駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
~前回までのあらすじ~
前回はフレイヴィアさんと二人でほぼのクエストだったルキウス。
今回はセラフィ―ンさんとだそうです。
◆
ランク2になって、最初に受ける依頼。
そう聞けば、もう少し胸が高鳴るようなものを想 けれど、受付台へ置かれた依頼書には、剣も牙も描かれていなかった。
「清水草の採取と、教会への納品です」
アルナさんが、依頼書の端を指先で押さえる。
栗色の猫耳は、いつも通り真っすぐ僕へ向いていた。
「清水草……薬草ですよね」
「はい。教会で薬湯や傷薬を作る際に使われます」
採取場所は、渓流地帯の少し奥。
水辺へ生えている清水草を必要な分だけ集め、エルドラン教会支部へ届ける。
討伐でもなければ、護衛でもない。
採取と納品の依頼だった。
「ランク2になって最初の依頼には、ちょうどよいと思います」
「もう少し、こう……ランク2らしい依頼というものは」
「こちらも、ランク2の依頼ですよ」
「そうなんですけど」
依頼書を覗き込む。
清水草の横には、似た植物と間違えないための簡単な絵が添えられていた。
細長い葉に、中央から枝分かれする淡い青色の葉脈。
「葉脈が青いものですね」
「はい。茎を折ると透明な汁が出て、僅かに甘い香りがします」
アルナさんは絵の横へ指を滑らせる。
「よく似た濁水草もあります。迷った場合は、無理に採らず戻ってきてください」
「分かりました」
「それから渓流沿いは、足元が滑りやすくなっています。草に夢中になって、川へ落ちないようにしてくださいね」
「落ちませんよ」
言い切る。
アルナさんは何も答えず、僕の顔をじっと見つめた。
猫耳が、ぴんと立つ。
信用されていない。
とても分かりやすい。
「……落ちません。たぶん」
「そこは言い切ってください」
「落ちません」
「はい。それでお願いします」
ようやく、アルナさんの表情が少しだけ和らいだ。
「今回は採取依頼ですが、油断はしないでください。ランクが上がったからといって、急に身体が強くなったわけではありませんからね」
「分かっています」
「本当に?」
「本当に本当です」
猫耳が僅かに伏せる。
「その言葉を聞くと、やはり少し不安になります」
「どう答えるのが正解なんですか?」
「行動で示してください」
昨日も同じことを言われた気がする。
僕は依頼書を受け取り、ギルドカードを外套の内側へしまった。
「気をつけて行ってきてくださいね」
「はい。行ってきます!」
受付を離れ、ギルドの重たい扉へ向かう。
ランク2になって、最初の依頼。
思っていたものとは少し違う。
けれど、依頼であることには変わりない。
それに――教会への納品なら、セラフィーンさんにも会えるかもしれない。
怪我をしていない状態で会うのは、登録の日以来だった。
「今日は怒られないですね」
たぶん。
◆
渓流地帯は、相変わらず水の音が近かった。
苔の生えた岩を清流が滑り、木々の隙間から落ちた陽射しが、水面の上で細かく弾けている。
湿った土と若い葉。
冷たい水に、僅かな泥……森で暮らしていた頃にも嗅いだ、馴染みのある匂いだった。
「もう少し、やり応えのある依頼を期待していたんだけどなぁ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
命を大事にしろと、口を酸っぱくして言われている。
それなのに、危険で格好いい依頼を期待してしまうのだから、自分でも懲りていないと思う。
ランク1の頃によく歩いた第一区域より、少しだけ奥へ進む。
木々の影が濃くなり、足元の土も湿り気を増していった。
川沿いへ生える草の種類も、少しずつ変わっている。
それでも、雪原へ入った時のような緊張感はない。
風には柔らかな森の匂いが混じり、流れる水の音も耳に心地よかった。
「清水草……」
依頼書へ描かれていた特徴を、もう一度思い出す。
細長い葉。
淡い青の葉脈。
茎を折れば透明な汁。
少し甘い匂い。
