駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
~前回までのあらすじ~
前回のお話しは、ランク2になる条件を満たしていることが分かったルキウス。
今回は、そのランク2の昇格クエストになります。
◆
雪は、音を吸う。
踏み固められていない白い地面へ足を置くたび、ぎゅ、と低い音が鳴る。
けれど、そのあとに続くはずの響きは、冷たい空気の中へすぐに消えていった。
地面は白く、岩は黒い。
遠くの木々は葉を落とし、細い枝だけを灰色の空へ伸ばしている。
息を吐けば、目の前が白く濁る。
冷気が鼻の奥へ入り込み、フードの内側では自分の呼吸だけがやけに近く聞こえた。
「……寒い」
思わず呟く。
森で暮らしていた頃にも、冬はあった。
山の朝はそれなりに冷えたし、雪だって珍しいものではない。
それでも、この雪原の寒さは少し性格が違う。
身体の表面から冷えるのではなく、靴の裏や指先、耳の奥からじわじわと熱を奪われていくような寒さだった。
昨日買ったばかりの厚手の手袋がなければ、今頃は指先を擦り合わせるだけで忙しかったと思う。
前を歩いていたフレイヴィアさんが、振り返らないまま僅かに歩幅を緩めた。
雪の白へ、夜のような黒髪と、炎を閉じ込めたような黄金の瞳がよく映える。
強靱な尾は雪面へ触れないよう少し持ち上げられ、背中にはいつもの大剣が差されていた。
竜族である彼女は、この寒さをほとんど気にしていないらしい。
歩調も呼吸も、街にいた時と変わらなかった。
「動けば慣れる」
「慣れますかね」
「たぶん」
「たぶん……」
断言ではなかった。
でも、フレイヴィアさんがそう言うなら、たぶん慣れるのだろう。
――たぶん。
今日の目的は、ランク2への昇級試験。
本来は東街道外縁部で、小型モンスターの痕跡を調べる予定だった。
けれど雪原地帯で起きている異変に人手を取られ、試験官となったフレイヴィアさんも、こちらの状況を確認する必要があるらしい。
そのため試験場所は、雪原地帯第一区域の外縁部へ変更された。
指定された範囲を巡回し、小型モンスターの痕跡を確認する。
異常な痕跡があれば記録して報告し、危険だと判断すれば即座に撤退する。
討伐は目的ではない。
見つけること。
考えること。
そして、生きて帰って報告すること。
それが今回の試験内容だった。
『フレイヴィア様が試験官だからといって、奥へ行ってよいわけではありません』
出発前、アルナさんから何度も言い聞かされた。
『フレイヴィア様が止める前に、自分で止まってください』
『フレイヴィア様がいるから大丈夫、ではありませんからね』
大丈夫という言葉を繰り返すたびに、猫耳が不安そうに伏せられていったことを覚えている。
僕は足を止め、雪面へ残る小さなくぼみを見下ろした。
丸い足跡が、広い間隔を空けながら奥へ続いている。
ところどころに、雪を掘り返したような跡もあった。
「これは……スノウラビでしょうか」
しゃがみ込み、足跡の形を確かめる。
フレイヴィアさんは少し後ろで立ち止まり、僕が指した跡を見下ろした。
「だろうな」
「合っています?」
「うむ」
それだけだった。
理由を説明するわけでも、褒めるわけでもない。
けれど否定されなかったということは、少なくとも間違ってはいないらしい。
フレイヴィアさんは試験官だ。
僕が見つけ、僕が考え、自分の言葉で報告しなければならない。
だから、必要以上には口を挟まないのだろう。
ただし、何もしてくれないわけではない。
僕が雪へ足を取られそうになれば、何も言わず歩調を落とす。
風が強く吹く場所では、自然と風上へ立ってくれる。
雪の積もった岩場へ近づこうとした時には、大きな尾が僕の前へ差し出された。
「え」
「そちらは雪が薄い」
