原作で描かれなかった場面の補足です。
書きたいところを欠くので、かなり飛び飛びになると思います。
文章の出力の大部分をAIに頼っています。

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二年生編七巻までのネタバレが含まれます。


上書き

 二年生、十月二十日。

 

 その日付がカレンダーの上で巡ってきたからといって、日常に劇的な変化が訪れるわけではない。高度育成高等学校という隔離された箱庭において、朝のチャイムはいつもと同じ平穏な音色で鳴り響き、生徒たちはそれぞれの思惑を抱えながら席に着く。

 

 しかし、その「いつもと同じ」という景色の内側には、確実に修復不可能な亀裂が刻まれていた。

 

 教室の片隅。窓際から数えて数番目の位置にあるはずの、ある一つの席。

 

 そこには今、机も椅子も存在しない。ただ、不自然なほどの空白だけがそこに居座っていた。

 

 満場一致特別試験において、佐倉愛里がこの学校を去ってから、それなりの日数が経過している。学校側の手際は残酷なほどに素早く、退学者が決定した翌日には、彼女がそこに存在していたという物質的な証拠はすべて片付けられていた。

 

 主を失った空間は、クラスの空気を物理的に冷え込ませる装置として機能しているようだった。

 

「……おはよう、清隆」

 

 登校してきた三宅明人が、俺の席の横を通り過ぎる際、小さく声をかけてきた。

 

 その声は低く、どこか義務的な響きを帯びている。俺はいつも通り、無表情のまま「ああ、おはよう」とだけ返した。三宅はそれ以上言葉を続けることなく、自分の席へと向かい、鞄を下ろす。

 

 少し離れた席では、長谷部波瑠香が俯いたまま端末の画面を眺めていた。彼女の周囲には、かつて綾小路グループとして集まっていた頃の、あの賑やかで居心地の良い空気は微塵もない。幸村輝彦もまた、眼鏡の奥の瞳を参考書に向けたまま、周囲との接触を意図的に断っている。

 

 佐倉の退学という選択。それはクラスが導き出した冷徹な最適解だった。だが、感情を持つ人間という生き物にとって、論理の正当性は必ずしも心の救済にはならない。

 

 バラバラに瓦解した綾小路グループの現状は、俺が下した決断の代償そのものだった。

 

「みな、席に着け。ホームルームを始める」

 

 前方の教壇に、担任の茶柱が立つ。

 

 彼女の視線が、一瞬だけ佐倉のいた空白のスペースへと向けられ、すぐに何事もなかったかのようにクラス全体へと広がった。大人であり、教師である彼女にとっても、この光景は思うところがあるのだろう。だが、特別試験を乗り越えた生徒たちに感傷に浸る時間は与えられていない。

 

「体育祭が終了し、君たちの努力によってクラスは一定の成果を得た。だが、息を抜く暇はない。すでに告知している通り、十一月には『文化祭』が控えている。出し物の選定、 人員の配置、予算の管理。やるべきことは山積みだ。」

 

 茶柱の言葉に、クラスの何人かが小さく息を吐く。

 

 お祭り騒ぎの裏で、クラスの命運を賭けたポイントの攻防が行われるのが、この学校の文化祭だ。

 

 前方の席に座る堀北鈴音の背中を見る。彼女の肩には、今やクラスを牽引するリーダーとしての重圧がずっしりと乗っているはずだ。

 

 今回の文化祭において、堀北クラスは一つの大きな一手をすでに打っている。

 

 龍園翔率いるクラスとの間における、水面下での協定の締結だ。

 

 お互いの出し物や戦略を調整し、無駄な潰し合いを避けるための裏の協力関係。

 

 その事実を、俺は把握していた。龍園の性格を考えれば、いつ背後から刺されるか分からない協定だが、俺の中に強い警戒感はない。俺という存在が透けて見えている以上、彼が無謀な博打に出るリスクを冒すはずがなかった。それよりも今は、目の前のクラスの出方が重要だ。

 

「……ふぅ」

 

 隣の列から、小さく、しかし聞き覚えのある吐息が聞こえた。

 

 視線をそちらに向けると、軽井沢恵が自分の髪を指先で弄びながら、退屈そうに黒板を眺めていた。

 

 俺と恵が交際しているという事実に、今やクラスだけでなく、他クラスの一部の生徒にも広く知れ渡っている。隠す必要がなくなった関係性は、学校生活において奇妙な安定をもたらしていた。

 

