BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第十六話 ロベルタの話
夜のイエローフラッグは、昼とはまるで別の生き物だった。
酒と煙草の匂いが混じり、安っぽい音楽に怒鳴り声と笑い声が重なる。通りのどこかで銃声がしても、店内の誰一人として振り返らない。
最初の頃は、そのたびに身体が反応した。
今はもう、バオがグラスを磨く手を止めないなら大丈夫なのだろう、くらいには思える。
慣れとは恐ろしい。
「ほらよ」
目の前に皿が置かれた。
炒飯だった。
「ありがとう」
「最近よく食うな、坊主」
「美味しいから」
バオの手が一瞬止まった。
「……そうかよ」
それだけ言って、カウンターの向こうへ戻っていく。
俺はその背中を見ながら、炒飯を一口食べた。
やっぱり美味しい。
「バオ」
「あ?」
「今日も美味しいよ」
「二回言うな!」
何で怒るんだ。
向かいでレヴィが吹き出した。
「お前、あいつの扱い上手くなったな」
「褒めてるだけだよ」
「それが効くんだよ」
「聞こえてんぞ、レヴィ!」
「うるせぇ!」
いつものやり取り。
俺のいるテーブルには、ロック、ベニー、ダッチ、レヴィ。
そして俺。
ロアナプラへ来たばかりの頃は、この四人と同じテーブルを囲んで食事をするようになるなんて考えてもいなかった。
誘拐された先で出会った運び屋。
最初は、それだけだったはずなのに。
レヴィに銃を教わった。
ベニーにコンピューターを教わった。
ダッチには車の運転を教わった。
ロックとは、妙に色々な話をするようになった。
いつの間にか。
ここにいることが、それほど不自然ではなくなっている。
「ガルシア!」
二階から声が飛んできた。
嫌な予感がした。
顔を上げる。
遅かった。
「いた!」
「今日も来てるじゃない!」
階段を降りてくる女たちと目が合った。
最近、イエローフラッグへ来るたびにこうなる。
「こんばんは」
とりあえず挨拶する。
それだけで、一人が胸を押さえた。
「ああ、もう……!」
「何?」
「どうしてそんなに良い子なのよ!」
「挨拶しただけだよ」
「そこよ!」
意味が分からない。
次の瞬間には、後ろから抱き締められていた。
「ちょっと」
「今日も可愛いわねぇ」
「苦しい」
「ちゃんと食べてる?」
「今食べてる」
別の女までやってきて、俺の髪を撫で始める。
「髪も綺麗」
「触らないでよ」
「どうして?」
「十四だよ。子供扱いしないで」
すると女は真顔になった。
「子供扱いなんてしてないわよ」
「本当に?」
「天使扱いよ」
「もっと嫌だよ」
レヴィが盛大に吹き出した。
「はははっ! 良かったじゃねぇか、天使!」
「良くない!」
「人気者だな、坊主」
「助けて」
「嫌だ」
即答だった。
こいつ。
最初から助ける気がない。
ロックは苦笑しながらコーヒーを飲んでいるし、ベニーは完全に見物を決め込んでいる。ダッチに至っては煙草を吸いながら、我関せずという顔をしていた。
誰も信用できない。
「本当に綺麗な顔してるわね」
女の一人が俺の頬に手を添えた。
「お父さん似?」
「父上にも似てると思うけど、母上にも――」
頬に柔らかいものが触れた。
「…………」
思考が止まった。
女が離れる。
笑っている。
俺はそのまま数秒固まった。
そして。
「っははははは!」
レヴィの笑い声が店中に響いた。
「何だよ!」
「お前、顔真っ赤じゃねぇか!」
「うるさい!」
女たちまで笑い始める。
「可愛い!」
「慣れてないのねぇ」
「当たり前だろ!」
「もう一回してあげようか?」
「いらない!」
逃げようとしたら肩を掴まれた。
「ロック!」
「悪い、ガルシア」
