アストール・ウルフリッヒが死んだ。

そう聞かされたネルは、フェイトと共に"屍人の家"と呼ばれる呪われた屋敷へ向かう。

そこには死者がいた。怨念がいた。そして、戦争によって壊された家族の末路があった。

これはある一家の悲劇と、二人が忘れてはならない戦争の傷跡を辿る物語。

ホラー風味強めのフェイネル。

1 / 1
第1話

 アストール・ウルフリッヒが死んだと聞かされたのは夕映えの美しい黄昏時のことだった。

 

 アストールより先に逃がされた部下が手負いの状態でネルの部屋へ飛び込んできた。部下の呂律の回らない、しどろもどろな報告を注意深く聞くと、ネルは静かに護身刀を取り、シランド城を出て行った。女王陛下への報告を終え、研究所にいるフェイトへの伝言を部下に言付けた後のことだった。

 このところ、部下の変死が続いていた。戦後、倒壊した家屋や空き家の調査に当たっていた下級戦士や施術師に死や負傷が相次いでいた。最初は復旧作業中にありがちな事故だと思われていた。実際多くの家屋ではそうだった。しかし、ある家まで行くと、生きて還った者は足をつかまれた、屍人がいると半狂乱でこぼし、死んだ者は物も言わずに見つかるか、行方不明のままとなった。

 シーハーツに突如訪れた凶災に、上層部は重く見た。そこで名乗り出たネルを制し、封魔師団『闇』の一級構成員であるアストールが代表して調査に行くことになったのだった。アストールなら、クリムゾンブレイドであるネルの右腕として信頼できて能力も高い、腹心の部下だった。厄災を退け、邪悪を封じる効果があるとされるエレノアの花冠や護符を山ほど持たせて送り出したのだ。アストールは、自慢の眼鏡を軽く持ち上げ、「ネル様は心配のしすぎですよ。絶対に大丈夫ですから。僕がこの厄災を華麗に解決してご覧に見せます」と胸を張って旅立ったのだった。その矢先のことだった。

 最初から自分で行けばよかった。ネルは他の任務にかまけてアストールに行かせたことを心底悔やんだ。悔やんでも悔やんでも悔やみきれなかった。どうしようもない思いを抱えながら、イリスの野を駆け抜けた。

 走り抜ける風がネルの頬を切るように過ぎていく。苔むしたイリスの野に赤い夕日が照らしつけて、なにかおどろおどろしい地獄への道のようだった。

 アストールは屍人に襲われたという。正確には、部下だけを逃がして、戦ったのだという。しかし部下が振り返る頃には、胸を貫かれていたと、その部下は語っていた。その死に様は否が応でも父ネーベルの最期をネルに想起させた。ネルは父の死について多くを語ることはなかったが、アストールにだけは、父の最期を語ったことがある。アストールは夜通し聞いてくれた。色んな話をした。それだけに、ネルはあまりの悔しさに歯噛みした。

 賑やかな交易都市ペターニを走り抜けた。かきいれ時の喧騒も今はただのむなしい音だった。ネルはどうしようもない気持ちのまま、ただ走った。アストールが肉まんを好きだったことをふと思い出した。時々、差し入れにと分けてくれたことも。

 ペターニの南門を抜け、民家がぽつりぽつりと点在したアリアスの北はずれに着いた時、ネルははっきりと不穏なものを感じ取った。禍々しい施力が、その家に蠢いているようだった。

 一見すると普通の屋敷だった。ネルの肩の高さまでの塀があり、二階建ての五十坪ほどの古い石造りの家だ。真ん中に三角屋根の玄関があり、左右には窓のある部屋らしきものがある。一家全員が行方不明など、信じられないほど普通の家だ。国境から近くではあるが、表から見たところではアーリグリフの爆撃を受けた様子もない。

 だが、ネルはふと違和感を覚えた。なにか暗い。その窓は、何重にも木で打ち付けられ、中が見えないようにしてあった。その打ち付けられ方も、まっすぐではなく、斜めかと思えば横や縦など、かなり無秩序に打ち付けられてあった。まるで何かを閉じ込めるかのように──

 

 その時、いきなり肩を掴まれた。ネルは心臓が飛び出そうになった。激しい息づかいが聞こえ、振り返ると、青い髪の青年がはぁはぁと肩で息をしていた。

「やっと……はぁ、追いついた……」

「フェイト!?」

 ネルは驚いて、顔を覗き込んだ。滴る汗を手の甲で拭きながら、フェイトは怒りの目でネルを見た。

「バカ! 一人で行くなってあれほど──」

 しかし、フェイトの指が、ネルの頬を濡らしていた涙を優しく拭った。

「……言っただろう」

「すまない……居ても立ってもいられなくなって」

 ネルは堪忍したように、目を伏せた。フェイトはそんなネルを胸に抱き寄せながら、

「追いついたから、もういいよ」

 と、口を尖らせるだけに留めた。フェイトはネルの頭越しに屋敷を見上げた。

「それで、あの家が例の?」

「……ああ」

「大きな家だね」

「そうかい?」

「ああ。僕らの家に比べればさ」

 フェイトは自嘲的に笑って、ネルを見た。ネルを励ますようにわざと戯けているように見えて、少し胸が温かくなる。アストールのことで気遣ってくれているのだろう。

 ネルは、フェイトの胸を突いて、じっと目をのぞいた。

「フェイト。この先は、本当に危険だよ」

「わかってるよ」

「だったら」

「そんな危険な所に一人で行こうとしてたのか?」

「それはっ……」

 黙り込むネルに、フェイトはその手を握った。

「僕がついてる。いい加減わかってほしいもんだね」

 と、いじける。ネルはその様子に含み笑いをして、

「うん……ありがとう」

 ぎゅっと手を握り返した。

 二人は、蔦の伸びた門扉をくぐった。庭に入っただけなのに、陰鬱な雰囲気がさらに強くなった。夕闇が急に迫って来たようだ。雑草が伸びて、玄関までの飛び石の境い目も曖昧になっていた。

