駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
~前回までのあらすじ~
前回はルキウスの買い物が終わりました。
ということで今回からは心機一転、新しい冒険です。
◆
新しい装備を買った翌朝。
僕は角まだ少し硬いな」
手の甲には補強が入り、丈夫な革が手首まで覆っている。
以前使っていた薄い手袋とは違い、指を曲げるたびに革の硬さが返ってきて、他人の手を借りて動かしているような違和感があった。
腕当ても同じだ。
胸と脇腹を覆う革帯も、フードの内側へ収めた厚手の襟布も、身体を動かすたびに存在を主張してくる。
特に首元は少し息苦しい。
けれど、不快な重さではなかった。
ナイフバードの羽先がフードを裂いた瞬間を思い出し、襟布の端へ触れる。
「守られている……か」
フレイヴィアさんは、装備は死を遠ざけるものであって、勝利を約束するものではないと言った。
これを身につけたからといって、僕の剣が速くなるわけでも、身体が強くなるわけでもない。
それでも、同じ攻撃を受けた時の傷は浅くなる。
逃げて帰れる可能性も、昨日までより少しだけ増えるはずだ。
窓へ映った自分を見る。
相変わらずフードを深く被っているため、顔はほとんど見えない。それでも腕当てと革帯が増えた分、昨日までより少しだけハンターらしく見えた。
「強そう……ではないな」
少なくとも、血まみれで帰ってきた時よりはましだ。
かなりましだと思う。
腕を曲げ、片手剣を抜く動きを何度か試す。
少し重い。けれど、剣を振れないほどではなかった。
「使っていれば、馴染む」
アルナさんの言葉を思い出し、留め具をもう一度確かめる。
ギルドカードと教会登録を示す羽印を外套へしまい、僕は部屋を出た。
◆
ギルドの重たい扉をくぐった瞬間、革と鉄、汗と酒の匂いに混じって、いつもとは違う張り詰めた空気を感じた。
朝のハンターズギルドは、基本的に騒がしい。
依頼を選ぶ人に、帰還報告をする人。朝食を取りながら仲間を待つ人や、早くも酒杯を傾けている人もいる。
いくつもの声と音が重なり、大広間全体が一つの大きな生き物みたいに動いている。
けれど今日は、その騒がしさの下へ、落ち着かない気配が沈んでいた。
掲示板の前では、何人かのハンターがいつもより長く話し込んでいる。
受付の奥でも、職員たちが書類を運びながら、小声で何かを確認していた。
「何かあったのかな」
周囲を見ながら、いつもの受付へ向かう。
アルナさんは何枚もの書類を前にして、机へ座っていた。
いつものように声を掛ければ笑顔を返してくれると思ったけれど――今日は少し様子が違う。
書類へ置いた指先が止まっている。
栗色の猫耳は僅かに伏せられ、尻尾も椅子の横でゆっくりと揺れていた。
嫌そう。
というより、言いたくないことを言わなければならない人の顔だった。
「おはようございます、アルナさん!」
声を掛けると、アルナさんは書類から顔を上げた。
一拍遅れて、いつもの受付嬢らしい表情を整える。
「……おはようございます、ルキウスさん」
「どうしたんですか? すごく嫌そうな顔をしています」
「嫌そうな顔をしています」
「自覚ありなんですね」
「あります」
アルナさんは認めると、手元の書類を一度揃えた。
紙の端を丁寧に整える動作はいつも通りなのに、指先には僅かな迷いが残っている。
「僕、また何かしました?」
「今回はしていません」
「今回は」
「今回は、です」
そこは強調された。
ひとまず、今朝の僕は何もしていないらしい。
今朝は。
胸を撫で下ろしたものの、アルナさんの表情は晴れない。
僕を見て、何かを言いかけて口を閉じる。それから書類へ視線を落とし、もう一度こちらを見た。
その様子で、何となく分かった。
アルナさんは、これから僕が何と答えるのかを知っている。
そして、その答えを聞きたくないのに、受付嬢として尋ねなければならないのだ。
「ルキウスさん」
「はい」
「ルキウスさんは、ランク2への昇級試験を受ける条件を満たしています」
「…………」
息が止まった。
「ランク2……」
今の僕は、ランク1だ。
