駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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 ~前回までのあらすじ~
 雪山に来たルキウスは救難信号に駆けつけて、そこで負傷していた二人――エルフのリュシアと小人族のミミルを見つける。
 急いで応急処置をして帰ろうとしていたのも束の間。ルキウスたちは大型に見つかってしまう。


第一章 第二十話『少年は自らの命を賭す』

◆020「少年は自らの命を賭す」

 

 目の前にいるものが、最初は何なのか分からなかった。

 いや――分からなかったのではない。

 理解することを、身体の方が拒んでいた。

 

 白灰色の体毛。

 太い前足と、雪を裂く鉤爪。

 低く沈んだ肩から背へ、氷を削り出したような突起が並び、大きな顎の隙間からは呼吸のたびに白い霧が漏れていた。

 一つずつ目に入っているのに、それらが頭の中で一つの形になってくれない。

 

「……なんだ、これ」

 

 モンスター。

 そう呼べばいいのかもしれない。

 けれど、僕がこれまで見てきたものとは――あまりにも違いすぎた。

 スノウラビは捕まえられた。

 ナイフバードは、傷を負いながらでも倒せた。

 スノウラプトルは、戦わずにやり過ごせた。

 

 ――これは、違う。

 

 僕が剣を抜いて、どうにかなるものではない。

 痛みに耐えれば勝てるものでもない。

 ただそこに立っているだけで、雪原どころか、地面の方が先に怯えているように見えた。

 

「こんなものと……誰が戦うんだ」

 

 声が震える。

 答えは返ってこない。

 代わりに、背中のミミルさんが小さく身を強張らせた。

 

「……嘘だろう」

 

 リュシアさんの声が聞こえた。

 僕に戻れと言い切った時とは、まるで違う。細く、硬く――目の前のものを見ても、まだ信じ切れない声だった。

 雪原を調査し、僕よりも多くのことを知っているはずの彼女でさえ、短杖を握ったまま動けない。

 やがて唇の端を歪め、乾いた笑いを漏らした。

 

「何がランク3相当だ……」

「知っているんですか、あれを」

 

 尋ねると、リュシアさんの長い耳が僅かに震えた。

 

「雪狼――グレイヴァルグ」

 

 その名を口にするだけで、喉が傷つくようだった。

 

「ランク4の……それも、上位モンスターだ」

「ランク4……」

 

 昨日まで噂されていたのは、ランク3相当の大型。

 大型は同ランクのハンター四人で挑むことを前提に、依頼の難易度が定められている。

 アルナさんから、そう教わった。

 けれど目の前にいるのは、予想を一つ上回るランク4。

 しかも、その中でも上位に位置するもの。

 

「冗談、ですよね」

「だったら、どれほどよかったか」

 

 リュシアさんは短杖を構えている。

 けれど、その手は震えていた。

 足首を固定した布も雪の上で痛々しく、立っているだけで限界なのだと分かる。

 僕の背へ回されたミミルさんの腕にも力が入った。

 

「ルキウス……」

「大丈夫です」

 

 何が大丈夫なのか。

 自分でも、まったく分からない。

 それでも口にしなければ、今すぐ膝から崩れ落ちてしまいそうだった。

 

 逃げなければならない。

 そんなことは分かっている。

 

「足が……」

 

 動かない。

 あの巨大な前足が僅かに動くだけで、こちらまで雪が軋む。

 あの鉤爪を一度振るわれれば、さっき抉れた地面のように――僕たちもまとめて砕ける。

 想像するまでもない。

 身体の奥にある何かが、必死にそれを教えていた。

 

 グレイヴァルグが、ゆっくりと頭を持ち上げる。

 凍った水底のような目が、こちらへ向いた。

 

「……見られてる」

 

 ただ、それだけ。

 なのに心臓を直接掴まれ、握り潰されているようだった。

 息が浅くなる。

 喉の奥が乾き、剣の柄へ伸ばした指にも力が入らない。

 

 次の瞬間、グレイヴァルグの喉が低く鳴った。

 

「来る……!」

 

 空気が震える。

 そして――咆哮が、雪原を裂いた。

 

「――――っ!」

 

 音というより、圧だった。

 胸の内側を殴られ、耳の奥が痛む。

 雪が一斉に吹き飛び、白い粉が視界を覆った。折れていた標識札がさらに転がり、近くの枝へ残っていた雪もまとめて落ちてくる。

 背中で、ミミルさんが声にならない悲鳴を上げた。

 

