駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
~前回までのあらすじ~
雪山に来たルキウスは救難信号に駆けつけて、そこで負傷していた二人――エルフのリュシアと小人族のミミルを見つける。
急いで応急処置をして帰ろうとしていたのも束の間。ルキウスたちは大型に見つかってしまう。
◆020「少年は自らの命を賭す」
目の前にいるものが、最初は何なのか分からなかった。
いや――分からなかったのではない。
理解することを、身体の方が拒んでいた。
白灰色の体毛。
太い前足と、雪を裂く鉤爪。
低く沈んだ肩から背へ、氷を削り出したような突起が並び、大きな顎の隙間からは呼吸のたびに白い霧が漏れていた。
一つずつ目に入っているのに、それらが頭の中で一つの形になってくれない。
「……なんだ、これ」
モンスター。
そう呼べばいいのかもしれない。
けれど、僕がこれまで見てきたものとは――あまりにも違いすぎた。
スノウラビは捕まえられた。
ナイフバードは、傷を負いながらでも倒せた。
スノウラプトルは、戦わずにやり過ごせた。
――これは、違う。
僕が剣を抜いて、どうにかなるものではない。
痛みに耐えれば勝てるものでもない。
ただそこに立っているだけで、雪原どころか、地面の方が先に怯えているように見えた。
「こんなものと……誰が戦うんだ」
声が震える。
答えは返ってこない。
代わりに、背中のミミルさんが小さく身を強張らせた。
「……嘘だろう」
リュシアさんの声が聞こえた。
僕に戻れと言い切った時とは、まるで違う。細く、硬く――目の前のものを見ても、まだ信じ切れない声だった。
雪原を調査し、僕よりも多くのことを知っているはずの彼女でさえ、短杖を握ったまま動けない。
やがて唇の端を歪め、乾いた笑いを漏らした。
「何がランク3相当だ……」
「知っているんですか、あれを」
尋ねると、リュシアさんの長い耳が僅かに震えた。
「雪狼――グレイヴァルグ」
その名を口にするだけで、喉が傷つくようだった。
「ランク4の……それも、上位モンスターだ」
「ランク4……」
昨日まで噂されていたのは、ランク3相当の大型。
大型は同ランクのハンター四人で挑むことを前提に、依頼の難易度が定められている。
アルナさんから、そう教わった。
けれど目の前にいるのは、予想を一つ上回るランク4。
しかも、その中でも上位に位置するもの。
「冗談、ですよね」
「だったら、どれほどよかったか」
リュシアさんは短杖を構えている。
けれど、その手は震えていた。
足首を固定した布も雪の上で痛々しく、立っているだけで限界なのだと分かる。
僕の背へ回されたミミルさんの腕にも力が入った。
「ルキウス……」
「大丈夫です」
何が大丈夫なのか。
自分でも、まったく分からない。
それでも口にしなければ、今すぐ膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
逃げなければならない。
そんなことは分かっている。
「足が……」
動かない。
あの巨大な前足が僅かに動くだけで、こちらまで雪が軋む。
あの鉤爪を一度振るわれれば、さっき抉れた地面のように――僕たちもまとめて砕ける。
想像するまでもない。
身体の奥にある何かが、必死にそれを教えていた。
グレイヴァルグが、ゆっくりと頭を持ち上げる。
凍った水底のような目が、こちらへ向いた。
「……見られてる」
ただ、それだけ。
なのに心臓を直接掴まれ、握り潰されているようだった。
息が浅くなる。
喉の奥が乾き、剣の柄へ伸ばした指にも力が入らない。
次の瞬間、グレイヴァルグの喉が低く鳴った。
「来る……!」
空気が震える。
そして――咆哮が、雪原を裂いた。
「――――っ!」
