Jackpot Dropout・名無しのギャンブラーと、気高き優等生   作:りー037

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第二章:名無しの虚無に、傲慢な火花を、そして白昼のパレード

 深夜の歓楽街を抜けると、街は再び深く静かな眠りの中へと沈んでいった。

 

 ネオンの明かりは遠ざかり、規則的に並ぶオレンジ色の街灯だけが、海風に吹かれる二人の影を冷たいアスファルトの上に長く伸ばしている。

 

 

 先ほどまでは大きく開いていた二人の歩幅は、いつの間にか自然と合っていた。

 

 前を歩いていた彼が歩みを緩めたのか、それとも後ろを歩いていた凛が少しだけペースを上げたのか。冬木の底冷えする夜の闇の中、二人は肩が触れ合いそうなほど近い距離で、並んで歩いていた。

 

 

 凛の腕の中には、先ほど彼が場末のゲームセンターのクレーンゲームで、取ってよこした、奇妙な黒猫のぬいぐるみが抱えられている。

 

 不気味だがどこか愛嬌のあるそのぬいぐるみの柔らかな感触は、聖杯戦争という呪われた殺し合いに身を投じる緊張感を、ほんの少しだけ和らげてくれていた。

 

 

 ふと、凛は隣を歩く彼の横顔を見上げる。

 

 その切れ長の瞳は、どこを見るでもなく、ただ退屈そうに虚空を見据えていた。

 

(……理不尽なまでの豪運。世界そのものを歪めるような、異常な確率干渉の力。間違いなく、サーヴァントとしての規格は持っている……でも)

 

 

 凛の脳裏に、先ほど遠坂邸の半壊した居間で彼が口にした言葉が蘇る。

 

 

 ——『俺自身の名前とか、来歴とかがさっぱり思い出せねぇ』。

 

 

 

 

 英霊にとって、己の真名と過去の記憶は、自らをこの世界に繋ぎ止めるアンカーであり、宝具という奇跡を行使するための絶対の基盤だ。それを喪失しているというのは、致命的なバグである。

 

 凛はぬいぐるみを抱く腕に少しだけ力を込め、白い息を吐き出しながら、意を決して口を開いた。

 

「……ねえ。一つ、聞いてもいいかしら」

 

「んー? なんだよ、嬢ちゃん。まだ説教足りねぇの? 俺はもう耳にタコができ……」

 

「そうじゃないわよ。……さっき家で言っていたこと。貴方が自分の名前も、過去の記録も思い出せないって話」

 

 

 凛の真剣な声のトーンに、彼は面倒くさそうに首をボキリと鳴らし、訝しげな顔を彼女へ向けた。

 

「あァ? ああ、その話か。……なんでそんなこと聞くんだよ。これからの作戦にどうしても必要なことか? 別に名前なんてただの記号だろ。俺が俺であることに変わりはねぇし、戦うのに支障はねぇよ」

 

 

 特に興味もなさそうに、彼はポケットに手を突っ込んだまま気怠く返す。

 

 彼にとって、己のルーツを探る行為など、パチンコ台の裏側の配線を調べるようなものだ。結果として玉が出れば(自分が存在していれば)それでいいのであって、過去の記録など知ったことではない。

 

 

 だが、凛は歩みを止めず、彼の横顔を真っ直ぐに見つめたまま言った。

 

「……貴方の記憶が混濁しているのは、私の召喚のせいなんじゃないかと思って」

 

 

 凛の言葉に、彼がわずかに歩くペースを落とした。

 

 

 彼女は続ける。

 

「本来なら、貴方は地下の工房の魔法陣に降り立つはずだった。でも、時計のズレと何らかの異常が重なって、居間へと叩きつけられる形で召喚が暴発した。あの召喚の不具合——魔力のパスの強引な接続のせいで、貴方の霊基情報が欠損して、記憶の一部が飛んだんじゃない?……」

 

 

 凛は少しだけ俯き、ブーツのつま先を見つめた。

 

 遠坂の当主として、どんな時も完璧でなければならないという彼女の矜持。それが、この予測不可能なバグを引き起こした原因が自分にあるかもしれないという可能性を、どうしても無視できなかったのだ。

