駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆010
ランク2になった翌日。
僕は角兎亭を出て、いつものようにギルドへ向かっていた。
昨日、僕は昇級試験を受けた。
雪原地帯を歩き、痕跡を探し、大型らしき足跡を見つけ、小型モンスターとは戦わずに距離を取った。
そして、戻って、報告して、合格した。
今、僕のギルドカードにはランク2と刻まれている。
それが少し嬉しくて、歩いている途中で何度も取り出して見そうになった。
けれど、さすがに道の真ん中で何度もカードを眺めているのは怪しい気がしたので我慢した。
今日の予定は、まだ決めていない。
ランク2になったばかりだから、いきなり無茶をするつもりはない。
まずはギルドで依頼を見て、アルナさんに相談して、今の自分でも受けられそうなものを選ぶ。
堅実で、安全で、アルナさんに怒られなさそうな流れ。
完璧だ。
昨日、フレイヴィアさんとした約束も覚えている。
ランク1のクエストに、一緒に行く約束。
けれど、僕の中ではそれは「また今度」のつもりだった。
近いうちに。
都合が合えば。
お互いに時間がある時に。
そんな、少し先の話。
少なくとも、昨日の今日だとは思っていなかった。
◆
ギルドに入ると、空気が少しおかしかった。
最近、ギルドの空気がおかしいこと自体には慣れてきたつもりだった。
僕が血まみれで帰ってきた時もおかしかったし、フレイヴィアさんが現れた時もおかしかった。
昨日、フレイヴィアさんが僕の試験官になると言った時も、かなりおかしかった。
けれど、今日のおかしさは少し種類が違った。
ざわつきの中心が、ランク1の依頼掲示板だったからだ。
低ランクの新人たちが依頼書を選ぶための掲示板。
採取、運搬、小型モンスターの捕獲、簡単な素材回収。
そういった依頼が並ぶ場所。
その前に、フレイヴィアさんが立っていた。
夜を写したみたいな黒髪。
黄金の瞳。
首元に見える龍鱗。
大きな尻尾。
背中に差された、身の丈ほどの大剣。
どう見ても、ランク1依頼掲示板の前にいるべき存在感ではない。
周囲のハンターたちは、遠巻きにその様子を見ていた。
誰も近づかないのに、誰も見ないふりもできないらしい。
フレイヴィアさんは掲示板の前に立ち、何枚かの依頼書を静かに見比べている。
「……フレイヴィア様が、ランク1掲示板を見てるぞ」
「何かあったのか?」
「依頼書が失礼なことでもしたのか?」
依頼書はたぶん何もしていない。
していないはずだ。
フレイヴィアさんは、手に取った依頼書を端から端まで読んでは戻し、また別の依頼書を見るという動きを繰り返していた。
表情はいつも通り大きく変わらない。
けれど、姿勢が妙に真剣だった。
その横顔を見て、僕は少しだけ足を止めた。
もしかして、何か探しているのだろうか。
ランク1の依頼掲示板で。
ランク7のフレイヴィアさんが。
いや、何を?
そう思いながら近づくと、フレイヴィアさんはこちらに気づき、掲示板から視線を外した。
「おはようございます、フレイヴィアさん」
「来たか」
「? はい」
「それで、どれにするんだ」
僕は思わず首を傾げた。
どれ。
どれ、とは。
何の話だろう。
フレイヴィアさんは当たり前のように依頼掲示板を指している。
その仕草に迷いはない。
けれど、僕の方には心当たりがなかった。
「えっと……どれ、というのは」
「依頼だ」
「依頼」
「うむ」
「僕の、ですか?」
「主と余の、だ」
主と余の。
ますます分からなくなった。
僕はもう一度、ランク1の依頼掲示板を見る。
そこには薬草採取、荷運び、素材回収、小型モンスターの捕獲依頼などが並んでいる。
どれも見覚えのある依頼だ。
けれど、フレイヴィアさんと一緒に選ぶ理由が分からない。
「あの、フレイヴィアさん」
「何だ」
「もしかして、誰かの依頼を代わりに選んでいるとか」
「違う」
「では、新人さんの監督とか」
「違う」
「……ランク1掲示板の安全確認?」
「なぜそうなる」
フレイヴィアさんの眉が、ほんの少しだけ寄った。
まずい。
何かを間違えている。
かなり間違えている気がする。
