竜骨の学者 ──スカイリム漂流記   作:スカイリム愛好家

36 / 36
第三十六話

たいまつを握りしめたまま、行商人は尻もちをついていた。しばし呆然と口を開け放ち、黒く焦げた狼の骸と、静かに佇むローブ姿の魔術師とを交互に見比べる。やがて我に返ると、震える膝でよろよろと立ち上がり、何度も頭を下げた。

「た……助かった! ああ、タロスに感謝を——いや、こいつは口に出しちゃまずいか、へへ」

インペリアル訛りの、どこか人懐こい早口だった。

「危ないとこだったよ、旦那。あの群れ、三日前から街道をうろついててねえ。騾馬がこのザマじゃ逃げようもなくて……いやはや、命拾いした」

 

男はルチオと名乗り、散らばった荷を慌ただしくかき集めながら、揉み手をするようにマサたちへ向き直った。

「あっしはしがない行商でさ。ソリチュードとリフテンを行ったり来たり、薬だの古布だの、まあ何でも扱う口でね。お礼と言っちゃなんだが——旦那、何か入り用はないかい? 命を救ってもらった相手に、定価をふっかけるほど恥知らずじゃあないつもりさ」

彼が泥の中から拾い上げた数冊の書物——その一冊、革表紙の背に、マサの目が留まった。色褪せた箔押しの題字。魔術の指南書らしき古びた装丁が、彼の学者としての勘を微かに刺激した。マサの視線に気づき、ルチオがにっと歯を見せて笑う。

「お、目が高いね旦那。そいつは……どこぞの崩れた塔で拾ったって品でね。あっしにゃ難しすぎて読めもしないんだが、魔術師さんには値打ちモンかもしれねえ」

マサは無言で手を差し伸べ、その書物を受け取った。

 

埃と黴の匂いの奥に、確かな術式の手応えがあった。サイノッドの書庫で嗅ぎ慣れた、古い魔力の残り香。偽物ではない。崩れた塔から拾ったという男の話も、あながち出鱈目ではないらしい。

革表紙を開き、マサは色褪せた頁に視線を走らせた。題字は古いタムリエル文字で〈生者を映す眼〉とある。変性学派の術だ。壁や闇を隔てて、息づく生命の在処を感じ取る。隠れた敵を炙り出し、未踏の墳墓で待ち伏せを読む。慎重に間合いを計るマサの戦い方には、よく馴染む類の魔法だった。

写本としても程度は良い。市場に出せば二百セプティムは下らないだろう。これを「読めもしない」と手放すルチオは、確かに損な性分に思えた。

ただ——欄外に、退色したインクで何やら細かな書き込みがあるのが気になった。別人の、古い手跡。マサの知識をもってしても、その走り書きまでは判読しきれない。誰かが、この術書に独自の注釈を遺している。それが何を意味するのかは、今は分からなかった。

「どうだい旦那、値打ちモンだろ?」ルチオが揉み手で覗き込む。「命を助けてもらった恩がある。……そうさな、五十も貰えりゃ御の字だ。なに、あっしにゃ宝の持ち腐れだからね」

二百の品を五十で。狼から救った礼を、男なりに乗せた値付けだった。マサは懐から五十枚のセプティムを抜き、ルチオの皺だらけの掌に落とした。

書物を背負い袋の研究ノートの隣へ収める。次の休みにでも術式を写し取れば、この魔法は彼のものとなる。

「毎度あり! いや、こっちが助けてもらったってのに、商売までさせてもらって。俺はツイてるよ、ほんとに」

ルチオは破顔し、傷ついた騾馬の脚に手早く添え木を当て始めた。荒事には向かずとも、旅慣れた手つきではある。

立ち去り際、男は思い出したように声をかけてきた。

「そうそう、旦那。東のイヴァルステッドへ行きなさるんだろ? あの辺りは静かなもんだが——ここんとこ、夜にやけに鳥が騒ぐって、麓の連中が気味悪がっててね。山の上の坊さんがたが、また風を読んでるんじゃねえかって。ま、年寄りの噂話さ。道中、気をつけなせえ」

 

二人はふたたび東へ歩を進めた。白い川は次第に細く、流れを速め、道は山の懐へと分け入っていく。陽が稜線の向こうに沈みかける頃——苔むした石橋の向こうに、水車と、川を挟んで寄り添う数軒の家並みが見えてきた。イヴァルステッド。七千段の麓の、静かな村だ。

宿り木〈ヴィルマーの宿亭〉の灯りが、夕闇にぽつりと暖かい。桟橋では見覚えのある人影が、網を畳む手を止めて顔を上げた。供物の配達を頼み、霜のトロルの忠告をくれた、律儀な漁師のクリメクだった。