音というより、圧だった。
胸の内側を殴られ、耳の奥が痛む。
雪が一斉に吹き飛び、白い粉が視界を覆った。折れていた標識札がさらに転がり、近くの枝へ残っていた雪もまとめて落ちてくる。
背中で、ミミルさんが声にならない悲鳴を上げた。
「ミミル!」
リュシアさんが短杖を構え直そうとする。
けれど足が動かず、その場へ膝をつきかけた。
僕も同じだった。
力が抜ける。
立っていられない。
「無理だ……」
逃げられない。
助からない。
――ここで、死ぬ。
そんな言葉が頭の中を真っ白に塗り潰そうとした、その瞬間だった。
「諦めるな!」
自分の声だと、少し遅れて気づいた。
誰に言ったのかは分からない。
リュシアさんに。
ミミルさんに。
それとも、膝を折りかけていた自分自身に。
「……諦めるな」
もう一度、声へ出す。
叫んだからといって、目の前の怪物が小さくなるわけではない。
勝てるようになるわけでもない。
それでも――ほんの少しだけ、身体へ力が戻った。
グレイヴァルグの目が僕へ向く。
怖い。
怖すぎる。
けれど今は、声を出さなければ何も始まらなかった。
「逃げてください!」
リュシアさんが目を見開く。
「……な、何を」
「逃げてください! 応援を呼んでください!」
「そんなこと、できるわけがない!」
咆哮の余韻が残る雪原で、リュシアさんの声も震えていた。
「君一人を残して行けと!? 君はランク2だろう!」
「はい!」
「なら分かるだろう! あれを相手に、君が何秒持つ!」
「持たせます」
「無理に決まっている!」
「それならここで、三人で死にますか!?」
喉が削れる。
それでも叫んだ。
三人で逃げるのは無理だ。
リュシアさんは足首を痛めている。
ミミルさんは重傷で歩けない。
僕はランク2で、雪原にも慣れていない。
「まとまって逃げたら……すぐ追いつかれます」
リュシアさんが残っても、グレイヴァルグとの戦力差は埋まらない。
ミミルさんは、自分では動けない。
そして誰かが助けを呼ばなければ――ここで終わる。
だったら。
「あなたが走ってください!」
「無茶だ!」
「無茶でも、あなたが一番速い!」
「私は足を痛めている!」
「固定しました! 痛くても、走れるはずです!」
正しいかどうかは分からない。
走れば、固定した足首がさらに悪化するかもしれない。
それでも、ほかに選べるものなどなかった。
「君はどうする!」
「僕は、ミミルさんを背負います!」
背中で、ミミルさんが小さく息を飲んだ。
「む、無理だよ……」
「無理でも、やります」
物資袋を外し、残った細縄を取り出す。
小人族の身体は小さい。
けれど厚い防寒具と器具袋、それに力の入らない身体を背負うのは、想像していたよりもずっと難しかった。
ミミルさんを僅かに動かすたび、その呼吸が詰まる。
「痛かったら言ってください」
「ずっと……痛いよ」
「……すみません」
傷口へ負担を掛けないように。
できるだけ脚を揺らさないように。
細縄を肩と胸の前へ回し、物資袋の帯も使って、ミミルさんの身体を自分の背中へ固定していく。
「きつくないですか」
「苦しいけど……落ちるより、いい」
「では、もう少しだけ我慢してください」
結び目を確かめ、ゆっくり立ち上がる。
膝が震えた。
重い。
正直、ものすごく重い。
けれど――動けないほどではない。
「……動ける」
一歩なら。
その次も、きっと。
動けなければ、ここで終わるのだから。
「何をする気だ」
リュシアさんが、血の滲むほど唇を噛みながら尋ねた。
「逃げます」
「それで、あれから逃げ切れると思っているのか」
「思っていません」
「なら――!」
「だから、応援を呼んでください」
剣の柄へ手を伸ばす。
勝てるわけがない。
倒せるわけもない。
足止めできるかどうかさえ、分からない。