フレイヴィアさんは僕をじっと見た。
黄金の瞳が、まっすぐこちらを射抜いてくる。
「主は、忘れたのか」
「忘れた?」
「昨日、約束しただろう」
約束。
その言葉を聞いた瞬間、昨日の雪原での会話が、頭の中に戻ってきた。
ランク1のクエストも結構面白いですよ。
今度、一緒に行きますか。
嫌ではない。
約束ですね。
竜族は約束を違えぬ。
たしかに、約束した。
した。
完全にした。
でも、僕は「今度」のつもりだった。
近いうちにとか、都合が合えばとか、そういう少し先の話だと思っていた。
フレイヴィアさんは、どうやら違ったらしい。
「……あ」
思わず声が漏れた。
フレイヴィアさんの尻尾が、ゆっくりと揺れる。
怒っている、というほど大きな動きではない。
けれど、明らかに機嫌が傾いている。
「思い出したか」
「はい。思い出しました。ランク1のクエストに一緒に行く約束、ですよね」
「うむ」
「それで、依頼を選んでいたんですね」
「うむ」
フレイヴィアさんは手にしていた依頼書を胸元の高さまで持ち上げた。
そこには、スノウラビ二匹の捕獲、と書かれている。
昨日、僕が面白いと言った種類の依頼だった。
フレイヴィアさんは昨日の会話を覚えていて、それでこの依頼を選んで、僕が来るのを待っていたのだ。
そう理解した瞬間、少し嬉しくなった。
でも、それ以上に驚きが勝ってしまった。
「えっと、フレイヴィアさん」
「何だ」
「今日、ですか?」
「今日だ」
フレイヴィアさんは当然のように頷いた。
「約束した」
「しました」
「竜族は約束を違えぬ」
「はい」
「主も違えぬと言った」
「言いました」
「では、行くのだろう」
正論だった。
とても正論だった。
けれど、僕はそこで返事に詰まってしまった。
まさか昨日の今日だとは思っていなかったからだ。
その一瞬の沈黙を、フレイヴィアさんは別の意味に受け取ったらしい。
黄金の瞳が、すっと細くなる。
手にしていた依頼書の端が、指先の中で小さく音を立てた。
「……主」
「はい」
「まさか、反故にするつもりか」
「違います!」
思ったより声が出た。必死に手を横に振る。
周囲でこちらを見ていたハンターたちが、少しだけ肩を揺らす。
アルナさんも受付の向こうからこちらを見た気がした。
けれど、今はそれどころではない。
「違います。約束をなかったことにするつもりはありません。本当にありません」
「ならば、なぜ黙った」
「びっくりしたんです」
「なぜ、主が驚く」
「それは、その……今度って、もう少し先のことだと思っていて」
「先」
「近いうちに、とか。都合が合う時に、とか。そういう意味で」
言いながら、僕は両手を軽く上げた。
敵意はありません。
約束を破る気もありません。
どうか剣は抜かないでください。
いや、フレイヴィアさんは別に剣へ手を伸ばしていない。
伸ばしていないけれど、迫力があるので念のためだ。
「まさか、昨日の今日で行くとは思っていなかったんです」
僕がそう言うと、フレイヴィアさんは少しだけ動きを止めた。
それから、何かを思い出すように目を伏せる。
昨日の会話を、頭の中で確かめているのだろう。
「……すぐに、とは言っていないな」
「はい」
「今日、とも言っていない」
「はい」
「今度、と言った」
「はい」
フレイヴィアさんの尻尾が、さっきより少しだけ下がった。
黄金の瞳も、ほんのわずかに伏せられる。
手にしていた依頼書の端が、今度は力なく揺れた。
「……そうか」
落ち込んでいる。
たぶん、かなり。
しかも、本人は隠しているつもりなのかもしれない。
でも、昨日の雪光石の欠片を見ていた時と同じで、よく見れば分かるくらいにはちゃんと出ている。
僕は慌てて一歩前に出た。
「あ、いや! 行かないって意味じゃないです!」
フレイヴィアさんは、伏せていた視線だけをこちらへ戻す。
「無理はよい」
「無理じゃないです! 本当に!」
「だが、主は今日とは思っていなかったのだろう」
「それは、そうなんですけど」
「ならば、また後日でよい」
フレイヴィアさんは、そう言って依頼書を掲示板へ戻そうとした。
その動作が、いつもより少しだけ遅い。
僕は反射的に声を出した。
「行きます!」
