駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆009
雪は、音を吸う。
踏み固められていない白い地面に足を置くたび、ぎゅ、と低い音がした。
けれど、その後に続くはずの響きは、すぐに冷たい空気の中へ消えていく。
雪原地帯。
エルドランの北側に広がる、白と灰色の世界。
昨日まで歩いていた街道や渓流地帯とは、何もかもが違っていた。
地面は白く、岩は黒く、遠くの木々は葉を落として細い枝だけを空へ伸ばしている。
息を吐けば白く濁り、鼻の奥が少し痛む。
フードの内側にこもる自分の呼吸だけが、やけに近く聞こえた。
寒い。
とても寒い。
森で暮らしていた頃も冬はあったし、山の朝はそれなりに冷えたけれど、この雪原の寒さは少し性格が違う。
体の表面から冷えるのではなく、靴の裏や指先や耳の奥から、じわじわとこちらの熱を奪っていくような寒さだった。
昨日買ったばかりの厚手の手袋がなければ、たぶん僕は今ごろ指先を擦り合わせるだけで忙しかったと思う。
それくらいには、買っておいてよかった。
「……寒い」
思わず呟くと、少し前を歩いていたフレイヴィアさんが、こちらを振り返らないままわずかに歩幅を緩めた。
黒髪。
黄金の瞳。
雪の白に、夜みたいな黒と、火みたいな金がよく映える。
大きな尻尾は雪の上を引きずらないように少し持ち上がっていて、背中にはいつものように身の丈ほどもある大剣が差されている。
竜族である彼女は、この寒さをほとんど気にしていないらしく、歩く姿にも声にも乱れがなかった。
「動けば慣れる」
「慣れますかね」
「たぶん」
「たぶん」
たぶんなのか。
でも、フレイヴィアさんがそう言うなら、たぶん慣れるのだろう。
たぶん。
今日の依頼――いや、試験の内容は、雪原地帯第一区域外縁部の痕跡調査だった。
指定された範囲を巡回し、小型モンスターの痕跡を確認する。
異常な痕跡があれば報告し、危険と判断した場合は即時撤退。
討伐は目的ではなく、あくまで発見、判断、報告が評価される。
本来、ランク2昇級試験はここまで雪原寄りの場所で行う予定ではなかったらしい。
けれど、最近雪原地帯で異常が発生していて、低危険区域の確認にも人手が必要になっている。
試験官不足と調査不足。
その両方を埋める形で、僕の昇級試験は雪原の浅い区域で行われることになった。
もちろん、奥地には行かない。
少なくとも、アルナさんには何度も言われた。
試験官がフレイヴィア様だからといって、奥に行っていいわけではありません。
フレイヴィア様が止める前に、自分で止まってください。
フレイヴィア様がいるから大丈夫、ではありません。
試験は、ルキウスさん自身が判断できるかを見るものです。
その言葉を思い出しながら、僕は雪の上に残された小さな跡へ視線を落とした。
白い雪に、丸いくぼみがいくつか続いている。
間隔は広い。
ところどころ雪を掘ったような跡もある。
「これは……スノウラビでしょうか」
僕がしゃがみ込んで言うと、数歩後ろで立ち止まっていたフレイヴィアさんが、その足跡を見下ろした。
「だろうな」
「あってました?」
「うむ」
それだけだった。
説明はない。
褒めるわけでもない。
けれど、否定もされなかった。
たぶん、これでいいのだ。
フレイヴィアさんは監督役で、僕が見つけ、僕が考え、僕が報告しなければならない。
だから、彼女は必要以上には口を挟まない。
ただ、ちゃんと見ている。
それは、歩いているだけでも分かった。
僕が雪に足を取られそうになると、フレイヴィアさんは何も言わずに少しだけ速度を落とす。
風が強い場所では、自然と風上側に立つ。
雪の積もった岩場に近づきすぎると、大きな尻尾がゆっくり僕の進路を塞いだ。
「え」
「そちらは雪が薄い」
「あ、ありがとうございます」