「でも……時間が必要です」
リュシアさんが走り、調査用キャンプへ知らせるための時間。
ほんの少しでもいい。
その時間さえ作れれば、助けが来る可能性が生まれる。
「それまで、僕が耐えてみせます」
リュシアさんの顔が歪んだ。
怒りなのか。
悔しさなのか。
痛みなのか。
おそらく――全部だった。
「君は、自分が何を言っているのか分かっているのか」
「分かってません」
「…………」
「でも、三人でここにいるよりは、ましです」
「君は……」
「早く!」
グレイヴァルグが前足を動かした。
雪が、ぎしりと軋む。
たった一歩で、距離が縮まる。
「時間がないんです!」
リュシアさんは短杖を強く握りしめた。
長い耳の先が震えている。
自分の非力さも、僕を残していくことも、全部噛み殺すように唇を引き結んだ。
「……くそっ」
やがて短杖を雪へ突き立て、痛む足へ無理やり力を込める。
「絶対に死ぬなよ、ハンター!」
それだけを残し、走り出した。
固定した足首では、まともに走れるはずがない。
それでも、リュシアさんは走った。
雪の中を。
標識の方へ。
調査用キャンプがある方角へ。
短杖を支えに、何度も身体を崩しかけながら――一度も振り返らずに走っていく。
「……行ってくれた」
僕を信じたのではない。
ほかに道がないと認めたのだと思う。
それでよかった。
今は、走ってくれただけでいい。
「ごめん……」
背中で、ミミルさんが呟いた。
「謝らないでください」
「重いでしょ」
「正直、重いです」
「そこは嘘でも……軽いって言ってよ」
「すみません」
「……変な人」
ミミルさんの声は震えている。
弱々しい。
それでも、まだ喋ってくれている。
「ミミルさん」
「なに……?」
「眠らないでくださいね」
「リュシアにも……言われた」
「では、二人分守ってください」
「どうやって……?」
「気合いです」
「雑……」
でも、返事がある。
生きている。
背中にあるその重さが、今は怖いほど大切だった。
僕は、グレイヴァルグへ向き直る。
巨大な前足が雪を踏みしめ、凍った水底のような目がこちらを見ていた。
リュシアさんの背中は、白い雪の向こうへ少しずつ小さくなっていく。
「勝つんじゃない」
片手剣を抜く。
勝つためではない。
倒すためでもない。
逃げるため。
時間を稼ぐため。
ミミルさんを背負ったまま、震える足で雪を踏みしめた。
「怖いですか」
「当たり前……でしょ」
「僕もです」
声も震えている。
喉が痛い。
それでも何かを言わなければ、僕の身体は今にも背を向け、勝手に逃げ出してしまいそうだった。
「こっちだ」
グレイヴァルグの鼻先が、僅かに動く。
大きな顎から、白い息が漏れた。
剣を構える。
こんな構えに何の意味があるのかは、僕にも分からない。
……それでも、構えた。
「僕は、ここにいるぞ」
白い獣の目が――僕を見た。
◆
ギルドの大広間は、いつも通り騒がしかった。
依頼を終えたハンターが受付へ報告に来て、掲示板の前では新人らしい二人組が依頼書を見比べている。素材の買い取りを待つ者が木箱へ腰を下ろし、奥ではギルド員が雪原方面へ送る物資の記録を確かめていた。
「……いつも通り、ですね」
アルナは小さく呟き、手元の書類へ視線を落とす。
そう言い切るには、ギルド全体が少しだけ張り詰めていた。
雪原関連の張り紙は日に日に増え、掲示板の一角には注意喚起がまとめられている。
雪原北部方面の一部依頼制限。
第二区域以降への単独行動非推奨。
大型モンスターらしき痕跡の確認。
支援物資の納品強化。
それでも、ギルドは動いている。
「次の方、どうぞ」
依頼は出される。
ハンターが受ける。
受付は確認し、記録し、報酬を計算して――帰還を待つ。
それがギルドの日常だった。
「…………」
アルナの視線が、一枚の依頼書で止まる。
