駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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少年は既に渦中にいる

 

 ◆

 

「応急処置をします」

 

 僕がそう言うと、短杖を構えていたエルフの人は、ほんの一瞬だけ目を細めた。

 雪のくぼみの中。

 風は少しずつ強くなっていて、足元の雪は小人族の女の子の血で赤く滲んでいる。

 

 戻れ。

 ここは君が来る場所じゃない。

 そう言われたばかりだった。

 その通りだと思う。

 

 僕はランク2になったばかりで、雪原にも慣れていない。さっきまで大型モンスターの足音に怯えて、倒木の陰で息を殺すことしかできなかった。

 ここは、僕が来る場所じゃない。

 でも、来てしまった。

 笛を聞いてしまった。

 なら、何もしないまま引き返すことはできなかった。

 

「君はランク2だと言ったな」

「はい」

「なら、分かるはずだ。君が残れば、助ける人数が増えるだけだ」

 

「分かります」

 

 僕は頷いた。

 反論できない。

 たぶん、それは正しい。

 

「でも、このままでは戻れません」

「……何?」

 

「応急処置だけします。ちゃんと治せるわけじゃありません。でも、血を止めるくらいなら」

「できるのか」

 

「教会で、少し見ました」

「見ただけでやれるものか」

「やれます。やります」

 

 正論だった。

 でも、他にできることがない。

 目の前で小人族の女の子が、荒い息をしながら足を押さえている。厚い防寒具の下から、血が雪へ滲み出していた。放っておけば、たぶん歩く歩かない以前の問題になる。

 

「……リュシア」

 

 小人族の女の子が、かすれた声を出した。

 エルフの人――リュシアさんは、短杖を構えたまま、ほんの少しだけ振り返る。

 

「喋るな、ミミル」

「その子、来ちゃったなら……使おう」

「ミミル」

「戻れって言っても、戻らない顔してる」

「顔、見えてます?」

 

 思わず聞いてしまった。

 小人族の女の子――ミミルさんは、痛みに顔を歪めながら、それでも少しだけ口元を動かした。

 

「雰囲気」

「僕、そんなに分かりやすいんですか」

「かなり」

 

 こんな状況なのに、少しだけ場違いな会話が生まれた。

 けれど、そのおかげで、凍りついていた指先が少しだけ動いた気がした。

 リュシアさんは短く息を吐き、短杖を少し下げる。

 

「いいだろう。ただし、無理はするな。余計なこともするな。危ないと思ったらすぐ戻る」

「はい」

「まず、ミミルを――」

「いえ、先にあなたの足を見ます」

 

 僕が言うと、リュシアさんの眉が動いた。

 

「私より、この子を」

「あなたが立てなくなったら、ミミルさんを運べません」

「……」

「だから、先にあなたです」

 

 言ってから、自分で少し驚いた。

 僕が、こんなふうに誰かへ指示するようなことを言うなんて。

 でも、口にした言葉は間違っていないと思った。リュシアさんは今、ミミルさんを庇って立っている。けれど、片足の置き方がおかしい。雪の上に体重をかけきれていない。

 足首を痛めている。

 僕では二人を抱えて歩くことは不可能だ。

 

「……分かった」

 

 リュシアさんは不満そうだったが、短杖を支えにして雪の上へ座った。

 僕は膝をつき、彼女の足元を確認する。

 靴は脱がせない。

 雪原で靴を脱がせるのは危ないと、昨日フレイヴィアさんから聞いていた。冷えれば、それだけで動けなくなる。

 

「動かします。痛かったら言ってください」

「痛い」

「まだ触ってません」

「先に言っておく」

「分かりました」

 

 少しだけ、リュシアさんの声に余裕が戻った。

 僕は彼女の足首の周囲を確認し、腫れ方と向きを見る。骨が折れているようには見えない。けれど、完全に体重をかけるのは無理そうだった。

 物資袋から細縄と予備の布を取り出し、近くに落ちていた折れた標識札の細い板を拾う。

 

「これで固定します」

「標識札を添え木にする気か」

「だめですか?」

「悪くはない。だが、使い方を間違えるな」

「教えてください」

 

 リュシアさんは一瞬だけ僕を見た。

 それから、短く指示する。

 

「足首の外側。そこに当てろ。直接ではなく布を挟め。強く締めすぎるな。血が止まる」

「はい」

「温石は近くに置け。直接当てるな。熱で感覚が鈍る」

「はい」

 

 僕は言われた通りに処置していく。

 手袋の中の指は震えていた。

 寒さのせいだけじゃない。

 

 怖いからだ。

 目の前で誰かの怪我を処置するのは、想像していたよりずっと怖い。力を入れすぎてもだめで、緩すぎてもだめで、自分の手つき一つで相手の痛みが増える。

 セラフィーンさんは、いつもこれをしていたのか。

 