フレイヴィアさんの手が止まる。
「今日、行きます。行きましょう」
「……よいのか」
「はい。びっくりしただけです。約束したのは本当ですし、僕もフレイヴィアさんと行きたいです」
「そうか」
「はい!」
「……そうか」
同じ言葉だった。
けれど、二度目の「そうか」は、さっきより少しだけ軽かった。
下がっていた尻尾が少し戻り、伏せられていた黄金の瞳もいつもの高さへ戻る。
フレイヴィアさんは依頼書を掲示板から外し、今度はしっかりと手に持った。
「では、受ける」
「はい!」
そのやり取りを少し離れた場所で見ていたアルナさんが、受付からこちらへ歩いてきた。
彼女は僕とフレイヴィアさんを交互に見て、それから依頼書を見る。
猫耳が、ぴんと立った。
「おはようございます、ルキウスさん。フレイヴィア様」
「おはようございます、アルナさん」
「うむ」
アルナさんは受付嬢としての笑顔を保とうとしていた。
けれど、視線はどうしても依頼書に引き寄せられている。
受け取る前から、そこに何が書かれているのかを確認してしまうあたり、職業柄なのだろう。
「ら、ランク1のクエストを受けるんですか」
「あぁ」
「フレイヴィア様が?」
アルナさんの声が、少しだけ裏返った。
フレイヴィアさんは、特に怒った様子もなく首を傾げる。
自分がランク1掲示板の前にいることの異常さを、あまり分かっていないのかもしれない。
「余では不服か?」
「い、いえ。条件自体はランク1以上、というだけなので、もちろん大丈夫なのですが」
アルナさんは慌てて依頼書の条件欄を確認した。
制度上は問題ない。
依頼の条件はランク1以上。
つまり、ランク7のフレイヴィアさんが受けても何の違反でもない。
ないのだけれど。
「ただ、その、かなり珍しいことではあります」
「そうか」
「はい。とても」
「……そうか」
フレイヴィアさんは、少しだけ居心地が悪そうに視線を逸らした。
その指先が外套の内側へ触れる。
昨日、雪原で拾った雪光石の欠片を入れた辺りだった。
僕はそれに気づいた。
あの青白い小さな欠片。
一ソルにもならないと言いながら、形と光り方が悪くないと言ってポケットに入れたもの。
もしかすると、まだ持っているのかもしれない。
そう思うと、ランク1掲示板の前で居心地悪そうにしているフレイヴィアさんが、少しだけ昨日の雪原で見た人と繋がった気がした。
強くて、静かで、口下手で。
綺麗なものが好きで。
約束に真面目な人。
僕がそんなことを考えている間に、アルナさんは依頼書をカウンターへ持っていき、受注処理の準備を始めた。
「では、正式に受注手続きを行いますね。依頼は、スノウラビ二匹の捕獲でよろしいですか?」
「はい!」
「うむ」
アルナさんはカウンターへ戻り、依頼書を受け取った。
受注者欄に僕の名前を書いた後、その筆先が一瞬だけ止まる。
そこへ、もう一つの名前が並んだ。
フレイヴィア・ヴォルグラート。
ランク1依頼の書類に、その名前がある。
見ているだけで、少しおかしい。
周囲のハンターたちも同じことを思っているのか、ざわつきが小さく広がっていた。
アルナさんは咳払いを一つして、依頼内容の説明に戻る。
「あのフレイヴィア様が、スノウラビ捕獲……」
「歴史的瞬間じゃないか?」
「スノウラビ、分かってるのか。相手がフレイヴィア様だぞ」
スノウラビは分かっていないと思う。
たぶん。
「今回の目的は捕獲です。討伐ではありません。依頼主は生きた個体を求めていますので、できる限り傷をつけずに捕獲してください」
アルナさんは説明しながら、僕とフレイヴィアさんの両方を見た。
僕は頷く。
フレイヴィアさんも、真面目に頷いた。
ランク1依頼なのに、説明を聞く姿勢が妙にまっすぐだ。
「毛皮が傷んでいると報酬が下がります。無理に押さえ込むより、逃げ道を読んで袋に入れるのが基本ですね」
「はい」
「うむ」
アルナさんは依頼書に受注印を押すと、今度は僕の方へ視線を向けた。
さっきまでの戸惑い混じりの表情から、受付嬢としての真面目な顔に戻っている。
「それから、ルキウスさん」
「はい」
