駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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 ~前回までのあらすじ~
 前回のお話しは、ランク2になる条件を満たしていることが分かったルキウス。
 今回は、そのランク2の昇格クエストになります。


第一章 第十二話『少年は雪原で次の一歩を踏む』

 

 ◆

 

 

 雪は、音を吸う。

 

 踏み固められていない白い地面へ足を置くたび、ぎゅ、と低い音が鳴る。

 けれど、そのあとに続くはずの響きは、冷たい空気の中へすぐに消えていった。

 

 地面は白く、岩は黒い。

 遠くの木々は葉を落とし、細い枝だけを灰色の空へ伸ばしている。

 

 息を吐けば、目の前が白く濁る。

 冷気が鼻の奥へ入り込み、フードの内側では自分の呼吸だけがやけに近く聞こえた。

 

「……寒い」

 

 思わず呟く。

 

 森で暮らしていた頃にも、冬はあった。

 山の朝はそれなりに冷えたし、雪だって珍しいものではない。

 

 それでも、この雪原の寒さは少し性格が違う。

 

 身体の表面から冷えるのではなく、靴の裏や指先、耳の奥からじわじわと熱を奪われていくような寒さだった。

 

 昨日買ったばかりの厚手の手袋がなければ、今頃は指先を擦り合わせるだけで忙しかったと思う。

 

 前を歩いていたフレイヴィアさんが、振り返らないまま僅かに歩幅を緩めた。

 

 雪の白へ、夜のような黒髪と、炎を閉じ込めたような黄金の瞳がよく映える。

 強靱な尾は雪面へ触れないよう少し持ち上げられ、背中にはいつもの大剣が差されていた。

 

 竜族である彼女は、この寒さをほとんど気にしていないらしい。

 歩調も呼吸も、街にいた時と変わらなかった。

 

「動けば慣れる」

「慣れますかね」

「たぶん」

「たぶん……」

 

 断言ではなかった。

 

 でも、フレイヴィアさんがそう言うなら、たぶん慣れるのだろう。

 

 ――たぶん。

 

 今日の目的は、ランク2への昇級試験。

 

 本来は東街道外縁部で、小型モンスターの痕跡を調べる予定だった。

 けれど雪原地帯で起きている異変に人手を取られ、試験官となったフレイヴィアさんも、こちらの状況を確認する必要があるらしい。

 

 そのため試験場所は、雪原地帯第一区域の外縁部へ変更された。

 

 指定された範囲を巡回し、小型モンスターの痕跡を確認する。

 異常な痕跡があれば記録して報告し、危険だと判断すれば即座に撤退する。

 

 討伐は目的ではない。

 

 見つけること。

 考えること。

 そして、生きて帰って報告すること。

 

 それが今回の試験内容だった。

 

『フレイヴィア様が試験官だからといって、奥へ行ってよいわけではありません』

 

 出発前、アルナさんから何度も言い聞かされた。

 

『フレイヴィア様が止める前に、自分で止まってください』

 

『フレイヴィア様がいるから大丈夫、ではありませんからね』

 

 大丈夫という言葉を繰り返すたびに、猫耳が不安そうに伏せられていったことを覚えている。

 

 僕は足を止め、雪面へ残る小さなくぼみを見下ろした。

 丸い足跡が、広い間隔を空けながら奥へ続いている。

 

 ところどころに、雪を掘り返したような跡もあった。

 

「これは……スノウラビでしょうか」

 

 しゃがみ込み、足跡の形を確かめる。

 

 フレイヴィアさんは少し後ろで立ち止まり、僕が指した跡を見下ろした。

 

「だろうな」

「合っています?」

「うむ」

 

 それだけだった。

 

 理由を説明するわけでも、褒めるわけでもない。

 けれど否定されなかったということは、少なくとも間違ってはいないらしい。

 

 フレイヴィアさんは試験官だ。

 僕が見つけ、僕が考え、自分の言葉で報告しなければならない。

 