ロックが顔を逸らした。
肩が震えている。
「俺にはどうにもできない」
「やる前から諦めるなよ!」
「相手が悪い」
「何でだよ!」
完全に見世物になっている。
まずい。
非常にまずい。
こんなところを。
もし。
「ロベルタに見られたら怒られる……」
思わず口から出た。
「ロベルタ?」
ロックが聞き返した。
「あ」
そういえば。
名前くらいは出したことがあっても、ちゃんと話したことはなかったかもしれない。
ベニーもこちらを見る。
「誰だい?」
「僕の家のメイド」
「ああ」
ロックが頷く。
レヴィが煙草を咥えたまま眉を上げた。
「お前んとこのメイドか」
「うん」
「怖ぇの?」
「怖くないよ」
そこは即答した。
ロベルタは怖くない。
少なくとも。
俺にとっては。
「優しいよ」
「じゃあ何で怒られるんだ?」
「過保護だから」
「ああ」
妙に納得された。
「どのくらい?」
ベニーが面白そうに聞いてくる。
俺は少し考えた。
「まず、銃を撃ったことが知られたら怒られる」
全員の視線がレヴィへ向いた。
「何であたしを見るんだよ」
「教えたのレヴィだから」
「撃ったのはお前だろ」
「そうだけど」
「だったらお前の責任だ」
ダッチが煙草を指に挟んだまま言う。
「自分で選んだことを他人のせいにするな」
「教えたことをこんなところで使わないでよ」
レヴィが笑った。
「で、他には?」
「車」
今度は視線がダッチへ向く。
ダッチは微動だにしなかった。
「それは普通に怒られるな」
「教えた本人が言う?」
「運転できることと、許可されていることは別だ」
「急にまともなこと言わないでよ」
「俺はいつでもまともだ」
絶対嘘だ。
「パソコンも怒られるかも」
ベニーが眉を寄せた。
「待ってくれ。僕は何も悪いことを教えてないよ」
「アメリカ政府に怒られた話は?」
「それは昔話だ」
「色々なところに入りすぎたって」
「教材じゃない!」
笑いが起きる。
俺も笑った。
「で」
ロックが店内を見回した。
「ここは?」
酒。
煙草。
銃。
二階。
そして俺の周囲にいる女たち。
「…………」
みんなの視線が二階へ向いた。
「ああ」
ロックが頷いた。
「これは怒るな」
「怒るね」
ベニーも同意する。
「普通怒るぞ」
カウンターからバオまで口を挟んだ。
「バオまで?」
「当たり前だろ! まともな保護者ならこんな店に十四歳を連れて来ねぇよ!」
「店主が言うなよ」
レヴィが笑う。
「連れてきたのお前らだろうが!」
「ロベルタが来たらそう説明してね」
「何で俺が説明すんだ!」
「店主だから」
「ふざけんな!」
店内にまた笑いが広がった。
俺も笑いながら、炒飯を口へ運ぶ。
ロベルタなら。
本当に。
どんな顔をするだろう。
怒る。
間違いなく怒る。
でも。
それ以上に。
会いたかった。
「会ってみてぇな」
レヴィが言った。
「そのロベルタってメイド」
「会えると思うよ」
「何で?」
「迎えに来るから」
自然に答えた。
レヴィが煙草の煙を吐く。
「随分自信あんな」
「うん」
それだけは。
疑っていない。
ロベルタがまだ来ないことへの不安はある。
父上に何かあったのか。
捜索が難航しているのか。
何か別の問題が起きているのか。
考え始めれば。
いくらでも悪い想像はできる。
でも。
ロベルタが俺を諦めた。
その可能性だけは。
一度も考えたことがなかった。
「どんな奴なんだ?」
レヴィが聞いた。
「ロベルタ?」
「ああ」
少し考える。
何から説明すればいいんだろう。
「真面目」
「つまんなそうだな」
「優しい」
「お前にだけじゃねぇのか?」
「そんなことないよ」
「美人?」
女の一人が聞いた。
「うん」
「即答かよ」
