駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
ギルドの掲示板というものは、眺めているだけでも街の空気が分かる。
依頼書の数。
貼がしていく依頼もあれば、何日経っても残り続けるものもある。
そういう小さな違いを見ていると、今この街の周りで何が起きているのか、少しだけ見える気がした。
そしてその朝、僕がギルドへ入って最初に気づいたのは――雪原に関する張り紙が、明らかに増えていることだった。
『雪原北部方面、一部依頼制限中』
『雪原地帯第二区域以降、単独行動非推奨』
『大型モンスターらしき痕跡、現在確認中』
『雪原方面支援物資、納品強化中』
『寒冷地装備の再確認を推奨』
「…………」
文字を目で追うたび、昨日まで噂だったものが、少しずつギルドの現実へ変わっていくように感じられた。
雪原。
北。
大型モンスター。
昇級試験で見つけた、あの大きな足跡。
ガルドさんから聞いた、雪原へ向かう荷が止まり始めているという話。
別々に聞いたはずの話が――すべて、同じ方角を指している。
「気になりますか?」
横から声を掛けられ、顔を向ける。
アルナさんが受付台の内側から、こちらを見ていた。
手には何枚もの書類を持ったままだったけれど、栗色の猫耳は真っすぐ僕へ向いている。
「……気になります」
「近づかないでくださいね」
「分かっています」
「分かっている方の顔ではありません」
「顔、見えています?」
「雰囲気で分かります」
フードを被っていても分かるらしい。
受付嬢というのは、たぶん顔だけでなく、姿勢や声、歩き方まで見ている。
怖い。
いや、ありがたい。
どちらかといえば、ありがたい。
……たぶん。
アルナさんは受付台から少し身を乗り出し、掲示板に増えた張り紙を指先で示した。
「雪原の北側については、現在ギルドでも調査中です。正式な討伐依頼を出せる段階ではありませんが、低ランクのハンターが興味本位で近づいてよい場所ではありません」
「はい」
「ただし、雪原の浅い区域で行う支援や採取の依頼は、今後増えていくと思います」
「浅い区域……」
「はい。ルキウスさんが向かうとしても、まずはそこからです」
アルナさんの視線が、僕の頭から足元へ動いた。
いつものように怪我を探しているのではない。
腕当て。
手袋。
靴。
外套。
今の装備で雪原に立てるかどうかを、受付嬢の目で確かめているのだと分かった。
「ルキウスさん、防寒装備は持っていますか?」
「ええと……フードがあります」
「フードは防寒装備ではありません」
「母の特製です」
「お母様の愛情と、防寒性能は別枠です」
「別枠……」
母が聞けば、愛情で防寒くらいできます、と真顔で言いそうだった。
いや、母の場合は魔法か何かで本当に実現させる可能性がある。
あまり強くは否定できない。
そんなことを考えている間に、アルナさんは手元の書類を整え、受付台の端へ小さな地図を広げた。
雪原地帯の浅い区域に、青い印がいくつかつけられている。
「今すぐ雪原へ向かう予定がなくても、準備だけはしておいた方がよいでしょう。ランク2なら、第一区域の依頼を受けられますから」
「でも、お金が……」
「すべてを揃える必要はありません。最低限からで大丈夫です」
ガルドさんへ百ソルを返したばかりで、僕の財布はまだ少し寂しい。
角兎亭の宿代もいる。
食事代だって必要だ。
装備を買えば、その分また依頼を受けて稼がなければならない。
けれど――雪原で寒さに負ける方が、もっと困る。
黙り込んだ僕を見て、アルナさんが小さく息をついた。
「装備店通りに、寒冷地用の品を扱っているお店があります。見るだけでも勉強になりますよ」
「分かりました。行ってみます」
「買いすぎないでくださいね」
「はい」
「それから、格好いいだけのものを買わないこと」
「……はい」
少しだけ、返事が遅れた。
格好いい装備は、やはり気になる。
けれどアルナさんの目があまりにも静かだったので、僕は素直に頷いた。
◆
