ゼロの使い魔 虚無の少女と英雄王の宝物庫 作:僕の考えた最強のルイズ
シエスタは、朝の洗い場にいた。
白いエプロンの袖を少しだけまくり、洗い終えた布を手際よく籠へ移している。動きに無駄はない。水を絞る角度も、腰の入れ方も、足の運びも、ただの給仕にしては整いすぎていた。
けれど、それに気づく者はほとんどいない。
平賀才人も、その一人だった。
「昨日は、ありがとうございました」
シエスタにそう言われて、才人は洗濯物を抱えたまま固まった。
「え? いや、俺、そんな礼言われるようなことしてないけど」
「ギーシュ様のことです。わたしのせいで、才人さんが決闘することになってしまいましたから」
「いや、あれはあいつが悪いだろ。シエスタは瓶拾っただけだし」
シエスタは少しだけ目を伏せた。
「それでも、平民が貴族の方に逆らうのは、簡単なことではありません」
「そういうの、やっぱり変だよな」
才人は洗濯物を籠に入れ、濡れた手を振った。
「悪いことしたら謝る。それだけの話だろ。貴族とか平民とか関係なく」
シエスタは、その言葉を少し眩しそうに聞いていた。
「才人さんは、不思議な方ですね」
「俺のいた国だと、そっちの方が普通なんだけどな」
「その普通を、ここで言える方は少ないです」
才人は気まずそうに頬を掻いた。
「そんな大げさな話じゃないって。ただ、見てて腹立っただけだし」
「それでも、嬉しかったです」
シエスタは深く頭を下げた。
少し離れた柱の影で、ルイズはそのやりとりを見ていた。才人に洗濯物を持たせたのは、学院の空気を知るため。シエスタと接する機会を作るためでもあった。だから、二人が話していること自体は想定内だ。
想定内なのに、胸の奥が微妙に面白くない。
シエスタが才人に向ける笑みは穏やかだった。才人も、貴族に囲まれている時よりずっと自然に話している。
分かっている。シエスタは優しい。才人にとって、この世界で最初に安心できる平民の少女だ。そうなるのは当然だ。
それでも、当然だからといって平静でいられるほど、ルイズは大人ではなかった。
「……何を見ているんですか、私は」
小さく呟き、ルイズはその場を離れようとした。
その時、学院の正門の方が少し騒がしくなった。
馬車の音。使用人たちの慌ただしい足取り。王宮からの使者が来た時のような、少し硬い空気。
ルイズは足を止めた。
嫌な予感がした。
正門前に現れたのは、豪奢な馬車だった。降りてきたのは、丸みのある体つきの貴族の男。仕立ての良い服を着て、指にはいくつもの指輪をはめている。顔には愛想のよい笑みを浮かべているが、その視線は人を値踏みするように動いていた。
モット伯。
ルイズは、その名を思い出した瞬間、表情を消した。
王宮からの使者という名目で学院に訪れた男。書物を好む貴族。そして、若い女性使用人へ妙な目を向ける男。
知っていた。
この流れの先に、シエスタがいることも。
「まずいわね」
呟きは、誰にも聞こえなかった。
モット伯は、オスマン学院長や教師たちと何かを話していた。最近、怪盗フーケが出没している。学院の宝物庫も警戒を強めるべきだ。王宮からの連絡。そんな表向きの話が聞こえてくる。
だが、ルイズの意識は別のものへ向いていた。
モット伯の視線が、洗い場へ向かう。
そこには、才人とシエスタがいた。
シエスタは、貴族の視線に気づいた。気づいたうえで、何も知らないふりをして頭を下げる。才人はまだ気づいていない。
ルイズは奥歯を噛んだ。
今すぐ割って入りたい。
だが、それはできない。ここでルイズが過剰に反応すれば、シエスタがただの学院メイドではないと示すようなものだ。ヴァリエール家の娘が、なぜ平民のメイド一人にそこまで反応するのか。余計な詮索を招く。
シエスタも、それを分かっている。
だから彼女は、ただ静かに頭を下げていた。
その日の昼過ぎ、シエスタが学院を去るという話が才人の耳に入った。
最初は、使用人たちの間の小さな噂だった。
「シエスタがモット伯のお屋敷へ?」
「ええ。伯爵様がお気に召したとかで」
「急な話ね」
「断れるわけがないでしょう。相手は貴族様よ」
才人はその言葉を聞いた瞬間、顔色を変えた。
「ちょっと待てよ。シエスタが? なんで?」
使用人の一人が困ったように眉を下げる。
