駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
どれくらい、そうしていたのか分からない。
倒木の陰に体を押し込み、口元を手袋ごと押さえたまま、僕は白い雪の向こうを通り過ぎていく何かの気配を、ただ聞いていた。
低い唸り声。
雪を踏み潰す、重い足音。
足音のたびに、地面がわずかに震え、枝に積もった雪がぱらぱらと落ちる。
姿は見えない。
見えていない。
それなのに、分かる。
大きい。
あまりにも大きい。
僕が今まで見てきたスノウラビやナイフバードとは、比べるものではない。さっきやり過ごしたスノウラプトルですら、あの足音の前では小石みたいなものだと思った。
剣を抜くとか。
様子を見に行くとか。
足跡を確かめるとか。
そんな考えは、一つも浮かばなかった。
ただ、見つからないように。
ただ、音を立てないように。
ただ、通り過ぎてくれるように。
そう願うことしかできなかった。
一歩。
また一歩。
足音は、ゆっくりと遠ざかっていく。
それでも、すぐには動けなかった。
雪原は相変わらず白く、風は冷たく、僕の手袋の内側はじっとりと汗ばんでいる。温石を握っているはずなのに、指先が冷えているのか熱を持っているのかも分からない。
やがて、足音が完全に聞こえなくなった。
低い唸り声も、風の音に紛れて消えた。
それでも僕は、しばらくその場にいた。
動いたら戻ってくるんじゃないか。
音を立てたら気づかれるんじゃないか。
そんな馬鹿みたいな不安が、体の奥に貼りついて離れなかった。
「……生きてる」
ようやく口から漏れた声は、自分でも驚くくらい小さかった。
生きている。
僕は、まだ生きている。
それだけのことが、今はとても大きなことに思えた。
◆
戻る。
戻って、報告する。
それが今の僕にできる、一番大事なことだ。
僕は倒木の陰からゆっくり体を起こし、周囲を見た。
大型モンスターの姿はない。
ただ、雪の上には広く押し潰された跡が残り、低い木の枝がいくつか折れている。小型モンスターたちが逃げた足跡も、あちこちで乱れていた。
見ない。
追わない。
調べない。
アルナさんの声が頭の中で響く。
異常な痕跡を見つけても、調べようとしない。
ガルドさんの声も重なる。
『足を伸ばすなよ』
フレイヴィアさんの声も思い出す。
『装備は命を守る。だが、判断の代わりにはならぬ』
全部、戻れと言っている。
今すぐ戻れ。
好奇心を捨てろ。
見たものを持ち帰れ。
生きて帰れ。
「……帰る」
僕は自分に言い聞かせるように呟いた。
依頼は完了している。
調査用キャンプへの物資は届けた。納品印ももらった。大型モンスターらしき存在が第一区域の浅い方まで来ていること、小型モンスターが逃げてきていること、新しい足跡があったこと。
それを持ち帰ればいい。
僕がすべきことは、それだ。
剣の柄を一度だけ確かめ、物資袋を背負い直す。中身は軽くなっているはずなのに、肩にかかる重さは行きより増しているように感じた。
風が少し強くなっていた。
雪が横から流れてくる。灰布のおかげで目は痛くないけれど、遠くの輪郭がぼやける。行きに見えていた標識も、雪の中に少し沈んだように見えた。
僕は一つ目の標識を見つけ、その方向へ歩き始めた。
足元は悪い。
大型が通った跡で雪が潰れている場所は、表面だけ固まっていて、踏むと変に沈む。小型モンスターの足跡も混ざっていて、自分の足跡なのか、別の何かの足跡なのか分からなくなる。
それでも、滑り止めの革紐が雪を噛んでくれているおかげで、転ばずに済んだ。
温石を握り直せば、指もまだ動く。
首巻きの内側で息が白くこもり、少し湿っているのが気になったけれど、外す気にはなれなかった。
準備していてよかった。
心から、そう思う。
準備していても怖いのだから、準備していなかったら、たぶん僕はもっと早く駄目になっていた。
次の標識を探す。
見える。
少し傾いているけれど、まだ見える。
あそこまで行けば、帰り道は繋がる。
そう思った時だった。
風の音に混じって、細い音が聞こえた。
――高く、短い音だった。それが、二回。
僕は足を止めた。
最初は、気のせいかと思った。雪原は音を消す。距離を狂わせる。だから、風が妙な音に聞こえただけかもしれない。
そう思おうとした。
けれど、また鳴った。
短く、二度。
間を置いて、もう一度。
笛だった。
雪原用の救援笛。
初心者講習で聞いた音の意味を、僕は思い出していた。
位置確認ではない。
ただの合図でもない。
救援要請。
誰かが、助けを求めている。
しかも、そう遠くない。
「……」
僕は、標識を見た。
帰り道は、あっちだ。
救援笛の音は、少し外れた方角から聞こえた。
標識の列から離れる。
それは、雪原でやってはいけないことの一つだ。
帰るべきだ。
絶対に、帰るべきだ。
僕が行って、何ができる。
ランク2になったばかりで、雪原にも慣れていない。さっきは小型モンスターをやり過ごすだけで精一杯だった。大型モンスターの足音だけで、息を殺すことしかできなかった。
そんな僕が、誰かを助けに行く?
