駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

18 / 44
第一章 第十七話『少年は雪原に足を伸ばす』

 

 ◆

 

 雪原へ行く準備をしたからといって、すぐに雪原へ行くわけではない。

 ――昨日の僕は、そう思っていた。

 

「……全部、入ったかな」

 

 朝の角兎亭。

 二階の自室で、机へ並べた道具を一つずつ素材袋へ詰めていく。

 厚手の首巻き。

 手袋の内側へ入れる薄布。

 雪目を防ぐための灰布に、靴底へ巻く滑り止めの革紐。

 携帯用の温石と小さな防水袋、それから凍りにくい保存食。

 どれも昨日、フレイヴィアさんと選んだものだった。

 まだ本格的に雪原へ向かうと決まったわけではない。

 行くとしても、第一区域の浅い場所だけ。

 そう分かっているのに、机へ並べているだけで、白く冷たい風が部屋の中まで入り込んできたような気がした。

 

「雪原では、白が敵になる……」

 

 フレイヴィアさんの言葉を口にしながら、灰布の端を指でなぞる。

 白は距離を狂わせる。

 音を消し、足跡を隠す。

 風が向きを変えれば、自分がどこへ進んでいるのかすら分からなくなる。

 昨日聞いた言葉は、まだ雪原をよく知らない僕の中で、形を持たずに漂っていた。

 ただ一つ――綺麗だからといって、安全ではない。

 それだけは、何となく分かる。

 

「……よし」

 

 すべてを素材袋へ入れ、口をしっかりと締める。

 念のため革紐を引っ張ってみたけれど、解ける様子はなかった。

 外套を羽織り、ギルドカードも確認する。

 ランク2。

 できることが増えた証であり、行ける場所が少しだけ増えた証。

 そのぶんだけ、僕が知らなければならない危険も増えている。

 

「今日は雪国坊やかい?」

 

 一階へ下りると、厨房から女将さんの声が飛んできた。

 

「まだ雪国ってほど奥へは行きませんよ」

 

 食堂には、焼いた肉と黒パン、それに温かなスープの匂いが広がっている。

 朝食を運んできた女将さんは、僕の素材袋を見て短い兎耳を揺らした。

 

「……予定ですけど」

「予定って言葉をつける時は、だいたい行く時だね」

「うっ」

 

 言い返せない。

 昨日の時点では、見るだけだった。

 けれど、ギルドへ行けば雪原の依頼があるかもしれない。

 準備をしていて、ランクも足りている。そして僕は、雪原のことが気になっている。

 ――受けない、と言い切る自信はなかった。

 女将さんは卓へ皿を置く。

 角兎肉と豆の煮込みに、黒パン。

 炙った野菜と、いつもより少し厚く切られた焼き肉まで載っていた。

 

「少し多くないですか?」

「寒いところへ行くなら、腹へ入れておきな」

 

 続けて、湯気を立てるスープも置かれる。

 

「寒さってやつは、外からだけじゃなく、中からも来るからね」

「まだ行くと決まったわけでは……」

「予定なんだろ?」

「……はい」

「なら食べな」

 

 取りつく島がない。

 僕は素直に椅子へ座り、木匙でスープをすくった。

 温かな汁が喉を通り、腹へ落ちる。

 香草と塩気が広がると、身体の内側へ小さな火が灯ったような気がした。

 

「寒さは、腹からも来る……」

 

 雪原へ行った経験から出た言葉なのか。

 それとも、旅人を何人も見てきた宿の女将としての知恵なのか。

 どちらかは分からない。

 でも、覚えておいた方がよさそうだ。

 

「帰ったら、また腹いっぱい食わせてやるよ」

「行くことが決まったみたいになっています」

「違うのかい?」

「…………」

「ほら、食べな」

 

 やはり、言い返せなかった。

 

 ◆

 

 ギルドの重たい扉をくぐると、革と鉄、汗と酒の匂いが朝の喧騒と一緒に押し寄せてきた。

 その奥には、いつもより慌ただしく動く職員の姿と、雪原について話し込むハンターたちの声がある。

 雪原に関する張り紙は、昨日よりも増えていた。

 

