1986年編中編です。
1986年、東京。
ネオン輝く都会の街角を、一人の男が足早に歩いていた。
派手なチェック柄のスーツ。右の頬は大きく腫れ上がり、痛々しい赤紫色の打撲痕を残している。
麻生ゆりに渾身の右ストレートを叩き込まれた被害者――紅音也であった。
「痛たたた……。あいつ、いくらなんでも容赦なさすぎだろ。女のパンチじゃねえぞ、ありゃ……」
音也は腫れ上がった頬を片手で優しく擦りながら、情けない声を漏らした。
しかし、もう片方の手にはしっかりと、あの白い毛皮付きの高級なバイオリンケースが握られている。
彼はポツリポツリと歩を進めながらも、どこか楽しげに口元を緩めた。
「……だけどまぁ、悪くない。あんな気強い女も、たまには刺激的で素晴らしいじゃないか。俺の芸術的インスピレーションがメラメラと沸き立ってくるのを感じるよ」
どんな災難に見舞われようとも、数秒後には独自のプラス思考へと変換してしまうのが、この男の底知れない強みであった。
音也は軽やかな足取りで大通りから少し外れた、風情ある石畳の路地へと折れ曲がった。
その時だった。
音也の視界の端に、一筋の息を呑むような『光』が飛び込んできた。
「……ん?」
音也は足を止め、じっとその方向を見つめた。
通り沿いに咲く満開の桜の木の下。柔らかな木漏れ日を浴びながら、佇んでいる一人の女性の姿があった。
艶やかな漆黒の髪。その身に纏うのは、絢爛豪華でありながらも上品な意匠が施された、見事な和装の着物。
横顔だけで分かる、白磁のように滑らかな肌と、浮世離れした絶世の美貌。
ドキュゥゥゥゥン!!!
音也の脳内で、まるで落雷でも落ちたかのような激しい衝撃音が鳴り響いた。
「(な……なんだ、あの美しさは……!? まるで、絵画からそのまま抜け出してきたかのような……いや、それ以上の至高の芸術だ……!!)」
腫れていた頬の激痛など、一瞬にして頭の彼方へと吹き飛んでいた。
音也は手にしたバイオリンケースを持ち直し、まるで吸い寄せられるかのように、軽やかな足取りでその着物の美女へと近づいていった。
「……あぁ、神様。俺は今、奇跡を目撃している」
音也は彼女のすぐ目の前でピタリと立ち止まると、溢れ出る情熱を抑えきれない様子で、朗々と声を張り上げた。
「君という存在に出会うために、俺のこれまでの人生はあったのかもしれない……!」
音也は一切の躊躇もなく、彼女の白く細い手元へ向かって自らの両手を伸ばし、その滑らかな手をそっと、しかし力強く包み込んだ。
突然の手の握られ方に、着物の美女は驚く素振りすら見せなかった。
彼女はゆったりとした動作で音也の方へと向き直ると、薄い桃色の唇を優しく綻ばせ、クスクスと鈴の鳴るような愛らしい笑い声を漏らした。
「あらあら、まぁまぁ……。随分と情熱的な殿方ですことですこと」
その声の甘やかさ、そして目の前で放たれた至高の微笑みに、音也は完全に鼻の下を伸ばし、蕩けたような顔になった。
「俺の名は紅音也! 天才バイオリニストだ! 君のような美しき女神に出会えた喜びを、どう表現すればいいか分からない!」
「ふふ、お上手ですのね。申し遅れましたわ……」
美女はそっと片手を頬に当て、その黄金の瞳を妖しく煌めかせながら、艶やかに告げた。
「ワカモと申します。……紅音也様♪」
「ワカモちゃん……! なんて素晴らしい響きだ! 運命だ、これは絶対に運命の出会いだ!」
音也は歓喜に身を包み、彼女の手を握りしめたまま、自身の放つ『愛の言葉』の旋律にどこまでも酔いしれていた。
その音也の歓喜の顔を、ワカモはまるで可愛い毛玉の玩具でも眺めるかのような冷徹で残酷な愛おしさを秘めた目で見つめ返していた。
場面は変わり、都心の一角に佇む格調高い音楽ホール『サントリーホール』の楽屋裏。
静まり返る長い廊下を、麻生ゆりは緊張感の漂う足取りで歩いていた。
今の彼女は品のあるフォーマルなスーツに身を包み、胸元には『関係者立入許可証』のIDカードが下がっている。
「(よし……。ここが、宮澤ひとみさんの楽屋ね)」
ゆりはドアの前で一度深く息を吸い込み、心を落ち着かせると、静かにドアを叩いた。
コン、コン。
「はい、どなたですか?」
中から聞こえたのは、鈴を転がすような可憐な女性の声だった。
「失礼します。本日より、宮澤さんの専属マネージャーとして着任いたしました、麻生ゆりです」
ゆりがドアを開けて足を踏み入れると、そこは広々とした豪華な楽屋だった。
姿見の鏡の前で、美しい銀色のドレスに身を包んだ可憐な女性――宮澤ひとみが、姿見越しにゆりへと向かって丁寧に一礼した。
「初めまして、麻生さん。宮澤ひとみです。今日からよろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。……ひとみさん、本日のスケジュールですが、夕方のリハーサルまでに少々お時間がございます。体調などにお変わりはありませんか?」