「うむ」
短い。
とても短い。
けれど、不親切ではない。
口数が少ないだけで、周りは見ている。
僕が見落としたものも、僕が危ない方へ行きそうになることも、たぶん全部分かっている。
そういう人なのだと思う。
強くて、静かで、少し不器用で。
それでいて、ちゃんと優しい人。
僕はそんなことを考えながら、次の痕跡を探して雪の上を歩いた。
雪原での痕跡探しは、思っていたよりも難しかった。
雪は足跡を残しやすい。
だから簡単だと思っていた。
けれど、実際には違う。
風が吹けば薄い跡は消えるし、新しく積もった雪が古い痕跡を隠す。
逆に、古い足跡が凍って残っていることもあって、いつのものなのか判断しなければならない。
雪に落ちた羽根。
折れた枝。
木の幹についた爪跡。
雪の下から顔を出した糞。
遠くから見ればただの白い地面でも、近づいてみればいくつもの情報が埋まっている。
ただし、その情報を読み取れるかどうかは別の話だった。
「これは、鳥でしょうか」
僕は雪の上に落ちていた灰色の羽根を拾い、手袋越しに少しだけ回して見た。
羽根の端は細く、薄く、そして少し硬い。
ナイフバードの硬羽根ほど鋭くはない。
けれど、普通の鳥の羽根よりはずっとしっかりしている。
フレイヴィアさんは一度だけ羽根に視線を向けた。
「雪羽鳥だ」
「雪羽鳥」
「小型だ」
「危険ですか?」
「近づかなければ、あまり」
「あまり」
少し怖い言い方だった。
近づかなければ大丈夫。
つまり、近づけば大丈夫ではないのだろう。
僕は羽根の場所と周囲の足跡を覚え、手帳代わりの小さな板に簡単な印をつけた。
文字を多く書くには手袋が邪魔だったので、アルナさんに教わった通り、場所、方角、数、危険度を簡単な記号で残していく。
その作業をしている間、フレイヴィアさんは何も言わなかった。
ただ、少し離れた場所に立ち、周囲を見ている。
試験官というより、見張り役。
いや、監督役。
彼女がいるだけで安心感はあるけれど、同時に、見られているという緊張もあった。
僕は顔を上げ、次の場所へ進もうとした。
その時、フレイヴィアさんがふと足を止めた。
「……」
何かを見ている。
そう思った。
視線の先は、雪の積もった岩場の近く。
黒い岩の隙間に、青白い小さな欠片が落ちていた。
雪に半分埋もれていて、普通なら見落としてしまいそうな大きさだ。
けれど、曇った空の薄い光を受けて、その欠片はほんの少しだけきらりと光っていた。
「? どうしました、フレイヴィアさん」
僕が声をかけると、フレイヴィアさんは欠片から視線を外した。
「いや、なんでもない」
なんでもないと言った。
けれど、絶対に何かを見ていた。
僕は足元に気をつけながら岩場へ近づき、その青白い欠片を拾い上げた。
冷たい。
石というより、氷を磨いたような手触りだった。
けれど、体温ですぐに溶けるわけではなく、薄い青と白が混ざった透明な欠片の内側には、細かい光の筋みたいなものが入っている。
「これ、なんですか?」
僕が尋ねると、フレイヴィアさんは少しだけ黙った。
その沈黙が、いつもの無口とは少し違う気がした。
「雪光石の欠片だ」
「雪光石」
「鉱石サイズなら素材になる。この大きさなら、一ソルにもならん」
「はぁ」
売り物にはならないらしい。
そう言われて改めて見ると、確かに小さい。
素材袋に入れて納品するようなものではないし、武器や防具に使えるようにも見えなかった。
ただ、綺麗ではある。
光にかざすと、雪の白とは違う青白さが内側から薄く滲む。
形も、偶然割れたにしては整っていて、小さな鳥の羽根みたいにも見えた。
「じゃあ、戻しておきますね」
僕がそう言って欠片を雪の上へ戻そうとすると、フレイヴィアさんの眉がほんの少しだけ動いた。
本当に、ほんの少しだけ。
もしかして、欲しいのだろうか。試しに聞いてみる。
「……」