 あの静かな表情で。

 あの優しい声で。

 治癒術だけでなく、傷を見て、痛い場所を聞いて、どうすればいいかを考えていたのか。

 

「……これで、少しは固定できたと思います」

 

 細縄を結び終え、僕はリュシアさんを見る。

 リュシアさんは足首を少しだけ動かし、顔をしかめた。

 

「痛むが、崩れはしない」

「よかった」

「感謝する」

 

 その一言で、ほんの少しだけ息ができた。

 次はミミルさんだった。

 近づくと、血の匂いがした。

 

 雪の冷たい匂いの中で、そこだけ生々しい。厚い防寒具の下、右足のふくらはぎから足首にかけて、防寒布が裂けている。噛まれたのか、爪で裂かれたのか、傷口は深く、血がまだにじんでいた。

 ミミルさんは小人族らしく、僕の胸よりずっと低い背丈だ。厚い防寒具に包まれているせいで、ますます小さく見える。顔は青白く、唇が震えていた。

 

「笛、聞こえた……?」

「聞こえました」

「馬鹿だなぁ……戻れば、よかったのに」

「僕もそう思います」

「思うんだ」

「思います」

 

 ミミルさんは、痛みの中で少しだけ笑った。

 けれど、すぐに表情が歪む。

 

「ごめん、変なの、呼んだ……」

「呼ばれました。だから、大丈夫です」

 

 大丈夫かどうかなんて分からない。

 でも、そう言いたかった。

 僕は物資袋から教会印の薬包を取り出す。防水紙を破ると、中には清潔な布と止血用の薬、傷口を洗うための小瓶が入っていた。

 

 清水草。

 この薬の中に、僕が採ったものが使われているかもしれない。

 そう思った。

 思ったけれど、感傷に浸る暇なんてなかった。

 

 いつか誰かのためになるかもしれないと思って採った草が、今、目の前の誰かの血を止めるために使われている。

 それを喜ぶ余裕なんてない。

 ただ、間に合えと思った。

 

「防寒具、切ります」

「高かった……」

「命よりは安いです」

「あは……受付嬢みたいなこと、言うね」

「僕も言われました」

 

 ナイフで裂けている部分を少し広げる。

 傷口が見えた。

 思わず息が止まりそうになる。

 

 深い。

 赤い。

 

 雪の白さの中で、それだけが嫌になるくらいはっきりしている。

 僕は小瓶の中身を布に含ませ、傷口の周りを拭いた。ミミルさんの体がびくりと震える。

 

「痛いですよね」

「痛い……!」

「はい。痛いですよね」

 

 痛い時は、痛いと言ってよいのです。

 セラフィーンさんの声が、また頭をよぎる。

 

「すぐ止めます。いえ、すぐは無理かもしれません。でも、止めます」

「正直……」

「すみません」

「いいよ。嘘より、いい」

 

 僕は止血薬を布に乗せ、傷口へ押し当てた。

 ミミルさんが息を詰める。

 リュシアさんが短杖を握りしめる音が聞こえた。

 

「強く押さえます」

「う、ん……!」

 

 小さな体が震える。

 僕の手も震える。

 それでも、離せない。

 

 血が布に染み込む。

 もう一枚重ねる。

 さらに上から巻く。

 傷口を雪で冷やしすぎないよう、布で覆い、防寒具の内側に温石を入れる。ただし、直接肌には当てない。リュシアさんがさっき言ったことを思い出しながら、位置を調整する。

 

「ミミル、意識を保て」

 

 リュシアさんが言った。

 

「寝るな」

「寝たら……怒る?」

「怒る」

「じゃあ、寝ない……」

 

 ミミルさんの声は弱い。

 けれど、返事はある。

 それだけで、僕は少し救われた。

 

「ルキウス」

「はい」

「本当にランク2か」

 

 リュシアさんが言った。

 僕は布を巻きながら答える。

 

「はい」

「応急処置は誰に教わった」

「教わったというほどではありません。教会で、見たことがあって」

「見ただけでやるな」

「二回目ですね」

「何度でも言う」

「すみません」

「……だが、感謝する」

 

 その声には、さっきより少しだけ違う響きがあった。

 邪魔者を見る目ではない。

 少なくとも、今すぐ追い返す相手を見る目ではなくなっている。

 

「私はリュシア。エルドラン支部の調査員だ」

「ルキウスです」

「知っている。さっき聞いた」

「そうでした」

「この子はミミル。標識と測量器具の担当だ」

「小人族は、細かい道具が得意なんだよ……」

 

 ミミルさんが小さく言った。

 

「今喋るなと言っただろう」

「自己紹介は、大事……」

「喋るな」

「はい……」

 

 そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩む。

 けれど、雪原は待ってくれない。

 風はまだ吹いている。

 大型モンスターがどこへ行ったのかも分からない。

 僕はミミルさんの足に巻いた布を最後にもう一度確認し、強く締めすぎていないかを見た。

 

「出血は、少し落ち着いたと思います」

「歩けるか」

 

 リュシアさんが聞く。

 ミミルさんは、少しだけ体を起こそうとして、すぐに顔を歪めた。

 

「無理……たぶん、立てない」

「背負うしかないな」

「僕が」

「頼む」

 

 ミミルさんに背を見せて、そこにしなだれかかってもらう。

 うん。大丈夫。

 

「キャンプへ戻るのは?」

 

 僕が聞くと、リュシアさんは雪の向こうを見た。

 

「危険だ。大型が通った方向によっては、標識列が踏み潰されている。小型も散っているだろう」

「じゃあ、避難小屋は?」

「距離はある。ただ、風下側にある。大型が戻らなければ、そちらの方が可能性はある」

「大型が戻らなければ」

「そうだ」

 

 嫌な条件だった。

 でも、ここに留まるよりはましなのかもしれない。

 

 ミミルさんは動けない。

 リュシアさんは足首を固定しただけで、走れない。

 僕はランク2で、雪原にも慣れていない。

 

 状況だけ並べると、どう考えても悪い。

 それでも、さっきよりは少しだけましになっている。

 

 リュシアさんの足は固定できた。

 ミミルさんの出血も少し落ち着いた。

 次に考えることは、ここからどう動くか。

 そう思った時だった。

 

 ――雪が、ふっと止んだ。

 

 それまで視界を塞いでいた白い粒が、急に薄くなる。

 風向きが変わったのか、雲が切れたのか、理由は分からない。けれど、さっきまでぼやけていた景色が、一気に広がった。

 

 倒れた標識札。

 低い木立。

 遠くの雪丘。

 白く続く地面。

 

 視界が開ける。

 見える。

 助かった。

 そう思った。

 ほんの一瞬だけ。

 

 次の瞬間、体が勝手に動いた。

 音より先だった。

 影より先だった。

 

 雪の沈み方。

 風の圧。

 白い視界の端で膨らむ、ありえない大きさの何か。

 考えるより早く、僕はリュシアさんを突き飛ばしていた。

 

「っ!」

 

 リュシアさんの目が見開かれる。

 同時に、僕はミミルさんの体を抱えるように掴み、自分ごと横へ飛んだ。

 無理な姿勢だった。

 

 足が雪に取られる。

 肩が変な方向へ引っ張られる。

 ミミルさんが短く悲鳴を上げる。

 

 それでも、転がるようにその場から離れた。

 直後。

 さっきまで僕たちがいた場所に、巨大な前足が叩きつけられた。

 

 音が、遅れて来た。

 雪が爆ぜる。

 凍った土が抉れる。

 折れた標識札が砕け、縄が千切れ、白い地面が黒く裂ける。

 

 衝撃で体が浮いた気がした。

 僕はミミルさんを抱えたまま雪の上を転がり、背中を硬い何かにぶつけた。息が詰まる。肩が痛い。脇腹も痛い。けれど、ミミルさんを離すわけにはいかなかった。

 

「ミミル!」

 

 リュシアさんの声が飛ぶ。

 

「だ、大丈夫……たぶん……!」

 

 ミミルさんが震えながら答える。

 よかった。

 生きている。

 そう思った直後、僕は顔を上げた。

 

 ――最悪はそこにいた。

 

 そこにいた。

 白い雪の中に、白では隠しきれない巨大な影が立っていた。

 太い前足。

 雪を裂く鉤爪。

 低く沈んだ肩。

 

 白灰色の体毛の下で、岩のような筋肉が動いている。背から肩にかけては、氷を削り出したような突起が並び、呼吸のたびに大きな顎の隙間から白い霧が漏れていた。

 目は、冷たい。

 凍った水底みたいな色をしている。

 

 それがこちらを見ているのか、見ていないのかすら分からない。ただ、そこに立っているだけで、体の奥が逃げろと叫んでいた。

 モンスター。

 そう呼ぶには、あまりにも大きすぎる。

 

 熊にも似ていた。

 狼にも似ていた。

 けれど、そのどちらでもない。

 雪原そのものが牙と爪を持って立ち上がったような、理屈ではなく本能で分かる脅威。

 

 前足が落ちた場所は、地面ごと抉れている。

 もし、あのまま座っていたら。

 もし、一瞬でも遅れていたら。

 考えた瞬間、喉が凍った。

 脅威を、そのまま形にしたようなものが、僕たちの前にいた。

 

 




 
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