黒歌転生 死んだ姉は保健室にいる 作:好きな性癖発表ドラゴン
落ちていた。
風が耳を裂き、視界が闇に塗り潰される。崖の岩肌が遠ざかり、空も地面も分からなくなった。身体の奥から魔力が抜けていく。痛みはもう、熱なのか冷たさなのかも分からない。
白音。
名前を呼ぼうとした。けれど、喉から声は出なかった。
また会うと言った。絶対に帰ると言った。嘘にしないと、泣いている妹に約束した。その約束だけが、落下する身体の中で最後まで残っていた。
まだ帰っていない。
そう思った瞬間、落ちていく先の闇が歪んだ。
地面ではない。空でもない。水でもない。空間そのものが裂け、知らない何かがこちらを呑み込もうとしていた。魔力とも妖気とも違う、濃くて重い力が全身に絡みつく。
黒歌は手を伸ばした。
届くはずのない誰かへ。
白音。
意識はそこで、ぷつりと途切れた。
次に感じたのは、冷たい石の感触だった。
頬に触れる岩肌は硬く、湿っている。鼻の奥に、土と鉱石と苔の匂いが入ってきた。どこかで水が滴っている。ぽた、ぽた、と規則的な音が、暗い空間に反響していた。
黒歌は、ゆっくり目を開けた。
「……っ」
息を吸った瞬間、身体の奥が軋んだ。痛い。けれど、痛みがある。呼吸もある。耳も動く。尻尾も、力なくではあるが背後で揺れた。
生きている。
そう理解した途端、黒歌は跳ね起きようとして、失敗した。腕に力が入らず、肩から石の床に崩れる。視界が白く瞬き、胸の奥で何かが焼けるように痛んだ。
「白音……!」
声は掠れていた。
洞窟の壁に跳ね返り、虚しく消える。返事はない。白音の匂いも、気配もない。リアスの魔力も、サーゼクスの気配も、グレモリー家の術式もない。
あるのは、知らない空気だけだった。
「どこ、にゃ……ここ」
冥界ではない。日本でもない。悪魔の魔力とも違う。妖気の流れも薄い。だが、空気には濃密な力が満ちていた。吸い込むだけで身体の内側に重く沈むような、見知らぬ力。
魔素。
その単語が、頭のどこかで浮かぶ。
同時に、耳の奥ではない場所に声が響いた。
《告。個体の致命的損傷を確認。生存優先処理を実行します》
「……な、に」
《ユニークスキル《生還者》を獲得しました》
《ユニークスキル《解析者》を獲得しました》
《エクストラスキル《魔素感知》を獲得しました》
《エクストラスキル《気配遮断》を再構築しました》
《各種耐性を獲得しました。痛覚耐性、出血耐性、精神干渉耐性――》
声が遠い。
聞こえているのに、意味がすぐには頭に入ってこない。黒歌は額を押さえた。世界そのものが、自分の身体を勝手に調べているような気味悪さがあった。
だが、その声が響いた後、身体の奥で何かが変わった。
傷が完全に消えたわけではない。痛みはまだある。魔力の流れも乱れている。だが、先ほどまで今にも途切れそうだった命が、無理やり繋ぎ止められている感覚があった。
死ねない。
いや、死なせてもらえなかった。
黒歌は石の床に手をつき、荒く息を吐いた。
「……便利なようで、怖いにゃ」
軽口を叩こうとしても、声は震えていた。
身体を起こし、周囲を見回す。薄暗い洞窟。壁には見たことのない鉱石が埋まり、淡く光っている。足元には不思議な草が生え、葉先から薄い光が漏れていた。どれも、冥界でも人間界でも見たことがない。
黒歌は壁に手をつきながら立ち上がる。
魔素感知、という言葉を思い出し、意識を周囲へ広げた。すると、視界とは違う形で洞窟の輪郭が頭の中に浮かぶ。岩の厚み。水の流れ。遠くにいる小さな魔物の気配。空気中を漂う力の濃さ。
便利だ。だが、知らない感覚だった。
「悪魔の魔力じゃない。妖気でもない。霊脈の流れとも違う……」
ここは違う世界だ。
言葉にしてしまうと、膝が折れそうになった。
白音のいる世界から、離された。
約束を果たすどころか、帰り道すら分からない場所へ落ちた。その事実が、傷よりも深く胸に刺さる。
「嘘にしないって、言ったのに」
黒歌は唇を噛んだ。
白音は今頃、何を聞かされているのだろう。黒歌が襲われたこと。崖から落ちたこと。生きているか分からないこと。もしかしたら、もう死んだと伝えられているかもしれない。