 庭は家に比べて手狭だったが、花壇やむくげの木などが植えられていた。その空間も今や世話する人もなく、雑草で生い茂っていた。

「もともとは両親と子供二人の四人家族だったそうだよ。戦争中に一家全員が行方不明になったらしい。疎開したのか、どこかで運悪く爆撃にでも巻き込まれたのか」

「そうか……悲惨だな」

 フェイトは痛ましそうに眉を寄せた。

「あるいは……」

 ネルは言った。

「まだ中にいるのか」

 三角屋根の上の風見鶏が、カラカラと音を立てて回った。

 

 玄関のドアが少し開いていた。おそらく部下が逃げて帰ってきたそのままの状態なのだろう。ネルとフェイトは顔を見合わせると、そっと扉を開けた。ギィィと鈍く軋む音がして、暗がりが口を開く。長い間手入れされていない家の黴臭さが鼻をついた。明かりの入らない家は、世界からたった一軒だけ取り残されているように孤立していた。

 目が慣れてくると、目の前に大きな家族の肖像画が飾られているのが薄ぼんやり見えてきた。中年の男性と同じ年頃の女性、少し澄ました十歳頃の女の子に、幼児の小さな男の子。仲の良さそうな、普通の家族の姿だった。

「アストール?」

 ネルは暗がりに声をかけてみる。何もない、しんとした空気が、ぴんと張り詰めているようだ。何も返ってこない闇にため息をついて、ネルはフェイトに言った。

「せめて身体だけでも、連れて帰ってやらないと……」

 フェイトはそんなネルの背中を、いたわるように撫でた。

 肖像画の掛かった壁を突き当たりにして、左右に廊下が伸びていた。フェイトが一歩前に出て、先陣を切る。フェイトは申し訳程度にライトストーンをつけて明かりを灯した。

 玄関を入ると左手には応接間、右手にはリビングがあるようだった。その奥にはキッチンのような流しが見えている。廊下の古いフローリングのところどころが黒ずんで見えた。壁に等間隔で、飾り皿と枯れた花がぶら下がっていた。

「きっと、今でも暮らしていたら、いい家だっただろうな」

 と、フェイトがつぶやいた。きっと明かりが灯っていれば、あたたかい家だっただろうと、ネルも思った。

 フェイトは左手の応接間に入った。窓は大きいが、板で乱暴に目張りがされていてとても暗い。書棚に一組のソファー、ローテーブルに、壁には老人の肖像画。天井にはお洒落な色ガラスの照明が頭の上の高さにぶら下がっていた。

「営力は……もう無いようだな」

 フェイトがカチカチと照明を触っている。

 ネルも部屋に入ろうとして、ふいに左目の端に何か黒いものが横切った気がした。はっとしてそちらを振り返る。しかし、そこにはキッチンへと続く暗い廊下が伸びているだけだった。

(見間違いか……?)

 髪が横顔に落ちるか何かしてそう見えたのだろうか。ネルがじっと暗い廊下に目を凝らしていると、

「あ、見て。スノードームがある」

 フェイトが明るい声で笑うので、ネルは引き寄せられるようにそちらへ向かった。

 ローテーブルの真ん中に、スノードームが置かれていた。フェイトが手に取り、パシャパシャと水を揺らすと、球体の中の小さな家や木々に雪が降り積もる。フェイトの手の上で、その光景をしばらく見ていた。

「ん?」

 手に持っていたフェイトが何かに気がつき、土台を回した。すると、スノードームがゆっくりと回転し、ゆるやかな音楽が辺りに流れた。

「これ、オルゴールになってるんだな」

「『雪の月夜』っていう、クラシックだね」

「へぇ……」

 二人は音が途切れるまで、優しい音色を聴き続けた。

 短い音色が終わると、妙に寂しさが胸を襲ってくる。フェイトが静かにスノードームを置くと、

「行こうか」

 同じことを思ったのか、フェイトはネルを安心させるように明るく振る舞う。フェイトのはっきりした声が、今はありがたかった。

 応接間には、特段気になるようなものは何も無かった。

 次にリビングへ向かうことにした。廊下へ出ると、今度は右に戻る。一歩前へ出る度に廊下の板張りが軋んだ。

 リビングにはガラス張りの扉がついていた。うす汚れたガラス越しに中を探るが、窓の目張りのわずかな薄明かりと、大きなダイニングテーブルが見える以外、黒々としていた。

「僕から入るよ」

 フェイトが扉のノブに手を伸ばした。ネルは嫌な予感がして、思わずフェイトの服を引こうとして、その手を下ろした。

 ガラス扉を開けると、キィーと静かに蝶番がうなる。滞留した空気が急に動き出したような篭った匂いと共に、かすかに炭のような焦げ臭さと、妙な生臭さが鼻についた。

 ネルは部屋全体にサッと目を走らせて、一番奥のソファーの向こうに暖炉らしきものがあるのを見つけた。あそこから匂いがしているのか。

 それよりも目についたのは、部屋の中の雑然とした様子だった。おそらく棚の上に置いてあっただろう本や置物やこまごまとした物という物がほとんど床に落ちている。陶器の壺が割れて、破片が至るところに転がっていた。

