竜骨の学者 ──スカイリム漂流記 作:スカイリム愛好家
たいまつを握りしめたまま、行商人は尻もちをついていた。しばし呆然と口を開け放ち、黒く焦げた狼の骸と、静かに佇むローブ姿の魔術師とを交互に見比べる。やがて我に返ると、震える膝でよろよろと立ち上がり、何度も頭を下げた。
「た……助かった! ああ、タロスに感謝を——いや、こいつは口に出しちゃまずいか、へへ」
インペリアル訛りの、どこか人懐こい早口だった。
「危ないとこだったよ、旦那。あの群れ、三日前から街道をうろついててねえ。騾馬がこのザマじゃ逃げようもなくて……いやはや、命拾いした」
男はルチオと名乗り、散らばった荷を慌ただしくかき集めながら、揉み手をするようにマサたちへ向き直った。
「あっしはしがない行商でさ。ソリチュードとリフテンを行ったり来たり、薬だの古布だの、まあ何でも扱う口でね。お礼と言っちゃなんだが——旦那、何か入り用はないかい? 命を救ってもらった相手に、定価をふっかけるほど恥知らずじゃあないつもりさ」
彼が泥の中から拾い上げた数冊の書物——その一冊、革表紙の背に、マサの目が留まった。色褪せた箔押しの題字。魔術の指南書らしき古びた装丁が、彼の学者としての勘を微かに刺激した。マサの視線に気づき、ルチオがにっと歯を見せて笑う。
「お、目が高いね旦那。そいつは……どこぞの崩れた塔で拾ったって品でね。あっしにゃ難しすぎて読めもしないんだが、魔術師さんには値打ちモンかもしれねえ」
マサは無言で手を差し伸べ、その書物を受け取った。
埃と黴の匂いの奥に、確かな術式の手応えがあった。サイノッドの書庫で嗅ぎ慣れた、古い魔力の残り香。偽物ではない。崩れた塔から拾ったという男の話も、あながち出鱈目ではないらしい。
革表紙を開き、マサは色褪せた頁に視線を走らせた。題字は古いタムリエル文字で〈生者を映す眼〉とある。変性学派の術だ。壁や闇を隔てて、息づく生命の在処を感じ取る。隠れた敵を炙り出し、未踏の墳墓で待ち伏せを読む。慎重に間合いを計るマサの戦い方には、よく馴染む類の魔法だった。
写本としても程度は良い。市場に出せば二百セプティムは下らないだろう。これを「読めもしない」と手放すルチオは、確かに損な性分に思えた。
ただ——欄外に、退色したインクで何やら細かな書き込みがあるのが気になった。別人の、古い手跡。マサの知識をもってしても、その走り書きまでは判読しきれない。誰かが、この術書に独自の注釈を遺している。それが何を意味するのかは、今は分からなかった。
「どうだい旦那、値打ちモンだろ?」ルチオが揉み手で覗き込む。「命を助けてもらった恩がある。……そうさな、五十も貰えりゃ御の字だ。なに、あっしにゃ宝の持ち腐れだからね」
二百の品を五十で。狼から救った礼を、男なりに乗せた値付けだった。マサは懐から五十枚のセプティムを抜き、ルチオの皺だらけの掌に落とした。
書物を背負い袋の研究ノートの隣へ収める。次の休みにでも術式を写し取れば、この魔法は彼のものとなる。
「毎度あり! いや、こっちが助けてもらったってのに、商売までさせてもらって。俺はツイてるよ、ほんとに」
ルチオは破顔し、傷ついた騾馬の脚に手早く添え木を当て始めた。荒事には向かずとも、旅慣れた手つきではある。
立ち去り際、男は思い出したように声をかけてきた。
「そうそう、旦那。東のイヴァルステッドへ行きなさるんだろ? あの辺りは静かなもんだが——ここんとこ、夜にやけに鳥が騒ぐって、麓の連中が気味悪がっててね。山の上の坊さんがたが、また風を読んでるんじゃねえかって。ま、年寄りの噂話さ。道中、気をつけなせえ」
二人はふたたび東へ歩を進めた。白い川は次第に細く、流れを速め、道は山の懐へと分け入っていく。陽が稜線の向こうに沈みかける頃——苔むした石橋の向こうに、水車と、川を挟んで寄り添う数軒の家並みが見えてきた。イヴァルステッド。七千段の麓の、静かな村だ。
宿り木〈ヴィルマーの宿亭〉の灯りが、夕闇にぽつりと暖かい。桟橋では見覚えのある人影が、網を畳む手を止めて顔を上げた。供物の配達を頼み、霜のトロルの忠告をくれた、律儀な漁師のクリメクだった。
「おや……あんたは、グレイビアードに供物を届けてくれた魔術師さんじゃないか」
クリメクは目を細め、それから気遣わしげに眉を寄せた。
「また山へ登りなさるのか? ……止しゃしないが、近頃どうも、山の様子がおかしくてね。夜になると、上の方で妙な気配がするんだ。坊さんがたの声とも違う、何か……まあ、気のせいならいいんだが」
宵闇が、世界の喉の黒い山体を、村の背後に巨大な影としてそびえ立たせている。今夜は麓で休み、明朝、七千段に挑むのが順当な道のりだろう。だが、マサは足を止め、漁師に問いかけた。
「山の異変について、詳しく聞かせてもらえるか」
クリメクは網を桟橋の杭に掛け、声を落とした。朴訥な口ぶりに、隠しきれぬ不安が滲んでいる。
「詳しく、と言われてもなあ……はっきりしたことは、誰も見ちゃいないんだ」
彼は川向こう、夕闇に沈む世界の喉を、顎で示した。