「……いります?」
「いらん」
「じゃあ、戻しちゃいますね」
「……」
沈黙。
雪原の風が、二人の間を通り抜けた。
僕は欠片を手のひらに乗せたまま待つ。
フレイヴィアさんは少しだけ視線を逸らし、それから無言で手を差し出した。
僕が欠片を渡すと、彼女はそれを指先で軽くつまみ、外套の内側のポケットへ入れた。
「一ソルにもならないんですよね?」
「ならん」
「じゃあ、なんで入れたんですか?」
「……形が悪くない」
「形」
「光り方も、悪くない」
「なるほど」
なるほど。
つまり、綺麗だから拾ったのだ。
この人、綺麗なものが好きなんだ。
僕はそう思った。
けれど、口には出さなかった。
出したら、たぶん怒られる。
昨日の防具屋で、可愛い服を褒めた時のことを思い出す。
あれは、危なかった。
いや、怒られたけれど、危ないというより、ものすごく動揺していた。
だから、今回は言わない。
少しは学んでいるのだ。
「……何だ」
「いえ。雪光石、綺麗ですね」
「うむ」
フレイヴィアさんは短く頷き、何事もなかったように歩き出した。
その横顔はいつも通り静かだったけれど、ポケットに入った小さな欠片のことを考えているのか、ほんの少しだけ機嫌がよさそうに見えた。
◆
昼食は、風を避けられる岩陰で取ることになった。
フレイヴィアさんが選んだ場所は、三方を低い岩に囲まれていて、雪も比較的浅く、座って休むにはちょうどよかった。
しかも周囲が見渡せるので、何かが近づいてきてもすぐ分かる。
「ここで休む」
「はい」
それだけ言って、フレイヴィアさんは岩に背を預けるようにして腰を下ろした。
僕も少し離れた場所に座り、素材袋とは別にしていた携帯食を取り出す。
硬いパン。
干し肉。
水筒。
以上。
とても簡素だ。
でも、これでも僕にとってはちゃんとした昼食である。
雪原で食べれば、硬いパンもそれなりにありがたいし、干し肉だって噛めば味が出る。
そう思っていた。
フレイヴィアさんが、自分の保存容器を開けるまでは。
「……」
肉だった。
分厚い肉。
香草らしきものがまぶされ、焼き目がついていて、冷めているはずなのにまだおいしそうな匂いがした。
量は僕の干し肉の三倍くらいある。
いや、もっとあるかもしれない。
何より、明らかにおいしそうだった。
僕は見た。
見てしまった。
じっと見てしまった。
フレイヴィアさんが肉を食べようとして、動きを止める。
「……」
「……」
「見るな」
「み、見てません」
「見ている」
「すみません。おいしそうだなって」
「……そうか」
フレイヴィアさんは手元の肉を見た。
僕の硬いパンを見た。
もう一度、自分の肉を見た。
少し考えるような間があった。
それから、彼女は肉を半分に割った。
「やる」
「え」
「食え」
「いいんですか?」
「多い」
「でも、フレイヴィアさんの分が」
「足りる」
短いやり取りだった。
それ以上聞くと、逆に失礼な気がした。
僕は差し出された肉を両手で受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「礼はいい」
フレイヴィアさんは視線を逸らし、自分の分の肉を食べ始めた。
僕も一口かじる。
うまい。
とても、うまい。
冷めているはずなのに肉は硬すぎず、噛むと香草の匂いと肉の脂がじわっと広がった。
雪原の冷たい空気の中で食べる温かくない肉が、こんなにおいしく感じるとは思わなかった。
「すごくおいしいです!」
「……そうか」
「はい。僕の干し肉とは全然違います」
「そうか」
フレイヴィアさんは同じ返事をした。
でも、少しだけ尻尾の動きがゆるくなった気がした。
気のせいかもしれない。
でも、たぶん気のせいではない。
僕は肉を大事に食べながら、ふと気になっていたことを聞いてみることにした。
