駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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 ~前回までのあらすじ~
 前回はルキウスがアルナさんとお出かけをしました。
 ということで今回は、その続きになります。


第一章 第十話『少年は竜姫に教えを貰う』

 

 ◆

 

 黒い革の腕当て。

 茶色い革の腕当て。

 薄い金属板が縫い込まれたものに、銀色の縁取りが入った、とても格好いいもの……防具屋の棚には、似ているようで少しずつ違う品が並んでいた。

 

「…………」

 

 一つ手に取り、値札を見る。

 静かに棚へ戻す。

 

 隣のものを手に取り、また値札を見る。

 やはり戻す。

 

「現実は、厳しい……」

 

 格好いいものは高い。

 とても分かりやすい仕組みだった。

 

 この一週間、薬草を摘み、荷物を運び、ギルドの雑用をいくつもこなした。

 その報酬が入った革袋は、僕にとって大金と言ってもいい。

 

 けれど、防具屋へ来ると急に頼りなくなる。

 

 棚の上段に並ぶ黒い腕当ては、見るからに頑丈そうだった。

 表面へ竜の意匠が刻まれ、肘まで覆う金属板には赤い線が走っている。

 

 すごく格好いい。

 

 ただし、値段もすごかった。

 

「これ一つで、何日泊まれるんだろう……」

 

 考えるだけで怖くなり、そっと視線を外す。

 

「ルキウスさん」

 

 背後から、アルナさんの声がした。

 

「あ、アルナさん。おかえりなさ――」

 

 振り向く。

 

 そのまま、身体が固まった。

 

 アルナさんの後ろに、フレイヴィアさんが立っていた。

 

「…………」

 

 近い。

 

 そして、やはり大きい。

 

 ギルドの受付ですれ違った時にも感じたけれど、この人は周囲の空気そのものが違う。

 ただ立っているだけなのに、森の奥で巨大な獣の気配を感じた時のように、背筋が勝手に伸びてしまう。

 

 綺麗で。

 強くて。

 

 少し、怖い。

 

「お待たせしました、ルキウスさん」

 

 アルナさんが僕の隣へ戻る。

 それに合わせて、フレイヴィアさんも一歩前へ出た。

 

 大剣が、背中で僅かに鳴る。

 

「ええと……ヴォルグラートさん?」

 

 いきなり名前で呼ぶのは失礼かと思い、家名で呼んでみる。

 

 けれど、フレイヴィアさんは僅かに眉を寄せた。

 

「フレイヴィアでよい。家名は好かぬ」

「あ、はい。フレイヴィアさん」

 

 どうやら、最初から名前で呼んだ方がよかったらしい。

 

 黄金の瞳が、僕を真っすぐに見下ろす。

 その視線に耐えながら、ふと以前と違うところへ気づいた。

 

 服だ。

 

 ギルドで見た時は、実用的な装備に身を包み、背中へ身の丈ほどもある大剣を差していた。

 今日は大剣こそ変わらないものの、服装はどこか柔らかい。

 

 黒を基調にした上質な外套。

 胸元には控えめな銀の留め具があり、袖口へ赤い刺繍が入っている。

 その下では膝下まである黒いスカートが、太い尾の動きに合わせて静かに揺れていた。

 

 大剣を背負っていなければ、どこかの国のお姫様だと言われても信じたと思う。

 

「主」

 

 低く、よく通る声に呼ばれた。

 

「は、はい!」

「主の名を、まだ聞いておらなんだな」

「あ……ルキウスです」

「ルキウス」

 

 フレイヴィアさんは、確かめるように僕の名前を口にする。

 ただ名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。

 

「余はフレイヴィア・ヴォルグラート。竜族のハンターだ」

「知っています。アルナさんに教えてもらいました」

「ほう」

「ランク7の、すごい人だって」

「すごい人」

 

 片方の眉が僅かに動く。

 

 言い方が雑だったかもしれない。

 