「昨日ランク2になったばかりなので、念のためもう一度言っておきます。ランクが上がると、受けられる依頼の幅は広がります。ですが、ランク3以上の大型モンスター討伐は、同じランクのハンター四人で受けることを想定された難易度です」
「四人で、ですか?」
「はい。ランク3の大型なら、ランク3のハンター四人。ランク4の大型なら、ランク4のハンター四人。それくらいが基本の想定です」
アルナさんは、カウンターに置かれた依頼票を指で軽く叩いた。
ランク1の捕獲依頼と、大型モンスターの討伐依頼。
紙の形は似ているのに、中身はまったく違うのだと、その仕草だけで言われている気がした。
「もちろん、実際には装備や相性、経験で変わります。上位ハンターが同行することもあります。ですが、大型は単独で気軽に挑むものとして作られていません」
「……はい」
「昨日見つけた大型らしき足跡も、そういう相手のものかもしれません。フレイヴィア様がそばにいると感覚が狂うかもしれませんが、ルキウスさんが一人でどうにかできる相手ではありません」
「はい。分かりました」
「本当に?」
「本当に本当です」
アルナさんは、少しだけ疑わしそうに目を細めた。
まあ、これまでの僕の行動を考えると、その目は正しい。
とても正しい。
僕は胸の前で小さく拳を握り、今度こそ本当に無茶はしないと心の中で頷いた。
アルナさんは、僕の様子を少しだけ見つめた後、今度はフレイヴィアさんの方へ視線を向けた。
相手がランク7であっても、依頼を受ける以上は確認する。
それも受付の仕事なのだろう。
「フレイヴィア様も、よろしくお願いいたします」
「分かっている」
フレイヴィアさんは短く言った。
いつも通り、口数は少ない。
でも、依頼書を持つ手つきは少しだけ真剣だった。
ランク1依頼。
スノウラビ捕獲。
昨日の約束。
どうやらフレイヴィアさんは、かなり本気で来てくれていたらしい。
◆
準備は、ほとんど僕がした。
捕獲用の布袋。
小型の網。
細い縄。
餌に使う甘い根菜。
それらをギルドの貸出棚から選び、状態を確認して素材袋に詰めていく。
フレイヴィアさんは、その横でじっと見ていた。
ただ見ているだけなのに、見方が妙に真剣だった。
昨日の雪原で、僕が痕跡を探していた時と同じように、余計なことは言わない。
でも、ちゃんと聞いている。
「それで捕るのか」
「はい。スノウラビは逃げ足が速いので、追いかけるより逃げ道を考えた方がいいんです」
僕は布袋を広げ、破れがないかを確かめた。
縫い目を指でなぞり、口を閉じる紐がきちんと動くことを確認する。
前に血まみれで帰ってきた僕でも、こういう準備くらいは少しずつ覚えてきた。
「逃げ道」
「はい。逃げたい方向を見て、そこに先回りする感じです」
「……なるほど」
フレイヴィアさんは小さく頷いた。
視線は布袋と網を行き来している。
大剣を背負ったランク7の竜族が、小型の捕獲網をまじまじと見ている光景は、やっぱり少し面白い。
「網は余が持つか」
「ありがとうございます。でも、今日は僕が捕獲します」
「なぜだ」
「僕の練習にもなるので」
「そうか」
フレイヴィアさんは、手に取りかけていた網から静かに手を離した。
強引に持つでもなく、口を挟むでもなく、ちゃんと僕のやり方を見ようとしてくれている。
そう分かると、少しだけ背筋が伸びた。
「フレイヴィアさんには、手伝ってほしいところでお願いします」
「分かった」
返事は短い。
でも、どこか少しだけ張り切っているように見えた。
フレイヴィアさんが張り切る。
そう思うと少し不思議だった。
いや、昨日の雪光石の欠片や、昼食の肉や、スノウラビの話を思い出せば、全然ない話ではないのかもしれない。
「ルキウスさん」
アルナさんが、受付から少しだけ身を乗り出して声をかけてきた。
「はい」
「今日は、フレイヴィア様に振り回されないでくださいね」
「僕がですか?」
「はい」
「普通、逆では?」
「どちらも不安です」
どちらも不安らしい。
僕は少しだけ胸に手を当てた。
信頼への道は、まだまだ遠い。
◆
渓流地帯第一区域。
そこは、僕にとって初依頼の場所だった。
雪原の白とは違う。
木々の緑。
土の匂い。
流れる水の音。
湿った空気。
森で育った僕には、やはりこちらの方が馴染みがある。
