暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜 作:パラレル・ゲーマー
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江戸城の御異物改方と政務の連絡所を兼ねた執務室には、正月の華やぎがすっかり消え、冬の朝の張り詰めた冷気が満ちていた。
俺――徳川忠長は、火鉢の炭をかき立てるのも忘れ、昨夕届いたばかりの一枚の薄い報告書を机の上に広げて睨みつけていた。
机の端には、出羽国・山形五十七万石の最上家の内紛を巡り、当主側の松根光広と、重臣側の山野辺義忠らの双方から突きつけられた二通の分厚い訴状が置かれている。
だが、俺の目を釘付けにしていたのは、立派な奉書紙に書かれた重臣たちの格調高い弾劾文ではなかった。隣国の代官所や境界の村々から上がった、至って地味な困り事の控えである。
「……正純。昨日から何度も読み返しているのですが、やはりここが一番気になります」
俺が紙面の一節を指差すと、隣で控えの帳面を整理していた本多正純が静かに視線を寄せた。
「種籾蔵の件にございますな」
「はい。この報告書、どこを読んでも『種籾そのものが足りない』とは書いていないんですよ」
俺が顔を上げると、正純も低く落ち着いた声で頷いた。
「左様にございます。種籾が不足しておるのではなく、『蔵の鍵の扱いを巡って双方の役人が言い争い、いまだ村々へ割当の沙汰が下りぬ』と記されております」
「……それってつまり、目の前の蔵の中には春に播くための種籾がちゃんと入っているのに、誰の命令で扉を開けていいか分からないから、百姓たちの前へ一粒も出せないということですよね?」
『書面の通りに読めばそうなるわね。……もっとも、本当に帳面通りの俵数が蔵の中に無事残っているかどうかは、開けて現物を数えてみるまで分からないけれど』
脳内でKAMI様が冷静な補足を挟む。
(……確かに。鍵の取り合いで開けられないのか、それとも開けると不都合なことでもあって揉めているのか、紙の上だけではまだ断定できないな)
飢饉や旱魃で米が尽きたというなら、公儀の蔵から救恤米を運ぶなり、他領から融通するなりという手立てになる。だが、現地に物があるのに「人間の権限争い」のせいで扉が開かないのだとしたら、対処の仕方はまったく別のものになるはずだった。
「正純。今から江戸の役人を山形へ走らせて、現地の蔵を調べさせたのでは、往復だけでひと月近くかかってしまいますよね」
「その点につきましては、ご懸念には及びませぬ」
正純は、手元の控えから一冊の綴じ帳を取り出して俺の前へ開いた。
「最上家の家中の不和につきましては、一昨年より公儀の目付として石丸六兵衛らが国元へ遣わされ、継続して見聞を行っております。昨日の上様の御下知を受け、すでに現地の目付衆へは『両派の訴状の真偽に加え、村方の農事や普請の滞りについても直ちに実情を調べよ』との急飛脚を立ててございます」
「おお、すでに現地に入っている目付衆が動くのですね! それなら、江戸から新しく人を送るよりずっと早いし、調査が二重にならずに済みます」
俺は、正純の手際の良さに感心しつつ、彼の机の周りを見た。
今回の最上家の一件は幕政の重大事だが、正純は以前のように全ての調査と連絡を自分一人で抱え込んではいなかった。過去の家督相続時の申渡しを洗う作業は右筆衆へ、江戸にいる最上家関係者の動向監視は町奉行や他の目付へ、そして国元の農政や水利に関わる報告の整理は俺の預かる実務方へと、年末に整えた手順に従って綺麗に仕事が振り分けられている。
「……では正純、現地の目付衆へ送る次の便に、私の方から『ここだけは必ず確かめてほしい』という項目をいくつか書き添えてもよろしいでしょうか」
「ぜひ、お聞かせくだされ」
俺は筆を取り、半紙へ箇条書きに書き出していった。
大仰な新しい調査制度を作るわけではない。現地の目付が蔵や村を調べる際、見落とさないでほしい実務の勘所を並べただけだ。
一つ、問題となっている種籾蔵には、前年の帳面の上でどれだけの種籾があり、どの村へ何俵ずつ配る予定になっていたのか。
一つ、現在、物理的に蔵の鍵を握っているのは誰であり、蔵を開けることを止めているのは山形城(当主側)の命令なのか、それとも地元の城主(重臣側)の命令なのか。
一つ、最上川水系の川除け普請について、当主側と重臣側からそれぞれどのような人足割りが出されており、同じ村へ二重の負担が掛かっていないか。また、雪解け前にどうしても手を打たねば決壊する危険な箇所はどこか。
俺が書き上げた紙面を見て、正純は感心したように目を細めた。
「……なるほど。当主を替えるべきか否かという大きな政の議論へ踏み込まずとも、この問いを突きつければ、現地の政務がどこで誰によって止まっておるのかが自ずと浮かび上がりまするな」
「ええ。まずは誰が悪人かを探すより、何がどう詰まっているのかを知りたいんです」
俺たちはその確認事項を携えて、将軍・秀忠の御前へと上がった。
書付に目を通した秀忠は、「うむ、要を得ておる。目付への追っての沙汰に加えよ」と即座に裁可を下した。