 だから、必要以上には口を挟まないのだろう。

 

 ただし、何もしてくれないわけではない。

 

 僕が雪へ足を取られそうになれば、何も言わず歩調を落とす。

 風が強く吹く場所では、自然と風上へ立ってくれる。

 

 雪の積もった岩場へ近づこうとした時には、大きな尾が僕の前へ差し出された。

 

「え」

「そちらは雪が薄い」

「あ……ありがとうございます」

「うむ」

 

 足元をよく見れば、岩と岩の間へ雪が被さっているだけだった。

 気づかず踏めば、隙間へ脚を取られていたかもしれない。

 

 言葉は短い。

 本当に短い。

 

 けれど、不親切ではなかった。

 

 僕が見落としたものも、危ない方へ行こうとしていることも、きっと全部分かっている。

 

 強くて、静かで。

 少し不器用で――ちゃんと優しい人なのだと思う。

 

「次を探します」

「うむ」

 

 僕は立ち上がり、再び白い地面へ目を凝らした。

 

 雪原での痕跡探しは、想像していたよりも難しかった。

 

 雪は足跡を残しやすい。

 だから、森の土より簡単に見つけられると思っていた。

 

 実際には、風が吹けば浅い跡は消える。

 新しく積もった雪が、古い痕跡を覆い隠すこともある。

 

 反対に、古い足跡が凍って残っている場合もあり、それがいつつけられたものなのかまで判断しなければならない。

 

 雪へ落ちた羽根。

 折れた枝に、木の幹へ残る爪痕。

 

 雪の下から顔を出した糞まで、遠くから見れば真っ白なだけの地面に、いくつもの情報が埋まっている。

 

 問題は――それを僕が読み取れるかどうかだった。

 

「これは、鳥でしょうか」

 

 雪の上へ落ちていた灰色の羽根を拾い上げる。

 手袋越しに回してみると、縁は細く、普通の鳥の羽根よりも少し硬かった。

 

 けれど、ナイフバードの硬羽根ほど鋭くはない。

 

 フレイヴィアさんは一度だけ羽根へ視線を向けた。

 

「雪羽鳥だ」

「雪羽鳥」

「小型だ」

「危険ですか?」

「近づかなければ、あまり」

「あまり……」

 

 少し怖い言い方だった。

 

 近づかなければ危険ではない。

 つまり、近づけば危険なのだろう。

 

 羽根が落ちていた場所と、周囲に残る細い足跡を確認する。

 手帳代わりの小さな板へ、方角と数、痕跡の新しさを簡単な記号で刻んだ。

 

 厚手の手袋では細かな文字を書きづらい。

 そのため、アルナさんから場所や数を記号で残す方法を教えられていた。

 

 作業をしている間、フレイヴィアさんは少し離れた場所で周囲を見渡している。

 

 試験官であり、監督役。

 そして今は、僕が気づけていない危険を見張る役でもあるのだろう。

 

 記録を終え、立ち上がろうとした時だった。

 

「……」

 

 フレイヴィアさんが、岩場の近くを見つめている。

 

「どうしました、フレイヴィアさん」

 

 声を掛けると、黄金の瞳がすぐにこちらへ戻った。

 

「いや、なんでもない」

「なんでもない……」

 

 絶対に何かを見ていた。

 

 視線の先を辿ると、黒い岩の隙間へ青白い小さな欠片が落ちている。

 雪へ半分ほど埋もれ、薄い陽射しを受けて僅かに輝いていた。

 

 足元を確かめながら近づき、それを拾い上げる。

 

「冷たい」

 

 石というより、氷を磨いたような手触りだった。

 けれど手の中で溶けることはなく、青と白が混ざった透明な欠片の内側には、細い光の筋が走っている。

 

「これ、なんですか?」

 

 フレイヴィアさんは、少しだけ答えるまでに間を置いた。

 