「ひどい有様だね……」

「足元に気をつけて進もう」

 フェイトが差し出した左手に、ネルは右手を迷うように乗せた。こんなふうに庇護するような仕草を、フェイトは何でもないことのようにするが、ネルはいつまで経っても慣れずに照れてしまう。しかし今はそういう場合ではない、と自分を戒める。

 フェイトの硬い足鎧で、ガラスや割れた破片を端に避けてくれた。それでも足元がジャリジャリと音を立てて砕ける。

 目の前に八人掛けの大きなダイニングテーブルがあったが、椅子は荒らされたようにほとんど倒れていたり、テーブルに雑に上げられたりしている。

 その横を、フェイトとネルは転ばないように慎重に通った。

 ネルはふと、違和感をおぼえた。しかしそれが何に対してなのかはわからなかった。

 ダイニングテーブルの向こうに、大きく立派なソファーの背面が見えていた。さらに向こうには、籐椅子と暖炉のシルエットがぼんやりと見える。しかし、視界の端で何か動いたように見えて、ネルは弾かれたようにそちらを見た。

 小さな子供のような影だった。暖炉を囲むように置かれたソファーの真ん中で、子供が座っている。ここからは、子供の後頭部だけが背もたれから見えていた。

「あれ? こんなところに、子供が……?」

 フェイトが、不思議そうにそちらに近づいていく。

「……フェイト」

 子供が、足をぶらぶらさせて、座っている。

「ねぇ、きみ」

「フェイト」

 子供が、膝の上でジグソーパズルを嵌めている。

「どうしてこんな所にいるの?」

「フェイト!」

 子供が、ゆっくりと振り向いた。

 子供には目が無かった。眼窩には空洞がこちらを向いていた。

 ネルはフェイトの手を思い切り引いて扉の方へ駆け出した。その勢いでダイニングテーブルの角にフェイトが激しく腰を打つ。しかし、構っている場合ではなかった。黒い子供の影が、ぬるりとソファーを越えてきた。

 フェイトの手を引いて走り出そうとして、突然何かに足をつかまれてはっとする。しかしつかまれたと思ったものは倒れた椅子の背もたれだった。思いきり蹴ってやり過ごし、ジャリジャリと破片を踏み来た道を戻る。

「追いつかれる……!」

 フェイトが叫び、ネルがガラス扉に手をかけると、後ろでグチャグチャと足音がした。ネルが先に廊下に出て、フェイトの手を引くと、フェイトは固くガラス扉を閉じた。それとほぼ同時に、ドンッと扉に黒い子供の影がぶつかる音がする。

 フェイトは扉のノブが回らないように押さえていたが、黒い子供の影は、ガラス扉にドンッドンッと何度も体当たりするだけだった。

「なんだよ、これ……!?」

 フェイトが途方に暮れた様子でこぼすと、ネルは苦悶に目を細めた。

「屍人だよ」

「屍人?」

「ああ。おそらくここの住人さ」

 小さな子供の屍人は、ガラス扉に何度も頭をぶつけていた。その度にびりびりとガラスが揺れる。

 ドンッ ドンッ ドンッ

 何度も何度も頭をぶつける音が響き渡った。

 フェイトはガラス扉のノブを押さえていても意味がないことがわかると、手を離してよろよろと壁際に背中をつけた。

「そうか、あの玄関に掛かっていた家族の肖像画の、一番小さな男の子……」

 フェイトは呟いて、悲愴な顔をした。

 ネルはガラス扉の向こうを見ながら、鞘から短刀を抜いた。

「死なせてあげるべきなんだろうね。完全に……」

 だが、ガラス扉の向こうの屍人は、何度も何度も頭をぶつけすぎて、頭の右半分が取れていた。硬い干からびた皮膚と、脳梁の粘液がガラス扉に張り付いて、頭をぶつける音をさっきより鈍くさせている。

 ドンッ  ドンッ  ドンッ

「でも死なせるってどうやって……? もう死んでるのに」

 ドンッ   ドンッ   ドンッ

「わからないけど、心臓を一突きにするとか、頭を完全に破壊するとかが相場だろ?」

 ドンッ    ドンッ    ドンッ

 フェイトはネルの短刀を握る手を、制するように下げさせた。

「……僕がやるよ」

「……でも」

「いいから」

 しかし、ガラス扉の向こうの屍人は、もはや頭の原型がなくなっていた。体当たりする力がよろよろと弱くなっている。二人はしばらくあっけに取られたように見ていると、最後に扉に体当たりして、やがて砕けたように、身体が倒れていった。小さな子供の、弾けた頭と、首のない姿だけがそこに残った。

