駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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少年は自らの命を賭す

 

 ◆

 

 目の前にいるものが、最初は何なのか分からなかった。

 分からなかった、というより、理解したくなかったのだと思う。

 

 白灰色の体毛。

 太い前足。

 雪を裂く鉤爪。

 低く沈んだ肩。

 背から伸びる、氷を削り出したような突起。

 呼吸のたびに大きな顎の隙間から漏れる、白い霧。

 

 それらを一つずつ見ているのに、頭の中で形にならない。

 モンスター。

 そう呼べばいいのかもしれない。

 でも、僕が今まで見てきたモンスターとは、あまりにも違いすぎた。

 

 スノウラビは捕まえられた。

 ナイフバードは、傷を負いながらでも倒せた。

 スノウラプトルは、やり過ごせた。

 

 けれど、これは違う。

 僕が剣を抜いてどうにかなるものではない。

 僕が痛みに耐えれば勝てるものでもない。

 

 ただそこにいるだけで、地面の方が先に怯えているように見える。

 なんだ、これは。

 こんなものと、誰が戦うんだ。

 

「……嘘だろう」

 

 リュシアさんの声が聞こえた。

 さっきまで僕に戻れと言っていた人の声とは思えないほど、細く、硬い声だった。

 僕よりずっと多くのことを知っているはずの調査員が、目の前の光景を見て言葉を失っている。

 

「何がランク3相当だ」

 

 はは、と自嘲気味にリュシアさんは笑う。

 

「雪狼……グレイヴァルグ。ランク4の上位モンスターじゃないか」

 

 リュシアさんは短杖を握っていた。

 でも、その手は震えている。

 足首を固定した布も、雪の上で痛々しく見えた。

 

 ミミルさんは僕の腕の中で息を詰めている。小さな体が震えていて、それが寒さのせいだけではないことは分かった。

 僕も、動けなかった。

 逃げなきゃいけない。

 そんなことは分かっている。

 でも、足が動かない。

 

 あの巨大な前足が少し動くだけで、こちらまで雪が軋む。

 あの爪が振られれば、さっき抉れた地面のように僕たちもまとめて砕けるのだと、嫌でも分かってしまう。

 

 大型モンスターが、ゆっくりと頭を持ち上げた。

 凍った水底のような目が、こちらへ向く。

 見られている。

 ただそれだけで、心臓が握り潰されそうになった。

 

 次の瞬間、喉の奥が低く鳴った。

 空気が震える。

 来る。

 そう思った直後、咆哮が雪原を裂いた。

 

「――――っ!」

 

 音というより、圧だった。

 胸の内側を叩かれ、耳の奥が痛み、雪が一斉に吹き飛ぶ。白い粉が舞い上がり、折れた標識札がさらに転がり、近くの枝に残っていた雪がまとめて落ちた。

 ミミルさんが声にならない悲鳴を上げる。

 

 リュシアさんは短杖を構えようとしたが、足が動かず、膝をつきかけた。

 僕も同じだった。

 膝から力が抜ける。

 

 無理だ。

 逃げられない。

 助からない――そんな言葉が、頭の中を真っ白に塗り潰そうとした。

 その瞬間。

 

「諦めるな!」

 

 自分の声だと、少し遅れて気づいた。

 誰に言ったのか分からなかった。

 

 リュシアさんに。

 ミミルさんに。

 それとも、膝を折りそうになっていた自分に。

 

 でも、叫んだことで、ほんの少しだけ体に力が戻った。

 大型モンスターの目が、こちらへ向く。

 怖い。

 怖すぎる。

 それでも、今は叫ぶしかなかった。

 

「逃げてください!」

 

 リュシアさんが、目を見開いた。

 

「……な、何を」

「逃げてください! 応援を呼んでください!」

「そんなこと、できるわけがない!」

 

 リュシアさんの声が、咆哮の余韻の中で震えた。

 

「君一人を残して行けと!? 君はランク2だろう!」

「はい!」

「なら分かるだろう! あれを相手に君が何秒持つ!」

「持たせます」

「無理に決まっている」

「それならここで、3人で死にますか!?」

 

 自分の声が、喉を削って出ていた。

 三人で逃げるのは無理だ。

 

 リュシアさんは足首を捻っている。

 ミミルさんは重傷で歩けない。

 僕はランク2で、雪原にも慣れていない。

 