「雪光石の欠片だ」

「雪光石」

「鉱石と呼べる大きさなら素材になる。この程度では、一ソルにもならん」

「一ソルにも……」

 

 改めて見ると、確かに小さい。

 

 装備へ使えるようには見えないし、納品用の素材袋へ入れるほどの価値もないらしい。

 

 ただ――綺麗だった。

 

 光へ翳すと、雪の白とは違う淡い青が内側から滲み出す。

 偶然割れただけにしては形も整っており、小さな鳥の羽根のようにも見えた。

 

「では、戻しておきますね」

 

 雪の上へ置こうとすると、フレイヴィアさんの眉がほんの僅かに動いた。

 

「…………」

 

 もしかして、欲しいのだろうか。

 

 けれど、一ソルにもならないと言っていた。

 

「……いります?」

「いらん」

「では、戻しますね」

「…………」

 

 沈黙。

 

 雪原の冷たい風が、僕たちの間を通り抜けていく。

 

 僕は欠片を掌へ載せたまま待った。

 

 フレイヴィアさんは視線を逸らし――それから、何も言わずに手を差し出した。

 

「どうぞ」

 

 欠片を渡す。

 

 フレイヴィアさんは指先で軽くつまみ、外套の内側へ大切そうにしまった。

 

「一ソルにもならないんですよね?」

「ならん」

「では、なぜしまったんですか」

「……形が悪くない」

「形」

「光り方も、悪くない」

「なるほど」

 

 綺麗だから拾ったのだ。

 

 この人、綺麗なものが好きなんだ。

 

 喉元まで出かかった言葉を、どうにか飲み込む。

 昨日、防具屋で服を褒めた時の動揺を思い出したからだ。

 

 今回は言わない。

 

 僕だって、少しは学んでいる。

 

「……何だ」

「いえ。雪光石、綺麗ですね」

「うむ」

 

 フレイヴィアさんは何事もなかったように歩き始めた。

 

 いつも通り静かな横顔だった。

 けれど、先ほどよりも尾の揺れ方が少しだけ穏やかに見える。

 

 たぶん、機嫌がよい。

 

 ……本人へ伝えるのはやめておこう。

 

 ◆

 

 昼食は、三方を低い岩に囲まれた岩陰で取ることになった。

 風を避けられるうえ、周囲も見渡せる。

 

 フレイヴィアさんが迷わず選んだ場所だ。

 休む場所一つにも、きちんと理由があるらしい。

 

「ここで休む」

「はい」

 

 フレイヴィアさんが岩へ背を預け、腰を下ろす。

 僕も少し離れた場所へ座り、素材袋とは分けていた携帯食を取り出した。

 

 硬いパン。

 干し肉。

 水筒。

 

 以上。

 

「……簡素だ」

 

 でも、これも僕にとっては立派な昼食だった。

 

 雪原で食べれば硬いパンもありがたい。

 干し肉だって、噛んでいれば少しずつ味が出てくる。

 

 そう思っていた。

 

 フレイヴィアさんが、自分の保存容器を開けるまでは。

 

「…………」

 

 肉だった。

 

 厚い焼き肉。

 香草がまぶされ、表面へ綺麗な焼き目がついている。

 

 冷めているはずなのに、風へ乗って美味しそうな匂いまで届いた。

 

 量も多い。

 僕の干し肉を三つ重ねても、まだ負けると思う。

 

「…………」

 

 見てしまった。

 

 それも、かなりじっと見てしまった。

 

 肉を口へ運ぼうとしていたフレイヴィアさんの手が止まる。

 

「見るな」

「み、見ていません」

「見ている」

「……すみません。美味しそうだなと思って」

 

 フレイヴィアさんは手元の肉を見る。

 僕の硬いパンと干し肉を見る。

 

 それから、もう一度自分の肉へ視線を戻した。

 

 少しだけ考えるような間のあと、肉を二つへ割る。

 