 二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。なんて悲痛な瞬間なのだろうと、ネルは胸が重くなった。目の前の屍人は死んでいるとはいえ、どうしても元の姿を想像せずにはいられない。

「……僕が、話しかけたから──」

 やがてフェイトが何か言おうとしたが、その時、どこかから音色が聴こえた。それはさっき見たスノードームの『雪の月夜』の音色だった。「えっ」と振り返る間もなく、さっき立ち寄ったばかりの誰もいないはずの応接間から、白髪の老人が走り出てきた。

 目の無い老人が凄まじい速さでこちらへ向かってくる。「あっ」と思った時には、老人の干からびた腕が前に出て、ネルは首を絞められていた。凄まじい力だった。ぎゅぅぅと強い力で喉が絞め上げられていく。

「ネル!」

 ネルの身体はバランスを崩し、老人に押し倒されて床に打ち付けられた。その拍子に、カラカラと短刀が手元を離れていく。

 あまりの窒息感に、ネルの指は老人の指を剥がそうと掻き毟る。フェイトはネルの首を絞め上げる老人の両腕をつかんで必死に離そうとしたが、二人がかりの力でかかっても、首を絞める老人の怪力に敵わなかった。

 首を折られるほどの力で絞め上げられて、息ができない。目の前がチカチカして、だんだん暗くなっていく。

 老人がネルの身体に馬乗りになった。

「くそっ」

 フェイトが剣を抜いた。老人の腕目がけて、剣を一閃する。しかし、固い骨にあたって弾かれた。今度は軟骨の辺りを狙い、何度も何度も剣をぶち当てていく。反吐が出るほどグロテスクな作業だった。フェイトは必死に剣を振るった。その度に喉を締める手が揺さぶられて、ネルの喉に痛みが走った。

 やがて老人の片腕が切断されたかと思うと、老人の身体がのしかかって来て、ネルの頭に老人の頭が激しくぶつかった。

 それでも首を絞める腕の力は弱まらなかった。

 ネルは今もまだ両腕に首を絞められていた。ややもすると意識が飛びそうになる。

「なんでだよ!?」

 フェイトは焦っていた。ネルは重い腕を持ち上げ、震える指で、老人の頭を差した。

「……そうか、頭を……でも、この剣じゃネルに……」

 老人の頭はネルの首元に垂れ下がっていた。フェイトの長剣を振るえば、位置的にネルにも当たる確率が高い。

 フェイトは次の瞬間、ネルの足元に転がっていた短刀に飛びついた。ネルの短刀を握ると、思いきり老人のこめかみに刺す。ずるりと短刀が老人の頭部に入っていった。すると、こめかみから血液ともいえない腐った汁が流れ出て、ネルは老人の首を絞める力から一気に解放された。目の前が地震のように揺れる。

 ネルはその瞬間、くの字に身体を折り、激しく咳き込んだ。だらだらと粘液が口から流れる。同時に新しい酸素が肺に入り込んできて、身体中がよみがえるようだった。

 フェイトは力を失った老人の屍人の死体を急いでどかすと、ネルの背中をさすった。

「ごめん、ごめん……!」

 謝るフェイトに何も言えないまま、ネルはただ痛む首を押さえながら、しばらく咳き込み続けていた。

 

 ネルはしばらくの間、フェイトの胸の中で気分が落ち着くまで抱かれて、背中を撫でられていた。何度も呼吸を繰り返しているうちに、窒息感は楽になってきた。フェイトは心配そうに、

「大丈夫? 医者に行こうか?」

 と眉を寄せたが、ネルはそこまでの必要はないと首を振った。フェイトは、「でも……」とネルのマフラーを捲った。ネルからは見えなかったが、そこには真っ赤な手形が痣のようについているらしかった。しかし、探索を中止するほどではない。

 ネルは、

「大丈夫さ」

 と立ち上がると、拭いた短刀を鞘に収めた。それを見て、フェイトも仕様がないというように立ち上がった。

「今度何かあったら、すぐ引き返そう」

「まったくあんたは、心配性だね」

「あんなことがあったんだぞ。心配するに決まってるだろ!?」

 フェイトはもう離さないというような勢いでネルの手をぎゅっと握って、ネルの目を覗き込んだ。ネルは降参、というように肩をすくめる。

「わかったよ」

 ネルが素直に言うと、フェイトはネルを引き寄せて抱きしめ、

「頼むよ……」

 縋るようにつぶやいた。

 廊下はリビングをやり過ごすと二階へと続く階段が折り返していて、その横にトイレや風呂場らしき扉が見える。そしてまっすぐいくと突き当たりがキッチンだった。

 フェイトとネルは、とりあえずキッチンを目指して並んで歩き出す。

 キッチンは目張りがされていないのか、それとも甘いのか、月明かりが差して床の市松模様が遠くからでもはっきりと見えていた。

「はぁ、僕たちも早くこんな大きな家に住めたらなぁ」

「こんな大きな家を買ったって、帰る暇がないじゃないか」

「だからそれを言ってるんじゃないか。僕たちには二人きりで過ごす時間が少なすぎる」

 フェイトはぶうぶうと文句を言うが、平和な話をして和ませてくれているのだろう。ネルは含み笑いをする。

「今だって一緒に過ごしてるんだから、一応二人の時間じゃないのかい」

「こんな殺伐とした時間はノーカウントだよ」

 暗がりの中から声が返ってくる。

 ネルは笑いながら歩いていたが、ふと、この家に屍人は何人いるのだろうと考えていた。最初の屍人は、この家の家族だと思われた。ではあの老人は? あの老人は家族の肖像画にはいなかったが、この家にいたのはどういうことだろうか。そういえば、老人が出てきた応接間にも一枚肖像画が飾られていた。あるいは老人も家族だったのかもしれないと思い直す。