「あ……ありがとうございます」
「うむ」
足元をよく見れば、岩と岩の間へ雪が被さっているだけだった。
気づかず踏めば、隙間へ脚を取られていたかもしれない。
言葉は短い。
本当に短い。
けれど、不親切ではなかった。
僕が見落としたものも、危ない方へ行こうとしていることも、きっと全部分かっている。
強くて、静かで。
少し不器用で――ちゃんと優しい人なのだと思う。
「次を探します」
「うむ」
僕は立ち上がり、再び白い地面へ目を凝らした。
雪原での痕跡探しは、想像していたよりも難しかった。
雪は足跡を残しやすい。
だから、森の土より簡単に見つけられると思っていた。
実際には、風が吹けば浅い跡は消える。
新しく積もった雪が、古い痕跡を覆い隠すこともある。
反対に、古い足跡が凍って残っている場合もあり、それがいつつけられたものなのかまで判断しなければならない。
雪へ落ちた羽根。
折れた枝に、木の幹へ残る爪痕。
雪の下から顔を出した糞まで、遠くから見れば真っ白なだけの地面に、いくつもの情報が埋まっている。
問題は――それを僕が読み取れるかどうかだった。
「これは、鳥でしょうか」
雪の上へ落ちていた灰色の羽根を拾い上げる。
手袋越しに回してみると、縁は細く、普通の鳥の羽根よりも少し硬かった。
けれど、ナイフバードの硬羽根ほど鋭くはない。
フレイヴィアさんは一度だけ羽根へ視線を向けた。
「雪羽鳥だ」
「雪羽鳥」
「小型だ」
「危険ですか?」
「近づかなければ、あまり」
「あまり……」
少し怖い言い方だった。
近づかなければ危険ではない。
つまり、近づけば危険なのだろう。
羽根が落ちていた場所と、周囲に残る細い足跡を確認する。
手帳代わりの小さな板へ、方角と数、痕跡の新しさを簡単な記号で刻んだ。
厚手の手袋では細かな文字を書きづらい。
そのため、アルナさんから場所や数を記号で残す方法を教えられていた。
作業をしている間、フレイヴィアさんは少し離れた場所で周囲を見渡している。
試験官であり、監督役。
そして今は、僕が気づけていない危険を見張る役でもあるのだろう。
記録を終え、立ち上がろうとした時だった。
「……」
フレイヴィアさんが、岩場の近くを見つめている。
「どうしました、フレイヴィアさん」
声を掛けると、黄金の瞳がすぐにこちらへ戻った。
「いや、なんでもない」
「なんでもない……」
絶対に何かを見ていた。
視線の先を辿ると、黒い岩の隙間へ青白い小さな欠片が落ちている。
雪へ半分ほど埋もれ、薄い陽射しを受けて僅かに輝いていた。
足元を確かめながら近づき、それを拾い上げる。
「冷たい」
石というより、氷を磨いたような手触りだった。
けれど手の中で溶けることはなく、青と白が混ざった透明な欠片の内側には、細い光の筋が走っている。
「これ、なんですか?」
フレイヴィアさんは、少しだけ答えるまでに間を置いた。
「雪光石の欠片だ」
「雪光石」
「鉱石と呼べる大きさなら素材になる。この程度では、一ソルにもならん」
「一ソルにも……」
改めて見ると、確かに小さい。
装備へ使えるようには見えないし、納品用の素材袋へ入れるほどの価値もないらしい。
ただ――綺麗だった。
光へ翳すと、雪の白とは違う淡い青が内側から滲み出す。
偶然割れただけにしては形も整っており、小さな鳥の羽根のようにも見えた。
「では、戻しておきますね」
雪の上へ置こうとすると、フレイヴィアさんの眉がほんの僅かに動いた。
「…………」
もしかして、欲しいのだろうか。
けれど、一ソルにもならないと言っていた。
「……いります?」
「いらん」
「では、戻しますね」
「…………」
沈黙。
雪原の冷たい風が、僕たちの間を通り抜けていく。
僕は欠片を掌へ載せたまま待った。