 

「……貴方の記憶が曖昧なのって、私の召喚が不完全だったせい? だとしたら、マスターとして、謝っておかないといけないと思って」

 

 

 そう言って、凛は隣を歩く長身の彼を横目で見上げた。

 

 ブルーの瞳には、ほんの僅かな罪悪感と、不器用な誠実さが滲んでいた。

 

 

 

 だが。

 

 彼女を見下ろす彼の表情は、全く、何一つとして変わっていない。

 

 驚くでもなく、怒るでもなく。ただ、いつものように心底どうでもよさそうな、気怠げな雰囲気のままだった。

 

「……はぁ」

 

 

 まるで「そんなつまらないことをずっと気にしていたのか、このクソ真面目なガキは」と言わんばかりの態度。

 

「あのな、嬢ちゃん。原因がなんだったにせよ、俺は別に何とも思ってねぇよ。そもそも、俺みたいな異常なクラス(イレギュラー)が、まともな手順で召喚されるわけがねぇんだ。バグって当然。むしろ、よく俺みたいなハズレを引いて泣き言一つ言わねぇなと感心してるくらいだぜ」

 

「ハズレって……」

 

「イレギュラーってそういうもんだろ。それに……」

 

 

 彼はそこで言葉を切り、夜空を見上げた。

 

 星一つ見えない冬木の曇天。そのさらに向こう側、彼がかつて接続を試みようとした月の演算領域を透かし見るような、遠い目。

 

 

 なんとなくではあるが、自身のルーツ……存在の根源にある感覚を思い出し始めていた。

 

 明確なビジョンや記録があるわけではない。ただ、モヤがかかったような深層部分に、確かな『手触り』として残っている感覚。

 

「そもそも、お前の召喚ミスのせいかどうかは知らねぇけどな。……俺はもともと、名前なんてなかったんじゃねぇか。なんとなく、そう思うんだよな」

 

 

 彼は曖昧に、しかしどこか達観したような声でそう語った。

 

「もともと名前がなかった……? どういうこと?」

 

「俺は、もともとただの背景(モブ)だったってことだよ。世界ってゲームを動かすための、無数にある歯車の一つ。名前すらない、ただの『名無しの男』」

 

 

 

 凛は息を呑んだ。

 

 英霊とは、歴史に名を残した英雄、あるいは人々の信仰を集めた存在であるはずだ。名前を持たない存在が、英霊の座に至ることなどあり得るのだろうか。

 

「記憶がどうとか、召喚の不具合がどうとか関係ねぇ。俺は元々、名前のねぇ、ただのつまらない役割を与えられただけの、そういう『在り方』の存在なんだと。……俺の内側の何かが、そう囁くんだよ」

 

 

 彼の声には悲壮感は一切ない。

 

 ただ、自らの空虚さを事実として受け入れている、冷え切った諦観だけがあった。

 

「だが、これだけは言える。……俺は、本物じゃないんだ」

 

 

 

 チャリ、とクロスペンダントが鳴る。

 

「おそらく、借り物の何か。何らかの強烈な存在……オリジナルの熱に当てられて、心を動かされ、本来なら自我なんて持たないはずのシステムの一部が、自立した存在。なんとなく、そんな気がするんだよな」

 

 

 

 ——『俺は、熱を愛してる』。

 

 

 不意に、彼の脳裏に、誰か分からない男の声が響いた。

 

 

 それは自分自身の声のようでもあり、全く別の誰かの声のようでもある。

 

 狂気すら孕んだ、極限のギャンブルに命を賭ける、熱を持った男の残響。

 

 「元々のオリジナルとも言える、強烈な『熱』を持ったギャンブラー。俺はそいつの記録(コピー)なのか、それとも、そいつの生き様にただ影響を受けただけのシステムの残骸なのか。……わかんねぇけどさ」

 

 

 彼はジッポライターを取り出し、カチン、と火を点けてタバコをくわえた。

 

 シュボッ、と紫煙が上がり、夜風に流されていく。

 

「たぶん、俺はもともとこうなんだ。名前はなく、生きる意義もなく、大層な理由もない。存在価値すらない、ただ運がいいだけのどうしようもないクズ。……俺はなんとなく、自分で自分をそう思ってる。ってことは、それが俺の『真実(ルーツ)』なんだろう」