登録したばかりの駆け出しで、初依頼では泥だらけになり、ナイフバードの討伐では脇腹を切られた。
装備も昨日ようやく最低限のものを揃えたばかりだ。
そんな僕に、次のランクの話が出ている。
「……僕が、ですか?」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
アルナさんは書類を一枚、受付台の上へ置いた。
けれど、すぐにはこちらへ渡さない。手のひらで軽く押さえたまま、僕の目を真っすぐ見ている。
「この一週間、かなりの数の依頼を達成しましたから」
「装備を買うお金を貯めるためでしたけど」
「理由はどうあれ、依頼を受け、達成し、報告して報酬を得たことに変わりはありません」
アルナさんは、指を一本ずつ折るように数えていく。
「薬草採取、運搬、素材整理、捕獲補助、納品。それから、古い依頼書の交換や掲示板の補修も行いました」
「釘を打ったことも数に入るんですか?」
「依頼として受けた仕事ですから、当然です」
続いて、僕の新しい装備へ視線が向く。
「剥ぎ取り講習を終え、教会登録も済ませています。装備も、ようやく最低限のものが整いました」
「ようやく」
「ようやくです」
淡々とした言葉だった。
でも、ただ記録を読み上げているわけではない。
アルナさんは、この一週間の僕を見ていた。
薬草を摘んだこと。
荷物を運んだこと。
何度も道を尋ねながら、薬箱を届けたこと。
どれも、小さな仕事だった。
英雄譚に書かれるような、華々しい冒険ではない。
けれど――きちんと積み重なっていた。
「ですので、ルキウスさん」
アルナさんが、試験書類を僕の方へ僅かに滑らせる。
「ハンターランク2への昇級試験を受けられます。受けますか?」
胸元のギルドカードが、急に重くなったような気がした。
たった一枚の金属板。
そこへ刻まれたランク1という文字の先に、初めて続きが見えている。
受けられる。
次へ進むための試験を。
僕が。
「受けます!」
考えるより先に、言葉が出た。
アルナさんは目を閉じる。
深く、静かに息を吐いた姿は、最初からそう答えると分かっていたようだった。
「……そう言うと思いました」
「え」
「そう言うと思ったので、嫌だったんです」
「嫌だったんですか」
「嫌でした」
ものすごく正直だった。
けれど、アルナさんは試験書類を引っ込めなかった。
僕が受けると決めた以上、受付嬢として説明しなければならない。そんな顔をしている。
「でも、嫌なのに教えてくれるんですね」
僕が尋ねると、アルナさんの猫耳がぴくりと動いた。
「私たち受付は、注意勧告ができます。危険だと伝えることも、準備が不足していると説明することもできます」
「はい」
「ですが、条件を満たしたハンターの決断へ、必要以上に口を挟むことはできません」
書類の端を押さえる指へ、僅かに力が入る。
「行くな、と命令することはできないんです」
「…………」
「だから説明します。危険も、条件も、合格に必要なことも。その上で、選ぶのはルキウスさんです」
その言葉は、思っていたよりも重かった。
アルナさんは、僕を止めたいのかもしれない。
まだ早い。危ない。不安だと、そう思っているのだろう。
僕が泥と血にまみれて帰ってきた姿も、わざと脇腹へ攻撃を受けたことも知っている。
それでも、僕が進もうとするなら、そのために必要なことを教えてくれる。
心配しながら。不安そうな顔をしながら。
それでも、きちんと一人のハンターとして扱ってくれている。
「ありがとうございます」
「お礼は、試験へ受かってからにしてください」
「はい!」
「その返事が早すぎるところが、不安なのですよね……」
アルナさんは小さく息を吐き、試験書類を僕の前へ向けた。
◆
「それでは、試験内容をご説明します」
アルナさんは簡単な地図を広げ、東へ伸びる街道を指でなぞった。
街道の外れにある林道。渓流地帯と街道の境目にあたる場所で、僕はまだ足を踏み入れたことがない。
「今回のランク2昇級試験は、討伐ではありません」
「討伐ではないんですか?」
「はい。東街道外縁部での痕跡調査です」
「痕跡調査……」
地図の一か所へ、小さな印がつけられる。