『雪原北部方面、一部依頼制限中』

『雪原地帯第二区域以降、単独行動非推奨』

『大型モンスターらしき痕跡、現在確認中』

『雪原方面支援物資、納品強化中』

 

 噂だったものが、少しずつ文字へ変わっている。

 文字へ変わるということは――ギルドが無視できないものになっているということだ。

 大型モンスターの調査依頼。

 雪原北部の警戒任務。

 どちらも、僕が手を伸ばしてよい依頼ではない。

 けれど、その横に一枚だけ、ランク2と書かれた依頼書が貼られていた。

 

『雪原地帯第一区域・調査用キャンプへの物資補給』

 

 依頼主は、ハンターズギルド・エルドラン支部。

 届けるものは、薬包、温石、保存食、標識札。

 届け先は、雪原第一区域の外縁部へ設営された調査用キャンプ。

 備考欄には、第二区域以降への進入禁止。

 納品後は速やかに帰還。

 異常な痕跡を発見した場合、調査は行わず、ギルドへ報告すること――そう書かれていた。

 大型モンスターを探す依頼ではない。

 討伐依頼でもない。

 調査員たちが使う物資を、キャンプまで届ける仕事。

 けれど、行き先は――雪原だった。

 

「受けるんですか?」

 

 すぐ横から声を掛けられ、肩が僅かに跳ねる。

 顔を向けると、アルナさんが立っていた。

 僕の視線の先を見たあと、素材袋と首元へ目を向ける。

 昨日買った首巻きに気づいたのだろう。

 栗色の猫耳が、少しだけ警戒するように立っていた。

 

「……受けたいです」

 

 答えた声は、自分でも分かるくらい少し硬かった。

 雪原へ行きたい。

 正確には――雪原で何が起きているのか、その近くまで行ってみたい。

 もちろん、大型を探すつもりはない。

 戦うつもりなど、もっとない。

 ただ、そこへ運ばれている物資を、自分の手で届けてみたかった。

 

「これは雪原の依頼です」

「はい」

「大型モンスターの調査依頼ではありません。調査用キャンプへの物資補給です」

「はい」

「届けたら、帰ってきてください」

「はい」

 

 アルナさんの目は、真っすぐ僕へ向けられている。

 

「第二区域には入らない」

「入りません」

「異常な痕跡を見つけても、調べようとしない」

「戻って報告します」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 答えると、猫耳が少しだけ伏せられた。

 

「……その言い方を聞くと、やはり不安になります」

「今回は、準備もしています」

「準備をしたから、大丈夫ではありませんよ」

「はい」

 

 以前の僕なら、大丈夫ですと言い切っていたかもしれない。

 防寒具もある。

 ランクも足りている。

 行き先も浅い区域だから、大丈夫だと。

 でも、フレイヴィアさんに教えられた。

 装備は危険を遠ざけるものであって、なくすものではない。

 

「怖い場所だとは、分かっています」

「……そうですか」

 

 アルナさんは僕をしばらく見つめ、それから依頼書を掲示板から剥がした。

 正規のランク2依頼。

 行き先は第一区域の外縁部。

 キャンプにはギルド員がいて、納品後はすぐに帰る。そして僕は、最低限の防寒装備を揃えている。

 条件は満たしている。

 だから、受けられる。

 

「準備はしていましたね」

「はい」

「なら、その準備をきちんと使って――帰ってきてください」

「はい!」

 

 大きく頷く。

 アルナさんは受付処理を終えると、ギルド奥の倉庫へ案内してくれた。

 そこで渡された物資袋は、見た目よりも小さい。

 けれど背負ってみると、それなりの重さが肩へ掛かった。

 雪の上を歩くことを考えれば、この重さも軽くはないのだろう。

 

「中身を確認してください」

 