無理だ。
無茶だ。
馬鹿だ。
帰って報告すればいい。
キャンプのギルド員に知らせればいい。上位のハンターが動く。僕が行く必要なんてない。
僕が行けば、助けるどころか二次遭難になるかもしれない。
笛を吹いた誰かに、余計な負担をかけるかもしれない。ア
ルナさんとの約束も破ることになる。ガルドさんの帰りの便にも遅れる。
だから、帰るべきだ。
分かっている。
「分かっているんだ、そんなことは」
本当に、分かっている。
でも。
笛は、鳴っている。
もう一度、細い音が聞こえた。
さっきより弱い気がした。
『痛い時は、痛いと言ってよいのです』
セラフィーンさんの声が、ふいに頭をよぎった。
痛いと言うのは、誰かに迷惑をかけることではありません。
痛い場所を教えることです。
あの笛は、痛い場所を教えている。
雪の中で、誰かがここだと言っている。
痛い。
動けない。
助けてくれ。
そう言っている。
「……っ」
僕は奥歯を噛んだ。
母の声が聞こえた気がした。
危ないことをしないで。
ガルドさんの声も聞こえる。
夢があるなら、急ぐな。死んだら続きは読めねぇ。
アルナさんの声。
生きて帰ってきてください。
フレイヴィアさんの声。
理想を語るなら、まず生き残れ。
全部、正しい。
全部、僕を止める言葉だ。
でも、それでも。
僕がここで笛を聞かなかったことにして帰ったら、たぶん僕は、僕の夢を信じられなくなる。
英雄になりたい、なんて言葉にしなくていい。
今はそんな大きな話じゃない。
ただ、笛が聞こえた。
助けを求める音が聞こえた。
それを聞いて、何もしないで帰れる自分でいたくなかった。
「……戦いに行くんじゃない」
僕は小さく言った。
自分に言い聞かせる。
戦いに行くんじゃない。
大型モンスターと戦うわけじゃない。小型モンスターを倒しに行くわけでもない。
助けを呼べるところまで、繋ぐために行く。
見つけたら、状況を確認する。
動けるならキャンプまで戻る。
無理なら、笛を吹き返す。
縄がある。
温石がある。
保存食もある。
標識の位置は覚えている。
大型の足音は、さっき遠ざかった。
確実ではない。
安全でもない。
でも、何も考えずに突っ込むよりはましだ。
僕は帰り道の標識を目に焼きつけ、近くの折れた枝と、雪に半分埋まった岩の形を覚えた。
物資袋の中から細縄を取り出しやすい位置に移し、温石を握り直す。
剣の柄に手を添えたが、抜かない。
抜いたら、戦う気になってしまう。
今は、戦うためじゃない。
助けるためだ。
「……行く」
足が震えていた。
怖かった。
今すぐ帰りたかった。
それでも僕は、笛の音がした方へ歩き出した。
◆
標識の列から少し外れただけで、雪原は急に広くなった。
白い。
本当に、白い。
目印にしていた標識が背中側へ遠ざかるたびに、胸の奥がざわつく。足元の雪は深く、風は横から吹いてくる。雪の粒が灰布に当たり、細かい音を立てた。
笛の音は、また聞こえた。
短く。
細く。
さっきより近い。
けれど、少し弱い。
僕は歩幅を大きくしたい気持ちを抑え、できるだけ足元を確認しながら進んだ。
急げば転ぶ。
転べば終わる。
雪原で焦るな。
昨日聞いた言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
途中、雪の上に血のようなものが見えた。
ほんの少し。
赤い点。
それが風で薄く雪に覆われかけている。
僕は喉を鳴らしそうになり、慌てて息を押さえた。
近い。
たぶん、もう近い。
その時、雪の向こうで何かが動いた。
白い影ではない。
人影だ。
ひとつ……いや、二つ。
倒れた標識札の近く、雪のくぼみの中に、二人いた。
一人はエルフだった。
長い耳が防寒具の隙間から見えている。
肩で息をしながら、それでも倒れているもう一人の前に立っていた。手には短杖のようなものを握っていて、こちらに気づいた瞬間、鋭く構える。
もう一人は小人族だった。
厚い防寒具を着込んでいて、それでも体が小さいせいか、雪のくぼみに半分埋もれるように座り込んでいる。
片足を両手で押さえ、その手の中に小さな笛を握っていた。
足元の雪が、赤く滲んでいる。
「……誰だ」
エルフの人が、短杖をこちらへ向けた。
声は冷静に聞こえた。
でも、息が乱れている。
緊張している。
疲れている。
それでも、小人族の人の前から退かない。
僕は両手を少しだけ上げ、敵意がないことを示した。剣の柄から手を離し、風で揺れそうになる首巻きを顎で押さえる。
「ギルドの物資補給で来た、ルキウスです」
「ランクは」
「二です」
その瞬間、エルフの人の顔色が変わった。
驚き。
焦り。
そして、明らかな拒絶。
「戻れ。ここは君が来る場所じゃない」
「言いたいことは分かります。でもまずは、応急処置をです」
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