駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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 ~前回までのあらすじ~
 前回はフレイヴィアさんと二人でほぼのクエストだったルキウス。
 今回はセラフィ―ンさんとだそうです。


第一章 第十四話『少年は聖女と蜂蜜を運ぶ』

 

 ◆

 

 ランク2になって、最初に受ける依頼。

 

 そう聞けば、もう少し胸が高鳴るようなものを想 けれど、受付台へ置かれた依頼書には、剣も牙も描かれていなかった。

 

「清水草の採取と、教会への納品です」

 

 アルナさんが、依頼書の端を指先で押さえる。

 栗色の猫耳は、いつも通り真っすぐ僕へ向いていた。

 

「清水草……薬草ですよね」

「はい。教会で薬湯や傷薬を作る際に使われます」

 

 採取場所は、渓流地帯の少し奥。

 水辺へ生えている清水草を必要な分だけ集め、エルドラン教会支部へ届ける。

 

 討伐でもなければ、護衛でもない。

 採取と納品の依頼だった。

 

「ランク2になって最初の依頼には、ちょうどよいと思います」

「もう少し、こう……ランク2らしい依頼というものは」

「こちらも、ランク2の依頼ですよ」

「そうなんですけど」

 

 依頼書を覗き込む。

 

 清水草の横には、似た植物と間違えないための簡単な絵が添えられていた。

 細長い葉に、中央から枝分かれする淡い青色の葉脈。

 

「葉脈が青いものですね」

「はい。茎を折ると透明な汁が出て、僅かに甘い香りがします」

 

 アルナさんは絵の横へ指を滑らせる。

 

「よく似た濁水草もあります。迷った場合は、無理に採らず戻ってきてください」

「分かりました」

「それから渓流沿いは、足元が滑りやすくなっています。草に夢中になって、川へ落ちないようにしてくださいね」

「落ちませんよ」

 

 言い切る。

 

 アルナさんは何も答えず、僕の顔をじっと見つめた。

 猫耳が、ぴんと立つ。

 

 信用されていない。

 とても分かりやすい。

 

「……落ちません。たぶん」

「そこは言い切ってください」

「落ちません」

「はい。それでお願いします」

 

 ようやく、アルナさんの表情が少しだけ和らいだ。

 

「今回は採取依頼ですが、油断はしないでください。ランクが上がったからといって、急に身体が強くなったわけではありませんからね」

「分かっています」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 猫耳が僅かに伏せる。

 

「その言葉を聞くと、やはり少し不安になります」

「どう答えるのが正解なんですか?」

「行動で示してください」

 

 昨日も同じことを言われた気がする。

 

 僕は依頼書を受け取り、ギルドカードを外套の内側へしまった。

 

「気をつけて行ってきてくださいね」

「はい。行ってきます!」

 

 受付を離れ、ギルドの重たい扉へ向かう。

 

 ランク2になって、最初の依頼。

 

 思っていたものとは少し違う。

 けれど、依頼であることには変わりない。

 

 それに――教会への納品なら、セラフィーンさんにも会えるかもしれない。

 

 怪我をしていない状態で会うのは、登録の日以来だった。

 

「今日は怒られないですね」

 

 たぶん。

 

 ◆

 

 渓流地帯は、相変わらず水の音が近かった。

 苔の生えた岩を清流が滑り、木々の隙間から落ちた陽射しが、水面の上で細かく弾けている。

 

 湿った土と若い葉。

 冷たい水に、僅かな泥……森で暮らしていた頃にも嗅いだ、馴染みのある匂いだった。

 

「もう少し、やり応えのある依頼を期待していたんだけどなぁ」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 命を大事にしろと、口を酸っぱくして言われている。

 それなのに、危険で格好いい依頼を期待してしまうのだから、自分でも懲りていないと思う。

 

 ランク1の頃によく歩いた第一区域より、少しだけ奥へ進む。

 木々の影が濃くなり、足元の土も湿り気を増していった。

 

 川沿いへ生える草の種類も、少しずつ変わっている。

 