 

 

 彼はタバコを指に挟み、フッと煙を吐き出して凛を見た。

 

「だから、お前は別に気にしなくていい。誰のせいでもねぇよ。俺はもともと空っぽで、価値がねぇんだからな」

 

 

 そう言って、彼は本当に何事もなかったかのように、特にテンションを変えることもなく、ダラダラと歩き出す。

 

 

 自分には存在価値がない。自分はただのモブであり、借り物の偽物である。

 

 そんな残酷な自己評価を、まるで明日の天気を語るかのように平然と口にする彼を見て。

 

 

 

 ——凛の心に、激しい波が立った。

 

 それは、同情だろうか。哀れみだろうか。いや、違う。

 

 魔術師として、自分のサーヴァントの欠陥を憂う気持ち? それも違う。

 

 

 凛の胸の奥底で燃え上がったのは、もっと純粋で、そして遠坂の女としての『強烈な傲慢さ』と『怒り』だった。

 

(……ふざけないでよ)

 

 

 凛は立ち止まり、彼の背中を強く睨みつけた。

 

「……ちょっと待ちなさいよ」

 

 

 凛の低く、静かな声に、彼は面倒くさそうに足を止めて振り返った。

 

 彼女は、彼から貰った不気味な猫のぬいぐるみを左腕で強く抱きしめ、空いた右手の指をビシッと彼に突きつける。

 

「名前がない? 意義がない? 存在価値がない? ……貴方、私の前で本気でそんな寝言を言ってるわけ?」

 

「あァ? 寝言じゃねぇよ。ただの事実だろ。俺は……」

 

「黙りなさい!」

 

 

 凛の強い一喝が、深夜の冷たい空気を震わせた。

 

 彼女の瞳は、街灯の光を反射して、宝石のように強く、気高く輝いていた。

 

「自分が空っぽのコピー品だっていうなら、それでいいわ。過去がないなら、それも結構。……でもね、貴方は今、ここに存在していて、私の魔力を喰って、こうしてタバコを吸って、生意気な口を叩いてるじゃない!」

 

「…………」

 

「私に召喚されて、私のサーヴァントになった時点で、貴方の存在価値は『私が』決めるのよ! 自分がつまらないモブだなんて、勝手に自己評価を下げて、言い訳してんじゃないわよ!」

 

 

 凛はヒールを鳴らして一歩、彼に近づいた。

 

 冷たい風が彼女のツインテールと赤いコートを激しく揺らすが、彼女の姿勢は一本の槍のように真っ直ぐで、微塵のブレもなかった。

 

「……じゃあ、この聖杯戦争を通して、自分が何者なのか、思い出せばいいじゃない。歴史がないなら、今からここで作ればいい」

 

 

 彼女は、強がりのようにも見える、しかし絶対的な自信に満ちた笑みを浮かべた。

 

 それは魔術師としての冷徹さではなく、一人の少女としての、強烈な生命力に溢れた傲慢で気高い笑顔だった。

 

「マスターとしての責任もあるわ。……私が、貴方が何者かを見つけるまで、最後まで付き合ってあげる。だから、もう二度と私の前で『自分は価値がない』なんてくだらないこと言わないで。わかった!?」

 

 

 それは契約の再確認であり、同時に、底なしの虚無を抱える彼の霊基に対する、強烈な『熱』の照射だった。

 

「…………」

 

 

 ムーンキャンサーの彼は、突きつけられた指先と、彼女の真っ直ぐな瞳をしばらく無言で見つめていた。

 

 自分の空っぽな器を、責任という名目で強引に埋めようとする、この生真面目で傲慢なお嬢様。

 

 彼の中の『勝負師の直感』が、微かに警鐘を鳴らす。この女の『熱』に当てられれば、これからの日々は間違いなく、平穏とは無縁の、命をチップにした狂ったギャンブルになるだろう、と。

 

 

 

 ——だが。

 

 なぜだろうか。その狂ったテーブルにつくのも、悪くない気がした。

 

 

 

 フッ、と。

 

