黒歌転生 死んだ姉は保健室にいる   作:好きな性癖発表ドラゴン

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第8話 洞窟のスライムと黒猫

 

 

 落ちていた。

 

 風が耳を裂き、視界が闇に塗り潰される。崖の岩肌が遠ざかり、空も地面も分からなくなった。身体の奥から魔力が抜けていく。痛みはもう、熱なのか冷たさなのかも分からない。

 

 白音。

 

 名前を呼ぼうとした。けれど、喉から声は出なかった。

 

 また会うと言った。絶対に帰ると言った。嘘にしないと、泣いている妹に約束した。その約束だけが、落下する身体の中で最後まで残っていた。

 

 まだ帰っていない。

 

 そう思った瞬間、落ちていく先の闇が歪んだ。

 

 地面ではない。空でもない。水でもない。空間そのものが裂け、知らない何かがこちらを呑み込もうとしていた。魔力とも妖気とも違う、濃くて重い力が全身に絡みつく。

 

 黒歌は手を伸ばした。

 

 届くはずのない誰かへ。

 

 白音。

 

 意識はそこで、ぷつりと途切れた。

 

 次に感じたのは、冷たい石の感触だった。

 

 頬に触れる岩肌は硬く、湿っている。鼻の奥に、土と鉱石と苔の匂いが入ってきた。どこかで水が滴っている。ぽた、ぽた、と規則的な音が、暗い空間に反響していた。

 

 黒歌は、ゆっくり目を開けた。

 

「……っ」

 

 息を吸った瞬間、身体の奥が軋んだ。痛い。けれど、痛みがある。呼吸もある。耳も動く。尻尾も、力なくではあるが背後で揺れた。

 

 生きている。

 

 そう理解した途端、黒歌は跳ね起きようとして、失敗した。腕に力が入らず、肩から石の床に崩れる。視界が白く瞬き、胸の奥で何かが焼けるように痛んだ。

 

「白音……!」

 

 声は掠れていた。

 

 洞窟の壁に跳ね返り、虚しく消える。返事はない。白音の匂いも、気配もない。リアスの魔力も、サーゼクスの気配も、グレモリー家の術式もない。

 

 あるのは、知らない空気だけだった。

 

「どこ、にゃ……ここ」

 

 冥界ではない。日本でもない。悪魔の魔力とも違う。妖気の流れも薄い。だが、空気には濃密な力が満ちていた。吸い込むだけで身体の内側に重く沈むような、見知らぬ力。

 

 魔素。

 

 その単語が、頭のどこかで浮かぶ。

 

 同時に、耳の奥ではない場所に声が響いた。

 

《告。個体の致命的損傷を確認。生存優先処理を実行します》

 

「……な、に」

 

《ユニークスキル《生還者》を獲得しました》

 

《ユニークスキル《解析者》を獲得しました》

 

《エクストラスキル《魔素感知》を獲得しました》

 

《エクストラスキル《気配遮断》を再構築しました》

 

《各種耐性を獲得しました。痛覚耐性、出血耐性、精神干渉耐性――》

 

 声が遠い。

 

 聞こえているのに、意味がすぐには頭に入ってこない。黒歌は額を押さえた。世界そのものが、自分の身体を勝手に調べているような気味悪さがあった。

 

 だが、その声が響いた後、身体の奥で何かが変わった。

 

 傷が完全に消えたわけではない。痛みはまだある。魔力の流れも乱れている。だが、先ほどまで今にも途切れそうだった命が、無理やり繋ぎ止められている感覚があった。

 

 死ねない。

 

 いや、死なせてもらえなかった。

 

 黒歌は石の床に手をつき、荒く息を吐いた。

 

「……便利なようで、怖いにゃ」

 

 軽口を叩こうとしても、声は震えていた。

 

 身体を起こし、周囲を見回す。薄暗い洞窟。壁には見たことのない鉱石が埋まり、淡く光っている。足元には不思議な草が生え、葉先から薄い光が漏れていた。どれも、冥界でも人間界でも見たことがない。

 

 黒歌は壁に手をつきながら立ち上がる。

 

 魔素感知、という言葉を思い出し、意識を周囲へ広げた。すると、視界とは違う形で洞窟の輪郭が頭の中に浮かぶ。岩の厚み。水の流れ。遠くにいる小さな魔物の気配。空気中を漂う力の濃さ。

 

 便利だ。だが、知らない感覚だった。

 

「悪魔の魔力じゃない。妖気でもない。霊脈の流れとも違う……」

 

 ここは違う世界だ。

 

 言葉にしてしまうと、膝が折れそうになった。

 

 白音のいる世界から、離された。

 

 約束を果たすどころか、帰り道すら分からない場所へ落ちた。その事実が、傷よりも深く胸に刺さる。

 

「嘘にしないって、言ったのに」

 

 黒歌は唇を噛んだ。

 

 白音は今頃、何を聞かされているのだろう。黒歌が襲われたこと。崖から落ちたこと。生きているか分からないこと。もしかしたら、もう死んだと伝えられているかもしれない。

 