雪原地帯第一区域・調査用キャンプへの物資補給。
今日、ルキウスが受けた依頼だった。
依頼そのものは正規のランク2。
行き先は第一区域の外縁部で、内容は調査用キャンプへの補給。大型モンスターの調査でも、討伐でもない。
ギルド員がいる場所へ物資を届け、納品印を受け取って帰ってくるだけ。
――だけ。
その言葉だけが、胸の中で小さく引っかかっていた。
『届けたら、帰ってきてください』
そう言った。
彼も頷いた。
第二区域には入らない。
異常な痕跡を見つけても、調べようとしない。
戻って報告する。
『本当に?』
『本当に本当です』
いつもの返事だった。
ルキウスは嘘をつくような少年ではない。
無茶はする。
妙なところで頑固で、自分が弱いと理解しているくせに、誰かのためとなればすぐ危ない方へ足を踏み出す。
「でも、約束を軽く扱う方ではありません」
だから、大丈夫。
そう思おうとした。
受付嬢は、悪い予感だけで正規の依頼を止めることはできない。
けれど――その予感が外れるよう、祈ることはできる。
「アルナさん、この報告書の確認をお願いします」
「あ、はい。こちらで受け取ります」
隣の受付から回ってきた書類を受け取り、アルナは気持ちを切り替えようとした。
その時だった。
――キィンッ!
ギルドの奥で、鋭い音が鳴る。
「……え?」
鐘ではない。
通常の呼び出しでもない。
短く、硬く――空気を切り裂くような音。
緊急連絡用の魔道具が鳴った音だった。
大広間のざわめきが、一瞬で止まる。
「緊急通信!」
受付に並んでいたハンターが振り返る。
掲示板前の新人たちは固まり、書類を運んでいたギルド員も足を止めた。
直後、奥の扉が乱暴に開く。
現れたのは、エルドラン支部のギルドマスターだった。
大柄な身体へ厚い上着を引っかけ、白の混じった髪を後ろへ撫でつけている。
普段から口は悪い。
けれど、こういう時の動きだけは――誰よりも速かった。
「通信を開け!」
「はい!」
ギルド員が魔道具へ駆け寄る。
魔力を通された石の表面へ、淡い光が走った。
次の瞬間、乱れた呼吸と雪の音が大広間へ響く。
『応援を頼みます。雪原地帯、第一区域外縁部から北西。負傷者一名。大型モンスターに襲われています』
「大型……」
アルナの猫耳が、ぴんと立つ。
声は焦っていた。
それでも、言葉は崩れていない。
場所。
負傷者の数。
脅威。
必要な情報だけを、必死に整えて伝えている。
――大型モンスター。
その言葉が響いた瞬間、ギルドの空気が変わった。
先ほどまでの騒がしさが消え、代わりに武器を扱う者たち特有の重い沈黙が広がる。
新人たちは顔を青くし、何人かのベテランハンターが無言で立ち上がった。
「雪原班を呼べ! 今動けるランク4以上を集めろ!」
「はい!」
「医療班は教会へ連絡! 担架、防寒布、温石、止血薬を持て! 運送区にも走れ、最速のケルン車を出させろ!」
ギルド員たちが一斉に動き出す。
書類を抱えていた者が走り、受付の後ろにいた者が教会宛ての連絡符を取り出す。
ハンターたちは装備を確かめ、腰の剣や斧を鳴らしながら入口へ向かった。
「低ランクは下がれ! 掲示板前を空けろ! 邪魔になる位置へ立つな!」
怒号のような指示に、ギルド全体が動く。
混乱ではない。
これは――緊急時の動きだった。
アルナも、身体が勝手にカウンターの外へ向かいかける。
けれど、その足が動くより早く、通信石から再び声が響いた。
『こちら、リュシア。エルドラン支部調査員。現在、キャンプ方面へ移動中。足首を負傷。走行に支障あり。ただし通信は維持できます』
「リュシアさん……」
雪原調査班のエルフの調査員。
冷静で観察力があり、危険判断も早い。
アルナも何度か、彼女から報告書を受け取ったことがあった。