 それでも、雪原へ入った時のような緊張感はない。

 風には柔らかな森の匂いが混じり、流れる水の音も耳に心地よかった。

 

「清水草……」

 

 依頼書へ描かれていた特徴を、もう一度思い出す。

 

 細長い葉。

 淡い青の葉脈。

 茎を折れば透明な汁。

 

 少し甘い匂い。

 

 水辺へしゃがみ込み、生えている草を指で分ける。

 一見すると、どれも同じ緑色に見えた。

 

「これは……違う」

 

 葉を裏返す。

 

 中央を走る葉脈は白く、青みがない。

 茎へ顔を近づけても、甘い匂いは感じられなかった。

 

 無理に採らず、次の株へ移る。

 

「あった」

 

 少し離れた岩陰。

 水面へ垂れるように伸びた葉には、淡い青色の筋が走っていた。

 

 周囲の草を傷つけないよう指で避け、根元を確かめる。

 茎を一本だけ折ると、透明な汁が滲み――鼻先へ、ほんの僅かに甘い匂いが届いた。

 

「清水草で間違いないですね」

 

 根を残し、必要な部分だけを刃で切り取る。

 

 何本か採ったところで、葉の向きを揃えて紐で束ねる。

 泥や枯れ葉がついていないことも確かめ、素材袋へ丁寧にしまった。

 

 剣は抜かなかった。

 

 モンスターとも戦わなかった。

 

 途中、水辺の草むらが小さく揺れ、何かの気配を感じた。

 丸い背中のようなものが、葉の隙間を横切った気もする。

 

「…………」

 

 確かめに行くことはできる。

 

 けれど、向こうから近づいてくる様子はない。

 依頼の目的も、モンスターの確認ではなかった。

 

 僕は草むらから距離を取り、そのまま採取を続けた。

 

 昨日の試験で、必要のない戦いは避けた。

 

 今日も同じだ。

 

 ランクが上がったからといって、見つけたものすべてへ剣を抜く必要はない。

 

 清水草の葉脈を一枚ずつ見比べる。

 似た草を混ぜれば、薬には使えない。

 

 雑に採れば、使える部分を傷つけてしまう。

 根ごと抜けば、次に育つはずだった株までなくなる。

 

 派手ではない。

 

 けれど――誰かが、きちんとやらなければならない仕事だった。

 

「これはこれで、悪くないか」

 

 採った清水草を束ね、葉先が折れないよう素材袋へ入れる。

 

 気がつけば、依頼書に指定された数が揃っていた。

 僕は立ち上がり、膝へついた泥を払う。

 

「よし。あとは届けるだけですね」

 

 足元を確かめ、川へ落ちていないことも確認する。

 

 アルナさんへ報告できる。

 僕は川沿いを離れ、白い尖塔を目指して歩き出した。

 

 ◆

 

 教会へ入ると、白い石壁と流れる水の音が、外の喧騒を静かに遠ざけた。

 淡く差し込む陽の光に、清潔な布と薬草。それから僅かに甘い香油の匂いが混じっている。

 

 怪我人の声も、治療を待つ人の気配もある。

 

 それでもギルドのような荒々しさはなく、すべての音が柔らかな布へ包まれているようだった。

 

 受付へ声を掛けようとしたところで、奥から白と淡い青の衣が近づいてくる。

 

 柔らかな金色の髪。

 背中へ畳まれた、大きな白い翼。

 

 深い湖のような青い瞳が僕を見つけると、少しだけ和らいだ。

 

「あらー。ルキウスさん、こんにちは」

「こんにちは。お久しぶりです、セラフィーンさん」

 

 セラフィーンさんが丁寧に頭を下げる。

 僕も慌てて頭を下げ返した。

 

 その視線が、僕の頬から腕、脇腹へゆっくりと動く。

 

「今日は、治療ではないのですねー」

「はい。納品です」

「それは、とてもよいことです」

「そんなにですか?」

「はい」

 

 セラフィーンさんは、大きく頷いた。

 

「怪我をして来られる方よりも、納品で来られる方を見る方が、気持ちは穏やかです」

「確かに、教会としては平和ですね」

「はい。とても」

 