だが、秀忠は書付を正純へ返すと、厳しい将軍の目で俺を見据えて釘を刺した。
「……ただし、忠長。くれぐれも忘れるなよ。出羽の種籾蔵は、最上家という大名が預かる蔵であって、公儀の直轄蔵ではない」
「……はい」
「百姓たちが春に困るであろうと案ずるそなたの心は分かる。されど、まだ最上家の処分が決まったわけでもなきうちに、そなたの一存で最上家の蔵を無理やり開けさせたり、現地の蔵役を公儀の役人と差し替えたりするような越権は断じて許さぬ。……他家の領国に手を入れるには、公儀としての正式な筋目と段階がある」
三年前の関東の大旱魃の時は、公儀の直轄領や旗本領が中心だったから、俺たちが直接乗り込んで田を見切り、公儀蔵を開くことができた。
しかし、今回の相手は五十七万石の外様大名である。当主と家老が喧嘩しているからといって、幕府が手順を飛ばしていきなり領内の蔵や人事を直接動かし始めたら、全国の諸大名は「徳川は家中の揉め事を口実に、大名の領国支配権を片っ端から奪い取る気か」と激しく警戒するだろう。
「承知しております、お父様。私はあくまで、現地の目付衆を通じて実情を確かめるだけです。もし公儀の力をもって蔵を開けさせる必要がある時は、必ずお父様と大御所様の正式な御裁可を仰ぎます」
俺が深く頭を下げると、秀忠は「うむ、そこを弁えておればよい」と静かに頷いた。
*
江戸城でそのようなやり取りが交わされていた頃。
白銀の深い雪に閉ざされた出羽国・山形領内の村々では、厳しい寒さの中で春を待つ人々の焦りが、日に日に濃くなっていた。
最上川へ流れ込む支流沿いにある、ある大きな郷村。
まだ田畑は分厚い雪の下に眠っているものの、暦の上では立春が近づき、百姓たちにとっては今年の稲作の命運を左右する大切な準備の時期が始まろうとしていた。農具の柄をすげ替え、藁で縄や俵を編み、雪解け水を引き込む溝の氷を割り、そして何より、苗代へ播くための『種籾』を受け取って浸種の段取りを整えなければならない。
その郷村の外れに建つ、白壁の頑丈な種籾蔵の前には、朝から近隣数か村の名主や長百姓たちが集まり、白い息を吐きながら困り果てた顔で立ち尽くしていた。
蔵の分厚い扉には頑丈な鉄の錠前が下りており、その前には、この郷の蔵役を務める中年の武士が、腕を組んで険しい顔で立っていた。
「……蔵役様。どうかお願い申し上げまする。村々の種籾の割当を、そろそろお渡しいただけませぬでしょうか」
代表して進み出た老名主が、雪の上に膝をつかんばかりにして頭を下げた。
「去年の秋、私どもが確かにこの蔵へ納めました種籾にございます。どの村へ何俵渡すかという控えの書き付けも、すでに先月のうちに揃うておりますはず。これ以上遅れましては、雪が緩んだ折の種浸しに間に合わなくなりまする」
老名主の切実な訴えに、蔵役の武士は苦渋に満ちた顔で唇を噛んだ。
「……名主よ、そなたらの申すことは重々分かっておる。蔵の中に種籾の俵が揃うておることも、去年の控えがあることも承知しておるわ。……されど、今しばらく待て。まだ蔵を開けてよいとの御下知が、定まらぬのじゃ」
「御下知が定まらぬと申されましても……例年ならば、蔵役様の御判一つで出してくださるではございませぬか!」
後ろに控えていた若い百姓が、たまらず声を上げた。
蔵役は周囲を憚るように声を落とし、懐から二通の書状を取り出して名主たちに見せた。
「……これを見よ。片方は、五日前に山形城の若殿様(最上家信)の御側衆より届いた御下知じゃ」
蔵役が示した一通目の書状には、山形城の印とともに、厳しい文言が並んでいた。
曰く、『近頃、地方の蔵において宿老どもの私意が混じり、当主の命が行き届かぬ向きがある。よって種籾ならびに救荒米の蔵役を改め、山形城より新たに遣わす役人へ管理を引き継ぐべし。新役の着任と改めが済むまでは、旧来の蔵役が勝手に蔵を開き、米を出すことを禁ずる』と。
「わ、若殿様からそのような御下知が……。なれば、その新しいお役人様に開けていただければよいのではございませぬか?」
名主が尋ねると、蔵役は力なく首を振り、もう一通の書状を開いた。
「こっちは三日前、この地を治める我が御城主様(山野辺派の重臣)より下された厳命じゃ」
二通目の書状には、一通目とは真っ向から対立する命令が記されていた。
曰く、『山形城の側近どもが、先代以来の定めを無視し、当方に何の相談もなく蔵役を挿げ替えんと企てておる。いま帳面と現物の立ち会いもせぬまま蔵の鍵を他所者へ渡せば、後に俵の不足や紛失が生じた折、すべて現地役人と我が城の不始末として罪を着せられるは必定なり。よって正式な筋目による引継ぎが定まるまでは、従来の蔵役がその任に留まり、山形城の使者へ鍵を渡すことも、独断で蔵を動かすことも一切まかりならぬ』と。
名主たちは、その二通の書状を見比べて絶句した。
「……そ、そんな。では、先に双方のお役人様で立ち会うて、俵の数を数えてくだされば……」
「その立ち会いを、誰の命で、どちらの流儀で行うかで上が揉めておるのじゃ!」
蔵役は、自分の腰に下げられた鉄の鍵束を握りしめ、呻くように言った。
