夏の雨が止んでから、数週間が過ぎていた。
あの夜の停電も、豪雨も、地下区画の騒動も、
学園の記録上では「落雷による一時的設備障害」として処理された。
報告書には、避難誘導、設備復旧、軽傷者数、教職員対応、
再発防止策といった言葉が整然と並び、そこに坂柳有栖が杖を壁へ立てかけ、
自分の足だけで階段を上った瞬間のことは、当然ながら一行も書かれていなかった。
だが、彼女を見ていた者たちの記憶には、その光景が確かに残っていた。
神室は、あの日以来、坂柳の歩行記録へ以前より細かく目を通すようになった。
一之瀬は、会うたびに大袈裟ではない程度の自然な笑顔で声をかけるようになった。
ひよりは、図書室の窓際に坂柳のための席を一つ空けてくれるようになった。
須藤は、グラウンドで坂柳を見かけると、
呼吸を忘れるなよ、と少し照れたように声をかけた。
宝泉は何も言わない。
ただ一度だけ、坂柳が外周路を歩いている横を通り過ぎる時、
以前より少し遅い速度で歩いていった。
龍園は笑った。
「杖なしで階段上ったらしいな。やっと人間らしくなってきたじゃねぇか」
それは褒め言葉には聞こえなかったが、坂柳は不思議と腹を立てなかった。
高円寺は、相変わらず意味深に笑っただけだった。
「君は以前より美しいね、坂柳ガール」
それが何を意味するのかは、結局最後まで分からなかった。
そして綾小路清隆は、何も変わらなかった。
以前と同じように無表情で、以前と同じように必要以上には近づかず、
以前と同じように、坂柳が倒れそうになれば手が届く距離だけを保っていた。
その距離が、今の坂柳には最も心地よかった。
治療の方針は、まだ完全には決まっていない。
医師との面談は続いている。
父との話し合いも続いている。
手術を受けるのか。
どこまで回復を望むのか。
どこまでリスクを受け入れるのか。
その答えは、まだ出ていない。
だが一つだけ、以前とは決定的に違うことがあった。
坂柳有栖は、もう逃げていなかった。
自分の身体から。
自分の弱さから。
そして、自分が本当は歩きたいと願っていた事実から。
その日、坂柳は放課後の校舎を一人で歩いていた。
カツン。
杖の音が廊下に響く。
カツン。
その音はまだ消えていない。
彼女の隣には、まだ杖がある。
完全に不要になったわけではない。
長く歩けば疲れる。
階段では慎重になる。
雨の日は今でも少し怖い。
息が乱れれば、胸の奥に不安が蘇る。
けれど、それでも坂柳は歩いていた。
逃げるためではなく、進むために。
図書室の前を通ると、ひよりが本を抱えて出てきた。
「坂柳さん」
「椎名さん」
ひよりは坂柳の足元を見ない。
杖も見ない。
ただ、坂柳の顔を見て微笑んだ。
「今日は、少し顔色がいいですね」
「ええ。今日は調子がいいです」
「よかったです」
それだけの会話だった。
だが坂柳には、その短さが嬉しかった。
病人扱いではない。
特別扱いでもない。
ただ、今日の自分を見てくれている。
それが心地よかった。
校舎を出ると、秋の始まりの風が吹いた。
雨上がりの空は薄く晴れ、濡れた木々が光を反射している。
グラウンドでは、須藤たちが走っていた。
以前の坂柳なら、その光景を遠くから眺めるだけだった。
今も走れはしない。
だが、もう別世界だとは思わなかった。
自分は自分の速度で歩けばいい。
その速度が誰より遅くても、そこに意味があるのなら、それは敗北ではない。
「坂柳」
背後から声がした。
振り返る。
綾小路清隆が立っていた。
「あなたでしたか」
「悪かったな」
「いえ。むしろ、そろそろ現れる頃だと思っていました」
「オレは幽霊か何かか」
「似たようなものです」
坂柳は小さく笑った。
綾小路は隣へ並ぶ。
二人はしばらく無言で歩いた。
カツン。
坂柳の杖の音。
その隣に、綾小路の足音。
速度は遅い。
だが以前のように、坂柳が一方的に合わせてもらっているだけではない。
彼女自身が、自分の速度を選んでいる。
「手術、受けるのか」
綾小路が聞いた。
坂柳は空を見る。