ギルドを出て装備店通りへ向かう間、革袋の重さを何度か確かめた。
軽い。
とても軽い。
ガルドさんへ百ソルを返した財布は、まだ少し拗ねている。
けれど、雪原で指が動かなくなるよりは、財布に拗ねられる方がましなのかもしれない。
「どこまで買えるかな……」
中身を頭の中で数えながら歩いていると、背後から名前を呼ばれた。
「ルキウス」
ここ最近で、随分と聞き慣れた声だった。
振り返る。
黒い髪。
黄金の瞳。
首元に覗く黒い竜鱗。
背中には、いつもの大剣。
フレイヴィアさんが、通りの中央に立っていた。
相変わらず、そこにいるだけで周囲の空気が少しだけ張り詰めるような人だ。
ただ今日は、外套の裾が僅かに濡れていた。
黒い布へ残っている白い跡は、溶けた雪のものに見える。
「フレイヴィアさん」
「何をしている」
「雪原用の装備を見に行くところです」
黄金の瞳が、僅かに細められる。
責めているわけではない。
何かを確かめるような目だった。
「……雪原へ行くのか」
「まだ行きません。準備だけです」
「そうか」
短い返事だった。
けれど、ほんの少しだけ周囲の空気が緩んだ気がする。
たぶん、安心したのだと思う。
本人の表情は変わっていないけれど、僅かに下がっていた尾の先が、ゆっくり元の位置へ戻った。
たぶん、そういうことだ。
フレイヴィアさんは僕の手元へ目を向け、それから装備店通りの奥を見た。
「一人で選ぶつもりか」
「はい。アルナさんに、お店を教えてもらいました」
「雪原用の装備を?」
「はい」
「……ならば、余も行く」
「いいんですか?」
「雪原を知らぬ者が、防寒具を見た目だけで選べば死ぬ」
「死ぬ」
「大げさではない」
「お願いします」
即答した。
格好いいだけの装備を買わない自信はある。
たぶん。
でも、死なない装備を選べる自信は、もっとなかった。
フレイヴィアさんは当然のように僕の隣へ並び、そのまま歩き始めた。
周囲の人たちが自然と道を空けてくれるため、いつもより進みやすい。
本人は気にしていないようだけれど、やはり存在感がすごい。
「フレイヴィアさん、雪原へ行っていたんですか?」
「ああ」
「北の大型モンスターの件で?」
「……耳が早いな」
それ以上、返事はなかった。
けれど、その横顔は少しだけ硬い。
雪原の北で、何かが起きている。
もう、ただの噂ではないのだろう。
◆
寒冷地用品を扱う店は、装備店通りの中でも奥まった場所にあった。
入口には厚手の外套が何着も吊るされ、店内には毛皮や革、油を染み込ませた布、靴底へ巻く革紐、雪目避けの布、携帯用の温石……凍りにくい保存食まで並んでいる。
扉をくぐった瞬間、革と毛皮、それに乾いた薬草の匂いが押し寄せてきた。
「おお……暖かそう」
「見た目で選ぶな」
「まだ、何も選んでいません」
「顔が選んでいた」
「顔が?」
フード越しでも顔が選ぶらしい。
どういうことだろう。
店主らしい中年の獣人族は、フレイヴィアさんを見るなり目を丸くした。
手にしていた革紐を棚へ戻し、慌てるほどではないものの、すぐに背筋を伸ばす。
「フレイヴィア様。本日は、どのような品を?」
「余ではない。こやつの雪原用装備を見に来た」
「ルキウスです」
「ああ。噂のフードの新人か」
「噂……?」
「血まみれで帰ったり、ランク1のスノウラビ捕獲へフレイヴィア様を連れていったりしたって聞いたぞ」
「広まり方が偏っています」
小さく呟く。
隣のフレイヴィアさんは否定してくれず、何事もなかったように店内を見回していた。
まあ、どちらも事実ではある。
フレイヴィアさんは棚に並ぶ品を順番に眺め、厚手の布が積まれている場所で足を止めた。
「まずは首巻きだ」
「首巻きですか」
「首と手首、足首を冷やすな」
「なるほど」
灰色。
白。
茶色。
薄い青。
フレイヴィアさんは首巻きを一枚ずつ持ち上げ、布の厚さや織り目を確かしていく。
軽く引っ張り、光へ透かし、内側の肌触りまで指先で確かめていた。
かなり真剣だ。
「冷えれば動きが鈍る。感覚が落ちる。判断も遅れる」
