人間態:鬼方カヨコ。その正体はーーー   作:ていん?が〜

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話の流れにオリジナルが入っていますのでご注意を。


1986年side:嗜好・アブソリュートボーダー前編

 1986年、東京。

 

 次々と高層ビルが建設され、街全体が実体のない熱狂と好景気に沸き返る時代。

 

 その喧騒からほんの少し外れた路地裏に佇む喫茶店『カフェ・マル・ダムール』の店内には、どこか落ち着いた静まり返るような空気が流れていた。

 

 当時、全国を熱狂させた某アイドルグループのCDの曲が流れる店内でアルバイトとして働く麻生ゆりは、手にした布巾を異様な力で絞りながら、目の前の光景に対して猛烈な苛立ちを隠せずにいた。

 

 ゆりの視線の先、窓際の特等席に腰掛けている男。

 

 派手なチェック柄のスーツをこれ以上ないほどだらしなく着こなし、クルクルと髪を指先で弄んでいるその男の名を『紅音也』といった。

 

 彼は昨夜、あの大騒動の工事現場でゆりの邪魔をしてファンガイアを取り逃がした張本人であり、あろうことか翌日である今日……ゆりのバイト先であるこの店に何食わぬ顔で現れたのだ。

 

「おい、そこのお嬢さん。そうそう、この俺の最愛の恋人であるお前だよ。そんなに怖い顔をして布巾を睨みつけるんじゃない。せっかくの美しい顔が台無しだろ?」

 

 音也はテーブルに頬杖をつきながら、ゆりに向かってこれ以上ないほどにキザで甘ったるい視線を投げかける。

 

「……誰がアンタの恋人よ。ていうか、何でここが分かったわけ? ストーカーでも始めたの?」

 

 ゆりは声を限界まで低く抑え、殺意の籠った瞳で音也を睨みつけた。

 

「ストーカー? 人聞きの悪いことを言わないでくれ。俺ほどの天才ともなれば美しい女性がどこにいるかなど、魂の波長で全て理解できるのさ。いわば、愛のセンサー。それが俺をこの店へと導いてくれたんだ」

 

「はぁ? センサー? 脳みそにウジでも湧いてるんじゃないの?」

 

 ゆりが今すぐにでもカウンターを飛び越えて殴りかかりそうな雰囲気を察知し、それまで厨房で大人しくコーヒーを淹れていたマスターの木戸が、苦笑いを浮かべながら二人の間に割って入った。

 

「まぁまぁ、ゆりちゃん。お隣の席にも他のお客さんがいるんだから、そんなに大きな声で怒らないの。はい、君もね。ゆりちゃんへのちょっかいは、ほどほどにして、まずはうちの自慢の一杯を飲みなよ」

 

 木戸はにこやかな笑顔を保ったまま、丁寧に淹れた挽き立てのコーヒーを音也の座るテーブルへと静かに置いた。

 

 音也は差し出されたカップをチラリと一瞥すると、これ見よがしに深く溜息をつき、鼻で笑った。

 

「おいおい、嘘だろマスター。こんな泥水、誰が好き好んで飲むんだ? 俺の繊細な舌には、こんな苦いだけの飲み物は合わないんだよ。紅茶は無いのか? もちろん、砂糖とミルクをた〜〜〜っぷりと入れた極上のやつをな」

 

 その言葉を聞いた瞬間、木戸の顔から一切の感情が消え失せた。

 

 彼は音也に差し出したままの営業スマイルを完全に崩さないまま、首だけをカチカチと機械のようにゆりの方へと向けた。

 

「ゆりちゃん。コイツ出禁。今すぐつまみ出して」

 

「喜んで、マスター」

 

 ゆりはこれ以上ないほどに満面の笑みを浮かべると、目にも留まらぬ速さで音也の背後へと回り込んだ。

 

「え? ちょっと待っ――」

 

 音也が声を上げるよりも早く、ゆりの細い、しかし鍛え上げられた指先が音也の派手なスーツの首根っこをガッチリと鷲掴みにした。

 

「二度とアタシの前にそのツラ見せるな!」

 

 ゆりはそのまま音也の身体を軽々と引きずり回し、店の重い扉を勢いよく開け放つと、まるでゴミ袋でも投げ捨てるかのような無慈悲な力で外のアスファルトの上へと放り出した。

 

「うわっとっと!? ひどいなぁ、お嬢さ――」

 

 バァン!!!

