駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
朝の石畳を歩きながら、外套の内側へ何度も手が伸びそうになったている数字だけが違っていた。
「ランク2……」
小さく口にしただけで、頬が緩む。
昨日、僕は昇級試験を受けた。
雪原を歩き、痕跡を探し、大型らしき足跡を見つけた。
小型モンスターの群れとは戦わずに距離を取り、ギルドへ戻って見たものを報告した。
剣は一度も抜かなかった。
それでも、合格した。
「もう一回くらい、見ても……」
外套へ入れかけた手を止める。
道の真ん中で何度もギルドカードを眺めるフード姿の少年。
かなり怪しい。
顔を隠している分、怪しい行動は避けるようにとガルドさんにも教わっている。
「ギルドに着いてからにしよう」
今日は、まだ受ける依頼を決めていない。
ランクが上がったからといって、いきなり難しい依頼へ挑むつもりもなかった。
まずは掲示板を見て、アルナさんへ相談し、今の僕でも安全にこなせそうなものを選ぶ。
堅実で。
慎重で。
アルナさんにも怒られない。
「完璧ですね」
昨日、フレイヴィアさんと交わした約束も覚えている。
ランク1の依頼へ、一緒に行く約束。
けれど僕の中では、それは「また今度」の話だった。
近いうちに。
お互いの予定が合う日に。
そのうち時間を決めて――そんな、少し先の話。
少なくとも、昨日の今日だとは思っていなかった。
◆
ギルドの重たい扉をくぐると、朝の喧騒に混じって、妙なざわめきが耳へ入った。
革と鉄、汗と酒。それから酒場で焼かれている肉……いくつもの匂いが漂う大広間で、ハンターたちの視線が一か所へ集まっている。
その先にあるのは、ランク1の依頼掲示板だった。
薬草採取。
荷物の運搬。
小型モンスターの捕獲に、簡単な素材回収。
僕にも見覚えのある依頼が並ぶ、新人向けの掲示板。
その正面へ――フレイヴィアさんが立っていた。
夜のような黒髪に、黄金の瞳。
首元に覗く黒い竜鱗と、強靱な尾。
背中には、身の丈ほどもある大剣。
どう見ても、ランク1の掲示板へ馴染む姿ではない。
「……フレイヴィア様が、ランク1の依頼を見てるぞ」
「何かあったのか?」
「依頼書が怒らせたんじゃないか?」
近くのハンターたちが、小声で囁き合っている。
依頼書は何もしていない。
たぶん。
フレイヴィアさんは周囲の視線を気にする様子もなく、一枚ずつ依頼書を手に取っていた。
端から端まで読み、元へ戻しては、次の一枚へ手を伸ばす。
表情は、いつもと変わらない。
けれど姿勢が妙に真剣だった。
「何を探しているんだろう……」
ランク7のハンターが、ランク1の掲示板で。
不思議に思いながら近づくと、フレイヴィアさんがこちらへ気づいた。
黄金の瞳が掲示板から離れ、真っすぐ僕へ向けられる。
「おはようございます、フレイヴィアさん」
「来たか」
「はい。今、来ました」
「それで、どれにする」
「……どれ?」
思わず首を傾げる。
フレイヴィアさんは、当然のように依頼掲示板を指している。
けれど、僕には何の話か分からなかった。
「ええと……どれ、というのは?」
「依頼だ」
「依頼」
「うむ」
「僕のですか?」
「主と余の、だ」
僕と、フレイヴィアさんの。
ますます分からない。
ランク1の依頼掲示板には、薬草採取や荷運び、小型モンスターの捕獲依頼が並んでいる。
僕には馴染みのあるものばかりだ。
でも、フレイヴィアさんと一緒に選ぶ理由が思い浮かばない。
「誰か新人の方へ、依頼を選んでいるとか?」
「違う」
「監督を頼まれたんですか?」
「違う」
「掲示板の安全確認……」
「なぜ、そうなる」
フレイヴィアさんの眉が、ほんの少しだけ寄った。
まずい。
かなり間違えているらしい。
黄金の瞳が、じっと僕を見つめる。
そのまま僅かに細められ、低い声が落ちてきた。
「主は、忘れたのか」
「忘れた?」
「昨日、約束しただろう」
約束。