ギルドマスターが通信石へ歩み寄る。
「リュシア、ミミルはどうした。一緒じゃなかったのか」
短い問いだった。
けれど、現場を知る者の重さがあった。
通信の向こうで、息を飲む気配がする。
『一緒でした。私たちは怪我を負って、動けない状態でした』
その答えだけで、ギルドマスターの表情が僅かに変わった。
「……置いてきた?」
アルナの唇から、声が漏れる。
誰かを置いて、救援を呼ぶために走ってきた。
それが最善だった可能性が高いことも、ギルドマスターには分かったのだろう。
彼は責めず、怒鳴りもしなかった。
ただし――それは同時に、置いてきた誰かが死ぬ可能性が極めて高いという意味でもある。
「分かった。そのハンターの位置を教えろ。すぐに向かう」
通信の向こうで、僅かな沈黙が落ちた。
荒い息。
雪を蹴る音。
足を痛めたまま、走り続けているのだろう。
リュシアは報告を続けようとしている。
けれど次の言葉だけは、ほんの少し崩れた。
『急いでください』
ギリ、と。
歯を食いしばる音が、通信石を通して聞こえた。
悔しさと、涙を押し殺す音だった。
『でないと、彼が――死んでしまう』
「彼……?」
その一語に、アルナの指先から力が抜ける。
「嫌……」
聞きたくない。
その先だけは、聞きたくない。
そう思った時には、もう遅かった。
ギルドマスターが低く問い返す。
「彼?」
『物資補給に来ていた、ランク2のハンターです。名は――』
時間が引き伸ばされたように感じた。
周囲の音が遠くなる。
動き出したギルド員の足音も、武器の金具が鳴る音も、誰かの呼吸も――すべてが水の中から聞こえるように鈍くなった。
「やめて……」
その名前だけは。
お願いだから。
『ルキウスという少年です』
頭の中が、真っ白になった。
「ルキウスさん!!!」
気づいた時には、叫んでいた。
自分の声だとは思えない。
受付嬢としての声ではない。
依頼を案内する時のものでもない。
喉の奥から、勝手に裂けて出た声だった。
そして、その叫びとほとんど同時に――ギルドの一角で影が動く。
黒い外套。
長い黒髪。
黄金の瞳。
「フレイヴィア様……!」
フレイヴィア・ヴォルグラート。
彼女は、通信を聞いていた。
大広間にいた誰よりも早く、誰よりも静かに動く。
身の丈ほどの大剣を掴み、外套を翻して出口へ向かった。
「おい、待て!」
ギルドマスターが怒鳴る。
それでも、フレイヴィアは止まらない。
「――っち。おい、そいつを止めろ!」
近くにいたハンターが二人、反射的に前へ出る。
けれどフレイヴィアが振り返った瞬間、その足は雪へ縫いつけられたように止まった。
「退け」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
けれど、その一言だけで大広間の空気が沈む。
竜族としての圧。
ランク7のハンターが放つ圧。
そして――殺しきれない感情を宿した、黄金の瞳。
誰も、彼女を止められなかった。
フレイヴィアはギルドの扉を押し開け、そのまま外へ飛び出していく。
「私も……!」
アルナもカウンターの外へ出ようとした。
しかし、横にいたギルド員がすぐに腕を掴む。
「アルナさん!」
「離してください!」
「だめです! あなたが行っても――」
「ルキウスさんが!」
その先が、言葉にならない。
ルキウスが危険な場所にいる。
大型モンスターに襲われている。
死んでしまう。
それだけが、頭の中を何度も回っていた。
「アルナ、通信へ残れ」
ギルドマスターが振り返る。
その目は、厳しかった。
「でも!」
「戻ってきた時、誰が受ける」
「……っ」
「誰が教会へ繋ぐ。誰が記録し、次の指示を出す」
「それは……」
「お前の仕事は、そこだ」
言葉が胸へ刺さった。
正しい。
嫌になるほど――正しい。