 恵は一瞬だけ、俺の方へと視線を走らせた。

 

 俺の無表情な顔と視線が交差する。彼女はほんの少しだけ口元を綻ばせ、すぐに何事もなかったかのように前を向いた。

 

 クラスの冷え切った空気、文化祭に向けた足音、状況を冷静に見つめる視線。

 

 その中で、俺の誕生日は、静かに幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 十月二十日の誕生日から、多少遡ったある日。

 

 俺と恵は、ケヤキモールの大型家電量販店の中にいた。俺の誕生日プレゼントを二人で選ぶためだ。

 

 数ある空調家電の前で、機能性や静音性、部屋の平米数に対するコストパフォーマンスを俺が淡々と吟味した結果、ようやく一台の小型空気清浄機が購入対象として決定した。店内でスペックを比較する段階は終わり、俺たちはレジカウンターへと向かう。

 

「……本当にそれでいいのね? 何だか最後まで、あんたの部屋の書類整理でもするような顔で選んでたけど」

 

 レジの列に並びながら、恵が少し呆れたように俺の顔を覗き込んできた。

 

「俺にとっては最高の選択だ。実用性に優れているし、冬に向けた体調管理の投資としても申し分ない」

 

「はいはい、分かったわよ。じゃあ、配送の手続きは私がやるから。あんたの誕生日の当日にちゃんと届くように指定しなきゃ意味ないでしょ」

 

 恵は店員から伝票を受け取ると、慣れた手つきで俺の部屋の番号と、十月二十日の日付を記入していく。プライベートポイントでの決済を済ませ、無事に手続きが完了したところで、俺たちは家電量販店の自動ドアをくぐり、モールの通路へと出た。

 

 交際を公にしてからというもの、校内やモールでの俺たちに対する周囲の視線は変化していた。

 

 最初の頃こそ「まさかあの二人が」という驚きや好奇の目が大半を占めていたが、時間が経つにつれて周囲もこの関係を既定路線として受け入れ始めている。その副産物として、他の女子生徒が俺に対して必要以上に親しく話しかけてくる機会が、目に見えて減少していた。軽井沢恵という、クラスの女子の頂点に位置する存在の縄張りに、あえて波風を立てようとする者はそういない。佐藤麻耶にしても、今では恵の友人としての立場を徹底しており、俺個人との距離は適切に保たれている。交際公認という事実は、俺にとって不要な人間関係のノイズをシャットアウトするための、強固な防壁としても機能していた。

 

 モールの雑踏の中、恵はごく自然な動作で俺の腕に自身の腕を絡めてきた。その拍子に、彼女のニットの襟元から、一本の細いチェーンが滑り落ちる。

 

 その先端で揺れていたのは、小さなハートのネックレスだった。

 

 一年生の最後の春。俺が彼女に手渡した、誕生日プレゼント。

 

 当時、彼女を繋ぎ止めるための『最適解』として選んだそのアクセサリーを、恵は今でも大切に身につけている。学校の制服の下にも、休日の私服の時も、それが彼女の肌から離れることはほとんどない。

 

「さて、大物は買ったし、次に行くわよ。他のお店も絶対に付き合いなさいよね!」

 

 恵は俺の腕を引いて、モール内の他のエリアへと歩き出した。

 

 彼女の要望で訪れたのは、若者向けの服飾店や、少しお洒落な輸入雑貨を扱うショップだった。彼女は自分の服を選ぶわけでもないのに、メンズのコーナーで「これ、清隆に似合うんじゃない?」と派手なパーカーを合わせてみたり、アロマキャンドルのコーナーで「これ、どんな匂いがすると思う?」と俺の鼻先に瓶を突きつけてきたりした。

 

「あまり俺の趣味に合わせると、部屋が奇妙な空間になりそうだが」

 

「いいの。あんたの部屋を、少しずつ私の趣味で侵食していくのが楽しいんだから」

 

 恵はいたずらっぽく笑い、小さなクッションカバーを手に取った。

 

 彼女との時間は、ホワイトルームで教わったあらゆる効率の理論から逸脱している。どの店に入るか、何を買うか、そのすべてに明確な論理的根拠はなく、ただ『楽しいから』という感情の赴くままに時間が消費されていく。

 

 だが、その無駄と不合理の連続こそが、俺にとっては新鮮な学習データであり、軽井沢恵という人間を理解するための不可欠なプロセスだった。

 

 

 

 

 

 

 放課後。

 

