駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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 ~前回までのあらすじ~
 前回は雪山についに来たルキウス。しかしそこで、大型の影に遭遇してしまい……。
 今回はそこからになります。


第一章 第十八話『少年は最悪を想像する』

 

 ◆

 

 倒木の陰へ身体を押し込み、手袋ごと口元を塞ぐ。

 低い唸り声に続いて、雪を踏み潰す重い足音が響いた。一歩進むたびに地面が僅かに震え、近くの枝から積もっていた雪がぱらぱらと落ちてくる。

 

「……行ってくれ」

 

 声にすれば気づかれる。

 分かっている。分かっているのに――祈りは喉元までせり上がっていた。

 姿は見えない。それでも、嫌というほど分かる。

 

 ――大きい。

 

 あまりにも、大きい。

 僕がこれまで見たスノウラビやナイフバードとは、比べることすらできない。先ほどやり過ごしたスノウラプトルでさえ、あの足音の前では小石のようなものだと思えた。

 

 剣を抜く?

 姿を確かめる?

 足跡を追う?

 

「……無理だ」

 

 そんな考えは、一つも浮かばなかった。

 ただ、見つからないように。音を立てないように――何事もなく通り過ぎてくれるように。

 

「頼むから、そのまま……」

 

 今の僕にできるのは、そう願うことだけだった。

 やがて足音が一つ、遠ざかる。

 間を置いて、また一つ。

 それでも身体は動かなかった。温石を握っているはずの指先は、冷えているのか熱を持っているのかさえ分からない。

 低い唸り声が風へ紛れ、白い雪原には吹きつける風の音だけが残った。

 

「…………」

 

 まだ、動くな。

 聞こえなくなっただけかもしれない。

 雪の向こうで立ち止まり、こちらの様子を窺っているかもしれない。

 そう考えると、胸の内側で鳴る鼓動さえ、大型へ届いてしまいそうだった。

 

「まだ……まだだ」

 

 自分へ言い聞かせ、倒木の陰で息を潜め続ける。

 どれくらい、そうしていたのだろう。

 息苦しさで肺が痛み、視界の端が僅かに暗くなってから、ようやく細く息を吐いた。

 

「……生きてる」

 

 漏れた声は、自分でも驚くほど小さい。

 生きている。

 僕は、まだ生きている。

 それだけのことが今は、とても大きなことに思えた。

 

 ◆

 

「戻ろう」

 

 戻って、報告する。

 今の僕にできる一番大切なことを、頭の中で何度も繰り返す。

 倒木へ手をつき、周囲の音を確かめながらゆっくりと立ち上がった。

 大型モンスターの姿はない。

 ただ、雪の上には何か重いものが通った跡が広く残り、低い木の枝が何本も折れていた。小型モンスターが逃げたらしい足跡も、あちこちで乱れている。

 

「見ない。追わない。調べない……」

 

 口に出して、三つを確かめる。

 アルナさんの声が、頭の中で響いた。

 

『異常な痕跡を見つけても、調べようとしない』

 

 続いて、ガルドさんの言葉が重なる。

 

『足を伸ばすなよ』

 

 フレイヴィアさんから教わったことも思い出す。

 装備は命を守る。

 けれど、判断の代わりにはならない。

 

「分かってる」

 

 今すぐ戻れ。

 好奇心を捨てろ。

 見たものを持ち帰れ――生きて帰れ。

 全部が、同じことを言っていた。

 依頼はもう終わっている。調査用キャンプへ物資を届け、納品印も受け取った。

 大型モンスターらしき存在が第一区域の浅い場所まで来ていること。

 小型モンスターが何かから逃げていたこと。

 輪郭の残る新しい足跡があったこと。

 それをギルドへ持ち帰ればいい。

 

「僕がするのは、それだけだ」

 

 片手剣の柄を一度だけ確かめ、軽くなった物資袋を背負い直す。

 中身は減ったはずなのに、肩へ掛かる重さは行きよりも増しているように感じられた。

 風も、少し強くなっている。

 横殴りに流れる雪が遠くの輪郭を白くぼかし、行きにははっきり見えていた標識も、今は雪の中へ沈みかけていた。

 

「一つ目……あった」

 