水辺へしゃがみ込み、生えている草を指で分ける。
一見すると、どれも同じ緑色に見えた。
「これは……違う」
葉を裏返す。
中央を走る葉脈は白く、青みがない。
茎へ顔を近づけても、甘い匂いは感じられなかった。
無理に採らず、次の株へ移る。
「あった」
少し離れた岩陰。
水面へ垂れるように伸びた葉には、淡い青色の筋が走っていた。
周囲の草を傷つけないよう指で避け、根元を確かめる。
茎を一本だけ折ると、透明な汁が滲み――鼻先へ、ほんの僅かに甘い匂いが届いた。
「清水草で間違いないですね」
根を残し、必要な部分だけを刃で切り取る。
何本か採ったところで、葉の向きを揃えて紐で束ねる。
泥や枯れ葉がついていないことも確かめ、素材袋へ丁寧にしまった。
剣は抜かなかった。
モンスターとも戦わなかった。
途中、水辺の草むらが小さく揺れ、何かの気配を感じた。
丸い背中のようなものが、葉の隙間を横切った気もする。
「…………」
確かめに行くことはできる。
けれど、向こうから近づいてくる様子はない。
依頼の目的も、モンスターの確認ではなかった。
僕は草むらから距離を取り、そのまま採取を続けた。
昨日の試験で、必要のない戦いは避けた。
今日も同じだ。
ランクが上がったからといって、見つけたものすべてへ剣を抜く必要はない。
清水草の葉脈を一枚ずつ見比べる。
似た草を混ぜれば、薬には使えない。
雑に採れば、使える部分を傷つけてしまう。
根ごと抜けば、次に育つはずだった株までなくなる。
派手ではない。
けれど――誰かが、きちんとやらなければならない仕事だった。
「これはこれで、悪くないか」
採った清水草を束ね、葉先が折れないよう素材袋へ入れる。
気がつけば、依頼書に指定された数が揃っていた。
僕は立ち上がり、膝へついた泥を払う。
「よし。あとは届けるだけですね」
足元を確かめ、川へ落ちていないことも確認する。
アルナさんへ報告できる。
僕は川沿いを離れ、白い尖塔を目指して歩き出した。
◆
教会へ入ると、白い石壁と流れる水の音が、外の喧騒を静かに遠ざけた。
淡く差し込む陽の光に、清潔な布と薬草。それから僅かに甘い香油の匂いが混じっている。
怪我人の声も、治療を待つ人の気配もある。
それでもギルドのような荒々しさはなく、すべての音が柔らかな布へ包まれているようだった。
受付へ声を掛けようとしたところで、奥から白と淡い青の衣が近づいてくる。
柔らかな金色の髪。
背中へ畳まれた、大きな白い翼。
深い湖のような青い瞳が僕を見つけると、少しだけ和らいだ。
「あらー。ルキウスさん、こんにちは」
「こんにちは。お久しぶりです、セラフィーンさん」
セラフィーンさんが丁寧に頭を下げる。
僕も慌てて頭を下げ返した。
その視線が、僕の頬から腕、脇腹へゆっくりと動く。
「今日は、治療ではないのですねー」
「はい。納品です」
「それは、とてもよいことです」
「そんなにですか?」
「はい」
セラフィーンさんは、大きく頷いた。
「怪我をして来られる方よりも、納品で来られる方を見る方が、気持ちは穏やかです」
「確かに、教会としては平和ですね」
「はい。とても」
本当に嬉しそうだった。
前回は血の染みた外套を着て、傷だらけでここへ来た。
その前の日には、怪我をしないよう念を押されたばかりだった。
思い返すと、少し居心地が悪い。
「今日は、本当に怪我をしていません」
「それは何よりですー」
「川にも落ちませんでした」
「……川?」
「アルナさんに注意されたので」
「そうでしたか」
セラフィーンさんは少しだけ笑った。
からかわれたような気がする。
「清水草を持ってきました」
話を変えるように、素材袋から束を取り出す。
「確認しますねー」
セラフィーンさんは近くの台へ白い布を敷き、その上へ清水草を一本ずつ並べていった。
手つきは静かだった。
急いでいない。
けれど、無駄な動きもない。
葉先を持ち、青い葉脈を光へ透かす。
茎の切り口に滲む汁を確かめ、最後に香りを確認する。
その一つ一つが、どこか祈りの所作にも似ていた。
「はい。綺麗に採れています」