「才人さん、声が大きいです」
「だって、本人は行きたいって言ってるのかよ」
誰も答えなかった。
答えられない沈黙が、答えだった。
才人はそのままルイズの部屋へ駆け戻った。
扉を開けるなり、彼は叫んだ。
「ルイズ! シエスタが連れていかれるってどういうことだよ!」
ルイズは窓辺に立っていた。驚いた顔はしない。分かっていたのだと、その横顔が告げていた。
才人はさらに声を荒げる。
「知ってたのか?」
「今、知ったところよ」
嘘ではない。正確には、起こる可能性を知っていただけだ。
「貴族が気に入ったからって、そんな簡単に連れていけるのかよ」
「この世界では、ありえるわ」
「ふざけんなよ!」
才人の怒りはまっすぐだった。
ルイズはそれを眩しいと思い、同時に危ういと思った。
「落ち着きなさい」
「落ち着けるかよ。シエスタは嫌がってるんだろ? なら止めないと」
「正面から止めれば、あんたが潰される」
「じゃあ放っておけって言うのかよ」
「言ってない」
ルイズの声は低かった。
才人が言葉を止める。
「いいわけないでしょ」
それは、ほとんど吐き捨てるような声だった。いつもの高飛車なルイズではない。怒りを奥に押し込めた、冷たい声。
才人は少しだけたじろいだ。
「じゃあ、助けに行こうぜ」
「行くにしても、考えなしに突っ込めば終わるわ。相手は伯爵。あんたは平民の使い魔。剣を持って押しかけたら、シエスタを助けるどころか、学院ごと問題になる」
「でも!」
「分かってる!」
声が響いた。
ルイズは自分の声に少し驚き、すぐに息を整えた。
「分かってるわよ。だから、動くなら考えて動くの」
才人は黙った。怒りは消えていない。だが、ルイズも本気で怒っていることは伝わったらしい。
その時、控えめなノックが聞こえた。
扉の向こうから、シエスタの声がする。
「ミス・ヴァリエール。少しだけ、よろしいでしょうか」
ルイズは扉を開けた。
シエスタは旅支度をしていた。小さな鞄一つ。学院のメイド服のまま、いつも通りの静かな顔で立っている。
才人が息を呑んだ。
「シエスタ、本当に行くのかよ」
「はい」
「嫌なんだろ?」
シエスタは答えなかった。
それだけで十分だった。
ルイズは彼女を見つめる。
「断れないの?」
「わたしは平民です。学院の決定に逆らうことはできません」
「私に頼る気はないの」
シエスタの瞳がわずかに揺れた。
才人には分からない程度の変化。だが、ルイズには分かる。シエスタは頼りたくないのではない。ルイズに迷惑をかけたくないのだ。
「ミス・ヴァリエールにご迷惑をおかけするわけにはまいりません」
「迷惑かどうかは、私が決めることよ」
「ですが」
「シエスタ」
ルイズの声が、少しだけ硬くなる。
シエスタは目を伏せた。
「……はい」
「勝手に諦めないで」
その一言に、シエスタの手が小さく震えた。
才人は二人を見比べていた。何かを感じ取っている。ルイズとシエスタの距離が、ただの貴族令嬢とメイドのものではないことに、少しずつ気づき始めているのだろう。
シエスタは深く一礼した。
「才人さん。昨日のこと、本当にありがとうございました」
「礼なんていいから、待ってろ。絶対なんとかする」
「無茶はなさらないでください」
「それ、最近よく言われる」
「言われる理由があるからです」
才人は苦笑した。
シエスタは最後に、ルイズへ向き直った。誰にも見えない角度で、ほんのわずかに目を伏せる。それは、昔から二人の間にある合図だった。
すみません。
そう言っている。
ルイズは唇を引き結んだ。
謝るな。
そう言い返す代わりに、ただ頷いた。
シエスタが去った後、才人はすぐにデルフリンガーを手にした。
「俺、行ってくる」
「待ちなさい」
「待てない」
「才人」
ルイズの声に、才人は足を止める。
「一人で行けば、相手にされない。下手をすれば捕まるわ」
「でも、何もしないよりましだ」
「何もしないなんて言ってない」
ルイズは机の上から外套を取った。
「私も行く」
才人は驚いたように目を見開いた。
「いいのか?」
「いいわけないでしょ。だから、面倒にならないように動くの」
「……ありがとな」
「まだ助けたわけじゃないわ。礼は後」
二人は学院を出た。