 袋の口を開く。

 教会の印が押された薬包。

 携帯用の温石と、雪原用の保存食。

 乾燥スープに修理用の細縄。

 標識札と、防水紙で包まれた記録用紙。

 薬包の上へ押された白い羽印を見て、指が止まる。

 

「これ、教会の薬ですよね」

「はい。先日届けられた清水草も、使われているかもしれません」

 

 清水草を採った日。

 セラフィーンさんが一本ずつ丁寧に状態を確かめてくれた。

 そのあと市場へ行き、蜂蜜や小瓶、清潔な布を一緒に運んだ。

 あの時は、街の中にいる誰かの薬になるのだと思っていた。

 でも今、その薬は雪原へ向かう荷物の中に入っている。

 僕が採った草が。

 セラフィーンさんたちが作った薬が。

 雪原へ向かう誰かの傷を治し、その人が帰るための助けになるかもしれない。

 

「……ちゃんと届けます」

 

 物資袋の口を閉じる。

 重さは変わらない。

 それでも、背負う意味だけが少し変わった気がした。

 

「お願いします」

 

 アルナさんはそう言い、いつもより僅かに深く頭を下げた。

 

 ◆

 

 雪原入口までは、ギルドが手配した運送便へ乗せてもらえることになった。

 港側の運送区から来たケルン車。

 その御者台に座っていたのは、ガルドさんだった。

 

「お前、本当に雪原へ行くのか」

 

 僕の姿を見るなり、ガルドさんは顔をしかめた。

 頭の上の犬耳も、少しだけ後ろへ倒れている。

 

「第一区域のキャンプまでです」

「だけ、って言うやつほど、足を伸ばすんだよ」

「伸ばしません」

「当たり前だ」

 

 ガルドさんは荷台へ物資袋を載せ、縄でしっかり固定する。

 何度か引っ張って緩まないことを確かめてから、僕へ顔を向けた。

 いつもの明るさはある。

 けれど、その声の奥には冗談ではない硬さがあった。

 

「帰りの便は夕刻前だ。キャンプへ物資を届けて、納品印をもらって、すぐ戻ってこい」

「はい」

「遅れたら?」

「歩いて帰ります」

「凍るぞ」

「すみません」

「だから遅れるな」

 

 怒鳴られたわけではない。

 それでも、本気で言っているのが分かる。

 

「あと、寄り道すんなよ」

「アルナさんにも同じことを言われました」

「なら二重に守れ」

「二重」

「二人に言われた分、二倍守れ」

「どうやって?」

「気合いだ」

「急に曖昧になった」

 

 少しだけ、いつものガルドさんへ戻った。

 僕は荷台へ乗り込み、固定された物資袋の隣へ腰を下ろす。

 ケルン車が動き出す。

 街の石畳を鳴らしていた車輪の音が少しずつ遠ざかり、代わりに硬い土を噛む音が聞こえ始めた。

 エルドランの外へ出る。

 渓流へ向かう道とも、山岳地帯へ続く道とも違う。

 風へ冷たさの混じった、北へ伸びる道。

 進むほど草木が減り、やがて前方の景色が白へ変わっていった。

 

「……雪原だ」

 

 昇級試験で、一度来た場所。

 あの時はフレイヴィアさんが隣にいた。

 今日は――僕一人だった。

 

 ◆

 

 雪原は、以前と変わらず白かった。

 けれど今日は、その白さの意味が少しだけ違って見える。

 綺麗な景色ではなく。

 距離を狂わせ、音を消し、足跡を隠すもの。

 フレイヴィアさんの言葉が、首巻きより先に背筋を冷やした。

 ケルン車を降りた場所は、雪原地帯第一区域の入口にある中継地点だった。

 ここから先は、雪へ立てられた標識を辿り、調査用キャンプまで歩くことになる。

 首巻きを整える。

 目元へ灰布を巻くと、雪から返ってくる光が少しだけ和らいだ。

 手袋の中へ入れた薄布がずれないよう指を動かし、靴底へ巻いた滑り止めの革紐も確かめる。

 最後に、温石を握った。

 指先から僅かな魔力を流すと、石の内側へ小さな火が灯ったように、じんわりと熱が広がる。

 

