もしも織田信忠が本能寺の変で死ななかったら 作:アルトリア・ブラック(Main)
そして、幼名問題ですが全員元服後の名前で表記させてもらいます
大広間へ入った信忠は上座へと腰を下ろした。
そして。
下座へ並ぶ親族達を見渡す。
叔父達。
弟達。
妹達。
姪や甥。
思わず目を細めた。
見覚えのある顔もあれば。
見覚えのない顔もある。
いや。
正確には。
見覚えのない顔の方が多かった。
本能寺の頃に生まれた子達なのだろう。
父の晩年は特に子が多かった。
戦や政務に追われていた信忠にとって、幼い弟妹達と顔を合わせる機会は決して多くなかったのである。
親族達もまた静かに信忠を見つめていた。
織田信長亡き今。
織田家当主。
そして織田軍総大将は信忠である。
かつての嫡男ではない。
織田家そのものを背負う存在となった。
静寂の中。
一人の女性が立ち上がる。
冬姫であった。
その隣では夫である蒲生氏郷も頭を下げている。
「兄上」
冬姫は深く一礼した。
「ご無事で何よりにございます」
穏やかな声だった。
「冬か」
信忠は小さく頷く。
妹達の中でも特に交流の多かった一人である。
「改めましてご挨拶申し上げます」
冬姫はそう言うと姿勢を正した。
「蒲生氏郷の妻、冬にございます」
信忠は僅かに眉を上げる。
冬姫は苦笑した。
「兄上はご存知でしょうが」
そう言って大広間を見渡す。
「幼い弟妹達は存じ上げませぬので」
その言葉に信忠も納得した。
ここに集まっている者全員が兄や姉ではない。
本能寺の変以降。
初めて顔を合わせる弟妹達も少なくないのである。
「まずは私から名乗らせていただきました」
冬姫は静かに頭を下げた。
「皆、兄上へご挨拶したく待っております」
冬姫がそう言って頭を下げる。
信忠は居並ぶ親族達を見渡した。
幼い弟妹達の中には不安そうな顔をしている者もいる。
無理もない。
己もまた誰が誰だか分からぬ者がいるのだから。
「そうか」
信忠は頷いた。
「では順に名乗れ」
広間が静まり返る。
「私も全員の顔と名を一致させたい」
その言葉に親族達は顔を見合わせた。
「兄妹であろうと知らぬままでは話にならぬからな」
「では私からご紹介いたします」
冬姫はそう言うと、一歩前へ出た。
「こちらは信秀です」
名を呼ばれた少年が慌てて頭を下げる。
「十歳になります」
信秀もまた緊張しているのだろう。
背筋を伸ばしているものの、その表情には硬さが残っていた。
冬姫は微笑む。
「こちらは信吉」
「信高」
呼ばれた二人も続いて頭を下げる。
「兄上もご存知かと思いますが、まだ幼い頃以来お会いしておりませんので」
信忠は小さく頷いた。
確かに顔は知っている。
だが、こうして改めて並ばれると記憶は曖昧だった。
冬姫は困ったように苦笑する。
「皆、兄上にお会いできる日を楽しみにしておりました」
そう言って今度は妹達へ目を向けた。
「綾姫にございます」
小さな少女が緊張した面持ちで頭を下げる。
綾姫。
後に三の丸殿と呼ばれる妹である。
「こちらは阿振」
「信貞」
「信好」
幼い弟妹達が順に頭を下げていく。
最後には乳母に抱かれた長次まで紹介された。
冬姫はそこで一度言葉を切った。
「皆、兄上のことを存じ上げております」
穏やかな声だった。
「ですが、こうして一堂に会するのは初めてに近い者もおりますので」
そう言って冬姫は信忠へ微笑む。
「改めて兄上にご紹介させていただきました」
冬姫は弟妹達を見渡した。
そして再び信忠へ向き直る。
「兄上」
「何だ」
「皆、兄上がご無事で戻られたことを喜んでおります」
冬姫は静かに頭を下げた。
「そして織田家当主としての兄上をお支えしたく思っております」
広間の親族達も続いて頭を下げる。
幼い弟妹達には意味が分からぬ者もいるだろう。
だが。
信長亡き今。
織田家の中心が誰なのかは皆理解していた。
信忠はしばらく黙った。
やがて。
「そう堅苦しいことを言うな」
そう答える。
「私は兄だ」
冬姫の口元が僅かに緩んだ。
弟妹達との顔合わせを終えた信忠は大広間を後にした。
その後も書状の確認や家臣達との打ち合わせに追われる。
気付けば日も傾き始めていた。
信忠は再び本殿へ向かうため廊下を歩く。
その途中だった。
前方から話し声が聞こえる。
ふと視線を向けると、一組の男女が立ち話をしていた。
こちらに気付いたらしい。
女性は慌てたように姿勢を正し、深く頭を下げる。
信忠は足を止めた。
誰だ。
そう思う。
見覚えがない。
少なくとも親しく言葉を交わした記憶はなかった。
だが。
その隣に立つ男には見覚えがある。
「兄上」
信孝は静かに頭を下げた。
その隣の女性もまた深く頭を垂れる。
「母上にございます」
信忠は僅かに目を見開いた。
信孝の母。
そう言われてようやく理解する。
女性は顔を上げぬまま再び一礼した。
「上様のご無事、何よりにございます」
静かな声だった。
信忠は短く頷く。
「そうか」
しばし沈黙が落ちる。
やがて信孝が母へ向き直った。
「では母上」
坂氏も頷く。
「お忙しいのでしょう」
「はっ」
信孝は再び頭を下げる。
その表情から先程までの柔らかさが消えていた。
「失礼いたします」
坂氏は息子を見つめる。
ほんの一瞬だけ。
母親の顔をした。
だが何も言わない。
信孝もまた何も言わない。
ただ一礼すると信忠の後ろへ回った。
兄に従うように。
信忠が歩き出すと。
信孝もまた静かに後を追った。
廊下に二人の足音だけが響く。
ふと信忠は横を見る。
誰もいない。
視線を後ろへ向ける。
信孝は半歩ほど後方を歩いていた。
信忠は思わず眉を上げる。
「信孝」
「はっ」
即座に返事が返る。
「近くへ来い」
「よろしいので?」
「構わぬ」
信孝は一瞬だけ迷った後、信忠の隣へ並ぶ。
だが完全に肩を並べることはしない。
僅かに後ろ。
いつでも一歩引ける位置だった。
信忠は小さく息を吐く。
信雄ならばこうはならない。
あの弟なら何も考えず真横へ来る。
いや。
恐らくは前へ出る。
そして延々と話し続ける。
信忠は思わず苦笑した。
信孝もそれに気付いたらしい。
「何か」
「いや」
信忠は首を振る。
「お前達は随分違うと思ってな」
信孝は一瞬だけ黙る。
やがて。
「信雄兄上と比較されましても」
少し困ったように言った。
「私にはどうにもなりませぬ」
信忠は小さく笑った。
その返答もまた。
いかにも信孝らしかった。