「本当ですか?」
「濁水草も混じっていませんし、根や葉も傷めていません」
「よかった……」
肩から力が抜ける。
討伐依頼ではない。
だからといって、失敗してよいわけではなかった。
依頼として受けた以上、必要なものを、必要な状態で届けなければならない。
「とても慎重に採ったのですね」
「ランク2になって、最初の依頼でしたから」
「はい」
「最初から失敗したら、かなり格好悪いかなと思って」
「格好のためだったのですか?」
「い、いえ。それだけではありませんけど」
セラフィーンさんは口元へ手を添え、小さく笑った。
穏やかな笑い方だったけれど、やはり少しだけからかわれている。
教会の聖女様は、思っていたより人をからかう。
「ですが、丁寧に届けていただけて助かりました。清水草は、薬湯にも傷薬にも使いますから」
「僕が採ったものが、薬になるんですね」
「はい。誰かの熱を下げたり、傷の痛みを和らげたりするものになります」
「そう聞くと、少し緊張します」
「もう採り終わったあとですが?」
「後から来ました」
セラフィーンさんの翼が、僅かに揺れた。
「では次は、採っている時に少しだけ緊張してください」
「少しだけでいいんですか?」
「緊張しすぎると、草まで緊張してしまいそうですからー」
「草も?」
「たぶん」
「たぶん……」
セラフィーンさんは、真面目な顔で頷いた。
こちらも大人しく頷く。
治癒術で傷を治せる人が言うのだから、草も緊張するのかもしれない。
……たぶん。
納品の確認を終えると、セラフィーンさんは清水草の束を薬棚へ運んだ。
棚には乾燥させた薬草や、小さな瓶が種類ごとに整然と並んでいる。
その前で、彼女は何かを思い出したように首を傾げた。
「このあと、少し市場へ行こうと思っていたのです」
「市場ですか?」
「はい。薬湯に使う蜂蜜と、小瓶を少し。それから、清潔な布も補充したくて」
「セラフィーンさんも、買い出しをするんですね」
思わず口へ出すと、セラフィーンさんがこちらを振り返った。
「しますよー」
「もっと、こう……教会の奥で祈っている人なのかと」
一瞬の沈黙。
そのあと、セラフィーンさんは口元へ手を当て、声を上げて笑った。
「ふふ。私とて、人ですよー? 祈りもしますし、買い物もします」
「聖女様は、忙しいんですね」
「蜂蜜の値段も覚えなければなりませんから」
「それは大変だ」
「季節によって変わりますからねー」
聖女様は、蜂蜜の値段を覚える。
少し意外だった。
でも考えてみれば、祈っているだけで薬棚が満たされるわけではない。
治療へ使う薬も、布も、瓶も、誰かが用意しなければならないのだ。
「よければ、荷物を持ちますよ」
僕が申し出ると、セラフィーンさんは少し驚いたように目を瞬かせた。
「よいのですか?」
「はい。依頼も終わりましたし、このくらいならできます」
「それでは、お願いしてもよいでしょうか」
「任せてください」
頷くと、セラフィーンさんは近くの修道士へ声を掛け、外へ出る準備を始めた。
白と淡い青の衣の上へ、薄手の外套を羽織る。
手には買い物用の、小さな籠。
教会の中で見る彼女は、聖女という言葉がよく似合う。
けれど、籠を持って歩く姿は――それだけではなかった。
もちろん、相変わらず神聖で綺麗なのだけれど。
ちゃんとこの街で暮らしている、一人の人にも見えた。
◆
教会を出て市場へ向かう間、何人もの人がセラフィーンさんへ声を掛けた。
「セラフィーン様、この前はありがとうございました」
「娘の熱が下がりました。本当に助かりました」
「今日は買い出しかい?」
セラフィーンさんは、その一人一人へ丁寧に返事をした。
急いでいる様子はない。
けれど、長く立ち止まりすぎることもない。
相手の顔を見て、言葉を受け取り、必要な分だけ返してから、また歩き出す。
その姿を見ていると、教会で傷を治すことだけが、彼女の仕事ではないのだと分かった。
「すごいですね」
「すごい、ですか?」
セラフィーンさんが、不思議そうにこちらを見る。