「まだ決めていません」
「そうか」
「ですが、受ける方向で考えています」
綾小路は何も言わなかった。
坂柳は続ける。
「怖くなくなったわけではありません。失敗も、痛みも、変わることも、まだ怖いです」
風が髪を揺らす。
「でも、怖いからといって、見なかったことにはしたくありません」
その言葉は、以前の坂柳なら絶対に口にしなかったものだった。
綾小路は静かに言った。
「それでいいんじゃないか」
「相変わらず雑な励ましですね」
「励ましたつもりはない」
「でしょうね」
坂柳は笑った。
その笑みには、以前のような鋭い棘だけではなく、どこか柔らかな温度があった。
二人は校舎裏の階段へ辿り着いた。
あの日、何度も向き合った階段。
倒れた記憶。
上った記憶。
怖かった記憶。
それらが重なった場所。
坂柳は立ち止まり、杖を見た。
細い杖。
長い間、自分を支えてきたもの。
自分を縛ってきたもの。
自分を守ってきたもの。
坂柳はゆっくりと、その杖を階段脇の壁へ立てかけた。
綾小路は何も言わない。
坂柳は手すりへ触れる。
冷たい。
だがもう、その冷たさに怯えなかった。
一段目。
足を乗せる。
二段目。
呼吸を整える。
三段目。
少し胸が速くなる。
四段目。
脚が震える。
五段目。
それでも止まらない。
六段目。
あの日、倒れた場所。
坂柳はそこで一瞬だけ立ち止まった。
目を閉じる。
昔の自分がいる。
身体を憎んでいた自分。
弱さを見下していた自分。
普通を欲しながら、普通を軽蔑していた自分。
全部、ここにいる。
だから坂柳は、それらを否定しなかった。
それも自分だった。
その全てを抱えたまま、彼女は次の一段へ足を上げた。
七段目。
上り切った。
息は乱れていた。
胸も速い。
脚も少し震えている。
けれど、坂柳有栖は立っていた。
杖なしで。
自分の足で。
彼女は振り返る。
階段の下で、綾小路が静かにこちらを見ていた。
坂柳は少しだけ得意げに微笑んだ。
「どうです?」
「悪くない」
「もう少し褒めてもよろしいのですよ」
「すごいな」
一泊。
「……本当に言われると、それはそれで困りますね」
坂柳は小さく笑った。
そして階段を下りる前に、壁に立てかけた杖を見た。
まだ完全には手放せない。
明日にはまた必要になるかもしれない。
それでも。
今この瞬間、彼女は杖を置いて立っていた。
それだけで十分だった。
階段を下りると、坂柳は杖を手に取る。
だがすぐには使わなかった。
数歩だけ、そのまま歩く。
一歩。
もう一歩。
綾小路が隣に並ぶ。
「今日は、少し遠くまで行ってみませんか?」
坂柳が言った。
綾小路は一瞬だけ彼女を見た。
「どこまでだ」
坂柳は校門の方を見る。
夕日の光が、道の先を淡く染めている。
「決めていません」
そして、少しだけ笑う。
「歩けるところまで、です」
綾小路は短く頷いた。
二人は歩き出す。
坂柳の手には、まだ杖がある。
けれどその音は、以前より少しだけ少なかった。
カツン。
間が空く。
一歩。
また一歩。
夕暮れの中、坂柳有栖は自分の速度で歩いていた。
完治したわけではない。
奇跡が起きたわけでもない。
すべてが解決したわけでもない。
けれど彼女は、もう自分の身体を敵とは呼ばなかった。
弱さを抱えたまま。
恐怖を抱えたまま。
それでも前へ進むことができると知ったから。
坂柳有栖が杖を置く日。
それは、病気が消えた日ではなかった。
弱さがなくなった日でもなかった。
彼女が初めて、自分の足で未来へ向かおうとした日だった。
――TRUE END。
■あとがき
「坂柳有栖が杖を置く日」完結です。
本作には裏設定があります。
それは前に執筆した「坂柳有栖の夏休み」のパラレルワールドというものです。
本作の第八話では東京から星空が見えるというシーンがあります。
しかし、坂柳有栖の夏休みのほうは東京から星空は見えないのです。
つまり星空は、坂柳が見られなかったもの、
届かなかったもの、間に合わなかった未来の象徴。