「ミミル!」

 

 リュシアさんが短杖を構え直そうとする。

 けれど足が動かず、その場へ膝をつきかけた。

 僕も同じだった。

 力が抜ける。

 立っていられない。

 

「無理だ……」

 

 逃げられない。

 助からない。

 

 ――ここで、死ぬ。

 

 そんな言葉が頭の中を真っ白に塗り潰そうとした、その瞬間だった。

 

「諦めるな!」

 

 自分の声だと、少し遅れて気づいた。

 誰に言ったのかは分からない。

 リュシアさんに。

 ミミルさんに。

 それとも、膝を折りかけていた自分自身に。

 

「……諦めるな」

 

 もう一度、声へ出す。

 叫んだからといって、目の前の怪物が小さくなるわけではない。

 勝てるようになるわけでもない。

 それでも――ほんの少しだけ、身体へ力が戻った。

 グレイヴァルグの目が僕へ向く。

 怖い。

 怖すぎる。

 けれど今は、声を出さなければ何も始まらなかった。

 

「逃げてください!」

 

 リュシアさんが目を見開く。

 

「……な、何を」

「逃げてください! 応援を呼んでください!」

「そんなこと、できるわけがない!」

 

 咆哮の余韻が残る雪原で、リュシアさんの声も震えていた。

 

「君一人を残して行けと!? 君はランク2だろう!」

「はい!」

「なら分かるだろう! あれを相手に、君が何秒持つ!」

「持たせます」

「無理に決まっている!」

「それならここで、三人で死にますか!?」

 

 喉が削れる。

 それでも叫んだ。

 三人で逃げるのは無理だ。

 リュシアさんは足首を痛めている。

 ミミルさんは重傷で歩けない。

 僕はランク2で、雪原にも慣れていない。

 

「まとまって逃げたら……すぐ追いつかれます」

 

 リュシアさんが残っても、グレイヴァルグとの戦力差は埋まらない。

 ミミルさんは、自分では動けない。

 そして誰かが助けを呼ばなければ――ここで終わる。

 

 だったら。

 

「あなたが走ってください!」

「無茶だ!」

「無茶でも、あなたが一番速い!」

「私は足を痛めている!」

「固定しました! 痛くても、走れるはずです!」

 

 正しいかどうかは分からない。

 走れば、固定した足首がさらに悪化するかもしれない。

 それでも、ほかに選べるものなどなかった。

 

「君はどうする!」

「僕は、ミミルさんを背負います!」

 

 背中で、ミミルさんが小さく息を飲んだ。

 

「む、無理だよ……」

「無理でも、やります」

 

 物資袋を外し、残った細縄を取り出す。

 小人族の身体は小さい。

 けれど厚い防寒具と器具袋、それに力の入らない身体を背負うのは、想像していたよりもずっと難しかった。

 ミミルさんを僅かに動かすたび、その呼吸が詰まる。

 

「痛かったら言ってください」

「ずっと……痛いよ」

「……すみません」

 

 傷口へ負担を掛けないように。

 できるだけ脚を揺らさないように。

 細縄を肩と胸の前へ回し、物資袋の帯も使って、ミミルさんの身体を自分の背中へ固定していく。

 

「きつくないですか」

「苦しいけど……落ちるより、いい」

「では、もう少しだけ我慢してください」

 

 結び目を確かめ、ゆっくり立ち上がる。

 膝が震えた。

 重い。

 正直、ものすごく重い。

 けれど――動けないほどではない。

 

「……動ける」

 

 一歩なら。

 その次も、きっと。

 動けなければ、ここで終わるのだから。

 

「何をする気だ」

 

 リュシアさんが、血の滲むほど唇を噛みながら尋ねた。

 

「逃げます」

「それで、あれから逃げ切れると思っているのか」

「思っていません」

「なら――!」

「だから、応援を呼んでください」

 

 剣の柄へ手を伸ばす。

 勝てるわけがない。

 倒せるわけもない。

 足止めできるかどうかさえ、分からない。

 

「でも……時間が必要です」

 

 リュシアさんが走り、調査用キャンプへ知らせるための時間。

 ほんの少しでもいい。

 その時間さえ作れれば、助けが来る可能性が生まれる。

 