「やる」

「え」

「食え」

「いいんですか?」

「多い」

「でも、フレイヴィアさんの分が」

「足りる」

 

 それ以上尋ねる方が、かえって失礼な気がした。

 僕は差し出された肉を両手で受け取り、深く頭を下げる。

 

「ありがとうございます!」

「礼はいい」

 

 フレイヴィアさんは顔を逸らし、自分の分を食べ始めた。

 僕も肉へかじりつく。

 

「……美味しい」

 

 とても美味しい。

 

 冷めているのに硬すぎず、噛めば香草の匂いと肉の脂が口の中へ広がる。

 冷たい雪原で食べているからか、その味が身体の芯まで染み込んでいくようだった。

 

「すごく美味しいです!」

「……そうか」

「僕の干し肉とは、全然違います」

「そうか」

 

 同じ返事だった。

 

 けれど、持ち上げられていた尾が、少しだけゆっくり揺れ始める。

 

 やはり機嫌がよい。

 

 肉を大事に食べながら、ふと気になっていたことを尋ねた。

 

「フレイヴィアさんも、ランク2の試験を受けたんですか?」

 

 肉を食べていた手が止まる。

 

「受けていない」

「え」

「余は、初めから上位ランクだった」

「初めから?」

「竜族だからな」

 

 短い説明だった。

 けれど、それだけで何となく分かった。

 

 竜族は、力と支配を象徴する最強の種族だと聞いている。

 その中でもフレイヴィアさんは、きっと特別に強い。

 

 ギルドへ登録した時点で、ランク1から順番に経験を積む必要がないと判断されたのだろう。

 

「では、スノウラビ捕獲や薬草採取も、したことがないんですか?」

「ない」

「港の荷運びは?」

「ない」

「剥ぎ取り講習は?」

「不要だった」

「不要……」

「既に知っていた」

「すごい」

 

 素直に言葉が漏れた。

 

 最初から強くて。

 必要なことも知っていて。

 最初から上位のハンター。

 

 僕とは何もかもが違う。

 

 それは、とてもすごいことだった。

 

 でも――少しだけ、もったいないとも思う。

 

「ランク1の依頼も、結構面白いですよ」

「面白い?」

 

 黄金の瞳がこちらへ向く。

 

「はい。スノウラビは可愛いですが、捕まえるのは難しいです。薬草採取も、似た草が多くて大変でした」

「うむ」

「港の荷運びは、とても重いです」

「それは、面白いのか?」

「終わったあとのご飯が、美味しくなります」

「なるほど」

 

 フレイヴィアさんは、少し納得したように頷いた。

 

 そこなのか。

 

 でも、分かってもらえたのならいい。

 

「……スノウラビは、可愛いのか」

「可愛いですよ」

「そうか」

 

 声はいつもと変わらない。

 けれど、少しだけ興味を持っているように聞こえた。

 

 僕は一度悩み――喉元まで出てきた言葉を、そのまま口にした。

 

「今度、一緒に行きますか?」

 

 言ってから、少し大胆だったかもしれないと思った。

 

 ランク7のハンターを、ランク1の依頼へ誘う。

 普通に考えれば、かなりおかしい。

 

 けれど、口から出てしまったものは戻せない。

 

 フレイヴィアさんは答えず、手元の肉をしばらく見つめていた。

 

 雪原の風が岩へぶつかり、細い音を鳴らす。

 

「……依頼にか」

「はい。ランク1の依頼ですが」

「余が?」

「……はい。嫌でしたか?」

 

 黄金の瞳が、ようやく僕へ向く。

 

「嫌ではない」

「では、今度一緒に行きましょう」

「うむ」

 

 短い返事だった。

 

 でも、嫌ではないと言った。

 つまり、行ってもいいということだ。

 

「約束ですね」

「約束か」

「はい」

「竜族は、約束を違えぬ」

「では、僕も違えません」

「うむ」

 

 フレイヴィアさんは小さく頷いた。

 

