駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
雪原へ行く準備をしたからといって、すぐに雪原へ行くことになるとは限らない。
そう思っていた。
少なくとも、昨日の僕はそう思っていた。
角兎亭の自室で、机の上に並べた雪原用の道具を一つずつ素材袋へ詰めながら、僕は何度か自分にそう言い聞かせる。
厚手の首巻き。
手袋の内側に入れる薄布。
雪目避けの灰布。
靴底用の滑り止め革紐。
携帯用の温石。
小さな防水袋。
凍りにくい保存食。
どれも、昨日フレイヴィアさんと一緒に選んだものだ。
まだ本格的に雪原へ行くわけではない。
行くとしても浅い区域だけ。
そう分かっていても、道具を並べているだけで、白い風が部屋の中まで入り込んできたような気がした。
雪原では、白が敵になる。
フレイヴィアさんの言葉を思い出しながら、僕は灰布を手に取った。
指先で布の端をなぞると、昨日の店で見た雪原用の品々と、彼女の静かな声が頭の中に戻ってくる。
白が敵。
距離が狂う。
音が消える。
足跡が隠れる。
風が向きを変える。
昨日、店先で聞いたそれらの言葉は、雪を知らない僕の頭の中で、まだ少しだけ形を持たないまま漂っている。
「今日は雪国坊やかい?」
朝食の席で女将さんにそう言われた時、僕は思わず素材袋を抱え直した。
角兎亭の食堂には、いつものように焼いた肉とスープの匂いが広がっている。
それなのに、袋の中に入った雪目避けの布や温石のせいで、どこか空気が冷たく感じられた。
「まだ雪国ってほど奥には行かない……予定です」
「予定って言葉をつける時は、だいたい行く時だね」
「うっ」
女将さんは大きな皿に焼いた肉とパンを乗せ、さらに温かいスープを置いた。
いつもより少し多い。
僕が皿を見てから女将さんを見ると、彼女は当然だろうと言いたげに片眉を上げた。
「寒いところへ行くなら、腹に入れときな。寒さってやつは、外からだけじゃなくて中からも来るからね」
「まだ行くと決まったわけじゃ」
「予定なんだろ?」
「……はい」
「なら食べな」
それ以上の反論は無理だった。
僕は言われた通り、いつもより少し多めの朝食を食べる。
温かいスープが喉を通って腹に落ちると、少しだけ体の中に火が灯ったような気がした。
寒さは腹からも来る。
雪原に行ったことのある人の言葉なのか、それとも宿の女将として旅人を見てきた経験なのかは分からない。
けれど、どちらにせよ覚えておいた方がいい気がした。
◆
ギルドへ入ると、雪原関係の張り紙は昨日よりさらに増えていた。
雪原北部方面、一部依頼制限中。
雪原地帯第二区域以降への単独行動非推奨。
大型モンスターらしき痕跡確認中。
雪原方面支援物資、納品強化中。
その横に、新しい依頼書が数枚貼られている。
ランクの高いハンター向けの調査依頼や警戒任務の中に、一枚だけ、僕でも手を伸ばせる依頼があった。
雪原地帯第一区域・調査用キャンプへの物資補給。
ランク2。
依頼主はハンターズギルド・エルドラン支部。
内容は、雪原第一区域外縁部に設営中の調査用キャンプへ、薬包、温石、保存食、標識札などを届けること。
備考欄には、第二区域以降への進入禁止、物資納品後は速やかに帰還、異常痕跡を発見した場合は調査せず報告、と書かれている。
大型モンスターの調査依頼ではない。
討伐依頼でもない。
調査用キャンプを作っているギルド員への物資補給。
でも、行き先は雪原だった。
僕が依頼書の前で立ち止まっていると、受付の方からアルナさんが歩いてきた。
彼女は僕の視線の先を見て、それからこちらへ顔を向ける。
猫耳が、少しだけ警戒するように立っていた。
「受けるんですか?」
「……受けたいです」
すぐに返事をしたつもりだったけれど、自分でも少し声が硬いのが分かった。
アルナさんは依頼書を見て、それから僕の素材袋と首元を見た。
昨日買った首巻きをしていることに気づいたらしく、ほんの少しだけ目を細める。
「これは雪原の依頼です」
「はい」
「大型モンスターの調査依頼ではありません。調査用キャンプへの物資補給です」
「はい」
「届けたら帰ってきてください」
「はい」
「第二区域には入らない」