 ホームルームが終了した教室では、すぐさま文化祭に向けた机の移動が始まっていた。

 

 男子生徒たちが声を掛け合いながら、教壇の前に広いスペースを作っていく。

 

 俺は自分の席に座ったまま、その光景を静観していた。割り振られた作業がない時間は、周囲の観察に費やすのが最も有意義だ。

 

「綾小路くん」

 

 前方から、感情の起伏を削ぎ落としたような声がかけられた。

 

 見上げると、堀北鈴音がノートを脇に抱えた状態で、俺の机の前に立っていた。その瞳はいつも通り、他者を容易に寄せ付けない鋭さを保っている。

 

「何か用か、堀北」

 

「ええ。今日の放課後、文化祭の出し物の予算配分について、少しあなたに意見を聞いておきたいのだけれど。受け取った資料の件で、確認したい部分があって」

 

 堀北の物言いは極めて事務的だった。クラスのリーダーとしての職務を全うしようとする、彼女らしい生真面目さだ。

 

「悪いが、その件は明日にしてくれないか。今日は少し先約がある」

 

「先約?」

 

 堀北は眉をわずかにひそめ、俺の顔を凝視した。それから、教室の反対側で女子グループの中心にいながらも、時折こちらを気にするように視線を向けている軽井沢恵の存在に気づいたのだろう。堀北はフッと、小さくため息をついた。

 

「……そう。今日だったわね。忘れていたわけではないけれど、わざわざその日に仕事を押し付けるほど、私は無神経ではないわ。邪魔をするつもりはないから、行きなさい」

 

「助かる」

 

「勘違いしないで。明日からはしっかりと働いてもらうから。それと……一応、おめでとうと言っておくわ」

 

 堀北はそれだけ言うと、背を向けて黒板の方へと歩いていった。彼女なりの配慮と距離感なのだろう。必要以上に踏み込まず、しかし最低限の祝意を口にするあたり、彼女の対人関係のスキルも一年前と比べればそれなりに向上していることが窺える。

 

 俺が鞄を持って席を立とうとした時、平田洋介が歩み寄ってきた。

 

「誕生日おめでとう、清隆くん。これ、僕から……いや、クラスの何人かから募ったお祝いとして、受け取ってほしい」

 

 洋介が差し出してきたのは、シンプルなブックカバーだった。

 

「ありがとう、洋介」

 

「いいんだ。本当は、もっとみんなで集まってお祝いできたら良かったんだけどね……。でも、今はみんな文化祭に向けて必死だから。軽井沢さんにも、よろしく伝えておいてよ」

 

 洋介はそう言って、優しく微笑んだ。佐藤たちの女子グループが直接俺に近づいてこなかったのは、おそらく洋介が間に入り、クラス全体のバランスと恵への配慮を考慮して、代表として手渡す形を取ったからだろう。彼のこうした細やかな調整能力は、やはりこのクラスの維持に不可欠だ。

 

 廊下に出ると、秋の冷たい風が窓から吹き込んできた。

 

 すれ違う生徒たちの多くは、文化祭の準備のために忙しなく動いている。

 

 寮へ向かう並木道を歩きながら、俺はポケットの中で振動した端末を取り出した。

 

 『今日の夜、六時に部屋に行くから。遅れないでよね』

 

 差出人は、軽井沢恵。

 

 その短いメッセージが、今日という一日の本番がこれから始まることを告げていた。

 

 

 

 

 

 

 午後五時五十五分。

 

 制服から私服のシンプルなカットソーに着替えた俺は、部屋のベッドの縁に腰掛けていた。

 

 部屋の隅では、数日前にケヤキモールで購入したあの小型空気清浄機が、微かな稼働音を響かせている。ディスプレイに表示されたインジケーターは『良好』を示しており、確かに部屋の空気が微かに澄んでいるような感覚があった。

 

 静かな部屋にインターホンの音が鳴り響く。

 

 時計の針は、正確に午後六時を指そうとしていた。

 

 俺は立ち上がり、無表情のままドアを開けた。

 

「誕生日おめでとう、清隆!」

 

 扉の向こうにいたのは、少し大きめのトートバッグを両手で抱え、満面の笑みを浮かべた軽井沢恵だった。外の冷気に晒されていたせいか、彼女の白い頬はほんのりと赤みを帯びている。

 

「ああ、ありがとう。入ってくれ」

 

「もう、相変わらず顔が固いんだから。少しは嬉しそうな顔しなさいよね」

 

