汽車の窓の外を、知らない景色が流れていく。
畑。森。小さな駅。遠くの丘。どれも、ミラ・ローレンスの知らない場所だった。ホグワーツ特急は、規則正しい音を立てて線路の上を進んでいる。
コンパートメントには、ミラのほかに誰もいない。それはありがたいことのはずだった。知らない子供の声も、笑い声も、視線もない。けれど静かすぎると、別の声が戻ってくる。
死亡届。
ミラ・ローレンスの死亡届は、すでに受理されています。
グリンゴッツの小鬼が告げた言葉は、汽車の音に混ざっても消えなかった。フリットウィックは何度も抗議してくれたが、小鬼は帳簿と羊皮紙を見せるだけだった。
記録は記録です。
その言い方は、石より冷たかった。
死亡届のことは、ダンブルドアに確認を取るとフリットウィックが言ってくれた。だから、ミラが今すぐ何かをしなくてはならないわけではない。
買い物に使ったお金のことも、フリットウィックは責めなかった。
「今日の分は、しばらく私が預かる形にしましょう。君の記録が正されて、金庫が使えるようになってからで構いません」
そう言われた時、ミラは頷くことしかできなかった。
借りたものができた。返さなければならないものができた。けれど、返すための金庫は閉じていて、そもそも自分は、記録の上では死んでいる。
そのことが、喉の奥に小さな石のように残っている。
けれど、それよりも気になることがあった。
三年前。
死亡届が受理されたのは、三年前だという。
三年前。八歳の頃。
ミラは、その頃のことを覚えていなかった。それより前のことも、何も。
名前だけは知っていた。指輪の内側に、そう彫られていたから。
父の顔も、母の声も、焼ける前の家の形も。自分がどこで何をしていたのかも。なぜ町の人間が自分を化け物と呼ぶのかも。
思い出そうとすると、頭の中に白い壁のようなものが立ちはだかる。向こう側に何かがある気はする。けれど、触れようとすると指先が滑る。引っかかるものは、何もない。
最初に覚えているのは、扉の前だった。
目を開けると、そこに家があった。まだ焼けていない家だった。
ミラには、それが自分の家なのかどうかもわからない。なぜそこに立っているのか、どこから来たのか、誰を待っているのか。頭の中は空っぽで、体だけがそこに置かれているようだった。
自分の手を見る。左手の中指には、緑色の石が嵌まった指輪があった。内側に小さな文字が彫られている。
ミラ・ローレンス。
それが自分の名前なのだと、そう思うしかなかった。けれど、誰が指輪をくれたのかも、その名前を誰が呼んでいたのかも、何も思い出せなかった。
玄関の扉を叩いても返事はない。喉が渇いている。お腹も空いている。いつから何も食べていないのかはわからないが、胃の奥が縮むように痛かった。
ドアノブに手をかけると、扉は開いた。
中は、ひどく荒らされていた。棚は倒れ、引き出しは抜かれ、床には本や紙束が散らばっている。誰かが何かを探した後のようだった。けれど、その誰かはもういない。
「……誰か」
声は小さく、家の奥へ吸い込まれて、それきり戻ってこない。
誰もいない。
それでも、食べ物は探さなければならなかった。台所で戸棚を開けると、奥に固くなったパンと萎びた野菜が少し残っている。食べられるかどうかはわからない。けれど、お腹は痛いほど空いていた。
ミラは床に座り、パンを食べた。乾いていて、喉に引っかかる。それでも飲み込むと、体の奥に少しだけ熱が戻った。
食べ終わる頃には、外が騒がしくなっていた。
大人の声。子供の声。
窓へ近づく。庭も、門も、道も見えた。家はまだ焼けていない。外から見れば、そこには普通に家があるはずだった。なのに、外の人たちは、まるで何かを探すように周囲を見回している。
誰かいる。
この家に誰か戻ってきたのかもしれない。自分のことを知っている誰かがいるのかもしれない。
ミラは玄関へ向かい、扉を押し開けた。
一歩、外へ出る。二歩。敷石から庭の土へ足を下ろした瞬間、道の方に集まっていた人々の顔が、一斉にこちらを向いた。
「いたぞ」
「生きてる」
「やっぱり化け物だ」
化け物。
意味はわからなかった。けれど、向けられた感情だけはわかった。嫌悪。恐怖。怒り。
「お前がやったんだろ」
「盗んだ」
「呪った」
「人を襲った」
