駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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 ~前回までのあらすじ~
 前回、大型の影を見たルキウス。いち早くギルドに戻って報告を――そう思っていたのだが、そこで救難信号の音が聞こえてきて、ルキウスは間違っていると分かっていながらも助けに行くことを決意した。


第一章 第十九話『少年は既に渦中にいる」』

 

 ◆

 

「応急処置をします」

 

 僕がそう言うと、短杖を構えていたエルフの人は、ほんの一瞬だけ目を細めた。

 雪のくぼみの中。

 風は少しずつ強くなっていて、足元の雪は小人族の女の子の血で赤く滲んでいる。

 

 戻れ。

 ここは君が来る場所じゃない。

 そう言われたばかりだった。

 その通りだと思う。

 

 僕はランク2になったばかりで、雪原にも慣れていない。さっきまで大型モンスターの足音に怯えて、倒木の陰で息を殺すことしかできなかった。

 ここは、僕が来る場所じゃない。

 でも、来てしまった。

 笛を聞いてしまった。

 なら、何もしないまま引き返すことはできなかった。

 

「君はランク2だと言ったな」

「はい」

「なら、分かるはずだ。君が残れば、助ける人数が増えるだけだ」

 

「分かります」

 

 僕は頷いた。

 反論できない。

 たぶん、それは正しい。

 

「でも、このままでは戻れません」

「……何?」

 

「応急処置だけします。ちゃんと治せるわけじゃありません。でも、血を止めるくらいなら」

「できるのか」

 

「教会で、少し見ました」

「見ただけでやれるものか」

「やれます。やります」

 

 正論だった。

 でも、他にできることがない。

 目の前で小人族の女の子が、荒い息をしながら足を押さえている。厚い防寒具の下から、血が雪へ滲み出していた。放っておけば、たぶん歩く歩かない以前の問題になる。

 

「……リュシア」

 

 小人族の女の子が、かすれた声を出した。

 エルフの人――リュシアさんは、短杖を構えたまま、ほんの少しだけ振り返る。

 

「喋るな、ミミル」

「その子、来ちゃったなら……使おう」

「ミミル」

「戻れって言っても、戻らない顔してる」

「顔、見えてます?」

 

 思わず聞いてしまった。

 小人族の女の子――ミミルさんは、痛みに顔を歪めながら、それでも少しだけ口元を動かした。

 

「雰囲気」

「僕、そんなに分かりやすいんですか」

「かなり」

 

 こんな状況なのに、少しだけ場違いな会話が生まれた。

 けれど、そのおかげで、凍りついていた指先が少しだけ動いた気がした。

 リュシアさんは短く息を吐き、短杖を少し下げる。

 

「いいだろう。ただし、無理はするな。余計なこともするな。危ないと思ったらすぐ戻る」

「はい」

「まず、ミミルを――」

「いえ、先にあなたの足を見ます」

 

 僕が言うと、リュシアさんの眉が動いた。

 

「私より、この子を」

「あなたが立てなくなったら、ミミルさんを運べません」

「……」

「だから、先にあなたです」

 

 言ってから、自分で少し驚いた。

 僕が、こんなふうに誰かへ指示するようなことを言うなんて。

 でも、口にした言葉は間違っていないと思った。リュシアさんは今、ミミルさんを庇って立っている。けれど、片足の置き方がおかしい。雪の上に体重をかけきれていない。

 足首を痛めている。

 僕では二人を抱えて歩くことは不可能だ。

 

「……分かった」

 

 リュシアさんは短杖を支えにして、雪へゆっくりと腰を下ろした。

 納得しきった顔ではない。それでも、治療を任せると決めたあとは何も言わず、傷めた足を僕の前へ差し出した。

 

「動かします。痛かったら言ってください」

 

 返事の代わりに、小さく頷く。

 僕は靴を脱がせず、その上から足首へ慎重に触れた。

 雪原で靴を脱がせれば、足先から急速に熱を奪われる。昨日、フレイヴィアさんから教わったばかりだった。

 

「……少し失礼します」

 

 足首の向きを確かめるように、僅かに動かす。

 リュシアさんの呼吸が一度だけ詰まり、短杖を握る指へ力が入った。

 けれど、声は上げない。

 骨が折れているようには見えなかった。ただ、腫れ始めていて、体重をかけ続けるのは難しそうだった。

 

「固定した方がよさそうです」

 

 物資袋から細縄と予備の布を取り出す。

 近くには、折れた標識札が倒れていた。その中から腕ほどの長さの板を拾い、尖った部分を雪へ擦りつけて落とす。

 板へ布を巻き、足首の外側へ添える。

 

「きつかったら、すぐ言ってください」

 

 リュシアさんが、もう一度だけ頷いた。

 縄を巻くたび、その表情が僅かに強張る。

 それでも彼女は黙ったまま、僕の手元を見ていた。

 

