「んっ……」
頬に温かなものを感じて、そっと目蓋を開く。
……目の前、ほんの数センチ先に目を閉じた彼の顔。
もう慣れた、って言いたいところだけど……どこか身体の奥のほうがくすぐったくて頬が緩むこの感覚はいつまで経っても慣れないし、慣れたいとも思わない。
「は、ぅ……」
圭一くんの寝顔を見つめるだけで、寝ぼけた頭の中に愛おしさと優しい気持ちが満たされていく。
三日に一度だけ、朝に許された至福の時間。
でも今日はちょっぴりいつもと違うのがわかった。
お布団の下で、私の手が圭一くんの掌に包まれている。
……嬉しいけど、困る。
圭一くんが起きてしまわないうちにお布団を出て着替えにいかなきゃいけないけど、しっかり手を掴まれているからこれをほどこうとしたら起きちゃうかもしれない。
う~ん……。
とりあえず、起こしてしまわないようにゆっくりした動きでつないだ手だけを残してお布団から抜け出してみる。
「んんん……、れなぁ……」
「!」
一瞬起こしちゃったかと思ったけど、どうやら寝言だったらしい。……寝言で名前を呼んでくれるのは初めてじゃないけど、すこし不思議だ。
羽入ちゃんや梨花ちゃん、詩ぃちゃんともそれなりにいい雰囲気なくせに、圭一くんが寝言でほかの子の名前を呼ぶのは聞いたことがない。
無意識にそばにいるのが誰なのかわかってる……のかな?
まさか新学期の抱負で言ってたみたいに、匂いで区別してるとかだったら……うぅ、レナ、匂うかな。
思わずあいているほうの自分の手首を鼻にあててくんくんと嗅いでしまう。
……だんだん私も梨花ちゃんたちの空気に染まってきてるのかなぁ……?
「……ぉもち……かえりぃ……」
夢の中で私をお持ち帰りしてるんだろうか。
その場合、夢の中の圭一くんが私をお持ち帰る先はやっぱり私の隠れ家なのかなぁ……?
ふたりっきりで、その、甘えさせてもらったのはだいたいあの場所だし……はぅ、思い出しちゃだめ……!
……うぅ、一人で頬を熱くしてる私が馬鹿みたい。
改めてまじまじと圭一くんの顔を見つめるけど、なかなか起きる気配がなかった。
な、なんでだろ。なにか悪いことしてるような気分。
思わずきょろきょろと見回してしまうけど、圭一くんの部屋に私と圭一くん以外の姿があるわけもない。
この時間じゃ、ねぼすけの羽入ちゃんと梨花ちゃんの姉妹はまだお部屋でぐっすりだろう。
「……ねぇ、起きてよぅ」
そう呼びかけてみる私の声はといえば、とても起きそうにないくらいの小声だった。
「圭一くん、起きて。……圭一くぅん」
控えめな力で揺すってみる。
「……ぅ、ん?」
圭一くんがびくりとして薄目を開けた。
あれれ、意外に敏感……?
とろんとした目を私のほうに向け、回転しきっていなさそうな頭でなにごとか考えるそぶりをする。
「レナぁ~……」
ふにゃりと笑いながらつかんだままの手に力をこめて私を引き寄せようとしたので、
すぱぁん☆
瞬時に、全力で、微塵ほどの容赦もなく反撃した。
「ふごがっ!?」
パンチ一発で部屋の隅まで転がっていく圭一くん。
ついでに勉強机に後頭部をぶつけて完黙する。
「ふぅ、あぶなかった☆」
だってこのパターンはアレだ。
甘々系のSSでよくある、寝起きで寝ぼけてる人に夢の中と間違われて襲われて、勢い余って朝からいちゃいちゃ~ってしちゃう展開。
恋とバイオレンスを両立することにかけて定評のあるこの竜宮レナが、そんなべたべたの釣り餌で捕食されるわけにはいかない。
……正直ちょっぴり惜しい気がしないでもないけど、途中で圭一くんの目が覚めて正気になられてしまうととっても恥ずかしい思いをしそうだからやめておこう。
今日も私はナイス判断力だよ。うん。
とりあえず、いまのどさくさで圭一くんの手もうまい具合に離れたので、気絶してる圭一くんに毛布だけかけてあげるとさっさと部屋を出た。
「なんか今日、起きたときから頭が痛くてさ」
朝ご飯の席で圭一くんが、不思議そうな表情で言う。
「あぅ、圭一、大丈夫ですか?」
羽入ちゃんが心配そうな顔をするけど、
「ソウルブラザーの毒電波でも受信してるんじゃないの?」
梨花ちゃんはどうでもよさそうにそんなことを言った。
「きっと夢の中で悪さばっかりしてるから天罰だね☆」
私がそう笑ったら、圭一くんは首をかしげる。
「夢といえば、パジャマレナがでてきた」
どき。
「すげぇ可愛いと思ってたら笑顔でレナぱん打ってきた」
ぎく。
「いきなりぶつんと意識が落ちたと思ったら、空から雛見沢を見下ろしてたんだよな……なんだったんだろ、あれ」