「目的は、小型モンスターの痕跡を確認し、周囲の危険度を判断して報告することです。想定されている対象は、スノウラビ、ナイフバード、それからラッシュラットですね」
「ラッシュラット?」
「小型の鼠型モンスターです。単体なら弱いですが、群れで行動すると厄介です」
「鼠」
「小さいからといって、油断しないでくださいね」
「はい」
小さいから弱いとは限らない。
ナイフバードで、十分に学んだ。
「試験官が一名同行します。試験官が危険だと判断した場合は、その場で中止です」
「合格するには、何をすればいいんですか?」
「正確な観察、無理をしない判断、そして帰還後の報告です」
「倒さなくてもいいんですか?」
「倒さなくていいです」
「試験なのに?」
「試験だからです」
そこだけ、アルナさんの声が少し強くなった。
「ランク2になれば、ランク1の時よりも少しだけ遠い場所へ行けるようになります」
「少しだけ」
「はい。ですが、その少しが命取りになることもあります」
アルナさんは、地図へ置いた指を外縁部のさらに奥へ動かす。
ほんの僅かな距離なのに、紙の上でも、その先だけが暗く見えた。
「ですから試験では、倒せるかどうかよりも、危険を発見できるか、無理をせず戻れるかを確認します」
「進む試験ではなく、戻る試験なんですね」
「そう考えていただいて構いません」
僕が想像していた昇級試験とは、少し違う。
もっと強いモンスターを倒し、戦う力を認めてもらうものだと思っていた。
けれど、アルナさんが見ているのは、剣の強さだけではない。
「ハンターは、倒せる相手を探す仕事ではありません」
アルナさんの猫耳が、真っすぐこちらを向く。
「倒してはいけない相手を、見分ける仕事でもあります」
その言葉に、ナイフバードとの戦いが蘇った。
動きを追えない。
剣が届かない。
それでも勝つために、自分の脇腹を差し出した。
セラフィーンさんは言った。
あれは勝つための方法にはなっても、生き残るための方法とは限らない。
アルナさんからは、弱いからこそ装備で補うのだと教わった。
そして今度は――倒してはいけない相手を見分けろと言われている。
「……分かりました」
ゆっくりと頷く。
アルナさんは、すぐに僕の目を覗き込んだ。
「本当に?」
「本当に本当です」
「……そこは、まだ不安ですね」
「返事を変えた方がいいですか?」
「返事ではなく、行動で示してください」
「はい」
今度は、先ほどよりも少し間を置いて答える。
それで多少は納得したのか、アルナさんの肩から僅かに力が抜けた。
「ただ、今は一つ問題があります」
「問題?」
アルナさんは周囲を確認し、声を少しだけ落とした。
内容が必要以上に広まらないよう、気を配っているらしい。
「最近、雪原地帯で異常が発生しています」
「雪原地帯」
思わず、声が弾んだ。
雪原。
エルドランの周囲に広がる五つの区域の一つで、今の僕にはまだ入れない場所だ。
白い雪に、冷たい風。
森や渓流では見たことのないモンスター。
名前を聞いただけで、頭の中へ知らない景色が浮かんでくる。
「ルキウスさんは行きません」
「まだ何も言っていません」
「顔に出ています」
「フードを被っているのに?」
「最近は分かるようになりました」
「そうですか……」
フードの意味が、少しずつ失われている。
「これは、ランク1の方が関わる話ではありません。ルキウスさんは昇級試験のことだけを考えてください」
「はい」
素直に頷くと、アルナさんの表情が少しだけ緩んだ。
それでも声は低いまま、説明が続けられる。
「雪原地帯の浅い区域で、本来なら奥地にいるはずのモンスターの痕跡が確認されています」
「奥地のモンスターが、浅い場所まで?」
「はい。まだ確定ではありませんが、ランク3相当の大型と思われる足跡も報告されています」
「ランク3……」
大型モンスター。
その言葉だけで、胸の奥へ小さな熱が生まれた。
けれど同時に、先ほどのアルナさんの言葉も思い出す。
倒してはいけない相手を見分ける。
今の僕にとって、ランク3の大型は間違いなくそちらだ。
「放置できる状況ではありません。そのため、支部の中堅以上のハンターや調査員が、雪原の調査へ回されています」