けれど、馴染みがあるからといって油断していい場所ではない。
ここで僕は初めてスノウラビを捕まえた。
そして、剥ぎ取り方を知らずに血まみれで帰った。
今思い出しても、なかなかひどい。
「ここ、僕の初依頼の場所なんです」
僕がそう言うと、隣を歩くフレイヴィアさんが周囲を見ながら頷いた。
「血まみれの」
「それ、どこまで広まってるんですか」
「アルナが言っていた」
「アルナさん……」
僕は心の中でアルナさんに抗議した。
いや、実際に血まみれで帰ったのは僕なので、完全に間違いではない。
でも、広めないでほしい。
フレイヴィアさんは少しだけ口元を緩めたように見えた。
笑った、というほどではない。
けれど、からかっているのは分かった。
珍しい。
昨日より、少しだけ距離が近い気がする。
僕は照れ隠しも兼ねて、足元の草へ視線を落とした。
「まず、痕跡を探します」
「うむ」
僕は草の倒れ方を確認しながら、柔らかい土の上を指さした。
雪原の足跡とは違って見えにくいけれど、よく見れば草の倒れ方や土のへこみ方で分かる。
「スノウラビは足跡が分かりやすいです。跳ねるので、間隔がこういう感じで広くなります」
「これか」
「はい。あと、この草の食べ跡。柔らかいところだけ食べてます」
「選ぶのか」
「たぶん。おいしいところだけ食べてます」
「贅沢だな」
「かわいいですよね」
「……そうか」
まだ、かわいいには少し納得していないらしい。
でも、興味はありそうだった。
フレイヴィアさんは足跡を見て、食べ跡を見て、それから周囲の草むらへ視線を移した。
ランク1のクエストをやったことがないと言っていたけれど、観察する目はやはり鋭い。
ただ、捕獲の手順に関しては、まだよく分かっていないようだった。
そこが少しだけ新鮮だった。
あのフレイヴィアさんにも、知らないことがある。
◆
昼食は、少し早めに取ることになった。
スノウラビを見つける前に腹が鳴るのは格好がつかないし、渓流地帯は水場が多い。
休める場所を選べるうちに休んだ方がいい。
そう言うと、フレイヴィアさんは短く頷き、近くにあった倒木のそばへ向かった。
そこは背後に太い木があり、足元も比較的乾いている。
川の音は聞こえるけれど、周囲の気配も分かりやすい場所だった。
昨日の雪原でも思ったけれど、フレイヴィアさんは休む場所を選ぶのがうまい。
説明は少ない。
でも、選ぶ場所にちゃんと理由がある。
「ここでよい」
「はい」
僕はその場所へ腰を下ろし、素材袋から携帯食を取り出した。
硬いパン。
干し肉。
水筒。
以上。
とても簡素だ。
昨日とあまり変わらない。
ランク2になったからといって、昼食が急に豪華になるわけではないのだ。
そう思いながらパンを割っていると、隣でフレイヴィアさんが保存容器を開けた。
肉だった。
また、肉だった。
分厚い肉。
香草がまぶされ、しっかり焼かれていて、冷めているはずなのに匂いだけでお腹が鳴りそうな肉。
昨日も見た。
そして、昨日ももらった。
つまり、見てはいけない。
僕は自分のパンを見る。
硬い。
フレイヴィアさんの肉を見る。
おいしそう。
パンを見る。
硬い。
肉を見る。
ものすごくおいしそう。
駄目だ。
視線が勝手に持っていかれる。
「……」
「……」
「また見ている」
「見てません」
「見ている」
「すみません」
僕はすぐに謝った。
昨日と同じ流れである。
フレイヴィアさんは自分の肉を見て、僕の硬いパンを見た。
それから何も言わずに、肉を半分に割る。
「やる」
「え、でも昨日ももらいましたし」
「多い」
「でも」
「食え」
「はい。ありがとうございます!」
拒否できなかった。
いや、本気で拒否する気がなかったのかもしれない。
僕は差し出された肉を受け取り、一口食べた。
やっぱり、うまい。
渓流地帯の湿った空気の中で食べる肉は、雪原で食べた時とはまた違うおいしさがあった。
昨日は寒さの中で体に染みる味だったけれど、今日は歩き疲れた体に力が戻る味だった。
僕が感動していると、フレイヴィアさんは自分の分を食べながら、こちらを横目で見ていた。
「すごくおいしいです」
「……そうか」
「フレイヴィアさん、いつもこんなにおいしいものを持ってきてるんですか?」
