駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
第一章 第一話『少年は夢を口にする』
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からからと車輪が回り、土の道に落ちていた小石を弾く。
木々の隙間から差し込む陽射しが、流れていく景色と一緒に荷台の上を横切っていた。
荷車を引いているのは、ケルンという四本脚の騎獣だ。
太い脚が地面を蹴るたび、荷台へ積まれた木箱が小さく跳ねる。
僕はそのうちの一つへ背中を預け、見たことのない森を眺めていた。
生えている木も、道端に咲く花も、僕が暮らしていた山とは少しずつ違う。
同じ森の中にいるはずなのに、車輪が回るたび、知っている世界から遠ざかっていくようだった。
やがて荷車が大きな石を踏んだ。
「うわっ」
荷台が跳ね、身体が僅かに浮く。
慌てて縁へ掴まると、手綱を握っていた男が肩越しに振り返った。
「おぉ、悪いな。ここらは道が整ってなくてよ」
「いえ。乗せてもらっているだけで、十分ありがたいです」
「がっはっは! そう言ってくれると、こっちも気が楽だ」
豪快な笑い声と一緒に、男の頭にある茶色い犬耳が揺れた。
日に焼けた大きな身体。
革の上着から覗く腕には、細かな傷がいくつも刻まれている。
森を出て街道らしき道へ辿り着いたところで、偶然通りかかった人だ。
一人で歩いていた僕を見るなり荷車を止め、エルドランまで乗せてくれることになった。
少なくとも、悪い人ではないと思う。
たぶん。
「そういや、まだ名乗ってなかったな」
男は前を向いたまま、片手を軽く上げた。
「俺はガルドだ。ガルド・ヴァラン」
「僕はルキウスです」
「おう。よろしくな、ルキウス」
名前を呼ばれ、少しだけ背筋を伸ばす。
「よろしくお願いします、ガルドさん」
僕が頭を下げると、ガルドさんの犬耳が満足そうに動いた。
「しかし、坊主」
ガルドさんは前方へ顔を戻しながら、片方の耳だけをこちらへ向ける。
「お前さん、どうしてあんなところにいたんだ?」
「あんなところ?」
「あの山の奥だよ。近くに集落もねぇし、街道からも外れてる」
ガルドさんは再び振り返り、僕の外套と小さな荷物を順番に眺めた。
最後に、顔を覆うように深く被ったフードへ視線を止める。
「見たところ、旅には慣れてねぇ。それに――素性を隠して、ガキが一人旅だなんて随分穏やかじゃねぇな」
「ガキではありません。十七です」
「俺から見りゃ、十分ガキだ」
片方の眉が持ち上がる。
年齢については、譲るつもりがないらしい。
「そういうものですか?」
「そういうもんだ」
大人は時々、何の説明にもなっていない言葉を自信満々に使う。
「家を出たところだったんです」
「あの山に家があるのか?」
「はい」
ガルドさんの犬耳が、確かめるようにこちらへ向く。
「一人で暮らしてたわけじゃねぇよな?」
「まさか。母と暮らしていました」
答えた途端、家を出る直前のことを思い出した。
『やっぱり、お母さんは反対です! あと百年くらい一緒に暮らしましょう、ルキ君!』
『百年も経ったら、僕は死んでるよ』
『いやぁぁぁ、どうしてそんなこと言うのぉぉぉ。死ぬなんて言わないでぇぇぇ!』
そう叫んだ母に抱き締められ、危うく旅立つ前に骨を折られるところだった。
泣きながらも最後には送り出してくれたけれど、僕が何度振り返っても、母は同じ場所で手を振っていた。
今でも少し、胸の奥が痛む。
いつか仕事で稼げるようになったら、母の好きな酒を持って帰ろう。
百年分は無理でも、一晩くらいは機嫌を直してもらえるはずだ。
「随分と心配されてたみてぇだな」
「少しだけです」
「今の話のどこが少しなんだよ」
ガルドさんが呆れたように笑う。
それから、こちらへ向けていた犬耳が僅かに動いた。
「そもそも、どうして素性を隠してるんだ、坊主は」
視線が、僕のフードへ落ちる。
右手の指は無意識に、布の端を掴んでいた。
『フードは、人前では絶対に外したら駄目ですよ』
家を出る前。
