駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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初投稿です。
処女作となりますので、暖かい目で楽しんでいただけると嬉しいです。


序章
在りし日の影


 

 

 空が、燃えていた。

 それは夕焼けではなく、また夜明けでもなかった。

 ただ、赤く、黒く、空そのものが焼け落ちていくように染まっていた。

 雲は灰を孕み、風は焦げた土と鉄の匂いを運んでいる。大地には無数の足跡が刻まれ、その上を血と泥が薄く覆っていた。砕けた剣。折れた槍。潰れた兜。誰のものか分からない旗。

 どれもが、もう意味を失っていた。

 

「はぁ………っ。はぁ、――っ」

 

 戦いは、終わりかけていた。

 勝敗が決したという意味ではない。

 終わりという形に、世界が無理やり押し込まれようとしている。

 

「終わりだ」

 

 崩れかけた城壁の上に、竜族が立っていた。

 夜を裂くような角。熱を帯びた鱗。金色の瞳。

 その背後では、天使族が白い翼を広げ、血に濡れた大地へ祈りを落としている。祈りは水のように広がり、傷ついた者の身体を包む。けれど、治る者よりも、動かなくなる者の方が多かった。

 森を愛したエルフたちは、焼けた杖を握りしめていた。

 地を駆ける獣人族は、爪を泥に沈めながら、まだ動く敵影を探していた。

 夜と欲望に寄り添う夢魔族は、黒煙の奥で静かに目を細めていた。

 星と自然に耳を澄ませる精霊族は、もう聞こえなくなった風の声に、ただ立ち尽くしていた。

 石を組み、鉄を鍛える小人族は、崩れた防壁のそばで、煤けた槌を握りしめていた。

 

 そして持たざる者たちも、折れた剣を握り、血に濡れた足でなお立っていた。

 強靭な肉体も、空を翔ける翼も、肉を食い破る牙もなく。

 夜に溶ける魔性の気配も、星に触れるような澄んだ魔力だってない。

 ただ、剣を握り、亡者のように血に濡れた足で立っていた。

 ――弱い者たちだった。

 少なくとも、この戦場に並ぶ多くの種族から見れば、そうだった。

 

 炎には焼かれた。

 爪には裂かれた。

 祈りには届かなかった。

 森には絡め取られた。

 幻には惑わされた。

 星の声には追いつけなかった。

 鍛えられた鋼の壁には、何度も跳ね返された。

 

 一人一人が、あまりにも脆い。

 あまりにも短くを生き、あまりにも簡単に倒れ、あまりにも多くを失う。

 

 それなのに。

 倒れても、次が立った。

 砕かれても、別の場所に集まった。

 焼かれても、灰の中から手が伸びた。

 誰かが落とした剣を、別の誰かが拾った。

 誰かが守った道を、別の誰かが走った。

 誰かが死ぬ前に残した言葉を、別の誰かが覚えていた。

 それは、強さと呼ぶにはあまりにも泥臭かった。

 勇敢と呼ぶには、恐怖に満ちていた。

 美しいと呼ぶには、血に塗れすぎていた。……だが、それでも彼らは立った。

 

「終わら、ないさ」

 

 壊れかけた防壁の前で、一人の男が膝をついていた。

 鎧は割れ、肩から先は血で濡れ、片目は開いていない。握っている剣も、すでに半ばで折れていた。

 それでも男は、折れた剣を地面に突き立て、身体を支えていた。

 その前に、竜族の影が落ちる。

 巨大な翼が、赤い空を背負って広がった。

 

「まだ、立つか」

 

 誰かが言った。

 その声には怒りよりも、疲労に近いものが滲んでいた。

 もう十分だ。

 もう終わりにしろ。

 そんな声だった。

 男は顔を上げなかった。

 上げられなかったのかもしれない。

 ただ、折れた剣を握る手だけが、わずかに強くなった。

 

「……立つさ」

 

 掠れた声だった。

 風に消えそうなほど弱い声だった。

 それでも、確かに聞こえた。

 

「だってここを退いたら、何も残らなくなっちまうじゃないか」

 

 男は凄惨に笑っていた。

 その姿に強者であるはずの龍の背筋に怖気が走った。

 その言葉に、周囲の誰かが息を呑んだ。

 ――何も残らない。

 それは、砦のことだったのか。

 後ろにある街のことだったのか。

 あるいは、もっと別の何かだったのか。

 分からない。

 分からないまま、戦場の上を風が抜けた。

 

 灰が舞う。

 赤く焼けた空の下で、男は立ち上がろうとした。

 膝が震える。

 足元が崩れる。

 それでも、立とうとする。

 

 竜族が目を細めた。

 天使族が祈りを止めた。

 エルフが折れた杖を握り直した。

 獣人族が低く唸った。

 小人族の職人が、壊れた機構の陰からその背中を見ていた。

 誰も、すぐには動かなかった。

 それが慈悲だったのか。

 警戒だったのか。

 あるいは、理解できなかっただけなのか。

 男は立ち上がった。

 剣は折れている。

 盾はない。

 仲間も、ほとんど残っていない。

 それでも男は、前を向いた。

 

「俺たちは、まだ負けてない」

 

 その声は、戦場を変えるほど大きくはなかった。

 世界を救うほど美しくもなかった。

 ただ、ひどく小さく、ひどく頑固で、ひどく人間じみていた。

 