「い、いえ。すごい人というか、すごいハンターというか……」

「間違いではない」

「間違いではないんですね」

「うむ」

 

 自信がすごい。

 

 けれど、実際にすごい人なのだから否定できない。

 

 隣に立つアルナさんは、僕がこれ以上余計なことを言わないようにするためか、控えめに一歩近づいてきた。

 

「ルキウスさん。フレイヴィア様は、エルドラン支部でも最高位のハンターです。失礼のないようにしてくださいね」

「はい!」

「アルナ、構わぬ」

 

 フレイヴィアさんが片手を上げ、アルナさんを制する。

 そのまま僕へ視線を戻すと、黄金の瞳が僅かに細められた。

 

 観察されている。

 見定められている。

 

 理由は分からないけれど、そんな気がした。

 

「ルキウス。主に一つ、聞きたいことがある」

「僕に答えられることであれば、何でも」

「そうか」

 

 フレイヴィアさんは一度だけ目を伏せた。

 何かを考えるような短い沈黙のあと、再び僕を見つめる。

 

「主は、なぜハンターになった」

 

「え……」

 

 意外な質問だった。

 

 けれど、答えはずっと前から決まっている。

 

 英雄になりたいから。

 『蒼空のアルヴィス』に憧れたから。

 誰かを助けられる人になりたいから。

 

 胸の中には、いくつもの言葉があった。

 

「…………」

 

 革の匂いが鼻を掠める。

 店の奥では、店員が金具を調整する小さな音が続いていた。

 

 僕は指先へ力を入れる。

 

 目の前にいるのは、ハンターランク7。

 僕とは比べものにならないほど強く、既に多くの人を救ってきた人だ。

 

 そんな人に、英雄になりたいと答えたら――どう思われるだろう。

 

 子どもの夢だと笑われるかもしれない。

 現実を知らないと、呆れられるかもしれない。

 

 視線が、少しだけ下がる。

 

 でも――逃げたくなかった。

 

 この人の前で、適当な理由を口にしたくはない。

 

「……理想が、あるんです」

「理想」

 

 フレイヴィアさんが、僕の言葉を繰り返す。

 

「はい。その理想に、少しでも近づきたくて。それで、ハンターになりました」

 

 言えたのは、それだけだった。

 

 本当は、もっといろいろある。

 

 何になりたいのか。

 何をしたいのか。

 どんな自分でありたいのか。

 

 けれど、すべてを口にするには、今の僕には何もなかった。

 

 力も。

 実績も。

 

 その夢を疑わず語れるほどの、自信もない。

 

 ただ、理想がある。

 そこへ近づきたい。

 

 今は、それだけだった。

 

「そうか」

 

 フレイヴィアさんは、すぐには笑わなかった。

 

 馬鹿にもせず、否定もしない。

 僕の言葉を受け取るように、静かに頷いた。

 

「一つ、覚えておけ」

「はい」

「余が師から授かった言葉だ」

「師匠がいるんですか?」

「うむ」

 

 フレイヴィアさんが、ゆっくりと腕を組む。

 

 それだけで、防具屋の空気が僅かに引き締まった。

 

「力なき理想は詭弁であり、理想なき力は暴力である」

 

 低い声が、胸の奥へ落ちる。

 

 力なき理想。

 理想なき力。

 

 意味が分からないわけではない。

 

 けれど、理解したと言い切れるほど――僕はまだ力というものを知らなかった。

 

「今は分からずともよい」

 

 フレイヴィアさんは、黙り込んだ僕へ続ける。

 

「この言葉の意味は、いずれ分かる。ゆえに、その時まで生きよ」

「生きる……」

「理想を掲げるのなら、それへ届くための力を持て。力を持ったのなら、何のために振るうのかを忘れるな」

 

 黄金の瞳が、僕を真っすぐ射抜いていた。

 

 逃げ場のない視線。

 けれど、不思議と怖くはなかった。

 

「……はい!」

 

 胸の奥が熱くなる。

 