「……温かい」

 

 昨日は、店で選んだ道具だった。

 今日は、それを身につけて雪の上へ立っている。

 それだけで――雪原が、急に現実になった気がした。

 

「行ってきます」

「おう。戻ってこい」

「はい」

 

 僕は物資袋を背負い、雪原へ踏み出す。

 雪を踏む音が、ぎゅ、と鳴った。

 一歩。

 もう一歩。

 滑り止めのおかげで、足元は思っていたより安定している。

 それでも普段の地面とは沈み方が違い、足を持ち上げるだけで余計な力が必要になった。

 数十歩も進めば、雪の上を歩くだけで体力を削られるのだと分かる。

 

「これを、帰りも……」

 

 今は物資袋が重い。

 帰りには軽くなる。

 でも、疲れた身体で歩くことになるのだから、楽になるとは限らない。

 歩きながら、前方の標識を探す。

 木の棒へ目立つ色の布が巻かれ、その下には進む方角を示す矢印が刻まれていた。

 雪へ埋まりかけているものもある。

 近くを通るたび、傾いていないか、布が外れかけていないかを確かめる。

 依頼内容は物資の補給。

 けれど標識の状態を見ることも、無関係ではない。

 白い景色の中では、一本の標識が帰り道そのものになる。

 

「見える距離より、戻れる距離を信じろ……かな」

 

 誰かに教えられた言葉ではない。

 でも雪原へ立っていると、自然とそう思えた。

 先へ見えるものよりも。

 後ろへ残してきたものを、きちんと覚えておく。

 それが、戻るためには必要なのだろう。

 

 ◆

 

 調査用キャンプは、第一区域外縁部の少し開けた場所に設営されていた。

 キャンプといっても、大きな施設ではない。

 雪を避けるための簡易幕。

 何本かの支柱に、積み重ねられた木箱。

 縄と標識札が一か所へまとめられ、中央には温石を入れるための金属製の器具が置かれている。

 その周囲を、数人のギルド員が忙しそうに動いていた。

 ハンターというより、調査と支援を担当する職員たちらしい。

 ただ、その顔には街のギルドで働く人たちとは違う硬さがあった。

 

「補給か。助かった」

 

 近くにいた獣人族の男性が、僕へ気づいて近づいてくる。

 

「エルドラン支部から来ました。ルキウスです」

「ランク2か?」

「はい」

「なら、ここまでだ。奥には行くなよ」

「はい」

 

 挨拶より先に、警告された。

 誰も冗談で言っているようには見えない。

 このキャンプより先は、ランク2の僕が興味本位で近づいてよい場所ではないのだ。

 物資袋を下ろし、中身を指定された場所へ移していく。

 教会印の薬包は、濡れないよう防水布をかけた箱の奥。

 温石は中央の器具の近く。

 標識札と細縄は外の支柱へ。

 保存食や乾燥スープは、食料の入った木箱へ収める。

 作業自体は難しくない。

 けれど雪の上で物を運ぶだけでも思ったより疲れる。

 身体が温まり、手袋の内側では汗を吸った薄布が僅かに湿っていた。

 寒くても、動けば汗をかく。

 そして、その汗が冷えれば指が動かなくなる。

 フレイヴィアさんが教えてくれた通りだった。

 知っているから、気にすることができる。

 手袋の中の湿り気。

 首巻きのずれ。

 足元の滑りや、目へ返ってくる雪の光。

 気にする場所が増えるのは、少し怖い。

 でも――何も知らないより、ずっと心強かった。

 

「大型モンスターは、見つかったんですか?」

 

 物資を移しながら、思わず尋ねていた。

 獣人族のギルド員は、記録板へ何かを書き込みながら答える。

 

「本体は、まだだ」

「本体は……」

「痕跡ならある。足跡、折れた木、食い散らかされた小型モンスターの残骸。十分すぎるくらいにな」

 