 恵は不満げに唇を尖らせながらも、慣れた足取りで部屋へと入り、靴を脱いだ。

 

 彼女が部屋に足を踏み入れた瞬間、それまで空気清浄機が保っていた無機質な空間の匂いが、一瞬で彼女のまとう甘い香水とシャンプーの香りに塗り替えられていく。

 

「あ、本当に使ってくれてるじゃん、空気清浄機。どう? 効果ある?」

 

「ああ、非常に助かっている。音が静かで、夜でも気にならないな」

 

「ふーん、なら合格。私のセンス、間違ってなかったでしょ?」

 

 得意げに胸を張る恵の首元で、あのハートのネックレスがきらりと光った。

 

 彼女はトートバッグをテーブルの上に置くと、中から手際よく容器を取り出し始めた。

 

「はい、これ。ケヤキモールのお店で買っといたチキンとサラダ。それから……じゃーん! 特製ケーキ!」

 

 テーブルの上には、手のひらサイズの可愛らしいカットケーキが二つ並べられた。色鮮やかなイチゴが乗ったショートケーキと、濃厚そうなチョコレートケーキだ。

 

 恵はフォークを俺に手渡すと、少し照れくさそうに微笑んだ。

 

「ほら、清隆はお茶淹れて」

 

「ああ、分かった」

 

 二人でテーブルを挟んで向かい合い、小さな誕生会が始まった。

 

 恵が用意してくれた料理はどれも美味しく、彼女の会話は途切れることなく続いた。

 

「そういえばさ、放課後、洋介くんからプレゼント受け取った?」

 

「ああ。ブックカバーを貰った」

 

「あ、やっぱり。佐藤さんたちがさ、『直接渡すのは恵に悪いから平田くんに託す』って言ってたんだよね。もー、私をなんだと思ってるんだか」

 

 恵は少し呆れたように笑いながらも、その表情にはどこか満足そうな響きがあった。交際が公になったことで、周囲が自分たちの関係を尊重している事実が、彼女の精神的な安定に大きく寄与しているのは間違いない。

 

 彼女は、佐倉愛里の退学についてや、クラスの綾小路グループの現状については、あえて一言も触れなかった。それが彼女なりの気遣いだった。

 

 恵は、俺がどのような意図を持ってあの特別試験で動いたのか、その詳細を深くは知らない。だが、彼女は俺を信頼し、俺の選択を受け入れると決めている。かつて『宿主と寄生虫』という歪な利害関係から始まった俺たちの繋がりは、今やその領域を遥かに超え、強固な感情の絆へと昇華していた。

 

「美味しいか?」

 

 俺の問いかけに、恵は一瞬だけ驚いたように目を見張り、それから本当に幸せそうな笑顔を浮かべた。

 

「うん、すっごく美味しい。……清隆と一緒に食べられて、本当に良かった」

 

 その笑顔を見つめながら、俺は一言も発せず、ただ彼女の歩調に合わせて時間を消費し続けた。

 

 

 

 

 

 

 食後の片付けを二人で済ませた後、部屋の明かりを落とし、ベッドサイドの間接照明だけを点灯させた。

 

 琥珀色の柔らかな光が、室内の輪郭をぼやけさせ、外の喧騒から完全に隔離された二人だけの空間を作り出す。

 

 俺と恵は、ベッドの端に並んで腰掛けていた。

 

 わずかに触れ合う肩から、彼女の体温がダイレクトに伝ってくる。食事中の賑やかな雰囲気とは一転し、部屋の中には濃密な沈黙が流れ始めていた。

 

 付き合い始めてから、それなりの時間が経過している。

 

 手を繋ぐこと、抱きしめ合うこと、そしてキスを交わすこと。それらの行為は、すでに俺たちの間で特別なことではなく、日常の延長線上にある儀式のようなものになっていた。

 

 しかし、その『先』にある決定的な領域――肉体関係には、俺たちはまだ至っていない。

 

 それが何を意味するのか。

 

 俺にとっては、軽井沢恵という存在を通じて『恋愛』という不確定な感情のステップを正しく学ぶための、段階的なプロセスに過ぎない。急ぐ必要はどこにもなく、最も効果的なタイミングとその手順を踏むことが重要だった。

 

 今日という特別な日。彼女の警戒心が最も薄れ、俺への親愛が最高潮に達しているこのタイミングは、実験のフェーズを一段階進めるための、これ以上ない最適の機会と言えた。

 