「それまで、僕が耐えてみせます」

 

 リュシアさんの顔が歪んだ。

 怒りなのか。

 悔しさなのか。

 痛みなのか。

 おそらく――全部だった。

 

「君は、自分が何を言っているのか分かっているのか」

「分かってません」

「…………」

「でも、三人でここにいるよりは、ましです」

「君は……」

「早く!」

 

 グレイヴァルグが前足を動かした。

 雪が、ぎしりと軋む。

 たった一歩で、距離が縮まる。

 

「時間がないんです!」

 

 リュシアさんは短杖を強く握りしめた。

 長い耳の先が震えている。

 自分の非力さも、僕を残していくことも、全部噛み殺すように唇を引き結んだ。

 

「……くそっ」

 

 やがて短杖を雪へ突き立て、痛む足へ無理やり力を込める。

 

「絶対に死ぬなよ、ハンター!」

 

 それだけを残し、走り出した。

 固定した足首では、まともに走れるはずがない。

 それでも、リュシアさんは走った。

 雪の中を。

 標識の方へ。

 調査用キャンプがある方角へ。

 短杖を支えに、何度も身体を崩しかけながら――一度も振り返らずに走っていく。

 

「……行ってくれた」

 

 僕を信じたのではない。

 ほかに道がないと認めたのだと思う。

 それでよかった。

 今は、走ってくれただけでいい。

 

「ごめん……」

 

 背中で、ミミルさんが呟いた。

 

「謝らないでください」

「重いでしょ」

「正直、重いです」

「そこは嘘でも……軽いって言ってよ」

「すみません」

「……変な人」

 

 ミミルさんの声は震えている。

 弱々しい。

 それでも、まだ喋ってくれている。

 

「ミミルさん」

「なに……?」

「眠らないでくださいね」

「リュシアにも……言われた」

「では、二人分守ってください」

「どうやって……?」

「気合いです」

「雑……」

 

 でも、返事がある。

 生きている。

 背中にあるその重さが、今は怖いほど大切だった。

 

 僕は、グレイヴァルグへ向き直る。

 巨大な前足が雪を踏みしめ、凍った水底のような目がこちらを見ていた。

 リュシアさんの背中は、白い雪の向こうへ少しずつ小さくなっていく。

 

「勝つんじゃない」

 

 片手剣を抜く。

 勝つためではない。

 倒すためでもない。

 逃げるため。

 時間を稼ぐため。

 ミミルさんを背負ったまま、震える足で雪を踏みしめた。

 

「怖いですか」

「当たり前……でしょ」

「僕もです」

 

 声も震えている。

 喉が痛い。

 それでも何かを言わなければ、僕の身体は今にも背を向け、勝手に逃げ出してしまいそうだった。

 

「こっちだ」

 

 グレイヴァルグの鼻先が、僅かに動く。

 大きな顎から、白い息が漏れた。

 剣を構える。

 こんな構えに何の意味があるのかは、僕にも分からない。

 

 ……それでも、構えた。

 

「僕は、ここにいるぞ」

 

 白い獣の目が――僕を見た。

 

 ◆

 

 ギルドの大広間は、いつも通り騒がしかった。

 依頼を終えたハンターが受付へ報告に来て、掲示板の前では新人らしい二人組が依頼書を見比べている。素材の買い取りを待つ者が木箱へ腰を下ろし、奥ではギルド員が雪原方面へ送る物資の記録を確かめていた。

 

「……いつも通り、ですね」

 

 アルナは小さく呟き、手元の書類へ視線を落とす。

 そう言い切るには、ギルド全体が少しだけ張り詰めていた。

 雪原関連の張り紙は日に日に増え、掲示板の一角には注意喚起がまとめられている。

 雪原北部方面の一部依頼制限。

 第二区域以降への単独行動非推奨。

 大型モンスターらしき痕跡の確認。

 支援物資の納品強化。

 それでも、ギルドは動いている。

 

「次の方、どうぞ」

 

 依頼は出される。

 ハンターが受ける。

 受付は確認し、記録し、報酬を計算して――帰還を待つ。

 それがギルドの日常だった。

 

「…………」

 