フレイヴィアさんは視線を逸らし――それから、何も言わずに手を差し出した。
「どうぞ」
欠片を渡す。
フレイヴィアさんは指先で軽くつまみ、外套の内側へ大切そうにしまった。
「一ソルにもならないんですよね?」
「ならん」
「では、なぜしまったんですか」
「……形が悪くない」
「形」
「光り方も、悪くない」
「なるほど」
綺麗だから拾ったのだ。
この人、綺麗なものが好きなんだ。
喉元まで出かかった言葉を、どうにか飲み込む。
昨日、防具屋で服を褒めた時の動揺を思い出したからだ。
今回は言わない。
僕だって、少しは学んでいる。
「……何だ」
「いえ。雪光石、綺麗ですね」
「うむ」
フレイヴィアさんは何事もなかったように歩き始めた。
いつも通り静かな横顔だった。
けれど、先ほどよりも尾の揺れ方が少しだけ穏やかに見える。
たぶん、機嫌がよい。
……本人へ伝えるのはやめておこう。
◆
昼食は、三方を低い岩に囲まれた岩陰で取ることになった。
風を避けられるうえ、周囲も見渡せる。
フレイヴィアさんが迷わず選んだ場所だ。
休む場所一つにも、きちんと理由があるらしい。
「ここで休む」
「はい」
フレイヴィアさんが岩へ背を預け、腰を下ろす。
僕も少し離れた場所へ座り、素材袋とは分けていた携帯食を取り出した。
硬いパン。
干し肉。
水筒。
以上。
「……簡素だ」
でも、これも僕にとっては立派な昼食だった。
雪原で食べれば硬いパンもありがたい。
干し肉だって、噛んでいれば少しずつ味が出てくる。
そう思っていた。
フレイヴィアさんが、自分の保存容器を開けるまでは。
「…………」
肉だった。
厚い焼き肉。
香草がまぶされ、表面へ綺麗な焼き目がついている。
冷めているはずなのに、風へ乗って美味しそうな匂いまで届いた。
量も多い。
僕の干し肉を三つ重ねても、まだ負けると思う。
「…………」
見てしまった。
それも、かなりじっと見てしまった。
肉を口へ運ぼうとしていたフレイヴィアさんの手が止まる。
「見るな」
「み、見ていません」
「見ている」
「……すみません。美味しそうだなと思って」
フレイヴィアさんは手元の肉を見る。
僕の硬いパンと干し肉を見る。
それから、もう一度自分の肉へ視線を戻した。
少しだけ考えるような間のあと、肉を二つへ割る。
「やる」
「え」
「食え」
「いいんですか?」
「多い」
「でも、フレイヴィアさんの分が」
「足りる」
それ以上尋ねる方が、かえって失礼な気がした。
僕は差し出された肉を両手で受け取り、深く頭を下げる。
「ありがとうございます!」
「礼はいい」
フレイヴィアさんは顔を逸らし、自分の分を食べ始めた。
僕も肉へかじりつく。
「……美味しい」
とても美味しい。
冷めているのに硬すぎず、噛めば香草の匂いと肉の脂が口の中へ広がる。
冷たい雪原で食べているからか、その味が身体の芯まで染み込んでいくようだった。
「すごく美味しいです!」
「……そうか」
「僕の干し肉とは、全然違います」
「そうか」
同じ返事だった。
けれど、持ち上げられていた尾が、少しだけゆっくり揺れ始める。
やはり機嫌がよい。
肉を大事に食べながら、ふと気になっていたことを尋ねた。
「フレイヴィアさんも、ランク2の試験を受けたんですか?」
肉を食べていた手が止まる。
「受けていない」
「え」
「余は、初めから上位ランクだった」
「初めから?」
「竜族だからな」
短い説明だった。
けれど、それだけで何となく分かった。
竜族は、力と支配を象徴する最強の種族だと聞いている。
その中でもフレイヴィアさんは、きっと特別に強い。
ギルドへ登録した時点で、ランク1から順番に経験を積む必要がないと判断されたのだろう。
「では、スノウラビ捕獲や薬草採取も、したことがないんですか?」
「ない」