「皆さん、セラフィーンさんのことを知っているんだなって」
「私も、皆さんのことをできるだけ覚えるようにしています」
「覚えるんですか?」
「はい。怪我をした場所や、苦手な薬。ご家族のことを少し覚えているだけで、次にお会いした時、話しやすくなることがありますから」
「治療って、そういうこともあるんですね」
「たぶん、あります」
「また、たぶん」
「はい。たぶんです」
少しだけ楽しそうに言う。
市場へ入ると、街の音が一気に大きくなった。
魚を売る声に、肉を焼く匂い。
風に広げられた布と、光を弾く薬瓶。
香辛料が鼻をくすぐり、色鮮やかな果物が山のように積まれている。
店先から店先へ飛び交う声へ、荷車の車輪が石畳を鳴らす音も重なっていた。
エルドランへ来た日、ラッツさんのリーヴァウォを買えずに眺めていたことを思い出す。
あの時は、一ソルも持っていなかった。
今は少しくらいなら持っている。
もっとも、今日は買い物をする側というより、荷物持ちなのだけれど。
それはそれで、少し誇らしい。
「聖女様だ」
「隣のフードの子は、誰だ?」
「荷物持ちか?」
周囲から、小さな声が聞こえてくる。
悪口ではない。
僕たちは悪いこともしていない。
それでも、いくつもの視線を感じると、自然と肩へ力が入った。
フードの中で、呼吸が少しだけ熱くなる。
「人の目が気になりますか?」
セラフィーンさんが、隣で静かに尋ねる。
「少し」
「では、私も気にすることにしましょうか」
「え?」
「一人で気にするより、二人で気にした方が、少し軽くなるかもしれません」
真面目な顔だった。
言っていることは、よく分からない。
けれど、それが少しおかしくて、思わず笑ってしまう。
「軽くなりましたか?」
「少しだけ」
「それはよかったですー」
セラフィーンさんも、小さく笑った。
◆
蜂蜜屋の店主は、セラフィーンさんを見るなり笑顔になった。
「おお、聖女様。いつものかい?」
「はい。今日は少し多めにお願いしますー」
「また、子どもたち用か」
「苦い薬は、なかなか手強いですから」
「ははっ。俺だって、苦い薬は嫌だね」
店主は棚から丸い瓶をいくつか取り出し、陽の光へ翳した。
琥珀色の蜂蜜が、瓶の中でゆっくり揺れる。
見ているだけで、甘い匂いが漂ってくるようだった。
「苦い薬って、やっぱり苦いんですか?」
「苦いです」
「そこは否定しないんですね」
「苦いものを苦くないと言えば、次から信じてもらえなくなりますから」
「誠実だ……」
「ですので、蜂蜜で少しだけ誤魔化します」
「誤魔化すんですね」
「優しい誤魔化しです」
「優しい誤魔化し……」
何となく、よい言葉のような気がした。
店主から蜂蜜の瓶を受け取り、籠へ入れる。
見た目よりも、ずしりと腕へ重さが掛かった。
「思っていたより、重いですね」
「大丈夫ですか?」
「はい。蜂蜜相手なら、まだ勝てます」
「戦うものではありませんよー」
「確かに」
セラフィーンさんが小さく笑う。
その笑みを見た店主が、なぜか僕へ向かってにやにやしていた。
居心地が悪くなり、籠を持ち直す。
次に向かったのは、薬瓶を扱う店だった。
小さな瓶に、大きな瓶。
口の細いもの、丸いもの、青や茶色に染められたもの。
一見すれば似たような瓶ばかりなのに、セラフィーンさんは一本ずつ手に取り、口の広さや蓋の締まりを確かめていた。
「この瓶は、少し口が狭いですねー」
「その瓶と、こっちの瓶……違うんですか?」
「違います」
「同じに見えます」
「こちらは口が広いので、薬湯を入れやすいです。こちらは粉薬に向いています」
「そんな違いが」
もう一度見比べる。
やはり、ほとんど同じに見える。
「ルキウスさんも、剣なら僅かな重さの違いが気になりませんか?」
「あ……分かります」
「それと同じです」
「なるほど」
そう言われると、一気に分かりやすくなった。
道具には、それぞれ向いた使い方がある。
剣にも。
防具にも。
薬を入れる瓶にも。
清潔な布を扱う店でも、セラフィーンさんは一枚ずつ手触りを確かめ、織り目を見ていた。