モット伯の屋敷は、街の外れにあった。成金趣味と貴族趣味が混ざったような館だった。門番は才人を見た瞬間に眉をひそめたが、ルイズの身分を見て態度を変えた。
貴族の力は、こういう時に嫌になるほど分かりやすい。
通された応接間で、モット伯は愛想よく笑っていた。
「これはこれは、ヴァリエール家のご令嬢。何用かな?」
ルイズは淑女らしく礼をする。
「突然の訪問、失礼いたします。学院より移されたメイドについて、お話がございます」
「シエスタのことかね? いや、実に良い娘だ。働き者で、控えめで、なかなか見どころがある」
才人の手がぴくりと動いた。
ルイズは視線だけで止める。
「彼女を学院へ戻していただけませんか」
「ほう。なぜかね?」
「学院でも必要な者ですから」
「学院には他にも使用人がいるだろう。私は正式に話を通している。問題はあるまい」
モット伯の口調は穏やかだった。だが、その下にあるものは明らかだった。
平民一人の意思など問題ではない。
才人が一歩前へ出た。
「本人が嫌がってるなら問題だろ」
モット伯は初めて才人を見た。
「君は?」
「平賀才人。ルイズの使い魔だ」
「使い魔が口を挟む話ではないな」
「人間だ」
「人間であっても、平民だろう」
空気が冷えた。
才人の手がデルフリンガーの柄へ伸びかける。
ルイズは素早くその腕を押さえた。
「才人」
「でも」
「駄目」
モット伯はその様子を面白そうに眺めていた。
「若いな。だが、勇気と無礼は違う。シエスタを返してほしいなら、相応の対価を示したまえ」
「対価?」
才人が睨む。
モット伯は指輪のついた手で、壁一面の本棚を示した。
「私は珍しい書物を集めるのが趣味でね。ゲルマニアのツェルプストー家に伝わる古い書物がある。あれを持ってくるなら、考えてもいい」
ルイズは目を細めた。
キュルケの家宝。
知っている流れだった。腹立たしいほどに。
才人はすぐに言った。
「本一冊でいいのか?」
「本一冊とは言わないでほしい。あれは実に貴重なものだ。まあ、平民には分からないだろうが」
「……分かった。持ってくる」
「才人」
「持ってくれば返すんだな」
モット伯は笑った。
「約束しよう」
その笑みが信用できないことなど、ルイズには分かっていた。けれど、才人の行動をここで否定することはできない。彼はシエスタを助けるために、今できる手を伸ばしている。
なら、ルイズはその手が踏みにじられないようにするだけだ。
屋敷を出る直前、ルイズは一度だけ振り返った。
「伯爵」
「何かな」
「約束は、お守りください」
「もちろんだとも」
「なら、よろしいです」
微笑む。
貴族令嬢らしく。
けれど、モット伯の笑みが一瞬だけ引きつった。
ルイズの目を見たからだ。
そこに浮かんでいたものは、怒りではない。脅しでもない。ただ、静かな確認だった。
破れば、裁く。
言葉にせずとも、そう告げる目。
才人は気づかなかった。デルフリンガーだけが、かたりと小さく鳴った。
「嬢ちゃん、怖えな」
「黙りなさい」
「へいへい」
学院へ戻ると、才人はすぐにキュルケの元へ向かった。
事情を聞いたキュルケは、最初こそ面白がっていた。だが、シエスタのことだと分かると、表情を少しだけ変えた。
「モット伯ね。あの人、趣味が悪いことで有名よ」
「本当に家宝の本、持ってるのか?」
「あるわよ。ゲルマニアの実家から持ってきたものがね」
キュルケは才人を見て、にやりと笑う。
「でも、ただで貸すと思う?」
才人が身構える。
「何すればいい?」
「そうねえ。夜、わたしの部屋に――」
「キュルケ」
ルイズの声が割り込んだ。
キュルケは楽しそうに振り返る。
「あら、ルイズ。怖い顔」
「今はふざけている場合じゃないわ」
「分かってるわよ。冗談」
本当に冗談だったのかは怪しいが、キュルケはそれ以上からかわなかった。彼女は部屋から一冊の古い本を持ってきた。装丁は立派だが、ところどころ擦り切れている。
「はい。これでいいはずよ」
才人は驚いた顔をした。
「いいのか?」
「いいわ。シエスタには、わたしもよくしてもらっているもの」
キュルケは軽く肩をすくめる。
「それに、あなたがどこまでやるのか興味があるし」
「ありがとう」
才人が素直に礼を言うと、キュルケは少しだけ目を丸くし、それから微笑んだ。