「港の荷運びは?」
「ない」
「剥ぎ取り講習は?」
「不要だった」
「不要……」
「既に知っていた」
「すごい」
素直に言葉が漏れた。
最初から強くて。
必要なことも知っていて。
最初から上位のハンター。
僕とは何もかもが違う。
それは、とてもすごいことだった。
でも――少しだけ、もったいないとも思う。
「ランク1の依頼も、結構面白いですよ」
「面白い?」
黄金の瞳がこちらへ向く。
「はい。スノウラビは可愛いですが、捕まえるのは難しいです。薬草採取も、似た草が多くて大変でした」
「うむ」
「港の荷運びは、とても重いです」
「それは、面白いのか?」
「終わったあとのご飯が、美味しくなります」
「なるほど」
フレイヴィアさんは、少し納得したように頷いた。
そこなのか。
でも、分かってもらえたのならいい。
「……スノウラビは、可愛いのか」
「可愛いですよ」
「そうか」
声はいつもと変わらない。
けれど、少しだけ興味を持っているように聞こえた。
僕は一度悩み――喉元まで出てきた言葉を、そのまま口にした。
「今度、一緒に行きますか?」
言ってから、少し大胆だったかもしれないと思った。
ランク7のハンターを、ランク1の依頼へ誘う。
普通に考えれば、かなりおかしい。
けれど、口から出てしまったものは戻せない。
フレイヴィアさんは答えず、手元の肉をしばらく見つめていた。
雪原の風が岩へぶつかり、細い音を鳴らす。
「……依頼にか」
「はい。ランク1の依頼ですが」
「余が?」
「……はい。嫌でしたか?」
黄金の瞳が、ようやく僕へ向く。
「嫌ではない」
「では、今度一緒に行きましょう」
「うむ」
短い返事だった。
でも、嫌ではないと言った。
つまり、行ってもいいということだ。
「約束ですね」
「約束か」
「はい」
「竜族は、約束を違えぬ」
「では、僕も違えません」
「うむ」
フレイヴィアさんは小さく頷いた。
いつも通り静かな横顔。
けれど、ほんの少しだけ柔らかく見えた。
僕は残っていた肉をもう一口食べる。
やはり、美味しかった。
◆
昼食を終え、試験を再開する。
雪原地帯第一区域の外縁を回りながら、僕は痕跡を探し続けた。
スノウラビの足跡。
雪羽鳥の羽根。
小型の爪獣が雪を掘った跡に、雪へ埋もれかけた糞。
折れた枝や、木の幹へ残された浅い傷。
見つけるたび、場所と数、新しさを確かめ、必要なものだけを記録していく。
フレイヴィアさんは、ほとんど何も言わない。
僕が明らかに危ない場所へ向かいそうになった時だけ、視線や尾で止める。
痕跡が正しければ「うむ」か「だろうな」。
間違っていれば、短く「違う」。
それだけだった。
でも、それで十分だ。
僕が見なければならない。
僕が考えなければならない。
それが、僕の昇級試験なのだから。
「……ん?」
雪が少し深くなった場所で、足を止める。
そこだけ、雪面の沈み方が違っていた。
大きい。
そして、深い。
小型モンスターの足跡ではない。
風と新雪で縁が崩れているため、古いものだとは分かる。
けれど、その大きさは、今まで見てきた痕跡とはまるで違っていた。
「……これは、違います」
呟くと、後ろにいたフレイヴィアさんが近づいてくる。
「何がだ」
「小型ではありません。足跡が大きすぎます。それに、雪の沈み方も深いです」
「うむ」
フレイヴィアさんがしゃがみ込み、手袋をした指で足跡の縁へ触れる。
黄金の瞳が、僅かに鋭くなった。
昼食を分けてくれた時とは違う。
強いモンスターと戦い、数多くの依頼を終えてきたハンターの顔だった。
「古い」
「古いなら、大丈夫ですか?」
「今はいない」
「今は」
「うむ」
今はいない。
つまり――以前は、ここにいたということだ。
僕のような駆け出しが、昇級試験を行う浅い区域に。
