駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
処女作となりますので、暖かい目で楽しんでいただけると嬉しいです。
在りし日の影
◆
空が、燃えていた。
それは夕焼けではなく、また夜明けでもなかった。
ただ、赤く、黒く、空そのものが焼け落ちていくように染まっていた。
雲は灰を孕み、風は焦げた土と鉄の匂いを運んでいる。大地には無数の足跡が刻まれ、その上を血と泥が薄く覆っていた。砕けた剣。折れた槍。潰れた兜。誰のものか分からない旗。
どれもが、もう意味を失っていた。
「はぁ………っ。はぁ、――っ」
戦いは、終わりかけていた。
勝敗が決したという意味ではない。
終わりという形に、世界が無理やり押し込まれようとしている。
「終わりだ」
崩れかけた城壁の上に、竜族が立っていた。
夜を裂くような角。熱を帯びた鱗。金色の瞳。
その背後では、天使族が白い翼を広げ、血に濡れた大地へ祈りを落としている。祈りは水のように広がり、傷ついた者の身体を包む。けれど、治る者よりも、動かなくなる者の方が多かった。
森を愛したエルフたちは、焼けた杖を握りしめていた。
地を駆ける獣人族は、爪を泥に沈めながら、まだ動く敵影を探していた。
夜と欲望に寄り添う夢魔族は、黒煙の奥で静かに目を細めていた。
星と自然に耳を澄ませる精霊族は、もう聞こえなくなった風の声に、ただ立ち尽くしていた。
石を組み、鉄を鍛える小人族は、崩れた防壁のそばで、煤けた槌を握りしめていた。
そして持たざる者たちも、折れた剣を握り、血に濡れた足でなお立っていた。
強靭な肉体も、空を翔ける翼も、肉を食い破る牙もなく。
夜に溶ける魔性の気配も、星に触れるような澄んだ魔力だってない。
ただ、剣を握り、亡者のように血に濡れた足で立っていた。
――弱い者たちだった。
少なくとも、この戦場に並ぶ多くの種族から見れば、そうだった。
炎には焼かれた。
爪には裂かれた。
祈りには届かなかった。
森には絡め取られた。
幻には惑わされた。
星の声には追いつけなかった。
鍛えられた鋼の壁には、何度も跳ね返された。
一人一人が、あまりにも脆い。
あまりにも短くを生き、あまりにも簡単に倒れ、あまりにも多くを失う。
それなのに。
倒れても、次が立った。
砕かれても、別の場所に集まった。
焼かれても、灰の中から手が伸びた。
誰かが落とした剣を、別の誰かが拾った。
誰かが守った道を、別の誰かが走った。
誰かが死ぬ前に残した言葉を、別の誰かが覚えていた。
それは、強さと呼ぶにはあまりにも泥臭かった。
勇敢と呼ぶには、恐怖に満ちていた。
美しいと呼ぶには、血に塗れすぎていた。……だが、それでも彼らは立った。
「終わら、ないさ」
壊れかけた防壁の前で、一人の男が膝をついていた。
鎧は割れ、肩から先は血で濡れ、片目は開いていない。握っている剣も、すでに半ばで折れていた。
それでも男は、折れた剣を地面に突き立て、身体を支えていた。
その前に、竜族の影が落ちる。
巨大な翼が、赤い空を背負って広がった。
「まだ、立つか」
誰かが言った。
その声には怒りよりも、疲労に近いものが滲んでいた。
もう十分だ。
もう終わりにしろ。
そんな声だった。
男は顔を上げなかった。
上げられなかったのかもしれない。
ただ、折れた剣を握る手だけが、わずかに強くなった。
「……立つさ」
掠れた声だった。
風に消えそうなほど弱い声だった。
それでも、確かに聞こえた。
「だってここを退いたら、何も残らなくなっちまうじゃないか」
男は凄惨に笑っていた。
その姿に強者であるはずの龍の背筋に怖気が走った。
その言葉に、周囲の誰かが息を呑んだ。
――何も残らない。
それは、砦のことだったのか。
後ろにある街のことだったのか。
あるいは、もっと別の何かだったのか。
分からない。
分からないまま、戦場の上を風が抜けた。
灰が舞う。
赤く焼けた空の下で、男は立ち上がろうとした。
膝が震える。
足元が崩れる。
それでも、立とうとする。
竜族が目を細めた。
天使族が祈りを止めた。
エルフが折れた杖を握り直した。
獣人族が低く唸った。
小人族の職人が、壊れた機構の陰からその背中を見ていた。
誰も、すぐには動かなかった。
それが慈悲だったのか。
警戒だったのか。
あるいは、理解できなかっただけなのか。
男は立ち上がった。
剣は折れている。
盾はない。
仲間も、ほとんど残っていない。
それでも男は、前を向いた。
「俺たちは、まだ負けてない」
その声は、戦場を変えるほど大きくはなかった。
世界を救うほど美しくもなかった。
ただ、ひどく小さく、ひどく頑固で、ひどく人間じみていた。
しかし、所詮は弱き種族だ。