その言葉で、雪原での会話が一気に蘇った。
『ランク1の依頼も、結構面白いですよ』
『今度、一緒に行きますか?』
『嫌ではない』
『では、約束ですね』
『竜族は、約束を違えぬ』
「……あ」
思い出した。
確かに約束した。
完全にしている。
「思い出したか」
「はい。ランク1の依頼へ、一緒に行く約束ですよね」
「うむ」
フレイヴィアさんが、手にしていた依頼書を胸元まで持ち上げる。
そこには、スノウラビ二匹の生体捕獲と書かれていた。
昨日、僕が面白いと話した依頼だ。
フレイヴィアさんは会話を覚えていて、朝から依頼を選び、僕が来るのを待っていたらしい。
そう気づくと、胸が少し温かくなる。
けれど――それ以上に驚きが勝った。
「えっと、フレイヴィアさん」
「何だ」
「今日、行くんですか?」
「今日だ」
迷いのない答えだった。
「約束した」
「しました」
「竜族は約束を違えぬ」
「はい」
「主も違えぬと言った」
「言いました」
「ならば、行くのだろう」
正しい。
ものすごく正しい。
けれど、まさか昨日の今日だとは思っていなかった。
「…………」
返事へ詰まった、その一瞬。
フレイヴィアさんの黄金の瞳が、すっと細くなった。
依頼書の端が、指先の中で小さく鳴る。
「……主」
「はい」
「まさか、反故にするつもりか」
「違います!」
思ったよりも大きな声が出た。
慌てて両手を横へ振ると、遠巻きにこちらを見ていたハンターたちが、揃って肩を揺らした。
受付の方からも、アルナさんの視線を感じる。
でも、今はそれどころではない。
「約束をなかったことにするつもりはありません。本当にありません」
「ならば、なぜ黙った」
「驚いただけです」
「なぜ、主が驚く」
「僕の言った『今度』は、もう少し先の意味だったので……」
敵意はない。
約束を破る気もない。
どうか大剣は抜かないでほしい。
いや、フレイヴィアさんは剣へ手を伸ばしていない。
伸ばしていないけれど、迫力があるので念のためだ。
「近いうちにとか、お互いの予定が合う時にとか。そういう意味で言ったんです」
「……すぐに、とは言っていないな」
「はい」
「今日とも言っていない」
「はい」
「今度、と言った」
「はい」
フレイヴィアさんの尾が、ゆっくりと下がった。
黄金の瞳も、ほんの僅かに伏せられる。
手にしている依頼書の端が、力なく揺れた。
「……そうか」
落ち込んでいる。
たぶん、かなり。
本人は隠しているつもりかもしれない。
でも、昨日の雪光石を見つめていた時と同じで、よく見れば分かる程度には表へ出ていた。
「あ、いや! 行かないという意味ではありません!」
一歩前へ出る。
フレイヴィアさんは、伏せた視線だけをこちらへ戻した。
「無理はよい」
「無理ではありません。本当に」
「だが、主は今日だと思っていなかったのだろう」
「それは、そうですけど……」
「ならば、後日で構わぬ」
フレイヴィアさんは依頼書を掲示板へ戻そうとした。
その動きは、いつもより僅かに遅かった。
「行きます!」
反射的に声が出る。
依頼書を戻しかけた手が止まった。
「今日、行きましょう。僕もフレイヴィアさんと依頼へ行きたいです」
「……よいのか」
「はい。びっくりしただけです。約束したのは本当ですから」
「そうか」
「はい」
「……そうか」
同じ言葉だった。
けれど二度目は、少しだけ軽い。
下がっていた尾が元の高さへ戻り、伏せられていた黄金の瞳も、いつものように僕を見下ろした。
「では、受ける」
「はい!」
フレイヴィアさんが、依頼書をしっかりと握り直す。
そこへ、受付台からアルナさんが歩いてきた。
「おはようございます、ルキウスさん。フレイヴィア様」
「おはようございます」
「うむ」
アルナさんは僕とフレイヴィアさんを見比べ、最後に依頼書へ視線を止めた。
栗色の猫耳が、ぴんと立つ。
「ランク1の依頼を受けるのですか?」
「はい」
「フレイヴィア様も?」
「うむ」
声が少しだけ裏返っていた。