 

 

 音也の情けない叫び声を遮るようにして、ゆりは激しい音を立てて扉を閉め、鍵を乱暴に回した。

 

 ふぅ、と深く息を吐きながら、衣服についた埃を払うようにして手をポンポンと叩いたゆりは、すぐさま店内のカウンターの隅へと視線を向け、表情を申し訳なさそうなものへと切り替えた。

 

「すみません、お客さん……。お騒がしいところを見せてしまって。本当に申し訳ありません」

 

 ゆりが深く頭を下げたその先に座っていたのは、トレンチコートを羽織り、頭に黒いベレー帽を深く被った一人の『風変わりな客』だった。

 

 

 カチャ……。

 

 

 その人物は、ゆりの怒号や音也の騒ぎなど最初から耳に入っていなかったかのように、極めて優雅な動作でコーヒーカップを受け皿へと戻すと、ベレー帽の縁にそっと白い指先をかけた。

 

 ゆっくりと帽子が上げられ、露わになったその容姿に、ゆりは思わず息を呑んだ。

 

 雪のように真っ白な美しい髪の中に、一筋の鮮烈な黒いメッシュ。そして、こちらをじっと見つめるその瞳は、まるで闇夜に咲き誇る薔薇のように妖しく赤い。

 

 その独特のオーラを放つ女――鬼方カヨコは、薄い唇の両端をほんの少しだけ吊り上げ、穏やかに微笑んだ。

 

「別にいいよ、賑やかなのは嫌いじゃないから。それに、このお店には初めて来たけれど……ここのコーヒーは本当に美味しいね」

 

 カヨコはそう言って、再びカップを口元へと運び、小さく喉を鳴らした。

 

 その言葉を聞いた瞬間、先ほどまで般若のような顔をしていた木戸が、一転して子供のように顔を真っ赤にして照れ始めた。

 

「いやぁ〜〜! 嬉しいこと言うじゃな〜〜い! 嬉しいねぇ! うちのコーヒーのこだわりが分かるお客さんが来てくれるなんて、マスター冥利に尽きるよ!」

 

 木戸は鼻の下を伸ばしながら、嬉しそうにカウンターの奥で新しい豆を挽き始める。

 

 

 その時だった。

 

 

 カヨコが座るカウンターのすぐ横、壁に内接された小さな犬小屋の中から、キャンキャンという高音の鳴き声とともに爪で金属をカリカリと引っ掻く軽快な音が響き渡った。

 

 カヨコが不思議そうにそちらに目を向けると、犬小屋の網の隙間から、まだ生後間もないであろう小さなラブラドール・レトリバーの子犬が、空っぽの餌皿をしきりに前足で引っ掻いている姿が見えた。

 

「あぁ、ブルマン。お腹が空いたのね。ゆりちゃん、ちょうどいいからブルマンにご飯をあげて」

 

 木戸がドッグフードの袋を指差しながらゆりに指示を出す。

 

 しかし、その言葉を聞いた瞬間、ゆりの顔はあからさまに引き攣り、一歩、また一歩と犬小屋から距離を取った。

 

「い、いやですよマスター! 何でアタシがそんなことしなきゃいけないんですか!」

 

 ゆりは完全に腰が引けており、子犬をまるで爆発物でも見るかのような目で見つめている。

 木戸はそんなゆりの様子に、心底呆れ返ったように大きな溜息をついた。

 

「ちょっと、ゆりちゃん。ブルマンはまだ生後2ヶ月だよ? まだ赤ちゃん。いくら君が極度の犬嫌いだからって、こんな小さな子が君を噛んだり襲ったりするわけがないじゃないの」

 

「小さくたって犬は犬です! 牙がある生き物は信用できません!」

 

 ゆりが頑なに拒絶し、店内に妙な空気が流れかけたその時、カウンターでコーヒーを飲み終えたカヨコが、静かにソファーから立ち上がった。

 

「それじゃあ……私が代わりに、その子に餌をあげようか?」

 