オカルトの類はあまり信じない私だけど……幽体離脱とか臨死体験って本当にあるのかもしれないと思った。
「……あぅ。それは」
「天罰……、なるほどね」
圭一くん本人は気がつかなかったみたいだけど羽入ちゃんと梨花ちゃんはしっかり気づいたようで、私に非難の視線を送ってくる。
「うん? 二人ともおかわりかな。……かな?」
にっこり笑ってそう尋ねたら、二人はぶるぶると首を左右に振って否定した。
うんうん、朝から食べ過ぎないのと余計なことを言わないのはきっと長生きの秘訣だよね☆
朝食後はみんなで手分けしてお掃除やお洗濯をすませて、それぞれの休日を過ごすことになった。
「羽入、支度できたら玄関前に集合だ!」
「あぅ、了解なのです♪」
圭一くんと羽入ちゃんは一緒におでかけらしい。
たまには昼間にお散歩なのかと思ったけど、部屋に戻って出てきた圭一くんはバッグを持っているからなにか目的があって出かけるみたいだ。
どこに行くのか気になるけど、……それも野暮かな。
私も先週は圭一くんと興宮に買い物に行って、ふたりきりでずいぶん楽しかったからおあいこだと思うし。
そういえば一昨日、遠足の時からの約束どおり湖に出かけた梨花ちゃんも帰ってきてからはずいぶん上機嫌だった。
出かける前から『りっかりかにしてやんよ』ってずいぶんはりきってたけど、帰ってきたときには光り輝く爽やかさで『この古手梨花には夢がある!』とか言ってたっけ。
……ホント、なにがあったんだろ……?
「梨花ちゃんは今日はどうするの?」
「ふむ、そうね。カレー……いやいや、沙都子でも誘って遊びにいこうかしら。お昼はカレー……ううん、沙都子といっしょに適当に食べるからいいわ」
「……そ、そっか。がんばってね」
もう手遅れかつそもそも自業自得のような気もするけど、梨花ちゃんはカレー中毒を克服しようとけなげな努力をしているらしい。
羽入ちゃんが泣いて頼んだから……というよりは、この前自分で作ったカレー冷やし中華が物凄く微妙な出来だったからなんだろうなぁ……。
私もアレはなるべく思い出したくないけど。
「で、レナはお留守番?」
「えへへ、レナは魅ぃちゃんとデート☆」
「また? 相変わらず仲いいわね」
梨花ちゃんはくすくす笑って肩をすくめる。
「うん、なかよしだよ。魅ぃちゃんかぁいいもん☆」
例の件の相談があるからしょっちゅう二人で会ってるせいで梨花ちゃんたちには変な誤解をされてるみたいだ。
「ヤツが可愛いのは否定しないけど、圭一ルート狙ってるならほどほどにしておきなさいよ」
家族とはいえ一応恋敵の私にわざわざ忠告してくれる梨花ちゃんは自信家なのか一夫多妻でも構わないと思っているのか、いまひとつ読めないところがある。
「あはは、いっそのこと魅ぃちゃんもこの家にお持ち帰りしちゃおうかな。かな☆」
「ま、それもひとつの手だと思うけどね。魅音は園崎家に置いておいたほうがなにかと便利よ?」
それだけ言って、興味をなくしたようにお部屋に向かう。
……うん、そうだね。
こういうときは、梨花ちゃんがただのアホの子じゃないと思わされる。
梨花ちゃんは私と詩ぃちゃんが裏でしていることを、薄々気づいてるんじゃないかと思う。
「そうですね。あの子は油断できないところがあります」
出がけに梨花ちゃんとした会話を詩ぃちゃんに話したら、すこしにやりとしながらそう言った。
「どういう神懸かりなのかは知りませんけど、多分あの子は魅音が行方をくらましているのも、私が詩音だってことも気づいた上で黙ってるんだと思います」
「……やっぱり、予言とかなのかな?」
半信半疑でそう言ったけど、詩ぃちゃんはどうでもいいと言いたげに軽く笑った。
「普通じゃ説明できないって理由だけで、オカルトだって決めつけるのは早計だと思いますけど。予言なら予言で、アドバイスでもしてくれたら便利じゃないですか」
なるほど、利用できるなら正体がなんであろうと構わないというのはある意味園崎らしい考え方だ。
「私は、時期を見て圭ちゃんとあの子には詳しい話をしてみるつもりでいますよ。もう二ヶ月とないですからね」
「……うん。そうだね」
私たちが敗北した昭和57年6月から、来月で丸一年。
そう、もうすぐ来るのだ。
昭和58年6月、綿流しの季節が。
詩ぃちゃんは後ろで控えていた葛西さんに目で合図して、アタッシュケースから取り出された封筒を私に手渡す。
「今回の……、もしかしたら最後の報告です」