 彼は咥えていたタバコの煙をゆっくりと空へ吐き出すと、口の端をわずかに吊り上げて笑った。

 

「……ハッ。言うじゃねぇか、クソ真面目なガキが」

 

 

 その笑みは、今まで見せていた退屈なソレとは違い、ほんの僅かだが、ギャンブラーとしての『熱』を帯びていた。

 

「俺みたいなどうしようもないクズに、最後まで付き合う? 責任を取る? ……あとで泣き言言っても知らねぇぞ。俺の『確変』は、振り落とされずに乗っかるのも命懸けだからな」

 

「上等よ。誰に向かって口を利いてるの。私は遠坂凛よ。貴方のそのくだらない運ごと、私が完璧に使いこなしてあげるわ」

 

 

 凛は不敵に笑い返し、彼を追い抜いて先へと歩き出した。

 

 赤いコートの背中が、街灯の光に照らされて遠ざかっていく。

 

 

 彼はその背中を少しだけ見つめ、首の後ろを掻きながら、呟いた。

 

「……あーあ。こりゃ、マジで面倒なマスターを引いちまったな。……ま、退屈はしなさそうだが」

 

 

 彼はゆっくりと歩き出し、彼女の隣へと並んだ。

 

 

 冬木の冷たい夜風の中、歩幅を合わせた二人の影が、再び一つになって坂道を上っていく。

 

 最悪の召喚から始まった、イレギュラーと優等生のコンビ。彼らの本当の契約は、この深夜の冷たい路地裏で、確かに結ばれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬の澄み切った朝日が、ステンドグラス越しに遠坂邸のリビングへと差し込んでいた。

 

 

 昨夜の召喚事故——正確には上空からの『不時着事故』によって半壊した居間は、夜が明けて明るくなったことで、より一層その惨状を露わにしていた。

 

 真っ二つにへし折れたマホガニー製のローテーブル。破れたクッションから飛び出し、床一面に雪のように降り積もった白い羽毛。そして、天井にぽっかりと開いた大穴からは、刺すような冬の冷たい朝の空気が容赦なく流れ込み、室内の温度を外気とほぼ同じ氷点下近くまで引き下げている。

 

「……はぁ」

 

 

 身支度を完全に終え、私服に着替えた遠坂凛は、リビングの入り口でその惨状を前に深々とため息をついた。

 

 

 昨夜はあの後、場末のゲームセンターから帰宅した時点ですでに午前四時を回っていた。そこから最低限の魔術的な防衛結界の張り直しと、この半壊した居間の冷気を防ぐための簡易的な風避けの術式を編み上げ、ベッドに入ったのは明け方近く。睡眠時間はわずか二時間足らずだ。

 

 それでも、彼女の足取りに乱れはない。遠坂の当主として、そして聖杯戦争を勝ち抜くマスターとして、いかなる時も完璧なコンディションと優雅さを保つ。それが彼女の矜持だった。

 

 

 

 ——だが、その完璧な矜持を、初日から根底からへし折ってくる存在が、目の前にいた。

 

「……ちょっと。いつまで寝てる気よ」

 

 

 彼女の視線の先。アンティーク調の高級なソファ——昨夜の事故でかろうじて原形を留めていた、三人掛けの長いソファの上。

 

 

 そこに、件のサーヴァントが丸まって寝ていた。

 

 その長身を持て余すようにして、彼は窮屈そうに身をよじっている。長い脚はソファの肘掛けから完全にはみ出し、床にだらりと垂れ下がっていた。

 

 

 さらに凛の神経を逆撫でしたのは、彼の顔周りだった。

 

 寝ているというのに、彼はあのティールブルーの丸型サングラスをかけたままなのだ。髪は、後ろでまとめていたルーズなお団子から完全にほつれ、無防備に顔にかかっている。耳元や首に巻きついたままのピアスやクロスペンダントのシルバーアクセサリーが、彼がわずかに呼吸をするたびに、ジャラリ……チャリ……と、耳障りな金属音を立てていた。

 

 

 見るからにチンピラ。あるいは、徹夜で遊び明かして路地裏で行き倒れた社会のドロップアウト。

 