レヴィが笑う。
「本当に綺麗だよ」
「料理は?」
ロックが聞いた。
「…………」
沈黙した。
「おい」
「努力してる」
「下手なんだな」
「努力してるんだよ」
大事なので二回言った。
ベニーが笑う。
「完璧じゃないんだね」
「当たり前だろ」
「いや。君の話を聞いてると完璧な人に聞こえてくるからさ」
「そんなことないよ」
失敗もする。
心配しすぎる。
頑固だし。
俺のことになると。
時々、本当に周りが見えなくなる。
それでも。
「僕にとっては、すごく大事な人だけど」
少しだけ。
テーブルが静かになった。
照れ臭くなって。
炒飯を食べる。
「へぇ」
レヴィがニヤついている。
「何だよ」
「別に」
「その顔やめてよ」
「何も言ってねぇだろ」
絶対何か思ってる。
「そういや」
レヴィが思い出したように言った。
「前に言ってたな。お前に護身術教えたメイド」
「ファビオラ?」
「ああ。そいつの先生がロベルタなんだろ?」
「うん」
レヴィが少し興味を持った顔をした。
「じゃあ、そのロベルタも戦えんのか?」
来た。
俺は一瞬だけ考えた。
どこまで言うか。
ロベルタは。
俺が彼女の過去を知っているとは思っていない。
だから。
そこには触れられない。
でも。
彼女が普通の人間より遥かに強いことまで隠す必要はない。
俺は昔から知っている。
少なくとも。
そういうことにしておける。
「強いよ」
「どのくらい?」
レヴィが聞く。
俺は少し考えた。
そして。
答えた。
「多分、この街の誰よりも強い」
数秒。
静かになった。
それから。
レヴィが吹き出した。
「ははははっ!」
「何で笑うんだよ」
「いや、そりゃ笑うだろ!」
煙草を持った手でテーブルを叩く。
「お前、この街に来てまだ大して経ってねぇじゃねぇか!」
「それはそうだけど」
「なのに『誰より強い』か?」
「うん」
「マジで?」
「本気だよ」
笑っていたレヴィが。
少しだけ俺を見る目を変えた。
俺は続ける。
「正確に誰と比べてどうとかは、僕には分からないよ」
この街の人間を。
俺はまだほとんど知らない。
直接会ったこともない人間だって山ほどいる。
だから。
これは戦力表の話じゃない。
ただ。
「ロベルタが負けるところは想像できない」
俺にとっては。
それだけだった。
レヴィが俺を見る。
「……そこまでかよ」
「うん」
ベニーが苦笑した。
「随分と評価が高いね」
「評価っていうより」
少し違う。
考えて。
言葉を選ぶ。
「知ってるから」
「何を?」
「ロベルタが強いこと」
それ以上は言わなかった。
ダッチが煙草を吸う。
ロックは黙って俺を見ていた。
「それに」
俺は続ける。
「絶対迎えに来てくれるし」
今度は。
誰もすぐには笑わなかった。
ロックが。
ほんの少しだけ視線を落とした。
俺が不安を感じていないわけではない。
夜。
一人になれば。
父上のことを考える。
ファビオラのことを考える。
ロベルタのことを考える。
眠れない日だってある。
でも。
それでも。
帰れると思っている。
父上は俺を捜している。
ファビオラも待っている。
そして。
ロベルタは来る。
そこだけは。
どうしても疑えなかった。
「そうか」
ロックが静かに言った。
「うん」
「なら、早く会えるといいな」
俺は頷いた。
「うん」
レヴィが煙草を灰皿へ押しつけた。
「じゃあよ」
「何?」
「その最強のメイドが来たら、あたしにも紹介しろ」
「いいよ」
「どんな奴か見てみてぇ」
「多分」
少し想像する。
レヴィとロベルタ。
二人が向かい合っているところ。
…………。
やめよう。
嫌な予感しかしない。
「何だよ」
「いや」
「何だ」
「できれば仲良くしてね」