 彼女の精神的な境界線が、今どこまで俺を受け入れる準備ができているのか。それを測定する必要がある。

 

 俺は隣に座る恵の方へと、静かに視線を向けた。

 

「恵」

 

「ん? なに、清隆」

 

 恵は小首を傾げ、無防備な笑みを浮かべてこちらを見た。その信頼に満ちた瞳に向けて、俺は一切の感情を排した声で、淡々と要求を切り出した。

 

「お前の傷を見せてくれないか」

 

「え――」

 

 恵の笑顔が、一瞬で凍りついた。

 

 部屋の空気が、目に見えて緊張感で張り詰めていく。彼女の顔から急速に血の気が引き、唇が微かに震え始める。

 

「な、何言ってるの……? 冗談、だよね?」

 

「本気だ。かつて船の上でお前の傷を確認したが、今の段階のお前を、もう一度正しく把握しておきたい。 」

 

 俺の言葉は、冷徹でありながらも、どこか拒絶を許さない絶対的な響きを帯びていた。

 

 恵にとって、その傷跡は自らの最も醜い過去の象徴であり、他者に晒すことは死よりも恐ろしいはずのタブーだ。いくら恋人である俺の要求とはいえ、その防衛本能が激しい拒絶反応を起こすことは容易に予測できた。

 

 恵は激しく葛藤していた。自分の最も見せたくない部分を暴かれる恐怖と、それを求めてくる俺への絶対的な依存。その二つの感情が、彼女の内面で激しく衝突しているのが、その泳ぐ視線から見て取れた。

 

「……清隆は、本当に……それを望んでるの?」

 

「ああ。軽井沢恵という人間を正しく理解するために、必要なプロセスだ 」

 

 俺の無表情な瞳を見つめ返した恵は、やがて、諦めたように、あるいは何かに狂信的に身を委ねるような表情を浮かべた。

 

「……分かったわよ。清隆がそこまで言うなら、拒否できるわけないじゃん……」

 

 恵は震える手で、自らの衣服に手をかけた。

 

 衣服が滑り落ちる摩擦音が、静かな部屋にやけに大きく響く。やがて、間接照明の光の中に、彼女の華奢な肢体が露わになっていった。

 

 そして、その白い肌の上に、厳然として存在する異物。

 

 過去の壮絶ないじめによって刻まれた、深く、歪な傷跡。

 

「……ほら、満足? やっぱり、すっごく醜いでしょ。嫌いになった?」

 

 恵は自嘲気味に呟きながらも、その目には涙が溜まっていた。恐怖に耐えながら、俺の要望に従った彼女の精神状態は、極限まで張り詰めている。

 

 俺は何も言わず、ゆっくりと身体を寄せた。指先ではなく、自らの顔を、彼女の剥き出しになった腹部へと近づけていく。

 

「え、ちょ、ちょっと……清隆……っ?」

 

 恵の困惑と恐怖が混ざった声が響く。だが、俺は動きを止めない。

 

 間接照明の光に浮かぶその歪な傷跡に向けて、俺は静かに自らの唇を寄せ、直接その皮膚へと押し当てた。

 

「う、あ……っ 」

 

 恵が短く悲鳴のような吐息を漏らし、身体をビクリと強張らせた。彼女の指先が、俺のカットソーの肩口を、引きちぎらんばかりの力で強く掴む。

 

 唇から伝わる彼女の皮膚の感覚は、最初は驚きで冷たく硬直していたが、すぐに内側から激しい脈動を伴った熱が伝わってきた。

 

 俺は唇を離さず、その傷跡の不規則な凹凸を、直接肌で確かめるように微かに這わせる。

 

 ためらいもなく、傷を舐める。

 

 彼女の最大の弱点を、俺の物理的な接触によって完全に支配し、上書きする。それは彼女の恐怖を和らげると同時に、「この男にはすべてを暴かれている」という、逃れられない依存の楔を打ち込む行為でもあった。

 

「ん……うあ……っ、きよ、たか……もう、許して……っ」

 

 恵の身体から力が抜け、俺の肩にすがるようにして激しく息を乱し始めた。彼女の目から溢れた涙が、俺の首元に落ちていく。それは恐怖を通り越し、自らの全てを支配されたことに対する、圧倒的な安心感の裏返しだった。

 

 しばらくして、俺はゆっくりと顔を離した。

 