フレイヴィアさんは、自分がこの掲示板の前にいることの異常さを理解していないらしい。
不思議そうに首を傾げる。
「余では不服か」
「い、いえ。依頼条件はランク1以上ですから、制度上は何も問題ありません」
アルナさんは慌てて依頼書を確かめる。
ランク1以上。
つまり、ランク7でも受けられる。
間違ってはいない。
ただし、かなり珍しい。
「その……こうした依頼を、フレイヴィア様が受けることは滅多にありませんので」
「そうか」
「はい。とても」
「……そうか」
フレイヴィアさんが、少し居心地悪そうに視線を逸らした。
その指先が、外套の内側へ一度だけ触れる。
昨日、雪原で拾った雪光石の欠片をしまった辺りだ。
一ソルにもならないと言いながら、形と光り方が悪くないと持ち帰ったもの。
まだ持っているのかもしれない。
強くて。
静かで。
少し口下手で。
綺麗なものが好きで、約束にはとても真面目な人。
「では、受注処理を行いますね」
アルナさんが依頼書を受付へ運ぶ。
受注者の欄へ僕の名前を書き、その横で筆先が一度だけ止まった。
続いて書かれた名前は、フレイヴィア・ヴォルグラート。
ランク1の捕獲依頼へ、エルドラン支部最高位の名前が並んでいる。
やはり少しおかしい。
「あのフレイヴィア様が、スノウラビ捕獲……」
「歴史的な日かもしれないな」
「スノウラビは相手が誰か分かってるのか?」
分かっていないと思う。
スノウラビは、たぶん何も悪くない。
「今回の目的は、生きたスノウラビ二匹の捕獲です」
周囲の囁きを聞かなかったことにして、アルナさんが説明を始める。
「討伐ではありません。依頼主は傷の少ない個体を求めていますので、力任せに押さえ込まないでください」
「はい」
「うむ」
フレイヴィアさんも、僕と同じように真剣な顔で頷く。
「逃げ道を予測し、袋や網へ追い込むのが基本です。毛皮を傷つければ報酬が下がります」
「分かりました」
「分かっている」
アルナさんは受注印を押すと、今度は僕へ向き直った。
「それから、ルキウスさん」
「はい」
「昨日ランク2へ上がったばかりですので、もう一度確認します」
依頼書へ置いた指先が、軽く紙を叩く。
「ランク3以上の大型モンスター討伐は、同ランクのハンター四人で受けることを前提に難易度が設定されています」
「四人で、ですか?」
「はい。ランク3の大型なら、基本はランク3のハンター四人。ランク4なら、ランク4が四人です」
ランク1の捕獲依頼と、大型討伐の依頼。
紙の形は似ていても、中身はまるで違う。
アルナさんの指先から、そう言われている気がした。
「装備や相性、経験によって変わることはあります。上位の方が同行する場合もありますが、大型は一人で気軽に挑む相手ではありません」
「……はい」
「昨日見つけた足跡も、そうした相手のものかもしれません」
アルナさんの視線が、隣のフレイヴィアさんへ一瞬だけ向く。
「フレイヴィア様がそばにいると、危険への感覚が狂うかもしれません。ですが、今のルキウスさんが一人でどうにかできる相手ではありませんからね」
「はい。分かりました」
「本当に?」
「本当に本当です」
アルナさんの目が細くなる。
これまでの僕の行動を考えれば、その反応は正しい。
非常に正しい。
「今度こそ、無茶はしません」
胸元で拳を握る。
アルナさんは僕をしばらく見たあと、今度はフレイヴィアさんへ向き直った。
「フレイヴィア様も、よろしくお願いいたします」
「分かっている」
短い返事。
けれど依頼書を持つ手つきは、少しだけ真剣だった。
ランク1の依頼。
スノウラビの捕獲。
昨日の約束。
フレイヴィアさんは、思っていた以上に本気で来てくれていたらしい。
◆
準備は、ほとんど僕が行った。
捕獲用の布袋に、小型の網。
細い縄と、餌に使う甘い根菜。
ギルドの貸出棚から必要な道具を選び、破れや傷みがないかを一つずつ確認していく。
フレイヴィアさんは、その横でじっと手元を見ていた。
「それで捕るのか」