「雪原、怖いですね」
「そうだ」
短い答えだった。
その言い方に、自然と背筋が伸びる。
雪原は綺麗だった。
白く、静かで、冷たい。
どこか、この世界から切り離された別の場所のようにも見えた。
けれど――あの白さは、優しさではない。
フレイヴィアさんの声は、そう教えているようだった。
「これは、どうですか?」
棚の中から、白地に淡い青の模様が入った首巻きを取り出す。
雪の結晶にも見える細かな刺繍が施され、厚すぎず、薄すぎない。
手触りも悪くなかった。
フレイヴィアさんはそれを受け取り、布地を指で押してから短く頷く。
「悪くない」
「見た目で選ぶなと、言いませんでした?」
「機能も悪くない」
「本当ですか?」
「本当だ」
「少し可愛いからでは?」
「……機能も、悪くない」
「なるほど」
「何を納得している」
フレイヴィアさんの尾が、ほんの僅かに揺れる。
これは、たぶん当たりだ。
追及しすぎれば怒られそうなので、僕はその首巻きを候補の山へ置いた。
少しは引き際というものを覚えている。
「手袋は持っているな」
「はい」
次に差し出されたのは、地味な生成り色の薄布だった。
見た目だけなら、ただの布にしか見えない。
手に取っても、特別暖かいわけではなかった。
「手袋の内側へ入れろ。汗を吸わせる」
「汗ですか? 寒いのに?」
「動けば汗をかく。汗が冷えれば、指が動かなくなる」
「指が動かないと……」
「剣を握れぬ。縄も結べぬ。荷物も開けられぬ」
「困りますね」
「雪原だからな」
雪原だ。
その一言で片づけられてしまった。
けれど、たぶん本当にそうなのだろう。
普段なら少し不便なだけで済むことが、雪原ではそのまま命へ繋がる。
知らなければ気にも留めなかった一枚の布が、生きて帰るための道具になるのだ。
フレイヴィアさんは今度、薄い灰色の布を手に取った。
目元へ巻くものらしく、横長の布の端に小さな留め具がついている。
「これは?」
「目を守る布だ」
「布で?」
「雪原の白は目を焼く」
「白が?」
「白が」
フレイヴィアさんは布を店内の灯りへ翳し、光の透け方を確かめた。
白い指先に灰色の布が重なり、その向こうで黄金の瞳が細められる。
「雪原では、白が敵になる」
その言葉は、不思議と強く胸へ残った。
雪の白。
空から落ちる光。
どこまでも続く白い地面。
それらが目を焼き、距離を狂わせ、足元を覆い隠す。
「白って、綺麗なだけではないんですね」
「綺麗なものほど、油断すれば危うい」
「……フレイヴィアさんが言うと、説得力がありますね」
「どういう意味だ」
「いえ。よい意味です」
「今の間は何だ」
「よい意味の間です」
黄金の瞳が、じっと僕へ向けられる。
僕は目を逸らした。
視線が強い。
雪原の白に焼かれるより先に、黄金の瞳で焼かれそうである。
その後、靴底へ巻く滑り止め用の革紐を見せてもらった。
これについては、フレイヴィアさんが迷わず一つを選んだ。
「これは必ず買え」
「必ず?」
「転ぶ。滑る。落ちる」
「三段活用みたいですね」
「笑うところではない」
「すみません」
すぐに謝った。
フレイヴィアさんは革紐の留め具を確かめ、僕の靴底へ目を向ける。
先日補修したばかりの靴なら、この革紐で十分らしい。
もっと高く、頑丈な商品もあった。
けれどフレイヴィアさんは、そうした品へは手を伸ばさない。
強い装備。
高級な防具。
そういうものを選んでいるのではなかった。
僕が扱えて。
僕が持ち運べて。
今の僕が買える範囲から、必要なものだけを選んでくれている。
――そういうところが、フレイヴィアさんの優しさなのだと思う。
「これは?」
僕は棚の隅にあった、丸い小石のようなものを持ち上げた。
手のひらへ収まるくらいの大きさ。
表面には細い溝が幾重にも彫られている。
「温石だ。魔力を通せば、しばらく温かい」
「便利ですね」
「便利だが、過信するな。力が切れた時に困る」
「全部に、過信するなってつきますね」
「雪原では、だいたいそうだ」
「なるほど……」