「わしとて、そなたらに今日にも種籾を渡してやりたいわ! じゃが、もしわしが今、若殿様の命に従って新役へ鍵を渡せば、わしの一族は地元の御城主様から『主を裏切った不忠者』として扶持を召し上げられる。逆に、御城主様の言葉だけを頼りに蔵を開けて種籾を配れば、今度は山形城から『当主の禁を破り、勝手に蔵米を動かした大罪人』として首を刎ねられかねぬのじゃ!」
雪の舞う蔵の前に、重苦しい沈黙が落ちた。
蔵役は決して怠けているわけでも、百姓をいじめようとしているわけでもない。上からの矛盾する二つの命令の板挟みになり、右へ動けば左から斬られ、左へ動けば右から斬られるという袋小路に追い込まれていたのだ。
そうなれば、現場の役人が自分の身と家族を守るために選べる道は、「上の争いが決着するまで、鍵を握ったまま何一つ動かさない」という完全な思考停止しかなくなってしまう。
「……蔵役様。我らは、山形の若殿様と地元の御城主様のどちらが正しいのかなど、分かりませぬし、決めたいとも思いませぬ」
老名主が、閉ざされた白壁の蔵を見上げて、掠れた声で言った。
「ただ……春になって雪が解けたら、田へ種を播きたいだけなのでございます。種籾はすぐその扉の向こうにありますのに、このまま春を逃せと仰せになりまするか……」
蔵役は何も答えられず、ただ唇を噛みしめて目を伏せた。
*
しかも、村々を襲っていた混乱は、種籾蔵だけではなかった。
蔵の前から失意のうちに村の寄合所へと戻った老名主のもとへ、今度は川筋の普請を取りまとめている村役人が、雪を蹴散らして駆け込んできたのである。
「名主殿! 大変にございます! 春の川除けの人足割りについて、また山形城の普請奉行所から催促の書付が参りました!」
「……なに? 川除けの人足割りなら、五日前に地元の御城主様の代官から『今年はまず支流の崩れかけた堤の根固めを先に行うゆえ、村から三十人の人足と空俵を用意せよ』と達しがあったばかりであろうが」
「それが……山形城からの書付には、『今年は最上川本流の舟運を守るため、本流沿いの大堤の手入れを最優先とする。来月早々より村の人足三十人を本流の普請場へ出せ』と記されておりまする!」
寄合所にいた村人たちが、一斉にざわめいた。
山形城(当主側)は、城下町の防御と最上川全体の舟運を守るために本流の工事を優先させたい。一方、地元の城主(重臣側)は、自分の所領の田畑を雪解けの洪水から直接守るために支流の堤を優先させたい。
どちらの工事も、理由だけを見れば決して間違った無駄工事ではないのだ。
だが、命令を受ける村の側からすれば、たまったものではなかった。
「馬鹿なことを申されるな!」
長百姓の一人が、囲炉裏の縁を叩いて立ち上がった。
「うちの村から働き盛りの男を三十人も本流へ出し、同時に支流へも三十人出せなどと、どこにそんな人手がある! お上の帳面の上ではどうなっておるか知らぬが、村の男どもの身体は一つずつしかねえんだぞ!」
「冬の間とて、雪下ろしや薪採り、農具の手入れで手一杯だというのに、二つの普請場へ掛け持ちで出られるわけがなかろう!」
名主が頭を抱えて人足の控え帳をめくる中、隅に座っていた年配の百姓が、ぽつりと暗い声で呟いた。
「……なあ、名主様。これ、下手に本流の普請へ人を出したら、地元の御城主様から『わしの城の普請を疎かにした』と睨まれるんじゃねえのか。かといって支流へばかり人を出したら、今度は山形城のお役人から『若殿様の御下知に背いた』とお咎めを受けるんじゃねえのか」
寄合所の中が、水を打ったように静まり返った。
「……だったらよ。どっちへ行っても叱られるくらいなら、いっそ『村に流行り病が出た』とでも理由をつけて、どっちの普請にも人を出さずに閉じこもってた方が、身のためなんじゃねえか?」
その言葉に、老名主はハッとして顔を上げた。
もし村人たちが本当にそんなことをして、雪解け前の堤の手入れを放棄してしまったら、春の大水で堤防が切れ、村の田畑が丸ごと濁流に呑み込まれてしまうかもしれない。
だが、命令に従えば従うほど処罰される危険が高まるという理不尽な状況の中では、「何もしないのが一番安全だ」という後ろ向きな知恵が、まるで毒のように人々の心へ広がっていくのを、名主にはどうすることもできなかった。
*
その膠着した現場へ、公儀の目付である石丸六兵衛らが姿を現したのは、それから数日後のことだった。
以前から山形城下に滞在し、最上家の家中騒動を監察していた石丸たちは、江戸からの追っての急飛脚を受け取るやいなや、城下の屋敷での聞き取りだけでなく、実際に問題が起きている郷村の種籾蔵へと馬を走らせたのである。
公儀の目付が直接やって来たとあって、現場には山形城から派遣された当主側の役人と、地元の城主から遣わされた重臣側の役人の双方が、緊張した面持ちで駆けつけてきた。
石丸六兵衛は、閉ざされた種籾蔵の前に立つと、まず双方の役人と蔵役へ向かって静かに言った。
「……あらかじめ申しておく。手前は今日、公儀の威をもってこの蔵の錠を無理にこじ開けに来たのでもなければ、そなたらのうちいずれかを罪人として縄にかけに来たのでもない。……江戸の上様より、『最上領内にて春の農事や普請が何ゆえ滞っておるのか、双方の書付と帳面を突き合わせて実情を確かめよ』との命を受けて参った。まずは、山形城より出た御下知と、地元の城主より出た御下知、双方の原本をここへ出してもらおうか」