最後には、肌へ触れた時の柔らかさまで確かめている。
「治療に使う布は、肌へ触れますから」
「そこまで見るんですね」
「痛い時に、布まで痛いと悲しいでしょう」
「……確かに」
痛い時に、布まで痛いと悲しい。
そんな考え方を、僕はしたことがなかった。
けれど、言われてみればその通りだと思う。
傷を治すというのは、ただ傷口を塞ぐだけではないのかもしれない。
◆
買い物の途中、市場の端で子どもが転んだ。
小さな音だった。
けれど、その直後に上がった泣き声は、人混みの中でもよく聞こえた。
石畳へつまずいたらしい。
幼い子どもが膝を押さえて座り込み、近くにいた母親が慌てて駆け寄っている。
セラフィーンさんは、迷わずそちらへ向かった。
「見せてください」
声は穏やかだった。
でも、その動きは早い。
子どもの前へ膝をつき、泣いている顔と同じ高さまで目線を下げる。
それから、膝へできた傷をそっと確認した。
大きな怪我ではない。
ただの擦り傷だ。
それでも子どもにとっては、十分に痛いのだろう。
頬を伝って、涙がぽろぽろと落ちている。
「痛かったですね」
「う、うん……」
「泣いても大丈夫ですよ。痛い時は、痛いと言ってよいのです」
「…………」
その言葉に、なぜか僕の足が止まった。
痛い時は、痛いと言っていい。
当たり前のことのはずなのに、僕にはあまり馴染みのない言葉だった。
セラフィーンさんは小さな水の魔法を使い、傷口へついた砂を洗い流す。
淡い光が水へ混ざり、膝の赤みを僅かに和らげていった。
完全に傷を消すほどではない。
けれど、痛みは引いたらしい。
子どもの泣き声が、少しずつ小さくなる。
「これは、薬ではありませんよー」
セラフィーンさんが外套の内側から、小さな蜂蜜飴を取り出した。
「ほんと?」
「はい。今日は特別です」
子どもは涙の残る顔で飴を受け取る。
母親は何度も頭を下げた。
セラフィーンさんはその言葉を丁寧に受け止め、最後に子どもへ、走る時は足元を見てくださいね、と伝えてから立ち上がった。
僕は少し遅れて歩き出す。
「痛い時は、痛いと言っていい……なんだか、不思議な言葉ですね」
市場の賑わいの中で、ぽつりと呟く。
セラフィーンさんは、僕を急かさず歩調を合わせた。
「そうですか?」
「僕、あまり言ってこなかった気がします」
「我慢していたのですか?」
「我慢というか……言う前に、何とかなることが多かったというか」
「それは、何とかならなかった時に困りますね」
「確かに」
少し笑うと、セラフィーンさんも小さく笑った。
「痛いと言うのは、誰かへ迷惑を掛けることではありません。痛い場所を教えることです」
「教えること」
「はい。お腹が空いたと言えば、ご飯を用意できます。眠いと言えば、休む場所を探せます」
青い瞳が、静かに僕へ向けられる。
「痛いと言えば、傷を探せます」
「……なるほど」
「ですから、痛い時は痛いと言ってください」
「でも、それで迷惑を掛けるかもしれません」
セラフィーンさんは僅かに目を細めた。
怒ったわけではない。
何か、とても当たり前のことを教えるような表情だった。
「それでいいんですよー」
「いいんですか?」
「人へ一切迷惑を掛けずに生きることなど、不可能ですから」
外套の裾と白い翼が、歩みに合わせて静かに揺れる。
「だからこそ、自分も――誰かの迷惑を許してあげるのです」
「誰かの迷惑を」
「はい。それで、お互い様です」
セラフィーンさんは、そう言ってまた歩き出した。
大げさな説教ではない。
きっと本人にとっては、当たり前の話なのだろう。
だからこそ――変に、胸の奥へ残った。
◆
買い物を終える前に、僕たちは市場の端にある屋台で少し休むことになった。
セラフィーンさんが選んだのは薬草茶。
僕が選んだのは、甘い果実湯だった。
屋台の簡素な椅子へ座ると、歩き回った脚が思っていたより重いことに気づく。
蜂蜜の瓶に、小瓶と布。
討伐依頼とは違う。
けれど、荷物を抱えて市場を回るのは、それなりに疲れるものらしい。
セラフィーンさんが薬草茶を一口飲む。
湯気と一緒に漂う匂いを嗅ぎ、僕は少しだけ眉を寄せた。