 しかし、所詮は弱き種族だ。

 次の瞬間、炎が落ちた。

 赤い光が、男の姿を呑み込んだ。

 折れた剣も、傷ついた身体も、その声も、燃える大地の中へ消えていった。

 けれど、誰もすぐには勝鬨を上げなかった。

 炎の向こう側で、また別の影が立ち上がったからだ。

 一人ではない。

 二人。

 三人。

 十人。

 

 焼けた瓦礫の陰から。

 崩れた防壁の下から。

 煙に包まれた路地の奥から。

 彼らは立った。

 震えながら。

 泣きながら。

 恐れながら。

 それでも、立った。

 その姿を見て、誰かが呟いた。

 

「なぜ、まだ戦える」

 

 答える者はいなかった。

 答えられる者もいなかった。

 ただ、その問いだけが、灰の中に落ちた。

 戦いは続いた。

 けれど、それはもう戦いというより、終わりを確定させるための作業に近い。

 

 残された砦は崩れ、通りは焼け爛れ、そして石橋は落とされた。

 小人族が組んだ鋼の杭が最後の防壁を穿ち、エルフの森術が逃げ道を塞ぎ、精霊族の風が煙を裂いた。天使族の祈りは味方を癒し、竜族の炎は夜を昼に変え、獣人族の脚が逃げる影を追い詰めた。

 全てが、一つの終わりへ向かっていた。

 

 誰かが泣いていた。

 誰かが笑っていた。

 誰かが祈っていた。

 誰かが記録していた。

 そして誰かが、記録を燃やしていた。

 壊れた塔の中で、古い書物が炎にくべられていく。

 紙が丸まり、文字が黒く縮れ、名前が消えていく。

 その文字が何を意味していたのか。

 そこに何が書かれていたのか。

 それを知る者は、もう少ない。

 知っていても、語る者はもっと少ない。

 

「残すな」

 

 短い命令が落ちた。

 

「名を残すな。旗を残すな。術を残すな。道具を残すな。歌を残すな」

 

 誰の命令だったのかは分からない。

 ただ、その言葉は多くの者の間を渡り、静かに実行された。

 戦場とは別の場所でも、火が上がった。

 倉庫は燃えた。

 工房も崩れた。

 記録庫の扉が閉ざされた。

 石碑の文字が削られ、旗は灰になり、紋章は砕かれ、歌は禁じられた。

 まるで、そこにいた者たちが最初から存在しなかったかのように。

 まるで、弱かったから自然に消えたのだと、いつか誰かが語れるように。

 

「これは……」

 

 灰の降る中、小人族の職人が壊れた歯車を拾い上げた。

 それは、自分たちが作ったものではなかった。

 作りは粗い。

 素材も悪い。

 仕上げも甘い。

 けれど、発想だけは奇妙だった。

 自分たちなら選ばない組み合わせ。

 自分たちなら笑うほど無茶な構造。

 それなのに、確かに動いた痕跡がある。

 職人はしばらくそれを見つめていた。

 小さな歯車の隙間に、血と灰が詰まっている。

 

「……惜しいな」

 

 誰にも聞こえない声で、職人は呟いた。

 それが何に向けた言葉だったのか、本人にもよく分からなかった。

 技術に対してか。

 作った者に対してか。

 あるいは、もう消えていく何かに対してか。

 職人は歯車を握りしめた。

 けれど、背後から声が飛ぶ。

 

「何をしている」

 

 職人は振り返らない。

 ただ、少しだけ歯を食いしばった。

 そして、歯車を炎の中へ投げ入れた。

 小さな金属音がした。

 

 それきりだった。

 戦場の端で、ひとつの旗が燃えていた。

 その旗に描かれた紋章は、もう形を保っていない。

 ただ、焦げた布の中に、かつて白かったらしい線が残っている。

 

 それを見て、天使族の一人が目を伏せた。

 祈りの言葉は口にしなかった。

 口にしてはいけない相手もいる。

 そう教えられていた。

 だが、祈らないことと、何も感じないことは違う。

 彼女はただ黙って、燃える旗を見ていた。

 

 やがて、火は布を喰い尽くした。

 紋章は消えた。

 名前も、消えた。

 その夜を境に、多くのものが失われた。

 

 誰かの名。

 誰かの声。

 誰かの技術。

 誰かの物語。

 誰かが守ろうとした場所。

 誰かが退けないと言った理由。

 それらは、戦火と共に消えていった。

 残されたのは、勝った者たちの記録だった。

 

 八つの種族が争い、互いに血を流し、世界の多くを失ったという記録。

 愚かな戦争だったという教訓。

 弱き者は、時代の流れに耐えられず消えたという説明。

 

 そう語れば、世界は納得できた。

 そう記せば、子どもたちは疑わなかった。

 そう祈れば、死者たちも静かに眠るはずだった。

 

 だが、灰の下には、消えない熱が残る。

 燃やされた記録の奥に、読めない文字が残る。

 誰も歌わなくなった旋律の断片が、ふとした風の中に混じることがある。

 

 そして、ごく稀に。

 古い戦場の夢を見る者がいる。

 赤い空。

 折れた剣。

 燃える旗。

 退けないと呟いた、名もなき誰かの背中。

 それが誰だったのか。

 何を守っていたのか。

 なぜ、世界はそれを忘れようとしたのか。

 その答えは、まだ語られないし語る必要も最早ない。

 

 だって。

 ……だって、これももう千年も昔の話なのだから。

 ただ、終焉戦争と呼ばれた時代の終わりの話だ。

 

 

 

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