よう実 短編集   作:カチューシャ

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続き。
次回は3割くらいなので、少しだけお待ちください。


1-2

 

 


 

僕、金田悟が美術部に入ったのには特別強い理由があったわけではありません。

この学校に入って何か一つくらい所属する場所を持った方がいいだろうと思い、いちばん無難に見えたところへ入部しただけでした。

 

僕のいたクラスには少し気の強そうな生徒が多く、正直なところ、あまり長くいたいと思える空気ではありませんでした。

だから落ち着ける場所を探していたのかもしれません。

とはいえ、そのときはそれ以上の意味を持つとは思っていなかったのです。

 

後になって振り返れば、あれは自分の見方そのものを変える出来事でした。

 

何気なく覗いた美術室で、最初に目に入ったのは一枚の絵でした。

それは朝に見かけただけの鳥を描いたものだと、後から本人――いや、彼女だと知って謝罪しましたが――そう聞かされました。

当初は観察したものをそのまま写しただけだと思っていたのです。

しかし実際は違いました。

 

羽根の一枚一枚が単なる形の再現ではなく、構造として理解された上で描かれていたのです。

重なり方、密度の差、光を受けたときの反射、陰の落ち方。

それらが一つずつ整理され、無駄なく配置されていました。

見ている側が「鳥らしい」と感じる前に、「そこに存在していた」と認識してしまうほどの精度でした。

 

今にも飛び立ちそうなほど緻密で繊細に描かれているその絵が完成へ向かっていく過程を、僕たち周囲はただ黙って見ていました。

息を呑んでいたというより、理屈を追うより先に感覚が圧倒されていたと言った方が正確かもしれません。

 

やがて外が暗くなっていることに気づく頃には、筆を置く音と彼女が小さく息をつく音だけが美術室に残っていました。

その瞬間まで止まっていた時間が、ようやく動き始めたように思えたのです。

 

彼女――朝霧水音さんが描き切ったその作品は、『羽音』とだけシンプルに名づけられました。つい最近まで僕たちだけで見ていたソレが、

 

―――世界絵画大賞展の最終選考に残ったと聞いた時、

僕たちは当然だと自然に受け入れ、まったく驚きませんでした。

 

彼女――朝霧氏については、驚かされることが多くありました。

まず、部室である美術部にほとんど入り浸っていること。

なんでも、入賞などのコンクールで得たポイントの大半を授業の免除につぎ込んでいるらしいこと。

 

「おはようございます」

 

「………」

 

「……おはよう金田君。…今、いつものみたい」

 

「その様ですね」

 

次に、集中していると周囲の声に反応しないこと。

最初は無視しているのかと思いましたが、話してみるとその都度しっかり謝罪してくるので、わざとではないことはすぐに分かりました。

むしろ、次に描き上げられる作品の進行を見守る方が、こちらとしては自然だったのかもしれません。

 

「あ、朝霧君?」

 

「…?」

 

「その、もしかしてなんだけど……最後にお風呂に入ったのって、いつかな?」

 

「えっと…」

 

「え゛……そんなに。……ちなみに制服も、もしかして……」

 

「ん…」

 

そして次に、食事や清潔感――いわゆる生活感が欠けていること。

彼女の才能については、もう部員全員が把握していました。

だからこそ、一種の敬意や畏怖を持って接していたのだと思います。

 

そんな中で、彼女の体調や身だしなみを確認しに行った部長は、僕たちの中では間違いなくヒーローでした。

それ以降、彼女は定期的に――それでも忘れることはあるようでしたが――入浴や洗濯をする習慣を身につけることになります。

 

ちょうどその頃でしょうか。

クリーニングなどを代行できる店を紹介した上級生から、朝霧氏は男子の制服を着ている女子生徒だと、美術部内に周知されたのは。

 

幸いだったのは、美術部には穏やかな器質の人が多く、特に荒れた様子がなかったことでしょう。

芸術に性別は関係ありません。

それに、朝霧氏がなぜ男子の制服を着ているのかを、あえて追及する理由もありませんでした。

 