 三人でまとまって逃げれば、たぶんすぐに追いつかれる。

 リュシアさんがここに残っても、戦力差は埋まらない。

 ミミルさんは動けない。

 

 誰かが応援を呼ばなければ、終わる。

 だったら。

 

「あなたが走ってください!」

「無茶だ!」

「無茶でも、あなたが一番速い!」

「私は足を痛めている!」

「固定しました! 痛くても走れるはずです!」

「君は!」

「僕は、ミミルさんを背負います!」

 

 ミミルさんが、小さく息を飲んだ。

 

「む、無理だよ……」

「無理でも、やります」

 

 

 小人族の体は小さい。

 けれど、防寒具と器具袋、そして怪我をして力の入らない体を背負うのは、想像以上に難しかった。

 ミミルさんを動かすたびに、彼女が息を詰める。

 

 傷口に負担がかからないように。

 できるだけ足を揺らさないように。

 僕は彼女を自分の背中へ固定していく。細縄を肩と胸の前で結び、物資袋の帯も使ってずれないようにする。

 

 重い。

 正直、重い。

 でも、動けないほどではない。

 しかし動けなければここで終わる。

 

「何をする気だ」

 

 リュシアさんが、血が滲むほど唇を噛みながら言った。

 

「逃げます」

「それで、あれから逃げ切れると思っているのか」

「思ってません」

「なら!」

「だから、応援を呼んでください」

 

 僕は剣の柄に手を伸ばした。

 勝てるわけがない。

 倒せるわけがない。

 

 足止めできるかどうかすら分からない。

 それでも、リュシアさんが走って、キャンプに知らせる時間が必要だった。

 その時間だけ。

 ほんの少しでも。

 

「それまで、僕が耐えてみせます」

 

 リュシアさんの顔が歪んだ。

 怒りなのか、悔しさなのか、痛みなのか。

 たぶん、全部だった。

 

「君は、自分が何を言っているのか分かっているのか」

「分かってません」

「……」

「でも、三人でここにいるよりは、ましです」

「君は」

「早く!」

 

 大型モンスターが前足を動かした。

 雪が軋む。

 あの一歩だけで、距離が詰まる。

 時間がない。

 

 リュシアさんは短杖を握りしめた。

 長い耳の先が震えている。

 自分の非力さを噛み殺すように、彼女は唇を引き結んだ。

 

「……くそっ。絶対に死ぬなよ!ハンター!」

 

 リュシアさんは、痛む足を雪に叩きつけるようにして立ち上がった。

 固定した足首では、まともに走れるはずがない。

 それでも、彼女は走り出した。

 

 雪の中を。

 標識の方へ。

 調査用キャンプのある方へ。

 

 短杖を支えにしながら、何度も体勢を崩しそうになりながら、それでも振り返らずに走る。

 走ってくれた。

 それは、僕を信じたというより、他に道がないと認めた背中だった。

 でも、それでいい。

 

「ごめん……」

 

 背中でミミルさんが呟いた。

 

「謝らないでください」

「重いでしょ」

「正直、重いです」

「そこは嘘でも軽いって言ってよ」

「すみません」

「……変な人」

 

 ミミルさんの声は震えている。

 それでも喋ってくれる。

 生きている。

 

 背中にあるその重さが、今は怖いくらい大事だった。

 僕は大型モンスターへ向き直った。

 前足が雪を踏みしめる。

 凍った水底のような目が、こちらを見ている。

 

 リュシアさんの背中は、白い雪の向こうへ少しずつ小さくなっていく。

 僕は剣を抜いた。

 

 勝つためじゃない。

 倒すためでもない。

 

 逃げるため。

 時間を稼ぐため。

 ミミルさんを背負ったまま、震える足で雪を踏む。

 

 声も震えていた。

 喉も痛い。

 でも、言わなければ、僕の体は今にも逃げ出しそうだった。

 

「こっちだ」

 

 大型モンスターの鼻先が、わずかに動いた。

 白い息が漏れる。

 僕は剣を構える。

 構えなんて、たぶん何の意味もない。

 それでも、構えた。

 

「僕は、ここにいるぞ」

 

 白い獣の目が、僕を見た。

 

 

 ギルドの大広間は、いつも通り騒がしかった。

 