防寒具を一つ教わるたび、雪原の怖さも一つ増えていく。
寒さ。
汗。
白さ。
滑る足元。
温かさを失えば、ただの石になってしまう温石。
準備をしているはずなのに、むしろ不安が大きくなっている気がした。
でも――きっと、それでいい。
何も知らずに踏み込むより、怖い場所だと理解している方がいい。
◆
最低限必要な品を店主へ並べてもらい、合計の金額を聞く。
「…………」
僕は固まった。
革袋も、たぶん外套の内側で固まった。
「……高い」
「金額の話か」
「はい」
「必要なものを削って死ぬよりは安い」
「正論が痛い……」
百ソルを返した直後の財布に、防寒具の出費はかなり厳しい。
けれど、ここで惜しんで雪原で困るのは、もっと嫌だ。
未練がましく外套の棚へ視線を向けると、フレイヴィアさんが即座に口を開いた。
「それは不要だ」
「まだ見ただけです」
「今の主には高すぎる」
「では、こちらの毛皮帽子は?」
「不要だ。耳が隠れすぎて音を拾いにくい」
「これ、格好いいですよ」
「不要だ」
「即答」
「格好よさで寒さは防げぬ」
「正論が二回目……」
店主が、隣で小さく笑っている。
フレイヴィアさんはまるで気にせず、買うものを次々と絞っていった。
厚手の首巻き。
手袋の内側へ入れる薄布。
雪目避けの灰布。
靴底用の滑り止め革紐。
携帯用の温石。
小さな防水袋。
それから、凍りにくい保存食を少し。
雪原へ向かうために必要なものを、すべて揃えたわけではない。
今の僕が第一区域の浅い場所へ向かうなら、まずはここから。
そのための最低限だった。
保存食の棚には、固く干した肉や、油を練り込んだ焼き菓子、塩気の強い乾燥スープの包みが並んでいる。
一つを手に取り、包みの上から軽く押す。
「……美味しくなさそうですね」
「美味ではない」
「そこは否定しないんですね」
「雪原では、味より生存だ」
「セラフィーンさんの薬みたいなことを言いますね」
「薬?」
「苦いけれど、身体にはよいと」
「……そうか」
フレイヴィアさんは、なぜか少しだけ考え込んだ。
その表情が妙に真剣だったため、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「怒りませんか?」
「内容による」
「やめておきます」
「賢明だ」
昨日、フレイヴィアさんが持ってきた肉のことを思い出したのだ。
雪原では味より生存だと言うわりに、彼女は食事にかなりこだわっているような気がする。
けれど、口にすれば面倒なことになる。
たぶん、間違いなく。
僕は賢明なので黙った。
たまには成長する。
会計を終えると、革袋はさらに軽くなった。
百ソルを返した時とは、また別の寂しさがある。
けれど手元には、きちんと雪原用の道具が残った。
「これでよし……」
買ったものを素材袋へ収めていると、店の奥で店主がいくつかの木箱を運んでいるのが見えた。
箱の側面には、ギルドと教会の印が押されている。
「その木箱、雪原用ですか?」
店主は箱を棚の前へ置き、腰を軽く伸ばしながら頷いた。
「ああ。雪原の調査へ出るハンター向けの支援物資だ。最近、こういう注文が増えていてな」
蓋の開いていた箱の中には、薬包や保存食、防寒布が隙間なく詰められている。
薬包の一部には、教会の封印が押されていた。
「清水草も使われている」
隣で、フレイヴィアさんが呟いた。
「清水草……」
箱の中へ目を向ける。
少し前、渓流地帯で清水草を採った。
教会へ届け、セラフィーンさんが一本ずつ確認してくれた。
市場を一緒に歩き、蜂蜜や小瓶、それから清潔な布を買った。
あの時は、街の中にいる誰かの暮らしへ繋がる仕事なのだと思った。
けれど今、その薬は雪原へ向かう木箱の中にも入っている。
僕が採った草。
セラフィーンさんたちが作った薬。
ガルドさんたち運送人が運ぶ荷物。
フレイヴィアさんたちが向かう雪原の調査。
別々のものだと思っていた仕事が、少しずつ同じ方向へ流れている。
北へ。
雪原へ。
「……不思議ですね」
「何がだ」