「そのお茶、苦そうですね」
「少し苦いです」
「蜂蜜は入れないんですか?」
「あれは子どもたちの分ですから」
「セラフィーンさんの分は?」
「私は慣れています」
「でも、甘い方がおいしいですよ」
「……それは、そうですね」
「認めた」
僕が言うと、セラフィーンさんは器を両手で包んだまま、僅かに視線を逸らした。
その仕草が少しだけ普通の人らしくて、笑みが漏れる。
「ルキウスさんは、甘いものがお好きなのですか?」
「好きです。森にいた頃は、母が果実を煮たものを作ってくれました」
「お母様が」
「はい。すごく甘くて、すごく量が多かったです」
「量が多いのですか?」
「母は心配性なので。食べられる時に食べなさいって、山盛りにするんです」
「優しい方なのですね」
「はい。優しいです」
一度、言葉を切る。
「ちょっと、かなり、ものすごく過保護ですけど」
「ものすごく」
「外へ出るのも大変でした」
「では、今こうして街を歩いていることも、ルキウスさんにとっては大きな冒険なのですね」
「……そうかもしれません」
言われてみれば、その通りだった。
ハンターになること。
ギルドへ登録すること。
依頼を受けること。
雪原へ行くこと。
フレイヴィアさんと、ランク1の依頼へ向かうこと。
セラフィーンさんと市場で、蜂蜜を買うこと。
どれも――家で暮らしていた頃の僕には、なかったことだ。
「セラフィーンさんは、甘いものが好きですか?」
「嫌いではありません」
「その言い方は、好きな人の言い方ですね」
「……ふふ。分かってしまいましたか」
セラフィーンさんが、少しだけ困ったように笑う。
「実は、少しだけ」
「少しだけ」
たぶん、少しではない。
けれど、そこは追及しないことにした。
僕も少しずつ、余計なことを言わない判断ができるようになっている。
「では、次は甘いものにしましょう」
「次、ですか」
セラフィーンさんが器の縁越しに、こちらを見つめる。
「ルキウスさんは、デートの約束を作るのがお上手ですねー」
「で――っ!?」
椅子から落ちそうになった。
「そ、そんなつもりではなかったんです!」
「ふふ。冗談ですよー」
「冗談……」
「ですが、約束は約束ですね」
「……はい」
からかわれた。
やはり教会の聖女様は、人をからかう。
それも、自分がとても綺麗なことを分かってやっている気がする。
セラフィーンさんは楽しそうに目を細め、再び薬草茶へ口をつけた。
「ルキウスさんは、街へ慣れましたか?」
「まだ、全然です。でも、知っている人は増えました」
「それは、よいことですね」
「はい。ギルドの人に、角兎亭の女将さん。それからアルナさん、フレイヴィアさん、セラフィーンさん」
「私も、知っている人へ入れていただけるのですね」
「入りますよ」
抱えた籠を少し持ち上げる。
「今、一緒に蜂蜜を持っていますし」
「ふふ。そうですか」
セラフィーンさんは、少しだけ嬉しそうに笑った。
それから飲みかけの薬草茶を、もう一口飲む。
やはり少し苦そうだった。
けれど、その表情も含めて――穏やかな時間だった。
◆
買い物を終えて教会へ戻る頃には、籠の中は蜂蜜の瓶と小瓶、それから清潔な布でいっぱいになっていた。
重くないと言えば、嘘になる。
けれど、運べない重さではない。
それに、これらが誰かの薬や治療へ使われるのだと思えば、不思議と嫌ではなかった。
「助かりましたー」
教会の倉庫へ荷物を置くと、セラフィーンさんは丁寧に頭を下げた。
「いえ。このくらいなら」
「その『このくらい』を、きちんとしてくださるのはありがたいことです」
「そうですか?」
「はい」
真っすぐ言われると、少し照れくさい。
頬をかこうと手を上げたけれど、指先がフードの布へ当たっただけで終わった。
セラフィーンさんは薬棚から小さな包みを取り出す。
淡い色の布に包まれた、小さな傷薬だった。
「こちらは、今日のお礼です」
「え。いいんですか?」
「はい。私からですー」
差し出された包みを、両手で受け取る。