 書き込む手は止まらない。

 けれど、声は低かった。

 

「見つかっていないから安全、ってわけじゃない」

「…………」

「見つかっていないから、怖いんだ」

 

 僕はキャンプの外へ目を向ける。

 白い。

 ただ、白い。

 その先に何かがいたとしても、ここからは何も見えない。

 見えないということは、いないという意味ではない。

 どこにいるのか分からない。

 何をしているのかも分からない。

 ――分からないということは、怖い。

 

「おい、ハンター!」

 

 後ろから元気な声が飛んできて、肩が跳ねた。

 

「は、はい!」

 

 振り返ると、僕の半分ほどの背丈しかない小人族のギルド員が、大きく手を振っていた。

 

「こっちの標識札、立て直すのを手伝ってくれ!」

「あ、はい」

 

 少し傾いた標識へ向かう。

 支柱の周りへ積もった雪を掘り、向きを確認して立て直す。

 根元が動かないよう雪を踏み固め、最後に細縄で近くの杭へ固定した。

 滑り止めがなければ、力を入れた時に足がずれていたかもしれない。

 灰布がなければ、雪から返る光で目が痛くなっていたかもしれない。

 昨日買ったものが、きちんと役に立っている。

 

「よし。これで大丈夫だ」

「ありがとうございます」

「礼を言うのはこっちだ。帰りにも、この札を見落とすなよ」

「はい」

 

 すべての物資確認が終わると、依頼書へ納品印が押された。

 

「戻り道、風が変わりそうだ。早めに出ろ」

「分かりました」

「標識から離れるなよ」

「はい」

 

 軽くなった物資袋を背負い直す。

 依頼は終わった。

 あとは、来た道を戻るだけ。

 ――そのはずだった。

 

 ◆

 

 帰り道の雪原は、驚くほど表情を変えていた。

 キャンプへ向かう時には穏やかだった風が、今は真横から吹きつけている。

 地面へ積もった雪が巻き上がり、遠くにある標識の輪郭を白くぼかしていた。

 音もおかしい。

 さっきまで聞こえていた自分の足音が、雪へ吸い込まれて小さくなっている。

 風の音はすぐそばで鳴っているのに、そのほかの音だけが遠ざかっていた。

 白い景色の中で、目印になるものが少しずつ曖昧になっていく。

 僕は足を止め、次の標識を探した。

 

「……見える」

 

 まだ大丈夫。

 焦るな。

 依頼は終わった。

 戻る。

 戻って、報告する。

 首巻きへ顔を埋め、標識へ向かって歩き出す。

 その途中――雪の上に、不自然な跡を見つけた。

 

「……?」

 

 最初は、風で雪が削れた跡だと思った。

 けれど、違う。

 広い範囲の雪が、何か重いものに押し潰されたように沈んでいる。

 近くに生えていた低い木は枝が折れ、周囲には小型モンスターの足跡がいくつも残されていた。

 その足跡は、ばらばらではない。

 すべてが――同じ方向へ逃げている。

 そして、その奥。

 大きな足跡があった。

 

「…………」

 

 昇級試験で見たものより、新しい。

 輪郭が、まだ崩れきっていない。

 雪の縁も硬く残り、風に覆われていない部分がある。

 つい最近。

 ここを、何かが通った。

 息を止める。

 

『異常な痕跡を見つけても、調べようとしない』

『戻って報告します』

 

 アルナさんとの会話が、頭の中へ蘇る。

 

「……戻る」

 

 小さく口にし、足跡から視線を外した。

 見たい。

 どこへ続いているのか。

 どれくらい大きいのか。

 何というモンスターなのか。

 知りたい。

 でも――見てはいけない。

 追ってはいけない。

 今の僕は、物資を届けに来たランク2のハンターだ。

 調査員ではない。

 ましてや、大型モンスターを相手にするハンターでもない。

 

「戻るんだ」

 