僕たちの共通認識は変わらない。

彼女が――朝霧氏が、心の思うままにこれからも作品を作り上げていく様子を、できるだけ近くで見届けたい。

ただ、それだけだったのです。

 

……だからこそ。

 

―――『やめてっ!』

 

だからこそ、彼らの所業を、僕は見て見ぬふりはできませんでした。

 

 

 

「よう、金田」

 

「………」

 

「随分と男前になったじゃねえか、おい」

 

「………」

 

「………」

 

「………」

 

「黙ってねえで説明しろ。自慢の頭を使って「潰したい」…あ?」

 

「潰したい連中がいます、龍園氏」

 

「…クク、良いぜ、聞いてやるよ」

 

 

 

 


 

私、白波千尋が水音ちゃんと仲良くなった理由は、そんなに特別なことじゃありませんでした。

最初は男子だと思っていた彼女に、少しだけ緊張していた。

でも、どこか男の子っぽくないというか……言葉にするのは難しいけど、最初から女の子みたいだなって、なんとなく思っていたのかもしれない。

 

ボサボサの髪に、伸びた前髪。

その間からちらっと見えるブラウンの目。

猫背でキャンバスに向かっている姿は、少し頼りなく見えた。

 

印象ががらりと変わったのは、水音ちゃんの絵を見てから。

息をするのも忘れるくらい、完成に近づいていくその絵を、ずっと楽しみにしていた。

 

「…すごい」

 

「うん……綺麗」

 

ぽつりと漏れた声に、隣にいた人もそう零した。

他のクラスの人で、面識はなかったけれど……たぶんあの瞬間は、同じことを思っていたんだと思う。

ただただ、目の前の絵に、芸術に、心を奪われていた。

 

それが――朝霧水音ちゃんと、その作品との出会いだった。

 

声も、男の子にしては少し高かった。

後から女の子だと聞いた時は、すとんと腑に落ちたし。

なんていうか……ほっといたらずっと絵を描いていそうで、多分一人じゃ生きていけないような、そんな感じだった。

 

「ん……」

 

「………あんた、ちょっと」

 

「?」

 

「動かないで。…これで良いわよ」

 

「………?」

 

前髪を邪魔そうに払っているのを見かねて、神室さんがヘアピンを貸してあげてた。

不思議そうにしていたけど、次の日から前髪をそれで留めるようになって、彼女も満足そうだった。

 

それからも、水音ちゃんの不思議な行動というか…うん、ちょっとしたあれこれは続いた。

ご飯をほとんど不規則に取っているせいか、時々「くぅ…」なんてお腹を鳴らしていた。

すると、1週間も経てば一斉にお菓子やパンを持った先輩たちが、餌付けするみたいに差し出していた。

彼女は差し出されたものをきょとんと見て、それから素直に食べる。

少ししてから、思い出したみたいに「ありがとう」って言ってくれる。

……その反応が嬉しくて、私も差し入れを持っていくようになった。

 

「千尋ちゃん、最近とってもご機嫌だね!」

 

「えっ…そう、かな?」

 

「うん!」「なんか明るくなったし」

 

帆波ちゃんや、他のクラスの友達にそう言われて、自分でも少し驚いた。

理由は、すぐに思いついた。

水音ちゃん――その時はまだ朝霧君って呼んでいたけど――の絵を見て胸が躍ったこと。

それに、そんな彼女を支えているんだっていう自覚が、きっと私の気持ちを前向きにしていたんだと思う。

 

5月になって学校のルールが明らかになって、帆波ちゃんたちと相談する時間はすごく大変だった。

Aクラスを目指す為に、クラス一丸となって方針を決めたりした。

そんな張り詰めた雰囲気がストレスになっていたのは間違いなく思う。

でも、そのあとに美術部で絵を見れば、すうっと心が満たされていくのを感じた。

きりっとしたクールなAクラスの神室さんも、水音ちゃんの絵を見ると、ふっと表情をやわらげていた。

 