「はい。スノウラビは逃げ足が速いので、追い回すよりも、逃げ道を考えた方が捕まえやすいです」
布袋の縫い目へ指を走らせ、口を閉じる紐が引っかからないか確かめる。
「逃げ道」
「逃げたい方向を見て、そこへ先回りする感じです」
「……なるほど」
フレイヴィアさんが、小さく頷く。
大剣を背負ったランク7の竜族が、小さな捕獲網を真剣に見つめている。
少し面白い光景だった。
「網は余が持つか」
「ありがとうございます。でも、今日は僕が捕獲します」
「なぜだ」
「僕の練習にもなりますから」
フレイヴィアさんは、網へ伸ばしかけた手を静かに引いた。
「そうか」
「手を借りたい時には、お願いします」
「分かった」
強引に道具を取ることも、自分のやり方を押しつけることもない。
僕の方法を、きちんと見ようとしてくれている。
それが分かると、自然と背筋が伸びた。
「ルキウスさん」
受付から、アルナさんがこちらへ身を乗り出す。
「今日は、フレイヴィア様に振り回されないでくださいね」
「僕がですか?」
「はい」
「普通は逆では?」
「どちらも不安です」
どちらも。
胸へ少しだけ痛みを覚えた。
信頼への道は、まだ遠い。
◆
渓流地帯第一区域には、湿った土と青い葉、それに冷たい水の匂いが満ちていた。
木漏れ日が揺れるたび、苔の生えた岩と浅い流れの上で、白い光が細かく弾ける。
雪原の白さとは違う。
木々の緑。
流れる水の音。
草を踏んだ時の柔らかな感触。
森で育った僕には、やはりこちらの方が馴染み深かった。
「ここ、僕の初依頼の場所なんです」
隣を歩くフレイヴィアさんへ声を掛ける。
「血まみれの」
「それ、どこまで広まっているんですか」
「アルナが言っていた」
「アルナさん……」
心の中で抗議する。
実際に血と泥で汚れて帰ったのは僕なので、間違いではない。
でも、広めないでほしい。
フレイヴィアさんの口元が、僅かに緩んだように見えた。
笑ったというほどではない。
けれど、からかわれていることは分かった。
珍しい。
昨日より、ほんの少しだけ距離が近くなった気がした。
「まずは痕跡を探します」
照れ隠しも兼ねて、足元へ視線を落とす。
柔らかな土には、小さなくぼみが一定の間隔で並んでいた。
その近くでは、草の先端だけが綺麗に噛み取られている。
「スノウラビは跳ねて移動するので、足跡の間隔が広いんです」
「これか」
「はい。それから、この草の食べ跡ですね。柔らかいところだけ食べています」
「選ぶのか」
「美味しい部分が分かるんでしょうね。贅沢です」
「贅沢だな」
「かわいいですよね」
「……そうか」
まだ、かわいいという部分には納得していないらしい。
けれど興味はあるようで、フレイヴィアさんは足跡と食べ跡を交互に確かめ、周囲の草むらへ視線を巡らせていた。
観察する目は、やはり鋭い。
ただ、捕獲の手順については、本当に知らないようだった。
あのフレイヴィアさんにも、知らないことがある。
それが少し新鮮だった。
◆
昼食は、少し早めに取ることにした。
渓流地帯は水場が多い。
乾いた場所を見つけられるうちに休んだ方がいい。
そう伝えると、フレイヴィアさんはすぐに周囲を見回し、太い倒木のそばへ向かった。
背後には大きな木。
足元は乾いていて、川の音を聞きながらも周囲の気配を確かめやすい。
「ここでよい」
「はい」
雪原でも思ったけれど、フレイヴィアさんは休む場所を選ぶのが上手い。
説明は少ない。
でも、選んだ場所には必ず理由がある。
倒木へ腰を下ろし、素材袋から昼食を取り出す。
硬いパン。
干し肉。
水筒。
「…………」
簡素だ。
昨日とほとんど変わらない。
ランク2になったからといって、食事まで急に豪華にはならないらしい。
パンを割ろうとしたところで、隣から香草と焼いた肉の匂いが流れてきた。
見ない方がいい。
そう思いながら、少しだけ横を見る。
肉だった。
また、肉だった。
厚く切られ、表面へ綺麗な焼き目のついた肉。