 本当に嬉しそうだった。

 

 前回は血の染みた外套を着て、傷だらけでここへ来た。

 その前の日には、怪我をしないよう念を押されたばかりだった。

 

 思い返すと、少し居心地が悪い。

 

「今日は、本当に怪我をしていません」

「それは何よりですー」

「川にも落ちませんでした」

「……川?」

「アルナさんに注意されたので」

「そうでしたか」

 

 セラフィーンさんは少しだけ笑った。

 

 からかわれたような気がする。

 

「清水草を持ってきました」

 

 話を変えるように、素材袋から束を取り出す。

 

「確認しますねー」

 

 セラフィーンさんは近くの台へ白い布を敷き、その上へ清水草を一本ずつ並べていった。

 

 手つきは静かだった。

 

 急いでいない。

 けれど、無駄な動きもない。

 

 葉先を持ち、青い葉脈を光へ透かす。

 茎の切り口に滲む汁を確かめ、最後に香りを確認する。

 

 その一つ一つが、どこか祈りの所作にも似ていた。

 

「はい。綺麗に採れています」

「本当ですか?」

「濁水草も混じっていませんし、根や葉も傷めていません」

 

「よかった……」

 

 肩から力が抜ける。

 

 討伐依頼ではない。

 だからといって、失敗してよいわけではなかった。

 

 依頼として受けた以上、必要なものを、必要な状態で届けなければならない。

 

「とても慎重に採ったのですね」

「ランク2になって、最初の依頼でしたから」

「はい」

「最初から失敗したら、かなり格好悪いかなと思って」

「格好のためだったのですか?」

「い、いえ。それだけではありませんけど」

 

 セラフィーンさんは口元へ手を添え、小さく笑った。

 

 穏やかな笑い方だったけれど、やはり少しだけからかわれている。

 

 教会の聖女様は、思っていたより人をからかう。

 

「ですが、丁寧に届けていただけて助かりました。清水草は、薬湯にも傷薬にも使いますから」

「僕が採ったものが、薬になるんですね」

「はい。誰かの熱を下げたり、傷の痛みを和らげたりするものになります」

「そう聞くと、少し緊張します」

「もう採り終わったあとですが?」

「後から来ました」

 

 セラフィーンさんの翼が、僅かに揺れた。

 

「では次は、採っている時に少しだけ緊張してください」

「少しだけでいいんですか?」

「緊張しすぎると、草まで緊張してしまいそうですからー」

「草も?」

「たぶん」

「たぶん……」

 

 セラフィーンさんは、真面目な顔で頷いた。

 

 こちらも大人しく頷く。

 

 治癒術で傷を治せる人が言うのだから、草も緊張するのかもしれない。

 ……たぶん。

 

 納品の確認を終えると、セラフィーンさんは清水草の束を薬棚へ運んだ。

 棚には乾燥させた薬草や、小さな瓶が種類ごとに整然と並んでいる。

 

 その前で、彼女は何かを思い出したように首を傾げた。

 

「このあと、少し市場へ行こうと思っていたのです」

「市場ですか?」

「はい。薬湯に使う蜂蜜と、小瓶を少し。それから、清潔な布も補充したくて」

「セラフィーンさんも、買い出しをするんですね」

 

 思わず口へ出すと、セラフィーンさんがこちらを振り返った。

 

「しますよー」

「もっと、こう……教会の奥で祈っている人なのかと」

 

 一瞬の沈黙。

 

 そのあと、セラフィーンさんは口元へ手を当て、声を上げて笑った。

 

「ふふ。私とて、人ですよー? 祈りもしますし、買い物もします」

「聖女様は、忙しいんですね」

「蜂蜜の値段も覚えなければなりませんから」

「それは大変だ」

「季節によって変わりますからねー」

 

 聖女様は、蜂蜜の値段を覚える。

 

 少し意外だった。

 

 でも考えてみれば、祈っているだけで薬棚が満たされるわけではない。

 治療へ使う薬も、布も、瓶も、誰かが用意しなければならないのだ。

 