「それで、ギルドの様子がいつもと違ったんですね」
「はい。それから――昇級試験を担当できる方も不足しています」
アルナさんが別の書類をめくる。
そこには何人もの名前と予定が並び、いくつかには線が引かれていた。
横へ小さく、雪原調査と書き足されている。
「本来なら、昇級試験はもう少し余裕のある時期に行います。ですが現在、低ランクの試験を担当できる試験官の手が足りません」
「では、試験は受けられないんですか?」
「申請はできます。ただ、すぐに日程を組めるかどうかは分かりません。試験官なしで実施することはできませんから」
アルナさんが、困ったように眉を下げる。
僕は受付台に置かれた試験書類を見た。
受けられると聞いて、すぐに受けると答えた。
胸も高鳴っている。
けれど、少し待たなければならないらしい。
「……仕方ありませんね」
口にすると、アルナさんが少し驚いたように目を上げる。
「待てますか?」
「はい。危険な場所へ一人で行くわけにはいきませんから」
焦るな。
無理をするな。
きちんと待て。
自分へそう言い聞かせた――その時だった。
ギルドの重たい扉が、低い音を響かせて開いた。
◆
空気が変わった。
先ほどまでざわざわと揺れていた大広間の気配が、扉の音を境に、一方向へ流れていく。
何人かのハンターが自然と道を空ける。
集まった視線の先を追えば、見覚えのある黒髪があった。
黄金の瞳。
首元に覗く黒い竜鱗。
強靭な尾と、背中へ差した身の丈ほどの大剣。
フレイヴィア・ヴォルグラート。
昨日、防具屋で見た姿とは違う。
柔らかな服を着て、可愛いと伝えたら、耳まで赤くして動揺していた人ではない。
今の彼女は、エルドラン支部最高位のハンターだった。
歩くだけで、周囲が勝手に道を譲る。
声を張らなくても、誰もがその存在に気づく。
強い人というのは、剣を抜かなくても強いのだと分かった。
フレイヴィアさんは迷わず受付へ進み、アルナさんの隣にいた職員の前で足を止めた。
「お疲れさまです、フレイヴィア様」
職員が姿勢を正して頭を下げる。
「うむ。報告だ」
「承ります」
手にしていた書類を差し出す。
僕は邪魔にならないよう、受付台の端へ少しだけ身体を寄せた。
できれば、目立たないように。
けれど――黄金の瞳は、すぐにこちらを捉えた。
「ルキウス」
「は、はい! お疲れさまです!」
「うむ」
短い。
たったそれだけだった。
それでも、名前を覚えられていた。
胸の奥が、少しだけ落ち着かなくなる。
フレイヴィアさんの視線が、僕の新しい腕当てへ落ちた。
昨日選んだ装備を確かめるように一度だけ細められ、そのままアルナさんの手元へ移る。
「何の書類だ」
「ランク2昇級試験の調整です」
「こやつのか」
黄金の瞳が、再び僕へ向く。
こやつ。
僕のことらしい。
「はい。ですが現在、試験官が不足しており、まだ日程を決められなくて」
アルナさんの説明を聞き、フレイヴィアさんは数秒だけ黙った。
何かを考えているのか。
それとも、特に何も考えていないのか。
表情からは分からない。
けれど、その沈黙だけで周囲の音が少し遠ざかった気がした。
「ならば、その役――余がやろう」
「…………」
ギルドの空気が、もう一度変わった。
ざわり、と小さな声が広がる。
近くにいたハンターたちがこちらを見た。
受付の奥にいた職員も、揃って手を止めている。
僕も固まった。
アルナさんも、報告書と試験書類を持ったまま固まっていた。
「……フレイヴィア様が、ですか?」
「うむ」
「ですが、ランク2の昇級試験にフレイヴィア様をお願いするのは、その……あまりにも」
「暇だ」
「暇」
「半日なら空く」
「しかし……」
「何か問題があるか?」
言葉は短い。
説明もほとんどない。
けれど、そこに迷いはなかった。
アルナさんは困ったように眉を寄せ、僕とフレイヴィアさんを交互に見る。
「……安全面では、ありません」
「ならばよい」
それで決まりらしい。
すごい。
話が速すぎる。
「明朝、ギルド前」
フレイヴィアさんの身体が僕へ向く。
慌てて背筋を伸ばした。
「え、あ、はい!」