目付の落ち着いた、偏りのない態度を見て、蔵役と双方の役人はそれぞれ懐から命令書と出納の帳面を差し出した。
石丸はまず、当主・家信の側から来た役人へ向き直り、蔵役の交替を命じた書状を指差した。
「……この書付を見るに、山形城としては『種籾を百姓へ配るな』と命じたわけではないのだな?」
「はっ! もちろんでございます!」
当主側の役人は、ここぞとばかりに胸を張って答えた。
「若殿様は、地方の蔵が宿老どもの私物のように扱われ、いざという時に当主の命が届かぬことを憂慮なされたのです。ゆえに、まずは蔵役を山形城直属の新しい者へ改め、管理の筋目を正したうえで、速やかに種籾を配らせようとのお考えにございました。それを、地元の城主側が不当に拒んだために遅れておるのです!」
「ふむ。筋目を正したいという理由は分かった」
石丸は頷き、それから淡々と問いを重ねた。
「……では尋ねるが、その新しい蔵役が旧来の蔵役から鍵と帳面を引き継ぐにあたり、蔵の中の俵を誰がどのように数え、もし不足があった場合はいつの時点の責めとするか、その手順は書付で定めてあったのか?」
「え……? いえ、そこまでは……。まずは鍵と帳面を新役へ渡せと命じたのみにございます」
「そして、旧来の蔵役が引き渡しに迷うた場合、その間、目前に迫っておる村々への種籾配分を誰がどう代行するかという手筈は?」
「……それは、新役へ替わればすぐに済むと思っておりましたゆえ、特には……」
当主側の役人が、言葉を詰まらせて俯いた。
江戸へ送られた松根光広の訴状には、「重臣どもが理由もなく当主の命を握り潰した」とだけ書かれていた。だが実際に原本と経緯を確かめてみれば、当主の権威を示すことばかりを急ぎ、現場の引継ぎ手順や春の農事の時期をまるで考慮していない、極めて乱暴な人事命令だったのである。
次に石丸は、地元の城主(重臣側)の役人へと向き直った。
「……そなたらが、帳面と現物の立ち会いもなしに鍵を渡せば、後から無実の罪を着せられかねぬと警戒した理由は分かる。蔵を預かる者として、引継ぎの筋目を求めるのは道理じゃ」
重臣側の役人が、我が意を得たりとばかりに顔を上げた。
「左様にございます! 手前どもは決して若殿に逆らうためではなく、先代より続く正しい蔵の法を守るために留任を命じたのでございます!」
「……ならば尋ねるが」
石丸の声が、すっと冷たくなった。
「正しい蔵の法を守るためと申すなら、山形城から書付が届いたこの十日余りの間、そなたらは蔵の現物と去年の出納帳を突き合わせる作業を進めたのか?」
「……は? いえ、山形城との間で『役替えを認めるか否か』の押し問答が続いておりましたゆえ、蔵には手をつけておりませぬ」
「去年の秋に定められた、各村への種籾配当の控えはここにあるな?」
「はっ、ございます」
「蔵の中に、種籾の俵が盗まれたとか、腐って失われたという報告はあるのか?」
「い、いえ! 蔵役が厳重に番をしておりますゆえ、一俵たりとも欠けてはおらぬはずですが……」
石丸は、並べられた前年の配当控え、山形城の交替命令、地元城主の留任指示、そして村々から出された何通もの受領願いの書付を、扇子の先で順番に示した。
「……おかしいとは思わぬか」
石丸の静かな声が、雪の残る境内に響いた。
「当主の側も、重臣の側も、誰一人として『種籾が盗まれた』とも『足りぬ』とも申しておらぬ。去年の秋に決めた村々への配当の帳面にも、誰一人として異を唱えておらぬ。……にもかかわらず、この蔵の鍵を『どちらの息のかかった役人が回すか』という一事だけを巡って十日も睨み合い、そのすぐ後ろで種籾を待っておる百姓たちの手を止めさせておったわけか」
双方の役人は、顔を真っ赤にして押し黙り、ぐうの音も出せなくなった。
横領事件が起きていたわけでも、種籾が消えたわけでもなかったのだ。
ただ「相手の言いなりになって鍵を動かしたら、家中の権力争いで負けたことになる」という武士たちの面子と意地の張り合いだけが、分厚い蔵の扉を内側から固く閉ざしていたのである。
*
冬の奥羽路を早馬が駆け抜け、石丸六兵衛ら現地目付からの詳細な報告書が江戸城へ届いたのは、正月も終わり、二月へ入った頃だった。
御異物改方の部屋で、俺と正純、土井利勝、そして家光兄上は、届いたばかりの報告書と、先月両派から提出されていた二通の訴状を机の上に並べて突き合わせた。
一通り目を通した俺は、思わず深い溜息を漏らした。
「……正純、利勝殿。これ、先月の二通の訴状と比べると、ずいぶん見え方が違ってきますね」
「左様にございますな」
利勝が渋い顔で頷いた。
「松根殿の訴状には、『山野辺ら重臣が理由もなく当主の下知を拒んだ』と書いてありました。確かに拒んだという一点は事実です。ですが、そもそも当主側が春の農事の直前に、引継ぎの手順も定めぬまま突然各地の蔵役を挿げ替えようとしたという事情は、松根殿の訴状には一行も書かれていません」
俺は次に、山野辺側の訴状を指差した。
