駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
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「応急処置をします」
僕がそう言うと、短杖を構えていたエルフの人は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
雪のくぼみの中。
風は少しずつ強くなっていて、足元の雪は小人族の女の子の血で赤く滲んでいる。
戻れ。
ここは君が来る場所じゃない。
そう言われたばかりだった。
その通りだと思う。
僕はランク2になったばかりで、雪原にも慣れていない。さっきまで大型モンスターの足音に怯えて、倒木の陰で息を殺すことしかできなかった。
ここは、僕が来る場所じゃない。
でも、来てしまった。
笛を聞いてしまった。
なら、何もしないまま引き返すことはできなかった。
「君はランク2だと言ったな」
「はい」
「なら、分かるはずだ。君が残れば、助ける人数が増えるだけだ」
「分かります」
僕は頷いた。
反論できない。
たぶん、それは正しい。
「でも、このままでは戻れません」
「……何?」
「応急処置だけします。ちゃんと治せるわけじゃありません。でも、血を止めるくらいなら」
「できるのか」
「教会で、少し見ました」
「見ただけでやれるものか」
「やれます。やります」
正論だった。
でも、他にできることがない。
目の前で小人族の女の子が、荒い息をしながら足を押さえている。厚い防寒具の下から、血が雪へ滲み出していた。放っておけば、たぶん歩く歩かない以前の問題になる。
「……リュシア」
小人族の女の子が、かすれた声を出した。
エルフの人――リュシアさんは、短杖を構えたまま、ほんの少しだけ振り返る。
「喋るな、ミミル」
「その子、来ちゃったなら……使おう」
「ミミル」
「戻れって言っても、戻らない顔してる」
「顔、見えてます?」
思わず聞いてしまった。
小人族の女の子――ミミルさんは、痛みに顔を歪めながら、それでも少しだけ口元を動かした。
「雰囲気」
「僕、そんなに分かりやすいんですか」
「かなり」
こんな状況なのに、少しだけ場違いな会話が生まれた。
けれど、そのおかげで、凍りついていた指先が少しだけ動いた気がした。
リュシアさんは短く息を吐き、短杖を少し下げる。
「いいだろう。ただし、無理はするな。余計なこともするな。危ないと思ったらすぐ戻る」
「はい」
「まず、ミミルを――」
「いえ、先にあなたの足を見ます」
僕が言うと、リュシアさんの眉が動いた。
「私より、この子を」
「あなたが立てなくなったら、ミミルさんを運べません」
「……」
「だから、先にあなたです」
言ってから、自分で少し驚いた。
僕が、こんなふうに誰かへ指示するようなことを言うなんて。
でも、口にした言葉は間違っていないと思った。リュシアさんは今、ミミルさんを庇って立っている。けれど、片足の置き方がおかしい。雪の上に体重をかけきれていない。
足首を痛めている。
僕では二人を抱えて歩くことは不可能だ。
「……分かった」
リュシアさんは不満そうだったが、短杖を支えにして雪の上へ座った。
僕は膝をつき、彼女の足元を確認する。
靴は脱がせない。
雪原で靴を脱がせるのは危ないと、昨日フレイヴィアさんから聞いていた。冷えれば、それだけで動けなくなる。
「動かします。痛かったら言ってください」
「痛い」
「まだ触ってません」
「先に言っておく」
「分かりました」
少しだけ、リュシアさんの声に余裕が戻った。
僕は彼女の足首の周囲を確認し、腫れ方と向きを見る。骨が折れているようには見えない。けれど、完全に体重をかけるのは無理そうだった。
物資袋から細縄と予備の布を取り出し、近くに落ちていた折れた標識札の細い板を拾う。
「これで固定します」
「標識札を添え木にする気か」
「だめですか?」
「悪くはない。だが、使い方を間違えるな」
「教えてください」
リュシアさんは一瞬だけ僕を見た。
それから、短く指示する。
「足首の外側。そこに当てろ。直接ではなく布を挟め。強く締めすぎるな。血が止まる」
「はい」
「温石は近くに置け。直接当てるな。熱で感覚が鈍る」
「はい」
僕は言われた通りに処置していく。