 ガルドさんの言葉とは違う。

 アルナさんやセラフィーンさんの言葉とも違う。

 

 フレイヴィアさんの言葉は、まるで刃のようだった。

 

 重く、鋭い。

 曖昧なままでは、握ることすらできない。

 

「ありがとうございます、フレイヴィアさん」

 

 深く頭を下げる。

 

 フレイヴィアさんは組んでいた腕を解き、僅かに顎を引いた。

 どこか誇らしげにも見える。

 

「礼を言われることではない。余は、師の言葉を借りただけだ」

「でも、僕に言ってくれましたから」

「……そうか」

 

 フレイヴィアさんは少しだけ視線を逸らした。

 

 その横顔を見て、先ほどから気になっていたことが口へ出かかる。

 

「それより――」

「なんだ」

「あ、いえ。大したことではないんですけど」

「構わぬ。申してみよ」

 

 そこまで言われたなら、遠慮をする必要はないのだろう。

 

 僕は改めてフレイヴィアさんの服を見る。

 

「フレイヴィアさんって、意外と可愛らしい服を着るんですね」

 

 ――瞬間。

 

 店内の空気が、凍った。

 

「…………」

 

 革鎧を選んでいた客の手が止まる。

 店員の説明も途切れ、近くにいたハンターが驚いた顔でこちらを見た。

 

 フレイヴィアさんの尾も、ぴたりと動きを止めている。

 

「あれ?」

 

 何か、まずいことを言ったらしい。

 

 けれど、褒めたつもりだった。

 

「黒い外套も、赤い刺繍も似合っていますし。最初に見た時、どこかの国のお姫様みたいだなって思ったんです」

「…………」

「大剣を背負っているのに、城の廊下を歩いていても似合いそうというか――」

 

「な、ななななっ!?」

 

 突然、フレイヴィアさんが大きく動揺した。

 

 黄金の瞳が見開かれ、その視線が明らかに泳いでいる。

 太い尾は止まっていた反動のように左右へ揺れ、首元に覗く黒い鱗まで僅かに赤く見えた。

 

「お、おぬし、何を言っておる!? か、かわ、可愛らしいなどと、余に……!」

「え。やっぱり失礼でしたか?」

「し、失礼では……いや、そうではなく! なぜそのようなことを平然と申せる!」

「似合っていると思ったので」

「似っ……!」

 

 フレイヴィアさんが再び固まった。

 

 周囲の人々が、そっと目を逸らす。

 

 アルナさんも口元へ手を当てていた。

 笑ってはいないと思う。

 

 たぶん。

 

 けれど、栗色の猫耳が小さく震えていた。

 

「……主」

「はい!」

「余をからかっておるのならば、ただでは済まさぬぞ」

「からかっていません。本当に思っただけです」

「――っ! もうよい!」

「なぜ!?」

 

 顔を背けたフレイヴィアさんの耳元は、はっきり赤くなっていた。

 尾も落ち着きなく揺れている。

 

 それ以上は何も言わせないとばかりに、短く息を吐く。

 

「装備を選ぶのであろう。ならば、さっさと選べ」

「あ、はい」

「見た目だけで決めるな。命を守るものを、飾りのように扱うでないぞ」

「分かりました」

 

 返事をすると、フレイヴィアさんはほんの少しだけ間を置いた。

 

 顔は逸らしたままだったけれど、声には先ほどまでの落ち着きが戻り始めている。

 

「……ただし、身につけるものへ誇りを持つことは、悪いことではない」

「誇り?」

「うむ。自らの命を守るものだ。粗末なものと思う必要はない」

 

 さっきまで動揺していたのが嘘のようだった。

 

 でも、まだ耳は赤い。

 

 見ないふりをしておこう。

 僕も少しは学んでいる。

 

「ありがとうございます」

「……うむ」

 

 フレイヴィアさんは小さく頷き、少し離れた。

 

 話は終わり――そういう空気だった。

 