でも『杖を置く日』では、坂柳自身が星空を見上げる。
つまりパラレルとして見ると、
『星空』では坂柳は未来へ間に合わなかった。
『杖を置く日』では坂柳は未来へ歩いていけた。
になるんです。
しかも今回の作品、『星空』よりさらに重要なのは、
綾小路が救えなかった後悔ではなく、隣を歩く存在になってること。
『星空』の綾小路は、失ってから動く、星を見える国にする。喪失が原動力でした。
でも『杖を置く日』では、倒れる前に支える、半歩後ろを歩く、
階段を見守る、一緒に歩く。
つまり、「間に合っている綾小路」なんです。
だから『坂柳有栖が杖を置く日』は、
『坂柳有栖の星空』で坂柳を失った綾小路に対し、
彼女を失わない未来を選んだ世界線だったのです。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
次回作として長谷部波瑠加を主人公にしたヒューマンドラマ、
「佐倉愛里が見ていた世界」を投稿します。
佐倉が退学した後、彼女が見ている世界を知りたいという理由から、
長谷部は「グラビアアイドル部」を立ち上げるというストーリーです。
途中までですが、第一話「愛里がいない日常」の試し読みをどうぞ。
◯
三学期初日。
高度育成高等学校の空気は、冬特有の乾いた冷たさに包まれていた。
文化祭の熱気も、修学旅行の騒がしさも、
冬休みの浮ついた空気も、すべてもう遠い出来事のように感じられる。
教室にはいつものように生徒たちの声が響いていたが、
それは二学期までとは少し違っていた。
進級。
卒業。
クラス争い。
将来。
そういう終わりを意識し始めた人間特有の落ち着かなさが、どこか漂っている。
だが、その空気から完全に取り残されている生徒が一人だけいた。
長谷部波瑠加は、窓際の席に頬杖をつきながら、
ぼんやりと端末画面を見つめていた。
画面の中では、一人の少女が笑っている。
白を基調にした衣装。
柔らかな照明。
少し大人びたメイク。
そして、カメラへ向けられた自然な笑顔。
『雫 冬の休日グラビア特集』
その文字を見つめる長谷部の目は、複雑だった。
コメント欄が流れていく。
『透明感えぐい』
『スタイル良すぎる』
『雫ちゃん最高』
『こんな可愛い子いたんだ』
長谷部は無意識に眉をひそめた。
指が止まる。
スクロール。
止まる。
またスクロール。
そんな動作を、もう何度繰り返したか分からない。
「また見てたのか」
不意に横から声が飛んできた。
長谷部は反射的に端末画面を伏せる。
「……まぁね」
隣に立っていた三宅明人が呆れたように肩をすくめた。
「別に隠さなくてもいいだろ」
「隠してないけど」
「いや完全に隠しただろ今」
長谷部は不機嫌そうに視線を逸らした。
三宅は苦笑しながら、自分の席へ鞄を置く。
少し遅れて、幸村輝彦も教室へ入ってきた。
「朝から騒がしいな」
「みやっちがうるさいだけ」
「俺!?」
幸村は二人のやり取りを見ながら小さく息を吐き、
自席へ向かおうとして――ふと長谷部の机に置かれた携帯端末を見た。
そこにはまだ、雫の笑顔が映っていた。
幸村は一瞬だけ黙る。
だが何も言わなかった。
その沈黙が、逆に長谷部には居心地悪かった。
「……なによ」
「いや、別に」
幸村は静かに席へ座る。
その反応に長谷部は少しだけ視線を逸らした。
分かっている。
二人とも、何も言わないだけだ。
佐倉愛里が退学してから。
綾小路グループは壊れた。
完全に。
以前のように馬鹿騒ぎすることもない。
綾小路清隆の名前も、ほとんど誰も出さない。
そして佐倉愛里――いや、雫の存在だけが、今も長谷部の中に残り続けていた。
毎日SNSを見ている。
雑誌もチェックしている。
動画も見ている。
新番組出演情報も確認している。
自分でも少し気持ち悪いと思う。
だが、やめられなかった。
彼女は退学したはずなのに。
もう学校にはいないはずなのに。
なのに佐倉は、以前よりずっと遠くで、ずっと大きな世界にいるように見えた。
そのことが、長谷部にはどうしても整理できなかった。