 アルナの視線が、一枚の依頼書で止まる。

 雪原地帯第一区域・調査用キャンプへの物資補給。

 今日、ルキウスが受けた依頼だった。

 依頼そのものは正規のランク2。

 行き先は第一区域の外縁部で、内容は調査用キャンプへの補給。大型モンスターの調査でも、討伐でもない。

 ギルド員がいる場所へ物資を届け、納品印を受け取って帰ってくるだけ。

 

 ――だけ。

 

 その言葉だけが、胸の中で小さく引っかかっていた。

 

『届けたら、帰ってきてください』

 

 そう言った。

 彼も頷いた。

 第二区域には入らない。

 異常な痕跡を見つけても、調べようとしない。

 戻って報告する。

 

『本当に?』

『本当に本当です』

 

 いつもの返事だった。

 ルキウスは嘘をつくような少年ではない。

 無茶はする。

 妙なところで頑固で、自分が弱いと理解しているくせに、誰かのためとなればすぐ危ない方へ足を踏み出す。

 

「でも、約束を軽く扱う方ではありません」

 

 だから、大丈夫。

 そう思おうとした。

 受付嬢は、悪い予感だけで正規の依頼を止めることはできない。

 けれど――その予感が外れるよう、祈ることはできる。

 

「アルナさん、この報告書の確認をお願いします」

「あ、はい。こちらで受け取ります」

 

 隣の受付から回ってきた書類を受け取り、アルナは気持ちを切り替えようとした。

 その時だった。

 

 ――キィンッ!

 

 ギルドの奥で、鋭い音が鳴る。

 

「……え?」

 

 鐘ではない。

 通常の呼び出しでもない。

 短く、硬く――空気を切り裂くような音。

 緊急連絡用の魔道具が鳴った音だった。

 大広間のざわめきが、一瞬で止まる。

 

「緊急通信!」

 

 受付に並んでいたハンターが振り返る。

 掲示板前の新人たちは固まり、書類を運んでいたギルド員も足を止めた。

 直後、奥の扉が乱暴に開く。

 現れたのは、エルドラン支部のギルドマスターだった。

 大柄な身体へ厚い上着を引っかけ、白の混じった髪を後ろへ撫でつけている。

 普段から口は悪い。

 けれど、こういう時の動きだけは――誰よりも速かった。

 

「通信を開け!」

「はい!」

 

 ギルド員が魔道具へ駆け寄る。

 魔力を通された石の表面へ、淡い光が走った。

 次の瞬間、乱れた呼吸と雪の音が大広間へ響く。

 

『応援を頼みます。雪原地帯、第一区域外縁部から北西。負傷者一名。大型モンスターに襲われています』

 

「大型……」

 

 アルナの猫耳が、ぴんと立つ。

 声は焦っていた。

 それでも、言葉は崩れていない。

 場所。

 負傷者の数。

 脅威。

 必要な情報だけを、必死に整えて伝えている。

 

 ――大型モンスター。

 

 その言葉が響いた瞬間、ギルドの空気が変わった。

 先ほどまでの騒がしさが消え、代わりに武器を扱う者たち特有の重い沈黙が広がる。

 新人たちは顔を青くし、何人かのベテランハンターが無言で立ち上がった。

 

「雪原班を呼べ! 今動けるランク4以上を集めろ!」

「はい!」

「医療班は教会へ連絡! 担架、防寒布、温石、止血薬を持て! 運送区にも走れ、最速のケルン車を出させろ!」

 

 ギルド員たちが一斉に動き出す。

 書類を抱えていた者が走り、受付の後ろにいた者が教会宛ての連絡符を取り出す。

 ハンターたちは装備を確かめ、腰の剣や斧を鳴らしながら入口へ向かった。

 

「低ランクは下がれ! 掲示板前を空けろ! 邪魔になる位置へ立つな!」

 

 怒号のような指示に、ギルド全体が動く。

 混乱ではない。

 これは――緊急時の動きだった。

 アルナも、身体が勝手にカウンターの外へ向かいかける。

 けれど、その足が動くより早く、通信石から再び声が響いた。

 

『こちら、リュシア。エルドラン支部調査員。現在、キャンプ方面へ移動中。足首を負傷。走行に支障あり。ただし通信は維持できます』

 

「リュシアさん……」

 

 雪原調査班のエルフの調査員。

 冷静で観察力があり、危険判断も早い。

 アルナも何度か、彼女から報告書を受け取ったことがあった。

 ギルドマスターが通信石へ歩み寄る。

 