冷めているはずなのに、香草と脂の匂いだけで腹が鳴りそうになる。
僕は自分のパンを見る。
硬い。
フレイヴィアさんの肉を見る。
美味しそう。
パンを見る。
やはり硬い。
「……」
「……」
視線が合った。
「また見ている」
「見ていません」
「見ている」
「すみません」
すぐに謝った。
昨日と同じ流れである。
フレイヴィアさんは、自分の肉と僕のパンを見比べる。
それから何も言わずに、肉を二つへ分けた。
「やる」
「でも、昨日もいただきました」
「多い」
「ですが」
「食え」
「はい。ありがとうございます」
断れなかった。
というより、本気で断る気がなかったのかもしれない。
受け取った肉へかじりつく。
香草の香りと肉の脂が口いっぱいへ広がり、歩き疲れた身体へ力が戻ってくる。
「すごく美味しいです」
「……そうか」
「フレイヴィアさんは、いつもこういう肉を持ってきているんですか?」
「たまにだ」
「たまに」
「今日は、二人分だ」
肉を持ったまま、顔を上げる。
フレイヴィアさんは、こちらを見ていなかった。
大きな尾の先が、倒木の向こうで僅かに揺れている。
「昨日、見ていたからな」
「それって、僕の分を――」
「余っただけだ」
「ありがとうございます」
「余っただけだ」
「はい」
二度言われた。
大切なことらしい。
昨日、僕が昼食の肉を見ていたから。
今日は最初から、多めに持ってきてくれたのだと思う。
追及はしない。
雪光石の時と同じで、こういうことは言いすぎない方がいい。
少しは学んでいる。
「そういえば、昨日の雪光石はまだ持っているんですか?」
「……持っている」
「やっぱり」
「何だ」
「綺麗でしたからね」
「うむ」
フレイヴィアさんが、外套の内側へ指先で触れる。
そこに入っているのだろう。
一ソルにもならない、小さな青白い欠片。
形と光り方が悪くないもの。
ランク7の竜族は、綺麗な石を拾う。
僕の分まで肉を持ってきてくれて、スノウラビを見るために、ランク1の依頼へ来てくれる。
その事実が、少しおかしくて――少しだけ嬉しかった。
◆
スノウラビは、草むらの奥で柔らかな葉を食べていた。
白く丸い身体に、ぴこぴこと動く長い耳。
短い前脚で草を押さえ、もぐもぐと口を動かしている。
何度見ても、かわいい。
「いました」
声を潜めて伝える。
フレイヴィアさんも僕の隣から草むらを覗いた。
しばらく何も言わず、スノウラビを見つめている。
小さな口が動くたび、フレイヴィアさんの尾の先も僅かに動いた。
「……小さいな」
「はい」
「丸い」
「はい」
「……動いている」
「生きていますからね」
「うむ」
気づいた。
でも、言わない。
僕はもう、少しだけ学んでいる。
「まず、逃げ道を見ます」
草むらの位置。
近くの倒木。
風向きと、足元の草の高さを順番に確認する。
「あの倒木の向こうへ逃げやすいと思います。僕は反対側から回ります」
「余は」
「そこへ立っていてください」
「待つだけか」
「はい」
「……分かった」
少しだけ物足りなさそうだった。
けれど、フレイヴィアさんは指定した場所へ移動し、静かに待ってくれる。
大剣を背負ったランク7の竜族が、スノウラビ一匹のために、草むらの横で息を潜めている。
少し面白い。
でも本人は真剣だ。
僕も真面目にやらなければならない。
甘い根菜を草の近くへ置き、風下から布袋を広げる。
スノウラビの耳が動く。
鼻先が、細かく揺れる。
根菜の匂いに気づき、警戒しながら近づいてきた。
「…………」
前脚が僅かに浮く。
逃げる準備だ。
焦らず、息を殺す。
スノウラビの視線と、逃げ道だけを見る。
驚けば、倒木の方へ逃げる。
けれど、そこにはフレイヴィアさんがいる。
白い身体が、僅かに迷った。
――今だ。
「よしっ」
地面を蹴り、布袋を広げて飛び込む。
白い身体が、ふわりと袋へ包まれた。
中でもふもふと暴れる感触を腕へ受けながら、袋の口を閉じる。
必要以上に締めつけないよう縄で固定し、身体へ抱え込んだ。