 恵の頬は朱に染まり、瞳は潤んだまま、呼吸を整えようと胸を大きく上下させていた。

 

「傷の形は変わらない。これが今の軽井沢恵を形作っている要素の一つだ。俺は、この傷痕も含めて全てを受け入れている」

 

 淡々と、事実だけを告げる。

 

「あんたって、本当に……頭おかしい、よ……。……そんなことされたら、私、もう…… 」

 

 恵はそれ以上言葉を続けず、俺の胸にしがみついてきた。彼女の心臓の鼓動が、驚くほどの速さで俺の胸に響いている。

 

 涙混じりの不規則な呼吸と、俺の衣服を掴む指先の強さ。それだけで、彼女の内心は雄弁に語られる。

 

 俺はただ、彼女の華奢な身体を静かに引き寄せ、強く抱きしめた。

 

「……ん」

 

 恵は俺の胸に顔を埋めたまま、小さく身を縮めてその温もりに身を委ねた。

 

 決定的な一線を越えないまま、しかしお互いの皮膚の温もりと存在感を共有する。俺という絶対的な捕食者にすべてを差し出し、その腕の中でしか呼吸できなくなっていく少女のパラメータを、俺は抱きしめながら静かに更新し続けた。

 

 

 

 

 

 

 夜が更け、時計の針が午後十時を回る頃、恵は名残惜しそうにしながらも、自分の衣服を整えて立ち上がった。

 

「じゃあ、私、もう戻るね。明日も学校だし、文化祭の準備もあるしさ」

 

「ああ。今日は誕生日を祝ってくれてありがとう」

 

「いいのよ、当然じゃない。次の私の誕生日、楽しみにしてるね」

 

 恵は少し顔を赤くしながら、トートバッグを肩にかけた。

 

 玄関のドアの前で、彼女はもう一度振り返り、俺の首に両腕を回して、唇に短いキスを落とした。

 

「改めて、誕生日おめでとう、清隆。生まれてきてくれて、私と出会ってくれて、ありがとね」

 

 笑顔を残して、恵は部屋を出ていった。

 

 パタン、と静かにドアが閉まり、部屋には再び一人きりの空間が戻る。

 

 テーブルの上には、綺麗に片付けられた食器と、わずかに残ったケーキの箱。

 

 空間の隅では二人で選んだ空気清浄機が、静かに、しかし確実に部屋の空気を循環させ続けている。

 

 俺はベッドに横たわり、天井を見つめた。

 

 十七歳になった。

 

 ホワイトルームを出て、この学校に来てから、二回目の誕生日だ。

 

 一年前の今頃、俺はまだ自分の正体を隠し、影の中からクラスを操ることに終始していた。軽井沢恵という存在も、かなり疎遠な『駒』に過ぎなかった。

 

 しかし、一年という歳月は、状況を劇的に変化させた。

 

 今や俺の存在は表舞台に引きずり出され、クラスの勝敗を左右する人物として認識されている。そして、綾小路グループという、かつて手に入れたはずの「平穏な居場所」は、自らの手によって粉々に破壊された。

 

 佐倉のいない教室。

 

 冷え切った三宅や長谷部の視線。

 

 それらはすべて、俺の目標への過程において、必然的に発生したスクラップだ。感傷に浸るつもりはない。彼らが俺を恨もうが、拒絶しようが、それは彼らの自由であり、俺の計画に深刻な影響を与えるものではない。

 

 一方で、軽井沢恵という変数は、俺の予想を超えた成長と深化を見せている。

 

 かつての寄生虫は、自らの傷を受け入れ、一本の足で立ち上がる強さを得つつある。俺への依存を深めながらも、その内面には確固たる自我が芽生え始めている。

 

「これでいい」

 

 誰もいない部屋で、小さな呟きが漏れた。

 

 間接照明を消すと、視界は完全な暗闇に支配される。

 

 部屋の隅では、あの小型空気清浄機が、微かな音を立てて静かに回り続けていた。

 

 彼女が残していった甘い香水の残香を、機械は容赦なく吸い込み、均一で無機質な空気へと変えていく。

 

 完全に濾過されていく温もりの中で、俺はゆっくりと、深い眠りの中へと意識を沈めていった。




 原作と矛盾が無いように気を付けましたが、二年生編六巻でみーちゃんが清隆の部屋に来た日に恵が清隆に初めて傷を見せたという考察が正しければ、この話は矛盾します。

 まあ原作で明言されてはないので、矛盾とは言い切れないということで。

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