 いつも通り静かな横顔。

 けれど、ほんの少しだけ柔らかく見えた。

 

 僕は残っていた肉をもう一口食べる。

 

 やはり、美味しかった。

 

 ◆

 

 昼食を終え、試験を再開する。

 

 雪原地帯第一区域の外縁を回りながら、僕は痕跡を探し続けた。

 

 スノウラビの足跡。

 雪羽鳥の羽根。

 

 小型の爪獣が雪を掘った跡に、雪へ埋もれかけた糞。

 折れた枝や、木の幹へ残された浅い傷。

 

 見つけるたび、場所と数、新しさを確かめ、必要なものだけを記録していく。

 

 フレイヴィアさんは、ほとんど何も言わない。

 

 僕が明らかに危ない場所へ向かいそうになった時だけ、視線や尾で止める。

 痕跡が正しければ「うむ」か「だろうな」。

 

 間違っていれば、短く「違う」。

 

 それだけだった。

 

 でも、それで十分だ。

 

 僕が見なければならない。

 僕が考えなければならない。

 

 それが、僕の昇級試験なのだから。

 

「……ん?」

 

 雪が少し深くなった場所で、足を止める。

 

 そこだけ、雪面の沈み方が違っていた。

 

 大きい。

 そして、深い。

 

 小型モンスターの足跡ではない。

 

 風と新雪で縁が崩れているため、古いものだとは分かる。

 けれど、その大きさは、今まで見てきた痕跡とはまるで違っていた。

 

「……これは、違います」

 

 呟くと、後ろにいたフレイヴィアさんが近づいてくる。

 

「何がだ」

「小型ではありません。足跡が大きすぎます。それに、雪の沈み方も深いです」

「うむ」

 

 フレイヴィアさんがしゃがみ込み、手袋をした指で足跡の縁へ触れる。

 

 黄金の瞳が、僅かに鋭くなった。

 

 昼食を分けてくれた時とは違う。

 強いモンスターと戦い、数多くの依頼を終えてきたハンターの顔だった。

 

「古い」

「古いなら、大丈夫ですか?」

「今はいない」

「今は」

「うむ」

 

 今はいない。

 

 つまり――以前は、ここにいたということだ。

 

 僕のような駆け出しが、昇級試験を行う浅い区域に。

 

 足跡をもう一度見下ろす。

 

 大きい。

 とても大きい。

 

 これを残したモンスターが今、目の前へ現れたら、僕には何もできない。

 

 戦えるか。

 勝てるか。

 

 そんな話ではなかった。

 

 見つけてはいけない相手を見つけてしまった時、どうやって逃げるか。

 

 そういう相手だ。

 

「覚えておけ」

「はい」

「戻って報告する」

「試験は?」

「続ける」

 

 短い答えだった。

 

 試験を続けるということは、今すぐ危険が迫っているわけではない。

 けれど、必ず報告しなければならない痕跡なのだろう。

 

 場所。

 方角。

 

 足跡の向きと数。

 古さや、雪の沈み方。

 

 できるだけ細かく板へ記録していく。

 

 手袋の中で、指が少し硬くなっていた。

 寒さだけが原因ではない。

 

 雪原異常。

 

 アルナさんから聞いた言葉が、急に現実のものとして目の前へ現れた気がした。

 

 ◆

 

 帰路の途中、低い茂みの奥で何かが動いた。

 

 足を止める。

 フレイヴィアさんも止まった。

 

 けれど何も言わず、僕の判断を待っている。

 

 茂みの陰から顔を出したのは、灰色の毛並みをした小型モンスターだった。

 身体を低くし、短い牙を見せながら、こちらを警戒している。

 

 一匹。

 

 いや、二匹。

 

 奥にもう一匹いる。

 さらに雪の下には、小さな穴がいくつも開いていた。

 

 巣が近い。

 

 そう思った瞬間、手が剣の柄へ伸びかけた。

 

 けれど――抜かなかった。

 

