「ニンゲン、コロス」
低い声が、母艦の通路に響いた。
ヘイセンは一人。
幅広い一本道の中央に立っていた。
正面。
押し寄せるグリーントロルの軍勢。
その先頭から、三体の下位戦士が前へ出る。
三体。
この通路で横に並べる限界。
だからこそ、この構造にした。
敵を分散させない。
同時に相手をする数を制限する。
ヘイセンは静かに息を吐いた。
そして、背中に背負っていた武器を取り出す。
麺棒のような一本の棒。
太い。
長い。
余計な装飾はない。
料理道具にも見える。
武器にも見える。
ヘイセンはそれを両手で構えた。
「来い」
「コロス!」
三体が同時に走る。
床が揺れる。
巨体。
爪。
牙。
食欲。
下位戦士とはいえ、人間が生身で相手をするには十分すぎる怪物。
だが。
「悪魔共食――」
ヘイセンの背後。
黒い食卓が開いた。
「黒き饗宴」
ブラック・バンケット。
食の記憶が燃える。
幼い頃に飲んだ、熱いスープ。
初めて宇宙へ出た日の祝い飯。
仲間たちと食べた焼き肉。
味。
匂い。
笑い声。
それらが黒い食卓へ並ぶ。
そして。
喰われる。
ヘイセンの全身から黒い食欲が溢れた。
「ふっ!」
棒を振る。
ゴン!!
一体目の頭部が大きく曲がる。
そのまま回転。
二体目の腹へ。
めり込む。
さらに前へ踏み込む。
三体目の顎を、下から跳ね上げた。
三体。
一瞬。
通路に倒れる。
「……」
後方にいたグリーントロルたちが足を止めた。
「あいつ、結構やりマスヨ」
「場所も厄介だな」
一体が通路を見る。
「狭いから三人が限界ダ」
「だが、そうもたんダロウ」
次の三体が前へ出る。
「イケ!」
突撃。
ヘイセンは棒を構える。
倒す。
次。
また三体。
倒す。
次。
また。
また。
また。
通路にグリーントロルの死体が積み重なっていく。
頭を砕かれた者。
首を折られた者。
腹を潰された者。
壁へ叩きつけられた者。
ヘイセンは一歩も退かない。
だが。
食卓の皿は減っていく。
記憶が消える。
味が消える。
黒き饗宴へ渡す料理がなくなっていく。
「はぁ……」
ヘイセンの呼吸が乱れる。
腕が重い。
棒を握る指が震える。
また三体。
「コロセ!」
「……来い」
振る。
一体。
二体。
三体目。
遅れた。
爪が脇腹を裂く。
「ぐっ……!」
血が飛ぶ。
ヘイセンは棒を振り抜き、三体目の頭を砕いた。
だが。
膝をついた。
「はぁ……はぁ……」
黒い食欲が薄れる。
黒き饗宴が閉じ始める。
もう。
食わせる記憶が少ない。
正面。
まだいる。
何十。
何百。
グリーントロル。
「終わりダナ」
一体が笑った。
「ニンゲン、ヨクヤッタ」
「ダガ、オワリ」
ヘイセンは俯いていた。
握っていた棒を床へ置く。
もう腕が上がらない。
腹の傷。
失血。
食欲の枯渇。
体は限界。
後方の脱出反応。
もうない。
全員。
出た。
「……そうか」
ヘイセンは小さく笑った。
「間に合ったか」
「?」
ヘイセンは顔を上げた。
そして。
静かに。
その名を口にした。
「悪魔共食――ノスタル」
その名を口にした瞬間。
黒い食卓が、静まり返った。
今まで。
皿を喰らっていた何か。
味を喰らっていた何か。
記憶を喰らっていた何か。
その存在が。
初めて、食卓の向こうからこちらを見た。
『……我の名を呼んだか』
「ああ」
『ヘイセン。意味を理解しているのか』
「分かるだろ?」
ヘイセンは笑った。
「私はもう死ぬ」
『……』
「だから全部やる」
味。
記憶。
食欲。
命。
「その分、力を貸してくれ」
食卓の向こう。
ノスタルは、ゆっくりとフォークを持ち上げた。
『……最後の一皿か』
「ああ」
ヘイセンは押し寄せるグリーントロルを見た。
「残さず食え」
『いただこう』
その瞬間。
黒い食卓が消えた。
いや。
違う。
ヘイセンの中へ入った。
「なんだ、この食欲エネルギーハ……!」
グリーントロルたちが足を止める。
ヘイセンの全身が。
真っ黒に染まっていく。
皮膚ではない。
服でもない。
食欲。
純粋な黒い食欲が、全身を覆う。
体の形が変わる。
肩。
背中。
腕。
人間の輪郭から外れていく。
それはもう。
元のヘイセンの姿ではなかった。
まるで。
悪魔。
黒き饗宴の向こう側にいた存在が。
ヘイセンという皿を着ている。
「バケモノ……」
グリーントロルの一体が呟いた。
次の瞬間。
ザン!!