「……!」
ごくりとつばをのみこんで、いつもよりもずいぶん厚みのある封筒の封を開ける。
私たちの仕掛けた『釣り』は予想よりも長期に渡った。
相手……入江診療所と小此木造園の背後にいる何者かは、思ったよりも慎重で、息を潜めたまま私たちの出方を窺うばかりで尻尾を出そうとはしなかった。
幾度か鼻先に餌をちらつかせてみたけど思わせぶりな反応が返ってくるばかりで食いつかない。
いつもなら淡々と仕掛けの失敗を告げるだけだった報告書にこれほどの厚みがあるということは……なんらかの結果が出たということだ。
吉であるにせよ、凶であるにせよ。
「……読んでみて、レナの考えを聞かせてください」
詩ぃちゃんの言葉に頷いて、私は報告書を開いた。
私の役割は、考えること。
それは頭脳役という意味じゃない。
実際の情報戦の手綱は葛西さんが握っているし、入ってきた情報を分析して取捨選択するのは詩ぃちゃんの仕事だ。
だから私が目にするのは比較的確度の高い『意味のある』情報がほとんどになる。
一見して無秩序に列挙された事実のピースをパズルのようにつなぎ合わせ、足りないピースを想像で補って完成形を思い描くのは、ある種の感性が必要な仕事になる。
詩ぃちゃんに言わせれば、私はその能力が高いらしい。
読み進めるうちに、詩ぃちゃんが最後になるかもしれないと言った意味はすぐにわかった。
「釣れたんだね。やっぱり……、国だったんだ」
一時期調査に協力してくれていた東京の葛西さんの知人。
葛西さんは彼に調査の打ち切りを通告した後、ひそかにその彼に対する監視をつけていた。
それは地味で忍耐のいる監視だったに違いない。
取り立てて何事も起こらない一人の男性の日常を24時間見張るだけの仕事なのだから。
もちろん、用意した餌は彼だけではなく、首都圏に十数人の『元協力者』がいた。
異変は、彼のちょっとした接触事故から始まった。
彼にも注意義務違反程度はあったけどほとんど貰い事故に近いもので、多少気性の激しい彼が現場で揉めたとはいえ警察では型通りの手続きと話を聞かれただけで解放。
頭を打った疑いがあるというので、事故の相手方の保険会社が紹介してくれた病院に検査を受けにいったら、検査入院を勧められ……その病院にいたのは、ほんの二日たらず。
でも、そこで処方されたお薬の不自然さが糸を引いた。
通院する彼本人が気づかないうちに軽い幻覚症状や情緒不安定といった諸症状が顔を出し始め、彼は保険金を受け取るために必要だと保険会社に勧められるまま精神科を受診することになった。
その先は……通院経験のある私にはわかる気がする。
ただでさえありのままの事実や心情を語ることを求められる場所であり、薬物で誘導されていたなら彼自身が気づかぬうちに彼の知る情報を引き出されてしまっただろう。
もちろん、『餌』にするつもりで協力を求めた人たちには最初からそれほど多くの情報を与えてはいない。
それでも、ある程度のことは向こうに知られてしまったと思って間違いない。
それと引き換えにこちらは彼を陥れるために『敵』が使ったあらゆる手段……事故の相手、事故処理を担当した警察官、保険会社、病院などの背後関係を調べ上げていった。
その結果、たどりついたのは……彼から情報を引き出そうとしたのが、防衛庁内の情報関係の一部署が隠れ蓑として使っている企業だった。
ある程度予測していた事態だ。
ダム計画を推進する国の機関に有形無形の圧力をかけて、無期限延期という成果を引き出すことのできる存在。
それはやはり国の機関か、匹敵するほどに巨大な存在であるのが自然だろう。
「……そのようですね。『鍵』が防衛庁内にあるとわかり別の線から洗い出してみた結果が……その先です」
報告書の後半は、いままで偽名や偽の経歴に隠されて素顔がわからずにいた何名かの詳細な履歴だった。
その中には、……鷹野三四さんも含まれていた。
本名、田無美代子。
両親の死後、預けられていた福祉施設から引き取られ高野一二三に育てられる。
最高学府を主席で卒業し、異例の若さで研究医としての地位を固めるが……その栄光の足跡は唐突に途切れる。
その先にいるのが、鷹野三四。
医官として捏造された経歴をもった架空の人物。
彼女が配属された通称入江機関においてどんな立場にあるかまでは調査が進んでいないが、……私にはある程度わかる気がした。
「三四さんは、入江診療所……入江機関の、トップに近い立場にいると思う。研究の中心人物なんじゃないかな」