白音は泣くだろうか。
泣かないように我慢するだろうか。
リアスは、白音を支えてくれるだろうか。
考えれば考えるほど、息が苦しくなった。
その時、近くで何かが跳ねるような音がした。
黒歌は反射的に身構える。尻尾が膨らみかけるが、身体がまだ重い。まともに戦える状態ではない。気配を探る。弱い。小さい。魔物のような反応。
だが、中身が妙に濃い。
岩陰から、青いものが現れた。
丸い。ぷるぷるしている。透き通るような青。どう見ても、スライムだった。
黒歌は数秒、固まった。
「……スライム?」
青い塊もまた、こちらを見ているようだった。目も口もないのに、見られている感覚がある。
次の瞬間、頭の中に声が響いた。
《うわっ、猫耳!? いや、え、女の子? しかも尻尾二本?》
黒歌は反射的に爪を構えた。
「誰にゃ」
《あ、待って待って! 怪しい者では……いや、スライムの時点で怪しいかもしれないけど、敵じゃない!》
「スライムが喋ったにゃ」
《喋ってるっていうか、たぶん念話? 俺もまだよく分かってないんだけど》
「俺?」
《あ、そこ引っかかる?》
黒歌は目を細めた。
声の調子が妙に人間臭い。魔物の本能だけで動いている感じがしない。言葉の選び方も、焦り方も、どこか前世で聞き慣れたものに近い。
「あんた、人間だったのかにゃ」
青いスライムが、ぴたりと止まった。
《……え、分かるの?》
「勘にゃ」
《いや、その勘だいぶ鋭すぎない?》
「猫だからにゃ」
《猫ってそういうものなのか……?》
黒歌は少しだけ肩の力を抜いた。もちろん、完全に信用したわけではない。だが、この妙なスライムから敵意は感じない。むしろ混乱と好奇心と、少しの心配が伝わってくる。
スライムは、少し距離を取ったまま問いかけてきた。
《君、すごい怪我してないか? というか、なんでこんなところに倒れてたんだ?》
「こっちが聞きたいにゃ。崖から落ちたと思ったら、知らない洞窟にいたにゃ」
《崖? ここ、洞窟のかなり奥だと思うけど》
「やっぱり普通じゃないにゃ」
《俺も気がついたらスライムだったから、普通かどうかの基準がもう分からないけどな》
黒歌はそこで、ようやく前世の記憶が一つの形に繋がりかけた。
スライム。異世界。洞窟。人間だった男。声は軽いが、状況に対する順応が妙に早い。
知っている気がする。
だが、記憶が多すぎて、すぐには掴めない。前世で触れた物語は山ほどあった。悪魔、勇者、魔王、竜、スライム。いくつもの情報が頭の中で重なり、今この目の前の青い魔物と結びつくまで時間がかかった。
《どうした?》
「いや……あんた、名前は?」
《名前? いや、それがまだないんだよな》
黒歌の耳が動いた。
まだ名前がない。
その言葉で、記憶の輪郭が少しだけ濃くなる。洞窟にいた名もないスライム。やがて竜と出会い、名を得る存在。
まさか。
黒歌は壁に手をついたまま、青いスライムを見下ろした。
「ここ、もしかして……」
言いかけた瞬間、身体から力が抜けた。
「っ……」
《おい!?》
黒歌は膝から崩れた。スライムが慌てて近づいてくる。近づくといっても、ぽよんぽよんと跳ねてくるので緊迫感は薄い。だが、声は本気で焦っていた。
《無理すんなって! どう見ても立ってる状態じゃないだろ!》
「うるさいスライムにゃ……」
《うるさいは余計だ。とにかく、死ぬな。事情は後で聞くから》
死ぬな。
その言葉が、妙に胸に残った。
黒歌は小さく笑った。笑うと傷が痛んだ。
「スライムに励まされる日が来るとは思わなかったにゃ」
《俺も猫耳の女の子を励ますスライムになるとは思わなかったよ》
「女の子、ね」
《あ、なんか地雷踏んだ?》
「元は男だったからにゃ」
《えっ》
スライムが固まった。
黒歌は薄く目を開ける。
「何にゃ」
《いや……俺も元は男なんだけど》
「知ってたにゃ」
《勘で?》
「半分は」
《残り半分は?》
「前世の記憶に、似た話があったにゃ」
スライムはしばらく黙った。
《君も、前世の記憶があるんだな》
「あるにゃ。でも、全部役に立つわけじゃない。肝心なところで抜けるにゃ」
