化け物の楽園   作:2W

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第3話 服役3年

 汽車の窓の外を、知らない景色が流れていく。

 畑。森。小さな駅。遠くの丘。どれも、ミラ・ローレンスの知らない場所だった。ホグワーツ特急は、規則正しい音を立てて線路の上を進んでいる。

 コンパートメントには、ミラのほかに誰もいない。それはありがたいことのはずだった。知らない子供の声も、笑い声も、視線もない。けれど静かすぎると、別の声が戻ってくる。

 死亡届。

 ミラ・ローレンスの死亡届は、すでに受理されています。

 グリンゴッツの小鬼が告げた言葉は、汽車の音に混ざっても消えなかった。フリットウィックは何度も抗議してくれたが、小鬼は帳簿と羊皮紙を見せるだけだった。

 記録は記録です。

 その言い方は、石より冷たかった。

 死亡届のことは、ダンブルドアに確認を取るとフリットウィックが言ってくれた。だから、ミラが今すぐ何かをしなくてはならないわけではない。

 買い物に使ったお金のことも、フリットウィックは責めなかった。

 

「今日の分は、しばらく私が預かる形にしましょう。君の記録が正されて、金庫が使えるようになってからで構いません」

 

 そう言われた時、ミラは頷くことしかできなかった。

 借りたものができた。返さなければならないものができた。けれど、返すための金庫は閉じていて、そもそも自分は、記録の上では死んでいる。

 そのことが、喉の奥に小さな石のように残っている。

 けれど、それよりも気になることがあった。

 三年前。

 死亡届が受理されたのは、三年前だという。

 三年前。八歳の頃。

 ミラは、その頃のことを覚えていなかった。それより前のことも、何も。

 名前だけは知っていた。指輪の内側に、そう彫られていたから。

 父の顔も、母の声も、焼ける前の家の形も。自分がどこで何をしていたのかも。なぜ町の人間が自分を化け物と呼ぶのかも。

 思い出そうとすると、頭の中に白い壁のようなものが立ちはだかる。向こう側に何かがある気はする。けれど、触れようとすると指先が滑る。引っかかるものは、何もない。

 最初に覚えているのは、扉の前だった。

 


 

 目を開けると、そこに家があった。まだ焼けていない家だった。

 ミラには、それが自分の家なのかどうかもわからない。なぜそこに立っているのか、どこから来たのか、誰を待っているのか。頭の中は空っぽで、体だけがそこに置かれているようだった。

 自分の手を見る。左手の中指には、緑色の石が嵌まった指輪があった。内側に小さな文字が彫られている。

 ミラ・ローレンス。

 それが自分の名前なのだと、そう思うしかなかった。けれど、誰が指輪をくれたのかも、その名前を誰が呼んでいたのかも、何も思い出せなかった。

 玄関の扉を叩いても返事はない。喉が渇いている。お腹も空いている。いつから何も食べていないのかはわからないが、胃の奥が縮むように痛かった。

 ドアノブに手をかけると、扉は開いた。

 中は、ひどく荒らされていた。棚は倒れ、引き出しは抜かれ、床には本や紙束が散らばっている。誰かが何かを探した後のようだった。けれど、その誰かはもういない。

 

「……誰か」

 

 声は小さく、家の奥へ吸い込まれて、それきり戻ってこない。

 誰もいない。

 それでも、食べ物は探さなければならなかった。台所で戸棚を開けると、奥に固くなったパンと萎びた野菜が少し残っている。食べられるかどうかはわからない。けれど、お腹は痛いほど空いていた。

 ミラは床に座り、パンを食べた。乾いていて、喉に引っかかる。それでも飲み込むと、体の奥に少しだけ熱が戻った。

 食べ終わる頃には、外が騒がしくなっていた。

 大人の声。子供の声。

 窓へ近づく。庭も、門も、道も見えた。家はまだ焼けていない。外から見れば、そこには普通に家があるはずだった。なのに、外の人たちは、まるで何かを探すように周囲を見回している。

 誰かいる。

 この家に誰か戻ってきたのかもしれない。自分のことを知っている誰かがいるのかもしれない。

 ミラは玄関へ向かい、扉を押し開けた。

 一歩、外へ出る。二歩。敷石から庭の土へ足を下ろした瞬間、道の方に集まっていた人々の顔が、一斉にこちらを向いた。

 

「いたぞ」

「生きてる」

「やっぱり化け物だ」

 

 化け物。

 意味はわからなかった。けれど、向けられた感情だけはわかった。嫌悪。恐怖。怒り。

 

「お前がやったんだろ」

「盗んだ」

「呪った」

「人を襲った」

「近づくな」

 