 これが、七人の選ばれし英霊の一角。そして、昨夜の路地裏で「私が最後まで付き合ってあげる」と、傲慢にも気高く契約を交わし直した、自分のパートナーの姿である。

 

(……昨日の夜の、あの真面目な決意を返してほしいわね、本気で)

 

 

 凛はこめかみにピキリと青筋を浮かべながら、ソファへと歩み寄った。

 

「起きなさいってば! もう朝の7時よ!!」

 

 

 バンッ! と、凛はソファの背もたれを強く叩いた。

 

 舞い上がった羽毛が、朝日に照らされてキラキラと光る。

 

 その鋭い破裂音に、長身のサーヴァントは「ビクッ」と反応する……ことは一切なく、ただ本当に面倒くさそうに、のそりと寝返りを打っただけだった。

 

 

 ジャラリ、と大量のアクセサリーが重たい音を立てる。

 

「……んあー……」

 

 

 彼の口から漏れたのは、英霊としての覇気など微塵も感じさせない、気怠い呻き声だった。

 

 サングラスが鼻先までずり下がり、その隙間から、まだ半分も開いていない切れ長の瞳が、鬱陶しそうに凛を見上げる。

 

「……? あー……嬢ちゃん、もう朝か……。太陽眩しすぎだろ、カーテン閉めろよ……。ダル……俺はパス。寝る……」

 

 

 そう言って、彼は再び丸まろうと背中を向けた。

 

 パス。そのふざけた二文字に、凛の中で張り詰めていた理性の糸が、昨夜に引き続いて凄まじい音を立てて断裂した。

 

「パスじゃない!! あと誰が嬢ちゃんよ、凛と呼びなさいって何回言えば分かるの!!」

 

 

 凛は彼の肩を掴み、強引に揺さぶった。

 

 力づくで引き起こそうとするが、彼の身体は見た目の細さに反して岩のように重く、そして筋肉の芯に奇妙な柔軟性が備わっており、手応えが全くない。

 

「いい? 私はこれから、街の調査と、敵陣営の痕跡を探るために街を回るの! 今後の打ち合わせと、偵察よ! 聖杯戦争中は、いつどこで敵のマスターやら使い魔が襲ってくるか分からないんだから!」

 

 

 凛が腰に手を当て、魔術師としての基礎知識を叩き込むように説教を始めると、彼は「うるせぇな……」と小さく毒づきながら、ようやくのそりと上体を起こした。

 

 

 ふぁあ、と涙目になりながら大きな欠伸をして、ボキ、ボキボキッ、と首と肩の関節を乱暴に鳴らす。

 

「だから、あなたは基本『霊体化』して私に同行すること。マスターの傍に潜み、有事の際に実体化して私を守る。これが基本戦術よ。分かった?」

 

 

 凛がそう言い含めると、彼はずり下がったサングラスを中指でくいっと押し上げ、切れ長の瞳で凛をジトッと見下ろした。

 

「霊体化? あー……あれ、マジでダルいから嫌だわ」

 

「……は?」

 

「だから、嫌だっつってんの。なんかフワフワして足が地に着かねぇ感じで落ち着かねぇし、何より、霊体の状態じゃタバコも吸えねぇだろ。俺、実体で行くわ」

 

 

 悪びれる様子など一切なく、彼はさも当然の権利を主張するかのように、ポケットからくしゃくしゃのタバコの箱を取り出し、無骨なジッポライターでカチンと火を点けた。

 

 

 シュボッ。朝の清浄な空気が、一瞬にして俗悪な紫煙に汚染されていく。

 

「なっ……! フワフワして落ち着かないって、貴方、英霊でしょうが! 理由がタバコって、本気で言ってるの!?」

 

「本気も本気だ。ニコチンが切れたら俺の『直感』も鈍るんだよ。だから、俺もそのまま付いてく。家にいても暇だしな」

 

「だから! サーヴァントが実体でマスターの隣を歩いてたら、魔術師ですって看板を下げて歩いてるようなものじゃない! 隠匿は魔術世界の絶対のルールよ!」

 

「大丈夫だって。それに、パチ屋開くの10時からだろ? 朝イチから並ばねぇと、いい台取れねぇしな」

 

 