「よければ、荷物を持ちますよ」

 

 僕が申し出ると、セラフィーンさんは少し驚いたように目を瞬かせた。

 

「よいのですか?」

「はい。依頼も終わりましたし、このくらいならできます」

「それでは、お願いしてもよいでしょうか」

「任せてください」

 

 頷くと、セラフィーンさんは近くの修道士へ声を掛け、外へ出る準備を始めた。

 

 白と淡い青の衣の上へ、薄手の外套を羽織る。

 手には買い物用の、小さな籠。

 

 教会の中で見る彼女は、聖女という言葉がよく似合う。

 

 けれど、籠を持って歩く姿は――それだけではなかった。

 

 もちろん、相変わらず神聖で綺麗なのだけれど。

 ちゃんとこの街で暮らしている、一人の人にも見えた。

 

 ◆

 

 教会を出て市場へ向かう間、何人もの人がセラフィーンさんへ声を掛けた。

 

「セラフィーン様、この前はありがとうございました」

「娘の熱が下がりました。本当に助かりました」

「今日は買い出しかい?」

 

 セラフィーンさんは、その一人一人へ丁寧に返事をした。

 

 急いでいる様子はない。

 けれど、長く立ち止まりすぎることもない。

 

 相手の顔を見て、言葉を受け取り、必要な分だけ返してから、また歩き出す。

 

 その姿を見ていると、教会で傷を治すことだけが、彼女の仕事ではないのだと分かった。

 

「すごいですね」

「すごい、ですか?」

 

 セラフィーンさんが、不思議そうにこちらを見る。

 

「皆さん、セラフィーンさんのことを知っているんだなって」

「私も、皆さんのことをできるだけ覚えるようにしています」

「覚えるんですか?」

「はい。怪我をした場所や、苦手な薬。ご家族のことを少し覚えているだけで、次にお会いした時、話しやすくなることがありますから」

「治療って、そういうこともあるんですね」

「たぶん、あります」

「また、たぶん」

「はい。たぶんです」

 

 少しだけ楽しそうに言う。

 

 市場へ入ると、街の音が一気に大きくなった。

 

 魚を売る声に、肉を焼く匂い。

 風に広げられた布と、光を弾く薬瓶。

 

 香辛料が鼻をくすぐり、色鮮やかな果物が山のように積まれている。

 店先から店先へ飛び交う声へ、荷車の車輪が石畳を鳴らす音も重なっていた。

 

 エルドランへ来た日、ラッツさんのリーヴァウォを買えずに眺めていたことを思い出す。

 

 あの時は、一ソルも持っていなかった。

 

 今は少しくらいなら持っている。

 もっとも、今日は買い物をする側というより、荷物持ちなのだけれど。

 

 それはそれで、少し誇らしい。

 

「聖女様だ」

「隣のフードの子は、誰だ?」

「荷物持ちか?」

 

 周囲から、小さな声が聞こえてくる。

 

 悪口ではない。

 僕たちは悪いこともしていない。

 

 それでも、いくつもの視線を感じると、自然と肩へ力が入った。

 フードの中で、呼吸が少しだけ熱くなる。

 

「人の目が気になりますか?」

 

 セラフィーンさんが、隣で静かに尋ねる。

 

「少し」

「では、私も気にすることにしましょうか」

「え?」

「一人で気にするより、二人で気にした方が、少し軽くなるかもしれません」

 

 真面目な顔だった。

 

 言っていることは、よく分からない。

 けれど、それが少しおかしくて、思わず笑ってしまう。

 

「軽くなりましたか?」

「少しだけ」

「それはよかったですー」

 

 セラフィーンさんも、小さく笑った。

 

 ◆

 

 蜂蜜屋の店主は、セラフィーンさんを見るなり笑顔になった。

 

「おお、聖女様。いつものかい?」

「はい。今日は少し多めにお願いしますー」

「また、子どもたち用か」

「苦い薬は、なかなか手強いですから」

「ははっ。俺だって、苦い薬は嫌だね」

 