 けれど、店を出るわけではない。

 少し離れた棚の前から、こちらをじっと見ている。

 

 気になるのだろうか。

 それとも、余計な装備を選ばないよう見張られているのだろうか。

 

「ルキウスさん」

 

 隣から、アルナさんがそっと声を掛ける。

 声音は普段通りだったけれど、口元が少しだけ緩んでいた。

 

「選びましょうか」

「はい!」

 

 アルナさんと一緒に、腕当ての棚へ向き直る。

 

 僕の背筋は――なぜだか先ほどより少しだけ伸びていた。

 

 ◆

 

 装備選びは、思っていたよりも時間がかかった。

 

 最初に選んだのは、厚手の手袋だった。

 剥ぎ取りや採取のために指先を動かしやすく、それでいて手の甲と手首には丈夫な革が重ねられている。

 

「少し、指を曲げてみてください」

 

 言われた通り、手袋をはめたまま指を握る。

 新品の革は硬く、指先へ僅かな抵抗があった。

 

「少し動かしにくいです」

「使っていれば馴染みます。ただ、縫い目が指へ当たっていませんか?」

「ここが、少しだけ」

 

 指の付け根を示すと、アルナさんが僕の手を取った。

 縫い目の位置を確認し、店員へ別の大きさを頼んでくれる。

 

 何度か試した末、指を細かく動かせるものへ決まった。

 

 次は革製の腕当て。

 内側へ薄い金属板が入っており、ナイフバードの硬羽根程度なら傷を浅く抑えられるという。

 

「少し重いですね」

 

 腕を上げ、片手剣を振る真似をする。

 裸の腕より動かしにくい。

 

「それでも、重い鎧よりは軽いです。今のルキウスさんでは、頑丈さより動きやすさを残した方がよいと思います」

「僕、力がないですからね」

「はい」

「即答」

「事実ですので」

 

 セラフィーンさんにも似たことを言われた気がする。

 この街の女性は、優しいけれど嘘はつかない。

 

 腕当ての次は、脇腹と胸元を補強する簡易革帯。

 今の革鎧の上から締める形で、動きを邪魔せずに傷を受けやすい場所を守れるらしい。

 

 首元には、厚手の襟布を選んだ。

 フードの内側へ収まる形のものを、アルナさんが店員と相談しながら探してくれる。

 

「こちらなら、フードを外さずに使えます」

「ありがとうございます」

「装備は、使う人に合っていなければ意味がありませんから」

 

 やはり、なぜフードを外さないのかは聞かなかった。

 

 理由を尋ねず、それでも必要なことは覚えていてくれる。

 それが少し嬉しくて、僕は襟布の端へ指を滑らせた。

 

 靴は、新しいものを買う余裕がない。

 底を補修し、濡れた岩でも滑りにくいよう溝を増やしてもらうことになった。

 

 最後に、今までより少し丈夫な素材袋も選ぶ。

 

「前の袋では、スノウラビやナイフバードの素材を入れるには小さすぎます」

「まだ使えますよ?」

「紐が半分切れています」

「結べば」

「買い替えます」

 

 財布に厳しい。

 

 しかし、素材を落とせば、依頼の報酬までなくなる。

 それを考えると必要なのだろう。

 

「全部で、こちらになります」

 

 店員から示された金額を見て、革袋の中を覗く。

 

「……かなり減りますね」

「はい」

「一週間分が……」

「命より安いです」

「それを言われると、何も言えません」

 

 アルナさんは、申し訳なさそうな顔をしなかった。

 高い物を押しつけようとしているわけでもない。

 

 必要だから、必要だと言っている。

 ただ、それだけの顔だった。

 

「分かりました。買います」

 

 革袋から硬貨を取り出す。

 

 ちゃり。

 ちゃり、と。

 

 一週間かけて積み上げた重みが、店員の手元へ移っていく。

 

 少し寂しい。

 

 でも――少しだけ、嬉しい。

 

 新しい手袋をはめる。

 腕当てを固定し、革帯を締める。

 