「ありがとうございます。でも、使わない方がいいものですよね」
「はい。使わずに済むなら、それが一番です」
「では、大切に使わないようにします」
「はい。それが一番ですねー」
傷薬を、素材袋の奥へしまう。
できれば使わない。
それが一番。
少し前の僕なら、傷薬をもらえば、これで怪我をしても安心だと思ったかもしれない。
けれど今は――使わずに済ませたいと思う。
そう思えること自体が、少しだけ変化なのかもしれなかった。
「ルキウスさん」
教会を出ようとしたところで、セラフィーンさんに呼び止められる。
「はい」
「次に教会へ来る時も、できれば治療以外でいらしてくださいね」
「納品や、荷物持ちですか?」
「はい。あるいは――ただ、お茶を飲みに来るだけでも」
「分かりました。時間がある時に、ぜひ」
「はいー。お待ちしております」
セラフィーンさんは、静かに微笑んだ。
その笑顔に見送られ、僕は教会をあとにした。
◆
ギルドへ戻ると、アルナさんは依頼書へ押された納品印を確認し、問題なく完了処理を進めてくれた。
「ランク2、最初の依頼が完了ですね」
「はい」
「よい出だしです」
「ありがとうございます!」
依頼完了の印が押される。
その手元を眺めながら、素材袋の奥へ入れた傷薬の重さを少しだけ意識した。
「教会の方はいかがでしたか?」
「納品をして、そのあと買い物の荷物持ちをしました」
「荷物持ち?」
「蜂蜜と、小瓶と布です」
「なるほど。教会らしいですね」
「聖女様も、蜂蜜の値段を覚えるそうです」
「それは覚えますよ」
「アルナさんは、普通に受け入れるんですね」
アルナさんは書類を揃え、受付の奥へしまう。
「教会もギルドも、帳簿と在庫からは逃げられませんから」
「急に現実的」
アルナさんが小さく笑った。
ランク2になって、最初に受けた依頼。
派手な討伐ではなかった。
清水草を採り、教会へ届ける。
セラフィーンさんと市場を歩き、蜂蜜と小瓶、布を運ぶ。
剣は抜かなかった。
モンスターとも戦わなかった。
それでも、蜂蜜の瓶は意外と重かった。
小瓶には、用途ごとの違いがあった。
聖女様も買い物をする。
苦いお茶より、甘いお茶の方が好きらしい。
それから――痛い時には、痛いと言っていい。
そういうことを知った一日だった。
ハンターの仕事は、僕が想像していたよりもずっと、街で暮らす誰かの生活へ繋がっている。
そう思いながら、素材袋の上から傷薬の位置を確かめた。
その時、少し離れた卓へ座っていたハンターたちの声が、ふと耳へ入る。
「……北で見たって話、本当か?」
「ああ。雪原の奥だ。足跡だけじゃねぇ。実物を遠目に見た奴がいるらしい」
「大型か?」
「たぶんな。しかも、浅い方まで降りてきてるって話だ」
雪原。
大型。
二つの言葉を聞いた瞬間、顔が上がった。
昨日、昇級試験で見つけた大きな足跡が頭をよぎる。
古いが、浅い。
フレイヴィアさんは、そう言っていた。
「アルナさん」
「はい」
「今の話は、昨日見つけた足跡と関係がありますか?」
アルナさんは依頼書を片づける手を、一度だけ止めた。
栗色の猫耳が、僅かに伏せられる。
それから、周囲へ聞こえないよう声を少し落とした。
「まだ、はっきりしたことは分かっていません」
「分かっていない」
「はい。北の雪原地帯で、大型モンスターらしき目撃報告が出ているのは事実です」
アルナさんは慎重に言葉を選ぶ。
「ですが、種の特定も、移動経路も確定していません」
「浅い区域まで来ているというのは?」
「現時点では、可能性の話です」
そう言ったけれど、その表情は決して軽くなかった。
「ルキウスさんは、今は近づかないでください」
「はい」
「これはお願いではなく、受付としての指示です」
「……はい」
いつもより真剣な声に、素直に頷く。
雪原の北。
大型モンスター。
まだ見たことのない何かが――白い世界の奥から、不穏な影を少しずつ伸ばし始めていた。
◆
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひよろしくお願いいたします