 店主は棚から丸い瓶をいくつか取り出し、陽の光へ翳した。

 

 琥珀色の蜂蜜が、瓶の中でゆっくり揺れる。

 見ているだけで、甘い匂いが漂ってくるようだった。

 

「苦い薬って、やっぱり苦いんですか?」

「苦いです」

「そこは否定しないんですね」

「苦いものを苦くないと言えば、次から信じてもらえなくなりますから」

「誠実だ……」

「ですので、蜂蜜で少しだけ誤魔化します」

「誤魔化すんですね」

「優しい誤魔化しです」

「優しい誤魔化し……」

 

 何となく、よい言葉のような気がした。

 

 店主から蜂蜜の瓶を受け取り、籠へ入れる。

 見た目よりも、ずしりと腕へ重さが掛かった。

 

「思っていたより、重いですね」

「大丈夫ですか?」

「はい。蜂蜜相手なら、まだ勝てます」

「戦うものではありませんよー」

「確かに」

 

 セラフィーンさんが小さく笑う。

 その笑みを見た店主が、なぜか僕へ向かってにやにやしていた。

 

 居心地が悪くなり、籠を持ち直す。

 

 次に向かったのは、薬瓶を扱う店だった。

 

 小さな瓶に、大きな瓶。

 口の細いもの、丸いもの、青や茶色に染められたもの。

 

 一見すれば似たような瓶ばかりなのに、セラフィーンさんは一本ずつ手に取り、口の広さや蓋の締まりを確かめていた。

 

「この瓶は、少し口が狭いですねー」

「その瓶と、こっちの瓶……違うんですか?」

「違います」

「同じに見えます」

「こちらは口が広いので、薬湯を入れやすいです。こちらは粉薬に向いています」

「そんな違いが」

 

 もう一度見比べる。

 

 やはり、ほとんど同じに見える。

 

「ルキウスさんも、剣なら僅かな重さの違いが気になりませんか?」

「あ……分かります」

「それと同じです」

「なるほど」

 

 そう言われると、一気に分かりやすくなった。

 

 道具には、それぞれ向いた使い方がある。

 

 剣にも。

 防具にも。

 

 薬を入れる瓶にも。

 

 清潔な布を扱う店でも、セラフィーンさんは一枚ずつ手触りを確かめ、織り目を見ていた。

 最後には、肌へ触れた時の柔らかさまで確かめている。

 

「治療に使う布は、肌へ触れますから」

「そこまで見るんですね」

「痛い時に、布まで痛いと悲しいでしょう」

「……確かに」

 

 痛い時に、布まで痛いと悲しい。

 

 そんな考え方を、僕はしたことがなかった。

 けれど、言われてみればその通りだと思う。

 

 傷を治すというのは、ただ傷口を塞ぐだけではないのかもしれない。

 

 ◆

 

 買い物の途中、市場の端で子どもが転んだ。

 

 小さな音だった。

 けれど、その直後に上がった泣き声は、人混みの中でもよく聞こえた。

 

 石畳へつまずいたらしい。

 幼い子どもが膝を押さえて座り込み、近くにいた母親が慌てて駆け寄っている。

 

 セラフィーンさんは、迷わずそちらへ向かった。

 

「見せてください」

 

 声は穏やかだった。

 でも、その動きは早い。

 

 子どもの前へ膝をつき、泣いている顔と同じ高さまで目線を下げる。

 それから、膝へできた傷をそっと確認した。

 

 大きな怪我ではない。

 ただの擦り傷だ。

 

 それでも子どもにとっては、十分に痛いのだろう。

 頬を伝って、涙がぽろぽろと落ちている。

 

「痛かったですね」

「う、うん……」

「泣いても大丈夫ですよ。痛い時は、痛いと言ってよいのです」

 

「…………」

 

 その言葉に、なぜか僕の足が止まった。

 

 痛い時は、痛いと言っていい。

 

 当たり前のことのはずなのに、僕にはあまり馴染みのない言葉だった。

 

 セラフィーンさんは小さな水の魔法を使い、傷口へついた砂を洗い流す。

 淡い光が水へ混ざり、膝の赤みを僅かに和らげていった。

 