レヴィが眉を寄せた。
「何で先にそんなこと言われなきゃなんねぇんだよ」
「何となく」
「喧嘩売られなきゃ何もしねぇよ」
それも。
信用していいのか分からない。
「それに」
俺は周囲を見る。
レヴィ。
ダッチ。
ベニー。
ロック。
そして。
二階の女たち。
俺がこの街で何をしていたのか。
ロベルタが知る。
銃。
車。
コンピューター。
イエローフラッグ。
さっきのキス。
「…………」
「何だよ、その顔」
「やっぱり紹介する前に、僕から色々説明した方がいいかもしれない」
「何を?」
「色々」
「だから何だよ」
レヴィが笑った。
ベニーも笑う。
ロックまで笑っている。
「笑い事じゃないよ」
「まだ来てもいねぇだろ」
「来るから言ってるんだよ」
「じゃあ来てから考えろ」
「レヴィは他人事だからいいよね」
「他人事だからな」
酷い。
「まあ」
ベニーが笑う。
「その時はみんなで謝ればいいんじゃないかい?」
「僕も?」
「一番怒られるのは君だろう?」
「何で?」
「本人だから」
「理不尽だ」
「保護者ってそういうもんだよ」
本当だろうか。
そんな話をしている中。
ダッチだけが。
少し遅れて煙を吐いた。
「ガルシア」
「ん?」
「そのロベルタって女」
「うん」
「お前は、実際に戦ってるところを見たことがあるのか?」
俺は少しだけ考えた。
「ちゃんとはないよ」
「ちゃんとは?」
「僕の前では、そういうことをあまりしないから」
嘘ではない。
俺自身が。
今世で。
ロベルタの本当の戦いを見たことはない。
「ファビオラに教えてるところは見てる。あと、普通の人よりずっと力が強いのも知ってる」
「それで、この街の誰よりか」
「だから」
俺は苦笑した。
「誰と比べてどうとかは分からないって。ただ――」
一度。
言葉を切る。
「ロベルタが負けるところは想像できない」
ダッチは。
すぐには答えなかった。
俺を見ている。
何かを測るように。
「何?」
「いや」
短く答え。
煙草を口へ運ぶ。
レヴィが笑った。
「何だよダッチ。お前まで気になってんのか?」
「少しな」
「ただの身内びいきだろ」
「かもしれん」
「じゃあ何だよ」
ダッチは煙を吐いた。
「こいつが言うからだ」
レヴィの眉が上がる。
「ガルシアが?」
「ああ」
ダッチはそれ以上。
しばらく何も言わなかった。
やがて。
「こいつはこの街に来てから、怖いものを見てないわけじゃない」
静かに言う。
「銃も見た。お前が撃つところも見てる。俺たちがどういう仕事をしているかも、馬鹿じゃないから分かってる」
俺は黙って聞く。
「その上で」
ダッチの目が俺へ向いた。
「一度も笑わずに、自分のところのメイドは強いと言ってる」
煙草の灰を落とす。
「なら、覚えておくくらいはしてもいい」
レヴィが鼻を鳴らした。
「考えすぎだって」
「そうかもな」
ダッチは笑った。
それで。
話は終わった。
「坊主」
バオが呼ぶ。
振り向くと。
小さな皿が追加で置かれた。
肉と野菜の炒め物。
「頼んでないよ?」
「余りだ」
「こんな綺麗に一人分余る?」
「うるせぇ。食わねぇなら下げるぞ」
「食べる」
箸を伸ばす。
「ありがとう」
「だから余りだ!」
やっぱり怒られた。
レヴィが笑う。
女たちも笑う。
誰かがグラスを鳴らす。
二階から音楽が聞こえる。
外では。
また遠くで銃声がした。
誰も振り返らない。
いつもの。
ロアナプラの夜だった。
俺はまだ。
知らなかった。
俺が今。
笑いながら話していたその人が。
もう。
この街へ向かっていることを。
そして。
次にロベルタの顔を見る時。
こんなふうに笑っていられる状況ではないことも。
まだ。
何も知らなかった。