「ふむ……、どうしてそう思うんです?」
詩ぃちゃんも半ば予想はしていたのか、そう驚いた表情は見せなかった。
「簡単だよ。ドロップアウトしたとはいえ普通のお医者さんだった監督はあくまでも外様、途中から研究に参画した立場なんじゃないかな」
女性がトップに立つことを嫌う男性はどこにでもいる。
研究にいらぬ横やりが入らないための防波堤。
そして、いざというときの捨て石として用意された存在。
それが、入江機関の長、入江京介……監督だろう。
「三四さんが大学時代から寄生虫研究を専門にしてることから考えても、雛見沢にわざわざ診療を建てて地下で行われてる研究は三四さんが主導の……、たぶん、」
その先は、私にとってはあまり面白くない結論だ。
「……寄生虫とかウィルスの研究ってことですか」
ため息をつくみたいな調子で詩ぃちゃんが言った。
私は無言で頷く。
詩ぃちゃんと葛西さんは当然私の過去も調べているはず。
私が茨城で『傷口から沸いてくる蛆虫のようななにか』の存在を訴えていたことも知っているだろう。
その点で私の推測は信憑性を減ずるかもしれない。
「ありえる、でしょうね」
詩ぃちゃんは慎重にそう言った。
私を見つめながらすこし口元を緩めて、
「私個人としちゃ、部活仲間の鷹野さんを信じたいって気持ちもあります。でも、レナの描いた絵なら……いくつか説明できなかった部分も埋まりそうです」
葛西さんも頷いて、
「入江機関に関する強い権限を彼女が持っていると過程すれば、小此木造園を自称する不正規部隊とのつながりが入江先生の周辺に浮かばなかったことも理解できます」
研究の機密を保持し、必要に応じて監督も含めた研究協力者をも『抹殺』することが可能な手段を与えられた人間。
それが研究の中心人物、鷹野三四さんの正体だ。
そして……これは本当に気に入らない話になる。
「ほかの省庁じゃなく、防衛庁が秘密裏に研究しなければいけない寄生虫かウィルス……これって、やっぱり」
「ええ。……それは私にもわかります」
生物兵器、ということだ。
実用段階に研究が進んでいるかどうかはわからないけど、入江機関を相手にするとすれば常にその研究成果の行使という可能性を念頭に置く必要がある。
場合によっては雛見沢の住人全員を人質にとられてしまうという、最悪の事態を想定しなければならない。
「厄介ですねぇ……とりあえずお姉と入院患者の心配だけしていればいいかと思ってたんですけど、なんだか面倒なことになって来ちゃった」
両手をあげてお手上げのポーズをとる詩ぃちゃん。
私だって、こればっかりは降参してしまいたい気分だ。
「……それだけではありません」
葛西さんが重々しく告げる。
「確かに今回得た情報は大きい。……ですが、同時に相手に我々の調査を確信させてしまった」
そう、『元協力者』本人の持つ情報は少なくとも、いや、少ないからこそ……そこに釣り針が存在することを相手が理解すれば、こちらの立場も危うくなる。
つまり、入江機関を調べている人間が存在する。
調べていくうちにその周到さ、規模を知ればそこに園崎の存在を疑われることは避けられないだろう。
この雛見沢と御三家についての歴史を私たち以上に知っている三四さんなら、確実にその結論に辿り着く。
集積された情報からその結論に至るのが一ヶ月後なのか、それとも明日なのか、それは私たちにはわからない。
その時、『祟り』になんらかの形で関与しているであろう彼らがどのような手段にでるのか……。
秘密を知る者を実力行使で抹殺?
それとも魅ぃちゃんや村の人たちを盾に脅迫?
起こりうるあらゆる可能性を私たちは想定し、それらを防ぐための手だてを打たねばならない。
それも、相手が動き出すまでのわずかな時間でだ。
気の遠くなるような話だけど、人の命がかかっている以上最悪を期して対処する必要がある。
「とにかく鷹野さんにはこっちの動きを悟られないようにしましょう。表向きはいままでどおり……場合によっては沙都子も戦力にならないって前提で考えましょう」
三四さんをあれだけ慕っている沙都子ちゃんに、いざというとき三四さんと戦えと言うのは……正直、無理だろう。
足りないカードだらけで目眩がしそうだった。
それでも、二度と負けられない。
私たちは私たちの望む以外のどんな結末も認めない。
無惨な未来も、無慈悲な終末も。
どんな神様にも運命にも、選ぶ権利なんかあげない。
選ぶのは私たちだ。
未来の真実は、私たちが決める!