 依頼を終えたハンターが受付へ報告に来て、掲示板の前では新人らしい二人組が依頼書を見比べている。素材の買い取りを待つ者が木箱の上に腰を下ろし、奥ではギルド員が雪原方面へ送る物資の記録を確認していた。

 いつも通り。

 そう言い切るには、少しだけ張り詰めている。

 

 雪原関連の張り紙は日に日に増え、掲示板の一角には注意喚起がまとめられていた。

 雪原北部方面の一部依頼制限。

 第二区域以降への単独行動非推奨。

 大型モンスターらしき痕跡の確認。

 支援物資の納品強化。

 けれど、それでもギルドは動いている。

 

 依頼は出される。

 ハンターは受ける。

 受付は確認し、記録し、報酬を計算し、帰還を待つ。

 それがギルドの日常だった。

 

 アルナは受付カウンターの内側で、手元の書類に視線を落とした。

 雪原地帯第一区域・調査用キャンプへの物資補給。

 今日、ルキウスが受けた依頼。

 

 依頼そのものは正規のランク2依頼だった。行き先は第一区域外縁部。内容は調査用キャンプへの補給。大型モンスターの調査依頼ではなく、討伐依頼でもない。ギルド員がいる場所へ物資を届け、納品印をもらって帰ってくるだけ。

 だけ。

 アルナは、その言葉が胸の中で少し引っかかるのを感じた。

 

「届けたら帰ってきてください」

 

 そう言った。

 彼は頷いた。

 第二区域には入らない。

 異常な痕跡を見つけても調べない。

 戻って報告する。

 

 本当に。

 本当に本当です。

 

 そう返してくれた。

 彼は嘘をつくような人ではない。無茶はする。妙なところで頑固で、自分の弱さを理解しているくせに、誰かのためになるとすぐ危ない方へ足を踏み出す。

 

 でも、約束を軽く扱う人ではない。

 だから、大丈夫。

 そう思おうとした。

 

 受付嬢は、悪い予感だけで依頼を止めることはできない。

 けれど、悪い予感が外れることを祈ることはできる。

 

「アルナさん、この報告書、確認お願いします」

「あ、はい。こちらで受け取ります」

 

 隣の受付から回ってきた書類を受け取り、アルナは気持ちを切り替えようとした。

 その時だった。

 ギルドの奥で、鋭い音が鳴った。

 

 鐘ではない。

 通常の呼び出しでもない。

 

 短く、硬く、空気を切り裂くような音。

 緊急連絡用の魔道具が鳴った音だった。

 ざわめきが、一瞬で止まる。

 

 受付カウンターに並んでいたハンターが振り返り、掲示板前の新人たちが固まる。書類を運んでいたギルド員が足を止め、奥の扉が乱暴に開いた。

 支部長――ギルドマスターが出てくる。

 大柄な体に厚い上着を引っかけ、白混じりの髪を後ろへ撫でつけたその人は、普段から口は悪い。けれど、こういう時の動きだけは誰よりも速かった。

 

「通信を開け」

「はい!」

 

 ギルド員が魔道具へ駆け寄る。

 魔力が通され、石の表面に薄い光が走る。

 次の瞬間、息の乱れた声が響いた。

 

『応援を頼みます。雪原地帯。第一区域外縁部から北西。負傷者一名。大型モンスターに襲われています』

 

 声は焦っていた。

 けれど、言葉は崩れていなかった。

 

 場所。

 負傷者数。

 脅威。

 必要な情報だけを、必死に整えて伝えている。

 大型モンスター。

 

 その言葉が響いた瞬間、ギルドの空気が変わった。

 先ほどまでの騒がしさは消え、代わりに、武器を扱う者たち特有の重い沈黙が広がる。新人たちは顔を青くし、何人かのベテランハンターが無言で立ち上がった。

 ギルドマスターが即座に声を張る。

 

「雪原班を呼べ! 今動けるランク4以上を集めろ!」

「はい!」

「医療班は教会へ連絡! 担架、防寒布、温石、止血薬を持て! 運送区にも走れ、最速のケルン車を出させろ!」

 

 ギルド員たちが一斉に動き出す。

 書類を抱えていた者が走り、受付の後ろにいた者が教会宛ての連絡符を取り出す。ハンターたちは装備を確認し、腰に差した剣や斧を鳴らしながら入口へ向かう。

 

「低ランクは下がれ! 掲示板前を空けろ! 邪魔になる位置に立つな!」

 