《それは……分かる気がする》
短い沈黙が落ちた。
奇妙な沈黙だった。猫耳と二本尻尾の少女と、青いスライム。普通なら出会うはずのない組み合わせ。だが、その中身はどちらも元人間で、どちらも突然別の身体になり、知らない世界へ放り込まれている。
それが少しだけ、黒歌の警戒を緩めた。
《とりあえず、回復できそうなものを探す。ここ、薬草っぽいのが結構あるんだ。俺、いくつか取り込んで解析してるから、使えるかもしれない》
「スライムって薬草も食べるのかにゃ」
《食べるというか、吸収? 俺にもまだよく分からん》
「便利にゃ」
《便利だけど、スライムだぞ》
「猫耳少女も大概にゃ」
《それはそう》
少しだけ笑いそうになった。
こんな状況で笑えることに、黒歌自身が驚いた。
スライムは近くの草を取り込み、何やら内部で解析しているようだった。黒歌はその様子をぼんやり眺める。普通なら警戒すべきなのに、今はそれどころではなかった。身体が重い。意識が沈みそうになる。
その底から、白音の声が聞こえた気がした。
姉さま。
「白音……」
《白音?》
黒歌は目を閉じた。
「妹にゃ」
《妹がいるのか》
「泣かせたまま、置いてきたにゃ。帰るって言ったのに。嘘にしないって言ったのに……」
言葉にした途端、胸の奥が崩れそうになった。
スライムは深く聞かなかった。
ただ、少しだけ声を落として言った。
《帰りたい場所があるなら、まず生き残れ》
黒歌は薄く目を開ける。
《死んだら帰れないだろ。方法は後で探せばいい。今は生きること優先だ》
「簡単に言うにゃ」
《簡単じゃないけど、最初にやることはそれだろ》
まっすぐな言葉だった。
軽い調子なのに、不思議と重かった。
黒歌は小さく息を吐く。
「……そうだにゃ。死んだら、約束も何もないにゃ」
《そうそう。だからまず、動けるようになろう》
「名前もないのに、偉そうにゃ」
《名前ないの関係ある!?》
「大ありにゃ。呼びづらいにゃ」
《俺だって今困ってるんだよ。スライムって呼ばれるのもなんか複雑だし》
「じゃあ、しばらくスライムでいいにゃ」
《よくないけど、まあ今はそれでいいか……》
その時だった。
洞窟の奥から、圧が届いた。
黒歌の全身の毛が逆立つ。耳が伏せ、尻尾が膨らんだ。傷の痛みも忘れて、反射的に身構える。
巨大。
その言葉では足りない。悪魔でもない。妖怪でもない。竜王とも違う。存在そのものが世界の奥に根を張っているような、圧倒的な気配。
洞窟の奥に、何かがいる。
《な、なんだ今の》
スライムの声にも緊張が混じる。
「……化け物みたいな気配にゃ」
《やっぱり分かるのか》
「分からない方がおかしいにゃ」
《俺、さっきからこの洞窟の奥に何かある気はしてたんだよな》
「行く気かにゃ」
《危ないかもしれないけど、情報が欲しい。ここがどこかも分からないし》
黒歌は壁に手をつきながら、ゆっくり立ち上がった。
身体はまだ痛む。魔力の流れも万全ではない。だが、ここで一人で倒れているより、この名もないスライムと一緒に動いた方が生き延びられる。
生き延びなければならない。
白音に会うために。
黒歌は青いスライムを見る。
「スライム」
《何だ?》
「一緒に行くにゃ」
《無理すんなよ》
「死ぬよりは、ましにゃ」
《その言い方、全然安心できないんだけど》
「安心させる義理はないにゃ」
《仲間に厳しいな!?》
「仲間になった覚えはまだないにゃ」
《まだ、か》
スライムの声が少しだけ笑った。
黒歌はその軽さに、ほんの少しだけ救われた気がした。
洞窟の奥から、再び圧が届く。暴風のような気配。封じられてなお、世界を揺らすほどの存在感。
黒歌は白音との約束を胸に押し込めた。
泣いている場合ではない。後悔に沈んでいる場合でもない。帰る方法が分からないなら、探すしかない。知らない世界なら、歩いて知るしかない。
名もないスライムが、ぽよんと前へ跳ねる。
黒歌は痛む身体を引きずりながら、その後に続いた。
こうして、死に損なった黒猫は、名もないスライムと共に、洞窟の奥の暴風へ向かうことになった。