「…………」

 

 手が震える。

 寒さのせいだけではない。

 締めすぎれば血の流れを止めてしまう。緩ければ、固定する意味がなくなる。

 セラフィーンさんが治療する姿を思い出しながら、指が一本入る程度の余裕を残して縄を結んだ。

 

「これで……どうでしょう」

 

 リュシアさんは足を僅かに動かし、それから短杖を使って慎重に立ち上がった。

 顔を歪めはしたものの、先ほどのように足首が崩れることはない。

 

「歩けそうですか?」

「ああ。痛みはあるが、先ほどよりはましだ」

 

 そこで初めて、リュシアさんは僕を真っすぐ見た。

 

「助かった。感謝する」

「いえ。次は、ミミルさんを」

 

 僕はすぐに振り返り、血に濡れた小人族の少女のもとへ膝をついた。

 近づくと、血の匂いがした。

 

 雪の冷たい匂いの中で、そこだけ生々しい。厚い防寒具の下、右足のふくらはぎから足首にかけて、防寒布が裂けている。噛まれたのか、爪で裂かれたのか、傷口は深く、血がまだにじんでいた。

 ミミルさんは小人族らしく、僕の胸よりずっと低い背丈だ。厚い防寒具に包まれているせいで、ますます小さく見える。顔は青白く、唇が震えていた。

 

「笛、聞こえた……?」

「聞こえました」

「馬鹿だなぁ……戻れば、よかったのに」

「僕もそう思います」

「思うんだ」

「思います」

 

 ミミルさんは、痛みの中で少しだけ笑った。

 けれど、すぐに表情が歪む。

 

「ごめん、変なの、呼んだ……」

「呼ばれました。だから、大丈夫です」

 

 大丈夫かどうかなんて分からない。

 でも、そう言いたかった。

 僕は物資袋から教会印の薬包を取り出す。防水紙を破ると、中には清潔な布と止血用の薬、傷口を洗うための小瓶が入っていた。

 

 清水草。

 この薬の中に、僕が採ったものが使われているかもしれない。

 そう思った。

 思ったけれど、感傷に浸る暇なんてなかった。

 

 いつか誰かのためになるかもしれないと思って採った草が、今、目の前の誰かの血を止めるために使われている。

 それを喜ぶ余裕なんてない。

 ただ、間に合えと思った。

 

「防寒具、切ります」

「高かった……」

「命よりは安いです」

「あは……受付嬢みたいなこと、言うね」

「僕も言われました」

 

 ナイフで裂けている部分を少し広げる。

 傷口が見えた。

 思わず息が止まりそうになる。

 

 深い。

 赤い。

 

 雪の白さの中で、それだけが嫌になるくらいはっきりしている。

 僕は小瓶の中身を布に含ませ、傷口の周りを拭いた。ミミルさんの体がびくりと震える。

 

「痛いですよね」

「痛い……!」

「はい。痛いですよね」

 

 痛い時は、痛いと言ってよいのです。

 セラフィーンさんの声が、また頭をよぎる。

 

「すぐ止めます。いえ、すぐは無理かもしれません。でも、止めます」

「正直……」

「すみません」

「いいよ。嘘より、いい」

 

 僕は止血薬を布に乗せ、傷口へ押し当てた。

 ミミルさんが息を詰める。

 リュシアさんが短杖を握りしめる音が聞こえた。

 

「強く押さえます」

「う、ん……!」

 

 小さな体が震える。

 僕の手も震える。

 それでも、離せない。

 

 血が布に染み込む。

 もう一枚重ねる。

 さらに上から巻く。

 傷口を雪で冷やしすぎないよう、布で覆い、防寒具の内側に温石を入れる。ただし、直接肌には当てない。リュシアさんがさっき言ったことを思い出しながら、位置を調整する。

 

「ミミル、意識を保て」

 

 リュシアさんが言った。

 

「寝るな」

「寝たら……怒る?」

「怒る」

「じゃあ、寝ない……」

 

 ミミルさんの声は弱い。

 けれど、返事はある。

 それだけで、僕は少し救われた。

 

「ルキウス」

「はい」

「本当にランク2か」

 

 リュシアさんが言った。

 僕は布を巻きながら答える。

 

「はい」

「応急処置は誰に教わった」

「教わったというほどではありません。教会で、見たことがあって」

「見ただけでやるな」

「二回目ですね」

「何度でも言う」

「すみません」

「……だが、感謝する」

 

 その声には、さっきより少しだけ違う響きがあった。

 邪魔者を見る目ではない。

 少なくとも、今すぐ追い返す相手を見る目ではなくなっている。

 

「私はリュシア。エルドラン支部の調査員だ」

「ルキウスです」

「知っている。さっき聞いた」

「そうでした」

「この子はミミル。標識と測量器具の担当だ」

「小人族は、細かい道具が得意なんだよ……」

 