 白音は泣くだろうか。

 

 泣かないように我慢するだろうか。

 

 リアスは、白音を支えてくれるだろうか。

 

 考えれば考えるほど、息が苦しくなった。

 

 その時、近くで何かが跳ねるような音がした。

 

 黒歌は反射的に身構える。尻尾が膨らみかけるが、身体がまだ重い。まともに戦える状態ではない。気配を探る。弱い。小さい。魔物のような反応。

 

 だが、中身が妙に濃い。

 

 岩陰から、青いものが現れた。

 

 丸い。ぷるぷるしている。透き通るような青。どう見ても、スライムだった。

 

 黒歌は数秒、固まった。

 

「……スライム?」

 

 青い塊もまた、こちらを見ているようだった。目も口もないのに、見られている感覚がある。

 

 次の瞬間、頭の中に声が響いた。

 

《うわっ、猫耳!? いや、え、女の子? しかも尻尾二本?》

 

 黒歌は反射的に爪を構えた。

 

「誰にゃ」

 

《あ、待って待って! 怪しい者では……いや、スライムの時点で怪しいかもしれないけど、敵じゃない!》

 

「スライムが喋ったにゃ」

 

《喋ってるっていうか、たぶん念話? 俺もまだよく分かってないんだけど》

 

「俺?」

 

《あ、そこ引っかかる?》

 

 黒歌は目を細めた。

 

 声の調子が妙に人間臭い。魔物の本能だけで動いている感じがしない。言葉の選び方も、焦り方も、どこか前世で聞き慣れたものに近い。

 

「あんた、人間だったのかにゃ」

 

 青いスライムが、ぴたりと止まった。

 

《……え、分かるの?》

 

「勘にゃ」

 

《いや、その勘だいぶ鋭すぎない?》

 

「猫だからにゃ」

 

《猫ってそういうものなのか……?》

 

 黒歌は少しだけ肩の力を抜いた。もちろん、完全に信用したわけではない。だが、この妙なスライムから敵意は感じない。むしろ混乱と好奇心と、少しの心配が伝わってくる。

 

 スライムは、少し距離を取ったまま問いかけてきた。

 

《君、すごい怪我してないか? というか、なんでこんなところに倒れてたんだ?》

 

「こっちが聞きたいにゃ。崖から落ちたと思ったら、知らない洞窟にいたにゃ」

 

《崖? ここ、洞窟のかなり奥だと思うけど》

 

「やっぱり普通じゃないにゃ」

 

《俺も気がついたらスライムだったから、普通かどうかの基準がもう分からないけどな》

 

 黒歌はそこで、ようやく前世の記憶が一つの形に繋がりかけた。

 

 スライム。異世界。洞窟。人間だった男。声は軽いが、状況に対する順応が妙に早い。

 

 知っている気がする。

 

 だが、記憶が多すぎて、すぐには掴めない。前世で触れた物語は山ほどあった。悪魔、勇者、魔王、竜、スライム。いくつもの情報が頭の中で重なり、今この目の前の青い魔物と結びつくまで時間がかかった。

 

《どうした?》

 

「いや……あんた、名前は?」

 

《名前? いや、それがまだないんだよな》

 

 黒歌の耳が動いた。

 

 まだ名前がない。

 

 その言葉で、記憶の輪郭が少しだけ濃くなる。洞窟にいた名もないスライム。やがて竜と出会い、名を得る存在。

 

 まさか。

 

 黒歌は壁に手をついたまま、青いスライムを見下ろした。

 

「ここ、もしかして……」

 

 言いかけた瞬間、身体から力が抜けた。

 

「っ……」

 

《おい!?》

 

 黒歌は膝から崩れた。スライムが慌てて近づいてくる。近づくといっても、ぽよんぽよんと跳ねてくるので緊迫感は薄い。だが、声は本気で焦っていた。

 

《無理すんなって! どう見ても立ってる状態じゃないだろ!》

 

「うるさいスライムにゃ……」

 

《うるさいは余計だ。とにかく、死ぬな。事情は後で聞くから》

 

 死ぬな。

 

 その言葉が、妙に胸に残った。

 

 黒歌は小さく笑った。笑うと傷が痛んだ。

 

「スライムに励まされる日が来るとは思わなかったにゃ」

 

《俺も猫耳の女の子を励ますスライムになるとは思わなかったよ》

 

「女の子、ね」

 

《あ、なんか地雷踏んだ?》

 

「元は男だったからにゃ」

 

《えっ》

 

 スライムが固まった。

 

 黒歌は薄く目を開ける。

 

「何にゃ」

 

《いや……俺も元は男なんだけど》

 

「知ってたにゃ」

 

《勘で?》

 

「半分は」

 

《残り半分は?》

 

「前世の記憶に、似た話があったにゃ」

 

 スライムはしばらく黙った。

 

《君も、前世の記憶があるんだな》

 

