ダンクロのイベント、イレギュラーレコードの履修を前提としています。悪しからず。

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春の夢

 

 

 春風が掻き鳴らす、草木と麦が織り成すアンサンブル。

 莞爾たる夕陽と雄大に育った木々が重なり生まれる木漏れ日のカーテンは赤橙色。

 主人たちの生活を支え続け、劣化が進んだソファ。

 せがまれ、何度も繰り返し読み聞かせてやる内に、セリフの全てを空で口に出来るようになってしまった、勇敢な物語。

 それらが掛け合わされ生まれるもの。

 静寂。

「すっかり静かになってしまったな」

 その静寂を壊すのは、下界の歴史に於いて最も『静寂』という言葉が似合う女。どれだけ下界が繁栄しようとも、この看板が彼女以外の手に渡ることはないだろう。

「長く一人を堪能出来ない日々を生き過ぎて忘れてしまっていた。格別だな。雑音の存在しないこの時は」

 そう告げる女の口の端は、彼女にしては高めを維持している。

「故に不快だ。お前のような異物が、私の前に立つことは」

 口角を保ったまま。瞼を伏せたまま。手にしていた英雄譚をベッドテーブルに置く。

「ごめんなさい、いきなりお邪魔してしまって」

 その一挙一動を、内心の動揺を抑え込みながら見つめていたその人物は、どんな魔法でも再現不可能……それこそ、奇跡のように。しかし極めて自然に。

 女が愛する静寂の世界の中に紛れ込んだ異端であり、異物。

「あの時以来ですね」

 白い髪、紅い瞳を有する異物は、己に向けられる敵意に逆らうでも反発するでもなく、ありのまま受け入れ、自然な笑みを見せた。

「……どういう仕掛けだ?」

「僕にもわかりません」

「質問を変える。どういうつもりだ?」

「答えは変わりません」

「悪ふざけならば他所でやれ」

「これは夢です」

「……それは私の? それともお前の?」

「僕のです。巻き込んでしまってごめんなさい」

 頭を下げるでもなく、微笑んだまま告げられる謝罪は微かな清々しさを纏い、そして何処か軽薄に響く。

「安心してください……と言うのは何かがおかしい感じですけど、明日の朝にはきっと、僕は消えています」

「いつかと同じようにか」

 今度はこくりと頷く異物。

 主語が不足気味。現状の照らし合わせも十分ではなかろうに、女と異物は口を止めない。

「瞳を閉じて夢の世界に踏み込むと、僕の夢はそこで終わるんです」

「明日の朝には消えていると言うのは?」

「単純な話です。こっちに来たばかりなのに、程良く眠くて。というか、安心したら身体の力が抜けた……みたいな?」

「安心?」

「貴方の無事を知れました」

「…………」

「もう一度、貴方に会いたかったんです。ずっと」

「……私に会えたら以前の報復でもしてやろうなどと考えていたわけか」

「へ?」

「生憎と以前ほど力を発揮出来ないが、お前程度捻るのは造作もない。いいぞ、付き合ってやる。このソファから私を動かせたのならばここで夜を明かす権利と身の上話の一つや二つ語る権利を与えてやろう」

「い、いえいえ! そういうのはちょっと」

「遠慮せずとも良い」

「遠慮とかじゃなくて! その……包み隠さずに言います」

 木々や麦が夕時の風と戯れる音にも届かない程度の静かな深呼吸を経て。

「夢を、見過ぎました」

 異物が笑う。

「見たかった夢も。見たくなかった夢も。力及ばず、見たくなかった結末に辿り着いてしまった夢も。たくさん」

 何処か歪に。幼い顔立ちに不似合いな陰鬱な色で描かれた笑みで。

「疲れているんだと思います。僕は」

 弱音を吐き出す。

「だから、折角静かな夢を見られていれるので、ゆっくりしたいなって思っています」

 パッと、いっそ清々しいほど無理矢理に明るい調子を纏ってみせる。

「とは言え、勝手を言っているのは僕ですし、貴方が気分を害するのもわかります。滞在が許されないのでしたら……少し外を歩いてみようかな」

 異物は窓の外に目を向けた。あくまで瞼を持ち上げない女の瞳にそれでも映る異物の瞳に赤々とした夕陽が居場所を取り、彼が有している深紅(ルベライト)の瞳に鮮烈な陰影が生まれる。