 カヨコの予想外の提案に、ゆりは驚いて目を丸くした。

 

「えっ!? い、いや、お客さんにそんなことまでしてもらうわけには……!」

 

「構わないよ」

 

 カヨコは首を横に振ると、怯えるゆりの前に歩み寄り、その肩をポンと優しく叩いた。

 

「苦手なものは、無理をして克服しなくてもいいんだよ。世の中っていうのはね、適材適所で回っているから。犬が好きな人が犬の世話をして、そうでない人は別の仕事をすればいい。……ね、マスター?」

 

「おぉ、素晴らしい意見だ! はい、これ、犬小屋の鍵とドッグフードね」

 

 木戸はカヨコの合理的な考えに感銘を受け、嬉々としてカウンターから小さな真鍮の鍵と、ドッグフードの詰まった大きな缶を差し出した。

 

「ありがとう」

 

 カヨコはそれらを受け取ると、トレンチコートの裾を揺らしながら、ゆっくりと犬小屋の前へとしゃがみ込んだ。

 

 カチャリ、と静かな音がして、犬小屋の頑丈な格子戸の鍵が開け放たれる。

 

「クゥン!」

 

 お腹を空かせていたブルマンは、待ってましたとばかりに勢いよく外へと這い出てこようとした。

 

 

 ――しかし。

 

 

 ブルマンの小さな身体は、目の前に佇むカヨコの姿を完全に視界に収めた瞬間、まるで全身が石化でもしたかのように、ピタリと、文字通り完全に動きを停止させた。

 

「……?」

 

 ゆりはその異様な光景に首を傾げた。

 

 ブルマンの、生後2ヶ月の小さな犬としての本能が、彼女の脳内に警報をけたたましく鳴り響かせていた。

 

 

 目の前にいる、雪のような髪をした生物。

 

 

 これは、これまで出会った人間や他のどんな生き物とも、根本的な『格』が違いすぎる。

 

 逆らえば、死ぬ。戦おうなどと考えた時点で、己の存在そのものが跡形もなく消滅させられる。

 

 本能がそう告げているにもかかわらず、生後2ヶ月のブルマンの未熟な頭脳では、この圧倒的な捕食者を前にして『逃げる』か『服従する』かという具体的な対処方法すら思い浮かばず、ただただ恐怖のあまり完全にフリーズするしかなかった。

 

 カヨコは、怯えきってブルブルと小刻みに震え始めた子犬の様子を冷徹に見つめながらも、表情を変えずにカラカラと小気味よい音を立てて餌皿にドッグフードを流し込んだ。

 

「犬は嫌いじゃないよ。彼らはとても賢い。自分と他者との『位置付け』が極めて上手だからね。自分が誰の下につくべきか、誰に逆らってはいけないかを、言葉がなくても理解できる」

 

 カヨコはそう言うと、恐怖で硬直しているブルマンの小さな頭の上に、そっと白い手のひらを置き、優しく撫で回した。

 

「……だけど、人間の世界はそうじゃない。世の中は、自分と相手との境界を理解できない馬鹿ばかりだ。自分の身の程を知らず、分不相応な場所に足を踏み入れる輩ほど……早死にする」

 

 カヨコはそう呟いた瞬間、ブルマンの頭を撫でる手の力をピタリと止め、その薔薇のように赤い瞳の奥に、凍えるような、底知れない残虐な笑みを浮かべた。

 

「(……っ!?)」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ゆりの背筋に、ゾクリとした言いようのない冷たい戦慄が走った。

 

 今、目の前にいるこの客から、まるで人間ではない何か……昨日戦ったあの化け物(ファンガイア)と同等、あるいはそれを遥かに凌駕するような、禍々しい気配を感じたような気がしたのだ。

 

「(気のせい……よね? アタシ、昨日の戦いのせいで、ちょっと過敏になってるのかも……)」

 

 ゆりは自身の胸元を強く押さえ、必死にその不安を思考の奥底へと投げ捨てた。

 

 

 その時、カランコロン、と店の入り口のドアベルが軽快な音を立てて鳴り響いた。

 

「やぁ、マスター。今日も良い天気だね」

 