ホームルーム開始のチャイムが鳴る。
担任の茶柱佐枝が教室へ入ってきた。
相変わらず感情の薄い顔。
だが三学期だからか、どこか空気が柔らかい。
「席につけ」
生徒たちが動く。
長谷部は最後にもう一度だけ携帯を見た。
そこには、笑う佐倉。
まるで別人みたいに自然な笑顔。
長谷部は画面を消した。
授業は淡々と進んだ。
だが長谷部は、ほとんど内容を聞いていなかった。
ノートを取る手も止まりがちになる。
視線は何度も窓の外へ向いた。
冬空。
乾いたグラウンド。
遠くでは体育の授業か、体操服姿の生徒がグラウンドを走っている。
皆、それぞれ前へ進んでいる。
そんなことを、長谷部はぼんやり考えていた。
その時だった。
「長谷部」
突然名前を呼ばれ、長谷部は肩を跳ねさせた。
顔を上げる。
茶柱が無表情のままこちらを見ていた。
「話を聞いていないなら廊下に立つか?」
教室の空気が少しざわつく。
長谷部は顔をしかめながら椅子へ深く座り直した。
「いえ、聞いています……」
小さな笑いが起きる。
だがその笑いの中に、以前のような安心感はなかった。
授業終了後。
長谷部は一人で廊下を歩いていた。
窓の外から冷たい光が差し込んでいる。
そんな中、不意に後ろから声が飛んできた。
「長谷部さん」
長谷部の表情が一瞬だけ固まる。
振り返る。
そこにいたのは櫛田桔梗だった。
変わらない笑顔。
だが長谷部は、その笑顔を見るたびに胸の奥がざらつく。
「……なに」
自然と名字呼びすら出なかった。
櫛田は一瞬だけその反応に目を細めたが、すぐいつもの調子に戻る。
「そんな警戒しなくてもいいじゃん」
「別に警戒してないし」
「してるよー」
軽い声。
だが長谷部は視線を合わせない。
櫛田だけは、佐倉の今を知っていた。
芸能界へ戻ったことも。
雫として活動していることも。
全部。
だからこそ長谷部は、櫛田を完全には拒絶できない。
でも同時に、以前みたいに接することもできない。
「ねえ、雫ちゃんの新しい雑誌見た?」
長谷部の眉がわずかに動く。
「……見たけど」
「今回かなり人気みたいだよ」
「知ってる」
「そっか」
そこで会話が止まる。
昔なら、こんな沈黙はなかった。
だが今は違う。
長谷部はふと、櫛田の顔を見る。
綺麗だと思った。
いつも通り愛想が良くて。
空気も読めて。
男子にも女子にも好かれて。
見られることに慣れている人間。
そんな風に見えた。
すると櫛田が小さく笑う。
「なに?」
「……別に」
長谷部は視線を逸らした。
その日の放課後。
長谷部は一人でケヤキモールを歩いていた。
冬の夕暮れ。
ガラス越しの暖色照明。
学生たちの笑い声。
カップル。
買い物袋。
コーヒーの香り。
その全てが、どこか遠い。
長谷部は無意識にショーウィンドウを見る。
ガラスに映る自分。
長い髪。
170cmある身長。
厚手の制服の上からでも分かる身体。
昔から嫌だった。
小学生の頃から。
男子の視線。
「でけー」
「スタイルいいじゃん」
「やばくね?」
そんな言葉を向けられるたび、
自分の身体だけが勝手に切り取られていくようで気持ち悪かった。
だから隠してきた。
猫背気味に歩いて。
大きめの服を着て。
なるべく目立たないようにして。
なのに。
携帯を開けば、佐倉は笑っている。
見られる世界の真ん中で。
長谷部は立ち止まった。
そして小さく呟く。
「……愛里は、なんで平気なのよ」
当然、返事はない。
だがその時。
視界の端に、一枚のポスターが入った。
『新規部活動申請受付中』
長谷部は足を止める。
ポスターを見つめる。
しばらく動かなかった。
頭の中に、佐倉の笑顔が浮かぶ。
雫としてカメラへ向けられた、以前よりずっと自然な顔。
長谷部はゆっくり息を吐いた。
そして。
「……見てるだけじゃ、分かんないか」
誰にも聞こえない声でそう呟いた。
その目は、ほんの少しだけ前を向いていた。
◯
最後まで描かれた完全版は今日の午前0時に投稿予定してあります。
よろしくお願いします。