「あるにゃ。でも、全部役に立つわけじゃない。肝心なところで抜けるにゃ」

 

《それは……分かる気がする》

 

 短い沈黙が落ちた。

 

 奇妙な沈黙だった。猫耳と二本尻尾の少女と、青いスライム。普通なら出会うはずのない組み合わせ。だが、その中身はどちらも元人間で、どちらも突然別の身体になり、知らない世界へ放り込まれている。

 

 それが少しだけ、黒歌の警戒を緩めた。

 

《とりあえず、回復できそうなものを探す。ここ、薬草っぽいのが結構あるんだ。俺、いくつか取り込んで解析してるから、使えるかもしれない》

 

「スライムって薬草も食べるのかにゃ」

 

《食べるというか、吸収? 俺にもまだよく分からん》

 

「便利にゃ」

 

《便利だけど、スライムだぞ》

 

「猫耳少女も大概にゃ」

 

《それはそう》

 

 少しだけ笑いそうになった。

 

 こんな状況で笑えることに、黒歌自身が驚いた。

 

 スライムは近くの草を取り込み、何やら内部で解析しているようだった。黒歌はその様子をぼんやり眺める。普通なら警戒すべきなのに、今はそれどころではなかった。身体が重い。意識が沈みそうになる。

 

 その底から、白音の声が聞こえた気がした。

 

 姉さま。

 

「白音……」

 

《白音?》

 

 黒歌は目を閉じた。

 

「妹にゃ」

 

《妹がいるのか》

 

「泣かせたまま、置いてきたにゃ。帰るって言ったのに。嘘にしないって言ったのに……」

 

 言葉にした途端、胸の奥が崩れそうになった。

 

 スライムは深く聞かなかった。

 

 ただ、少しだけ声を落として言った。

 

《帰りたい場所があるなら、まず生き残れ》

 

 黒歌は薄く目を開ける。

 

《死んだら帰れないだろ。方法は後で探せばいい。今は生きること優先だ》

 

「簡単に言うにゃ」

 

《簡単じゃないけど、最初にやることはそれだろ》

 

 まっすぐな言葉だった。

 

 軽い調子なのに、不思議と重かった。

 

 黒歌は小さく息を吐く。

 

「……そうだにゃ。死んだら、約束も何もないにゃ」

 

《そうそう。だからまず、動けるようになろう》

 

「名前もないのに、偉そうにゃ」

 

《名前ないの関係ある!?》

 

「大ありにゃ。呼びづらいにゃ」

 

《俺だって今困ってるんだよ。スライムって呼ばれるのもなんか複雑だし》

 

「じゃあ、しばらくスライムでいいにゃ」

 

《よくないけど、まあ今はそれでいいか……》

 

 その時だった。

 

 洞窟の奥から、圧が届いた。

 

 黒歌の全身の毛が逆立つ。耳が伏せ、尻尾が膨らんだ。傷の痛みも忘れて、反射的に身構える。

 

 巨大。

 

 その言葉では足りない。悪魔でもない。妖怪でもない。竜王とも違う。存在そのものが世界の奥に根を張っているような、圧倒的な気配。

 

 洞窟の奥に、何かがいる。

 

《な、なんだ今の》

 

 スライムの声にも緊張が混じる。

 

「……化け物みたいな気配にゃ」

 

《やっぱり分かるのか》

 

「分からない方がおかしいにゃ」

 

《俺、さっきからこの洞窟の奥に何かある気はしてたんだよな》

 

「行く気かにゃ」

 

《危ないかもしれないけど、情報が欲しい。ここがどこかも分からないし》

 

 黒歌は壁に手をつきながら、ゆっくり立ち上がった。

 

 身体はまだ痛む。魔力の流れも万全ではない。だが、ここで一人で倒れているより、この名もないスライムと一緒に動いた方が生き延びられる。

 

 生き延びなければならない。

 

 白音に会うために。

 

 黒歌は青いスライムを見る。

 

「スライム」

 

《何だ?》

 

「一緒に行くにゃ」

 

《無理すんなよ》

 

「死ぬよりは、ましにゃ」

 

《その言い方、全然安心できないんだけど》

 

「安心させる義理はないにゃ」

 

《仲間に厳しいな!?》

 

「仲間になった覚えはまだないにゃ」

 

《まだ、か》

 

 スライムの声が少しだけ笑った。

 

 黒歌はその軽さに、ほんの少しだけ救われた気がした。

 

 洞窟の奥から、再び圧が届く。暴風のような気配。封じられてなお、世界を揺らすほどの存在感。

 

 黒歌は白音との約束を胸に押し込めた。

 

 泣いている場合ではない。後悔に沈んでいる場合でもない。帰る方法が分からないなら、探すしかない。知らない世界なら、歩いて知るしかない。

 

 名もないスライムが、ぽよんと前へ跳ねる。

 

 黒歌は痛む身体を引きずりながら、その後に続いた。

 

 こうして、死に損なった黒猫は、名もないスライムと共に、洞窟の奥の暴風へ向かうことになった。

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