「捕まえました!」
膝には少し泥がついた。
けれど、血は出ていない。
大進歩である。
「どうでした?」
「悪くない」
「褒められた」
「悪くないと言った」
「褒められました」
「……そうか」
フレイヴィアさんは少し困ったように視線を逸らした。
もう何度か繰り返したやり取りなので、こちらも少し慣れてきた。
袋の中で、スノウラビがまた動く。
フレイヴィアさんの黄金の瞳が、その動きを追いかけた。
「触ってみますか?」
「……よいのか」
「噛まれないように気をつければ」
「うむ」
大剣を扱う手が、慎重に伸ばされる。
袋の口から覗く白い背中へ、指先がそっと触れた。
ほんの一瞬。
けれど、触れた途端、黄金の瞳が僅かに見開かれた。
「……柔らかい」
「かわいいですよね」
「……うむ」
認めた。
スノウラビはかわいい。
フレイヴィアさんも、その事実を理解したらしい。
◆
二匹目の捕獲は、少しだけ難航した。
一匹目の手順を見たことで、フレイヴィアさんも試してみたくなったらしい。
「余もやる」
「分かりました。では、お願いします」
草むらの奥へいる二匹目へ向かい、フレイヴィアさんが静かに歩き始める。
足音は小さい。
動きも滑らかだった。
ただし――進み方が真っすぐすぎる。
スノウラビの耳が、ぴんと立った。
次の瞬間、白い身体が草むらの奥へ跳ねていく。
「……なぜだ」
フレイヴィアさんが、その場へ立ち尽くした。
本気で分からないらしい。
その姿が少しおかしくて、笑いそうになる口元を手で隠す。
「近づき方が真っすぐすぎたんだと思います」
「真っすぐ」
「はい。スノウラビからすると、自分のところへ来ているのが分かりやすいので」
「難しいな」
「難しいです」
逃げた方向を見つめるフレイヴィアさんの肩が、僅かに落ちている。
「余は、捕獲に向かぬのか」
「そんなことはありません。やり方を知らないだけです」
「知らない」
「僕も最初は失敗して、顔から泥へ突っ込みました」
「……そうか」
「そうです」
フレイヴィアさんは少しの間、黙り込んだ。
落ち込んでいるというより、知らなかったことを頭の中で並べ直しているような沈黙だった。
強い人にも、知らないことがある。
昨日に続き、また同じことを思う。
「次は、一緒にやりましょう」
「うむ」
「フレイヴィアさんは追いかけずに、逃げ道の先へ立ってください」
「壁か」
「優しい壁です」
「優しい壁」
「怖がらせすぎず、でもそちらには行きづらいと思わせる壁です」
「……難しい」
「僕も、言っていて難しいと思います」
かなり曖昧な説明だった。
けれど、フレイヴィアさんは真剣に頷く。
「分かった」
そこからの動きは、さすがだった。
前へ出すぎない。
近づきすぎない。
スノウラビの逃げ道の先へ、ただ静かに立つ。
そこへ行けば逃げられる。
でも、何となく近づきたくない。
そんな位置を、一度の説明だけで正確に選んでいた。
僕は根菜を置き、音を立てすぎないよう草を揺らす。
スノウラビが跳ねる。
フレイヴィアさんのいる方向を避ける。
その先へ――僕が布袋を広げた。
「できました!」
袋の中で、二匹目がもふもふと暴れる。
慌てて口を閉じ、締めすぎないよう縄を結ぶ。
「フレイヴィアさんのおかげです」
「余は立っていただけだ」
「その立ち方が大事だったんです」
「……そうか」
短い返事。
けれど、少しだけ嬉しそうだった。
力で押し切らず。
役割を理解し、二人で一匹を捕まえた。
フレイヴィアさんにとって、それは新鮮なことだったのかもしれない。
僕も嬉しかった。
ランク7の竜族へ、ランク1の依頼で教えられることがある。
昨日までは、そんなことがあるとは思ってもいなかった。
◆
帰り道は、捕らえたスノウラビを入れた袋を一つずつ持って歩いた。
二つとも持とうとしたけれど、フレイヴィアさんが無言で片方を取ってしまった。
「僕が持ちますよ」
「重いだろう」
「そこまででは」
「持つ」
「……ありがとうございます」