ゆりは手元の手帳に目を通しながら、テキパキとビジネスライクに言葉を紡ぐ。
そう、ゆりの本当の目的は、マネージャーという立場を利用して、常にひとみの至近距離に潜み、姿なきファンガイアの魔手から彼女を物理的に完封・警護することにあった。
ひとみは姿見の前から振り返り、柔らかく微笑んだ。
「ええ、体調はバッチリです。……それに、もうすぐレッスンの先生がいらっしゃる予定なので、それまで少し指のウォーミングアップをしようと思っていたところなんです」
「先生……? ひとみさんのような天才バイオリニストに指導されるコーチがいらっしゃるんですか?」
ゆりが不審そうに首を傾げた、まさにその時だった。
ガチャリ。
楽屋の分厚い扉が、遠慮のない音を立てて無造作に開け放たれた。
「やぁやぁ、ひとみちゃん! 今日の調子はどうだい? 君の可憐なバイオリンの音色を聴くために、この俺様が直々に足を運んであげたよ!」
「なっ……! 貴様ぁぁぁ!!!」
ゆりは目を見開き、叫んだ。
入り口に立っていたのは、右頬を真っ赤に腫れ上がらせ、これ見よがしにバイオリンケースを抱えたあの男――紅音也だったのだ。
ゆりは速攻で音也の胸元へと詰め寄り、その衣服の襟を掴んで強引に部屋の外へと押し出そうとした。
「ちょっとアンタ! ここをどこだと思ってんのよ! 関係者以外立ち入り禁止なの! とっとと出て行きなさい!!」
「痛い痛い痛い! やめろ暴力女! 俺は不審者じゃない! 正真正銘の関係者だ!」
揉み合う二人を見て、ひとみが慌てて間に割り込んできた。
「あ、あの! 麻生さん、やめてください! 彼が私の……私のコーチの、紅先生なんです!」
「はぁ!? コーチ!? こんな奴が!?」
ゆりは耳を疑った。こんなストーカー気質のチャラ男が、日本屈指の天才バイオリニストの指導者など、悪い冗談としか思えなかった。
ひとみは申し訳なさそうに眉を下げながら、音也の方をチラリと見た。
「はい……。紅先生は、昔は本当に凄腕のバイオリニストで……その演奏の美しさは、今でも語り継がれているくらいでーーー」
ひとみはそこまで言ったところで、突如としてその言葉を途切れさせた。
ピタリと、彼女の動きが静止する。
「ひとみさん……?」
ゆりが不思議そうにひとみの顔を覗き込んだ。ひとみの顔からは、みるみるうちに血の気が引き、その瞳は恐怖で限界まで大きく見開かれていた。
彼女の視線は、音也に向いているのではない。
音也の背後――彼が開け放った扉の陰から、ひょっこりと可愛らしく顔を覗かせた『1人の女性』の姿に固定されていたのだ。
その女性は、艶やかな着物を着こなし、斜めに白い狐のお面を頭に引っ掛けていた。
音也の後ろから楽屋へと足を踏み入れてきたその女――狐坂ワカモであった。
「うふふ……♪ お邪魔いたしますわ、可愛いバイオリニストさん」
ワカモは和装の袖で口元を覆いながら、楽しそうにクスクスと笑っていた。
ゆりは完全に凍りついているひとみの異変には気づかず、ワカモの派手な着物姿を見て、再びマネージャーとしての警戒感を露わにした。
「ちょっと、貴女……! この男の連れか何か知りませんけど、ここへ関係者以外は入れないんです。困りますので、外へ出ていってください」
ゆりがワカモへ向かって一歩踏み出し、追い出そうとした、その瞬間だった。
「やめてっ!!!!!!」
楽屋全体に響き渡るような、甲高い悲鳴のようなひとみの叫び声が上がった。
「っ!?」
ゆりは驚愕して振り返った。
ひとみは全身をガクガクと激しく震わせ、涙目になりながら、必死の相好でゆりへと向かって手を伸ばしていた。
「ひ、ひとみさん……? 一体どうしたんですか……!?」
ゆりの問いかけに、ひとみはハッと我に返ったように呼吸を整えようとした。しかし、その顔は青ざめたままであり、視線はワカモから片時も外すことができない。
「あ……か、彼女は……! 彼女は、私の……私の昔からの『知り合い』なの……! だから……だから、大丈夫なんです……!」
ひとみは震える声を振り絞り、無理やり引きつった笑みを浮かべてみせた。
「どうぞ……ゆっくりしていってくださいね、ワカモさん……」
「うふふ……。お気遣い、感謝いたしますわ、宮澤ひとみ様♪」
ワカモは殊更に恭しくお辞儀をしてみせた。
ゆりの背後で、ワカモの黄金の瞳がギラリと怪しく光る。彼女の口元は、怯えきったひとみの様子を心の底から嘲笑うように、醜悪なまでにニヤニヤと歪んでいた。
ゆりは違和感を覚えながらも、ひとみが『知り合い』と言った以上、強く追及することができず、不満そうに腕を組むしかなかった。
楽屋の中に、歪で、血の匂いのする不穏な静寂が満ちていく。
音也だけが「いやぁ、ワカモちゃんがついてきてくれて、俺も鼻が高いよ!」と脳天気に笑っている声を、ワカモのニヤニヤとしたほくそ笑みが、静かに包み込んでいた。
ここまで見ていただきありがとうございます!
次の過去編後編ご終わりましたら現代編に突入します。