「たまにだ」
「たまに」
「今日は、二人分だ」
「え」
僕は肉を持ったまま、思わず顔を上げた。
フレイヴィアさんは、視線を逸らしている。
大きな尻尾の先が、倒木の向こうでほんの少しだけ揺れた。
「昨日、見ていたからな」
「えっと、それって」
「余っただけだ」
「ありがとうございます」
「余っただけだ」
「はい」
二回言われた。
大事なことらしい。
僕はそれ以上は追及しなかった。
昨日の雪光石の欠片と同じで、こういう時は言いすぎない方がいい。
ただ、フレイヴィアさんは今日、最初から僕に分けるつもりで多めに持ってきてくれていたのだと思う。
そう思うと、肉はさらにおいしかった。
僕がもう一口食べていると、ふと昨日の雪原で見た青白い欠片のことを思い出した。
あれも彼女らしいというか、意外というか、まだ少し印象に残っている。
「そういえば、昨日の雪光石の欠片、まだ持ってるんですか?」
僕が何気なく聞くと、フレイヴィアさんの手が一瞬だけ止まった。
「……持っている」
「やっぱり」
「何だ」
「いえ。綺麗でしたもんね」
「うむ」
フレイヴィアさんは短く頷いた。
それ以上は言わない。
けれど、外套の内側に一度だけ指先が触れる。
そこにあるのだろう。
雪原で拾った、小さな青白い欠片。
一ソルにもならないけれど、形と光り方が悪くないもの。
僕はそれを思い出しながら、肉をもう一口食べた。
ランク7の竜族は、綺麗な石を拾って、肉を多めに持ってきてくれて、スノウラビを見にランク1の依頼へ来る人だった。
その事実が、なんだか少し面白くて、少しだけ嬉しかった。
◆
スノウラビは、草むらの奥にいた。
白くて丸い体。
ぴこぴこと動く長い耳。
短い前足で草を押さえながら、もぐもぐと柔らかい葉を食べている。
何度見ても、かわいい。
「いました」
僕は小声で言った。
フレイヴィアさんも、隣で草むらの奥を見る。
しばらく黙っていた。
スノウラビが草をもぐもぐ食べるたび、彼女の尻尾の先がほんの少しだけ動く。
「……小さいな」
「はい」
「丸い」
「はい」
「……動いている」
「生きてますからね」
「うむ」
僕は気づいた。
でも、言わなかった。
少しは学んでいる。
昨日の雪光石といい、今日の肉といい、この人は分かりやすいところと分かりにくいところが変なふうに混ざっている。
まず、正面から行くと逃げられる。
だから、逃げ道を見る。
僕はスノウラビのいる草むら、近くの倒木、風向き、足元の草の高さを順番に確認した。
「まず、正面から行くと逃げられるので、逃げ道を見ます」
「うむ」
「あの倒木の向こうに逃げやすそうなので、僕はこっちから回ります」
「余は」
「そこで待っていてください」
「待つだけか」
「はい」
「……分かった」
フレイヴィアさんは、少しだけ物足りなさそうだった。
けれど、ちゃんと頷いて指定した位置へ向かう。
大剣を背負ったランク7の竜族が、スノウラビ一匹のために草むらの横で静かに待つ。
それだけで、少し面白い絵だった。
でも、本人は真剣だ。
僕も真剣にやらなければいけない。
僕は甘い根菜を草の近くに置き、風向きを確かめ、布袋を広げた。
スノウラビは警戒しながらも、根菜の匂いに反応して少しずつ近づいてくる。
耳が動く。
鼻が動く。
足が少し浮く。
逃げる準備をしている。
僕は焦らず、息を殺し、逃げ道を見た。
倒木の方へ逃げる。
でも、そこにはフレイヴィアさんがいる。
スノウラビは迷う。
その一瞬。
僕は飛び込んだ。
「よしっ」
布袋が、白い体をふわりと包む。
中でスノウラビがもふっと動いたけれど、すぐに縄で軽く口を閉じ、暴れすぎないように抱え込む。
捕獲成功。
少しだけ膝に泥がついた。
でも、血まみれではない。
大進歩である。
「捕まえました!」
「うむ」
「どうでした?」
「悪くない」
「褒められた」
「悪くないと言った」
「褒められました」
「……そうか」
フレイヴィアさんは少しだけ困ったように視線を逸らした。
もう何度かやったやり取りなので、少し慣れてきた気がする。
袋の中で、スノウラビがまたもふっと動いた。
フレイヴィアさんが、それをじっと見る。