 標識を見つけ、その方向へ歩き出す。

 足元も悪い。

 大型が通った跡は表面だけが硬く、その下へ足を置けば不自然に沈み込む。そこへ小型モンスターの足跡まで混ざり、自分が来た時の跡なのか、別の何かが残したものなのかも分からなかった。

 

「焦るな。標識だけ見ろ」

 

 靴底へ巻いた革紐が雪を噛み、足元を支えてくれる。

 温石を握り直せば、指もまだ動く。

 首巻きの内側へ呼吸がこもり、布が少し湿っていることは気になったけれど――外す気にはなれなかった。

 準備していてよかった。

 心から、そう思う。

 準備をしていても、これだけ怖い。何も知らず、何も持たずに来ていたら、僕はもっと早く駄目になっていたはずだ。

 

「次の標識は……」

 

 目を凝らす。

 白い風の向こうに、少し傾いた棒が見えた。

 

「あそこだ」

 

 あそこまで進めば、帰り道は繋がる。

 そう思い、もう一歩を踏み出した時だった。

 

 ――ピィッ、ピィッ。

 

「……?」

 

 風の音に混じり、細く高い音が耳へ届く。

 足を止めた。

 最初は、風が妙な音に聞こえただけだと思った。雪原は音を吸い、距離を狂わせる。聞き間違いだとしても、おかしくはない。

 

「気のせい……だよな」

 

 そう口にした直後、また鳴った。

 

 ――ピィッ、ピィッ。

 

 短く、二度。

 間を置いて、もう一度。

 

「笛……?」

 

 雪原で使われる、救援用の笛。

 初心者講習で教わった音の意味が、頭の中へ蘇る。

 位置を知らせるだけの合図ではない。

 集合を呼びかける音でもない。

 

 ――救援要請。

 

 誰かが、助けを求めている。

 しかも、そう遠くない場所で。

 

「…………」

 

 僕は標識を見る。

 帰り道は、あちらだ。

 けれど笛の音は、その列から少し外れた方角から聞こえている。

 標識から離れる。それは雪原で、絶対に避けるべき行動の一つだ。

 

「帰れ」

 

 自分へ言う。

 今すぐ、帰るべきだ。

 

「僕が行って、何ができる」

 

 ランク2になったばかりで、雪原にも慣れていない。

 先ほどは小型モンスターをやり過ごすだけで精一杯だった。大型モンスターの足音を聞いた時には、倒木の陰で震えていることしかできなかった。

 そんな僕が、誰かを助けに行く?

 

「無理だ。無茶だ……馬鹿だ」

 

 キャンプまで戻り、ギルド員へ知らせればいい。

 そうすれば、もっと上位のハンターが動く。

 僕が行く必要などない。

 僕まで動けなくなれば、助けるどころか二次遭難になる。笛を吹いた誰かへ、余計な負担を増やすだけかもしれない。

 アルナさんとの約束も破る。

 ガルドさんが待っている帰りの便にも遅れる。

 だから、帰るべきだ。

 

「分かってるんだ、そんなことは……」

 

 本当に、分かっている。

 それでも――笛は鳴っている。

 

 ――ピィッ、ピィッ。

 

 先ほどより、少し弱くなった気がした。

 

『痛い時は、痛いと言ってよいのです』

 

 セラフィーンさんの声が、不意に頭をよぎる。

 

『痛いと言うのは、誰かへ迷惑を掛けることではありません。痛い場所を教えることです』

 

「あの笛も……」

 

 痛い場所を知らせている。

 白い雪の中から、誰かがここだと言っている。

 痛い。

 動けない。

 助けてほしい。

 その音が、そう訴えている。

 

「……っ」

 

 奥歯を噛む。

 母の声が聞こえた気がした。

 危ないことをしないで。

 ガルドさんの言葉も蘇る。

 夢があるなら急ぐな。死んだら続きは読めない。

 アルナさんは、生きて帰ってきてくださいと言った。

 フレイヴィアさんも、理想を語るならまず生き残れと教えてくれた。

 

 ――全部、正しい。

 

 全部が、僕を止めるための言葉だ。

 だけど、それでも。

 僕がここで笛を聞かなかったことにして帰れば――たぶん僕は、自分の夢を信じられなくなる。

 

「英雄になりたいから……じゃない」

 