「フレイヴィアさんも、ランク2試験って受けたんですか?」
フレイヴィアさんは肉を食べる手を止めた。
「受けていない」
「え」
「余は上位ランクから始まった」
「上位ランク」
「竜族だからな」
説明は短かった。
けれど、それだけで何となく分かった。
竜族。
力、支配、権力を司るとさえ言われる最強の種族。
その中でも、フレイヴィアさんはきっと特別強いのだろうか。
ギルドに登録した時点で、ランク1から順番に上がる必要がないと判断された。
たぶん、そういうことなのだと思う。
「じゃあ、スノウラビ捕獲とか、薬草採取とか、港の荷運びとか、やったことないんですか?」
「ない」
「剥ぎ取り講習は?」
「不要だった」
「不要」
「知っていた」
「すごい」
僕は素直にそう言った。
最初から知っている。
最初から強い。
最初から上位ランク。
それは、とてもすごいことだ。
でも、少しだけもったいないとも思った。
「ランク1のクエストも、結構面白いですよ」
僕がそう言うと、フレイヴィアさんはわずかに目を向けた。
「面白い?」
「はい。スノウラビはかわいいですし、捕まえるのは意外と難しいです。薬草採取も、似た草が多くて大変です。あと、港の荷運びはすごく重いです」
「それは面白いのか」
「終わった後のご飯がおいしくなります」
「なるほど」
フレイヴィアさんは、少しだけ納得したように頷いた。
そこなのか。
でも、分かってもらえたならいい。
「……スノウラビは、かわいいのか」
「かわいいです」
「そうか」
僕は悩んで、喉元まで出かかっていた言葉をそのまま吐き出す。
「今度、一緒に行きますか?」
しかしやっぱり言ってから、少し大胆だったかもしれないと後悔した。
ランク7のハンターを、ランク1のクエストに誘う。
普通に考えれば、かなりおかしい。
けれど、口から出てしまったものは仕方ない。
フレイヴィアさんは少し黙った。
雪原の風が岩に当たり、細い音を立てる。
「……クエストにか」
「はい。ランク1のクエスト、ですが」
「余が?」
「………はい。やっぱりいや、嫌ですかね?」
フレイヴィアさんは答えなかった。
しばらく、手元の肉を見ている。
それから、僕の方を見た。
「……嫌ではない」
「じゃあ、今度一緒に行きましょう」
「うむ」
短い返事だった。
でも、嫌ではないと言った。
つまり、いいということだ。
たぶん。
「約束ですね」
「約束か」
「はい」
「竜族は約束を違えぬ」
「じゃあ、僕も違えません」
「うむ」
フレイヴィアさんは小さく頷いた。
その横顔はいつも通り静かだったけれど、少しだけ柔らかく見えた。
僕は肉をもう一口食べる。
やっぱり、おいしかった。
◆
昼食を終えて、試験は再開された。
雪原地帯第一区域の外縁を回りながら、僕は痕跡を探し続けた。
スノウラビの足跡。
雪羽鳥の羽根。
小型の爪獣が雪を掘った跡。
雪に埋もれかけた糞。
折れた枝。
それらを見つけるたびに、場所と数と新しさを確認し、必要だと思ったものだけを報告していく。
フレイヴィアさんは、ほとんど口を挟まなかった。
僕が明らかに危ない場所へ向かいそうになった時だけ、視線や尻尾で止める。
僕が痕跡を見つければ、間違っていない時は「うむ」か「だろうな」と言う。
違っていれば、短く「違う」と言う。
それだけ。
でも、それで十分だった。
僕が見なければならない。
僕が考えなければならない。
それが試験なのだから。
しばらく歩いていると、雪が少し深くなった場所で、僕は足を止めた。
そこだけ、雪面の沈み方が違っていた。
大きい。
深い。
小型モンスターの足跡ではない。
風で半分消えかけているし、新しく積もった雪が縁を覆っているので、古いものだとは分かる。
けれど、その大きさは明らかに今まで見てきた痕跡とは違っていた。
「……これは、違います」