きっと、勘違いなんかじゃない。

美術部のみんな、水音ちゃんの絵を見て、少しずつ欠けていたものを埋めていたんだと思う。

 

だから、水音ちゃんが私たちの絵を描きたいって言ってくれた時は、すごく驚いた。

 

「え?…美術部の…絵を描きたいってこと?」

 

「うん。…ダメ?」

 

「い、いや!ダメじゃない!全然良い!…なあ、みんな!?」

 

振り返った部長の声は少し上ずっていて、顔も引きつっていた。

でも、それでも嬉そうで、そんな様子に部活のみんなもすぐ賛成してくれた。

そして私たちは、その絵の完成を楽しみに待つことになった。

 

普段よりも大きな額縁いっぱいに色を足して、時に混ぜて、時に塗りつぶしながら、空白を埋めていく。

毎日、作品が出来上がっていくというより、その制作の過程そのものが作品みたいだった。

珍しくああでもない、こうでもないって悩みながら、それでも筆は淀みなく色を重ねていく。

 

だから、そんな彼女が息抜きなのか、気まぐれに私たちの絵を描いてくれた時は、本当にびっくりした。

 

「………」

 

「…はい、出来た」

 

「…っ、これが…私…?」

 

「ん。…下手だった?」

 

「いえっ! とても…とても、上手です。嬉しい」

 

「♪」

 

描いてくれたのはスケッチブックの一枚。

本人からは落書きなんて言っていたけれど、そんなことはなくて、ちゃんとした作品だった。

私はもちろん、男子の金田君も照れて眼鏡を拭いていたし、神室さんもスマホで撮影していた。

私も撮って待ち受けにしたいくらいだったけど……それは、さすがに少し恥ずかしいかった。

 

「おはよ」

 

「あ、神室さん。おはようございます」

 

「………」

 

「朝霧は…集中モード…って感じ?」

 

「はい。もうすぐ仕上がるって言ってたので」

 

「そう。…楽しみね」

 

分け隔てない…ううん、どこか浮世離れしてる水音ちゃんの影響か、美術部では今日もそんな世間話を返せる余裕すらあった。

そうして絵がもうすぐ完成しそう、という頃に、私たちの学年ではトラブルが起こってしまう。

 

なんでも、学年内で揉め事があったらしく、その解決まで月初めのポイント配布が止ると、朝のHRで聞いた。

放っておくと、ご飯を食べないままでいそうな水音ちゃんのためにパンを買ってあげると、彼女は美味しそうに食べながら絵を描いていた。

……その日は珍しく、Cクラスの金田君も、どこか申し訳なさそうな顔でコーヒー牛乳を差し入れていた。

 

「…すいません、こちらのクラスの揉め事で」

 

「別に…アンタが絡んでるわけじゃないでしょ」

 

私や神室さんにもそう言っていたけど、金田くんはどこか後ろめたそうで、何があったのか、ちょっと気になっていた。

その理由が分かったのは、次の日のこと。

トラブルの原因は、DクラスとCクラスの生徒同士の揉め事らしい。帆波ちゃんたちが深刻そうに相談してた。

 

「ちょっと調べてみようか、前の件もあるし」

 

「俺も付き合おう。…まずは現場の、特別棟を…」

 

喧嘩が原因で、意見が食い違っているから、結果としてクラスポイントがどうなるかも分からないみたいだった。

もともと十分なポイントを持っていた私や神室さんは、あまり気にしなくて済んだ。

たぶん、金田君もそうだったと思う。

 

そんなちょっとだけいつもと違う時間が決定的に壊れたのは、放課後のことだった。

まだ生徒達が集まり始めていない頃、一番に居た水音ちゃんと、わたしや金田君、あとはちらほら先輩が集まり始めた頃だった。

 

ガラリ、そう気遣いのない大きな音で開くドアから、見慣れない男子たちが美術部に足を踏み入れた。

 

「失礼しまーす! …居た!」

 

「ちょっと君たち、何を…」

 

「おい!やっぱここに居たぜっ!」

 