 言葉がいくつも飛んでくる。けれど、どれにも覚えがなかった。

 

「違います」

 

 そう言ったつもりだった。けれど、何が違うのかもわからない。

 

「知りません。私、何も……」

 

 最後まで言う前に、小石が肩に当たった。

 痛かった。

 次の石は足元に跳ねた。誰かが叫ぶ。誰かが笑う。さらに石が飛んでくる。

 

「出てくるな」

「この町から出ていけ」

「化け物!」

 

 ミラは後ずさった。ここにいてはいけない。それだけはわかった。

 扉に背中が当たる。慌てて振り向き、家の中へ逃げ込んだ。

 玄関の内側へ足を踏み入れた瞬間、外の声が変わった。

 

「あれ?」

「どこ行った?」

「今、そこにいたよな?」

 

 声も足音も、すぐ外にある。けれど、誰も扉を開けない。誰も入ってこない。

 

「家なんかあったか?」

「空き地だろ、ここ」

「でも、今、扉の音が……」

「扉? どこの?」

 

 ミラは口を両手で押さえた。

 外の人間は、見失っている。ミラだけではない。この家そのものを、うまく見ていない。

 外へ出た時だけ、見つかった。家の中へ戻った途端、見失われた。

 なぜかはわからない。ただ、この家の中にいれば、見つからないのかもしれない。

 けれど、安心するには早かった。

 焦げた匂いがした。

 煙。

 窓の外で、赤い光が揺れた。次の瞬間、火のついた布の塊が、見えていないはずの窓を割って転がり込んだ。

 床に落ちる。炎が広がる。

 

「燃やせ!」

「化け物の巣だ!」

 

 外の声が笑った。

 

「やめて」

 

 声は煙に消えた。

 

「やめて、ください」

 

 誰も聞いていなかった。

 逃げなければ。けれど外には人がいる。裏口を探そうとしたが、廊下の奥はすでに煙で白く濁っていた。

 ミラは台所へ戻り、さっき集めたパンと野菜を掴んだ。なぜそれを持ったのかはわからない。ただ、空腹だけは怖かった。

 その時、暖炉が目に入った。灰に埋もれた奥に、金属の取っ手のようなものがある。

 咳き込みながら膝をつき、両手で引く。重い音を立てて、暖炉の底が開いた。

 下に、階段があった。

 暗い階段だった。けれど、上には火がある。外には人がいる。ミラは迷わなかった。

 食べ物を抱え、階段へ足を下ろす。一段。二段。三段。背後で、火の音が大きくなる。家が軋む。誰かの笑い声が遠くなる。

 階段の底には、重い扉があった。押すと、少しだけ動く。隙間から、ランプのような弱い光が漏れている。ミラは肩で押し、体が通れるだけの隙間を作った。

 中は、地下室だった。

 光は明るすぎない。けれど、何も見えない暗闇でもなかった。壁は石で、床は冷たい。棚には本や紙束が並び、見たことのない機械がいくつも置かれている。

 そして、部屋の奥に、何かがいた。

 青い、雫のようなもの。

 それはミラを見ると、跳ねた。

 ぷに。

 もう一度。

 ぷに、ぷに。

 まるで待っていたものが帰ってきたように、青い体が弾む。目と口しかない顔が、笑っているように見えた。

 ミラは食べ物を抱えたまま後ずさった。

 

「来ないで……ください」

 

 強く言うつもりだったのに、最後の言葉だけが小さく足された。知らないものを怒らせたくなかった。

 青いものは、ぴたりと止まった。それ以上近づいてこない。ただ、その場で小さく揺れている。

 ぷに。

 今度の音は、少し小さかった。困っているように聞こえた。

 どうして。そんなふうに言われている気がした。

 けれど、ミラには何もわからない。目の前の生き物が何なのかも、この地下室が何なのかも、自分がなぜここにいるのかも。

 

「……何、ですか」

 

 青いものは答えない。こちらへ来ようとして、途中で止まる。

 

「来ないで、ください」

 

 青いものは、今度も止まった。少しだけ体を低くする。待つ、という仕草のように見えた。

 何もしてこない。

 火を投げてこない。石を投げてこない。怒鳴らない。掴まない。

 それでもミラは近づかなかった。

 しばらくして、青いものはゆっくりと部屋の端へ跳ねていった。離れていく。けれど、完全には離れない。まるで、怖がらせないようにしているみたいだった。

 ミラは息を吐いた。

 部屋の中を調べることにした。

 大きな機械が壁際にあった。押してみる。何も起きない。

 別の机には、画面のついた角ばった箱が置かれていた。ボタンを押すと、黒かった画面に文字が出る。けれど、読めない言葉が多かった。

 棚の紙束も難しい言葉ばかりだった。何かの記録らしいもの。けれど、何を記録しているのかはわからない。

 わからないものばかりだった。

 自分のことも。家のことも。外の人間が怒っていた理由も。この地下室のことも。目の前の青いもののことも。

 その時、青いものが小さく跳ねた。

 ぷに。

 青いものは、棚の前にいた。一つの棚の下で、こちらを見上げている。

 ぷに、ぷに。

 