 怒号のような指示に、ギルドは動いた。

 混乱ではない。

 緊急時の動きだった。

 アルナも体が勝手に動きかけた。けれど、受付カウンターから離れる前に、通信の声が再び響く。

 

『こちら、リュシア。エルドラン支部調査員。現在、キャンプ方面へ移動中。足首を負傷。走行に支障あり。ただし通信は維持できます』

 

 リュシア。

 雪原調査班のエルフの調査員だ。

 冷静で、観察力があり、危険判断も早い。アルナも何度か報告書を受け取ったことがある。

 ギルドマスターが通信石へ歩み寄る。

 

「リュシア、お前はどうした。一緒じゃなかったのか」

 

 短い問いだった。

 けれど、そこには現場を知る者の重さがあった。

 通信の向こうで、息を飲む気配がした。

 

『一緒でした。私たちは怪我を負って、動けない状態でした』

 

 その答えだけで、ギルドマスターの表情がわずかに変わった。

 置いてきたのだ。

 誰かを置いて、救援を呼びに走ってきた。

 

 アルナにも、それが分かった。

 そして、ギルドマスターにも分かったのだろう。彼は責めなかった。怒鳴らなかった。今ここで責めても意味がないことも、それが最善だった可能性が高いことも、きっと一瞬で理解したのだ。

 けれど、それは同時に、置いてきた誰かが死ぬ可能性が極めて高いという意味でもあった。

 

「――分かった。そのハンターの位置を教えろ。すぐに向かう」

 

 通信の向こうで、ほんの少し沈黙が落ちた。

 息が荒い。

 足を痛めているのに走っているのだろう。

 雪の音も混じっていた。

 

 それでも、リュシアは報告を続けようとしている。

 けれど、次の言葉だけは、わずかに崩れた。

 ギリ、と。

 歯を食いしばる音が、通信石を通して聞こえた。

 悔しさと涙を押し殺す音だった。

 

『急いでください。でないと彼が――死んでしまう』

 

 彼。

 その一語に、アルナの指先から力が抜けた。

 聞きたくない。

 その先だけは、聞きたくない。

 そう思った時には、もう遅かった。

 ギルドマスターが低く問う。

 

「彼?」

『物資補給に来ていた、ランク2のハンターです。名は――』

 

 時間が、引き伸ばされたように感じた。

 周りの音が遠くなる。

 動き出していたギルド員の足音も、武器の金具が鳴る音も、誰かの息遣いも、全部が水の中の音みたいに鈍くなる。

 やめて。

 その名前だけは。

 

『ルキウスという少年です』

 

 頭の中が白くなった。

 次の瞬間、アルナは叫んでいた。

 

「ルキウスさん!!!」

 

 自分の声だとは思えなかった。

 受付嬢としての声ではない。

 依頼を案内する時の声でもない。

 

 喉の奥から、勝手に裂けて出た声だった。

 そして、その叫びとほとんど同時に、ギルドの一角で影が動いた。

 

 黒い外套。

 長い黒髪。

 黄金の瞳。

 

 フレイヴィア・ヴォルグラート。

 彼女は通信を聞いていた。

 ギルド内にいたハンターたちの中で、誰よりも早く、誰よりも静かに動いた。身の丈ほどの大剣を掴み、外套を翻し、出口へ向かう。

 

「おい、待て!」

 

 ギルドマスターが怒鳴った。

 フレイヴィアは止まらない。

 

「――っち。おい、そいつを止めろ!」

 

 近くにいたハンターが二人、反射的に動いた。

 けれど、彼女が振り返った瞬間、その足が止まる。

 

「退け」

 

 低い声だった。

 怒鳴ってはいない。

 けれど、その一言だけで、大広間の空気が沈んだ。

 

 竜族の圧。

 ランク7のハンターとしての圧。

 そして、感情を殺しきれていない黄金の瞳。

 

 誰も、彼女を止められなかった。

 フレイヴィアはそのままギルドの扉を押し開け、外へ飛び出していく。

 アルナも、カウンターから出ようとしていた。

 

「アルナさん!」

 

 横からギルド員が腕を掴む。

 

「離してください!」

「だめです! あなたが行っても――」

「ルキウスさんが!」

 

 言葉にならなかった。

 ルキウスさんが。

 危ない場所にいる。

 大型モンスターに襲われている。

 