無遠慮な声と一緒に入ってきたのは、何人かの――多分、Dクラスの――男子たちだった。

彼らは美術部の空気など最初から意に介していない様子で、教室に入るのと同じ感覚でずかずかと踏み込んできた。

そのまま奥へ向かい、朝霧ちゃんの前で足を止める。

 

「なあっ! 朝霧!…へへ、またポイント貸してくれよ!」

 

「ずりいぞ! 俺だって今月はピンチなんだよ! 貸してくれよ!」

 

朝霧ちゃんは反応しなかった。

というより、今は反応できなかったのだと思う。

彼女は画面を見たまま、筆先を動かし続けていた。

その静かな集中を、男子たちは無視されたと思ったのか、態度が一変する。

 

「おい、聞いてんのかよ」

 

一人がそう言って、朝霧ちゃんの肩を揺らす。

彼女の細い身体が、椅子ごと僅かに揺れた。

無抵抗でいる彼女はそれでもまだ、絵から目を離さない。

 

はらはらしてその様子を見ていると、その一線は容易に飛び越えられた。

 

「……」

 

「無視すんなって…!」

 

怒気を帯びた声と共に伸ばされた手は、水音ちゃんの制服の襟を掴んだ。

何をするつもりなのか、嫌な予感だけは、ひどくはっきりしていた。

 

「ちょっと、何をっ…」

 

「邪魔すんなよ!」「ほかのクラスが口出しするなよ!」

 

誰かが止めようとした。けれど、男子たちは止まらない。私も動きたかったけど、男子が怖くて震えてるしか出来なかった。

彼らは座ったままの水音ちゃんの胸ぐらを掴み上げて、上から見下ろすように、退路を断つ様に囲んで恫喝を続けた。

 

「ほら、学生証だろ。出せよ」

 

「貸してくれればいいだけじゃん。いつもみたいに、なあ?」

 

声を荒げながら、彼らは朝霧ちゃんの制服を乱暴に引いた。

ポケットを探すみたいに裾を引っ張り、腕を押さえ、身を屈めた彼女の髪まで掴む。

長い前髪が無理やり持ち上げられて、止められたヘアピンが床に転がった。

痛そうだった。でも、それ以上に、見ているこちらの方が息を詰めた。

 

「ほら、みんなメーワクしてんだぞっ!早くしろよ!」

 

「……っ」

 

朝霧ちゃんの喉から、かすれた音が漏れる。

それでも彼女は、まだ筆を離そうとしていなかった。今だけは彼女の集中力の高さが、裏目になってしまっていた。

 

男子の一人がいよいよ、キャンバスの前に割り込む。

彼女の視界を塞ぐように立ち、ついには絵の端を蹴り上げた。

足先に弾かれた画面がぐらりと揺れ、乾きかけた絵の具に靴底が触れる。

 

「やめ」

 

誰かが止めようとした。でも、それよりも早く、

 

「早く出せって! 絵なんて後で――」

 

「やめてっ!」

 

初めて聞く、はっきりとした否定の声だった。美術室の空気が、一瞬だけ止まる。

朝霧ちゃんが腕を振り払ったのか、掴んでいた男子が驚いたように手を引く。

 

「うぉっ!」

 

勢いよく反応された拍子に、男子は尻もちをついた。

だが、倒れた痛みことより、水音ちゃんが抵抗したことへの怒りが顔を赤くする。

 

「っ痛てえ……! なにすんだよ! この根暗野郎っ!」

 

「ひ…うぅ……」

 

朝霧ちゃんは、もう息が乱れていた。

胸が上下して、さっきまでの静けさが嘘みたいに、ひどく苦しそうだった。

それでも彼女は、自分の前にある絵を見ようとしていた。その様子に激昂した男子が声を共に足を上げた。

 

「やめて」と言いたかった。

でもその声より早く、無理解な暴力が振るわれてしまった。

 

「なんと言えよ!!」

 

「あ…!」

 

次の瞬間、男子の一人がキャンバスを蹴飛ばした。絵がぐしゃりと揺れて、床にぶつかる。

さらに別の男子が、乾きかけの部分を靴で踏みつけた。

 