「おや……あんたは、グレイビアードに供物を届けてくれた魔術師さんじゃないか」

クリメクは目を細め、それから気遣わしげに眉を寄せた。

「また山へ登りなさるのか? ……止しゃしないが、近頃どうも、山の様子がおかしくてね。夜になると、上の方で妙な気配がするんだ。坊さんがたの声とも違う、何か……まあ、気のせいならいいんだが」

宵闇が、世界の喉の黒い山体を、村の背後に巨大な影としてそびえ立たせている。今夜は麓で休み、明朝、七千段に挑むのが順当な道のりだろう。だが、マサは足を止め、漁師に問いかけた。

「山の異変について、詳しく聞かせてもらえるか」

クリメクは網を桟橋の杭に掛け、声を落とした。朴訥な口ぶりに、隠しきれぬ不安が滲んでいる。

「詳しく、と言われてもなあ……はっきりしたことは、誰も見ちゃいないんだ」

彼は川向こう、夕闇に沈む世界の喉を、顎で示した。

「まず、鳥さ。ここ四、五日かね。日が傾くと、山の中腹あたりから鳥がどっと飛び立つんだ。烏も、雷鳥も、いっぺんに。何かに追い立てられるみたいに、ばさばさっと。あんなのは、長いことこの村に住んでるが、滅多にないことでね」

網の繕いに使う骨針を、男は所在なげに指で弄ぶ。

「それから、ボルグンドの——ああ、山羊飼いの爺さんだ。あれが二晩前、月を横切る大きな影を見たって言うんだ。鳥にしちゃ馬鹿でかい、翼を広げた黒い影が、稜線の向こうへすうっと、と。爺さんは目が悪いし、酒も入ってたろうから、半分は与太だと思うんだが……」

 

言葉を切って、クリメクはマサの顔を窺った。竜という言葉を、彼は口にしなかった。口にするのが怖いのか、あるいは田舎の漁師には、そこまで結びつける知恵が回らぬのか。

「坊さんがたの仕業なら、まだいい。あの方々が風を読んで声を響かせると、山が落ち着かなくなるってのは、昔から言うことだからね。けど、今度のはどうも……勝手が違う気がしてならんのだ。家畜も妙に怯えるし」

彼はマサとリディアを交互に見て、付け足した。

「七千段を登りなさるなら、止めはしない。あんたなら、あの山の怖さも知ってるだろうし。……ただ、くれぐれも気をつけてくれよ。前に言った霜のトロルもまだ居着いてるって話だし、それに——その、何だか分からん“何か”もな。日のあるうちに登りきるのが、賢いと思うよ」

桟橋の水面に、宵の最初の星がひとつ、揺れて映っていた。鳥を追い立てる、翼ある黒い影。マサの分析癖が、その断片に静かに引っかかった。

「その山羊飼いのボルグンド老人に会わせてほしい。直接、話が聞きたい」

 

クリメクは「爺さんか……まあ、機嫌次第だがね」と苦笑しつつ、村外れの山羊囲いまで二人を案内した。

村のどん詰まり、岩肌に張りつくような粗末な囲いから、山羊の落ち着かない鳴き声がひっきりなしに漏れてくる。糞と乾草と、饐えた酒の匂い。その真ん中で、毛皮を着込んだ老人が一人、杖をつきながら怯える山羊どもをなだめあぐねていた。白く濁った片目、節くれだった手。ボルグンド老人だ。

「クリメクか。……誰だ、その余所者は」濁った目がマサのローブを捉え、露骨に剣呑な色を浮かべた。「魔術師ぇ? ……けっ。どうせまた、山の上で妙な術でも焚いて、わしの山羊を怯えさせとる口だろうが。あんたらみたいなのが来るたぁ、ろくなことがねえ」

ノルドの老人の、魔術師への剝き出しの不信。クリメクが取りなすが、老人は唾を吐いて譲らない。

「話を聞きたいだぁ? 二晩前の影のことか。……ふん。タダで舌は回らんよ。喉がからからでな」

濁った目が、物欲しげにマサを見上げる。

 

「酒なら一杯、宿で奢ろう。今ここで何枚か握らせてもいい」

マサは淡々と数枚のセプティムを老人の節くれた手に落とした。潤滑油は効いた。ボルグンドは銅貨を毛皮の内に手早く仕舞い込むと、濁った片目を細め、声をひそめた。

「……二晩前だ。真夜中近くだったかな。山羊どもが、どうにも鳴き止まなくてな。綱を引きちぎって逃げようとする始末だ。わしゃ悪態つきながら、囲いを見に出たのよ」

老人は震える指で、頭上の闇——黒くそびえる世界の喉を指した。

「ふと見上げりゃ、赤い月にな、でかい影が一つ、横切ったのさ。翼を広げて。船の帆みてえな、革張りのでかい翼だ。長え首と、鞭みてえな尻尾。鷲なんてもんじゃねえ。ホーカーより、いや、もっとでかかった」