 ネルは、老人のことを思い出すと、首を絞められた感触を思い出してまた息が苦しくなった。いくら不意打ちとはいえ、あそこまで攻撃を許したのは迂闊だった。

 そんなことを考えながら歩いていると、妙におかしな感覚がネルを襲う。

 さっきから歩いているのに、キッチンに近づいていないのではないか?

 ネルは今もまだ暗い廊下を歩いている違和感に気がついて、嫌な悪寒が背筋を走った。

「ねぇ、フェイト……」

 ネルは、隣にいるフェイトを呼びかける。

「私たち、どうしてキッチンに辿り着けないんだい?」

 ネルは、隣にいるはずのフェイトに問いかける。

「……ねぇ、フェイト。どうして何も言わないんだい?」

 ネルは、隣にいたはずのフェイトの気配を探している。

「ねぇ、フェイト!」

 ネルが、隣を向くと、そこには誰もいなかった。

 今の今まで、手を繋いでいた感触があるのに、自分の手を見下ろすと、その手触りすら消えていく。

 はっと後ろを振り向くと、今歩いてきたはずの暗い廊下の先は何も見えなかった。リビングのガラス扉も、屍人の老人も、玄関の肖像画も、応接間の角さえ、何も見えなかった。そこにあるのは、暗闇と、長い廊下だった。

「え……?」

 ネルの胸に強烈な不安が這い上ってくる。

 フェイトは、どこ?

 ネルは立っているのもままならないほどの不安に襲われ、思わず壁に背をつける。すると首を撫でられるような感触を覚えて、思わず飛び退く。そこにあったのは、壁に飾られた飾り皿と枯れた花だった。枯れた花がネルの首に触れたのだろう。

 ネルは落ち着け、と自分を戒める。バクバクと震えるほど脈打つ心臓を抑えるように、胸に手をやる。こんなことでは、戦えない。ネルは短刀の柄に手をかけた。

 これが現実なのか、幻なのかはわからない。しかし、何かが起こるだろうと予感していた。しっかりしなければ。

 ……フェイトは、どこ?

 ネルの耳に、何かがきこえた。じっと耳をすませてみる。何かの音色のようだった。しかし、オルゴールではない。人間の、生身の歌声、鼻歌のようだった。揺れるように、人間の、女の喉が軽やかに鳴っている。何かの音色を奏でている。

 ネルはキッチンを見た。あそこからきこえるようだ。

 ネルはじりじりと、身体の向きをキッチンに向けた。それからゆっくりと、足を踏み出す。歩き出すと、キッチンが近くなった。今度は辿り着けないということはないようだ。

 左手に階段の登り口と、水場の入口。市松模様の床まで、もう少しというところで、いきなり鼻歌が止まり、女の悲鳴に変わった。はっと足を止める。

 ガシャンガシャンと、調理器具がなだれ落ちるような音が耳を揺らした。それと同時に、目の前に中年の男と女が倒れ込んできた。

 男が、女の首を絞めていた。

 男は、女の首に巻き付けたロープを両手で引っ張っている。女はうつ伏せになって弓なりに仰け反り、青黒い顔でロープが巻かれた首を掻き毟っている。

 ネルははっとして、キッチンに駆け込んだ。男を投げ飛ばそうとして空を切る。ネルは流しの側面にぶつかり、手が擦りむけた。

 男には実体がなかった。それどころか、女にも実体がなかった。

 苦しむ女の激しくバタつく足が、ネルの足の左右にすり抜ける。

 これは人間でも、屍人でもない、幻か……?

 ネルは、男が女の首を絞める様子を、ただ黙って見ているしかなかった。

 男は容赦なく女を絞め上げた。ネルは先ほどの屍人の老人に首を絞められた感覚を思い出し、また息が苦しくなる。

 しかし男の肩も、腕も、身体も、どうしてもつかむことができなかった。ただそこに見えているのは、鬼の形相で首を絞める男と、苦しそうに舌をだらりと出して暴れ狂う女の幻だった。

 やがてゴキッと音がして、女の身体から完全に力が抜けた。それでも男は女の首を絞め上げた。しばらくの間、音がするほど絞め上げていた。

 どれくらい時間が経ったのか。ネルがぼう然としていると、いつのまにか男と女の幻が消えていた。そこにはただ、目張りの隙間から月明かりに照らされる市松模様だけがあった。

「ん……?」

 ネルはふと、市松模様に違和感を覚えた。黒いタイルの一部が、歪んで見える。ネルは手探りで、そのタイルを触ってみた。何かがある。

 そこに落ちていたのは、アストールの歪んだ眼鏡だった。

 はっと目を見開く。アストールはここにいたのか……?