「……そこに、何かあるんですか」

 

 嬉しそうに跳ねる。嬉しそうに、ミラには見えた。

 ミラは警戒しながら棚へ近づいた。青いものは、近寄らない。ミラが一歩進むたびに少し横へずれ、通り道を空ける。

 棚には、古い本と紙束が並んでいた。その中に、背表紙だけが擦り切れたリングバインダーがある。表紙には、子供の手で貼ったような紙がついていた。

 モンスターライブラリ。

 表紙の端には、丸い生き物の落書きがある。その下に、別の字で短く何かが書かれていた。

 ――知らないモンスターを見つけたら、ここに記録すること。

 誰が書いたのかはわからない。けれど、そこだけ他の書類と違っていた。誰かが、誰かのために残した言葉に見えた。

 胸の奥が、少しだけざわついた。何かを思い出しそうになる。けれど、白い壁のようなものが頭の中に立ちはだかる。

 青いものが、そっと近づいた。ミラは身を引きかける。青いものは、すぐに止まった。

 ぷに。

 急かすのではなく、ただ待っている音だった。

 ミラはリングバインダーを開いた。中には、紙が一枚だけ入っている。その紙には、青い生き物の写真があった。丸い体。雫のような形。目と口。目の前にいるものと同じだった。

 ミラは文字を追い、名前を見つけた。

 

「……スライム」

 

 声に出した瞬間、青い生き物が高く跳ねた。

 ぷに!

 今度は、はっきりと嬉しそうだった。

 

「あなたの、名前ですか」

 

 ぷに、ぷに。

 スライム。

 ミラはもう一度、紙を見る。それから、目の前の青い体を見た。スライムは、ミラを見ている。期待しているように。安心しているように。ようやく思い出してくれた、と言いたそうに。

 けれど、ミラには何も思い出せなかった。

 

「……ごめんなさい」

 

 なぜ謝ったのか、自分でもわからなかった。スライムがぴたりと止まる。

 

「私、あなたのことを、知っていたんですか」

 

 答えはない。けれど、スライムはゆっくりと近づいてきた。今度は、ミラも逃げなかった。

 青い体が、ミラの靴の先にそっと触れる。

 冷たい。柔らかい。

 触れ方は、ひどく慎重だった。怖がらせないように。忘れられても、怒っていないと伝えるように。

 外の人間たちは、ミラを化け物と呼んだ。盗んだ、呪った、人を襲ったと叫んだ。火を投げ込んだ。

 この青いものだけが、ミラを見ても逃げなかった。ミラが忘れていても、離れなかった。

 モンスター。

 紙にはそう書かれている。

 化け物。

 外ではそう呼ばれた。

 同じような言葉なのに、全然違って聞こえた。

 その時、お腹が鳴った。煙と恐怖で、体の中の力を全部使ってしまったようだった。

 ミラは持ってきたパンを見た。スライムも、それを見た。

 

「……食べますか」

 

 この生き物が何を食べるのかも知らない。近づけたら、噛まれるかもしれない。けれど、スライムはただ待っている。

 ミラはパンの欠片を床に置いた。スライムが近づく。笑っているように見えた小さな口が、ぱくりと開いた。パンの欠片が、その口の中へ消える。

 しばらくして、スライムが跳ねた。

 ぷに。

 

「……おいしい、ですか」

 

 ぷに。

 ミラは残りのパンを小さく割った。自分の分。スライムの分。そうやって分けているうちに、少しだけ呼吸が楽になった。

 ここには、外の声が届かない。火の音も遠い。石も飛んでこない。

 スライムは、ミラの近くで丸くなった。ミラは壁際にあった古い毛布を引き寄せる。埃っぽい。けれど、床に直接横になるよりはましだった。

 横になると、体中が痛かった。今日、自分に何が起きたのか。なぜ町の人たちは自分を知っていて、憎んでいるのか。なぜ自分は何も覚えていないのか。考えようとしても、頭がうまく働かなかった。

 ぷに。

 スライムが、少しだけ近づいていた。

 ミラは身を固くする。けれど、スライムはそれ以上何もしなかった。ただ、そこにいるだけだった。

 敵ではない。

 その言葉が、胸の中に落ちた。味方かどうかは、まだわからない。仲間と呼べるのかも、わからない。

 けれど、このスライムは、たぶん前からミラを知っている。そして、ミラが忘れてしまっても、まだここにいる。

 それだけで、今は十分だった。

 