 標識の方向を確認し、元の道へ戻ろうとする。

 その時――雪の陰が動いた。

 

「っ!」

 

 白い何かが、跳ねるように飛び出してくる。

 反射的に、片手剣の柄へ手を伸ばした。

 現れたのは、小型の肉食モンスターだった。

 白い鱗。

 長い後脚に、低く構えた身体。

 雪へ紛れる体色。

 口元には小さな牙が並び、白い息を荒く吐き出している。

 

「スノウラプトル……」

 

 名前だけは聞いたことがあった。

 雪原に生息する、小型の肉食モンスター。

 単体でも、ランク2のハンターが油断してよい相手ではない。

 群れになれば、さらに危険になる。

 剣を抜きかける。

 けれど――すぐに違和感を覚えた。

 スノウラプトルは僕を見ている。

 でも、狙っているようには見えない。

 息が荒い。

 何度も背後を気にしている。

 足元の雪を忙しなく蹴り、逃げ場を探すように身体を揺らしていた。

 

「…………」

 

 直感的に分かる。

 こいつは、僕を襲うために来たのではない。

 何かから――逃げている。

 

「……っ」

 

 喉が鳴りそうになり、慌てて息を飲み込む。

 倒す必要はない。

 戦う必要もない。

 選ぶべきなのは、やり過ごすこと。

 剣の柄から、ゆっくりと手を離す。

 物資袋を胸元へ寄せ、視線を下げすぎないようにしながら、雪の窪みへ身体を沈めた。

 温石を握り直す。

 手袋の中で冷え始めていた指へ、僅かな熱が戻る。

 滑り止めの革紐が雪を噛み、身体を低くしても足元はずれなかった。

 スノウラプトルが鼻を鳴らす。

 一歩、こちらへ近づく。

 

「…………」

 

 素材袋へ手を伸ばす。

 中から保存食を一つ取り出し、大きな動きにならないよう注意しながら――横へ放った。

 保存食が雪へ落ち、小さな音を立てる。

 スノウラプトルの頭が、そちらへ向いた。

 今だ。

 さらに身体を低くし、近くの倒木の陰へ身を押し込む。

 心臓がうるさい。

 吐く息が、白くなる。

 音を立てるな。

 見つかるな。

 スノウラプトルは周囲を嗅ぎ、落ちた保存食へ近づいた。

 一度だけ噛みつき――次の瞬間、何かに弾かれたように別の方角へ走り出す。

 雪を蹴る音が、遠ざかっていく。

 

「…………」

 

 助かった。

 そう思い、息を吐きかけた――その時。

 雪原が、息を潜めた。

 風は吹いている。

 雪も舞っている。

 なのに、音だけが消えたような気がした。

 自分の心音が、倒木の外まで漏れているのではないか。

 そう思うほど――静かだった。

 僕は、すべての動きを止めた。

 いや。

 動こうとしても、動けなかったのだと思う。

 スノウラプトルが逃げていった方向。

 小型モンスターたちの足跡が、揃って向かっていた方向。

 そして――大きな足跡が残されていた、その奥。

 気づいてしまった。

 何かが、いる。

 

「…………」

 

 低い唸り声が聞こえた。

 風ではない。

 雪の鳴る音でもない。

 腹の底を撫でるような、重く、低い音。

 続いて――足音。

 ずん、と雪の下の地面が震える。

 近くの枝から、積もっていた雪がぱらぱらと落ちた。

 一歩。

 間を置いて、また一歩。

 小型モンスターではない。

 中型でも、おそらくない。

 

 ――大型だ。

 

 僕は倒木の陰で、手袋ごと口元を押さえた。

 息をしてはいけない。

 音を立ててはいけない。

 見つかってはいけない。

 白い雪の向こうを、何かが歩いている。

 姿は見えない。

 けれど、分かる。

 問題はこれから起きるのではない。

 

 ――もう、起きている。

 

 僕はその場で、ただ必死に息を殺した。

 

 





 ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

 感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。
 少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひよろしくお願いいたします
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。