 完全に傷を消すほどではない。

 けれど、痛みは引いたらしい。

 

 子どもの泣き声が、少しずつ小さくなる。

 

「これは、薬ではありませんよー」

 

 セラフィーンさんが外套の内側から、小さな蜂蜜飴を取り出した。

 

「ほんと?」

「はい。今日は特別です」

 

 子どもは涙の残る顔で飴を受け取る。

 母親は何度も頭を下げた。

 

 セラフィーンさんはその言葉を丁寧に受け止め、最後に子どもへ、走る時は足元を見てくださいね、と伝えてから立ち上がった。

 

 僕は少し遅れて歩き出す。

 

「痛い時は、痛いと言っていい……なんだか、不思議な言葉ですね」

 

 市場の賑わいの中で、ぽつりと呟く。

 

 セラフィーンさんは、僕を急かさず歩調を合わせた。

 

「そうですか?」

「僕、あまり言ってこなかった気がします」

「我慢していたのですか?」

「我慢というか……言う前に、何とかなることが多かったというか」

「それは、何とかならなかった時に困りますね」

「確かに」

 

 少し笑うと、セラフィーンさんも小さく笑った。

 

「痛いと言うのは、誰かへ迷惑を掛けることではありません。痛い場所を教えることです」

「教えること」

「はい。お腹が空いたと言えば、ご飯を用意できます。眠いと言えば、休む場所を探せます」

 

 青い瞳が、静かに僕へ向けられる。

 

「痛いと言えば、傷を探せます」

「……なるほど」

「ですから、痛い時は痛いと言ってください」

「でも、それで迷惑を掛けるかもしれません」

 

 セラフィーンさんは僅かに目を細めた。

 怒ったわけではない。

 

 何か、とても当たり前のことを教えるような表情だった。

 

「それでいいんですよー」

「いいんですか?」

「人へ一切迷惑を掛けずに生きることなど、不可能ですから」

 

 外套の裾と白い翼が、歩みに合わせて静かに揺れる。

 

「だからこそ、自分も――誰かの迷惑を許してあげるのです」

「誰かの迷惑を」

「はい。それで、お互い様です」

 

 セラフィーンさんは、そう言ってまた歩き出した。

 

 大げさな説教ではない。

 きっと本人にとっては、当たり前の話なのだろう。

 

 だからこそ――変に、胸の奥へ残った。

 

 ◆

 

 買い物を終える前に、僕たちは市場の端にある屋台で少し休むことになった。

 

 セラフィーンさんが選んだのは薬草茶。

 僕が選んだのは、甘い果実湯だった。

 

 屋台の簡素な椅子へ座ると、歩き回った脚が思っていたより重いことに気づく。

 

 蜂蜜の瓶に、小瓶と布。

 

 討伐依頼とは違う。

 けれど、荷物を抱えて市場を回るのは、それなりに疲れるものらしい。

 

 セラフィーンさんが薬草茶を一口飲む。

 

 湯気と一緒に漂う匂いを嗅ぎ、僕は少しだけ眉を寄せた。

 

「そのお茶、苦そうですね」

「少し苦いです」

「蜂蜜は入れないんですか?」

「あれは子どもたちの分ですから」

「セラフィーンさんの分は?」

「私は慣れています」

「でも、甘い方がおいしいですよ」

「……それは、そうですね」

「認めた」

 

 僕が言うと、セラフィーンさんは器を両手で包んだまま、僅かに視線を逸らした。

 

 その仕草が少しだけ普通の人らしくて、笑みが漏れる。

 

「ルキウスさんは、甘いものがお好きなのですか?」

「好きです。森にいた頃は、母が果実を煮たものを作ってくれました」

「お母様が」

「はい。すごく甘くて、すごく量が多かったです」

「量が多いのですか?」

「母は心配性なので。食べられる時に食べなさいって、山盛りにするんです」

「優しい方なのですね」

「はい。優しいです」

 

 一度、言葉を切る。

 