彼は痩せた胸に手を当て、さらに声を落とす。

「音もした。鳥の羽ばたきじゃねえ。どすん、どすんと、この弱った胸に響くようなやつだ。それから一度——遠くの山崩れに、喉がついたみてえな……低え唸りがな。背筋が凍ったよ。影は、坊さんがたの塔のあるあたり、てっぺん近くをぐるりと一回りして、向こう側へ消えちまった」

ボルグンドは、ぺっと唾を吐き、節くれた指で胸の前に魔除けの印を切った。

「……年寄りの言うことだと笑うかい? だがな、わしの婆さまの、そのまた婆さまの代から言い伝えがあるんだ。翼ある蛇——古い世を喰らった、竜どもの話さ。空に帰ってくるってな。ヘルゲンを焼いた黒いのの噂は、ここまで届いとる。……あれの仲間が、よりにもよってこの山に巣を作ったってんなら、たまったもんじゃねえ」

老人はぶるりと身震いし、怯える山羊の背を撫でた。

隣で、リディアの横顔が夜気の中に引き締まるのが分かった。ノルドの血に刻まれた、竜への古い畏れ。彼女は何も言わなかったが、二刀の柄に添えた手に、わずかに力がこもっていた。

マサの思考は、もう結論を組み上げていた。大きな翼、長い首と尾、胸に響く羽ばたき、喉のある唸り。山羊と鳥を逃げ散らせるほどの威圧。——ボルグンドが言葉にできずにいるものの正体は、一つしかない。

竜が一頭、明日登るはずの七千段の、その頂近くに巣を構えている。

竜になど興味はない、と宿の女将に言い捨てたばかりだ。だが、山は逃げない。声の師に角笛を返すには、あの黒い山体を登りきるしかなく——そして頂には、翼ある影が待っている。運命とは、かくも皮肉なものらしかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

古代欧州に転生したら捨てられたので、魔女の弟子になります〜友人たちの知識で西暦590年を生き延びたら、なぜか聖女扱いされました〜(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル歴史/冒険・バトル)

事故死した平凡なOLの私が次に目を覚ますことになったのは、剣と魔法の異世界――ではなく、西暦590年頃の古代欧州だった。▼しかも、転生前に出会った黒猫姿の上位存在いわく、私は魔法使いとしての才能があるせいで前世の記憶消去を弾いてしまったらしい。▼「現代知識チートですね!」▼そう浮かれた私に、猫は心底哀れむような目で告げた。▼「気の毒に。あの時代は控えめに言っ…


総合評価:340/評価:7.77/連載:14話/更新日時:2026年06月27日(土) 12:41 小説情報

超人スペックで転生させられた俺はせめて正しい敗北を選びたい(作者:正樹)(原作:ガンダム)

夢の中で『何か』と駄弁っていたら、夢で喋ってた厨設定盛り盛りで幼児転生させられていたので、世話になった人のためにも、せめてジオンにはマシな敗北をしてもらいたいと頑張る話。▼1年戦争編終わりました。▼注:主人公の設定について一点、万人には納得しがたい年齢設定がございます。この話を書くにあたっての大前提となっておりますので、読む際にはそれをご了承いただくか、ある…


総合評価:47725/評価:8.56/連載:74話/更新日時:2026年06月19日(金) 17:00 小説情報

某魔法界でFateを布教する奴(作者:爆裂ハンター)(原作:ハリー・ポッター)

【簡易的なあらすじ】▼ビンボー気味な主人公(♂)が金稼ぎのためにFateシリーズを小説という形で執筆する話。▼なお、その小説は後々魔法界に多大なる影響を与えるとか。


総合評価:21926/評価:8.43/連載:10話/更新日時:2026年05月24日(日) 18:45 小説情報

FPSのUIが現実に見える俺が、いつの間にか殺し屋になるまで(作者:鳥獣跋扈)(オリジナル現代/冒険・バトル)

大学を出てから定職にも就けず、倉庫仕事とFPSゲームばかりの生活を続けていた青年・二階堂 恒一(にかいどう こういち)。▼彼の人生は、ある日を境におかしくなった。▼ゲームを終え、ふと顔を上げた瞬間――現実の世界に、FPSのHUDのような感覚情報が重なって見えるようになったのだ。▼他人の視線や足音の方向。▼危険が向かってくるアラート。▼――そして、銃を持った時…


総合評価:42084/評価:9.15/連載:53話/更新日時:2026年06月26日(金) 19:03 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>