「近づくな」
言葉がいくつも飛んでくる。けれど、どれにも覚えがなかった。
「違います」
そう言ったつもりだった。けれど、何が違うのかもわからない。
「知りません。私、何も……」
最後まで言う前に、小石が肩に当たった。
痛かった。
次の石は足元に跳ねた。誰かが叫ぶ。誰かが笑う。さらに石が飛んでくる。
「出てくるな」
「この町から出ていけ」
「化け物!」
ミラは後ずさった。ここにいてはいけない。それだけはわかった。
扉に背中が当たる。慌てて振り向き、家の中へ逃げ込んだ。
玄関の内側へ足を踏み入れた瞬間、外の声が変わった。
「あれ?」
「どこ行った?」
「今、そこにいたよな?」
声も足音も、すぐ外にある。けれど、誰も扉を開けない。誰も入ってこない。
「家なんかあったか?」
「空き地だろ、ここ」
「でも、今、扉の音が……」
「扉? どこの?」
ミラは口を両手で押さえた。
外の人間は、見失っている。ミラだけではない。この家そのものを、うまく見ていない。
外へ出た時だけ、見つかった。家の中へ戻った途端、見失われた。
なぜかはわからない。ただ、この家の中にいれば、見つからないのかもしれない。
けれど、安心するには早かった。
焦げた匂いがした。
煙。
窓の外で、赤い光が揺れた。次の瞬間、火のついた布の塊が、見えていないはずの窓を割って転がり込んだ。
床に落ちる。炎が広がる。
「燃やせ!」
「化け物の巣だ!」
外の声が笑った。
「やめて」
声は煙に消えた。
「やめて、ください」
誰も聞いていなかった。
逃げなければ。けれど外には人がいる。裏口を探そうとしたが、廊下の奥はすでに煙で白く濁っていた。
ミラは台所へ戻り、さっき集めたパンと野菜を掴んだ。なぜそれを持ったのかはわからない。ただ、空腹だけは怖かった。
その時、暖炉が目に入った。灰に埋もれた奥に、金属の取っ手のようなものがある。
咳き込みながら膝をつき、両手で引く。重い音を立てて、暖炉の底が開いた。
下に、階段があった。
暗い階段だった。けれど、上には火がある。外には人がいる。ミラは迷わなかった。
食べ物を抱え、階段へ足を下ろす。一段。二段。三段。背後で、火の音が大きくなる。家が軋む。誰かの笑い声が遠くなる。
階段の底には、重い扉があった。押すと、少しだけ動く。隙間から、ランプのような弱い光が漏れている。ミラは肩で押し、体が通れるだけの隙間を作った。
中は、地下室だった。
光は明るすぎない。けれど、何も見えない暗闇でもなかった。壁は石で、床は冷たい。棚には本や紙束が並び、見たことのない機械がいくつも置かれている。
そして、部屋の奥に、何かがいた。
青い、雫のようなもの。
それはミラを見ると、跳ねた。
ぷに。
もう一度。
ぷに、ぷに。
まるで待っていたものが帰ってきたように、青い体が弾む。目と口しかない顔が、笑っているように見えた。
ミラは食べ物を抱えたまま後ずさった。
「来ないで……ください」
強く言うつもりだったのに、最後の言葉だけが小さく足された。知らないものを怒らせたくなかった。
青いものは、ぴたりと止まった。それ以上近づいてこない。ただ、その場で小さく揺れている。
ぷに。
今度の音は、少し小さかった。困っているように聞こえた。
どうして。そんなふうに言われている気がした。
けれど、ミラには何もわからない。目の前の生き物が何なのかも、この地下室が何なのかも、自分がなぜここにいるのかも。
「……何、ですか」
青いものは答えない。こちらへ来ようとして、途中で止まる。
「来ないで、ください」
青いものは、今度も止まった。少しだけ体を低くする。待つ、という仕草のように見えた。
何もしてこない。
火を投げてこない。石を投げてこない。怒鳴らない。掴まない。
それでもミラは近づかなかった。
しばらくして、青いものはゆっくりと部屋の端へ跳ねていった。離れていく。けれど、完全には離れない。まるで、怖がらせないようにしているみたいだった。
ミラは息を吐いた。
部屋の中を調べることにした。
大きな機械が壁際にあった。押してみる。何も起きない。
別の机には、画面のついた角ばった箱が置かれていた。ボタンを押すと、黒かった画面に文字が出る。けれど、読めない言葉が多かった。
