駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
~前回までのあらすじ~
前回は雪山についに来たルキウス。しかしそこで、大型の影に遭遇してしまい……。
今回はそこからになります。
◆
倒木の陰へ身体を押し込み、手袋ごと口元を塞ぐ。
低い唸り声に続いて、雪を踏み潰す重い足音が響いた。一歩進むたびに地面が僅かに震え、近くの枝から積もっていた雪がぱらぱらと落ちてくる。
「……行ってくれ」
声にすれば気づかれる。
分かっている。分かっているのに――祈りは喉元までせり上がっていた。
姿は見えない。それでも、嫌というほど分かる。
――大きい。
あまりにも、大きい。
僕がこれまで見たスノウラビやナイフバードとは、比べることすらできない。先ほどやり過ごしたスノウラプトルでさえ、あの足音の前では小石のようなものだと思えた。
剣を抜く?
姿を確かめる?
足跡を追う?
「……無理だ」
そんな考えは、一つも浮かばなかった。
ただ、見つからないように。音を立てないように――何事もなく通り過ぎてくれるように。
「頼むから、そのまま……」
今の僕にできるのは、そう願うことだけだった。
やがて足音が一つ、遠ざかる。
間を置いて、また一つ。
それでも身体は動かなかった。温石を握っているはずの指先は、冷えているのか熱を持っているのかさえ分からない。
低い唸り声が風へ紛れ、白い雪原には吹きつける風の音だけが残った。
「…………」
まだ、動くな。
聞こえなくなっただけかもしれない。
雪の向こうで立ち止まり、こちらの様子を窺っているかもしれない。
そう考えると、胸の内側で鳴る鼓動さえ、大型へ届いてしまいそうだった。
「まだ……まだだ」
自分へ言い聞かせ、倒木の陰で息を潜め続ける。
どれくらい、そうしていたのだろう。
息苦しさで肺が痛み、視界の端が僅かに暗くなってから、ようやく細く息を吐いた。
「……生きてる」
漏れた声は、自分でも驚くほど小さい。
生きている。
僕は、まだ生きている。
それだけのことが今は、とても大きなことに思えた。
◆
「戻ろう」
戻って、報告する。
今の僕にできる一番大切なことを、頭の中で何度も繰り返す。
倒木へ手をつき、周囲の音を確かめながらゆっくりと立ち上がった。
大型モンスターの姿はない。
ただ、雪の上には何か重いものが通った跡が広く残り、低い木の枝が何本も折れていた。小型モンスターが逃げたらしい足跡も、あちこちで乱れている。
「見ない。追わない。調べない……」
口に出して、三つを確かめる。
アルナさんの声が、頭の中で響いた。
『異常な痕跡を見つけても、調べようとしない』
続いて、ガルドさんの言葉が重なる。
『足を伸ばすなよ』
フレイヴィアさんから教わったことも思い出す。
装備は命を守る。
けれど、判断の代わりにはならない。
「分かってる」
今すぐ戻れ。
好奇心を捨てろ。
見たものを持ち帰れ――生きて帰れ。
全部が、同じことを言っていた。
依頼はもう終わっている。調査用キャンプへ物資を届け、納品印も受け取った。
大型モンスターらしき存在が第一区域の浅い場所まで来ていること。
小型モンスターが何かから逃げていたこと。
輪郭の残る新しい足跡があったこと。
それをギルドへ持ち帰ればいい。
「僕がするのは、それだけだ」
片手剣の柄を一度だけ確かめ、軽くなった物資袋を背負い直す。
中身は減ったはずなのに、肩へ掛かる重さは行きよりも増しているように感じられた。
風も、少し強くなっている。
横殴りに流れる雪が遠くの輪郭を白くぼかし、行きにははっきり見えていた標識も、今は雪の中へ沈みかけていた。
「一つ目……あった」
標識を見つけ、その方向へ歩き出す。