「触ってみますか?」
「……よいのか」
「噛まれないように気をつければ」
「うむ」
フレイヴィアさんは、少しだけ慎重に指を伸ばした。
あの大剣を扱う手が、スノウラビの背中にそっと触れる。
ほんの一瞬。
けれど、触れた瞬間、フレイヴィアさんの目が少しだけ変わった。
「……柔らかい」
「かわいいですよね」
「……うむ」
認めた。
スノウラビはかわいい。
フレイヴィアさんも、たぶん少しだけ理解した。
◆
二匹目は、少し難航した。
一匹目を捕まえたことで、フレイヴィアさんは捕獲の流れを見ていた。
それ自体はよかった。
問題は、少しだけ自分でもやってみたくなったらしいことだった。
「余もやる」
「え」
「見ていた」
「じゃあ、お願いします」
フレイヴィアさんは頷き、草むらの奥にいる二匹目のスノウラビへ向かった。
慎重に近づいている。
少なくとも、本人はそうしているつもりなのだと思う。
足音は小さい。
動きも滑らか。
ただ、進み方がまっすぐだった。
スノウラビは耳をぴんと立てる。
次の瞬間、白い体が草むらの奥へ跳ねた。
「……なぜだ」
フレイヴィアさんは、少しだけ立ち尽くした。
たぶん、本気で分からないらしい。その事実がおかしくて、少しだけ笑ってしまう。
「近づき方がまっすぐすぎたんだと思います」
「まっすぐ」
「はい。スノウラビからすると、こっちに来てるのが分かりやすいので」
「難しいな」
「難しいです」
フレイヴィアさんは、逃げていったスノウラビの方をしばらく見ていた。
表情は変わらない。
けれど、少しだけ肩が落ちているように見えた。
「余は、捕獲に向かぬのか」
「そんなことないです。やり方を知らないだけです」
「知らない」
「はい。僕も最初は顔から泥に突っ込みました」
「……そうか」
「そうです」
フレイヴィアさんは少し考えるように黙った。
その沈黙は、落ち込んでいるというより、知らないことを頭の中で並べ替えているような沈黙だった。
強い人にも、知らないことがある。
昨日も思ったことを、また思う。
「次は、一緒にやりましょう」
「うむ」
「フレイヴィアさんは、追うんじゃなくて、逃げ道をふさぐ場所に立ってください」
「壁か」
「優しい壁です」
「優しい壁」
「怖がらせすぎず、でもそっちには行きづらいな、くらいの壁です」
「難しい」
「難しいです。でもたぶんできます」
フレイヴィアさんは少しだけ眉を寄せた。
優しい壁。
自分で言っておいて何だが、かなり曖昧な指示だった。
けれど、フレイヴィアさんは真面目に頷いた。
「分かった」
それからの動きは、さすがだった。
前に出すぎない。
近づきすぎない。
スノウラビの逃げ道の先に、ただ静かに立つ。
そこへ行けば逃げられるはずなのに、何となく行きづらい。
そんな位置に、フレイヴィアさんが立っている。
僕は根菜を置き、音を立てすぎないように草を揺らし、スノウラビの進路を少しずつ誘導した。
スノウラビが逃げる。
フレイヴィアさんのいる方向を避ける。
そこを、僕が捕まえる。
「できました!」
二匹目のスノウラビが袋の中でもふもふと暴れる。
僕は慌てて袋の口を閉じ、必要以上に締めすぎないように縄を結んだ。
その間、フレイヴィアさんは自分の立っていた場所と、スノウラビが逃げた方向を見比べていた。
「フレイヴィアさんのおかげです」
「余は立っていただけだ」
「立ち方が大事でした」
「……そうか」
フレイヴィアさんは短くそう言った。
けれど、少しだけ嬉しそうだった。
自分の力で押し切ったのではなく、役割を理解して、捕獲に繋げた。
それが新鮮だったのかもしれない。
僕も嬉しかった。
ランク7の竜族に、ランク1の捕獲依頼で教えられることがあったのだ。
そんなことがあるとは、昨日まで思っていなかった。
◆
帰り道。
二匹のスノウラビを入れた袋を、一つずつ持って渓流地帯を歩いた。
僕が二つとも持とうとすると、フレイヴィアさんが無言で片方を取った。
「僕が持ちますよ」
「重いだろう」
「そこまででは」
「持つ」
「ありがとうございます」
「うむ」
短い言葉。
でも、優しい。
それが少しずつ分かってきた。