「この景色の中ならきっと、目を瞑ってだって歩いて行ける。この場所へ戻ってくることも出来る。そんな気がするんです」

「……何故だ?」

「知っているんです。この景色を」

「…………」

「似てると言うか、ほとんど同じで驚いています。だから、この景色の中でなら、心穏やかに過ごせるんだってわかるんです。理屈じゃないんです」

「…………気軽に余所者に出歩かれては諍いの種になりかねない。やめておけ」

「そうですか。少し残念ですけど、わかりました」

「……そろそろ夕食の支度をせねばならないな」

 ベッドテーブルに置いた、つい先日までこの部屋で共に暮らしていた少年が愛読していた書籍の背表紙を撫でながら、女は言った。

「勝手に人の家に上がる狼藉。剰え休息を取らせろだなどど暴君宛らな振る舞い。これらを許せと宣うならば、相応の態度や行動を取って然るべきだろう」

「……前にザルドさんがしてくれたことを思い出すなあ……」

「あの男の名を出すな。不快だ」

「ごめんなさい。でも僕、あの不思議な時間が今でも忘れられないんです。とっても嬉しくて、楽しくて、なんて説明していいかわからない気持ちになったんです」

「そんな話は聞いていない。やるのか、やらないのか」

「やります。ザル……何処かの『暴食』さんほど上手には出来ないので、そこはご理解頂きたいです」

「知るものか。料理に関しては煩いぞ。特に甘味には。拘りが強い身内がいたものでな」

「はは……」

「……何を笑っている」

「煩いんだなあと思って。『静寂』さんなのに」

「『福音(ゴスペル)』」

「げふぇ!?」

「殴るぞ」

「もう殴っています!」

 重く鋭い衝撃を頬に受け床に倒れ伏した異物の目に涙が浮かび、頭上ではキラキラ星がユラユラ踊っている。

 殴られたと言うより打撃が飛んで来た、って具合。女は依然変わらずソファの上で悠々としているままである。

「舐めた口を聞くな。その気があるのなら粛々と実行しろ。次はないぞ」

「はぃ……」

 痛む頬を摩りながら身を起こし、綺麗に整頓されている台所に立つ。

「さて。じゃあ、好きにやらせてもらいますね」

 えいやっとシャツの袖を捲くり、保存されている野菜やら何やらを検める。あれもこれもしっかりと蓄えられている。足が早めな食材でさえ妙に在庫が多い。一人暮らしにしては充実し過ぎていて、実は彼女は健啖家なんだろうか、などと考えてしまう。