「入らないです」
「異常な痕跡を見つけても、調べようとしない」
「戻って報告します」
「本当に?」
「本当に本当です」
「……分かりました」
アルナさんは、いつものように少しだけ不安そうな顔をした。
それでも、依頼書を剥がして受付へ持っていく。
依頼そのものは正規のランク2依頼で、行き先も雪原第一区域外縁部まで。
調査用キャンプにはギルド員がいて、物資を届けた後はすぐに帰る。
僕は昨日、防寒具も最低限揃えた。
だから、受けられる。
受けられるのだ。
「準備はしていましたね」
「はい」
「なら、その準備を使って、ちゃんと帰ってきてください」
「はい!」
アルナさんは受付処理を終えると、ギルド奥の倉庫へ案内してくれた。
そこで渡された物資は、思っていたより小さな荷物だった。
けれど、背負ってみるとそれなりに重い。
雪原を歩くことを考えると、この重さも無視できないのだろう。
中身は、教会印の薬包、携帯用温石、雪原用保存食、乾燥スープ、修理用の細縄、標識札、防水紙に包まれた記録用紙。
薬包に押された教会の印を見て、僕は少し手を止めた。
「これ、教会の薬ですよね」
「はい。先日納品された清水草も使われているかもしれません」
アルナさんの言葉に、僕は小さく頷いた。
清水草を採った日。
セラフィーンさんが一本ずつ丁寧に確認してくれたこと。
市場で蜂蜜や小瓶を運んだこと。
あの時には、街の中の誰かの暮らしに繋がっているのだと思った。
けれど今、その薬は雪原へ向かう荷物の中に入っている。
僕が採った草が、誰かの帰り道になるかもしれない。
そう思うと、物資袋の重さが少しだけ変わった気がした。
「……ちゃんと届けます」
「お願いします」
アルナさんはそう言って、いつもより少しだけ丁寧に頭を下げた。
◆
雪原入口までは、ギルドが手配した運送便に乗せてもらえることになった。
港側の運送区から来たケルン車で、御者台にいたのはガルドさんだった。
「お前、本当に雪原行くのか」
僕を見た瞬間、ガルドさんはそう言った。
犬耳が少しだけ後ろへ倒れている。
「第一区域のキャンプまでです」
「だけ、って言うやつほど足を伸ばす」
「伸ばしません」
「当り前だ」
ガルドさんは荷台の後ろに物資袋を固定し、それから僕を見た。
いつもの明るさはある。
けれど、声の奥には冗談ではない硬さもあった。
「帰りは夕刻前だ。キャンプに物資を届けて、納品印をもらって、さっさと戻ってこい」
「はい」
「遅れたら?」
「歩いて帰る」
「凍るぞ」
「すみません」
「だから遅れるな」
ガルドさんの声はいつも通り少し乱暴だったけれど、からかうというより本気で言っているのが分かった。
僕は荷台に乗り込み、物資袋を膝元に置く。
ケルン車が動き出すと、街の石畳の音がだんだん遠ざかり、代わりに車輪が硬い土を噛む音が聞こえ始めた。
エルドランの外へ出る。
渓流地帯へ向かう道とも、山岳地帯へ向かう道とも違う、冷たい空気の混じる道。
やがて、前方の景色が白く変わっていく。
雪原だ。
◆
雪原は、前に見た時と同じように白かった。
けれど、今日はその白さの意味が少し違って見える。
綺麗な景色ではなく、距離を狂わせ、音を消し、足跡を隠すもの。
フレイヴィアさんの言葉が、首巻きよりも先に背筋を冷やした。
ケルン車を降りた場所は、雪原地帯第一区域の入口に近い中継地点だった。
ここから先は、標識を辿って調査用キャンプまで歩く。
僕はまず首巻きを直し、灰布を目元に巻いて、雪の反射を少し和らげた。
手袋の内側の薄布がずれないように指を動かし、靴底に巻いた滑り止め革紐を確かめる。
最後に、温石を一度握った。
指先から少しだけ魔力を通すと、石の内側に小さな火が灯るように、じんわりと温かくなる。
昨日は店で選んだ道具だった。
今日は、自分の体につけて、雪の上に立っている。
それだけで、雪原が少し現実になった。
「行ってきます」
「おう。戻ってこい」
ガルドさんはそれだけ言った。
僕は頷き、物資袋を背負って雪原へ踏み出した。
雪を踏む音が、ぎゅ、と小さく鳴る。
一歩。
もう一歩。
滑り止めのおかげで、足元は思ったより安定していた。