「リュシア、ミミルはどうした。一緒じゃなかったのか」

 

 短い問いだった。

 けれど、現場を知る者の重さがあった。

 通信の向こうで、息を飲む気配がする。

 

『一緒でした。私たちは怪我を負って、動けない状態でした』

 

 その答えだけで、ギルドマスターの表情が僅かに変わった。

 

「……置いてきた?」

 

 アルナの唇から、声が漏れる。

 誰かを置いて、救援を呼ぶために走ってきた。

 それが最善だった可能性が高いことも、ギルドマスターには分かったのだろう。

 彼は責めず、怒鳴りもしなかった。

 ただし――それは同時に、置いてきた誰かが死ぬ可能性が極めて高いという意味でもある。

 

「分かった。そのハンターの位置を教えろ。すぐに向かう」

 

 通信の向こうで、僅かな沈黙が落ちた。

 荒い息。

 雪を蹴る音。

 足を痛めたまま、走り続けているのだろう。

 リュシアは報告を続けようとしている。

 けれど次の言葉だけは、ほんの少し崩れた。

 

『急いでください』

 

 ギリ、と。

 歯を食いしばる音が、通信石を通して聞こえた。

 悔しさと、涙を押し殺す音だった。

 

『でないと、彼が――死んでしまう』

 

「彼……?」

 

 その一語に、アルナの指先から力が抜ける。

 

「嫌……」

 

 聞きたくない。

 その先だけは、聞きたくない。

 そう思った時には、もう遅かった。

 ギルドマスターが低く問い返す。

 

「彼?」

『物資補給に来ていた、ランク2のハンターです。名は――』

 

 時間が引き伸ばされたように感じた。

 周囲の音が遠くなる。

 動き出したギルド員の足音も、武器の金具が鳴る音も、誰かの呼吸も――すべてが水の中から聞こえるように鈍くなった。

 

「やめて……」

 

 その名前だけは。

 お願いだから。

 

『ルキウスという少年です』

 

 頭の中が、真っ白になった。

 

「ルキウスさん!!!」

 

 気づいた時には、叫んでいた。

 自分の声だとは思えない。

 受付嬢としての声ではない。

 依頼を案内する時のものでもない。

 喉の奥から、勝手に裂けて出た声だった。

 

 そして、その叫びとほとんど同時に――ギルドの一角で影が動く。

 黒い外套。

 長い黒髪。

 黄金の瞳。

 

「フレイヴィア様……!」

 

 フレイヴィア・ヴォルグラート。

 彼女は、通信を聞いていた。

 大広間にいた誰よりも早く、誰よりも静かに動く。

 身の丈ほどの大剣を掴み、外套を翻して出口へ向かった。

 

「おい、待て!」

 

 ギルドマスターが怒鳴る。

 それでも、フレイヴィアは止まらない。

 

「――っち。おい、そいつを止めろ!」

 

 近くにいたハンターが二人、反射的に前へ出る。

 けれどフレイヴィアが振り返った瞬間、その足は雪へ縫いつけられたように止まった。

 

「退け」

 

 低い声だった。

 怒鳴ってはいない。

 けれど、その一言だけで大広間の空気が沈む。

 竜族としての圧。

 ランク7のハンターが放つ圧。

 そして――殺しきれない感情を宿した、黄金の瞳。

 誰も、彼女を止められなかった。

 フレイヴィアはギルドの扉を押し開け、そのまま外へ飛び出していく。

 

「私も……!」

 

 アルナもカウンターの外へ出ようとした。

 しかし、横にいたギルド員がすぐに腕を掴む。

 

「アルナさん!」

「離してください!」

「だめです! あなたが行っても――」

「ルキウスさんが!」

 

 その先が、言葉にならない。

 ルキウスが危険な場所にいる。

 大型モンスターに襲われている。

 死んでしまう。

 それだけが、頭の中を何度も回っていた。

 

「アルナ、通信へ残れ」

 

 ギルドマスターが振り返る。

 その目は、厳しかった。

 

「でも!」

「戻ってきた時、誰が受ける」

「……っ」

「誰が教会へ繋ぐ。誰が記録し、次の指示を出す」

「それは……」

「お前の仕事は、そこだ」

 