足元も悪い。
大型が通った跡は表面だけが硬く、その下へ足を置けば不自然に沈み込む。そこへ小型モンスターの足跡まで混ざり、自分が来た時の跡なのか、別の何かが残したものなのかも分からなかった。
「焦るな。標識だけ見ろ」
靴底へ巻いた革紐が雪を噛み、足元を支えてくれる。
温石を握り直せば、指もまだ動く。
首巻きの内側へ呼吸がこもり、布が少し湿っていることは気になったけれど――外す気にはなれなかった。
準備していてよかった。
心から、そう思う。
準備をしていても、これだけ怖い。何も知らず、何も持たずに来ていたら、僕はもっと早く駄目になっていたはずだ。
「次の標識は……」
目を凝らす。
白い風の向こうに、少し傾いた棒が見えた。
「あそこだ」
あそこまで進めば、帰り道は繋がる。
そう思い、もう一歩を踏み出した時だった。
――ピィッ、ピィッ。
「……?」
風の音に混じり、細く高い音が耳へ届く。
足を止めた。
最初は、風が妙な音に聞こえただけだと思った。雪原は音を吸い、距離を狂わせる。聞き間違いだとしても、おかしくはない。
「気のせい……だよな」
そう口にした直後、また鳴った。
――ピィッ、ピィッ。
短く、二度。
間を置いて、もう一度。
「笛……?」
雪原で使われる、救援用の笛。
初心者講習で教わった音の意味が、頭の中へ蘇る。
位置を知らせるだけの合図ではない。
集合を呼びかける音でもない。
――救援要請。
誰かが、助けを求めている。
しかも、そう遠くない場所で。
「…………」
僕は標識を見る。
帰り道は、あちらだ。
けれど笛の音は、その列から少し外れた方角から聞こえている。
標識から離れる。それは雪原で、絶対に避けるべき行動の一つだ。
「帰れ」
自分へ言う。
今すぐ、帰るべきだ。
「僕が行って、何ができる」
ランク2になったばかりで、雪原にも慣れていない。
先ほどは小型モンスターをやり過ごすだけで精一杯だった。大型モンスターの足音を聞いた時には、倒木の陰で震えていることしかできなかった。
そんな僕が、誰かを助けに行く?
「無理だ。無茶だ……馬鹿だ」
キャンプまで戻り、ギルド員へ知らせればいい。
そうすれば、もっと上位のハンターが動く。
僕が行く必要などない。
僕まで動けなくなれば、助けるどころか二次遭難になる。笛を吹いた誰かへ、余計な負担を増やすだけかもしれない。
アルナさんとの約束も破る。
ガルドさんが待っている帰りの便にも遅れる。
だから、帰るべきだ。
「分かってるんだ、そんなことは……」
本当に、分かっている。
それでも――笛は鳴っている。
――ピィッ、ピィッ。
先ほどより、少し弱くなった気がした。
『痛い時は、痛いと言ってよいのです』
セラフィーンさんの声が、不意に頭をよぎる。
『痛いと言うのは、誰かへ迷惑を掛けることではありません。痛い場所を教えることです』
「あの笛も……」
痛い場所を知らせている。
白い雪の中から、誰かがここだと言っている。
痛い。
動けない。
助けてほしい。
その音が、そう訴えている。
「……っ」
奥歯を噛む。
母の声が聞こえた気がした。
危ないことをしないで。
ガルドさんの言葉も蘇る。
夢があるなら急ぐな。死んだら続きは読めない。
アルナさんは、生きて帰ってきてくださいと言った。
フレイヴィアさんも、理想を語るならまず生き残れと教えてくれた。
――全部、正しい。
全部が、僕を止めるための言葉だ。
だけど、それでも。
僕がここで笛を聞かなかったことにして帰れば――たぶん僕は、自分の夢を信じられなくなる。
「英雄になりたいから……じゃない」
今は、そんな大きな話ではない。
ただ、笛が聞こえた。
誰かが助けを求める音を、僕は聞いてしまった。
それを聞きながら、何もしないで帰れる自分ではいたくなかった。