母は泣きながらも、この約束だけは何度も念を押してきた。
『街には、いろいろな人がいます。優しい人も、悪い人も。ルキ君がどんな人なのか、簡単に知られてはいけません』
理由を尋ねても、母は困ったように笑うだけだった。
『いつか、きちんと説明します。だから今は、お母さんの言うことを聞いてください』
その「いつか」がいつなのかは、まだ教えてもらっていない。
「母に言われたんです。人前では、絶対に外すなと」
「理由は?」
「分かりません」
返事を聞いたガルドさんが、訝しそうに目を細めた。
「分からねぇまま被ってんのか?」
「母が、意味のないことを言うとは思えませんから」
ガルドさんはしばらく黙っていた。
車輪が土を踏み、一定の音を刻んでいく。
やがて彼は、それ以上フードについて尋ねることなく、前へ向き直った。
「まあ、外したくねぇなら無理にとは言わん」
「いいんですか?」
「人には、言えねぇ事情の一つや二つあるもんだ」
深く聞かれなかったことへ、少しだけ安堵する。
「ただし」
「はい」
「顔を隠すなら、その分だけ言葉と行動には気をつけろよ」
ガルドさんは片手を手綱から離し、自分の目元を指で示した。
「どういうことですか?」
「顔が見えねぇ奴は、それだけで警戒される。お前さんに悪気がなくても、相手には分からねぇ」
指を下ろし、再び手綱を握る。
「だから、挨拶はちゃんとする。聞かれたことには答える。怪しい動きはしねぇ」
「分かりました」
「分からねぇことを、分かったふりもしねぇ」
念を押すように、片方の犬耳がこちらへ向いた。
僕は頷きかけて、ふと疑問に思う。
「それなら、どうしてガルドさんは僕を拾ってくれたんですか?」
ガルドさんはすぐには答えなかった。
前を向いたまま手綱を軽く引き、道へ張り出していた枝を避けるようにケルンの進路をずらす。
「さぁな。別に、大した意味はねぇよ」
「大した意味はないんですか?」
「フードを被ったガキが、あんなところを一人で歩いてりゃ、そりゃ心配にもなるだろ」
当たり前のことのように言われた。
顔も素性も分からない相手を荷台へ乗せる方が、よほど心配ではないだろうか。
そう思いながら背中を見ていると、こちらの疑問を察したのか、犬耳が小さく動く。
「それに、俺は見る目があるからな」
「見る目?」
「ああ。坊主が悪い奴じゃなさそうだってことくらい、だいたい分かってた」
「フードを被っているのに?」
ガルドさんは肩越しに振り返った。
日に焼けた顔には、根拠の欠片も見当たらないほど自信に満ちた笑みが浮かんでいる。
「フードを被っているのに、だ」
自信満々に言い切り、すぐに前へ向き直った。
そういうものなのだろうか。
僕には獣人族の感覚や特性について、ほとんど知識がない。
もしかすると犬系の獣人族には、顔を見なくても相手の人柄を見抜く力があるのかもしれない。
ここまで言い切るのなら、たぶんそうなのだろう。
「すごいんですね、獣人族は」
「ん?」
ガルドさんが僅かに首を傾げる。
「何でもありません」
違う可能性が少しだけ頭をよぎったけれど、ひとまず深く考えないことにした。
「それで?」
ガルドさんが話を戻すように、手綱を持ち直す。
「そこまで心配してくれる母親を残して、どうして一人で家を出たんだ」
「え?」
「親子喧嘩じゃねぇんだろ?」
僕は反射的に木箱から身体を起こした。
「違います!」
「なら、やりたいことでもあるのか?」
ガルドさんが肩越しにこちらを見る。
犬耳の下で、口元が意地悪そうに持ち上がっていた。
「フードで顔を隠しても、そういうのは隠せてねぇぞ」
「何がですか?」
「何かを始めたくて、仕方ねぇって顔だ」
言いながら、楽しそうに片方の耳を揺らす。
「顔は見えていないはずですが」
「雰囲気で分かる」
「また、それですか」
ガルドさんは悪びれることなく肩を竦めた。
「便利だろ?」
「便利なのは、ガルドさんだけだと思います」
それに、先ほどは顔を見なくても人柄が分かると言っていた。
もはやフードを被っている意味が、ガルドさんの前ではほとんどない。