「ちょっと、かなり、ものすごく過保護ですけど」

「ものすごく」

「外へ出るのも大変でした」

「では、今こうして街を歩いていることも、ルキウスさんにとっては大きな冒険なのですね」

「……そうかもしれません」

 

 言われてみれば、その通りだった。

 

 ハンターになること。

 ギルドへ登録すること。

 

 依頼を受けること。

 雪原へ行くこと。

 

 フレイヴィアさんと、ランク1の依頼へ向かうこと。

 セラフィーンさんと市場で、蜂蜜を買うこと。

 

 どれも――家で暮らしていた頃の僕には、なかったことだ。

 

「セラフィーンさんは、甘いものが好きですか?」

「嫌いではありません」

「その言い方は、好きな人の言い方ですね」

「……ふふ。分かってしまいましたか」

 

 セラフィーンさんが、少しだけ困ったように笑う。

 

「実は、少しだけ」

「少しだけ」

 

 たぶん、少しではない。

 

 けれど、そこは追及しないことにした。

 僕も少しずつ、余計なことを言わない判断ができるようになっている。

 

「では、次は甘いものにしましょう」

「次、ですか」

 

 セラフィーンさんが器の縁越しに、こちらを見つめる。

 

「ルキウスさんは、デートの約束を作るのがお上手ですねー」

「で――っ!?」

 

 椅子から落ちそうになった。

 

「そ、そんなつもりではなかったんです!」

「ふふ。冗談ですよー」

「冗談……」

「ですが、約束は約束ですね」

「……はい」

 

 からかわれた。

 

 やはり教会の聖女様は、人をからかう。

 それも、自分がとても綺麗なことを分かってやっている気がする。

 

 セラフィーンさんは楽しそうに目を細め、再び薬草茶へ口をつけた。

 

「ルキウスさんは、街へ慣れましたか?」

「まだ、全然です。でも、知っている人は増えました」

「それは、よいことですね」

「はい。ギルドの人に、角兎亭の女将さん。それからアルナさん、フレイヴィアさん、セラフィーンさん」

「私も、知っている人へ入れていただけるのですね」

「入りますよ」

 

 抱えた籠を少し持ち上げる。

 

「今、一緒に蜂蜜を持っていますし」

「ふふ。そうですか」

 

 セラフィーンさんは、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

 それから飲みかけの薬草茶を、もう一口飲む。

 

 やはり少し苦そうだった。

 

 けれど、その表情も含めて――穏やかな時間だった。

 

 ◆

 

 買い物を終えて教会へ戻る頃には、籠の中は蜂蜜の瓶と小瓶、それから清潔な布でいっぱいになっていた。

 

 重くないと言えば、嘘になる。

 

 けれど、運べない重さではない。

 それに、これらが誰かの薬や治療へ使われるのだと思えば、不思議と嫌ではなかった。

 

「助かりましたー」

 

 教会の倉庫へ荷物を置くと、セラフィーンさんは丁寧に頭を下げた。

 

「いえ。このくらいなら」

「その『このくらい』を、きちんとしてくださるのはありがたいことです」

「そうですか?」

「はい」

 

 真っすぐ言われると、少し照れくさい。

 

 頬をかこうと手を上げたけれど、指先がフードの布へ当たっただけで終わった。

 

 セラフィーンさんは薬棚から小さな包みを取り出す。

 淡い色の布に包まれた、小さな傷薬だった。

 

「こちらは、今日のお礼です」

「え。いいんですか?」

「はい。私からですー」

 

 差し出された包みを、両手で受け取る。

 

「ありがとうございます。でも、使わない方がいいものですよね」

「はい。使わずに済むなら、それが一番です」

「では、大切に使わないようにします」

「はい。それが一番ですねー」

 

 傷薬を、素材袋の奥へしまう。

 

 できれば使わない。

 

 それが一番。

 

 少し前の僕なら、傷薬をもらえば、これで怪我をしても安心だと思ったかもしれない。

 

 けれど今は――使わずに済ませたいと思う。

 

 そう思えること自体が、少しだけ変化なのかもしれなかった。

 