 ネルは絶望的な気持ちのまま、ゆっくりとキッチンを見回した。調理台のまな板の上で、切られたキュウリが腐っていた。ボウルには黒ずんだキャベツが萎びている。鍋には今では何なのかわからない黒いスープとレードルが覗いていた。まるで今にも夕食が始まるような──

 と、その時、キッチンの入口から首の折れた女が入ってきた。女には目が無かった。暗い空洞が、こちらを見ていた。ネルは思わず後ずさる。しかし女はスッとネルの前を素通りして、奥の調理台に立った。首にはまだ、ロープが巻かれていた。さっき首を絞められていた女だった。

 トントントントン

 女はまな板に向かって野菜を切り始めた。

 ネルは悲しくなった。彼女は、死んだことに気づいていないのだろうか。今もまだ、ここで一人料理を作り続けている。おそらくは家族のために。

 目の前にいる女はおそらく、実体のある屍人だろう。だが、こちらに危害を加えてくる様子もなかった。あんなに苦しんで殺された彼女は、もう一度殺されるのだろうか。自分のこの手で。ネルは短刀を抜こうとする手を躊躇った。このまま、手をかけないでもいいのではないか。そんな考えが一瞬よぎった。だが、このままにしておくわけにはいかないだろう。いつ危害を加えるように変わるかもわからない。第一、彼女を屍人として永遠に彷徨わせておくとでもいうのだろうか。きちんと死なせてあげるべきではないのか。

 ネルはあれこれ逡巡しながら、彼女の背後に近づいた。

 トントントントン

 リズム良く、包丁でまた板が叩かれる音がする。

 きっと首を絞められる時も、こうして背後から近づいて襲われたのだろう。そう思うと、つらくなる。

 ネルは音もなく、女の背後に立った。

 トントントントン

 短刀を抜きながら、ちらりとまな板の上を覗く。

 女が切っているのは、自分の指だった。

 ああ、駄目だ、とネルは思った。ネルは静かに短刀を女のこめかみに刺した。

 

 キッチンには、フェイトはおろかアストールの姿もどこにもなかった。そもそも今見ているこの家の姿が現実なのかどうかも怪しかった。ネルはどっと疲れた気持ちで頭を振りながら、ふたたび廊下の入口に立った。

 暗い廊下が黒ずんで見える。廊下は相変わらず、闇だけが口を開いていた。リビングも、玄関も、何も見えない。

 しかし、さっきとは違って、確かになかったものがそこにあった。

 小さい子供のような足だった。

 廊下の向こうに立っている。細い、小さな足は白いスカートを履いていた。裸足だった。

 それは、ただそこに立っていた。

 ネルは、息を潜め、目を凝らして、『彼女』のそこにあるはずの顔を見ようとする。

 やがて足は一歩前に出た。闇が『彼女』から取り祓われる。

 そこには一人の少女が立っていた。碧色の綺麗な目をした小さな女の子が、うさぎのぬいぐるみを抱いて立っている。不安そうに人差し指を口にやり、こちらをじっと見ている。

 ネルは思わず、息を吐いた。

 ……屍人ではないのか?

 彼女の体温が感じられそうなほど、生きた人間の姿だった。ネルは思わず一歩前に出て、彼女に話しかけようとする。

「ねぇ、どうしてこんな所にいるんだい?」

 しかしその途端、女の子はだらりと両腕を下げた。うさぎのぬいぐるみが揺れる。女の子は鋭い目つきになり、こちらを睨んだ。

 ネルは眉を寄せ、短刀に手をかける。

 だがその時にはもう女の子は三歩先にいた。わけもわからず瞬きをすると、女の子は逆さまになって目の前にぶら下がっていた。だらりと亜麻色の髪が垂れ下がり、腐った皮膚の冷たさがネルの皮膚にもびりびり感じるほど顔が間近に迫っていた。空洞がこちらを見ていた。全身に鳥肌が立つ。

 ネルが短刀を抜いたかと思うと、女の子は後ろにいた。

『遊んで』

 女の子はぞくりとするほどくぐもった声で言うと、その小さな身体からはありえないほどの怪力で背後からネルを押した。

 次の瞬間、ネルは水の中に飛び込んでいた。驚きで息を吐くと、大きな水の泡がパニックのように鼻先を撫でた。思わず辺りを見回す。水の中は目ににじんでいて見えにくいが、とにかく水面に顔を出すことが何よりも先決だった。

 ネルは両手で一掻きして水中でバランスを取る。すると意外にも底に膝が着いた。思ったより深くはないのかもしれない。急いで底に足の裏を付け、立ち上がると、水面から顔を出せた。

 呼吸を何度も繰り返す。そうしながら素早く周囲を見回す。

 そこは箱のようだった。二メートルほどの正方形の四方八方が白いタイルの壁のようなものに囲まれていた。ネルがたった今落ちてきたはずの上を見ても、ネルの背丈より少し高いだけの天井が壁と同じ材質の白い無機質なタイルのようなものに阻まれ口を閉じていた。