「雑念が透けているぞ。あまり私を待たせるな」

「はいっ」

 敵わないな。この人には。

 何もかもお見通しな女の瞳を隠した眼差しに萎縮した異物は、雑念を一度傍に置き、台所仕事に精を出した。

「手際が悪い」

 しかしそれも長続きしなかった。

「え?」

「先から見ているが、そもそも腕が悪過ぎる。そんな程度の腕前でよくも引き受けるなどと宣ったものだ」

「ま、まだまだ修行中の身でして……」

「未熟を盾にするな愚か者」

「ごめんなさい……」

「もういい。私が用意する」

「へ?」

「粗悪な調理など食材に対する無礼であり侮辱。相応しい末路を与えてやらねば人の勝手で奪われた生命が浮かばれないだろう」

 言いながらソファを離れた女は、両手を覆っているアームカバーを外し、異物の隣に立った。

「面目次第もありません……」

「邪魔だ。座っていろ」

「ここで見学させて欲しいです。見ることだって修行のひとつですよね?」

「勝手にしろ」

「……そういえば」

「なんだ」

「動きましたね。ソファから」

「『福音(ゴスペル)』」

「どぅふ!?」

「弁えろ。小僧」

「ご、ごめんなさぁい……!」

 異物の向こう脛に炸裂する福音(ゴスペル)キック。よっぽど痛いのか、しばらく身を起こせないでいる異物を見下ろしてから、女は台所仕事に勤しみ始めた。

 やがて身を起こした異物は、女の邪魔にならない距離を保ちながら台所に居座り、それを咎めることも女は特にしない。

 二人きりの空間を、女の家庭ならではの生活のメロディが満たす。それは静寂と対極なれど、女の心を安寧へと導く旋律。

「料理もお上手なんですね」

 居心地の悪くない沈黙を破壊することに微かな逡巡。しかし、女と言葉を交わし合いたい欲が勝った。

「あの職人気取りの雑食ほど練達しているなどと言うつもりはないが、子供の舌を満足させる程度ならば鍛錬など必要もあるまい」

「流石だなあ……僕も修行中の身なんですけどまだまだ全然で……」

「知っている」

「……いつ……なんでもありません……」

 いつか。

 口から飛び出しそうになった場違いな言葉を飲み干し、異物は次の話題に指を掛ける。

「僕たちが最後に会ってから、何年経っているんでしょうか?」

「約七年」

 女は答えた。

「ザルドさんはどうされていますか?」

「逝った」

 異物の横顔に影が差す。

 女は見て見ぬふりをする。

「会いたい人には会えましたか?」

 己に宿った暗澹としたモノから目を逸らさず、それでも異物は口を止めない。

「会えた」

「その人は今?」

「旅に出た。私の代わりに、世界を救う旅に」

「貴方が願いを託した人なら、きっと成し遂げられますね」

 一人暮らしにしては食器類が多いのはそういうことなんですねと添えて、異物は改めて女の部屋のあちこちに視線を飛ばした。

「お前と似ているよ」

「え?」

「私の代わりに世界を救いに出掛けて行った、私の息子は」

「……そうなんですか……」

「夢見がちな所などそっくりだ。アレの方が可愛げはあるか。何より、私に従順だ」

「それは可愛げポイントに数えていいものなんですかね……」

 引き攣った笑みの隣。女の口元が、微かに揺れる。

 よほど自慢の、よほど可愛い息子さんらしい。

「……その……貴方の息子さんと言うのは」

「無駄話は終わりだ。食事が出来た」

「……はい」

「それだけか?」

「え?」

「お客様気取りとは思い上がったものだな。引き受けておきながら碌に調理も出来ない無様を晒し、剰え配膳すらも」

「や、やります! やらせてください!」

「ならばさっさと動け」

「はいっ!」

「家内を走るな馬鹿者」

「すいませんっ……!」

 呆れたように溜め息を落とす女に顎で使われシャカシャカと動き回る異物。

 彼は気付いていない。

「忙しないのも似ている……当然か」

 彼の慌ただしい様を眺める台所の女王様の口元が、微かに綻んでいることに。

「いただきます」

「いただきます……」

 最大で四人掛けが精々だろう木造りの机を挟み、小さく頭を下げる向かい合わせの二人。

 味の心配など露ほどもしていないが、その後の一言次第では瞳に軌跡すら残らない神速の打撃的な何かに襲われる可能性を捨てられない異物の手中で、カトラリーがカタカタと鳴いている。

「で、では…………ん! んーっ! おいし」

「『福音(ゴスペル)』」

「へぶぅ!?」

 持ち主が張っ倒されて泣き止むも、床に転がって喚くカトラリー。結局喧しい。

「食事中は静かに。先達に習わずとも当たり前に身体に刻まれている常識だろう」

「しょ、食事中に人に手を上げるのは常識的に」

「何か?」

「ナンデモアリマセン」

 卓上に並ぶ全てに逐一絶賛コメントを寄せたくともそれは許されないらしいので、一々感動しながら食事を楽しむ。カチャカチャと、不快にならない程度に二人きりの空間をカトラリーたちが騒がせる。