「ルキウスさん」

 

 教会を出ようとしたところで、セラフィーンさんに呼び止められる。

 

「はい」

「次に教会へ来る時も、できれば治療以外でいらしてくださいね」

「納品や、荷物持ちですか?」

「はい。あるいは――ただ、お茶を飲みに来るだけでも」

「分かりました。時間がある時に、ぜひ」

「はいー。お待ちしております」

 

 セラフィーンさんは、静かに微笑んだ。

 

 その笑顔に見送られ、僕は教会をあとにした。

 

 ◆

 

 ギルドへ戻ると、アルナさんは依頼書へ押された納品印を確認し、問題なく完了処理を進めてくれた。

 

「ランク2、最初の依頼が完了ですね」

「はい」

「よい出だしです」

「ありがとうございます!」

 

 依頼完了の印が押される。

 その手元を眺めながら、素材袋の奥へ入れた傷薬の重さを少しだけ意識した。

 

「教会の方はいかがでしたか?」

「納品をして、そのあと買い物の荷物持ちをしました」

「荷物持ち?」

「蜂蜜と、小瓶と布です」

「なるほど。教会らしいですね」

「聖女様も、蜂蜜の値段を覚えるそうです」

「それは覚えますよ」

「アルナさんは、普通に受け入れるんですね」

 

 アルナさんは書類を揃え、受付の奥へしまう。

 

「教会もギルドも、帳簿と在庫からは逃げられませんから」

「急に現実的」

 

 アルナさんが小さく笑った。

 

 ランク2になって、最初に受けた依頼。

 

 派手な討伐ではなかった。

 

 清水草を採り、教会へ届ける。

 セラフィーンさんと市場を歩き、蜂蜜と小瓶、布を運ぶ。

 

 剣は抜かなかった。

 モンスターとも戦わなかった。

 

 それでも、蜂蜜の瓶は意外と重かった。

 小瓶には、用途ごとの違いがあった。

 

 聖女様も買い物をする。

 苦いお茶より、甘いお茶の方が好きらしい。

 

 それから――痛い時には、痛いと言っていい。

 

 そういうことを知った一日だった。

 

 ハンターの仕事は、僕が想像していたよりもずっと、街で暮らす誰かの生活へ繋がっている。

 

 そう思いながら、素材袋の上から傷薬の位置を確かめた。

 

 その時、少し離れた卓へ座っていたハンターたちの声が、ふと耳へ入る。

 

「……北で見たって話、本当か?」

「ああ。雪原の奥だ。足跡だけじゃねぇ。実物を遠目に見た奴がいるらしい」

「大型か?」

「たぶんな。しかも、浅い方まで降りてきてるって話だ」

 

 雪原。

 大型。

 

 二つの言葉を聞いた瞬間、顔が上がった。

 

 昨日、昇級試験で見つけた大きな足跡が頭をよぎる。

 

 古いが、浅い。

 

 フレイヴィアさんは、そう言っていた。

 

「アルナさん」

「はい」

「今の話は、昨日見つけた足跡と関係がありますか?」

 

 アルナさんは依頼書を片づける手を、一度だけ止めた。

 栗色の猫耳が、僅かに伏せられる。

 

 それから、周囲へ聞こえないよう声を少し落とした。

 

「まだ、はっきりしたことは分かっていません」

「分かっていない」

「はい。北の雪原地帯で、大型モンスターらしき目撃報告が出ているのは事実です」

 

 アルナさんは慎重に言葉を選ぶ。

 

「ですが、種の特定も、移動経路も確定していません」

「浅い区域まで来ているというのは?」

「現時点では、可能性の話です」

 

 そう言ったけれど、その表情は決して軽くなかった。

 

「ルキウスさんは、今は近づかないでください」

「はい」

「これはお願いではなく、受付としての指示です」

「……はい」

 

 いつもより真剣な声に、素直に頷く。

 

 雪原の北。

 大型モンスター。

 

 まだ見たことのない何かが――白い世界の奥から、不穏な影を少しずつ伸ばし始めていた。

 

 





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