「絵が……!」

 

誰かの声が上ずる。

 

「朝霧さんっ!」

 

ようやく私たちが動こうとした時には、もう遅すぎた。

朝霧ちゃんの顔から、さっと血の気が引いていく。

息が浅くなり、手が震え、頭を押さえたまま、彼女はその場に蹲った。

 

「ポイントがないとヤバいんだって! ホラ、どこだよ!」

 

「早く出せよ!」

 

「どこだ…おい、どこだよ」

 

男子たちは、まるで最初からそれだけが目的だったみたいに、彼女の制服を乱暴に探り始める。

内ポケットをまさぐり、腕を引っ張り、身を屈めさせる。

彼女の顔が見えなくなるくらい近くまで寄って、好き勝手に手を伸ばしていた。

 

その光景に、私は喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。

怖かった。

でも、それ以上に、何もできない自分が情けなくて、涙が零れた。

 

「あ…あぁ…」

 

「ひっ……ひゅっ……」

 

朝霧ちゃんの呼吸が、どんどん乱れていく。

見ていれば分かる。もう限界だった。

 

「や、め……」

 

「やめろ!!」

 

私のかすれた声をかき消すように、金田君が立ち向かった。声を上げて、水音ちゃんを庇おうとしたけれど、手勢に無勢。

金田君のことを「Cクラスの奴だ!」と男子が言うと、同じように攻撃の対象にされて突き飛ばされていた。

 

「お前らのせいでポイントがねえんだよ!」

 

「う…」

 

「あぁ…」

 

そんなうっぷんを晴らすように胸倉を掴んで引き倒したり、

歓声を上げながらキャンバスを蹴飛ばして踏みつける男子までいた。

 

私や他の先輩たちも怖くて、ただ、見ているだけだった。

 

頭を押さえて蹲っている水音ちゃんを助けられなかった。

無力に、そこにいるしかなかった。

 

「あった…!」

 

「おい行こうぜ!」「おう!」

 

彼らは水音ちゃんの制服から目的の学生証を手にすると、満足そうに去っていく。

残ったのは、足蹴にされた絵と、乱暴に着崩された水音ちゃんだった。

金田君は、自分もボロボロなのに、ずっと心配そうにしていた。

 

「ひゅ……ひぅ…」

 

「朝……霧……氏」

 

「水音ちゃんっ!」

 

気がついたら、神室さんが声をかけてくれていた。

水音ちゃんは過呼吸みたいに呼吸が乱れていて、周囲の先輩たちが背中を撫でている。

 

「ちょっと、これ…! どうしたの?」

 

「か…神室さん…」

 

「アイツは…? それに、この絵…」

 

私は何も出来なかった。

ただ怖がって、ただ泣いていただけだった。

それがひどく惨めで、水音ちゃんに申し訳が立たなかった。

 

 

 

――だから、私は行動に移すことにした。普段じゃ考えられない行動力で、話を持ち掛けた星之宮先生は目を丸くしていた。

 

「ホントに今で良いの? 一之瀬さんたちに相談とか……」

 

先生はいつもの軽い調子を潜め、少し心配そうに私を覗き込んでくる。

一之瀬さんたちの顔が頭をよぎる。他のクラスのことへ首を突っ込むなんて、それこそ相談した方が良いに決まっている。

DクラスとCクラスの揉めている件で、帆波ちゃんや神崎君が献身的に動いていることも知っている。

…私の行動が、Bクラスにとってどれだけの不利益になるかは分かっている。でも――。

 

「ごめんなさい。…帆波ちゃんには、後で謝ります。でも私…どうしても」

 

「白波さん、あなた」

 

「どうしても、許せないんです」

 

初めてかもしれない。誰かの事を、こんなに許せないだなんて思う事が。何か言おうとした先生はグッと口を噤む。言いたいことがあったのかもしれない。

それでも、涙を滲ませながら、私はまっすぐに先生を見つめた。先生はしばらく私の目を見ていたけれど、やがて困ったように、でも優しく息を吐いた。

 