「ごちそうさま」

「ごちそうさまでした」

 小さく手を合わせ、小さく頭を下げる。

 ようやく時を得たと言わんばかり。頭を上げた異物の瞳はキラキラと輝いている。

「いやー本当に美味しかっ」

「安い賛辞など要らん。それよりも」

「食器、片付けます」

「自分の立場を理解してきたらしいな」

 不思議な言葉使いの女神様がここに御座したら、つんでれちゃんやなー、なんて評するのかな。

 自らの雑念に育てられた微かな笑みを引き摺り、率先して後片付けに精を出す。

「紅茶でいいか?」

 二人分の紅茶を用意してくれるらしく、ぱしゃぱしゃと水仕事に勤しむ異物の隣に女が立つ。人間二人が並ぶには手狭な台所で、二人が奏でる息吹が微かに触れ合い溶け果てる。

「珈琲もあるが」

「紅茶でお願いします。珈琲は苦手で」

「お子様め」

「お子様ですから」

「ふん」

「いたっ」

 ゴスペらないキックが異物の太腿を強襲。魔力も暴力の香りもないそれは、ただの戯れあいの域を逸脱しない。

「お前の身の上話を聞かせてもらう」

 こちらも手際が悪いなどと言いたいのだろう、瞳を見せない女の眼差しに横合いから刺されながら、素朴な造りの食器類を磨く異物の耳を刺したのは提案ではなく、命令。

「荒事ではなかったが、私はこうして席を立ってしまっている。故に許す。さっさと済ませて席に着き、そして話せ」

「……はい」

 異物の両手が忙しなくなった。

 ややあって。

 先の焼き直しのよう、木造りの机を囲んで向かい合わせ。食後の痕跡が拭い去られた机上には薫香踊る二つのティーカップ。

「僕の身の上話かあ……」

 何を話したものかなあと、水仕事で荒れた肌を癒すように両手で包んだティーカップ内に映る自分自身と相談する異物。

「……僕がオラリオで冒険者になったのは十四歳。それまではオラリオから北に位置する村で

お祖父ちゃんと二人で暮らしていました」

 やがて口を開いた異物。話が前に進む様子を見せないもので、簡易な導線を敷いてやろうかと思案していた女はその機を奪われた。

「オラリオへはその祖父とやらと共に?」

「いえ。僕がオラリオに旅立つ前に……山でモンスターに……」

 当時のことを思い返して眉根を寄せる異物。

「はっ」

 その異物に届かない乾いた笑いが、女の口内で弾けて消えた。

「どうかしましたか?」

「いや。お前の両親は?」

「わかりません」

「何も知らないと?」

「産まれた時からお祖父ちゃんが僕の面倒を見てくれていたので」

「顛末や、名前も?」

「はい。何も」

「そうか」

 無感情な呟きを経て、カップに口を付ける女の所作を見送る異物。彼の瞳には隠しきれない悲哀の色が浮かんでいる。

「祖父に尋ねなかったのか? 両親のことを」

「何度か聞きましたけど、遠くに行っちゃったって言うばかりで、それ以上は何も」

「そうか」

 先と変わらぬ抑揚の言葉を落とした女は、自分の手元ばかりを見下ろしている異物の瞳の揺らぎを観測している。

「恨んでいるのか?」

「え?」

 その観測で得られたもの。それとは軸をずらした言葉を、女は敢えて用いた。

「お前の前に現れない両親のことを」

「いいえ」

「本心か?」

「もちろんです。恨む所か感謝ばかりですよ」

 嘘。というより、虚勢。

「あんまり外では言わないようにしているんですけど。僕、自分の名前が好きなんです」

 自分の心を守る為の笑顔を貼り付けた異物の語気の調子が弾んでいく。

「いい名前とか、似合っているとか、いろんな人に褒めてもらいました。それが嬉しくて。似合っているかはさておいて、素敵な響きだなって僕自身も思っています。顔も名前も何も知らない両親が残してくれたものが僕の人生を支えてくれている。その実感に触れるたびに、この辺りがポカポカするんです」

 自らの胸の真ん中に右手を置いた異物の笑みが大きく育つ。

「由来とか聞けたら良かったんですけどね。それは叶いそうにありません。恨みなんて微塵も抱いていませんけど、それが心残りと言えば心残りですね。あ。そういえば、僕の名前って」

「知らんな。知るつもりも必要もない。お前は一夜の幻なのだろう? 明日には無用になる情報に拘うこともなかろう。お前は道化。迷子で、哀れで、寂しがりで、夢見がちな道化。それが、私の知るお前だ」

「……ですね。貴方の言う通りだ」

 今も夢の中を泳ぐ異物は否定をせず、力なく笑った。

「会いに行けばよかった」

「え?」

「探しに行けばよかった。お前の言う心残りとは、そういう類か」

「…………はい。その通りです」

 静かで確かな肯定を吐き出した異物の笑みに苦味が混ざる。

「いつか会いに来てくれる。迎えに来てくれる。幼い頃は漠然とそんな風に思っていました。でも……待ってばかりいないで、自分から探しに行けば良かったじゃないかって、今になって強く思うんです」

 居間に設置されている小窓の外に広がる景色の中に何かを探すも、小さな窓から覗ける小さな世界の中に見えるのは月と星々くらい。まったりと過ごすうちに、空の支配権は夕陽ではなく月へと譲渡されていたらしい。

「下界の何処にもいないのかもしれないけれど、それでもお母さんとお父さんを探して回ればよかった。それこそ、お母さんとお父さんのことを知っているお友達とか……お母さんとお父さんの家族を探せばよかった。きっと何処かにいるはずなんだから」

 どうしてそうしなかったんだろう。

 自問のような。自責のような呟きが添えられる。

「お祖父ちゃんはきっと止めなかった。お前の好きなようにしろって背中を押してくれる。そういう人だってわかっていたのに」

「今でも、会いたいと思うか?」

「……まだ天に還るわけにはいかないので。いいえです」

「取り繕えていないぞ。形だけの見栄など張るな」

「…………会いたいです。お母さんにもお父さんにも。お母さんとお父さんのお友達や家族にも会ってみたいです」

「そうか」

「この夢から醒めて……そうだなあ……素敵な女性(ひと)の素敵なお子さんが目指しているみたいに、僕たちも世界を救うことが出来たなら、僕の家族かもしれない人を探す旅にでも出てみようかな」