 死んでしまう。

 それだけが頭の中で回っていた。

 ギルドマスターが振り向く。

 その目は厳しかった。

 

「アルナ、通信に残れ」

「でも!」

「戻ってきた時、誰が受ける。誰が教会へ繋ぐ。誰が記録する。誰が次の指示を出す」

「……っ」

「お前の仕事はそこだ」

 

 言葉が刺さった。

 正しい。

 嫌になるくらい、正しい。

 

 アルナが雪原へ出たところで、何もできない。走っても間に合わない。戦えない。足手まといになる。新しい犠牲者になるだけかもしれない。

 

 それでも行きたい。

 助けたい。

 何かしたい。

 でも、今の自分にできることは、ここに残ることだった。

 

 通信を受けること。

 教会へ繋ぐこと。

 情報を記録すること。

 帰ってきた人を受け入れること。

 受付嬢の仕事。

 

 いつも自分がしてきたこと。

 それが今ほど、遠く感じたことはなかった。

 アルナは震える手を握りしめ、受付へ戻った。

 

「……通信、続けます」

「よし」

 

 ギルドマスターは短く頷き、すぐに次の指示へ移る。

 

「だぁ、くそ。どいつもこいつも勝手に動きやがって――おい、お前ら!」

 

 彼は後頭部をかきむしりながら、入口に向かっていたハンターたちを指差した。

 

「フレイヴィアを追え! 遅れるな! ランク5以上を前に回せ!」

「了解!」

「医療班は二班に分けろ! 一班は俺たちと雪原、もう一班は教会で受け入れ準備! 低ランクは絶対に出すな、門で止めろ!」

「はい!」

「運送区への連絡はまだか!」

「出しました! ケルン車、準備中!」

「遅い! 走らせろ!」

 

 荒い。

 でも速い。

 

 怒鳴っているのに、指示は一つも迷っていない。

 ギルドが、救援の形へ組み替わっていく。

 通信石の向こうで、リュシアの声が続いた。

 

『倒れた標識札が目印です。第一区域外縁部、北西側。低い木立の近く。大型は白灰色の体毛、氷状の突起あり。種類は未確定。小人族補助員ミミル、重傷。ルキウスが背負っています』

 

 アルナは羽ペンを握り、震える手で記録する。

 文字が歪んだ。

 でも書く。

 

『彼は――時間を稼ぐと言いました』

 

 周囲のハンターたちの顔が変わった。

 ランク2の新人が。

 大型モンスターを相手に。

 重傷者を背負って。

 時間を稼ぐ。

 

 普通なら、死ぬ。

 誰も笑わなかった。

 誰も馬鹿にしなかった。

 ただ、何人かのハンターが歯を食いしばり、何人かが無言で武器を握り直した。

 アルナは、ペン先を紙に押しつけたまま息を吸う。

 

「リュシアさん、現在位置を維持できますか」

『可能です。ただし、足が持つか分かりません』

「そのまま通信を維持してください。教会へも繋ぎます」

『了解』

「ミミルさんの応急処置は」

『ルキウスが処置しました。出血は一時的に抑えられていました』

 

 ルキウスが。

 あの子が。

 教会で見たというだけの処置を、雪原で、重傷者に。

 アルナは唇を噛んだ。

 思い浮かぶのは、受付前で笑うフードの少年だった。

 

 血まみれで帰ってきて、返り血ですと言った少年。

 装備を買った時、財布が凍ったと言った少年。

 本当に本当ですと、何度も約束した少年。

 

 生きて帰ってきてください。

 何度も言った。

 なのに。

 どうして、今、こんなところでその言葉を祈らなければならないのだろう。

 

 ギルドマスター率いる救援隊が、慌ただしくギルドを出ていく。フレイヴィアはすでに先行していた。彼女の足なら、誰よりも早く雪原へ届くかもしれない。

 それでも、間に合うかは分からない。

 

 受付嬢は、依頼書を渡す。

 報酬を数える。

 帰還を確認する。

 怪我をしたハンターを教会へ繋ぐ。

 それが仕事だ。

 

 だからアルナは、何度も言ってきた。

 生きて帰ってきてください、と。

 それなのに。

 その言葉が、今ほど届いてほしいと思ったことはなかった。

 

「ルキウスさん……」

 

 通信石の向こうで吹く雪の音を聞きながら、アルナは祈ることしかできなかった。

 

 ◆

 

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