水音を聞きながら歩いていると、フレイヴィアさんが袋の中で動くスノウラビを一度だけ見た。
たぶん、気になっている。
でも、何も言わない。
「どうでした? ランク1クエスト」
僕が聞くと、フレイヴィアさんは少し間を置いた。
「……思ったより、考える」
「ですよね」
「倒せば終わるわけではない」
「はい。今回は捕獲ですから」
「難しい」
「でも、面白かったですか?」
フレイヴィアさんはすぐには答えなかった。
歩きながら、少しだけ視線を前へ向ける。
木漏れ日が黒髪に落ち、黄金の瞳が細くなる。
「……うむ」
「よかった」
僕は思わず笑った。
フレイヴィアさんがランク1クエストを面白いと言った。
正確には、うむ、と言っただけだけれど。
でも、たぶんそういう意味だ。
しばらく歩いた後、フレイヴィアさんがぽつりと言った。
「また、行くか」
「はい!」
「うむ」
約束が、もう一つ増えた。
◆
ギルドへ戻ると、やはり少しざわついた。
ランク1依頼を受けたフレイヴィアさんが、本当にランク1依頼から帰ってきた。
しかも、スノウラビの入った袋を持っている。
周囲からすれば、かなり不思議な光景だったと思う。
受付にいたアルナさんも、僕たちを見るなり目を瞬かせた。
それから、いつものようにすぐ受付嬢の顔に戻る。
「本当に行ってきたんですね」
「はい! 二匹捕まえました!」
「フレイヴィア様も……お疲れ様です」
「うむ」
アルナさんは袋の中を確認し、スノウラビの状態を見た。
毛皮に目立った傷はない。
暴れすぎた様子もない。
捕獲状態としては、問題ないらしい。
「はい。問題ありません。満額です」
「やった」
僕が小さく拳を握ると、フレイヴィアさんが袋の中のスノウラビを一度だけ見た。
アルナさんはそれに気づいたのか、少しだけ口元を緩める。
「フレイヴィア様は、いかがでしたか?」
「難しい」
「ランク1クエストが、ですか?」
「うむ」
「……そうですか」
アルナさんは、どこか嬉しそうに頷いた。
フレイヴィアさんは少しだけ視線を逸らし、それから短く付け足す。
「でも、悪くなかった」
「それは良かったです」
周囲のハンターたちが、また小さくざわつく。
「あのフレイヴィア様が、ランク1で悪くなかったって……」
「何があったんだ……」
「スノウラビ、何者だよ……」
スノウラビは、ただのスノウラビである。
たぶん。
アルナさんは依頼書に完了印を押し、報酬を用意してくれた。
僕は報酬を受け取りながら、今日一日のことを思い返す。
ランク2になった翌日に、僕はランク1のクエストへ行った。
普通なら、少し戻ったように感じるのかもしれない。
けれど、今日の僕にはそうは思えなかった。
スノウラビの逃げ道を読むことも、餌を置く位置を考えることも、ただ立つだけの場所を選ぶことも、全部ちゃんとクエストだった。
それに、昨日の雪原で拾った雪光石の欠片をまだ持っていて、今日の昼食では最初から二人分の肉を持ってきてくれて、スノウラビを触って少しだけ黙り込むフレイヴィアさんも見た。
強い人にも、知らないことがある。
弱い僕にも、知っていることがある。
それはなんだか、不思議で、少しだけ嬉しい発見だった。
「ルキウス」
報酬袋をしまっていると、フレイヴィアさんに声をかけられた。
「はい」
「次も、頼む」
次も。
その言葉に、僕は少しだけ驚いた。
でも、すぐに頷く。
「はい。次も一緒に行きましょう」
「うむ」
フレイヴィアさんは短く頷いた。
それだけだった。
けれど、僕には十分だった。
ランク1のクエストは、今日で終わった。
でも、約束はまだ続いている。
そう思うと、なんだか少し、明日が楽しみになった。
◆
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、ランク2になったルキウスが、フレイヴィアと一緒にランク1のクエストへ向かう回でした。
次回からは、ランク2になったことでルキウスの行動範囲も少しずつ広がっていきます。
ただし、行ける場所が増えるということは、危険な場所も増えるということで……。
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