「まだ遠いか。旅の始まりは」

「折り返し地点は過ぎた、って感じでしょうか」

「……オラリオに到着してからのことを話せ」

「僕の名前は知ろうとしないのに?」

「私の息子は冒険譚に目がなくてな。滑稽だろうが浅かろうが冒険は冒険。お前には、あの子を満足させる為の肥やしとなってもらう」

「なんですかそれ……!」

 めちゃくちゃ言うなあこの人と、異物は笑う。

 望まれるまま、異物は語った。

 経験した出会い。冒険。

 家族。仲間。師匠。強敵。好敵手。

 苦痛。別れ。

 二人の視界で踊っていた白煙がその舞踊に飽きる度にカップは満たされ、異物は語り続け、女は耳を傾け続けていた。

「貴様、ハーレムでも築こうとしているのか?」

 思い出話の在庫が怪しくなってきた頃合い。突飛なことを、女は口にした。

「は、はい?」

「お前のファミリアにはお前ともう一人以外女の団員しかいないのだろう? それは団長であるお前の趣味か?」

「違います! 違いますよ! お話した諸々の出来事の結果こうなっているのであって」

「怪しいものだな」

「怪しいとか言われてもぉ……」

「ならばお前は言い切れるのか? ハーレムになど興味はない、と」

「もっ、もちろんでふぇ!?」

 かつーんと、気持ちの良い快音が響く。何度生まれ変わろうとポーカーフェイスなど出来ないだろう異物の額に直撃したカップが立てた音だ。

「な、何故に暴力っ!?」

「喚くな。夢から醒め次第、派閥に男の団員を迎えろ」

「こちらも何故!?」

「そうしろと私が言った。一も二もなく果たすのみだろう」

「そ、そんなこと言われても」

「それと、これは忠告だ。重い女はやめておけ。世界の果てまで尻を追われるぞ」

「だから何の話!?」

 異物に女難の相でも見えたのか、異性関係に口を挟む女。ハーレムなるものを目指せなどと育ての親から英才教育を受けて育った異物は冷や汗ダラダラである。

「もう充分だ。カップを片付けておけ」

「どちらへ?」

「汗を流す」

 すっかり話し込んでしまっていた為、その機会を逸してしまっていた女が席を立つ。

「お前はどうする?」

「え゛っ!?」

「『福音(ゴスペル)』」

「へぶっ!?」

「その不愉快極まる色の瞳で何を幻視した愚物。私の後に利用するならは好きにするがいい」

「お、お心遣い痛みいりますぅ……!」

 この人いきなり何を言い出すんですの? 危い妄想など何もしておらず、単にそう考えて驚いただけの異物の顎に刺さる福音(ゴスペル)アッパー。平衡感覚を奪われ床を舐め始める異物の瞳に涙がきらり。

「そういえば」

「は、はぇ?」

「去年までは、折を見て息子と共に入浴していたな」

 謎の文言を残し、女は居間を後にした。

「な、何の理由のあるそういえばだったの……?」

 彼女の背中を呆けた眼差しで送り出し、まだ緩慢ながら異物は首を傾げる。

「あの人と二人でお風呂……」

 想像する。自由に。伸びやかに。

「……教育に悪そ」

「『福音(ゴスペル)』」

「ゔぇ!?」

 倒れ伏す異物の背中に突き刺さる福音(ゴスペル)チョッピングライト、みたいな何か。

 寝ていろ。道化。

「あぃ」

 数枚隔てた壁の向こうから聞こえたような気がした声に命じられるまま、異物は大の字を描いた。

 ややあって。

「私はもう休む」

 火照った身体や髪を、開けた窓の隙間から滑り込んでくる夜風で落ち着かせること暫し。

 女は、朝を迎えに行くと。

 異物との一時をぴしゃりと閉ざすと。

 そう口にした。

「……でしたら僕は」

「ここで休め」

「え?」

「ベッドに入れと言っている」

「いやいやいや! 入れって、ベッドは一つしか」

「問うな。そして逆らうな。その権利をお前に与えていない」

「権利も何も常識的にっ!?」

 異物の目でも追い切れない身のこなしを披露した女の左手は異物の首に添えられ、ピースサインのように伸びた人差し指と中指の先にはそれぞれ、異物が有している二つの紅い眼球。

「私に、二度、言わせるな。いいな?」

「イエスマム! サーセンッシタァ!」

「……ふん」

「あいたぁ!? な、なんでゲンコツ!?」

「何処かで聞いたような言い回しに腹が立った」

「理不尽っ……!」

「いいから、早く入れ」

「わ、わかりましたぁ……」

 痛む頭部を摩りながら、魔石灯や暖炉の火を消してから女がベッドに上がる様子を見送る。女の人生を支えるベッドはなかなかに大きいらしく、華奢な女一人が居場所を取っても持て余し気味だ。

 息子さんと暮らしていたと言っていたし、息子さんと一緒に眠る為に大きめのを寝台を用意したのだろうと、異物は勝手に納得しておいた。

「し、失礼します……」

 ごめんなさい。貴方の場所、少しだけお借りします。

 彼女の息子とやらに心中で頭を下げながら、目を瞑る女が横たわる寝台に、自分の居場所を広げた。

「何を想像しているかは敢えて聞かないが、夢からの帰還を早めたいのならばお前の脳内を満たしている下賤な欲望に従うといい」

「とんでもない下衆だと思われてる……」

「いいから目を閉じろ。早寝早起きは快眠の基本だろう」

「……はい」

「ではな。精々よく眠れ。道化」

「頑張ります……おやすみなさい」

「おやすみ」

 小さな子供ならば間に入れるかだろうかという程度の感覚を開けて。大きめの一枚の掛け布団で身体を包む、仰向けで横並びの二人。

 流石にまだ聞こえない寝息。互いの呼吸音や鼓動のリズムが誇張されて聞こえてしまうような静寂が、夜のカーテンの内側を満たした。

「…………」

 居心地が悪いとは言わないが、どうにも気不味い沈黙だ。

 天界より降りて来た女神様方にも引けを取らないほどに美しい女と同じベッドで、隣同士で眠っている。

 こんな類の夢は見たことがない。

 以前に、女神様方の美貌に負けず劣らずというか、なんなら女神だった系街娘さんと小さなベッドに入った経験がある彼だが、情けないくらいにあの時の経験が何も活きていない。

 あの時はどうしたっけこういう時はどうしたらいいのかなこれからどうしたらいいんだろうその辺どう思うお祖父ちゃん助けてっていうか多分だけどお祖父ちゃんの所為で怒られたと思うんだなんとかしてよお祖父ちゃんっ。