「どういたしまして、勇敢な使い魔さん」
ルイズはそのやりとりを横目で見て、微妙に面白くなかった。
だが、今はそれどころではない。
再びモット伯の屋敷へ向かう途中、ルイズは考えていた。
宝物庫を使えば、もっと珍しい本などいくらでも出せる。モット伯が欲しがるような書物を用意することは難しくない。だが、それをすれば余計な疑念を呼ぶ。ルイズがどこからそんな物を出したのか、説明できない。
だから今は原作に近い手順を取る。
ただし、表向きだけだ。
モット伯は、本を見た瞬間に目を輝かせた。
「おお、これだ。まさか本当に持ってくるとは」
「約束通り、シエスタを返してもらうぞ」
才人が言う。
モット伯は本を撫でながら満足げに頷いた。
「よかろう。あの娘は学院へ戻そう」
部屋の奥から、シエスタが連れてこられた。服装は朝のままだが、顔色は少し悪い。けれど怪我はない。それを確認した瞬間、ルイズの肩からわずかに力が抜けた。
才人が駆け寄る。
「シエスタ、大丈夫か?」
「はい。才人さん、ありがとうございます」
シエスタは頭を下げた。
その後ろで、モット伯は本に夢中になっているように見えた。
ルイズはシエスタを才人に任せ、静かに一歩下がった。
「伯爵」
モット伯が顔を上げる。
「何かな。約束は守っただろう」
「ええ。ですから、これは別の話です」
ルイズは微笑んだ。
「今後、学院の使用人に不用意に手を伸ばすことはお控えください」
「何を言っているのかな」
「そのままの意味です」
部屋の空気が変わった。
才人はまだシエスタと話している。気づいていない。だが、デルフリンガーがかすかに鳴った。
モット伯は笑おうとした。
「ヴァリエール嬢。君はまだ学生だ。大人の話に――」
「聞こえませんでしたか」
ルイズの声は静かだった。
腰の奥で、王律鍵が熱を持つ。
開くつもりはない。だが、感情に反応している。庇護下の者へ手を伸ばされた怒り。守ると決めた者が軽く扱われた不快感。
その奥で、王の声が囁く。
裁け。
ルイズはその声を押し込めた。
今ここで裁く必要はない。
ただ、覚えさせればいい。
「二度はありません」
モット伯の顔色が変わった。
ルイズは何もしていない。杖も抜いていない。王律鍵も見せていない。ただ、目を見て告げただけだ。
それでも、モット伯は一歩後ろへ下がった。
この少女の背後に、何か理解できないものがあると感じたのだろう。
「……分かった。学院には今後、無理な要求はしない」
「賢明です」
ルイズは礼をした。
何事もなかったように。
屋敷を出る頃には、才人はようやく少し落ち着いていた。シエスタが戻ってきたことで、怒りよりも安堵が勝ったのだろう。
帰り道、シエスタは才人へ何度も礼を言った。
「才人さん、本当にありがとうございました」
「俺だけじゃないよ。ルイズも、キュルケも」
「はい」
シエスタはルイズへ向き直る。
人目のない一瞬を選び、深く頭を下げた。
「ミス・ヴァリエール。ありがとうございました」
「別に」
ルイズは顔を背けた。
「私のものに、勝手に手を伸ばされるのが気に入らなかっただけよ」
言ってから、ルイズは口を閉じた。
今の言葉は、少し危うかった。
シエスタは目を伏せる。
才人は不思議そうに首を傾げた。
「私のものって、シエスタが?」
「庇護下にあるって意味よ!」
「なんで怒るんだよ」
「うるさい」
シエスタは小さく笑った。
その笑みを見て、ルイズは少しだけ救われた気がした。
だが、胸の奥ではまだ王律鍵の熱が残っている。
守りたいと思う気持ちと、所有したいという傲慢な感情。その境目は、思っていたよりずっと曖昧だった。
夜、才人が眠った後、デルフリンガーが小さく呟いた。
「相棒も無茶するが、嬢ちゃんも大概だな」
「何が言いたいの」
ルイズはベッドから低く返す。
「いやなに。手を出しちゃいけねえもんに手を伸ばすと、痛い目見るって話さ」
「モット伯のこと?」
「さあな」
デルフリンガーは笑うように鍔を鳴らした。
「お前さんのことかもしれねえぜ、嬢ちゃん」
ルイズは答えなかった。
腰の奥で、王律鍵が静かに沈黙している。
だが、その沈黙は眠りではなかった。
次に誰かがシエスタへ手を伸ばした時、自分は本当に抑えられるのか。
ルイズには、まだ分からなかった。