 彼は深く煙を吸い込み、フーッ……と、天井の大穴に向かってだらしなく煙を吐き出した。

 

「開く時間の問題じゃないでしょ!! 何を聖杯戦争中に朝イチからパチンコに並ぼうとしてるのよ!!」

 

 

 凛はついに頭を抱え、その場にしゃがみ込みそうになった。

 

 

 話が通じない。魔術師の常識も、英霊としての誇りも、この男には一切通用しないのだ。

 

 令呪を使えば、強制的に霊体化させることは可能だ。だが、たった三画しかない絶対命令権を、「タバコが吸いたいから霊体化しない」とゴネるサーヴァントを従わせるためだけに使用するなど、恥以外の何物でもない。

 

(あぁもう、ほんっとに手がかかる……! 昨日の夜の、あのしんみりした雰囲気はなんだったのよ!)

 

 

 凛はギリッと奥歯を噛み締め、深呼吸をしてから、彼を頭の先からつま先まで睨みつけた。

 

「いい!? 貴方のその格好、どう見ても不審者じゃない! その長身で、真っ黒な服をだらしなく着崩して、室内でもサングラスかけて、ピアスじゃらじゃらで、極めつけは首にタトゥー! そんなのが真っ昼間の冬木市をうろついてたら、敵の魔術師に見つかる前に、5分で警察呼ばれて職務質問されるわよ!」

 

 

 凛の極めて真っ当な、社会生活における正論。

 

 

 だが、彼はその言葉をどこ吹く風と受け流し、灰皿代わりの空き缶にタバコの灰をトントンと落とした。

 

「平気平気。俺、マジで運いいから。警察くらい適当に誤魔化せるって。職質されても、サイコロ振って奇数が出たら見逃してもらうルールにすればいいだろ」

 

「貴方のその幸運(スキル)は、そういうくだらないことに使うものじゃないの!! 現実の警察官がサイコロのルールなんて受け入れるわけないでしょ!!」

 

 

 何を言っても「ダルい」「めんどくさい」「霊体化は肩が凝る(霊体なのに)」と譲らない男。

 

 五分ほどの激しい(凛が一方的に怒鳴る)口論の末、時計の針が7時15分を指したところで、凛はついに白旗を揚げた。時間だけが無駄に過ぎていくことに耐えられなかったのだ。

 

「……分かったわよ。もういい、実体のまま同行するのは許可する。」

 

 

 凛が妥協を示すと、彼は「お、話が分かるねぇ」とニヤリと笑った。

 

「でも! 絶対に私の知り合いみたいな顔しないで。他人のフリをして、少し離れて歩くこと。あと、せめてその首の禍々しいタトゥーは隠しなさい! 隠匿の第一歩よ!」

 

 

 凛はそう叫ぶと、ソファの端に置いてあった、自分の防寒用の赤いマフラーを乱暴に掴み上げ、彼に向かって思い切り投げつけた。

 

 

 

 バサッ!

 

 視界の端から唐突に飛んできた赤い布塊。

 

 だが、彼はサングラスの奥で瞬き一つせず、気怠げな姿勢のまま、左手を軽く顔の前に差し出した。

 

 

 パシッ。

 

 見事な反射神経——コンマ一秒の危機を無意識に回避する『勝負師の直感』と『無窮の極致』の片鱗が、ただのマフラーのキャッチという日常の動作で無駄に発揮される。

 

 

 彼は受け取った赤いマフラーを広げ、「はいはい」と心底面倒くさそうに首に巻きつけた。

 

 

 

 タトゥーは完全に隠れた。

 

「行くわよ! さっさと靴履きなさい!」

 

「へいへい。人使いの荒いマスターだぜ、全く」

 

 

 彼は、ジャラジャラとチェーンを鳴らしながら、だらだらと彼女の後を追って玄関へと向かった。

 

 

 こうして、第五次聖杯戦争の二日目。

 

 本来ならば息を潜め、影から敵を刺すはずのサーヴァントが、真っ赤なマフラーを巻いた実体の姿で白昼の街へと繰り出すという、前代未聞のパレードが幕を開けたのである。

 

 

 

 

 

 

 

「……なぁ、嬢ちゃん。歩幅、全然合わねぇんだけど」

 