 フレイヴィアさんは何も言わない。

 僕が何を選ぶのか、ただ見ている。

 

 三匹だけなら、もしかすると倒せるかもしれない。

 

 新しい腕当てもある。

 フレイヴィアさんも近くにいる。

 

 危なくなれば、止めてくれるだろう。

 

 ――でも、それは僕の力ではない。

 

 それに、見えている三匹だけとは限らない。

 巣が近いなら、奥からもっと出てくる可能性がある。

 

 今は、こちらを威嚇しているだけだ。

 剣を抜けば、向こうも僕たちを敵だと判断するかもしれない。

 

 今回の目的は、討伐ではない。

 

 見つけること。

 判断すること。

 

 そして、戻ること。

 

 僕は剣の柄から手を離し、足元の氷混じりの雪を拾った。

 

 モンスターたちから少し離れた茂みへ投げる。

 

 ぱさ、と小さな音がした。

 

 三匹の視線が、同時にそちらへ向く。

 

 僕は背中を見せず、急な動きもしないまま、ゆっくりと後ろへ下がった。

 

 一歩。

 

 もう一歩。

 

 少しずつ距離を取る。

 

 モンスターたちは追ってこない。

 身体を低くしたまま、こちらを見ているだけだった。

 

 やはり、僕たちを追い払いたかったのだ。

 巣へ近づいたから、警戒していた。

 

 十分に離れたところで、ようやく息を吐く。

 

 手袋の中が、少し汗ばんでいた。

 身体は寒いのに、掌だけが熱い。

 

「なぜ、戦わなかった」

 

 フレイヴィアさんが尋ねる。

 

「必要がないと思ったからです」

 

 自分でも確かめるように答える。

 

「巣が近そうでした。それに、あの三匹と戦えば、奥からもっと出てくるかもしれないと思って」

「うむ」

「……合っていますか?」

「悪くない」

 

「……褒められた」

 

 思わず、声へ出していた。

 

「悪くないと言った」

「褒められました」

「……そうか」

 

 フレイヴィアさんは、少し困ったように視線を逸らした。

 

 たぶん、そこまで褒めたつもりはなかったのだろう。

 

 それでも、僕には十分だった。

 

 悪くない。

 

 フレイヴィアさんがそう言ってくれた。

 それだけで、先ほどまで身体へ残っていた緊張が、少しだけほどけていった。

 

 ◆

 

 ギルドへ戻る頃には、身体の芯まで冷えていた。

 

 雪原を歩いている間は、まだよかった。

 けれど街へ近づき、風が弱くなると、かえって自分がどれだけ冷えていたのかが分かってくる。

 

 重たい扉を開けた途端、暖かな空気と騒がしさが一気に押し寄せてきた。

 

 木の床を踏む音。

 人々の声。

 

 革と鉄に、酒と焼いた肉……いくつもの匂いが混ざり合い、帰ってきたのだと教えてくれる。

 

 受付には、アルナさんがいた。

 

 僕たちを見つけるなり書類から顔を上げ、受付台の外まで歩いてくる。

 

「おかえりなさい」

「はい! ただいま戻りました!」

 

 アルナさんの視線が、すぐに僕の全身を確認する。

 

 顔。

 腕。

 

 脇腹から、足元。

 

 どこにも血がついていないことを確かめると、栗色の猫耳が僅かに緩んだ。

 

「怪我は?」

「ありません!」

「血は?」

「出ていません!」

「……よかったです」

 

 胸へ手を当て、小さく息を吐く。

 

 その隣で、フレイヴィアさんが短く告げた。

 

「合格でよい」

「……もうですか?」

 

 アルナさんが目を瞬かせる。

 

「うむ」

 

 それだけだった。

 

 けれど、アルナさんはすぐに仕事の表情へ戻り、受付台の上へ紙と筆記具を用意した。

 

「では、ルキウスさん。現地で確認した内容を報告してください」

「はい!」

 