「まず、鳥さ。ここ四、五日かね。日が傾くと、山の中腹あたりから鳥がどっと飛び立つんだ。烏も、雷鳥も、いっぺんに。何かに追い立てられるみたいに、ばさばさっと。あんなのは、長いことこの村に住んでるが、滅多にないことでね」
網の繕いに使う骨針を、男は所在なげに指で弄ぶ。
「それから、ボルグンドの——ああ、山羊飼いの爺さんだ。あれが二晩前、月を横切る大きな影を見たって言うんだ。鳥にしちゃ馬鹿でかい、翼を広げた黒い影が、稜線の向こうへすうっと、と。爺さんは目が悪いし、酒も入ってたろうから、半分は与太だと思うんだが……」
言葉を切って、クリメクはマサの顔を窺った。竜という言葉を、彼は口にしなかった。口にするのが怖いのか、あるいは田舎の漁師には、そこまで結びつける知恵が回らぬのか。
「坊さんがたの仕業なら、まだいい。あの方々が風を読んで声を響かせると、山が落ち着かなくなるってのは、昔から言うことだからね。けど、今度のはどうも……勝手が違う気がしてならんのだ。家畜も妙に怯えるし」
彼はマサとリディアを交互に見て、付け足した。
「七千段を登りなさるなら、止めはしない。あんたなら、あの山の怖さも知ってるだろうし。……ただ、くれぐれも気をつけてくれよ。前に言った霜のトロルもまだ居着いてるって話だし、それに——その、何だか分からん“何か”もな。日のあるうちに登りきるのが、賢いと思うよ」
桟橋の水面に、宵の最初の星がひとつ、揺れて映っていた。鳥を追い立てる、翼ある黒い影。マサの分析癖が、その断片に静かに引っかかった。
「その山羊飼いのボルグンド老人に会わせてほしい。直接、話が聞きたい」
クリメクは「爺さんか……まあ、機嫌次第だがね」と苦笑しつつ、村外れの山羊囲いまで二人を案内した。
村のどん詰まり、岩肌に張りつくような粗末な囲いから、山羊の落ち着かない鳴き声がひっきりなしに漏れてくる。糞と乾草と、饐えた酒の匂い。その真ん中で、毛皮を着込んだ老人が一人、杖をつきながら怯える山羊どもをなだめあぐねていた。白く濁った片目、節くれだった手。ボルグンド老人だ。
「クリメクか。……誰だ、その余所者は」濁った目がマサのローブを捉え、露骨に剣呑な色を浮かべた。「魔術師ぇ? ……けっ。どうせまた、山の上で妙な術でも焚いて、わしの山羊を怯えさせとる口だろうが。あんたらみたいなのが来るたぁ、ろくなことがねえ」
ノルドの老人の、魔術師への剝き出しの不信。クリメクが取りなすが、老人は唾を吐いて譲らない。
「話を聞きたいだぁ? 二晩前の影のことか。……ふん。タダで舌は回らんよ。喉がからからでな」
濁った目が、物欲しげにマサを見上げる。
「酒なら一杯、宿で奢ろう。今ここで何枚か握らせてもいい」
マサは淡々と数枚のセプティムを老人の節くれた手に落とした。潤滑油は効いた。ボルグンドは銅貨を毛皮の内に手早く仕舞い込むと、濁った片目を細め、声をひそめた。
「……二晩前だ。真夜中近くだったかな。山羊どもが、どうにも鳴き止まなくてな。綱を引きちぎって逃げようとする始末だ。わしゃ悪態つきながら、囲いを見に出たのよ」
老人は震える指で、頭上の闇——黒くそびえる世界の喉を指した。
「ふと見上げりゃ、赤い月にな、でかい影が一つ、横切ったのさ。翼を広げて。船の帆みてえな、革張りのでかい翼だ。長え首と、鞭みてえな尻尾。鷲なんてもんじゃねえ。ホーカーより、いや、もっとでかかった」
彼は痩せた胸に手を当て、さらに声を落とす。
「音もした。鳥の羽ばたきじゃねえ。どすん、どすんと、この弱った胸に響くようなやつだ。それから一度——遠くの山崩れに、喉がついたみてえな……低え唸りがな。背筋が凍ったよ。影は、坊さんがたの塔のあるあたり、てっぺん近くをぐるりと一回りして、向こう側へ消えちまった」
ボルグンドは、ぺっと唾を吐き、節くれた指で胸の前に魔除けの印を切った。
「……年寄りの言うことだと笑うかい? だがな、わしの婆さまの、そのまた婆さまの代から言い伝えがあるんだ。翼ある蛇——古い世を喰らった、竜どもの話さ。空に帰ってくるってな。ヘルゲンを焼いた黒いのの噂は、ここまで届いとる。……あれの仲間が、よりにもよってこの山に巣を作ったってんなら、たまったもんじゃねえ」
老人はぶるりと身震いし、怯える山羊の背を撫でた。
隣で、リディアの横顔が夜気の中に引き締まるのが分かった。ノルドの血に刻まれた、竜への古い畏れ。彼女は何も言わなかったが、二刀の柄に添えた手に、わずかに力がこもっていた。
マサの思考は、もう結論を組み上げていた。大きな翼、長い首と尾、胸に響く羽ばたき、喉のある唸り。山羊と鳥を逃げ散らせるほどの威圧。——ボルグンドが言葉にできずにいるものの正体は、一つしかない。
竜が一頭、明日登るはずの七千段の、その頂近くに巣を構えている。
竜になど興味はない、と宿の女将に言い捨てたばかりだ。だが、山は逃げない。声の師に角笛を返すには、あの黒い山体を登りきるしかなく——そして頂には、翼ある影が待っている。運命とは、かくも皮肉なものらしかった。