「そして、山野辺殿たちの訴状には、『当主側が先代の法を無視して無理な人事を押しつけ、領国を乱している』と書いてありました。これも半分は事実です。……ですが、自分たちがその人事に反発するあまり、蔵役へ『絶対に蔵を動かすな』と命じて百姓への種籾配分まで止めてしまっていることは、綺麗さっぱり黙っていたわけですよね」
川除け普請の人足割りについても同じだった。
当主側は本流の普請を命じ、重臣側は支流の普請を命じ、互いが「自分たちの命令こそが優先だ」と譲らないため、挟まれた村々がどちらにも人足を出せずに立ち往生している。しかも目付の冷静な注記によれば、この混乱が確認されたのは直轄地と重臣の所領が入り組んだ数か所の郷村であり、五十七万石の全ての村が完全に止まっているとまではまだ言えないが、放置すれば春に向けて領内全域へ広がる恐れがあるという。
「……これ、どっちの訴状も、真っ赤な嘘を書いているわけじゃないんですよね」
俺は頭を抱えた。
「当主側が命令を拒まれたのも本当。重臣側が無茶な人事に困ったのも本当。……でも、どちらも『自分たちに都合のいい事実』だけを切り取って並べて、自分たちが現場にかけた迷惑は全部隠して江戸へ訴えてきているんです。……ただの嘘つきより、こっちの方がよっぽど厄介じゃないですか!」
『ふふ、裁判や組織の争いでは一番よくあるパターンね。嘘をつくと後からバレた時に負けるから、事実の一部だけを正確に書いて、読み手が勝手に「相手が百パーセント悪い」と思い込むように誘導するのよ』
KAMI様の言葉に、俺は年末に正純を休ませた時のことを思い出した。
あの時は、帳面に「判断の理由」が書かれていなかったせいで、正純の記憶に頼るしかなかった。
だが今回は、当事者が熱心に「理由」を書いてきているのに、双方が自分に都合のいい理由しか書かないため、片方の紙だけを読んでいたら完全に判断を誤るところだったのだ。
隣で報告書を熟読していた家光が、静かに書付を置き、少し自省するような声で言った。
「……忠長。私は先月、最初の訴状を見た時、家臣が主君の命に背くなど言語道断だと、山野辺らの方ばかりを悪く思うておった」
「兄上……」
「だが、この目付の報告を見れば分かる。引継ぎの筋目も整えず、種籾を配る大切な時期に突然蔵役を替えよと命じた家信殿の側にも、当主としての配慮のなさと落ち度がある。……一方で、主君の誤りを諫めるためとはいえ、蔵を封じて百姓を困らせた重臣どものやり方も、決して褒められたものではない」
家光は、二通の訴状と目付の報告書を見比べ、次代の将軍としての確かな目で言った。
「どちらが正統かという名分だけで白黒をつけようとすれば、この真ん中で抜け落ちている百姓たちの難儀が見えなくなるのだな」
「はい、兄上。……そして、どちらか一方の訴状だけを信じて今すぐ『こっちが勝ち、あっちが負け』と裁定を下したら、負けた側は絶対に納得せず、それこそ国元で騒乱になりかねません」
俺たちはその分析結果を持って、大御所・家康と将軍・秀忠の待つ御前へと上がった。
*
報告を聞き終えた秀忠は、深く眉をひそめて腕を組んだ。
「……双方とも、己の非を伏せて公儀を動かそうとしたか。ならば、なおさら今すぐどちらか一方の肩を持つわけにはいかぬな」
「ですが、お父様、大御所様」
俺は一歩前へ膝を進め、思案していた解決策を口にした。
「最上家の当主と重臣のどちらが正しいか、また蔵役の人事をどうするかという『家中の争い』を今すぐ解決するのは困難です。……ですが、それと『春に百姓へ種籾を配り、川除けの準備を進めること』は、切り離して動かせるのではないでしょうか」
家康が、興味深そうに目を細めた。
「ほう。当主と家老が誰の命で蔵を開けるかで争うておるのに、どうやって切り離すつもりじゃ?」
「彼らが蔵を開けられないのは、『今ここで相手の命令に従って鍵を開けたら、人事や権限の争いで自分たちが負けたことになる』と恐れているからです。蔵の中の種籾を百姓に渡すこと自体に反対している者は、一人もおりません」
俺は、現地目付の報告書を指差した。
「幸い、どの村へ何俵の種籾を渡すかという配当の控えは、争いが激しくなる前の『去年の秋』に、すでに正式な帳面として決まっております。……ですから、公儀からこう命じるのです。『蔵役の人事をどうするか、当主と重臣の言い分のどちらが正しいかについての裁定は、公儀が追って下すゆえ双方ともそれまで預かり置く。ただし、去年の秋にすでに定まっておる種籾の配分と、雪解け前に必要な堤の手当てだけは、誰の新しい命令でもなく、去年の帳面の定めに従ってただちに行え』と」
家康が「ふむ」と髭を撫でた。
「では、実際に蔵の鍵を回すのは誰にするのじゃ。山形城が送った新役か、それとも元の蔵役か」
「現在、現実に鍵と帳面を預かっている元の蔵役に、去年の控えと現物の俵数を照合させたうえで開けさせます。ただし、そこに公儀の目付である石丸殿たちと、当主側・重臣側の双方の役人を立ち会わせます」
俺は、秀忠から釘を刺されていた「他家の領国への介入の限界」をきっちり守る形で条件を組み立てた。
「公儀の目付が最上家の蔵を取り上げて代わりに配るのではありません。あくまで最上家の蔵役が、最上家の去年の帳面に則って百姓へ渡すのを、公儀の目付が『双方の政治争いに利用されぬよう横で見届ける』という形を取ります。……そして、『今回の蔵の開封は、当主側の役替えを認めたものでも、重臣側の留任を最終的に認めたものでもない。春の農事を止めぬための公儀の仮の差配である』と明言してしまえば、どちらの面子も潰れず、蔵役も処罰を恐れずに鍵を開けられるはずです」