 言葉が胸へ刺さった。

 正しい。

 嫌になるほど――正しい。

 アルナが雪原へ出たところで、何もできない。

 走っても間に合わない。

 戦えない。

 足手まといになり、新しい犠牲者になるだけかもしれない。

 

「それでも……行きたいです」

 

 助けたい。

 何かしたい。

 ただ、今の自分にできることは――ここへ残ることだった。

 通信を受ける。

 教会へ繋ぐ。

 情報を記録する。

 帰ってきた人を受け入れる。

 

「受付嬢の、仕事……」

 

 いつも自分がしてきたこと。

 それが今ほど遠く、残酷に思えたことはなかった。

 アルナは震える手を強く握りしめ、受付へ戻る。

 

「……通信、続けます」

「よし」

 

 ギルドマスターは短く頷き、すぐ次の指示へ移った。

 

「だぁ、くそ! どいつもこいつも勝手に動きやがって――おい、お前ら!」

 

 後頭部を掻きむしり、入口へ向かっていたハンターたちを指差す。

 

「フレイヴィアを追え! 遅れるな! ランク5以上を前へ回せ!」

「了解!」

「医療班は二班に分けろ! 一班は俺たちと雪原、もう一班は教会で受け入れ準備! 低ランクは絶対に出すな、門で止めろ!」

「はい!」

「運送区への連絡はまだか!」

「出しました! ケルン車、準備中!」

「遅い! 走らせろ!」

 

 荒い。

 けれど、速い。

 怒鳴っているのに、指示には一つも迷いがない。

 ギルドが、救援の形へ組み替わっていく。

 

『倒れた標識札が目印です。第一区域外縁部、北西側。低い木立の近く。大型は白灰色の体毛、氷状の突起あり。種類は――おそらく、グレイヴァルグ』

 

 通信石の向こうで、リュシアの声が続く。

 

『小人族補助員ミミルは重傷。ルキウスが背負っています』

 

「ミミルさん、重傷……ルキウスさんが背負っている」

 

 アルナは羽ペンを握り、震える手で記録する。

 文字が歪む。

 それでも、書く。

 

『彼は――時間を稼ぐと言いました』

 

「…………」

 

 大広間に残っていたハンターたちの顔が変わった。

 ランク2の新人が。

 ランク4上位の大型モンスターを相手に。

 重傷者を背負って。

 時間を稼ぐ。

 普通なら――死ぬ。

 

「馬鹿……」

 

 誰も笑わなかった。

 誰も馬鹿にしなかった。

 何人かが歯を食いしばり、何人かが無言で武器を握り直す。

 

「リュシアさん、現在位置を維持できますか」

 

 アルナは紙へペン先を押しつけたまま、大きく息を吸った。

 声だけは、受付嬢のものへ戻す。

 

『可能です。ただし、足が持つか分かりません』

「そのまま通信を維持してください。教会へも繋ぎます」

『了解』

「ミミルさんの応急処置は」

『ルキウスが処置しました。出血は、一時的に抑えられていました』

「ルキウスさんが……」

 

 教会で見たというだけの処置を。

 雪原で。

 重傷者へ。

 アルナは唇を噛んだ。

 

 浮かぶのは、受付の前で笑っていたフードの少年。

 血まみれで帰ってきて、返り血ですと言った少年。

 装備を買った時、財布が凍ったと嘆いた少年。

 本当に本当ですと――何度も約束した少年。

 

「生きて帰ってきてください……」

 

 何度も言った。

 なのに。

 どうして今、こんなところで同じ言葉を祈らなければならないのだろう。

 

 ギルドマスターが率いる救援隊が、慌ただしくギルドを出ていく。

 フレイヴィアはすでに先行していた。

 彼女の足なら、誰よりも早く雪原へ届くかもしれない。

 

 けれど――間に合うかは、分からない。

 

 受付嬢は依頼書を渡す。

 報酬を数える。

 帰還を確認する。

 怪我をしたハンターを教会へ繋ぐ。

 それが仕事だ。

 

 だからアルナは、何度も伝えてきた。

 

 ――生きて帰ってきてください、と。

 

 その言葉が今ほど届いてほしいと思ったことはなかった。

 

「ルキウスさん……」

 

 通信石の向こうで吹き荒れる雪の音を聞きながら、アルナは祈ることしかできなかった。

 

 





 ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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