音だけが残った。
ヘイセンの右腕。
いや。
右腕だったもの。
三本に分かれた、トライデントのような真っ黒な腕。
それが一瞬で通路を走った。
三体。
六体。
十体。
グリーントロルの体が裂ける。
「ナ――」
ザン!!
さらに。
黒い腕が伸びる。
壁。
天井。
床。
それらを避けながら。
生きているものだけを。
食欲だけを狙う。
引き裂く。
通路にいたグリーントロル。
全滅。
ヘイセンは止まらない。
走る。
母艦の外へ。
停泊していたグリーントロルの小型戦闘機。
一機。
黒い腕が貫く。
二機。
潰す。
三機。
裂く。
次。
次。
次。
すべて。
破壊。
その時間。
わずか五分にも満たない。
だが。
グリーントロル側の小型戦闘機は、まだ来る。
母艦から。
次々と。
こちらへ降りてくる。
ヘイセンは、それを見た。
もう声を出すことすら難しい。
味はない。
記憶も薄い。
自分の名前すら。
どこか遠い。
それでも。
最後に思う。
岩剛総司令官。
あとは任せます。
ヘイセンは母艦内部へ戻った。
中央通路。
壁際。
一つのスイッチ。
手を置く。
押す。
カチ。
次の瞬間。
母艦全体に警告音が響いた。
自爆。
動力炉。
食欲炉。
予備エネルギー。
すべてを解放。
外にいたグリーントロルたちが異変に気づく。
「ナンダ!?」
「ハナレロ!」
「母艦カラ離レロ!」
遅い。
ヘイセン部隊母艦。
大爆発。
赤い宇宙を白い光が染める。
近くにいたグリーントロルの戦闘機。
降下中の小型機。
母艦へ張りついていた兵。
すべて。
爆発へ飲み込まれる。
その中。
まだ逃げようとする者がいた。
「ニゲ――」
ザン!!
黒い腕。
ヘイセン。
爆発の中を進む。
逃がさない。
最後まで。
一体。
また一体。
追い打ち。
斬る。
裂く。
食欲を消す。
そして。
その途中。
ヘイセンは。
一瞬で。
静かに消えた。
爆発したわけではない。
崩れたわけでもない。
灰にもならない。
光にもならない。
ただ。
いなくなった。
匂いも。
食欲も。
味も。
何も残さず。
本当に。
静かに。
・・・
その状況は岩剛にも伝わっていた。
IGO宇宙戦艦団。
本艦。
「ヘイセン部隊母艦、消失!」
「大規模爆発!」
「敵小型機、多数巻き込まれています!」
「ヘイセン隊長の反応は……」
通信士が言葉を止める。
「消失しました」
「……」
岩剛は黙った。
スクリーンを見る。
ヘイセン。
反応。
食欲。
生命。
すべてなし。
岩剛は目を細めた。
「悪魔の名を呼んだか」
誰にも聞こえないほど、小さな声。
岩剛は一瞬だけ目を閉じた。
ヘイセン。
長い付き合いだった。
宇宙で何度も飯を食った。
何度も戦った。
何度も意見がぶつかった。
だが。
一瞬。
岩剛は目を開ける。
もう、総司令官の顔だった。
「ヘイセンの死を無駄にするな」
「はっ!」
「ヘイセン部隊から戻った戦闘機を点検!」
「はい!」
「補給!」
「はい!」
「損傷確認!」
「はい!」
「終わり次第、すぐに攻めるぞ」
岩剛は赤い宇宙を見る。
ヘイセンが作った時間。
ヘイセンが削った敵。
ヘイセンが残した戦闘機。
全部使う。
「止まるな」
岩剛は葉巻を噛んだ。
「ここは戦場だ」
宇宙戦は。
まだ終わらない。
金曜日は2話投稿!