俺の説明を聞いていた秀忠の顔から、険しい色がすっと消えた。
「……なるほど。家の争いの決着は先へ置き、すでに決まっておる去年の帳面だけを根拠として、百姓の種籾だけを先に救い出すか」
「はい。川除けの普請も同じです。当主側の命令か重臣側の命令かで争わせず、現地の川除け役人に『雪解けまでに手を打たねば危うい場所』を事実に基づいて書き出させ、同じ村から同じ日に二重に人足を取ることだけを禁じて、急ぐ場所から手当てをさせます」
家康が、ぽんと膝を打って笑った。
「よい知恵じゃ、忠長! 喧嘩しておる二人の間に割って入って『どっちが正しいか決めてやる』と言えば、決まるまで誰も動けぬ。じゃが、『喧嘩の勝負は後でつけてやるゆえ、足元の種籾だけ先に百姓へ渡せ』と言えば、どちらも嫌とは申せまい!」
秀忠も力強く頷き、ただちに五か条からなる公儀の仮沙汰(暫定措置)を定めた。
一、種籾の配分は、前年の秋に定まった正式な配当控えを基準とし、速やかに行うこと。
二、開封にあたっては、現任の蔵役が出納帳と現物の俵数を照合し、不足や異常があれば隠さず報告すること。
三、蔵の開封と引渡しには公儀目付ならびに両派の役人が立ち会い、数量と受領した村の名を双方の控えに記すこと。
四、此度の処置は春の農事を妨げぬための仮の定めであり、これをもって当主側の役替え、あるいは重臣側の留任のいずれかを公儀が認めた証拠とは一切見なさぬこと。
五、川除け普請の準備についても、二重の人足徴発を改め、雪解け前に急を要する箇所より手当てを進めること。
この将軍の朱印が押された申渡しは、その日のうちに最速の継飛脚によって、再び雪の出羽国へと送り出された。
*
二月の中旬。
まだ冷たい風が吹きすさぶ出羽の郷村の種籾蔵の前に、再び公儀目付の石丸六兵衛と、当主側・重臣側の双方の役人、そして蔵役と村々の名主たちが集められていた。
石丸が、江戸から届いたばかりの将軍家の申渡しを朗々と読み上げる。
最初は「公儀が我らの正しさを認めてくださるのか」「いや、我らの言い分が通るのか」と息を詰めていた両派の役人たちは、第四条の『いずれの主張を認めた証拠とも見なさぬ』という文言を聞いて、揃って不満そうに顔をしかめた。
「……目付殿! 現在の蔵役の手で開けさせるとなれば、若殿様が命じられた役替えの御威光はどうなるのでございますか!」
当主側の役人が食い下がると、重臣側の役人も負けじと声を上げた。
「いや、山形城の無理な役替えそのものを公儀に取り消していただけねば、我らとしても納得が参りませぬ!」
いまだに面子の張り合いを続けようとする二人を、石丸六兵衛は冷ややかな目で一喝した。
「黙れ! 家中の役替えの是非については、公儀が江戸にて引き続き調べると書いてあるのが聞こえぬか!」
石丸は、二人の役人の後ろで不安そうに身を縮めている村の名主たちを指差した。
「今、上様がそなたらに命じておられるのは、どちらの顔が立つかを競うことではない。そこにおる百姓どもへ、去年の帳面通りに種籾を渡すことじゃ! ……それとも何か、そなたらが口々に申しておる『最上家のため』というのは、最上領の百姓が春に種も播けず、秋に領内が飢えても構わぬという意味なのか!?」
その痛烈な一言に、当主側の役人も重臣側の役人も、顔をこわばらせたまま完全に口を閉ざした。
公儀の目付にここまで明確に「百姓の農事を優先せよ」と宣言され、しかも「従っても自分たちの政治的な敗北にはならない」と保証された以上、これ以上蔵を開けるのを妨げる理由はどこにもなかった。
「……蔵役。上様の御沙汰である。錠を開けよ」
「は、はっ……!」
石丸に促され、蔵役の武士は深く一礼すると、ずっと腰に下げたままだった鉄の鍵束を両手で取り出した。
寒さでかじかむ指先が、わずかに震えている。
周囲で見守る名主や百姓たちが固唾を呑む中、蔵役は分厚い扉の錠前に鍵を差し込み、力を込めて回した。
ガチャン、と重く乾いた金属音が響き、かんぬきが外される。
ギィィィ……と重い音を立てて、ひと月以上も固く閉ざされていた白壁の蔵の扉が、ゆっくりと左右へ押し開かれた。
薄暗い蔵の奥から、乾いた藁と籾の匂いが、冬の冷たい空気の中へと流れ出してくる。
そこには、去年の秋に村々が納めた種籾の俵が、鼠の害に遭うこともなく、整然と幾段にも積み上げられていた。
「まずは、去年の出納帳と現物の俵数を照合せよ」
石丸の指示のもと、蔵役と双方の役人が中へ入り、一俵ずつ数を数えて帳面と突き合わせていく。
やがて、「帳面の記載通り、一俵の不足もございませぬ!」という声が蔵の中から響いた。
やはり、誰かが横領していたわけでも、種籾が消えていたわけでもなかったのだ。必要な種籾は、最初からずっとそこにあったのである。
「よし。では、去年の配当控えに従い、村々へ引き渡せ!」
蔵の中から、ずっしりと詰まった種籾の俵が次々と運び出され、村ごとの控えと照らし合わせながら名主たちの前へ並べられていく。