 厚手の襟布をフードの内側へ収め、補修を終えた靴へ足を入れる。

 最後に丈夫な素材袋を腰へ下げ、店員に細かな位置を調整してもらった。

 

「こちらで確認してください」

 

 案内された鏡の前へ立つ。

 

「……おお」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 強そうには見えない。

 立派な鎧でもなければ、使い込まれた歴戦の装備でもない。

 

 それでも、昨日までの僕よりは――少しだけハンターらしく見えた。

 

「どうですか、アルナさん」

 

 鏡の前で腕を持ち上げてみせる。

 

 アルナさんは少し離れた場所から、僕の姿を上から下まで確認した。

 それから近づき、腕当ての位置を僅かに直してくれる。

 

「良いと思います。動きやすさも残っていますし、今のルキウスさんには合っています」

「よかったです」

「それに、か……」

 

 アルナさんの言葉が途中で止まる。

 

「か?」

「い、いえ」

 

 猫耳が、へにょりと横へ倒れた。

 一度だけ視線を泳がせ、それから小さな声で続ける。

 

「少し、格好よくなったと思います」

「本当ですか?」

「はい。本当です」

 

 そう言ったアルナさんの頬は、僅かに赤かった。

 

「ありがとうございます」

「い、いえいえ」

 

 猫耳が忙しなく動く。

 

 どうして褒めた側が、僕よりも恥ずかしそうなのだろう。

 

「軽装だな」

 

 低い声に振り返る。

 

 いつの間にか、フレイヴィアさんがすぐ近くまで戻ってきていた。

 腕を組み、黄金の瞳で僕の装備を上から下まで確認している。

 

「はい。予算が」

「重すぎる装備を着たところで、今の主では装備に振り回されるだけだ。まずはそれでよい」

「フレイヴィアさんにもそう言ってもらえると、安心します」

 

 顎へ指を当て、もう一度細部まで確かめる。

 

 視線は厳しい。

 けれど、先ほどのように押し潰される感じはなかった。

 

 きちんと見てくれている。

 僕にも、それが分かる。

 

「ただし、頼り切るな」

「はい」

「装備は死を遠ざけるものだ。勝利を約束するものではない」

「……覚えておきます」

「よし」

 

 短い言葉だった。

 それだけなのに、少し嬉しい。

 

 認められたというほどではない。

 でも――悪くはないと言われたような気がした。

 

「ありがとうございます、フレイヴィアさん」

「うむ」

「あと、やっぱりその服は似合っています」

「蒸し返すな!」

 

 また怒られた。

 

 けれど、今度は店内の空気も凍らなかった。

 

 アルナさんが目を伏せ、肩を小さく震わせている。

 店員も、何でもないような顔をしながら口元を引き締めていた。

 

 フレイヴィアさんは顔を背けている。

 

 ただ、その尾は――先ほどより少しだけ穏やかに揺れていた。

 

 ◆

 

 防具屋を出る頃には、革袋は随分と軽くなっていた。

 その代わり、身体には少しだけ安心できる重みが増えている。

 

 新しい手袋。

 腕当てに、襟布。

 胸と脇腹を守る革帯。

 

 補修された靴と、丈夫な素材袋。

 

 どれも、伝説に残る装備ではない。

 聖剣でもなければ、古代遺跡から発掘された鎧でもなかった。

 

 でも――今の僕に必要なものだった。

 

 店の外へ出ると、装備通りには夕方に近い光が差し始めていた。

 防具屋の濃い革と金属の匂いから解放され、街の風が少しだけ軽く感じられる。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

 アルナさんへ頭を下げる。

 

「どういたしまして」

「一人だったら、たぶん最初に見た黒い肩当てを買おうとしていました」

「買わせません」

「はい」

 

 アルナさんが笑う。

 

 装備の相談。

 命を守るための買い物。

 

 かなり現実的で、真面目な一日だった。

 

 それでも――少し楽しかった。

 

