まぁ、自分は未所持なんですけどね、ガハハ。
安心する匂いだった。
それは、ただ甘いだけの花の香りでも、瑞々しい果実のモノでもない。
雨が降り終えたばかりの、少し湿った土と若い草の匂い。それから、陽だまりで干したばかりの温かいリネンを思わせる、どこか素朴で優しくて落ち着く、そんな匂いだった。
「わ、わわっ! ダメだよ、戻ってきて――!」
雨雲が去り、雲の隙間から差し始めたフォンテーヌの柔らかな光が、濡れた石畳をきらきらと反射させている。
そんな雨上がりの静けさの中、「次はどんな香水を作ろうか」と思考の海に浸っていた私の耳に、慌てふためく若い声が届いた。声の主を振り返るよりも早く、私の足元に「それ」は激突した。
「くぅん!」
ちぎれんばかりに尻尾を振って、ベンチに座っていた私のロングスカートに泥だらけの小さな前足を引っかけたのは、一匹の小さな子犬だった。まだ毛並みも柔らかい、やんちゃ盛りの盛り。
子犬は私の顔を見上げると、嬉しそうに「ワン!」と吠え、そのまま私の膝へと飛び付いてきた。
「あっ、す、すみません! 本当にすみません……っ!」
息を切らせて走ってきたのは、リードを握りしめた一人の少年――「彼」だった。
彼は私の衣服にべったりとついた泥の足跡を見て、まるで世界の終わりかというほどに顔を真っ青にする。
「あの、そのドレス、すごく高価そうなのに……! すぐに弁償します、というかクリーニング代を、いや、その、とにかく本当にごめんなさい!」
「ふふ、落ち着いてください」
慌ててポケットからハンカチを取り出そうと手元をモタつかせている彼がおかしくて、私は思わず小さく吹き出してしまった。
ドレスの汚れなんて、洗濯すれば落ちるし、仕事柄汚れるのは慣れている。
「クゥーン、ワン!」
「ふふっ、元気な子ですね」
私は彼を安心させるように微笑むと、膝の上の小さな侵略者へと視線を戻した。
泥だらけの前足のまま、私の手のひらに濡れた鼻先をツンツンと押し付けてくる。そのあまりの無邪気さに、私はスカートがさらに汚れるのも構わず、子犬のあごの下を優しく撫でてあげた。
「ここが気持ちいいんです?……あら、くすぐったいですよ」
小さな喉を「グルル……」と満足そうに鳴らしたかと思えば、今度は私の指先を小さな舌でペロペロと舐め始める。雨上がりのひんやりとした空気の中で、子犬の体温と、一生懸命に尻尾を振るそんなハッピーなエネルギーが、こちらの心までじんわりと満たしていく。
「あ、あの……本当にすみません。人懐っこいのは良いんですけど、綺麗なお姉さんを見るとすぐに飛び付いちゃって……」
申し訳なさそうに、けれど私のドレスの惨状にハラハラしながら、彼は丸くなった子犬の背中をそっと撫でた。
その瞬間、彼の指先が私の手の上に微かに触れる。
「――っ」
一歩、彼が近づき、そのぬくもりが重なった途端。
「安心する匂い」が、一段と色濃く鼻腔をくすぐった。
子犬の毛並みから漂う、お日様のような匂い。
それだけじゃない。目の前で慌てて、今は少し気恥ずかしそうに頬を染めている、この少年自身の肌から香る、甘やかでいて少し青い、独特なノート。
調香師としての私の好奇心が、トクン、と小さな音を立てて跳ねる。
子犬をあやしながら、私は自然と、彼を見上げるような形で視線を固定させていた。
「あの、あの……! 本当に、クリーニング代は全額お支払いしますので、ほんと今日のことは……!」
私の視線に気づいた彼は、ますます顔を赤くして、熱心に財布を取り出そうとしている。
そんなに責任を感じなくてもいいのに。けれど、このまま「気にしないで」と言って別れてしまうのは、なんだか少しもったいない気がした。この心地よい香りの正体を、もう少し近くで紐解いてみたい。
私は子犬を優しく地面に下ろして立ち上がると、ドレスの泥を軽く払って微笑んだ。
「…そんなに気に病まないでください。お財布を出さなくても、弁償なら別の方法で受け付けますよ」
「えっ……別の方法、ですか?」
彼はきょとんとして動きを止める。
私は人差し指をあごに当てて、少しだけ悪戯っぽく小首を傾げてみせた。
「ええ。クリーニング代の代わりに、ちょっと私に付き合ってくれませんか?」
「は、はいっ!? つ、付き合うって……あの、僕なんかとデート、ですか……っ?」
一瞬で耳の裏まで真っ赤になった彼は、裏返った声で分かりやすく動揺してみせる。その純朴なリアクションが可笑しくて、私はまた小さく笑ってしまった。
「あら、デートだなんて、気が早いですね」
少しだけ彼に歩み寄り、その耳元に届くような声で囁く。彼の香りがふわりと濃くなり、私の胸を心地よく満たしていく。
「近くに私の工房があるんです。ちょうど新作の香水を試作しているところでして……少し、人の意見が欲しかったので、あなたのその綺麗なお鼻を私に貸してくれませんか?」
「あ、な、なるほど……! そういうこと、ですか……」
勘違いしたことに気づいた彼は、恥ずかしさのあまり頭から湯気が出そうなほど真っ赤になって俯いてしまった。けれど、嫌そうな様子は微塵もない。
「……僕の鼻で役に立つなら、喜んでお手伝いします。あ、僕は―――と言います。この子は――」
恥ずかしそうに頭を掻きながら、彼は自分の名前を教えてくれた。
足元では、役目を終えたと言わんばかりに、小さな子犬が満足そうに「ワン!」と短く吠える。
「素敵な名前ですね。私はエミリエ、香水に関するお仕事をしています。さあ、行きましょうか」
歩き出した私の少し後ろを、彼は子犬のリードを引きながら、まだどこか緊張した面持ちでついてくる。
すれ違うフォンテーヌの住人たちが、私の泥だらけのドレスと、慌てて同行する彼の姿を見て不思議そうに振り返るけれど、今の私にはそんな視線すら心地よいノイズに過ぎなかった。
私の隣を歩く彼の身体から、雨上がりの澄んだ空気を通じて、優しい匂いがふわりと揺れる。
これから始まる新しい香水の調合は、きっとこれまでにない匂いになるに違いない。そんな確信に、私は口元が綻ぶのを止められなかった。
――それが、私と彼との最初の出会い。
雨が降った後のベンチに座っていたエミリエさんに対して、疑問は無しです。