老名主は、自分の村へ割り当てられた種籾の俵に両手を触れ、その確かな重みと籾の感触を確かめると、その場に膝をついて深々と頭を下げた。
「……ありがたき幸せにございます……! これで、今年も春に苗代を作ることができまする……!」
目頭を拭う老名主に向かって、石丸六兵衛は静かに首を振った。
「礼を申すには及ばぬ。これは公儀が新しく恵んでやった米ではなく、もともとそなたらが去年の秋に納め、春に受け取るはずであった種籾じゃ。……ただ、当たり前の仕事が、ようやく当たり前に動いただけのことよ」
その言葉は、当主側と重臣側の争いに決着をつけるよりも先に、去年の帳面に従って村々へ種籾を渡すべきだと考えた、忠長の願いにも通じるものだった。
劇的な奇跡が起きたわけではない。
けれど、自分たちが春に播くはずだった種籾をようやく荷車へ積むことができた百姓たちの顔には、どんな奇跡を見た時よりも深い安堵の笑みが浮かんでいた。
その後、川除け普請についても、公儀目付の立ち会いのもとで現地の川筋の見分が行われ、二重に掛けられていた人足割りが整理されて、雪解け前にどうしても必要な箇所への杭木や空俵の運搬が再開された。
「これでようやく、今年の春を迎える支度ができますな」と、名主と蔵役が互いの労をねぎらい合う。
だが――そのすぐ後ろでは、引渡しの立ち会いを終えた当主側の役人と重臣側の役人が、一言も言葉を交わすことなく、氷のように冷たい目で互いを睨みつけたまま別々の方向へと立ち去っていった。
*
出羽の蔵が開き、種籾の配分と川除けの準備が再開されたという完了報告が江戸城へ届いたのは、二月も終わりに近づいた頃だった。
報告書を読んだ俺は、「……よかった、春の種浸しに間に合った」とまずは胸を撫で下ろした。
『ええ、現場の農作業が止まるという最悪の事態は、これでひとつ回避できたわね』
正純も、「まずは村方の困り事につき、確かな手当てができましたな」と頷いてくれた。
しかし、報告書の後半に記された『家中の様子』へと目を移した途端、俺の顔から安堵の笑みが消えた。
種籾の配分自体は、双方とも将軍家の命令に従って妨害せずにやり遂げた。
ところが、当主側の者たちは「公儀が目付を動かしてまで蔵を開けさせたのは、宿老どもが蔵を私物化していた証拠だ」と言い張り、逆に重臣側の者たちは「公儀が新役への引き継ぎを認めず、元の蔵役に開けさせたのは、若殿の無理な役替えが誤りであった証拠だ」と主張して、双方が今回の暫定措置を自分たちに都合よく解釈し、ますます相手への攻撃を強めているというのだ。
「……なんだこれ。種籾は無事に配れたのに、当主側と重臣側の仲は良くなるどころか、前より険悪になってるじゃないですか……」
俺が報告書を抱えて呆然としていると、後の評定でその報告を聞いた家康が、さも当然だというように頷いた。
「それはそうじゃろう、忠長」
「……え?」
「そなたが此度やったのは、『閉まっておった蔵の鍵を開けて、百姓に種籾を渡す』という仕事じゃ。最上家の家臣どもの腐った性根を叩き直して仲直りさせる仕事ではない」
家康は、落ち込む俺を見て穏やかに言った。
「一つの問題を解いたからといって、別の問題まで勝手に解けたと思うでない。人の心のこじれは、蔵の錠前のように鍵一本では開かぬわ。……じゃが、逆もまた然りよ。家臣どもの喧嘩が収まらぬからといって、そなたが救い出した種籾と百姓の春まで、無駄であったかのように小さく見る必要もないぞ」
「……はい」
「村の者どもが今年も田を作れるようになった。それはそれとして、紛れもない上出来の仕事じゃ。胸を張っておれ」
大御所様のその言葉に、俺は少しだけ救われた気持ちになった。
できることと、まだできていないことを混ぜずに分けて見る。それは俺自身がいつも心がけているはずのことだった。
*
そして、秀忠、家康、家光、正純、利勝、俺が集まったその評定の場で、今後の最上家の本体――すなわち『五十七万石の家中対立そのもの』をどう扱うかが改めて話し合われた。
今回の現地調査で、事実関係はかなりはっきりした。
しかし、明らかになったのは一部の蔵や川除けの仕事が止まった経緯であって、若い当主の統治能力や家中全体の行く末まで分かったわけではない。
蔵を開けるための仮の沙汰も、当主側と重臣側のどちらにも軍配を上げず、当面の農事だけを動かしたにすぎなかった。
この先の裁定には、まだ足りないものがあった。
「……いずれの言い分も、片方だけを信じて裁けば公儀が誤ることは明らかになった」
秀忠が重々しく言い、家光もそれに頷いた。
「当主の権威を守ることも、宿老の経験を生かすことも、家を保つには両方必要なはずだ。それなのに、今の最上家では双方が相手を潰すことばかりを考えておる」
俺は、机の上に並べられた松根の訴状、山野辺側の訴状、そして現地目付の報告書を順番に見つめながら、これまでの調査の経緯を頭の中で辿っていた。
松根光広本人の激しい主張は聞いた。
山野辺義忠や鮭延秀綱ら重臣たちの言い分も、使者や書状を通じてたっぷり聞いた。
現地の蔵役や百姓たちの困り事も聞いた。
そこまで振り返った時、俺は、ある一つの『巨大な空白』に気づいて顔を上げた。
(……あれ?)