ただ、雪の上を歩くたびに、普段の地面とは違う沈み方をする。
歩くだけで体力を削られるのだと、数十歩で理解した。
標識は、一定の間隔で雪の中に立っていた。
木の棒に布が巻かれ、その下に簡単な矢印が刻まれている。
雪で少し埋まりかけているものもあり、僕は近くを通るたびに状態を確認しながら進んだ。
依頼内容は物資補給だ。
でも、標識の状態を見ておくのも仕事の一部だった。
白い景色の中で、標識の布は頼りになる。
これがなければ、帰り道は一気に曖昧になるだろう。
見える距離より、戻れる距離を信じろ。
そんな言葉が、頭の中に浮かんだ。
誰かが言っていたわけではない。
ただ、雪原に立っていると、自然とそう思えた。
◆
調査用キャンプは、第一区域外縁部の少し開けた場所にあった。
キャンプといっても、大きな施設ではない。
雪を避けるための簡易幕が張られ、支柱がいくつか立ち、木箱と縄と標識札がまとめられている。
温石を入れるための金属製の器具が中央に置かれ、その周囲で数人のギルド員が忙しそうに動いていた。
ハンターというより、調査と支援のための職員たちだ。
ただ、その顔には街中のギルド員とは違う硬さがあった。
「補給か。助かった」
近くにいた獣人のギルド員が、僕に気づいて声をかけてきた。
「エルドラン支部から来ました。ルキウスです」
「ランク2か?」
「はい」
「なら、ここまでだ。奥には行くなよ」
「はい」
挨拶より先にそれだった。
でも、誰も冗談で言っているようには見えない。
僕は物資袋を下ろし、薬包や温石、保存食を指定された箱へ移していった。
教会印の薬包は、濡れないように防水布の奥へ。
温石は中央の器具の近くへ。
標識札と細縄は、外の支柱のそばへ。
作業そのものは難しくない。
けれど、雪の上で物を運ぶだけでも、思ったより疲れる。
手袋の中に入れた薄布が汗を吸ってくれているのを感じ、昨日フレイヴィアさんが言っていたことを思い出した。
寒くても、動けば汗をかく。
そして、その汗が冷えれば指が動かなくなる。
知っているだけで、気にする場所が増える。
それは少し怖くもあり、少し心強くもあった。
「大型モンスターは、見つかったんですか?」
作業の途中、僕は思わず聞いてしまった。
獣人のギルド員は、記録板に何かを書き込みながら答えた。
「本体はまだだ」
「本体は」
「痕跡はある。足跡、折れた木、食い散らかされた小型モンスターの残骸。十分すぎるくらいにな」
「……」
「見つかってないから安全、ってわけじゃない。見つかってないから怖いんだ」
その言葉に、僕は雪原の奥を見た。
白い。
ただ白い。
見つかっていないから、そこにいないわけではない。
見えないということは、分からないということだ。
分からないということは、怖い。
「おい、ハンター!」
「は、はい!」
嫌な予感に、足を止めていれば後ろから元気な声がかかったので、振り向く。
そこには、僕の半分くらいの身長しかない小人族が大きく手を振っていた。
「こっちの札、一つ立て直すのを手伝えるか?」
「あ、はい」
僕はギルド員に頼まれ、雪で少し傾いた標識札を立て直した。
支柱の周りの雪を少し掘り、標識の向きを確認し、縄で固定する。
滑り止めがなければ足元がずれていたかもしれないし、灰布がなければ白い反射で目が痛くなっていたかもしれない。
昨日買ったものが、ちゃんと役に立っている。
それが少し嬉しかった。
物資の確認が終わると、ギルド員が依頼書に納品印を押してくれた。
「戻り道、風が変わりそうだ。早めに出ろ」
「分かりました」
「標識から離れるなよ」
「はい」
僕は物資袋を軽くなった状態で背負い直し、キャンプの外へ出た。
依頼は終わった。
あとは戻るだけ――そのはずだった。
◆
帰り道、雪原は驚くほど表情を変えていた。
キャンプへ向かう時には穏やかだった風が、横から吹くようになっている。
雪が舞い上がり、遠くの標識の輪郭がぼやける。
音も変だった。
さっきまで聞こえていた自分の足音が、雪に吸われて小さくなっていく。
風の音があるのに、他の音が遠い。
白い景色の中で、目印になるものが少しずつ曖昧になっていく。
僕は足を止め、次の標識を確認した。
見えている。
まだ大丈夫。