次の瞬間、炎が落ちた。
赤い光が、男の姿を呑み込んだ。
折れた剣も、傷ついた身体も、その声も、燃える大地の中へ消えていった。
けれど、誰もすぐには勝鬨を上げなかった。
炎の向こう側で、また別の影が立ち上がったからだ。
一人ではない。
二人。
三人。
十人。
焼けた瓦礫の陰から。
崩れた防壁の下から。
煙に包まれた路地の奥から。
彼らは立った。
震えながら。
泣きながら。
恐れながら。
それでも、立った。
その姿を見て、誰かが呟いた。
「なぜ、まだ戦える」
答える者はいなかった。
答えられる者もいなかった。
ただ、その問いだけが、灰の中に落ちた。
戦いは続いた。
けれど、それはもう戦いというより、終わりを確定させるための作業に近い。
残された砦は崩れ、通りは焼け爛れ、そして石橋は落とされた。
小人族が組んだ鋼の杭が最後の防壁を穿ち、エルフの森術が逃げ道を塞ぎ、精霊族の風が煙を裂いた。天使族の祈りは味方を癒し、竜族の炎は夜を昼に変え、獣人族の脚が逃げる影を追い詰めた。
全てが、一つの終わりへ向かっていた。
誰かが泣いていた。
誰かが笑っていた。
誰かが祈っていた。
誰かが記録していた。
そして誰かが、記録を燃やしていた。
壊れた塔の中で、古い書物が炎にくべられていく。
紙が丸まり、文字が黒く縮れ、名前が消えていく。
その文字が何を意味していたのか。
そこに何が書かれていたのか。
それを知る者は、もう少ない。
知っていても、語る者はもっと少ない。
「残すな」
短い命令が落ちた。
「名を残すな。旗を残すな。術を残すな。道具を残すな。歌を残すな」
誰の命令だったのかは分からない。
ただ、その言葉は多くの者の間を渡り、静かに実行された。
戦場とは別の場所でも、火が上がった。
倉庫は燃えた。
工房も崩れた。
記録庫の扉が閉ざされた。
石碑の文字が削られ、旗は灰になり、紋章は砕かれ、歌は禁じられた。
まるで、そこにいた者たちが最初から存在しなかったかのように。
まるで、弱かったから自然に消えたのだと、いつか誰かが語れるように。
「これは……」
灰の降る中、小人族の職人が壊れた歯車を拾い上げた。
それは、自分たちが作ったものではなかった。
作りは粗い。
素材も悪い。
仕上げも甘い。
けれど、発想だけは奇妙だった。
自分たちなら選ばない組み合わせ。
自分たちなら笑うほど無茶な構造。
それなのに、確かに動いた痕跡がある。
職人はしばらくそれを見つめていた。
小さな歯車の隙間に、血と灰が詰まっている。
「……惜しいな」
誰にも聞こえない声で、職人は呟いた。
それが何に向けた言葉だったのか、本人にもよく分からなかった。
技術に対してか。
作った者に対してか。
あるいは、もう消えていく何かに対してか。
職人は歯車を握りしめた。
けれど、背後から声が飛ぶ。
「何をしている」
職人は振り返らない。
ただ、少しだけ歯を食いしばった。
そして、歯車を炎の中へ投げ入れた。
小さな金属音がした。
それきりだった。
戦場の端で、ひとつの旗が燃えていた。
その旗に描かれた紋章は、もう形を保っていない。
ただ、焦げた布の中に、かつて白かったらしい線が残っている。
それを見て、天使族の一人が目を伏せた。
祈りの言葉は口にしなかった。
口にしてはいけない相手もいる。
そう教えられていた。
だが、祈らないことと、何も感じないことは違う。
彼女はただ黙って、燃える旗を見ていた。
やがて、火は布を喰い尽くした。
紋章は消えた。
名前も、消えた。
その夜を境に、多くのものが失われた。
誰かの名。
誰かの声。
誰かの技術。
誰かの物語。
誰かが守ろうとした場所。
誰かが退けないと言った理由。
それらは、戦火と共に消えていった。
残されたのは、勝った者たちの記録だった。
八つの種族が争い、互いに血を流し、世界の多くを失ったという記録。
愚かな戦争だったという教訓。
弱き者は、時代の流れに耐えられず消えたという説明。
そう語れば、世界は納得できた。
そう記せば、子どもたちは疑わなかった。
そう祈れば、死者たちも静かに眠るはずだった。
だが、灰の下には、消えない熱が残る。
燃やされた記録の奥に、読めない文字が残る。
誰も歌わなくなった旋律の断片が、ふとした風の中に混じることがある。
そして、ごく稀に。
古い戦場の夢を見る者がいる。
赤い空。
折れた剣。
燃える旗。
退けないと呟いた、名もなき誰かの背中。
それが誰だったのか。
何を守っていたのか。
なぜ、世界はそれを忘れようとしたのか。
その答えは、まだ語られないし語る必要も最早ない。
だって。
……だって、これももう千年も昔の話なのだから。
ただ、終焉戦争と呼ばれた時代の終わりの話だ。
◆