『どうしたの、急に黙り込んで』
(……いや、おかしいと思って。これだけ最上家の文書が山のように集まっているのに、一番大事な人の言葉が、最初から最後まで一つも出てきていないじゃないか)
俺は、秀忠と家康の方へ向き直った。
「……お父様、大御所様。一つ、どうしても気になっていることがあります」
「申してみよ」
「私たちはこれまで、当主の側近である松根殿の訴えも、叔父である山野辺殿たち重臣の訴えも、現地の役人の話も聞いてきました。……ですが、肝心の最上家五十七万石の当主である『最上源五郎家信殿ご本人』が、自分の言葉で何を考え、どうしたいと思っておられるのかを、まだ一度も直接確かめていないのではありませんか?」
俺の指摘に、評定の場の空気がぴたりと止まった。
隣に座る家光が、ハッとしたように目を見開いた。
「……確かに、そうだ。松根は口を開けば『若殿の御威光を守るため』と申し、山野辺らは『若殿では国が治まらぬ』と申す。……だが、その真ん中にいるはずの家信殿ご自身が、重臣たちをどう見ておられるのか、先日の種籾蔵の役替えをどのようなおつもりで命じられたのか、すべて周りの者の口を通してしか語られておらぬな!」
「はい、兄上。当主としての責任を問うにせよ、家臣たちへ当主に従えと命じるにせよ、まず当主ご本人が自分の足で立ち、自分の頭で五十七万石をどう治めるつもりなのかを聞かなければ、公儀としても判断の下しようがないと思うのです」
俺は言いながら、先月正純から聞いた最上家信の年齢を思い出していた。
最上源五郎家信。今年で、数えの十七歳。
ハッとした。元和八年を迎えた今、俺自身も数えで十七歳なのだ。
(……俺と、まったくの同い年じゃないか)
俺の周りには、大御所様がいて、お父様がいて、家光兄上がいて、母上がいて、正純や利勝殿のような頼もしい大人たちが何重にも支えてくれている。それでも元服して自分の名前で判を押す時は、手が震えるほど重圧を感じた。
それなのに、同い年の家信殿は、十二歳で父を亡くして五十七万石の頂点に立たされ、今や叔父や歴戦の宿老たちから「お前には国を治める器量がない」と公然と突き上げられているのだ。
その孤独や焦りは、想像するに余りある。
だが――だからといって、「かわいそうだから無条件で守ってあげよう」とはならないのが、政の厳しさだ。十七歳であろうと、五十七万石の当主の座にいる以上、その領国に生きる何十万もの民の暮らしを背負う責任からは、決して逃れることはできないのだから。
秀忠は、俺と家光の言葉を聞いて深く頷いた。
「……もっともなことじゃ。家臣どもの訴状ばかりを並べて、当主本人の器量と心持ちを直接見ぬままに五十七万石の行く末を決めるわけにはいかぬ」
家康も、鋭い目を光らせて言った。
「うむ。家を残すにせよ、召し上げるにせよ、まずはその源五郎家信という若者が、ただ側近の言葉に踊らされておるだけなのか、それとも己の言葉で家を背負う覚悟を持っておるのか、わしらの目の前で直接確かめてやろうではないか」
こうして、最上家当主・最上源五郎家信本人に対し、江戸城へ登城して直接公儀の尋問に応じるよう、正式な召還の命が下されることとなった。
*
その日の夕方、御異物改方の自室へ戻った俺は、出羽から届いた完了報告書をもう一度静かに読み返していた。
種籾蔵の鍵は、確かに開いた。
村々へ種籾が配られ、川除けの準備も動き出し、百姓たちは今年も春になれば田へ苗を植えることができるだろう。
(……蔵の鉄の鍵は、公儀の仮沙汰一つで開けられたんだけどな)
『ええ。でも、最上家の人間たちの心の鍵は、まだ何重にも閉ざされたままね』
(本当に。蔵の鍵なら、誰が持っていて、どの帳面と照らし合わせればいいかを整理すれば開くけれど、お互いを信じられなくなった人間同士の意地は、帳面の書式を直したくらいじゃどうにもならないよ)
俺は報告書を閉じ、その隣に置かれた『最上源五郎家信・召還控』という新しい一枚の書付へ視線を落とした。
最上家信。十七歳。
松根光広は、彼を「守るべき正統なる主君」と呼ぶ。
山野辺義忠たちは、彼を「政務を知らぬ暗愚な若輩」と呼ぶ。
そのどちらの言葉も、家臣たちがそれぞれの立場から貼り付けた札にすぎない。
種籾蔵の扉が開き、出羽の雪の下で春の準備が始まった今、次に開けなければならないのは、五十七万石の重圧の真ん中に立たされている、その同い年の若き当主自身の口と心だった。
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