「うん…そっか。なら、先生には止められないかな」

 

「お願いします、先生」

 

「良いわ、後は先生に任せなさいっ」

 

その言葉を聞きながら、私は心の中で、親愛なる友人へ深く頭を下げていた。

 

 


 

 

私、神室真澄が美術部に入った理由なんて、当初は特になかった。

 

この学校のシステムは入学早々に理解したし、自分の()()()()()を考えれば、目立つようなことは避けたかった。適当に時間が潰せて、文科系で緩くて、サボろうと思えばいくらでもサボれそうな場所。それがたまたま美術部だった、というだけのことだ。

 

あの日、あのボサボサの頭をした大人しそうな生徒の絵を見までは、本当にどうでもよかった。

 

最初に見たのは、周囲から「朝霧君」と呼ばれていた頃に描いていた、一羽の鳥の絵だ。

何が凄いのか、美術の素養がない私には専門的な言葉では説明できない。けれど、そのキャンバスの前に立った時、身体の芯がすうっと冷たくなるような、奇妙な感覚に囚われたのを覚えている。

 

「…すごい」

 

「うん……綺麗」

 

無意識に漏れた声。隣のやつも思わず、って感じで呟いていた。

 

羽根の質感、生命の気配。まるでその鳥が、朝霧の筆によってこの世界に「生み出されて」いくような錯覚。気がつけば、退屈を紛らわせるために通っていたはずの部室で、私は朝霧の背中を、その筆先を、ただじっと追いかけるようになっていた。

 

あんなに神懸かった絵を描くくせに、私生活のレベルは壊滅的だった。

いつも猫背で、飯を食うのも忘れてキャンバスにかじりついている。おまけに文字を書くのも苦手らしく、他人に興味があるのかないのかも分からない。

 

「ん……」

 

ある日のこと。朝霧が彼女だと周知されてしばらくたったあたり。伸び放題の前髪を鬱陶しそうに、何度も何度も手で払っているのが目に入った。

見ていてイライラしたし、何より、そのせいで筆が鈍るのが無性に癪だった。私はポケットを探り、自分の予備として持っていた、なんてことのないシンプルなヘアピンを引っ張り出した。

 

「………あんた、ちょっと」

 

「?」

 

「動かないで。…これで良いわよ」

 

ぶっきらぼうに前髪を上げ、ピンで留めてやる。朝霧は目を丸くして、自分の前髪をそっと触り、それから鏡も見ていないのに、子供みたいに顔を綻ばせた。

 

「………?」

 

「あげるわ」

 

「っあり、がとうっ」

 

「…別に予備だから、気にしなくていい」

 

それからというもの、朝霧は毎日そのヘアピンを律儀につけていた。

ただそれだけのことで、胸の奥が少しだけ擸ぐるったくなる。一人じゃ生きていけないような危うさを持つ朝霧を、白波がパンを差し入れて餌付けし、金田が眼鏡の奥の目を丸くして見守る。本来なら競い合う、クラスが違う私たちが、あの静かな美術室という「額縁」の中だけで、不思議と一つの絵のように収まっていた。

 

「え?これ…私たち?」

 

「ん…。…き、気に入らなかったら、捨てていいから、ね?」

 

「いえ…!ありがとうございます!大切にします!」

 

そんな朝霧が、私たちを題材に絵を描きたい。そう言ってくれて、本当に嬉しかった。人に興味が無かったアイツが、スケッチブックに私たちを描いてくれたり。本当に、嬉しかった。

――だからこそ、あの放課後、部室に飛び込んできた時の光景が、今でも狂おしいほどに許せない。

 

美術室のドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、いつもとは全く違う非日常な光景だった。

 

「水音ちゃん…水音ちゃんっ…」

 

「ひっ…ひっ、ひぅ…」

 

白波のすすり泣く声。過呼吸気味に胸を上下させ、尋常じゃない様子で苦しむ朝霧の声。

空間に響く、床に無残に蹴り転がされ、泥のついた靴底で踏みにじられたキャンバスが、真っ先に目に入った。

 