 落ち着いた、しかしどこか芯の通った格式高い声とともに、仕立ての良い高級なスーツを身に纏った『一人の男』が店内に足を踏み入れてきた。

 その男の姿を見た瞬間、木戸はカウンターから文字通り飛び出す勢いで、満面の笑みを浮かべて駆け寄った。

 

「嶋ちゃ〜〜ん!! いらっしゃ〜〜〜〜い!! 待ってたよ!!」

 

 嶋と呼ばれたその男は、駆け寄ってきた木戸の様子に穏やかな微笑みを崩さないまま口を開く。

 

「マスター、挨拶代わりに早速聞かせてもらおうか。今日の体脂肪率は?」

 

 木戸は待ってましたと言わんばかりに、ふんっと鼻を鳴らし、自慢げに胸を張って言い放った。

 

「フッフッフ……驚くなよ、嶋ちゃん。今日の俺は、限界まで絞れてるんだ。なんと、17.1%さ! どうだい!」

 

 木戸のドヤ顔に対し、嶋はふっと不敵な笑みを浮かべ、自身のスーツの襟を軽く正した。

 

「悪いな、マスター。……俺は今朝の測定で、16.5%だ。今日も俺の勝ちのようだな」

 

「な、何だってぇーー!? クソ、また嶋ちゃんに負けたか……!」

 

 木戸は本気で悔しそうに頭を抱えると、嶋はそんな木戸の肩を「まぁ、明日また頑張ればいいさ」と優しく揉んで慰めた。

 木戸はトホホと情けない声を上げながら、カウンターの奥から真新しいノートを取り出し、今日の勝負結果を厳かに書き記し始めた。

 

 はたから見れば、中年男性二人が体脂肪率を競い合っているという、この上なく微笑ましく、かつシュールな日常の光景。

 

 しかし、麻生ゆりだけは、全く違う意味の緊張感を持ってその光景を見つめていた。

 『嶋がこの店に直接足を運んできた』。その事実が意味することは、ゆりにとっては『ただ一つ』しかなかった。

 

 ゆりは小さく息を吸い込むと、いつの間にかブルマンを抱き上げ、そして彼らの様子をじっと無言で見つめていたカヨコの方へと歩み寄った。

 

「すみません、お客さん……。本当に申し訳ないんですけど、急用が入ってしまいまして。今日のマル・ダムールは、これにて閉店とさせていただきます」

 

 ゆりは申し訳なさそうな声を出しながらも、その瞳には明確な『退店』を促す強い光を宿していた。

 カヨコは、ゆりのその目を一切の感情を排した冷徹な薔薇の瞳でじっと無言で見つめ返した。

 

「…………」

 

「…………」

 

 まるで店内の時間の流れが完全に停止してしまったかのような、息の詰まる一瞬の静寂。

 

 ゆりは、カヨコのその底知れない瞳に見つめられているだけで、心臓を冷たい手で直接握り締められているかのような、言いようのない強い不安と恐怖を覚えた。

 

 やがて、カヨコはフッと何事もなかったかのように小さく息を漏らすと、抱きしめていたブルマンを静かに床へと下ろした。

 

「……あぁ、そうか。それは残念。でも、長居しすぎたね。また来るよ、ご馳走様」

 

 カヨコはカウンターにコーヒー代の小銭をきっちりと置くと、トレンチコートの襟を立て、ベレー帽を深く被り直した。

 彼女は一度も振り返ることなく、カランコロンとドアベルを鳴らして、バブルの熱気に満ちた外の街へと消えていった。

 

 カヨコの気配が完全に消え去ったのを肌で確認した瞬間、それまで朗らかな笑顔を浮かべていた嶋の顔から、まるで仮面を剥ぎ取るかのようにして、一切の感情が消え失せた。

 

「マスター。ゆりくんと大事な話があるんだ。少し、席を外してくれないだろうか」

 

 嶋の声は、先ほどまでの体脂肪率を競い合っていた男のものとは違う冷たさを宿していた。

 

「あ、あぁ……ハイハイ。分かったよ。ブルマン、私と一緒にあっちに行こうねぇ〜」

 

 木戸もその空気の変化を察し、怯えて震えるブルマンを素早く抱き上げると、そそくさと店の奥のプライベートスペースへと姿を消した。

 