「言いたくねぇなら、無理に聞きゃしねぇよ」
「言いたくないわけでは……」
「なら、聞かせてくれよ」
ガルドさんは再び前を向いた。
それでも、片方の犬耳はこちらへ向いたままだった。
「森の奥で暮らしてた坊主が、外へ出ようと思った理由をよ」
荷台の下で車輪が石を弾いた。
からん、と乾いた音が森の奥へ転がっていく。
膝の上に置いていた手を握る。
「……笑いませんか?」
「あん?」
「笑わないって、約束できますか?」
ガルドさんは一度だけ目を瞬かせたあと、前を向いたまま笑った。
「俺は男の夢を笑うような男に見えるか?」
「少し見えます」
「ひでぇな」
僕が黙って見つめていると、ガルドさんは居心地悪そうに後頭部を掻いた。
「さっきから、ずっと面白そうにしているので」
「そりゃ、お前さんの反応が面白いからだ」
やっぱり、笑われる気がする。
自分でも、身の丈に合わない夢だと分かっていた。
それでも、ここまで聞かれて黙っている方が恥ずかしい。
息を吸う。
湿った森の匂いが、胸の奥へ入ってきた。
「僕は……なりたいんです」
「あん? 聞こえねぇぞ」
「だから、その……」
言葉が喉へ引っかかり、上手く外へ出てこない。
「おいおい」
ガルドさんが耳へ手を添え、わざとらしくこちらへ身体を傾ける。
「お前さんの夢は、そんな小せぇ声でしか言えねぇもんなのか?」
煽られている。
それくらいは僕にも分かった。
けれど、胸の奥に抱えてきた言葉が、声と一緒に押し上がってくる。
顔を上げる。
フードの奥から、ガルドさんの大きな背中を真っすぐに見た。
「英雄になりたいんです!」
声が森へ響いた。
近くの枝に止まっていた鳥が、驚いたように飛び立つ。
羽音が遠ざかり、一瞬だけ静けさが戻った。
その直後。
「がっはっはっはっはっは!」
僕の声よりも大きな笑い声が、森の中へ広がった。
「ひ、酷い!笑わないって言ったじゃないですか!」
きっと、僕の顔は赤面しているに違いない。
そんな僕のことなんてお構いなしに、ガルドさんは未だ笑い続けながら僕を見た。
「悪い悪い!」
「やっぱり、僕には無理だと思ったんでしょう!」
顔が熱い。
フードがなければ、きっと耳まで赤くなっているのが見えていた。
だから言いたくなかったのだ。
自分が弱いことくらい、自分が一番よく分かっている。
強い身体はない。
剣の才能も、魔法の力もない。
物語の主人公のように、人を惹きつける何かだって持っていない。
――ただの人間だ。
それも、森から出てきたばかりの、何も知らない少年にすぎない。
「こんな弱そうな奴が、英雄になんてなれるわけないって――」
「そんなわけあるか」
ガルドさんの声から、笑いが消えた。
先ほどまでとは違う真剣な響きに、僕は続けようとしていた言葉を飲み込む。
「笑ったのは、馬鹿にしたからじゃねぇ」
ガルドさんは手綱を片手へまとめ、もう一方の手をこちらへ伸ばした。
大きく硬い手が、フードの上から僕の頭を乱暴に撫でる。
「お前さんの夢が、昔の俺と同じだったからだ」
「同じ……?」
「ああ」
僕の頭から手を離し、再び手綱を握る。
「俺も昔は、英雄になりたかった」
「ガルドさんも?」
「おう。俺にも、そんな時期があった」
ガルドさんは過ぎていく木々へ目を向けた。
その横顔には、先ほどまでとは違う懐かしさが滲んでいる。
「今はこうして運び屋をやっているが、昔はハンターだった。仲間と一緒に、世界を回ったこともある」
「本当ですか?」
「嘘をついてどうする」
それなら、ガルドさんは僕が本でしか知らない世界を、実際に見てきたのだ。
「もしかして、『蒼空のアルヴィス』も読んでいましたか?」
「当然だろ。あれを読まずに育った男なんざ、世界中を探してもそうはいねぇ」
「ですよね!」
思わず、木箱から身体を起こす。
『蒼空のアルヴィス』。
平凡な少年アルヴィスが多くの出会いと別れを経て世界を巡り、最後には世界を滅ぼそうとする古竜を討ち倒す物語。
僕は何度読んだか分からない。
読みすぎて背表紙が裂け、母に修理してもらったあとも繰り返し読んだ。