「アルナさん」

「はい?」

「今日、楽しかったです」

 

 口にすると、アルナさんは一瞬だけ目を丸くした。

 それから頬を緩め、栗色の猫耳を柔らかく持ち上げる。

 

「それなら、よかったです」

「はい」

「ただし、次は怪我をしないために、その装備を使ってくださいね」

「はい!」

「本当に?」

「本当に本当です」

「……まあ、今日は信じます」

「やった」

 

 少しだけ、信用が積み重なったらしい。

 

 たぶん。

 

「ルキウス」

 

 防具屋の入口から、フレイヴィアさんに呼ばれる。

 

「はい」

 

 振り返ると、先ほどまでの動揺はほとんど消えていた。

 強い気配を纏い、黒髪とスカートの裾を夕方の風に揺らしている。

 

「理想を語るのなら、まず生き残れ」

「……はい!」

「よい返事だ」

 

 フレイヴィアさんは短く頷き、背を向けた。

 

 大剣が僅かに音を立てる。

 遠ざかっていく姿は、やはり強くて、綺麗で――物語の中から抜け出してきたようだった。

 

 でも今日は、以前とは少し違って見える。

 

 可愛いと言われて、あれほど慌てる人でもある。

 

 そう思うと、ほんの少しだけ距離が近くなった気がした。

 

 本人に言えば、また怒られるだろうけれど。

 

 ◆

 

 その夜。

 

 角兎亭へ戻ると、女将さんが僕を見るなり豪快に笑った。

 

「おお。少しはハンターらしくなったじゃないか」

「本当ですか?」

「少なくとも、血まみれ坊やよりは強そうだね」

「その呼び名は、もう卒業したいです」

「じゃあ、半人前坊や」

「悪化しています」

 

 女将さんは腹を揺らし、楽しそうに笑った。

 

 けれど、新しい腕当てや手袋を見る目は真剣だった。

 革帯の位置や、補修された靴底まで確認してから、満足そうに頷く。

 

「うん。いいじゃないか。ちゃんと帰ってこられそうな装備だ」

「はい。帰ってくるための装備です」

「いい心がけだよ」

 

 その言葉が、少し嬉しかった。

 

 夕食を終え、二階の部屋へ戻る。

 身につけていた装備を外し、机の上へ一つずつ並べた。

 

 新しい手袋。

 腕当て。

 襟布と革帯。

 

 丈夫な素材袋。

 

 一週間分の報酬は、ほとんどなくなった。

 革袋は軽い。

 

 けれど、不思議と損をした気はしなかった。

 

「力なき理想は詭弁であり、理想なき力は暴力である……」

 

 フレイヴィアさんから教わった言葉を、もう一度口にする。

 

 理想を掲げるのなら、力を持て。

 力を持つのなら、何のために振るうのかを忘れるな。

 

 僕には、まだ力がない。

 

 ナイフバード一羽に傷だらけにされ、自分から攻撃を受けなければ、剣を当てることもできなかった。

 

 今日買った装備を身につけたからといって、急に強くなるわけでもない。

 

 それでも――これは、力へ近づくための一歩なのだと思う。

 

 机の上の腕当てへ、そっと触れる。

 新品の革は硬く、まだ僕の腕の形には馴染んでいない。

 

 使っていれば、身体に合ってくる。

 アルナさんはそう言っていた。

 

 たぶん僕自身も、同じなのだろう。

 

 まだ何も知らない。

 弱くて、未熟で、できないことばかりだ。

 

 それでも依頼を受け、失敗し、教わりながら――少しずつ、ハンターになっていく。

 

「……よし」

 

 ギルドカードを手に取る。

 

 ルキウス。

 ハンターランク1。

 

 まだまだ、駆け出し。

 

 英雄への道は遠い。

 相変わらず、どこにあるのかも見えないほど遠い。

 

 けれど今日の僕は、昨日より少しだけ――生きて帰る準備ができていた。

 

 





 ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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