焦るな。
依頼は終わった。
戻る。
戻って報告する。
そう自分に言い聞かせながら歩いていると、雪の上に不自然な跡を見つけた。
最初は、雪が風で削れた跡かと思った。
けれど違う。
広い範囲の雪が、何か重いものに押し潰されたように沈んでいる。
近くの低い木の枝が折れていた。
その周りには、小型モンスターらしき足跡がいくつも残っている。
しかも、その足跡はばらばらではなく、同じ方向へ逃げているように見えた。
そして、その奥に、大きな足跡があった。
前に昇級試験で見たものより、新しい。
輪郭がまだ崩れきっていない。
雪の縁が硬く残っている。
僕は息を止めた。
見つけたら、調べようとしない。
戻って報告する。
アルナさんの声が頭の中で響く。
「……戻る」
僕は小さく呟き、足跡から目を離した。
見たい。
どこへ続いているのか、どれくらい大きいのか、何のモンスターなのか、知りたい。
でも、見てはいけない。
追ってはいけない。
今の僕は、物資を届けに来たランク2のハンターだ。
調査員ではない。
大型モンスターを相手にするハンターでもない。
僕は標識の方向を確認し、元の道へ戻ろうとした。
その時、雪の陰が動いた。
白い何かが、跳ねるようにこちらへ飛び出してくる。
反射的に剣へ手を伸ばした。
現れたのは、小型の肉食モンスターだった。
白い鱗。
長い後脚。
低い姿勢。
雪に紛れる体色。
スノウラビよりずっと鋭く、ナイフバードより地面に近い。
口元には小さな牙が並び、息が荒い。
スノウラプトル。
名前だけは聞いたことがある。
雪原の小型肉食モンスターで、単体でもランク2のハンターが油断していい相手ではない。
群れると、さらに厄介になる。
僕は剣を抜きかけた。
けれど、すぐに違和感に気づく。
スノウラプトルは、僕を見ている。
でも、狙っているというより、焦っている。
息が荒い。
後ろを気にしている。
足元の雪を何度も蹴り、逃げ場を探すように体を揺らしている。
直感的に分かる。
こいつは、僕を襲いに来たんじゃない。
何かから逃げている。
「……っ」
喉が鳴りそうになるのを、僕は飲み込んだ。
倒す必要はない。
戦う必要もない。
選ぶべき最善手はやり過ごすこと。
僕は物資袋を胸元へ寄せ、ゆっくりと視線を下げすぎないようにして、雪の窪みへ身を沈めた。
手袋の中の指が冷えかけていたので、温石を握り直す。
滑り止めの革紐が雪を噛んでくれて、足元がずれない。
スノウラプトルが鼻を鳴らした。
僕の方へ一歩近づく。
僕は素材袋から保存食を一つ取り出し、できるだけ大きな動きにならないよう、横へ放った。
雪の上に落ちた保存食が、軽い音を立てる。
スノウラプトルの頭がそちらへ向いた。
今だ。
僕はさらに体を低くし、倒木の陰へ身を押し込んだ。
心臓がうるさい。
息が白くなる。
出すな。
音を立てるな。
スノウラプトルはしばらく周囲を嗅ぎ、保存食を一度噛み、それから何かに弾かれたように別方向へ走り出した。
雪を蹴る音が遠ざかっていく。
僕は息を吐きそうになった。
助かった――そう思った瞬間、雪原も静かに息を潜めた。
そう錯覚してしまうほどに、静かすぎた。
風が止まったわけではない。
雪も舞っている。
なのに、音が消えたような気がした。
自分の心音が外に漏れていないかが心配になる。
できる限りの行動を、止める。……否、きっと動こうとしても動けなかっただろう。
さっきのスノウラプトルが逃げていった方向。
小型モンスターたちの足跡が向かっていた方向。
大きな足跡が残っていた、その奥。
気づいてしまったから。
何かがいる。
低い唸り声。
風ではない。
雪の音でもない。
腹の底を撫でるような、重く、低い音。
次に、足音。
ずん、と雪の下の地面が震えた。
枝に積もった雪が、ぱらぱらと落ちる。
一歩。
間を置いて、また一歩。
小型モンスターではない。
中型でも、たぶんない。
大型だ。
僕は倒木の陰で、口元を手袋ごと押さえた。
息をしてはいけない。
音を立ててはいけない。
見つかってはいけない。
白い雪の向こうを、何かが通っている。
姿は見えない。
けれど、分かる。
問題はもう、起きている。
僕はその場で、ただ必死に息を殺した。
◆