今では、修繕した紙と糸のせいで元の倍ほどの厚さになっている。
「僕も、アルヴィスに憧れて家を出たんです」
「いいじゃねぇか」
「でも、僕にはアルヴィスみたいな才能はありません」
口にすると、先ほどまでの高揚が少しだけ萎んだ。
「アルヴィスみたいな剣の才能も、仲間もたくさんの仲間も、どんなに怖くても前へ進む勇気ですらあるかわからない」
膝の上へ視線を落とす。
握った指には、剣を振ってきた硬さなどほとんど残っていない。
「僕にあるのはただ憧れだけです」
「それがあるなら、十分だろ」
「十分でしょうか」
ガルドさんはすぐには答えなかった。
手綱を握り直し、木々の隙間から続く道の先を見つめる。
「坊主」
やがて、低い声が落ちた。
「お前がお前の夢を信じてやらないで、誰がお前を信じるんだ」
風が木々の間を抜け、フードの端を揺らした。
何の根拠もない言葉だった。
僕が英雄になれる証拠なんて、どこにもない。
ガルドさんだって、今日会ったばかりの僕が何をできるのか知らないはずだ。
それでも、その言葉は胸の奥へ真っすぐ落ちてきた。
夢を信じてもらえた。
そう思った。
「……ありがとうございます」
「おう」
「おっちゃん」
ガルドさんの犬耳が、ぴくりと立った。
「今、いい話をしたところだぞ」
「すみません。つい」
「お兄さんと呼べ、お兄さんと」
ガルドさんが自分の胸を親指で指す。
「ガルドお兄さん」
「おう」
「少し似合いませんね」
満足そうに頷いていた顔が、ぴたりと止まった。
「歩いて行くか、坊主?」
「すみませんでした」
すぐに頭を下げる。
ガルドさんは鼻を鳴らしたものの、犬耳は楽しそうに揺れていた。
それから、荷車はしばらく森の道を進み続けた。
木々の間隔が少しずつ広くなる。
湿った葉と土の匂いに、これまで嗅いだことのないものが混じり始めた。
冷たく、少し塩辛い風。
「この匂いは?」
「海だ」
「海……」
本の挿絵でしか見たことがない。
荷台の端へ身を寄せ、木々の向こうへ目を凝らす。
まだ水面は見えなかった。
代わりに、遠くから幾つもの音が重なって聞こえてくる。
大勢の人の声。
金属を打ちつける音。
荷車の車輪。
騎獣の鳴き声。
「そろそろだぞ」
ガルドさんの声に、荷台から身を乗り出す。
最後の木々を抜けた。
「――わ」
最初に見えたのは、巨大な城壁だった。
見上げても上端が遠い。
左右へ目を向けても、終わりが見えなかった。
その中央には、何台もの荷車が並んで通れるほど大きな門が開いている。
門の向こうには石造りの建物が幾重にも重なり、さらに奥では、空へ伸びる船の帆柱が風に揺れていた。
大勢の人。
荷物を積んだ車。
見たことのない服や、武器や、種族。
あまりにも多くのものが一度に視界へ飛び込んできて、息をすることさえ忘れてしまう。
「すごい……」
ようやく漏れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
「どうだ。すげぇだろ」
ガルドさんが得意そうに笑う。
彼が作った街ではないと思うけれど、今は指摘する余裕がない。
荷車が門へ続く列の最後へ並んだ。
からからと回っていた車輪が速度を落とし、やがてゆっくりと止まる。
目の前にある街の中から、知らない世界の音が溢れていた。
ガルドさんは片手で手綱を握り、もう一方の腕を大きく広げる。
「ようこそ、自由交易都市エルドランへ」
犬耳を揺らし、僕を振り返った。
「ここが、坊主の始まりの町だ」
胸の奥で、心臓が大きく鳴った。
英雄になるために、森を出た。
何をすればいいのかも、どこへ向かえばいいのかも、まだ分からない。
それでも、最初の場所には辿り着いた。
僕は膝の上で拳を握り、城門の向こうを真っすぐに見た。
知らない人。
知らない仕事。
知らない世界。
そのすべてが、あの門の先で待っている。
からからと車輪が再び回り始めた。
僕の夢を乗せた荷車は、自由交易都市エルドランへ向かって、ゆっくりと進んでいった。
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