「僕が受けた小さな依頼が、こういうところへ繋がっていることが」
フレイヴィアさんは、木箱へ目を向けたまま答えた。
「そうか」
短い声だった。
けれど、いつもより静かで――妙に重かった。
「狩りも、採取も、運搬も、治療も。すべて繋がっている」
黄金の瞳が、箱の中へ並ぶ薬包を見つめる。
「どれか一つだけでは、遠くへは進めぬ」
「……はい」
「覚えておけ」
「はい」
僕は、しっかりと頷いた。
フレイヴィアさんの言葉は短い。
けれど時々、とても大切なことを教えてくれる。
◆
買い物を終えて店を出ると、通りを抜ける風が先ほどよりも冷たく感じられた。
雪原用の道具を見たからかもしれない。
それとも本当に、北から吹いてきた風だったのかもしれなかった。
フレイヴィアさんは店先で足を止め、装備店通りの向こうへ視線を向ける。
その先に雪原が見えるわけではない。
それでも彼女は、もっと遠くを見ているようだった。
「フレイヴィアさんは、また雪原へ行くんですか?」
「ああ」
「北の大型モンスターの件で?」
「まだ、大型だと決まったわけではない」
「でも……何かはいるんですよね」
「いる」
断言だった。
噂でも、誰かから聞いた報告でもない。
彼女自身が見て、感じたものとしての言葉だった。
僕は小さく息をのむ。
「まだ、狩る段階ではない」
「では、何をするんですか」
「見る。調べる。近づいてはならぬ場所を定める」
「倒すのではないんですね」
「倒す前に、知らねばならぬ」
フレイヴィアさんは、当然のことのように答えた。
強いから、すぐに倒しに行くのではない。
強いからこそ、まず見る。
調べる。
知らなければ、動かない。
それが、フレイヴィアさんのハンターとしての在り方なのだろう。
「雪原では、白が敵になる」
「先ほども言っていましたね」
「距離が狂う。音が消える。足跡が隠れる。風が向きを変える」
遠くを見つめたまま、フレイヴィアさんは続ける。
「自分がどこへ向かっているのかすら、分からなくなる」
「……怖いですね」
「怖いと思うなら、それでよい」
怖いと思うなら、それでよい。
アルナさんにも、似たことを言われた気がする。
怖いと思えるなら、まだ立ち止まれる。
危険から目を逸らさずにいられる。
きっと――怖さを忘れた時が、一番危ない。
素材袋へしまったばかりの雪目避けへ、布越しに触れる。
「僕も、いつか雪原の奥へ行けるようになりますか」
「行けるようになれ」
即答だった。
行ける、ではない。
なれる、でもない。
――なれ。
その言い方が、少しだけフレイヴィアさんらしかった。
「……はい」
「だが、今ではない」
「はい」
「装備を買ったからといって、行けるようになったわけでもない」
「はい」
「だが、何も知らぬままよりはよい」
そこで、フレイヴィアさんの表情がほんの僅かに緩んだ。
張り詰めていた黄金の瞳が、少しだけ静かになる。
「準備をするのは、悪くない」
「今日は、付き合ってくれてありがとうございました」
「礼を言われるほどのことではない」
「でも、助かりました」
「……そうか」
大きな尾が、ほんの少しだけ揺れた。
たぶん、喜んでいる。
本人は認めないかもしれないけれど。
――そんなことを考えている間に、フレイヴィアさんはすでに歩き出していた。
「あ、待ってください」
素材袋を押さえ、慌ててその背中を追いかける。
今日、僕は雪原へ向かうための装備を買った。
けれど、それだけで雪原の奥へ行けるわけではない。
強くなったわけでも、安全になったわけでもなかった。
ただ、知らなかった危険を一つずつ知った。
寒さを。
白さを。
準備をしても、過信してはいけないことを。
そして――雪原の向こうでは、僕の知らない何かが、確かに動き始めている。
今はまだ、そこへ行けない。
だからこそ。
いつか行けるようになるために、僕は買ったばかりの装備を抱え、フレイヴィアさんの背中を追って歩いた。
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