僕が呟くと、少し後ろを歩いていたフレイヴィアさんが近づいてきた。
「何がだ」
「小型じゃないです。足跡が大きすぎます。あと、沈み方が深いです」
「うむ」
フレイヴィアさんはしゃがみ込み、手袋をした指先で雪の縁に触れた。
黄金の瞳が、ほんの少しだけ鋭くなる。
さっきまでの昼食の時とは違う。
これは、ハンターの顔だった。
「古い」
「古いなら大丈夫ですか?」
「今はいない」
「今は」
「うむ」
今はいない。
それはつまり、いた、ということだ。
この浅い区域に。
本来なら、僕みたいなランク1の新人が昇級試験を受けるような場所に。
僕は、足跡をもう一度見た。
大きい。
とても大きい。
もしこれをつけたモンスターが目の前に現れたら、僕はたぶん何もできない。
戦うとか、勝つとか、そういう話ではない。
見つけてはいけない相手を見つけてしまった時、どうやって逃げるか。
そういう話になる。
「覚えておけ」
「はい」
「戻って報告する」
「試験は?」
「続ける」
フレイヴィアさんは短く言った。
続ける。
つまり、まだ危険ではない。
ただし、報告すべき痕跡ではある。
僕は場所、方角、足跡の向き、古さ、周囲の状態をできるだけ覚え、板に記号を刻んだ。
手が少し緊張で硬くなっているのが分かった。
雪原異常。
アルナさんが言っていた言葉が、急に現実味を持って目の前に現れた気がした。
帰路の途中、小さなトラブルがあった。
雪の積もった低い茂みの奥で、何かが動いた。
僕は足を止める。
フレイヴィアさんも止まる。
けれど、何も言わない。
茂みの奥から顔を出したのは、小型のモンスターだった。
灰色の毛並みで、短い牙があり、雪に紛れるように低い姿勢でこちらを見ている。
一匹。
いや、二匹。
少し奥に、もう一匹。
そして雪の下に、小さな穴がいくつか見えた。
巣が近い。
そう思った瞬間、僕の手は剣の柄に伸びかけた。
けれど、抜かなかった。
フレイヴィアさんは何も言わない。
ただ見ている。
僕がどうするかを。
あの三匹だけなら、もしかすると何とかなるかもしれない。
新しい腕当てもある。
フレイヴィアさんもいる。
危なくなれば、きっと止めてくれる。
でも、それは僕の力ではない。
それに、三匹で終わるとも限らない。
巣が近いなら、奥からもっと出てくるかもしれない。
こちらが剣を抜けば、向こうも敵だと判断するかもしれない。
この試験の目的は、討伐ではない。
見つけること。
判断すること。
戻ること。
僕はゆっくりと剣から手を離し、足元の小さな氷混じりの雪を拾った。
投げる。
モンスターたちの横、少し離れた茂みへ。
ぱさ、と音がした。
三匹の視線がそちらへ向く。
僕は背を向けず、急に動かず、少しずつ後ろへ下がった。
一歩。
もう一歩。
距離を取る。
相手は追ってこない。
威嚇するように身を低くしたまま、こちらを見ているだけだった。
やっぱり、追い払いたかったのだろう。
僕たちが巣に近づいたから。
十分に離れてから、僕はようやく息を吐いた。
手袋の中が、少しだけ汗ばんでいる。
寒いのに、手のひらだけが熱かった。
「なぜ、戦わなかった」
フレイヴィアさんが言う。
「不要だと、思ったからです」
「……そうか。」
自分でも確認するように言うと、フレイヴィアさんは静かにこちらを見た。
「巣が近そうだったので。僕が戦うと、奥からもっと出てくるかもしれないと思って」
「うむ」
「……合ってますか?」
「悪くない」
悪くない。
その言葉に、僕は少しだけ固まった。
「褒められた」
「悪くないと言った」
「褒められました」
「……そうか」
フレイヴィアさんは少しだけ困ったように視線を逸らした。
たぶん、褒めたつもりはそこまでなかったのだろう。
でも、僕には十分だった。
悪くない。
フレイヴィアさんがそう言った。
それだけで、さっきまでの緊張が少しだけほどけた気がした。