 水面はネルの腹の辺りまであった。たえず水の音がする。

 ネルはジャンプして天井を叩いた。だが硬い手応えが返ってくるだけだった。ネルはぞっとした。

 どこにも出口がない。

 何度も何度も四辺を歩き回り、タイルを押したり叩いたり引っ掻いたりしてみたが、どこにも出られそうな場所がなかった。そうしている間に水のかさが胸まで迫ってきた。

 ネルは足で泳ぎながら、天井のあちこちを思いきり押してみる。びくともしなかった。短刀で壊そうともしてみたが、歯が立たなかった。施術で壊してみようとしても効かなかった。たださらさらとした無機質な手触りがあるだけだった。

 そうしている間に、水は首元まで迫ってきた。まずい。このままでは死んでしまう。

 ネルは天井をドンドン叩いて、叫んだ。

「フェイト! 助けて! フェイト!」

 意味もないとわかっていたが、どうしようもなかった。力任せに天井を叩いた。

「フェイト!」

 ここでこんなわけのわからない最期を迎えるのかと思うと目の前が妙ににじんでくる。任務に命を賭す覚悟はしていたとはいえ、自分に何が起こったのかもわからないまま、終わりを迎えるのか。なんて理不尽なんだろう。これが殺されるということなのか。

 水は容赦なく顔を覆ってきた。

 抗うように、天井に顔をつける。

「フェイト!」

 ネルは力の限り叫んだ。

 水が天井に到達した。

 ネルは水の中に閉じ込められた。

 水の動く音が耳元にカラカラと聴こえる。水の泡が舞い上がっていき、ネルの身体は絶望に沈んでいった。あと三、四分以内には強烈に苦しんで死ぬだろう。

 あの女の子は、玄関の肖像画に描かれていた子供だ、と今更考えてもしかたのないことを思った。

 フェイトに会いたくてたまらなかった。彼がいてくれたら、死ぬのも苦しくないかもしれないのに。それともいてくれたからこそ苦しむのだろうか。暗闇の廊下でいつともわからず別れたきりだった。彼は無事なのだろうか。無事でいてほしい。もう少し二人でいたかった、とネルは心から願った。私たちの時間はあまりにも短すぎた。

 目元の水が不意に温かくなる。水の中でも、涙は温かいのだと思った。

 胸に苦しさがこみ上げる。フェイトを失う痛みと、呼吸のできない苦しさだ。限界が近い。どうしようもなかった。

 ネルはただ目を閉じて、その時を待った。

 ──!

 水の遠く向こうで、何かが動く気配がした。

 ──ル!

 それは叫び声のようにもきこえた。

 ──ネル!

 『天井』が、ガラガラと開く音がした。しかしネルはもう、意識を失いかけていた。目を閉じたまま、泡沫の夢を見ているような感覚で水の中をたゆたっている。

 ──しっかりしろ! ネル!

 フェイトが水面から手を伸ばしてネルを引き上げようとした。その時、どこからともなくネルの足が引っ張られる。その感覚に、ネルは目が覚めたように目を開けた。上にはフェイトの青い髪が、そして下には屍人の黒い空洞が覗いていた。屍人がネルの足をつかんでいる。ネルは思わず足を動かして振り払った。しかし水の中では上手く動かせずゆるゆるとした動きになるだけだった。もう片方の足で屍人の顔を蹴る。しかし足をつかむ手は、離れることはなかった。ネルはまた意識を失いそうになる。

 その時、フェイトの顔が近づいてきた。水の中で、大きく唇を包み込まれる。わずかな空気が、喉に流れ込む。ネルの意識がかすかに目覚めた。フェイトはもう一度、唇を包み込んで空気を送り込んだ。

 懐かしいフェイトの感触に、また涙が出そうになる。

 それからフェイトは水の中に飛び込んだ。ネルの身体を追い越し、もっと下へ沈む。それから剣を構え、屍人の頭に刺し込んだ。黒い液体が水に混ざり出し、ネルの足をつかんでいた手の力が抜ける。

 フェイトはネルの腰を抱えて、水面へと泳いだ。

 水面から顔を出し、ネルは命を取り戻すように激しく呼吸を繰り返した。フェイトがネルの身体を上に引き上げる。脳に酸素が行き渡っていく。身体に染み込むように、血液が巡りだした。ネルの冷えた身体をフェイトは温めるように抱き、背中をさすった。

「大丈夫か……?」

 ほとんど嗚咽するようにフェイトの身体にしがみつき、ネルは信じられない思いでやっと安心できた。何が起こったのだろう。

 しばらくして落ち着いて振り返ると、そこは風呂場だった。ネルが這い出してきたのは家庭用の小さな浴槽だった。ただの浴槽だった。そこに、性別も年齢もわからないような膨らんだ屍人が沈んでいた。

 

 父親に溺死させられた少女の死体だ、とフェイトは語った。フェイトの話では、暗い廊下を二人で歩いている途中でネルを見失い、それから中年男性の幻を見たのだという。彼は家の中にいる家族を一人一人殺していった。応接間の老人は首を絞められ、キッチンの女性も首を絞められ、風呂場の少女は浴槽で溺死させられ、リビングの男児は頭を殴られた後、暖炉に放り込まれたということだった。一人一人の死体には、確かに殺された痕があった。

 それから二人で二階へ行くと、寝室で中年男性が死んでいるのを見つけた。そばには薬瓶が落ちていた。緑っぽくなり、大きな口を開けて死んでいるその顔は紛れもなく、ネルがキッチンで見た男女の幻の男の方だった。そして、玄関の家族の肖像画で微笑んでいた父親だった。