アルナが雪原へ出たところで、何もできない。
走っても間に合わない。
戦えない。
足手まといになり、新しい犠牲者になるだけかもしれない。
「それでも……行きたいです」
助けたい。
何かしたい。
ただ、今の自分にできることは――ここへ残ることだった。
通信を受ける。
教会へ繋ぐ。
情報を記録する。
帰ってきた人を受け入れる。
「受付嬢の、仕事……」
いつも自分がしてきたこと。
それが今ほど遠く、残酷に思えたことはなかった。
アルナは震える手を強く握りしめ、受付へ戻る。
「……通信、続けます」
「よし」
ギルドマスターは短く頷き、すぐ次の指示へ移った。
「だぁ、くそ! どいつもこいつも勝手に動きやがって――おい、お前ら!」
後頭部を掻きむしり、入口へ向かっていたハンターたちを指差す。
「フレイヴィアを追え! 遅れるな! ランク5以上を前へ回せ!」
「了解!」
「医療班は二班に分けろ! 一班は俺たちと雪原、もう一班は教会で受け入れ準備! 低ランクは絶対に出すな、門で止めろ!」
「はい!」
「運送区への連絡はまだか!」
「出しました! ケルン車、準備中!」
「遅い! 走らせろ!」
荒い。
けれど、速い。
怒鳴っているのに、指示には一つも迷いがない。
ギルドが、救援の形へ組み替わっていく。
『倒れた標識札が目印です。第一区域外縁部、北西側。低い木立の近く。大型は白灰色の体毛、氷状の突起あり。種類は――おそらく、グレイヴァルグ』
通信石の向こうで、リュシアの声が続く。
『小人族補助員ミミルは重傷。ルキウスが背負っています』
「ミミルさん、重傷……ルキウスさんが背負っている」
アルナは羽ペンを握り、震える手で記録する。
文字が歪む。
それでも、書く。
『彼は――時間を稼ぐと言いました』
「…………」
大広間に残っていたハンターたちの顔が変わった。
ランク2の新人が。
ランク4上位の大型モンスターを相手に。
重傷者を背負って。
時間を稼ぐ。
普通なら――死ぬ。
「馬鹿……」
誰も笑わなかった。
誰も馬鹿にしなかった。
何人かが歯を食いしばり、何人かが無言で武器を握り直す。
「リュシアさん、現在位置を維持できますか」
アルナは紙へペン先を押しつけたまま、大きく息を吸った。
声だけは、受付嬢のものへ戻す。
『可能です。ただし、足が持つか分かりません』
「そのまま通信を維持してください。教会へも繋ぎます」
『了解』
「ミミルさんの応急処置は」
『ルキウスが処置しました。出血は、一時的に抑えられていました』
「ルキウスさんが……」
教会で見たというだけの処置を。
雪原で。
重傷者へ。
アルナは唇を噛んだ。
浮かぶのは、受付の前で笑っていたフードの少年。
血まみれで帰ってきて、返り血ですと言った少年。
装備を買った時、財布が凍ったと嘆いた少年。
本当に本当ですと――何度も約束した少年。
「生きて帰ってきてください……」
何度も言った。
なのに。
どうして今、こんなところで同じ言葉を祈らなければならないのだろう。
ギルドマスターが率いる救援隊が、慌ただしくギルドを出ていく。
フレイヴィアはすでに先行していた。
彼女の足なら、誰よりも早く雪原へ届くかもしれない。
けれど――間に合うかは、分からない。
受付嬢は依頼書を渡す。
報酬を数える。
帰還を確認する。
怪我をしたハンターを教会へ繋ぐ。
それが仕事だ。
だからアルナは、何度も伝えてきた。
――生きて帰ってきてください、と。
その言葉が今ほど届いてほしいと思ったことはなかった。
「ルキウスさん……」
通信石の向こうで吹き荒れる雪の音を聞きながら、アルナは祈ることしかできなかった。
◆
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひよろしくお願いいたします