足跡をもう一度見下ろす。
大きい。
とても大きい。
これを残したモンスターが今、目の前へ現れたら、僕には何もできない。
戦えるか。
勝てるか。
そんな話ではなかった。
見つけてはいけない相手を見つけてしまった時、どうやって逃げるか。
そういう相手だ。
「覚えておけ」
「はい」
「戻って報告する」
「試験は?」
「続ける」
短い答えだった。
試験を続けるということは、今すぐ危険が迫っているわけではない。
けれど、必ず報告しなければならない痕跡なのだろう。
場所。
方角。
足跡の向きと数。
古さや、雪の沈み方。
できるだけ細かく板へ記録していく。
手袋の中で、指が少し硬くなっていた。
寒さだけが原因ではない。
雪原異常。
アルナさんから聞いた言葉が、急に現実のものとして目の前へ現れた気がした。
◆
帰路の途中、低い茂みの奥で何かが動いた。
足を止める。
フレイヴィアさんも止まった。
けれど何も言わず、僕の判断を待っている。
茂みの陰から顔を出したのは、灰色の毛並みをした小型モンスターだった。
身体を低くし、短い牙を見せながら、こちらを警戒している。
一匹。
いや、二匹。
奥にもう一匹いる。
さらに雪の下には、小さな穴がいくつも開いていた。
巣が近い。
そう思った瞬間、手が剣の柄へ伸びかけた。
けれど――抜かなかった。
フレイヴィアさんは何も言わない。
僕が何を選ぶのか、ただ見ている。
三匹だけなら、もしかすると倒せるかもしれない。
新しい腕当てもある。
フレイヴィアさんも近くにいる。
危なくなれば、止めてくれるだろう。
――でも、それは僕の力ではない。
それに、見えている三匹だけとは限らない。
巣が近いなら、奥からもっと出てくる可能性がある。
今は、こちらを威嚇しているだけだ。
剣を抜けば、向こうも僕たちを敵だと判断するかもしれない。
今回の目的は、討伐ではない。
見つけること。
判断すること。
そして、戻ること。
僕は剣の柄から手を離し、足元の氷混じりの雪を拾った。
モンスターたちから少し離れた茂みへ投げる。
ぱさ、と小さな音がした。
三匹の視線が、同時にそちらへ向く。
僕は背中を見せず、急な動きもしないまま、ゆっくりと後ろへ下がった。
一歩。
もう一歩。
少しずつ距離を取る。
モンスターたちは追ってこない。
身体を低くしたまま、こちらを見ているだけだった。
やはり、僕たちを追い払いたかったのだ。
巣へ近づいたから、警戒していた。
十分に離れたところで、ようやく息を吐く。
手袋の中が、少し汗ばんでいた。
身体は寒いのに、掌だけが熱い。
「なぜ、戦わなかった」
フレイヴィアさんが尋ねる。
「必要がないと思ったからです」
自分でも確かめるように答える。
「巣が近そうでした。それに、あの三匹と戦えば、奥からもっと出てくるかもしれないと思って」
「うむ」
「……合っていますか?」
「悪くない」
「……褒められた」
思わず、声へ出していた。
「悪くないと言った」
「褒められました」
「……そうか」
フレイヴィアさんは、少し困ったように視線を逸らした。
たぶん、そこまで褒めたつもりはなかったのだろう。
それでも、僕には十分だった。
悪くない。
フレイヴィアさんがそう言ってくれた。
それだけで、先ほどまで身体へ残っていた緊張が、少しだけほどけていった。
◆
ギルドへ戻る頃には、身体の芯まで冷えていた。
雪原を歩いている間は、まだよかった。
けれど街へ近づき、風が弱くなると、かえって自分がどれだけ冷えていたのかが分かってくる。
重たい扉を開けた途端、暖かな空気と騒がしさが一気に押し寄せてきた。
木の床を踏む音。
人々の声。
革と鉄に、酒と焼いた肉……いくつもの匂いが混ざり合い、帰ってきたのだと教えてくれる。
受付には、アルナさんがいた。