「……スライム」

 

 小さく呼ぶ。青い体が、返事のように揺れた。

 ミラは目を閉じた。

 その夜、ミラは初めて、その青い生き物の名前を知った。

 スライム。

 本当は、初めてではなかったのかもしれない。けれど、今のミラが覚えている最初の名前は、それだった。

 名前を何度も心の中で繰り返しながら、ミラは眠った。

 隣にいるものが、敵ではない。それだけで、少し息ができた。

 


 

 ぷに。

 その音で、ミラは目を開けた。

 窓の外では、知らない景色がまだ流れている。ホグワーツ特急の車輪の音が、体の下で規則正しく続いていた。ほんの一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。

 地下室ではない。

 焼け跡の家でもない。

 コンパートメントだった。

 座席の下から、もう一度、小さな音がする。

 ぷに。

 ミラは身を屈め、布をかけたフクロウ用の籠を覗いた。中で、青い体が小さく揺れている。スライムは狭い場所が嫌なのか、丸い体を少しだけ押しつけるようにしてこちらを見上げていた。

 

「ごめんなさい。もう少しだけ、我慢してください」

 

 ぷに。

 怒ってはいないようだった。

 ミラは胸の奥に残っていた息を、細く吐いた。三年前、何も覚えていない自分の隣にいてくれたものが、今もここにいる。地下室から、森を越えて、町を離れて、こんな知らない汽車の中にまでついてきてくれた。

 

「一緒に来てくれて、ありがとう、ございます」

 

 小さく言うと、スライムは籠の中で一度だけ跳ねた。布がかすかに揺れる。

 その時、廊下の向こうで声がした。

 

「もうすぐ着くぞ。荷物まとめておけよ!」

 

 ミラの指が止まった。

 荷物。

 フクロウ用の籠は目立つ。布をかけていても、中に何かいることはすぐにわかる。ダンブルドアもフリットウィックも、人前に出さない方がいいと言っていた。ここで見つかるわけにはいかない。

 ミラは座席の上のトランクを引き寄せた。

 中身は少ない。教科書。替えの服が少し。古い紙束。そして、布袋に包んだマデュライト。どれも、他人に見せたくないものばかりだった。

 ホグワーツでは、ミラ用の一人部屋があるらしい。

 フリットウィックは、事情を考えた学校側の判断でしょう、と言っていた。人間と同じ部屋で眠らなくていいように。そして、もしかすると、地下室のスライムをミラが置いていけないことまで見越して。

 そこまで読まれていたのだとしたら、ありがたいのか、怖いのか、ミラにはわからなかった。

 けれど、そこなら隠せる。

 スライムも、マデュライトも。

 

「少しだけ、こっちへ入ってください」

 

 ミラは教科書を端に寄せ、替えの服を丸めて隙間を作った。フクロウ用の籠を開けると、スライムがするりと出てくる。両手で抱えると、ひんやりした柔らかさが腕に沈んだ。

 トランクの中へ、そっと入ってもらう。

 スライムは文句を言わなかった。むしろ自分から体を小さくするように、丸く収まる。

 ぷに。

 

「ありがとうございます」

 

 ミラは服を少し被せ、留め具を閉じた。完全には閉めない。少しだけ隙間を残す。そこから、青い体がかすかに見えた。

 廊下が騒がしくなっていく。誰かが笑い、誰かが荷物を引きずり、誰かが窓の外を見て叫んだ。

 

「ホグワーツだ!」

 

 その声に、ミラはゆっくり顔を上げた。

 窓の向こうに、黒い湖が広がっていた。夜の水面が、列車の灯りを細く揺らしている。その先に、城が見えた。無数の灯りをともした、高く、暗く、大きな城。

 ホグワーツ。

 ミラはトランクの奥から、小さな布袋を取り出した。袋の口を少しだけ開く。中には、紫色の結晶がある。マデュライト。

 左手で、それを握った。

 同じ手の中指には、緑色の石の指輪が嵌まっている。

 窓の外の城が近づく。

 その時、左手の中で、マデュライトがかすかに光った。続くように、指輪の石も冷たく光を返す。

 ミラは息を止めた。

 失くしたもの。

 探すもの。

 その両方を握ったまま、ミラはトランクの取っ手を握った。中でスライムが、小さく揺れる。

 ひとりではない。

 そう思っても、足はまだ震えていた。

 けれど汽車は止まり、扉は開く。

 ミラ・ローレンスは、知らない城へ向かって立ち上がった。

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