それは、朝霧が私たちのために、この部室の空気そのものを描こうと、何日も心血を注いで向き合っていた「集大成」のかわり果てただった。

 

「ちょっと, これ……! どうしたの?」

 

私が声を荒げて一歩踏込むと、部室の奥で息を潜めていた先輩たちが、怯えたように肩を揺らした。

その横で、朝霧は乱暴に着崩された男子制服のまま、頭を押さえて蹲っている。顔からは完全に血の気が引いていた。金田も服を汚し、眼鏡を歪ませながら、床に膝をついたまま拳を血がにじむほど強く握りしめている。

 

「神室、さん……っ、あ、アイツらが……」

 

白波が涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら私を見上げる。

 

「落ち着きなさい、白波。アイツらって誰よ。この絵をこんな風にしたのは誰?」

 

私の問いに、近くにいた気の弱そうな先輩が、震える声で重い口を開いた。

 

「……Dクラスの、男子生徒たちだ。何人かでドカドカ入ってきて、朝霧さんにポイントをよこせって詰め寄って……」

 

「Dクラス……? 自分のクラスの連中にやられたって言うの?」

 

「金田君が止めようとしてくれたんだけど、突き飛ばされて……。アイツら、朝霧さんの制服を無理やり探って、学生証を奪って、それから腹いせにその絵を……!」

 

金田が歪んだ眼鏡を直すこともせず、悔しげに床を見つめたまま、低く掠れた声で言った。

 

「……多勢に無勢でした。朝霧氏が、あんなに大切に描いていた絵だったのに……僕は、何も……!」

 

状況を察するのに、それ以上の説明は必要なかった。

朝霧のいる、Dクラスの連中。目先のポイントに目がくらんだ底辺の連中が、無遠慮に絵を台無しにして、あげくこの学校における現金の入った端末――学生証を奪っていったのだ。

 

「神室さん……水音ちゃんが、水音ちゃんが息、ちゃんとしてなくて……っ」

 

白波がパニックになりながら朝霧の細い背中をさすっている。朝霧の「ひゅ……ひぅ……」という呼吸はどんどん浅くなり、完全に意識が飛びかけていた。

 

「白波、泣いてる暇があったら手を貸しなさい。金田、アンタも立てる?」

 

「あ、は、はい……!」

 

「朝霧の背中を優しく撫でてて。金田、私と一緒に朝霧を抱えるわよ。……今すぐ保健室へ運ぶ」

 

私は奥歯を噛み締め、先輩たちを睨み据えた。

 

「先輩たちは、ここに残って汚された備品と、この現場の状況をそのまま記録しておいてください。いいですね?」

 

「あ、あぁ……分かった」

 

金田と白波を急かし、過呼吸を起こしている朝霧を抱き抱えるようにして、私たちは美術室を後にした。

 

白を基調とした保健室の天井は、無機質で、どこか冷たい。

ベッドに横たわった朝霧に、保健医が手際よく処置を施していく。徐々に呼吸が落ち着き、薬のせいか深い眠りに落ちていく彼女の顔を見届けて、ようやく私は一つ、長い息を吐き出した。

 

パイプ椅子に腰掛け、眠る朝霧を見守る。

隣には、まだ制服を汚したままの金田と、赤く腫らした目で朝霧の手を握りしめている白波がいた。静寂が、かえって放課後の暴挙を際立たせるようで、私の胸の奥では黒くドロドロとした怒りが、ふつふつと湧き上がり続けていた。

 

どれだけの時間が経っただろうか。

窓の外が完全な夕闇に染まった頃、ベッドのシーツが小さく擦れる音がした。

 

「……っ!」

 

朝霧のブラウンの瞳が、唐突に開かれる。彼女は自分の状況を認識するよりも早く、まるで何かに弾かれたように、勢いよく上半身を飛び起き上がらせた。

 

「絵……絵は…!?」

 

その声は、掠れていて、ひどく怯えていた。

起き上がった衝撃で、朝霧の細い肩が激しく震える。伸ばされた手は、宙を求めて彷徨っていた。

 