僕たちを見つけるなり書類から顔を上げ、受付台の外まで歩いてくる。
「おかえりなさい」
「はい! ただいま戻りました!」
アルナさんの視線が、すぐに僕の全身を確認する。
顔。
腕。
脇腹から、足元。
どこにも血がついていないことを確かめると、栗色の猫耳が僅かに緩んだ。
「怪我は?」
「ありません!」
「血は?」
「出ていません!」
「……よかったです」
胸へ手を当て、小さく息を吐く。
その隣で、フレイヴィアさんが短く告げた。
「合格でよい」
「……もうですか?」
アルナさんが目を瞬かせる。
「うむ」
それだけだった。
けれど、アルナさんはすぐに仕事の表情へ戻り、受付台の上へ紙と筆記具を用意した。
「では、ルキウスさん。現地で確認した内容を報告してください」
「はい!」
背筋を伸ばし、雪原で見たものを順番に伝える。
スノウラビの足跡。
雪羽鳥の羽根。
小型爪獣が雪を掘った跡。
巣の近くで三匹の小型モンスターと遭遇し、討伐せず距離を取ったこと。
そして――第一区域外縁部で見つけた、大型らしき古い足跡。
場所。
方角。
足跡の向き。
古さと、雪の沈み方。
アルナさんは一つずつ真剣に書き留めていく。
大型の痕跡について話し始めた時、栗色の猫耳が僅かに伏せられ、筆を持つ指へ力が入った。
「フレイヴィア様」
確認するように顔を上げる。
「大型の痕跡だ。古いが、浅い」
「浅い区域にまで来ていた、ということですね」
「うむ」
短いやり取りだけで、アルナさんの表情がさらに硬くなる。
やはり、普通ではないらしい。
古い。
だから、今はいない。
でも――確かに、そこにいた。
その違いが、妙に怖かった。
「報告ありがとうございます。こちらは、すぐに支部内で共有します」
書類をまとめ、奥にいた職員へ渡す。
続いて取り出された別の紙には、試験結果と書かれていた。
「ルキウスさん」
「はい」
「改めて、昇級試験の結果をお伝えします」
無意識に息を止める。
フレイヴィアさんからは、もう合格でよいと言われている。
それでも、アルナさんの口から正式に聞くまでは、まだ実感がなかった。
「合格です」
「……っ」
「おめでとうございます、ルキウスさん。本日より、あなたはハンターランク2です」
胸の奥で、何かが大きく跳ねた。
「ありがとうございます!」
外套からギルドカードを取り出し、アルナさんへ渡す。
カードは受付奥の小さな器具へ通され、表面を淡い光が走った。
返されたカードには、昨日までとは違う文字が刻まれている。
ランク2。
「ランク2……」
小さなカードのはずなのに、以前より少しだけ重くなった気がした。
「受けられる依頼も、行ける場所も増えます」
「はい」
「ですが、その分だけ危険も増えます」
「はい」
「今日できた判断を、次もしてください」
アルナさんは一度言葉を切り、僕の目をまっすぐ見つめる。
「フレイヴィア様が、いない時にも」
「……はい」
思わず背筋が伸びた。
今日、落ち着いて考えることができたのは、フレイヴィアさんがそばにいたからでもある。
もし危険なことが起きても、この人ならどうにかしてくれる。
そんな安心感は、確かにあった。
けれど次も、フレイヴィアさんが一緒とは限らない。
一人でも見て。
考えて。
戻ると決めなければならない。
ランク2になるということは、きっとそういうことなのだ。
フレイヴィアさんが、僕のカードへ一度だけ視線を落とす。
「ルキウス」
「はい」
「悪くなかった」
「ありがとうございます!」
フレイヴィアさんは短く頷き、踵を返した。
けれど、数歩進んだところで思い出したように足を止める。
「約束」
「え?」
「ランク1の依頼」
「あ、はい! 行きましょう!」
「うむ」
それだけ確認すると、今度こそギルドの出口へ向かっていった。