「遅れるな」
「はい!」
フレイヴィアさんは満足したように一度頷き、アルナさんへ報告書を示した。
「処理を頼む」
「は、はい。承りました」
「ではな」
短い言葉。
短い滞在。
それだけでフレイヴィアさんは受付を離れ、来た時と同じように大広間を真っすぐ横切っていった。
扉が閉まる。
遅れて、ギルドの空気が元へ戻り始めた。
「フレイヴィアさんが、試験官……」
「……そうなりましたね」
アルナさんの声には、少しだけ疲れが混じっていた。
「すごいことですか?」
「すごいことです」
「ですよね」
分かってはいた。
でも、確認したかった。
新人のランク2試験へ、支部最高位のランク7ハンターが同行する。
普通ではない。
たぶん、かなり普通ではない。
アルナさんは書類を整え、試験官の欄へフレイヴィアさんの名前を書き込んだ。
途中で筆先が一度止まる。
まさか、この書類へその名前を書くことになるとは思わなかったのだろう。
「ルキウスさん」
「はい」
「明日は、絶対に無茶をしないでください」
「はい」
「フレイヴィア様がいるから大丈夫、ではありません」
「はい」
「試験は、フレイヴィア様に守っていただくためのものではありません。ルキウスさん自身が判断できるかを見るものです」
「……はい」
今度は、きちんと意味を考えてから頷いた。
フレイヴィアさんが一緒にいる。
これほど心強いことはない。
でも、だからといって危険へ踏み込んでよいわけではない。
フレイヴィアさんが助けてくれる前提で無茶をすれば、それは僕の試験ではなくなってしまう。
「今日は早く休んでください。装備の確認も忘れずに」
「はい」
「緊張して眠れないかもしれませんが」
「もう少し、眠れない気がしています」
「でしょうね」
アルナさんは小さく笑った。
けれど、その笑みはすぐに薄くなり、最後にもう一度、真面目な目で僕を見る。
「ちゃんと帰ってきてください」
「はい。帰ってきます」
「本当に?」
「本当に本当です」
アルナさんの猫耳が、いつものように僅かに伏せられた。
それでも今日は、もう一度念を押すことはしなかった。
ただ、僕の新しい腕当てを見つめ、静かに頷いた。
◆
角兎亭へ戻ったあと、僕は机の上へギルドカードを置いた。
ルキウス。
ハンターランク1。
刻まれた文字を、しばらく見つめる。
明日、僕はランク2への昇級試験を受ける。
受かるかどうかは分からない。
そもそも、きちんとした試験を受けること自体が初めてだ。
しかも試験官は、フレイヴィアさん。
エルドラン支部最高位の竜族で、僕とは比べものにならないほど強いハンター。
昨日、可愛らしい服が似合うと伝えたら、ものすごく動揺していた人でもある。
「……明日、その話をしたら怒られるかな」
たぶん、怒られる。
試験へ集中しろと言われるだろう。
寝台へ腰を下ろし、新しい腕当ての留め具を確かめる。
革はまだ硬い。けれど、昨日よりは僅かに僕の腕へ馴染んでいる気がした。
アルナさんの顔を思い出す。
試験を受けると答えた時、はっきり嫌だと言われた。
僕が危険へ進もうとするのを、怖がっているのだと思う。
それでも、アルナさんは説明してくれた。
僕がこの一週間、きちんと学び、働いていたことも見ていてくれた。
なら――応えたい。
無茶をするのではなく。
強がるのでもなく。
見て。
考えて。
生きて帰る。
「ランク2……」
昨日までより、少しだけ遠くへ行けるようになる。
同時に、昨日までより少しだけ危険な場所へ踏み込むということでもある。
ギルドカードを手に取り、指先で端をなぞる。
まだ、ランク1。
けれど明日。
僕は次の一歩を踏み出すため、初めての昇級試験へ挑む。
「……楽しみだな」
口元が、自然と緩んだ。
緊張はしている。
不安もないわけではない。
それでも、胸の奥で鳴っている鼓動は、恐怖よりも期待の方が大きかった。
僕は新しい装備を机へ並べ、明日の準備をもう一度最初から確かめる。
結局、その夜は――アルナさんの予想通り、なかなか眠ることができなかった。
◆
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