「貴方が遅いんでしょ! もっとシャキッと歩きなさいよ!」

 

 

 冬の冷たい空気が張り詰める、通勤・通学時間帯の朝の街。

 

 凛は前を歩きながら、背後から気だるげについてくる巨大な影に、ヒヤヒヤと胃を痛めていた。

 

 

 彼は、ポケットに両手を深く突っ込み、完全に猫背でダラダラと歩いている。

 

 

 しかし、それでも彼の独特の退廃的なオーラ、そして首に巻かれた鮮やかな赤いマフラーは、朝の健全な街の風景の中で、否応なしに周囲の目を惹きつけていた。

 

 すれ違うサラリーマンや、近所の主婦、登校中の女子高生たちが、すれ違いざまに必ずと言っていいほど彼をチラチラと振り返る。

 

 

(……ねぇ、ちょっと見た今の男の人。すっごい背高くない?)

 

(……モデルさんかしら? 雑誌の撮影とか? 顔、すっごく整ってたわよ)

 

(……でもなんか、ちょっと柄が悪そうというか、怖い雰囲気じゃなかった? サングラスしてたし、なんかジャラジャラ鳴ってたし)

 

(……前歩いてる赤い服の女の子の、彼氏かな? 年の差カップル?)

 

 

 距離が離れていても、凛の聴覚には、彼らのヒソヒソ話が痛いほどはっきりと届いていた。

 

 特に「彼氏」という単語が耳に入った瞬間、凛は顔を真っ赤にして、振り返りざまに彼をキッと睨みつけた。

 

「ねぇ! お願いだから、もう少し気配を消せないの!? 悪目立ちしすぎよ! 魔術師の隠匿のルール、さっき教えたばっかりでしょう!」

 

 

 凛の必死の抗議に対して、彼はサングラスを中指で押し上げ、心底不思議そうな顔をした。

 

「あァ? 俺は普通に歩いてるだけだっつの。魔力も抑えてるし、静かにしてる。これ以上どう消えろってんだよ。……というか、朝から元気だな、お前。俺はもう足が限界だ、帰って寝てぇ……」

 

 

 そう言って、彼は大げさにふぁあ、と欠伸をした。

 

 

 嘘ではない。彼は本当に、ただ普通に歩いているだけなのだ。

 

 だが、彼の持つ『幸運EX』と『黄金律EX』という特異な霊基の性質は、彼という存在を否応なしに「世界の中心(当たり)」へと引き寄せてしまう。無意識のうちに、周囲の人間の視線や興味という『事象』すらも、彼に向かって集束してしまうのだ。

 

「……ッ、ほんとに……前途多難ね」

 

 

 敵のサーヴァントの影に怯える前に、この自堕落で目立ちすぎる自分のサーヴァントをどうやって制御し、社会の目から隠すか。

 

 

 聖杯戦争という非日常の殺し合いの前に、あまりにも巨大な「壁」が立ちはだかっていた。

 

「ほら、さっさと歩く! 敵の痕跡が見つかるまで、絶対に帰さないからね!」

 

「……鬼。悪魔。血も涙もねぇマスターだぜ。あーあ、早く10時にならねぇかな」

 

 

 ブツブツと文句を言いながら、赤いマフラーをなびかせてダラダラと歩くドロップアウトの英霊。

 

 その後ろ姿を追いかけながら、凛は早くもこの狂ったギャンブルのテーブルに座ってしまったことを、ほんの少しだけ後悔し始めていたのだった。

 

 

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冬木市で行われる魔術師たちの殺し合い『第五次聖杯戦争』。▼必勝を期して最強の剣士(セイバー)を召喚したはずの遠坂凛の前に現れたのは、万能の杯すら鼻で嗤う「呪いの王」両面宿儺だった。▼伏黒恵の肉体(全盛期の力)と、一度敗北を知り丸くなった(?)精神。▼二つの極致を併せ持つアルターエゴにとって、この命懸けの儀式は単なる「暇つぶし」でしかない。▼機嫌を損ねれば即・…


総合評価:3807/評価:8.48/完結:52話/更新日時:2026年06月05日(金) 22:51 小説情報


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