棚の紙束も難しい言葉ばかりだった。何かの記録らしいもの。けれど、何を記録しているのかはわからない。
わからないものばかりだった。
自分のことも。家のことも。外の人間が怒っていた理由も。この地下室のことも。目の前の青いもののことも。
その時、青いものが小さく跳ねた。
ぷに。
青いものは、棚の前にいた。一つの棚の下で、こちらを見上げている。
ぷに、ぷに。
「……そこに、何かあるんですか」
嬉しそうに跳ねる。嬉しそうに、ミラには見えた。
ミラは警戒しながら棚へ近づいた。青いものは、近寄らない。ミラが一歩進むたびに少し横へずれ、通り道を空ける。
棚には、古い本と紙束が並んでいた。その中に、背表紙だけが擦り切れたリングバインダーがある。表紙には、子供の手で貼ったような紙がついていた。
モンスターライブラリ。
表紙の端には、丸い生き物の落書きがある。その下に、別の字で短く何かが書かれていた。
――知らないモンスターを見つけたら、ここに記録すること。
誰が書いたのかはわからない。けれど、そこだけ他の書類と違っていた。誰かが、誰かのために残した言葉に見えた。
胸の奥が、少しだけざわついた。何かを思い出しそうになる。けれど、白い壁のようなものが頭の中に立ちはだかる。
青いものが、そっと近づいた。ミラは身を引きかける。青いものは、すぐに止まった。
ぷに。
急かすのではなく、ただ待っている音だった。
ミラはリングバインダーを開いた。中には、紙が一枚だけ入っている。その紙には、青い生き物の写真があった。丸い体。雫のような形。目と口。目の前にいるものと同じだった。
ミラは文字を追い、名前を見つけた。
「……スライム」
声に出した瞬間、青い生き物が高く跳ねた。
ぷに!
今度は、はっきりと嬉しそうだった。
「あなたの、名前ですか」
ぷに、ぷに。
スライム。
ミラはもう一度、紙を見る。それから、目の前の青い体を見た。スライムは、ミラを見ている。期待しているように。安心しているように。ようやく思い出してくれた、と言いたそうに。
けれど、ミラには何も思い出せなかった。
「……ごめんなさい」
なぜ謝ったのか、自分でもわからなかった。スライムがぴたりと止まる。
「私、あなたのことを、知っていたんですか」
答えはない。けれど、スライムはゆっくりと近づいてきた。今度は、ミラも逃げなかった。
青い体が、ミラの靴の先にそっと触れる。
冷たい。柔らかい。
触れ方は、ひどく慎重だった。怖がらせないように。忘れられても、怒っていないと伝えるように。
外の人間たちは、ミラを化け物と呼んだ。盗んだ、呪った、人を襲ったと叫んだ。火を投げ込んだ。
この青いものだけが、ミラを見ても逃げなかった。ミラが忘れていても、離れなかった。
モンスター。
紙にはそう書かれている。
化け物。
外ではそう呼ばれた。
同じような言葉なのに、全然違って聞こえた。
その時、お腹が鳴った。煙と恐怖で、体の中の力を全部使ってしまったようだった。
ミラは持ってきたパンを見た。スライムも、それを見た。
「……食べますか」
この生き物が何を食べるのかも知らない。近づけたら、噛まれるかもしれない。けれど、スライムはただ待っている。
ミラはパンの欠片を床に置いた。スライムが近づく。笑っているように見えた小さな口が、ぱくりと開いた。パンの欠片が、その口の中へ消える。
しばらくして、スライムが跳ねた。
ぷに。
「……おいしい、ですか」
ぷに。
ミラは残りのパンを小さく割った。自分の分。スライムの分。そうやって分けているうちに、少しだけ呼吸が楽になった。
ここには、外の声が届かない。火の音も遠い。石も飛んでこない。
スライムは、ミラの近くで丸くなった。ミラは壁際にあった古い毛布を引き寄せる。埃っぽい。けれど、床に直接横になるよりはましだった。
横になると、体中が痛かった。今日、自分に何が起きたのか。なぜ町の人たちは自分を知っていて、憎んでいるのか。なぜ自分は何も覚えていないのか。考えようとしても、頭がうまく働かなかった。
ぷに。
スライムが、少しだけ近づいていた。
ミラは身を固くする。けれど、スライムはそれ以上何もしなかった。ただ、そこにいるだけだった。
敵ではない。
その言葉が、胸の中に落ちた。味方かどうかは、まだわからない。仲間と呼べるのかも、わからない。