「うむ」
言葉は短い。
でも、優しい。
そのことが、少しずつ分かるようになってきた。
木々の間を流れる水音へ耳を傾けながら歩く。
フレイヴィアさんは、袋の中で動くスノウラビを時々見ていた。
気になるらしい。
でも、何も言わない。
「どうでした? ランク1の依頼」
「……思ったより、考える」
「そうですよね」
「倒せば終わるわけではない」
「今回は捕獲ですから」
「難しい」
「でも、面白かったですか?」
すぐには答えが返ってこなかった。
木漏れ日が黒髪へ落ち、黄金の瞳が少し細められる。
「……うむ」
「よかった」
思わず笑みが漏れた。
正確には「面白かった」と言ったわけではない。
でも、たぶんそういう意味だ。
しばらく歩いたあと、フレイヴィアさんが小さく口を開いた。
「また、行くか」
「はい!」
「うむ」
約束が、もう一つ増えた。
◆
ギルドへ戻ると、大広間がやはり少しざわついた。
ランク1の依頼を受けたフレイヴィアさんが、本当にスノウラビを捕まえて帰ってきた。
しかも、本人が袋を一つ持っている。
周囲からすれば、かなり不思議な光景なのだろう。
アルナさんも、僕たちを見るなり目を瞬かせた。
「本当に行ってきたんですね」
「はい! 二匹捕まえました!」
「フレイヴィア様も、お疲れさまでした」
「うむ」
アルナさんは袋の中を確認し、スノウラビの状態を一匹ずつ調べていく。
毛皮に目立った傷はない。
暴れすぎて弱っている様子もなかった。
「はい。二匹とも問題ありません。満額での達成です」
「やった」
小さく拳を握る。
フレイヴィアさんは、袋の中のスノウラビを一度だけ見た。
アルナさんもそれへ気づいたのか、僅かに口元を緩める。
「フレイヴィア様は、いかがでしたか?」
「難しい」
「ランク1の依頼が、ですか?」
「うむ」
「……そうですか」
アルナさんは、どこか嬉しそうに頷いた。
フレイヴィアさんは少しだけ視線を逸らし、それから付け加える。
「だが、悪くなかった」
「それは、よかったです」
周囲から、また小さなざわめきが広がる。
「あのフレイヴィア様が、ランク1で悪くなかったって……」
「いったい何があったんだ?」
「スノウラビ、何者なんだよ」
スノウラビは、ただのスノウラビである。
たぶん。
依頼書へ完了印が押され、報酬の入った革袋を受け取る。
硬貨の重みを手に感じながら、今日のことを思い返した。
ランク2になった翌日に、僕はランク1の依頼へ向かった。
普通なら、後ろへ戻ったように感じるのかもしれない。
けれど、そんなことはなかった。
逃げ道を読む。
餌を置く場所を考える。
自分が追うのか、誰かに立ってもらうのか。
ただ壁になるだけでも、その位置によって結果が変わる。
どれも、きちんと依頼を終わらせるために必要なことだった。
そして――強い人にも、知らないことがある。
弱い僕にも、知っていることがある。
それは何だか不思議で、少しだけ嬉しい発見だった。
「ルキウス」
報酬袋をしまっていると、フレイヴィアさんから名前を呼ばれた。
「はい」
「次も、頼む」
次も。
少し驚いたあと、すぐに頷く。
「はい。次も一緒に行きましょう」
「うむ」
短い返事。
それだけだった。
でも、僕には十分だった。
今日のランク1依頼は、これで終わりだ。
けれど、僕とフレイヴィアさんの約束は――まだ続いている。
そう思うと、明日が少しだけ楽しみになった。
◆
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、ランク2になったルキウスが、フレイヴィアと一緒にランク1のクエストへ向かう回でした。
次回からは、ランク2になったことでルキウスの行動範囲も少しずつ広がっていきます。
ただし、行ける場所が増えるということは、危険な場所も増えるということで……。
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