◆
ギルドへ戻る頃には、体の芯まで冷えていた。
雪原の寒さは、歩いている間はまだよかった。
けれど、街に近づいて風が弱まると、逆に自分の体がどれだけ冷えていたのかが分かってくる。
ギルドの扉を開けると、中の暖かさと騒がしさが一気に押し寄せてきた。
木の床。
人の声。
革と金属と料理の匂い。
その全部が、帰ってきたのだと教えてくれる。
受付には、アルナさんがいた。
僕たちを見るなり、彼女は書類から顔を上げ、すぐにこちらへ歩いてくる。
「おかえりなさい」
「はい!ただいま戻りました!」
僕がそう答えると、アルナさんの視線がいつものように上から下へ動いた。
顔。
腕。
脇腹。
足。
そして、血がついていないことを確認して、少しだけ肩の力を抜く。
「怪我は?」
「ありません!」
「血は?」
「ありません!」
アルナさんは小さく笑った。
けれど、その笑顔はすぐに真面目な表情に戻る。
フレイヴィアさんが、短く言った。
「合格でよい」
「……もうですか?」
「うむ」
アルナさんは少しだけ目を瞬かせた。
それから、僕の方を見る。
「では、報告をお願いします」
「はい!」
僕は背筋を伸ばし、雪原で見たものを順番に報告した。
スノウラビの足跡。
雪羽鳥の羽根。
小型爪獣の掘り跡。
巣らしき穴の近くにいた小型モンスターを、討伐せず距離を取って回避したこと。
そして、雪原地帯第一区域外縁部で見つけた、大型らしき古い足跡。
場所。
方角。
足跡の向き。
古さ。
沈み方。
僕が話している間、アルナさんは真剣な顔で書き取っていた。
特に大型の足跡の話をした時、猫耳がわずかに伏せ、ペンを持つ指に力が入ったのが分かった。
「フレイヴィア様」
アルナさんが確認するように顔を上げる。
「大型の痕跡だ。古いが、浅い」
「浅い区域に、ということですね」
「うむ」
その短い補足だけで、アルナさんの表情はさらに硬くなった。
やっぱり、普通ではないらしい。
僕は改めて、あの足跡の大きさを思い出した。
古い。
でも、いた。
今はいない。
でも、いた。
その違いが、妙に怖かった。
「……報告、ありがとうございます。こちらは支部内で共有します」
アルナさんは書類をまとめると、一度奥の職員に渡した。
その後、別の書類を取り出す。
試験結果。
そう書かれている。
「ルキウスさん」
「はい」
「改めて、昇級試験の結果をお伝えします」
僕は無意識に息を止めた。
分かっている。
さっきフレイヴィアさんが合格でよいと言った。
でも、アルナさんの口から正式に言われるまでは、まだ実感がなかった。
「合格です」
「……っ」
「おめでとうございます。ルキウスさん。本日より、あなたはハンターランク2です」
アルナさんは僕からギルドカードを受け取り、受付奥にある小さな器具へ通した。
淡い光が、カードの表面を一瞬だけ走る。
戻ってきたカードには、昨日までとは違う文字が刻まれていた。
ランク2。
僕はそれを受け取る。
小さなカードのはずなのに、少しだけ重くなった気がした。
「ランク2……」
「はい。行ける場所も、受けられる依頼も増えます」
「はい」
「ですが、危険も増えます」
「はい」
「今日できた判断を、次もしてください」
「はい」
「フレイヴィア様がいない時にも」
その言葉に、僕は少しだけ背筋を伸ばした。
「……はい」
今日、僕はフレイヴィアさんがいたから落ち着けた部分もある。
危険な場所で、圧倒的に強い人がそばにいる安心感は、やはり大きかった。
けれど、次はそうとは限らない。
フレイヴィアさんがいない場所でも、自分で見て、考えて、戻らなければいけない。
ランク2とは、そういうことなのだろう。
フレイヴィアさんは、僕のカードを一度だけ見た。
「ルキウス」
「はい」
「悪くなかった」
「ありがとうございます!」