 男のそばには『すまない』と書かれていた遺書があった。戦争で生業を失い、無理心中を図ったのだという。

 フェイトとネルは、家の中の死体をすべて庭先に埋めて、弔った。外はもう朝焼けの光が差して、鳥が鳴いていた。

 ネルは墓標代わりの石を置いて、つぶやいた。

「父親が屍人にならなかったのは、どうしてなんだろうね」

「さぁ……自殺だからじゃないかな。彼だけ、この世に未練がなかったわけだろう」

 ネルは、夕食を作る女の後ろ姿を、それから女の首を絞める男の後ろ姿を思い浮かべていた。

「……勝手なもんだね」

 ネルは重苦しい気持ちで、手を合わせた。それから言った。

「けど、こうなった原因が戦争にあるのだとしたら、先の戦争に加担した私にも責任がある。私はあの戦争の前線に立っていたんだからね」

 すると、隣で手を合わせていたフェイトも言った。

「それなら、僕もだよ」

 二人は黙って、しばらく墓標に手を合わせていた。

 やがてネルは立ち上がって、家を見上げた。家主が生きていた頃は自慢の家だっただろう、大きな家を。

「もう二度と戦争なんて起こらないように……いや、起こさせないように、私たちが頑張るしかないんだよ……ね」

 ネルが誓いのようにつぶやくと、フェイトはその肩を抱いて言った。

「……ああ」

 朝の新鮮な風に吹かれるまま、二人はしばらく家を見上げてたたずんでいた。

 三角屋根の上の風見鶏が、カラカラと音を立てて回った。

 フェイトがふいに頬に手をやり、キスをしてきた。感触を確かめるようなキスだった。

「……よかった。ネルが無事で、本当によかった」

 フェイトは噛み締めるように言って、おでこをくっつけてきた。ネルは温かい気持ちで微笑んだ。

「あんたが助けに来てくれたおかげだよ」

 二人は両手を繋いだ。

「きこえたんだ、ネルの声が。ネルが僕を呼ぶ声が」

「ああ。呼んださ。もうダメかと思ったからね」

 フェイトはつらそうに目を瞬き、それからぎゅっとネルを抱きしめた。

「間に合って本当によかった……」

 ネルはフェイトの背に手を回した。どれだけ恋しかった感触だろう。本当によかったと、心の底から思った。

 ──!

「ん……?」

 ネルはふと、フェイトの肩越しに耳をすませた。

「どうした?」

「いや、何か聞こえなかったかい?」

 ──ぁ〜!

 二人は目を合わせて、即座に腰を屈ませた。まだ何かいるらしい。

 ──さまぁ〜!

 二人は声のする方へ、近づいていった。

 庭の目張りのされた窓の横を抜け、キッチンの窓の方へそろそろと足を踏みしめる。

 すると、キッチンの窓の前の野焼きの穴から、白い手がひらひらと舞っていた。二人はギクリとする。

 まだ屍人が!?

 そんなふうに目配せして、思わず短刀に手をかける。すると白い手が言った。

「ネル様ぁ〜!」

 ネルは一瞬面食らう。それから言った。

「アストール!?」

 穴を覗くと、アストール・ウルフリッヒが大の字になって落っこちていた。

「ネル様! やっと気づいてくれた」

 アストールは泣きそうな顔で目を潤ませる。

「あんた、生きていたのかい!?」

「えっ、まさか死んだと思われてましたか!? そりゃ、足と肋は折れてますけどこの通り……!」

 アストールはちょっと間抜けに手足を動かして、生きていることをアピールした。ネルは心底ほっとしたように胸を撫で下ろす。

「もう……なんなんだい、あんた! てっきり死んだと思ったじゃないか!」

「そんなぁ、知りませんよ」

「ずっとここにいたのかい!?」

「はい、キッキンの窓から逃げようとして、昨日からずっと……イテテ」

 喋ると肋が痛むらしい。アストールが顔を歪める。

「すぐ医者を連れてくるから、そこで待ってな!」

 ネルは急いで立ち上がる。それをフェイトが制して、

「僕が呼んでくるよ」

 と立ち上がった。

「ああ、頼めるかい」

「うん、すぐ戻ってくる」

 フェイトはすぐに走り出した。

 フェイトが医師を連れて戻ってくると、幸いアストールは内臓が傷つくこともなく、足と肋の骨も医師の施術でくっついた。

「いやぁ、助かりました。ネル様の護符のおかげですよ」

 アストールは胸元から護符を取り出した。それは出発前にネルが渡した護符だった。

「とにかく無事でよかったよ。あんたを失ったかと思うと居ても立ってもいられなかった」

 ネルは安堵したように、目を閉じた。

「ネル様……」

 アストールは感動したように、ふたたび目を潤ませた。思わずネルの腕にしがみつく。

「私は一晩中ネル様にどう言い訳しようか考えておりました! それなのにネル様は……ネル様という御方は!」

 ネルの腕の中で咽び泣くアストールを、フェイトは横目で見た。

「あのー、彼氏が見てるんですけど」

「あっ、ごめんなさい」

 あわてて離れるアストールの服を払ってやりながら、ネルはフェイトと目を合わせて、幸せそうに笑った。

 爽やかな朝陽がまばゆく三人を照らしていた。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。