、真に、体験的に彼女が理解していたなら、あなたは……毎日シグウィンと顔を合わせることなんて、とてもできなかったろうから。

シグウィンは月を見つめている。水の底からのとは違う、より距離のちかく、はっきりとして、しかし手の届かない、そんな月を。

月は常に同じ面しか見せず、その裏はクレーターばかりなのだと聞いた覚えがある。

それでもやはり、月はきれいだと思った。

 

 

「ここって、食事が安定しませんね」

「あなた、ついこの間もそれを言っていたわね」

カルテの整理をやめないままにシグウィンは言った。

「……いつ頃の話ですか?」

「たしか、パンを盗んで、大怪我しちゃった子が来た時よ」

パンを盗んだ男の、ウッと目を背けたくなるほど腫れ上がった顔。沁みるわよ、と言いながら処置する彼女の瞳。たしかにそれらを覚えてはいたが……。

「十年くらい前の話じゃないですか……?」

「そうかしら?……でも、なんとかしないといけないわね」

 

 

「髪」

「え?」

カルテを抱えたシグウィンはあなたの数メートル後ろで立ち止まった。なにか不思議なものを見つけたような声色であった。

「ところどころ、白くなってるわ」

あなたはぎくりとして後ろ髪を押さえる。指先に触れるそれは、自分でも驚くほど乾いていた。こうなったのはいつからだろう、と周囲の変化を思い起こそうとして、シグウィンはいつも同じ格好だから指標にはならないのだ、と気付いた。いや、シグウィンだけでなく、無機質なメロピデ要塞の壁も、パイプ椅子も、ここの湿気を含んだ空気も、何も変わっていなかった。

「……歳も歳ですからね」

「そう」

シグウィンはカルテを脇に抱え直して、あなたに歩み寄る。それから髪を珍しそうに見つめた。カン、カンと鳴る鉄製の床が、あなたを現実に引き止めているようだった。

「綺麗だわ」

「慰めになっていませんよ」

「慰めていないもの」

本気で言っているのだと知って、あなたは肩をすくめた。

 

 

「ねえ、(情報欠損)。あなたはいつまでも可愛いわ」

「ご冗談を」

あなたは皮の余るようになった手でペンを持ち、カルテを書き続ける。もうすでに業務委託用マニュアルをまとめ終えて、残り数時間の医務室を堪能していた。日はとうに沈みきって、終わりが近いことをつくづく感じさせる。いつかからか出され続けた妙な色をしたミルクセーキも、これで見納め。そう思うと、胸の奥が締め付けられるものである。

「本当よ。あなたの顔も言葉も可愛いわ。昔も、今も……」

どんなに耄碌しても、シグウィンは昔と変わらないまま、隣で可愛いと囁く。

ああ、きっとその「可愛い」は、振る舞いや外見を問わず……言わば、「人間である」その一点のためだけに向けられたものなのだろう。

ただ年甲斐もなくそう思って、光を拾いづらくなった目を擦る。

「……」

何も言わずに、あなたはまたカルテを書き続けた。

昔は一晩で何枚も書けていても、今は一枚で肩が痛んだ。シグウィンから渡された万年筆は少し重くなったけれども、ついぞ軽いままだった。そのすこし錆びついた持ち手部分の金属は、なんだかあなたに似ている。

「変わりましょうか」

「……わたしの仕事ですから」

シグウィンは、もうあの頃とは違って、人間の形をした両手で文字を書くのがおそいわけでもない。しかし、あなたは最後まで、ただ彼女の隣にいる理由が欲しかった。

「でも」

心配するシグウィンの頬はやはりみずみずしく、まるで少女のようだった。あなたはカルテに目線を戻した。

「看護師長……可愛らしいですね。あい変わらず」

「えっ?」

「悲しいくらいに」

シグウィンは困ったように顎へ指を添えた。

 

 

 

 

メロピデ要塞の一室で、シグウィンは目覚めた。これがうつつか夢かもわからないままに、ベッドから上体をはね起こす。その両目には、理由なき涙があふれていた。落ち着こうと自身の身体を抱きしめるほど、涙はまたとめどなく流れて止まない。

「う……あ、うう……」

シグウィンはあなたの名前を呼ぼうとして、呼べなかった。彼女の記憶からは、すでにあなたという個人の名前の輪郭が抜け落ちていたから。

あの子はどんな顔をしていたっけ。どんな名前をしていたっけ。あの子の書いたカルテは、どれだけ色褪せて、どれだけすり減っているんだっけ。

あなたの声すら思い出せないまま、シグウィンはただ、あなたと見たあの月を思い出した。それは、あなたの顔や名前のように、明るさも大きさも、そして色すらも曖昧だった。

しかしシグウィンは、その月をきれいだと思ったのである。

「ああ、……こういうことだったのね……」

 

 

月明かりも届かない水の底で、シグウィンはただ一人、医務室のパイプ椅子に座っている。

いつかの日常と同僚への愛しさを、それに付随する悲しみを咀嚼しながら。


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