 ミミルさんが小さく言った。

 

「今喋るなと言っただろう」

「自己紹介は、大事……」

「喋るな」

「はい……」

 

 そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩む。

 けれど、雪原は待ってくれない。

 風はまだ吹いている。

 大型モンスターがどこへ行ったのかも分からない。

 僕はミミルさんの足に巻いた布を最後にもう一度確認し、強く締めすぎていないかを見た。

 

「出血は、少し落ち着いたと思います」

「歩けるか」

 

 リュシアさんが聞く。

 ミミルさんは、少しだけ体を起こそうとして、すぐに顔を歪めた。

 

「無理……たぶん、立てない」

「背負うしかないな」

「僕が」

「頼む」

 

 ミミルさんに背を見せて、そこにしなだれかかってもらう。

 うん。大丈夫。

 

「キャンプへ戻るのは?」

 

 僕が聞くと、リュシアさんは雪の向こうを見た。

 

「危険だ。大型が通った方向によっては、標識列が踏み潰されている。小型も散っているだろう」

「じゃあ、避難小屋は?」

「距離はある。ただ、風下側にある。大型が戻らなければ、そちらの方が可能性はある」

「大型が戻らなければ」

「そうだ」

 

 嫌な条件だった。

 でも、ここに留まるよりはましなのかもしれない。

 

 ミミルさんは動けない。

 リュシアさんは足首を固定しただけで、走れない。

 僕はランク2で、雪原にも慣れていない。

 

 状況だけ並べると、どう考えても悪い。

 それでも、さっきよりは少しだけましになっている。

 

 リュシアさんの足は固定できた。

 ミミルさんの出血も少し落ち着いた。

 次に考えることは、ここからどう動くか。

 そう思った時だった。

 

 ――雪が、ふっと止んだ。

 

 それまで視界を塞いでいた白い粒が、急に薄くなる。

 風向きが変わったのか、雲が切れたのか、理由は分からない。けれど、さっきまでぼやけていた景色が、一気に広がった。

 

 倒れた標識札。

 低い木立。

 遠くの雪丘。

 白く続く地面。

 

 視界が開ける。

 見える。

 助かった。

 そう思った。

 ほんの一瞬だけ。

 

 次の瞬間、体が勝手に動いた。

 音より先だった。

 影より先だった。

 

 雪の沈み方。

 風の圧。

 白い視界の端で膨らむ、ありえない大きさの何か。

 考えるより早く、僕はリュシアさんを突き飛ばしていた。

 

「っ!」

 

 リュシアさんの目が見開かれる。

 同時に、僕はミミルさんの体を抱えるように掴み、自分ごと横へ飛んだ。

 無理な姿勢だった。

 

 足が雪に取られる。

 肩が変な方向へ引っ張られる。

 ミミルさんが短く悲鳴を上げる。

 

 それでも、転がるようにその場から離れた。

 直後。

 さっきまで僕たちがいた場所に、巨大な前足が叩きつけられた。

 

 音が、遅れて来た。

 雪が爆ぜる。

 凍った土が抉れる。

 折れた標識札が砕け、縄が千切れ、白い地面が黒く裂ける。

 

 衝撃で体が浮いた気がした。

 僕はミミルさんを抱えたまま雪の上を転がり、背中を硬い何かにぶつけた。息が詰まる。肩が痛い。脇腹も痛い。けれど、ミミルさんを離すわけにはいかなかった。

 

「ミミル!」

 

 リュシアさんの声が飛ぶ。

 

「だ、大丈夫……たぶん……!」

 

 ミミルさんが震えながら答える。

 よかった。

 生きている。

 そう思った直後、僕は顔を上げた。

 

 ――最悪はそこにいた。

 

 そこにいた。

 白い雪の中に、白では隠しきれない巨大な影が立っていた。

 太い前足。

 雪を裂く鉤爪。

 低く沈んだ肩。

 

 白灰色の体毛の下で、岩のような筋肉が動いている。背から肩にかけては、氷を削り出したような突起が並び、呼吸のたびに大きな顎の隙間から白い霧が漏れていた。

 目は、冷たい。

 凍った水底みたいな色をしている。

 

 それがこちらを見ているのか、見ていないのかすら分からない。ただ、そこに立っているだけで、体の奥が逃げろと叫んでいた。

 モンスター。

 そう呼ぶには、あまりにも大きすぎる。

 

 熊にも似ていた。

 狼にも似ていた。

 けれど、そのどちらでもない。

 雪原そのものが牙と爪を持って立ち上がったような、理屈ではなく本能で分かる脅威。

 

 前足が落ちた場所は、地面ごと抉れている。

 もし、あのまま座っていたら。

 もし、一瞬でも遅れていたら。

 考えた瞬間、喉が凍った。

 脅威を、そのまま形にしたようなものが、僕たちの前にいた。

 

 




 
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