それだけ言うと、フレイヴィアさんは踵を返しかけた。
けれど、ふと思い出したように足を止める。
「約束」
「え?」
「ランク1のクエスト」
「あ、はい!行きましょう!」
「うむ」
フレイヴィアさんは、それだけ確認すると今度こそギルドの出口へ向かった。
黒髪が揺れ、大剣が背中でわずかに音を立てる。
短い。
本当に短い。
でも、約束は覚えていた。
僕は少し嬉しくなった。
「……約束?」
アルナさんが、横から不思議そうに聞いてきた。
「大したものじゃありませんよ。ランク1のクエストに一緒に行く約束をしましたんですよ」
「フレイヴィア様と?」
「はい」
「ランク1の?」
「はい」
アルナさんは一度、ギルドの出口を見た。
それから僕を見る。
そして、少しだけ困ったように笑った。
「……ルキウスさん、本当に色々ありますね」
「ありがとうございます!」
「褒めてないです!」
アルナさんンの絶叫がギルドに響く。それを聞いて、数人のハンターがくすくすと笑いをこぼして、それを見て、アルナさんが恥ずかしそうに「もぉ」と言葉を漏らした。
◆
その夜。
角兎亭へ戻ると、女将さんは僕の顔を見るなり何かを察したらしい。
「その顔は、受かったね」
「はい! ランク2になりました!」
「おや、本当に出世したじゃないか」
「半人前坊やから?」
「半人前と少し坊やだね」
「まだ坊やなんですね」
「一人前になったら考えてやるよ」
女将さんは豪快に笑いながら、いつもより少し多めに夕食を盛ってくれた。
たぶん、お祝いだ。
僕が礼を言うと、彼女は気にするなと手を振り、それから少しだけ真面目な顔になった。
「ランクが上がったなら、今までより気をつけな。行ける場所が増えるってのは、帰ってこられない場所も増えるってことだからね」
「はい」
「よし。なら食べな」
「はい!」
僕は食べた。
雪原で冷えた体に、温かい食事が染み込んでいく。
昼にもらった肉もおいしかったけれど、帰ってきてから食べる温かい食事は、また別の意味でおいしかった。
終わった後のご飯がおいしくなる。
フレイヴィアさんにそう言った自分の言葉を思い出して、少し笑ってしまった。
部屋に戻った後、僕は机の上にギルドカードを置いた。
ランク2。
その文字は、昨日までより少しだけ大人びて見えた。
けれど、それは僕が急に強くなった証ではない。
少し遠くへ行くことを許された代わりに、少し遠くで起きる危険にも気づかなければならない、という印なのだと思う。
僕は今日、ほとんど戦わなかった。
けれど、見た。
考えた。
戻って、報告した。
それで合格した。
たぶん今の僕に必要なのは、そういう強さなのだろう。
僕は机の端に置いた腕当てに残っていた小さな雪泥を、布で拭き取った。
今日は、怪我をしなかった。
血も出なかった。
戦わなかった。
でも、逃げたわけでもない。
見て、考えて、生きて帰ってきた。
それから、もう一つ。
ランク7の竜族は、綺麗な石を拾って、肉を分けてくれて、スノウラビに少し興味を持つ人だった。
強くて、少し怖くて、少しだけ不器用で。……そしてたぶん、優しい人だった。
僕はギルドカードをもう一度手に取り、ランク2の文字を指でなぞった。
明日から、僕はランク2のハンターだ。
行ける場所が増える。
危険も増える。
でも、今日みたいにちゃんと見て、ちゃんと考えて、ちゃんと帰ってこられるなら。
少しずつでも、あの理想に近づいていける気がした。
◆
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、ルキウスのランク2昇級試験でした。
次回からはランク2のハンターとして、ルキウスの行ける場所とできることが少しずつ広がっていきます。
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