 爆音でお届けされる脳内雑音が喧し過ぎて、快眠なんて出来る気がサラサラしていなくてさあ大変。

「本当に喧しいなお前は」

 飲み込んだり乗り越えたりなど出来そうになどない脳内言語と踊る夜に待ったを掛ける、夜の静寂がよく似合う女。

「な、何も口にしていないんですけど……」

「雑念に振り回されるにしてもせめて周囲の者に悟られないよう努めろ。お前の派閥の者らは気を揉んでいることだろう。顔にも態度にも全てが現れてしまうお前の姿に」

「そ、そんなこと…………ありそう……ごめんねみんな……」

 思い当たる節があり過ぎて否定が出来なかった異物から溢れる素直な謝罪。

「謝るならば夢の外でやれ」

「ごめんなさい……」

「眠れないか?」

「はい……」

「……ならば、寝物語を聞かせてやろう」

「へ?」

 瞳を伏せたままの女の口から飛んで来たご提案に、目も口も半開きになる異物。

「え、ええっとぉ……その……確かに僕は子供かもしれませんけど、流石にそこまで子供ではないと言いますか」

「私に言わせれば、いつまで経とうがお前など、子供のままだ」

「え、えぇ……」

「いいから聞け。英雄などから縁遠く、一応は冒険者だろうに、一人で冒険することなど碌に出来なかった女の話を」

 異物の混乱になど見向きもせず、女は語り始めた。

「有体に言ってその女は、ポンコツだった」

「ポ、ポン?」

「それも重度……いや。未来永劫その女を上回るポンコツなど現れないのではないかと思ってしまう程度には重症だった」

「ポンコツに重症とかあるんだ……」

「あまりにもアレなもので、周囲の者の一部からはトロ子などと呼ばれていたな」

「トロ子って……」

「何をやらせてもてんで駄目なその女は、とある女神から神血(イコル)を与えられ、ある派閥の一員となった」

「……あの、その派閥ってもしかして」

「黙って聞け。ただでさえ一人では何も出来やしないその女はそれだけに飽き足らず、生来より酷く病弱だった。晩年には、一人では満足に散歩すら叶わぬ身体になってしまっていたな」

「…………」

 聞きたいこと。ツッコミたいことのオンパレードなれど、異物は口を閉ざした。

 女は口を閉ざさない。静寂が似合い、静寂を好む女にしては饒舌に、自ら夜の静寂(しじま)を荒らして回った。

「誰かを頼らねば生きられないそんな女だが、妙に我の強い一面もあった。食べ物の恨みが凄まじかったのだ」

 瞳を閉じることを放棄した異物は、顔だけ横に倒し、語り続ける女の横顔を見つめ、聞き入った。

「その女は特に甘味に関して妥協を知らなくてな。以前にその女の身内が、女が楽しみに取っておいた甘味を食べてしまったことがあったのだが、あいつの周囲の誰もが目にしたことなどなかった形相を浮かべた女がそこにいた。同じようなことがあった。女に神血(イコル)を与えた女神がいてな。その女神ときたら、傲岸不遜を極めに極め倒している碌でもない女神だったのだが……あの女神が正座させられ震える様は、実に滑稽で愉快だった」

 冒険譚ではなく、思い出話なんだ。

 当たり前にそれを理解した異物の口角が、高くなった。

「しかし、それ以外は何もない。得意なことなど疎か、出来ることも何もない。周囲以上に本人がそれを理解していた。けれどその女は、悲嘆に暮れることなどしなかった」

 己を卑下などせず。力を貸してくれる者たちへの感謝を忘れず。決して下を向かず。いつだって笑みを振り撒き。生きるということに誰よりも真摯で、何処までもあいつは懸命だった。

「何も意識せずとも、優しいとは何かを体現し、それを周囲の者たちに教えてくれる女だった。女から見れば当たり前のことを口にしているだけなのに、あの女に救われた者がどれだけいたことだったろう」