「アンタ…倒れたのよ。平気なの?」

 

慌ててその肩を掴み、ベッドへと押し戻す。自分の声が、思った以上にぶっきらぼうで硬くなってしまったことに、内心で小さな嫌悪感が走る。これじゃあ、まるでこの子が悪いと責めているみたいじゃない。

 

朝霧は私の声にビクリと身体を強張らせ、それから、彷徨わせていた手を自分の膝の上でぎゅっと握りしめた。

その目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、白いシーツに染みを作っていく。

 

「ごめん……楽しみにしてくれてたのに、ごめん……」

 

「水音ちゃん……」

 

白波が堪えきれずに声を漏らす。朝霧は首を振りながら、言葉を絞り出すようにして続けた。

私が誤魔化したから?それとも、2人側が何も答えられなかったからかもしれない。

 

「私、絵しか描けないのに……なのに、……ごめん……」

 

「アンタ…」

 

胸の奥が、激痛に似た何かで締め付けられる。

何よそれ。

何よ、その謝罪は。

悪いのはアンタじゃない。アンタの絵の価値も分からずに踏みにじった、Dクラスの連中のせいだ。

 

「何よそれ……」

 

怒りを滲ませた私の声に、朝霧は怯えたように肩を揺らした。

私は小さくため息を突き、その細い頭に手を置いた。そして、乱暴にならないように、ゆっくりと、そのボサボサの髪をポンポンと叩く。

 

「待つわよ。いくらでも」

 

「え……?」

 

涙を溜めた目で、朝霧が見上げてくる。前髪を留めたヘアピンが、保健室の僅かな光を反射して小さく光った。

 

「――私は、アンタの絵のファンなんだから。一枚破れたくらいで、見放すわけないでしょ」

 

私の言葉に、隣にいた白波が力強く頷き、朝霧の手をさらに強く握りしめた。

 

「私もです、水音ちゃん!……私も、ずっと、水音ちゃんの絵を楽しみにしてるんですから!」

 

「……納期を守らないなんて、芸術家ならよくある話です。歴史に名を残す巨匠たちも、みんなそうでした。朝霧氏、どうかお気になさらず」

 

金田が歪んだ眼鏡を指先で直しながら、いつもの真面目くさった調子で、けれど確かな温かさを込めて言った。

 

三人分の言葉が、朝霧の耳に届く。

彼女は驚いたようにパチパチと瞬きをくり返し、それから、今度は悲しい涙ではなく、何かを堪えるようにして、小さく「うん……」と頷いた。その顔を見て、私はようやく、胸の支えが少しだけ軽くなるのを感じた。

 

「白波、金田。ちょっと朝霧を見てて」

 

「え? あ、はい……」

 

二人に朝霧を任せ、私は静かに保健室の扉を開けて外に出た。

廊下はすっかり静まり返っており、自分の足音だけが低く響く。ポケットから端末を取り出し、液晶の明かりで暗い廊下を照らす。

 

連絡履歴の一番上にある名前を表示し、私は迷うことなく発信ボタンを押した。

 

コール音が二回、静かな廊下に小さく鳴って、すぐに切れる。

 

『珍しいですね、神室さんからの連絡なんて』

 

「忙しいならかけ直すけど」

 

『…いえ、お友達からの相談なら、喜んで』

 

端末の向こうから聞こえるのは、いつも通りの、すべてを見透かしたような少女の穏やかな声。直接会って話したいことと、場所をすり合わせる。

 

「そ。…後で行くから」

 

『…本当に珍しいですね。いったい、何があったのですか?』

 

たしかに普段の私らしくない、急かすような話し方。それを訝しむ雰囲気が伝わってくる。私は冷え切った夜の空気を吸い込み、低く、けれどハッキリと言い放つ。

 

「別に。…ただ、潰したい連中がいるってだけ」

 

言い終えると同時に、私は通話終了のボタンを押し、液晶の光を消した。




読了ありがとうございました。
多分、次で今作は一区切り。
誰が決めてくれるか、予想してみてください。

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