 背筋を伸ばし、雪原で見たものを順番に伝える。

 

 スノウラビの足跡。

 雪羽鳥の羽根。

 

 小型爪獣が雪を掘った跡。

 巣の近くで三匹の小型モンスターと遭遇し、討伐せず距離を取ったこと。

 

 そして――第一区域外縁部で見つけた、大型らしき古い足跡。

 

 場所。

 方角。

 

 足跡の向き。

 古さと、雪の沈み方。

 

 アルナさんは一つずつ真剣に書き留めていく。

 

 大型の痕跡について話し始めた時、栗色の猫耳が僅かに伏せられ、筆を持つ指へ力が入った。

 

「フレイヴィア様」

 

 確認するように顔を上げる。

 

「大型の痕跡だ。古いが、浅い」

「浅い区域にまで来ていた、ということですね」

「うむ」

 

 短いやり取りだけで、アルナさんの表情がさらに硬くなる。

 

 やはり、普通ではないらしい。

 

 古い。

 だから、今はいない。

 

 でも――確かに、そこにいた。

 

 その違いが、妙に怖かった。

 

「報告ありがとうございます。こちらは、すぐに支部内で共有します」

 

 書類をまとめ、奥にいた職員へ渡す。

 続いて取り出された別の紙には、試験結果と書かれていた。

 

「ルキウスさん」

「はい」

「改めて、昇級試験の結果をお伝えします」

 

 無意識に息を止める。

 

 フレイヴィアさんからは、もう合格でよいと言われている。

 それでも、アルナさんの口から正式に聞くまでは、まだ実感がなかった。

 

「合格です」

 

「……っ」

 

「おめでとうございます、ルキウスさん。本日より、あなたはハンターランク2です」

 

 胸の奥で、何かが大きく跳ねた。

 

「ありがとうございます!」

 

 外套からギルドカードを取り出し、アルナさんへ渡す。

 

 カードは受付奥の小さな器具へ通され、表面を淡い光が走った。

 

 返されたカードには、昨日までとは違う文字が刻まれている。

 

 ランク2。

 

「ランク2……」

 

 小さなカードのはずなのに、以前より少しだけ重くなった気がした。

 

「受けられる依頼も、行ける場所も増えます」

「はい」

「ですが、その分だけ危険も増えます」

「はい」

「今日できた判断を、次もしてください」

 

 アルナさんは一度言葉を切り、僕の目をまっすぐ見つめる。

 

「フレイヴィア様が、いない時にも」

「……はい」

 

 思わず背筋が伸びた。

 

 今日、落ち着いて考えることができたのは、フレイヴィアさんがそばにいたからでもある。

 

 もし危険なことが起きても、この人ならどうにかしてくれる。

 そんな安心感は、確かにあった。

 

 けれど次も、フレイヴィアさんが一緒とは限らない。

 

 一人でも見て。

 考えて。

 

 戻ると決めなければならない。

 

 ランク2になるということは、きっとそういうことなのだ。

 

 フレイヴィアさんが、僕のカードへ一度だけ視線を落とす。

 

「ルキウス」

「はい」

「悪くなかった」

「ありがとうございます!」

 

 フレイヴィアさんは短く頷き、踵を返した。

 

 けれど、数歩進んだところで思い出したように足を止める。

 

「約束」

「え?」

「ランク1の依頼」

「あ、はい! 行きましょう!」

「うむ」

 

 それだけ確認すると、今度こそギルドの出口へ向かっていった。

 

 黒髪が揺れ、背中の大剣が小さく音を立てる。

 

 短い。

 本当に短い。

 

 でも、約束を覚えていてくれた。

 

「……約束?」

 

 横から、アルナさんの不思議そうな声がした。

 

「大したことではありませんよ。ランク1の依頼に、一緒に行く約束をしたんです」

「フレイヴィア様と?」

「はい」

「ランク1の依頼へ?」

「はい」

 