 何も持たないあいつが唯一持っていたもの。

「それが、優しさだった」

 誰よりも優しかったんだ。あいつは。

「だからだろう。ポンコツだのトロ子だのと揶揄されながら、それでも女は愛された」

 白い髪が良く似合う、あいつは。

「そんな女はいつしか、恋をした」

 恋と呼べるほど清かったかと問われたら怪しいものだがな。

「その相手の男が気に食わない男でな。長所など逃げ足の速さくらいなもので、有体に言って碌でもない男だった」

 あんな男やめておけと周囲に指を刺されながら、それでもあいつは止まらなかった。

「思い出すだけでも苛立たせてくれる紅い瞳の男と、愛を分かち合った」

 そうしてやがて。あいつは子を成した。

「生きているだけで地獄の只中を泳ぎ続けなければならなかったその女にとって、どれほど辛く」

 幸せなことであったのだろうか。

「自らの子を迎えられるということは」

 それは、終ぞ聞けなかった。

「そうして女は、白い髪と紅い瞳を持つ子供を迎えることが叶った。この話はここまでだ」

 話のオチなど用意するつもりなどないのか、酷いぶった斬り方をして、女は息を整えた。

「…………」

 女の横顔を眺めるばかりの異物は、自らの口が半開きになっていることに気が付かない。

「……どうして……その女性の話を……僕に?」

「似ていると思ってな。その女と、お前が」

「…………」

「良くも悪くも人たらしな所などな。それに」

 異物の真似をするよう、顔を横に向ける女。何を口にしたものかと迷い続けている異物と睨めっこ。

「その髪の色も、まあ似ているな」

「……僕には……わかりません……」

「そうだろう。しかし私にはわかる。本当に似ているよ。お前たちは」

「…………そうですか」

「ああ」

 異物が天井を見上げる。女も倣う。

 同じ掛け布団に身を包む仰向けの二人を子夜の静寂が包み、緩やかに朝の光へと誘う。

「会いたい」

 このまま朝を迎えることを良しと出来ないらしく。

「貴方が……よくわからないこと言うから……」

 穏やかな朝を求めていたはずの異物が、口を開いた。

「その人に……会いたくなっちゃいました……」

 異物の声はどうしてか、掠れていた。

「人の所為にするな、愚か者」

「っ……ですよね……ごめんなさい……」

「……喜んでいるだろうな」

「え?」

「会いたいと、お前が望んでくれたことを」

 あいつは、そういう子だ。

 お前。あいつ。

 彼女は気が付いているだろうか。

 自身がそれを口にする時、声音は穏やかに、語勢もゆっくりと、優しいものになっていた事実に。

「……この夢から醒めたらまた、僕は夢を見るでしょう。いい夢なのか悪い夢なのかわかりませんけど、優しいばっかりの夢ではないんだろうなあ……」

 掠れ、震える声。それを誤魔化したいのか、異物の言葉の運びは慎重で、同時に微かな臆病さも透けている。

「難儀なことだな」

「もしもの話ですけど……僕が見る夢を、僕が選べるなら……」

「どんな夢を望む?」

「……お祖父ちゃんがいて。僕に血を分けてくれた神様と家族たちがいて。友達や仲間。僕の人生を一緒に作ってくれるみんながいて……ザルドさんがいて。貴方がいて……そこに……ポンコツのお姉さんもいて欲しい」

 異物は、女から遠い方の腕。左腕で、紅く輝く二つの瞳を隠した。

「そんな夢が……いいなあ……」

 白い髪を有する異物が鼻を啜る音が、二人だけの空間を揺らす。

「かな、って……だ、から……叶うと……いいなあ……!」

「叶わない」

 語気が乱れていく異物の願いは、女によって水を差されてしまった。

「叶わなくていいんだ」

 その迅速な様はまるで、何かを誤魔化すかのような。本来口にしたい言葉を隠しているかのような。

「そもそもお前は女の名前も知らないだろう」

「……教えてくれないんですか?」

「ああ」

 微かに高くした口の端から、微かに漂うふざけた調子を孕んだ言葉。

「お前にだけは、絶対に教えるものか」

 顔を横に倒した女の視界を、両目を左腕で隠している異物の姿が満たした。

「冷たい人だなあ……!」

 変わらず瞳を隠す異物が少し、声を張った。喧しいと咎めることを、女はしない。

「……二つ、質問をさせてください」

 左腕の目隠しを外した異物が、何も見えやしない天井を見つめたまま、自分の横顔を眺めている女に問いを投げた。

「許す」

「貴方の息子さんは、貴方が産んだ子ですか?」

「私の息子は私が身を痛めた子供ではない。複雑な経緯を経て、家族に……妹に託され、私が育てた」

「……もう一つ。後悔していることは、ありますか?」

「ある」

 即答。

 一体どれほどの後悔を抱えていれば、微塵も迷わないでそう告げることが出来るのだろう。

「しかし、ないと言えばない」

 どういうことなんだろうと、女の様子を確かめようと顔を横に倒す。

「全て、()()()()次第だ」

 右の翡翠。左の灰。

 女が瞼の内に隠していた、左右で色の異なる美しい双眸が、異物を見据えていた。

 とても。とてもとても、優しい眼差しで。

「……よくわからない人だなあ……」

「貴様にだけは言われたくない」

「仰る通りです……はは……」

 互いに横向きとなり、全身で向かい合う。

 何とも締まりの悪い、不器用な笑み。

 小さくて静か。それでも偽りのない微笑み。

 月星の光源ばかりが幅を利かせる薄闇の中でも互いの姿を捉えられる程度には視力の発達している冒険者と元冒険者は、瞳に映る互いの姿に頬を緩め、笑みを深めあった。

「もういい。瞼を下せ」

「わっ……!」

 異物の両目がカーテンに覆われる。女が右手を伸ばし、異物の目を包んだのだ。

「この一夜が思い出になるのか。後悔になるのか。それはお前次第」

 驚きに見開かれる目元を撫で、瞼を下ろすよう繰り返し繰り返し、上から下へと手指を走らせる。

「せめて、別れくらいは良きものになるよう、私がお前を送り出してやる」

 合間に、前髪を撫でられた。

「だからもう休め」

 数度に亘り異物を叩きのめした右手が、ポンポンと二度、異物の額を叩いた。

 その手付きは宛ら、赤子をあやすそれのようで。

「……話せてよかった」

 額を擽る温もりに縋るように。

「聞けてよかった」

 甘えるように。

「また会えて……よかった……!」

 額を突き出すように押し当てて、異物は背中を丸めた。

「やれやれ……夢の中で泣くな。この馬鹿者め」

 この世界では異物でしかない、夢見がちで、泣き虫な少年の涙。

「ご、ごめ……なさ……っ……!」

 その一つを指先で掬い取って、女は瞼を閉じた。

 