手袋の中の指は震えていた。
寒さのせいだけじゃない。
怖いからだ。
目の前で誰かの怪我を処置するのは、想像していたよりずっと怖い。力を入れすぎてもだめで、緩すぎてもだめで、自分の手つき一つで相手の痛みが増える。
セラフィーンさんは、いつもこれをしていたのか。
あの静かな表情で。
あの優しい声で。
治癒術だけでなく、傷を見て、痛い場所を聞いて、どうすればいいかを考えていたのか。
「……これで、少しは固定できたと思います」
細縄を結び終え、僕はリュシアさんを見る。
リュシアさんは足首を少しだけ動かし、顔をしかめた。
「痛むが、崩れはしない」
「よかった」
「感謝する」
その一言で、ほんの少しだけ息ができた。
次はミミルさんだった。
近づくと、血の匂いがした。
雪の冷たい匂いの中で、そこだけ生々しい。厚い防寒具の下、右足のふくらはぎから足首にかけて、防寒布が裂けている。噛まれたのか、爪で裂かれたのか、傷口は深く、血がまだにじんでいた。
ミミルさんは小人族らしく、僕の胸よりずっと低い背丈だ。厚い防寒具に包まれているせいで、ますます小さく見える。顔は青白く、唇が震えていた。
「笛、聞こえた……?」
「聞こえました」
「馬鹿だなぁ……戻れば、よかったのに」
「僕もそう思います」
「思うんだ」
「思います」
ミミルさんは、痛みの中で少しだけ笑った。
けれど、すぐに表情が歪む。
「ごめん、変なの、呼んだ……」
「呼ばれました。だから、大丈夫です」
大丈夫かどうかなんて分からない。
でも、そう言いたかった。
僕は物資袋から教会印の薬包を取り出す。防水紙を破ると、中には清潔な布と止血用の薬、傷口を洗うための小瓶が入っていた。
清水草。
この薬の中に、僕が採ったものが使われているかもしれない。
そう思った。
思ったけれど、感傷に浸る暇なんてなかった。
いつか誰かのためになるかもしれないと思って採った草が、今、目の前の誰かの血を止めるために使われている。
それを喜ぶ余裕なんてない。
ただ、間に合えと思った。
「防寒具、切ります」
「高かった……」
「命よりは安いです」
「あは……受付嬢みたいなこと、言うね」
「僕も言われました」
ナイフで裂けている部分を少し広げる。
傷口が見えた。
思わず息が止まりそうになる。
深い。
赤い。
雪の白さの中で、それだけが嫌になるくらいはっきりしている。
僕は小瓶の中身を布に含ませ、傷口の周りを拭いた。ミミルさんの体がびくりと震える。
「痛いですよね」
「痛い……!」
「はい。痛いですよね」
痛い時は、痛いと言ってよいのです。
セラフィーンさんの声が、また頭をよぎる。
「すぐ止めます。いえ、すぐは無理かもしれません。でも、止めます」
「正直……」
「すみません」
「いいよ。嘘より、いい」
僕は止血薬を布に乗せ、傷口へ押し当てた。
ミミルさんが息を詰める。
リュシアさんが短杖を握りしめる音が聞こえた。
「強く押さえます」
「う、ん……!」
小さな体が震える。
僕の手も震える。
それでも、離せない。
血が布に染み込む。
もう一枚重ねる。
さらに上から巻く。
傷口を雪で冷やしすぎないよう、布で覆い、防寒具の内側に温石を入れる。ただし、直接肌には当てない。リュシアさんがさっき言ったことを思い出しながら、位置を調整する。
「ミミル、意識を保て」
リュシアさんが言った。
「寝るな」
「寝たら……怒る?」
「怒る」
「じゃあ、寝ない……」
ミミルさんの声は弱い。
けれど、返事はある。
それだけで、僕は少し救われた。
「ルキウス」
「はい」
「本当にランク2か」
リュシアさんが言った。
僕は布を巻きながら答える。
「はい」
「応急処置は誰に教わった」
「教わったというほどではありません。教会で、見たことがあって」
「見ただけでやるな」
「二回目ですね」
「何度でも言う」
「すみません」
「……だが、感謝する」
その声には、さっきより少しだけ違う響きがあった。
邪魔者を見る目ではない。
少なくとも、今すぐ追い返す相手を見る目ではなくなっている。
「私はリュシア。エルドラン支部の調査員だ」
「ルキウスです」
「知っている。さっき聞いた」
「そうでした」
「この子はミミル。標識と測量器具の担当だ」
「小人族は、細かい道具が得意なんだよ……」
ミミルさんが小さく言った。