 今は、そんな大きな話ではない。

 ただ、笛が聞こえた。

 誰かが助けを求める音を、僕は聞いてしまった。

 それを聞きながら、何もしないで帰れる自分ではいたくなかった。

 

「……戦いに行くんじゃない」

 

 自分へ言い聞かせる。

 戦うためではない。

 大型モンスターを倒すわけでも、小型モンスターを狩るわけでもない。

 笛の主を見つけ、状況を確かめる。

 動けるなら、キャンプへ一緒に戻る。

 動けなければ、僕も笛を吹いて位置を知らせる。

 

「細縄がある。温石も……保存食も残ってる」

 

 標識の位置は覚えている。

 大型の足音は、先ほど遠ざかっていった。

 確実ではない。

 安全でもない。

 それでも、何も考えずに飛び込むよりはましだ。

 帰り道の標識を目へ焼きつける。近くにある折れた枝と、雪へ半分埋もれた黒い岩の形も覚えた。

 物資袋の中から細縄を取り出しやすい場所へ移し、温石を握り直す。

 剣の柄には手を添えたけれど――抜かなかった。

 抜いてしまえば、戦うつもりになってしまう。

 

「今は、助けるためだ」

 

 足が震えていた。

 怖い。

 今すぐ標識を辿り、帰りたい。

 それでも僕は、笛の音が聞こえた方角へ身体を向けた。

 

「……行こう」

 

 白い雪へ、最初の一歩を踏み出した。

 

 ◆

 

 標識の列から少し外れただけで、雪原は急に広くなった。

 白い。

 どこを見ても、本当に白い。

 目印にしていた標識が背後へ遠ざかるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。

 足元の雪は深く、横から吹く風が灰布へ細かな雪を叩きつけていた。

 

 ――ピィッ、ピィッ。

 

「こっちだ」

 

 笛の音は、また聞こえた。

 短く、細く――先ほどより近い。

 けれど、少し弱い。

 

「急げ……いや、焦るな」

 

 走り出したい気持ちを抑え、足元を確かめながら歩幅を広げる。

 急げば転ぶ。

 転べば、そこで終わる。

 雪原で焦るな。

 教わった言葉を、何度も頭の中で繰り返した。

 数歩進んだところで、雪の上へ赤いものが落ちていることに気づく。

 

「……血」

 

 ほんの小さな点。

 風に運ばれた雪へ、今にも覆われようとしていた。

 近い。

 もう、すぐ近くだ。

 

「どこだ……!」

 

 顔を上げる。

 その時、雪の向こうで何かが動いた。

 白い獣ではない。

 

「人……?」

 

 人影だ。

 一つ――いや、二つ。

 倒れた標識札の近く。

 雪の窪みの中に、二人の姿があった。

 一人はエルフだった。防寒具の隙間から長い耳が覗いている。

 肩で荒く息をしながら、それでも倒れているもう一人の前へ立っていた。

 手には短杖を握っている。

 こちらへ気づいた瞬間、その切っ先が鋭く僕へ向けられた。

 

「止まれ」

 

 掠れた声が、風を裂く。

 僕はすぐに足を止め、両手を僅かに持ち上げた。

 

「敵ではありません!」

 

 もう一人は、小人族。

 厚い防寒具を着込んでいるものの、小柄な身体は雪の窪みへ半分ほど埋もれていた。

 片脚を両手で押さえ、その手の中には小さな救援笛が握られている。

 足元の雪が、赤く滲んでいた。

 

「……誰だ」

 

 エルフの人は短杖を向けたまま尋ねる。

 声は冷静に聞こえた。

 けれど呼吸は乱れ、腕も僅かに震えている。

 疲れている。

 緊張している。

 それでも、小人族の人の前からは決して退かなかった。

 僕は剣の柄から手を離し、敵意がないことを示す。

 

「ギルドの物資補給で来た、ルキウスです」

「ランクは」

「……2です」

 

 その瞬間、エルフの人の顔色が変わった。

 驚き。

 焦り。

 そして――明らかな拒絶。

 

「戻れ。ここは君が来る場所じゃない」

「言いたいことは分かります」

 

 短杖を向けられたまま、一歩だけ近づく。

 小人族の人が押さえている脚と、雪へ広がる血を見る。

 

「でも――まずは、応急処置を」

 

 





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