 アルナさんは一度、ギルドの出口を見る。

 それから僕へ視線を戻し、少しだけ困ったように笑った。

 

「……ルキウスさん、本当にいろいろありますね」

「ありがとうございます!」

「褒めていません!」

 

 アルナさんの声が、大広間へ響いた。

 

 近くにいたハンターたちが、小さく笑い声を漏らす。

 それに気づいたアルナさんは、猫耳を伏せながら「もぉ……」と頬を膨らませた。

 

 ◆

 

 その夜。

 

 角兎亭へ戻ると、女将さんは僕の姿を見るなり片方の眉を持ち上げた。

 

「その様子じゃ、受かったね」

「はい! ランク2になりました!」

「おや、本当に出世したじゃないか」

「半人前坊やから、卒業ですか?」

「半人前と少し坊やだね」

「まだ坊やなんですね」

「一人前になったら考えてやるよ」

 

 女将さんは豪快に笑い、いつもより少し多めに夕食を盛ってくれた。

 

 角兎肉と豆の煮込み。

 焼いた黒パンに、炙った野菜。

 

 それから、普段より厚く切られた肉まで載っている。

 

「多くないですか?」

「祝いだよ。たんと食べな」

「ありがとうございます」

 

 席へ座ろうとすると、女将さんの表情が少しだけ真面目になった。

 

「ランクが上がったなら、今までより気をつけな」

「はい」

「行ける場所が増えるってのは、帰ってこられない場所も増えるってことだからね」

 

 今日見た、大きな足跡が頭へ浮かぶ。

 

「……はい」

「よし。なら、食べな」

「はい!」

 

 温かい煮込みを口へ運ぶ。

 

 冷え切っていた身体へ、肉と豆の熱がゆっくり染み込んでいく。

 昼にフレイヴィアさんからもらった肉も美味しかった。

 

 けれど、帰ってきた場所で食べる温かな食事は、また別の意味で美味しい。

 

 ――仕事を終えたあとのご飯は、美味しくなる。

 

 昼に自分で言った言葉を思い出し、少しだけ笑ってしまった。

 

 食事を終え、二階の部屋へ戻る。

 

 机の上へ、ギルドカードを置いた。

 

 ランク2。

 

 刻まれた文字は、昨日までより少しだけ大人びて見える。

 

 でも、僕が急に強くなった証ではない。

 

 少し遠くへ行くことを許された代わりに。

 少し遠くで起きる危険へ、自分で気づかなければならない。

 

 これはきっと、そのための印だ。

 

 今日は、ほとんど戦わなかった。

 

 剣も抜かなかった。

 モンスターを一匹も倒していない。

 

 それでも、見た。

 考えた。

 

 戻って、報告した。

 

 その結果として、合格した。

 

 今の僕に必要なのは、きっとこういう強さなのだろう。

 

 机の端へ置いた腕当てには、小さな雪泥が残っていた。

 布で丁寧に拭き取る。

 

 今日は怪我をしなかった。

 血も出なかった。

 

 戦わなかった。

 

 ――でも、逃げたわけでもない。

 

 見て。

 考えて。

 

 生きて帰ってきた。

 

「……よし」

 

 綺麗になった腕当てを置き、ギルドカードを手に取る。

 

 もう一つ、今日知ったこともある。

 

 ランク7の竜族は、綺麗な石を拾う。

 美味しい肉を分けてくれて、スノウラビに少し興味を持つ。

 

 強くて。

 少し怖くて。

 

 少し不器用で――たぶん、優しい人だった。

 

 カードへ刻まれたランク2の文字を、指先でゆっくりとなぞる。

 

 明日から、僕はランク2のハンターだ。

 

 行ける場所が増える。

 危険も増える。

 

 それでも今日のように、きちんと見て。

 きちんと考えて。

 

 きちんと帰ってくることができるのなら。

 

 少しずつでも――胸に抱いた理想へ、近づいていける気がした。

 

 





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