黒髪が揺れ、背中の大剣が小さく音を立てる。
短い。
本当に短い。
でも、約束を覚えていてくれた。
「……約束?」
横から、アルナさんの不思議そうな声がした。
「大したことではありませんよ。ランク1の依頼に、一緒に行く約束をしたんです」
「フレイヴィア様と?」
「はい」
「ランク1の依頼へ?」
「はい」
アルナさんは一度、ギルドの出口を見る。
それから僕へ視線を戻し、少しだけ困ったように笑った。
「……ルキウスさん、本当にいろいろありますね」
「ありがとうございます!」
「褒めていません!」
アルナさんの声が、大広間へ響いた。
近くにいたハンターたちが、小さく笑い声を漏らす。
それに気づいたアルナさんは、猫耳を伏せながら「もぉ……」と頬を膨らませた。
◆
その夜。
角兎亭へ戻ると、女将さんは僕の姿を見るなり片方の眉を持ち上げた。
「その様子じゃ、受かったね」
「はい! ランク2になりました!」
「おや、本当に出世したじゃないか」
「半人前坊やから、卒業ですか?」
「半人前と少し坊やだね」
「まだ坊やなんですね」
「一人前になったら考えてやるよ」
女将さんは豪快に笑い、いつもより少し多めに夕食を盛ってくれた。
角兎肉と豆の煮込み。
焼いた黒パンに、炙った野菜。
それから、普段より厚く切られた肉まで載っている。
「多くないですか?」
「祝いだよ。たんと食べな」
「ありがとうございます」
席へ座ろうとすると、女将さんの表情が少しだけ真面目になった。
「ランクが上がったなら、今までより気をつけな」
「はい」
「行ける場所が増えるってのは、帰ってこられない場所も増えるってことだからね」
今日見た、大きな足跡が頭へ浮かぶ。
「……はい」
「よし。なら、食べな」
「はい!」
温かい煮込みを口へ運ぶ。
冷え切っていた身体へ、肉と豆の熱がゆっくり染み込んでいく。
昼にフレイヴィアさんからもらった肉も美味しかった。
けれど、帰ってきた場所で食べる温かな食事は、また別の意味で美味しい。
――仕事を終えたあとのご飯は、美味しくなる。
昼に自分で言った言葉を思い出し、少しだけ笑ってしまった。
食事を終え、二階の部屋へ戻る。
机の上へ、ギルドカードを置いた。
ランク2。
刻まれた文字は、昨日までより少しだけ大人びて見える。
でも、僕が急に強くなった証ではない。
少し遠くへ行くことを許された代わりに。
少し遠くで起きる危険へ、自分で気づかなければならない。
これはきっと、そのための印だ。
今日は、ほとんど戦わなかった。
剣も抜かなかった。
モンスターを一匹も倒していない。
それでも、見た。
考えた。
戻って、報告した。
その結果として、合格した。
今の僕に必要なのは、きっとこういう強さなのだろう。
机の端へ置いた腕当てには、小さな雪泥が残っていた。
布で丁寧に拭き取る。
今日は怪我をしなかった。
血も出なかった。
戦わなかった。
――でも、逃げたわけでもない。
見て。
考えて。
生きて帰ってきた。
「……よし」
綺麗になった腕当てを置き、ギルドカードを手に取る。
もう一つ、今日知ったこともある。
ランク7の竜族は、綺麗な石を拾う。
美味しい肉を分けてくれて、スノウラビに少し興味を持つ。
強くて。
少し怖くて。
少し不器用で――たぶん、優しい人だった。
カードへ刻まれたランク2の文字を、指先でゆっくりとなぞる。
明日から、僕はランク2のハンターだ。
行ける場所が増える。
危険も増える。
それでも今日のように、きちんと見て。
きちんと考えて。
きちんと帰ってくることができるのなら。
少しずつでも――胸に抱いた理想へ、近づいていける気がした。
◆
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