「……戦いに行くんじゃない」
自分へ言い聞かせる。
戦うためではない。
大型モンスターを倒すわけでも、小型モンスターを狩るわけでもない。
笛の主を見つけ、状況を確かめる。
動けるなら、キャンプへ一緒に戻る。
動けなければ、僕も笛を吹いて位置を知らせる。
「細縄がある。温石も……保存食も残ってる」
標識の位置は覚えている。
大型の足音は、先ほど遠ざかっていった。
確実ではない。
安全でもない。
それでも、何も考えずに飛び込むよりはましだ。
帰り道の標識を目へ焼きつける。近くにある折れた枝と、雪へ半分埋もれた黒い岩の形も覚えた。
物資袋の中から細縄を取り出しやすい場所へ移し、温石を握り直す。
剣の柄には手を添えたけれど――抜かなかった。
抜いてしまえば、戦うつもりになってしまう。
「今は、助けるためだ」
足が震えていた。
怖い。
今すぐ標識を辿り、帰りたい。
それでも僕は、笛の音が聞こえた方角へ身体を向けた。
「……行こう」
白い雪へ、最初の一歩を踏み出した。
◆
標識の列から少し外れただけで、雪原は急に広くなった。
白い。
どこを見ても、本当に白い。
目印にしていた標識が背後へ遠ざかるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
足元の雪は深く、横から吹く風が灰布へ細かな雪を叩きつけていた。
――ピィッ、ピィッ。
「こっちだ」
笛の音は、また聞こえた。
短く、細く――先ほどより近い。
けれど、少し弱い。
「急げ……いや、焦るな」
走り出したい気持ちを抑え、足元を確かめながら歩幅を広げる。
急げば転ぶ。
転べば、そこで終わる。
雪原で焦るな。
教わった言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
数歩進んだところで、雪の上へ赤いものが落ちていることに気づく。
「……血」
ほんの小さな点。
風に運ばれた雪へ、今にも覆われようとしていた。
近い。
もう、すぐ近くだ。
「どこだ……!」
顔を上げる。
その時、雪の向こうで何かが動いた。
白い獣ではない。
「人……?」
人影だ。
一つ――いや、二つ。
倒れた標識札の近く。
雪の窪みの中に、二人の姿があった。
一人はエルフだった。防寒具の隙間から長い耳が覗いている。
肩で荒く息をしながら、それでも倒れているもう一人の前へ立っていた。
手には短杖を握っている。
こちらへ気づいた瞬間、その切っ先が鋭く僕へ向けられた。
「止まれ」
掠れた声が、風を裂く。
僕はすぐに足を止め、両手を僅かに持ち上げた。
「敵ではありません!」
もう一人は、小人族。
厚い防寒具を着込んでいるものの、小柄な身体は雪の窪みへ半分ほど埋もれていた。
片脚を両手で押さえ、その手の中には小さな救援笛が握られている。
足元の雪が、赤く滲んでいた。
「……誰だ」
エルフの人は短杖を向けたまま尋ねる。
声は冷静に聞こえた。
けれど呼吸は乱れ、腕も僅かに震えている。
疲れている。
緊張している。
それでも、小人族の人の前からは決して退かなかった。
僕は剣の柄から手を離し、敵意がないことを示す。
「ギルドの物資補給で来た、ルキウスです」
「ランクは」
「……2です」
その瞬間、エルフの人の顔色が変わった。
驚き。
焦り。
そして――明らかな拒絶。
「戻れ。ここは君が来る場所じゃない」
「言いたいことは分かります」
短杖を向けられたまま、一歩だけ近づく。
小人族の人が押さえている脚と、雪へ広がる血を見る。
「でも――まずは、応急処置を」
◆
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