「今喋るなと言っただろう」
「自己紹介は、大事……」
「喋るな」
「はい……」
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩む。
けれど、雪原は待ってくれない。
風はまだ吹いている。
大型モンスターがどこへ行ったのかも分からない。
僕はミミルさんの足に巻いた布を最後にもう一度確認し、強く締めすぎていないかを見た。
「出血は、少し落ち着いたと思います」
「歩けるか」
リュシアさんが聞く。
ミミルさんは、少しだけ体を起こそうとして、すぐに顔を歪めた。
「無理……たぶん、立てない」
「背負うしかないな」
「僕が」
「頼む」
ミミルさんに背を見せて、そこにしなだれかかってもらう。
うん。大丈夫。
「キャンプへ戻るのは?」
僕が聞くと、リュシアさんは雪の向こうを見た。
「危険だ。大型が通った方向によっては、標識列が踏み潰されている。小型も散っているだろう」
「じゃあ、避難小屋は?」
「距離はある。ただ、風下側にある。大型が戻らなければ、そちらの方が可能性はある」
「大型が戻らなければ」
「そうだ」
嫌な条件だった。
でも、ここに留まるよりはましなのかもしれない。
ミミルさんは動けない。
リュシアさんは足首を固定しただけで、走れない。
僕はランク2で、雪原にも慣れていない。
状況だけ並べると、どう考えても悪い。
それでも、さっきよりは少しだけましになっている。
リュシアさんの足は固定できた。
ミミルさんの出血も少し落ち着いた。
次に考えることは、ここからどう動くか。
そう思った時だった。
――雪が、ふっと止んだ。
それまで視界を塞いでいた白い粒が、急に薄くなる。
風向きが変わったのか、雲が切れたのか、理由は分からない。けれど、さっきまでぼやけていた景色が、一気に広がった。
倒れた標識札。
低い木立。
遠くの雪丘。
白く続く地面。
視界が開ける。
見える。
助かった。
そう思った。
ほんの一瞬だけ。
次の瞬間、体が勝手に動いた。
音より先だった。
影より先だった。
雪の沈み方。
風の圧。
白い視界の端で膨らむ、ありえない大きさの何か。
考えるより早く、僕はリュシアさんを突き飛ばしていた。
「っ!」
リュシアさんの目が見開かれる。
同時に、僕はミミルさんの体を抱えるように掴み、自分ごと横へ飛んだ。
無理な姿勢だった。
足が雪に取られる。
肩が変な方向へ引っ張られる。
ミミルさんが短く悲鳴を上げる。
それでも、転がるようにその場から離れた。
直後。
さっきまで僕たちがいた場所に、巨大な前足が叩きつけられた。
音が、遅れて来た。
雪が爆ぜる。
凍った土が抉れる。
折れた標識札が砕け、縄が千切れ、白い地面が黒く裂ける。
衝撃で体が浮いた気がした。
僕はミミルさんを抱えたまま雪の上を転がり、背中を硬い何かにぶつけた。息が詰まる。肩が痛い。脇腹も痛い。けれど、ミミルさんを離すわけにはいかなかった。
「ミミル!」
リュシアさんの声が飛ぶ。
「だ、大丈夫……たぶん……!」
ミミルさんが震えながら答える。
よかった。
生きている。
そう思った直後、僕は顔を上げた。
――最悪はそこにいた。
そこにいた。
白い雪の中に、白では隠しきれない巨大な影が立っていた。
太い前足。
雪を裂く鉤爪。
低く沈んだ肩。
白灰色の体毛の下で、岩のような筋肉が動いている。背から肩にかけては、氷を削り出したような突起が並び、呼吸のたびに大きな顎の隙間から白い霧が漏れていた。
目は、冷たい。
凍った水底みたいな色をしている。
それがこちらを見ているのか、見ていないのかすら分からない。ただ、そこに立っているだけで、体の奥が逃げろと叫んでいた。
モンスター。
そう呼ぶには、あまりにも大きすぎる。
熊にも似ていた。
狼にも似ていた。
けれど、そのどちらでもない。
雪原そのものが牙と爪を持って立ち上がったような、理屈ではなく本能で分かる脅威。
前足が落ちた場所は、地面ごと抉れている。
もし、あのまま座っていたら。
もし、一瞬でも遅れていたら。
考えた瞬間、喉が凍った。
脅威を、そのまま形にしたようなものが、僕たちの前にいた。
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このまましばらく、毎日投稿します。