 ガチャン、と奥の扉が閉まり、広い店内には嶋とゆりの二人だけが取り残された。

 

「座りなさい、ゆりくん」

 

 嶋はそう言って、自身がテーブル席のソファーへと腰掛けた。ゆりも緊張感に背筋を伸ばしたまま、嶋の真っ正面の席へと静かに着席する。

 

 そして嶋は、重々しく口を開く。

 

「ここ最近、都内において、3人の若い女性バイオリニストが相次いで失踪する事件が起きている」

 

「バイオリニストが……失踪?」

 

「そうだ。現場には、争った形跡とともに、大量の不自然なガラス片が散乱していた。警察はただの凶悪な誘拐、あるいは行方不明事件として調査を進めているが……彼らが真実に辿り着くことは決してない。なぜなら――」

 

 嶋は一度言葉を区切り、より一層声を低くした。

 

「彼女たちは全員、すでに殺されている。……『ファンガイア』によってな」

 

 この男ーー『嶋護(しま まもる)』は、人間の命を奪う人類の天敵・ファンガイアを秘密裏に狩るための対ファンガイア組織『素晴らしき青空の会』の創設者であり、その最高責任者であった。

 

 そして目の前にいる麻生ゆりは、その会に属し、戦士として選ばれた若き精鋭であり、罪なき人々を守るために日夜命を懸けてファンガイアとの戦いに奔走している。

 

 ゆりは拳を強く握りしめ、悔しげに奥歯を噛み締めた。

 

「また、あの化け物どもの仕業ですか……! 奴ら、人間を何だと思ってるんだ……!!」

 

「あぁ。先日の不動産会社社長である津上の件は、君の奮戦虚しく取り逃がす形となってしまい残念だったが、奴も馬鹿ではない。自身の正体が『素晴らしき青空の会』に割れたと察知した以上、しばらくの間は表立って活動することはないだろう。……しかし、今回の事件には、『非常に深刻な問題』があるんだ」

 

「問題……ですか? 奴らの目的は、いつだって人間のライフエナジーを吸うことでしょう?」

 

 ゆりが問いかけると、嶋はまるで苦虫を噛み潰したかのような、これまで見たこともないほどに険しい表情を浮かべた。

 

「目的は同じだ。だが……今回の事件の犯人である、バイオリニストたちを食い殺したファンガイアの『個体の特定』が、我々の情報網を以てしても、未だに一切できていないんだ」

 

「えっ……!?」

 

 ゆりは驚愕のあまり、思わずソファーから身を乗り出した。

 

 『素晴らしき青空の会』の網羅された高度な調査能力を以てしても、正体を一切掴ませないファンガイアが存在する。

 いつもであれば、嶋がゆりに任務を言い渡す段階では、敵の人間態の身元や潜伏先、行動パターンは完全に特定されているのが常だった。

 

 その嶋が、犯人が誰なのか全く分からない状態でわざわざ話を持ってきた。その事実が意味する答えに、ゆりは瞬時に行き着いた。

 

「……つまり、次の犠牲者が出る前に、先手を打って『護衛』をしろ……ということですか?」

 

「その通りだ。察しが良くて助かるよ、ゆりくん」

 

 嶋はスーツの懐から、静かに2枚の写真をテーブルの上へと滑らせた。

 

「彼女の名は宮澤ひとみ。現在、海外での活躍が最も期待されている、日本屈指の若き天才バイオリニストだ。これまでの被害者の共通点、そしてその社会的ステータスの高さを考慮すれば……敵のファンガイアが次に狙うターゲットは……間違いなく彼女だ」

 

 ゆりはテーブルの上の写真をそっと手に取った。

 

 そこには、美しいドレスを身に纏い、目を閉じて魂を込めるようにしてバイオリンを奏でている、一人の可憐な女性の姿が写し出されていた。

 

「(この人は……アタシが絶対に守る。昨日の津上みたいな失態は、二度と繰り返さない……!)」

 

 ゆりは写真の中の女性の姿をその瞳に強く焼き付け、闇に潜む人類の敵を必ずや駆逐してみせるという強い誓いを、その胸の奥底でより一層固く激しく燃え上がらせるのだった。




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