けれど、このスライムは、たぶん前からミラを知っている。そして、ミラが忘れてしまっても、まだここにいる。
それだけで、今は十分だった。
「……スライム」
小さく呼ぶ。青い体が、返事のように揺れた。
ミラは目を閉じた。
その夜、ミラは初めて、その青い生き物の名前を知った。
スライム。
本当は、初めてではなかったのかもしれない。けれど、今のミラが覚えている最初の名前は、それだった。
名前を何度も心の中で繰り返しながら、ミラは眠った。
隣にいるものが、敵ではない。それだけで、少し息ができた。
ぷに。
その音で、ミラは目を開けた。
窓の外では、知らない景色がまだ流れている。ホグワーツ特急の車輪の音が、体の下で規則正しく続いていた。ほんの一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
地下室ではない。
焼け跡の家でもない。
コンパートメントだった。
座席の下から、もう一度、小さな音がする。
ぷに。
ミラは身を屈め、布をかけたフクロウ用の籠を覗いた。中で、青い体が小さく揺れている。スライムは狭い場所が嫌なのか、丸い体を少しだけ押しつけるようにしてこちらを見上げていた。
「ごめんなさい。もう少しだけ、我慢してください」
ぷに。
怒ってはいないようだった。
ミラは胸の奥に残っていた息を、細く吐いた。三年前、何も覚えていない自分の隣にいてくれたものが、今もここにいる。地下室から、森を越えて、町を離れて、こんな知らない汽車の中にまでついてきてくれた。
「一緒に来てくれて、ありがとう、ございます」
小さく言うと、スライムは籠の中で一度だけ跳ねた。布がかすかに揺れる。
その時、廊下の向こうで声がした。
「もうすぐ着くぞ。荷物まとめておけよ!」
ミラの指が止まった。
荷物。
フクロウ用の籠は目立つ。布をかけていても、中に何かいることはすぐにわかる。ダンブルドアもフリットウィックも、人前に出さない方がいいと言っていた。ここで見つかるわけにはいかない。
ミラは座席の上のトランクを引き寄せた。
中身は少ない。教科書。替えの服が少し。古い紙束。そして、布袋に包んだマデュライト。どれも、他人に見せたくないものばかりだった。
ホグワーツでは、ミラ用の一人部屋があるらしい。
フリットウィックは、事情を考えた学校側の判断でしょう、と言っていた。人間と同じ部屋で眠らなくていいように。そして、もしかすると、地下室のスライムをミラが置いていけないことまで見越して。
そこまで読まれていたのだとしたら、ありがたいのか、怖いのか、ミラにはわからなかった。
けれど、そこなら隠せる。
スライムも、マデュライトも。
「少しだけ、こっちへ入ってください」
ミラは教科書を端に寄せ、替えの服を丸めて隙間を作った。フクロウ用の籠を開けると、スライムがするりと出てくる。両手で抱えると、ひんやりした柔らかさが腕に沈んだ。
トランクの中へ、そっと入ってもらう。
スライムは文句を言わなかった。むしろ自分から体を小さくするように、丸く収まる。
ぷに。
「ありがとうございます」
ミラは服を少し被せ、留め具を閉じた。完全には閉めない。少しだけ隙間を残す。そこから、青い体がかすかに見えた。
廊下が騒がしくなっていく。誰かが笑い、誰かが荷物を引きずり、誰かが窓の外を見て叫んだ。
「ホグワーツだ!」
その声に、ミラはゆっくり顔を上げた。
窓の向こうに、黒い湖が広がっていた。夜の水面が、列車の灯りを細く揺らしている。その先に、城が見えた。無数の灯りをともした、高く、暗く、大きな城。
ホグワーツ。
ミラはトランクの奥から、小さな布袋を取り出した。袋の口を少しだけ開く。中には、紫色の結晶がある。マデュライト。
左手で、それを握った。
同じ手の中指には、緑色の石の指輪が嵌まっている。
窓の外の城が近づく。
その時、左手の中で、マデュライトがかすかに光った。続くように、指輪の石も冷たく光を返す。
ミラは息を止めた。
失くしたもの。
探すもの。
その両方を握ったまま、ミラはトランクの取っ手を握った。中でスライムが、小さく揺れる。
ひとりではない。
そう思っても、足はまだ震えていた。
けれど汽車は止まり、扉は開く。
ミラ・ローレンスは、知らない城へ向かって立ち上がった。