 * * *

 

 遠くの空が暁に焼かれ始めた。

 それが指し示すものは。

 夜の終わり。

「ここまでみたいです」

 意外なことに、自分の前でも無防備な寝姿を晒してくれた女を起こしてしまわぬようにと、小さく小さく呟いた少年の身体は光り、輝いている。

「会えてよかった」

 誰かへの意趣返しのよう。輝く右手を伸ばし、女の髪に触れる。

「本当に……本当によかった」

 調子付き、勢いそのまま、女の頬に触れる。

 そこに、涙の跡など刻まれていない。

「僕が見たかったのは、こういう夢だったんですね」

 唇に指を伸ばしそうになり、それは違うじゃんと自制心に横槍を入れられたので、素直に指を引いた。

「貴方に……ア、ル……」

 一度も呼ばなかった彼女の名を口にしようとして、言葉に詰まる。

 どうしてか、折角引っ込んでくれたはずの昂りが再び溢れ始めてしまった。

「っ…………どうか、健やかでいてください」

 自らの目元をぐいっと拭ってから、健やかに眠る女へ身を寄せた。

「ありがとう」

 甘えるように。

 忘れたくない温もりを、ずっと忘れられずにいられるよう、少しでもこの身に刻めるように。

「おかあさん……みたいなひと」

 彼女の額に、自らの額を重ねた。

「あ。もう一つだけ」

 額をぶつけたままの少年の全身が放つ輝きが、寝坊気味の朝日を先取りするよう、光量を増していく。

 その輝きの中で。

「息子さんと仲良くね」

 女の息子に瓜二つの少年は、みっともないくらいに泣きながら、みっともないくらい、笑っていた。

 

* * *

 

 眩しさに瞼で隠した瞳を焼かれ、女の意識は微睡むことをやめた。

「……日が高いな……」

 いつになく深く、長い眠りに身を任せていたと知りながら身を起こす。

「ん……」

 清く澄んだ空気を吸い込みながら軽く身体を伸ばす。今朝は頗る体調が良いらしく、全身に走る痛みや倦怠感の類をあまり感じない。

「さて……」

 現在の大体の時刻と今朝の体調を把握した女は、現状と向き合うことにした。

「誰だ……?」

 今も女の全身を支えているベッドに、自分以外の誰かがいた。間違いなく。

 くしゃりと歪んだシーツに手を這わせる。人肌の温もり、その残滓が確かに感じられる。

「ふむ……」

 この身が共にベッドに上がることを良しとしている存在など、世界に一人しかいない。

 しかし、その者は既に旅に出た。世界を救う旅に。

 何の成果も出さぬまま実家に逃げ帰ってくるような軟弱者に育てた覚えもなし。あの子が帰って来るのはまだ先。世界を救ってからになるだろう。

 だとしたら。

 何も思い出せないが。

 この私、アルフィアと。

 共に夜を越えた者は。

「……無粋なヤツめ」

 髪。額。頬。

 よく知っているようで、よく知らない温もりをまだ失っていないそれらを順番に、左手で撫でる。

 何も思い出せない。

 それでも。

 一つ、結末を見たのだろう。

 静穏に満ちた夢。その果てを。

「せっかちなのは、世界を越えても変わらずか」

 夢よりも夢のような夜を越えたらしい女が、美しい双眸を世界に晒す。

「夢、か……」

 昨夜の全て。

 いつか、この身を灰に還すことを認めなかったあの顛末。

 全てが夢に由来し、そして現実となった。

 それならば。

 違う夢を願おう。

 自分の為ではなく。

 夢に振り回され続ける()()()()の為に。

 この夢を越えて、少しでも心安らかになれますように。

 夢に惑わされた先で。ほんの少しだけでいいから、強くなれますように。

 顔を思い出せないあの子が、少しでも優しい夢を見られますように。

 ここだ。

 ここが、行き止まりだ。

 誰かが描いた静穏の夢の終点へと至った。

 だから。ここから先は。

「私はここで、()()()()の為の夢を見ているよ」

 もっと静かで。

 もっと穏やかで。

 もっと勇敢な。

 そんな夢を願うことにしよう。

「おはよう」

 愛しの息子の頬を撫でるように、誰かの温もりと涙の跡が残るシーツをなぞる。

「そして……いってらっしゃい」

 静穏の夢の終点に、誰かの涙に育てられたものが。

「泣き虫な坊や」

 静かに揺れる優しい笑顔の花が、凛と咲いた。

 


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