駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
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白い。
どこを見ても、ただ白い。
空も、地面も、吐く息も――視界の端を流れていくものすべてが、同じ色へ溶けていた。
「っ、は……!」
足が沈む。
一歩踏み出すたびに膝の奥が悲鳴を上げ、背負ったミミルさんの重さが肩紐を深く食い込ませてくる。
防寒具の内側は汗で濡れているはずなのに、指先だけは凍ったように感覚が薄い。
それでも、耳元から聞こえる呼吸だけは分かった。
浅い。
弱い。
でも――まだ、ある。
「……ルキウス、君」
背中から掠れた声がした。
返事をしようとして、喉が張りついていることに気づく。雪をそのまま吸い込んだように、奥が冷たくて痛かった。
「大丈夫、です」
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
足は震えている。
腕も、もう上がらない。
左の脇腹は呼吸するたびに鈍い痛みを返し、服の内側を生温かなものが伝っている。
さっき爪が掠めただけ――そう思いたかったけれど、この温かさが都合のいい言い訳を許してくれなかった。
「もう少しです。たぶん、もう少しで開けた場所に出ます」
「……見えて、いるのかい?」
「見えてません」
「正直だねぇ……」
ミミルさんが小さく笑った。
その笑い声があまりにも弱くて、僕は奥歯を噛む。
後ろから、雪を踏み砕く重い音が聞こえた。
――ずしん。
地面が揺れ、枝に積もっていた雪がぱらぱらと落ちる。
遠くない。
離れられていない。
むしろ――少しずつ、近づかれている。
「分かってる……」
分かっているのに、足は速くならなかった。
僕はランク2のハンターだ。
雪原の奥へ出る資格など、本来はない。大型と出会えば逃げるしかない――いや、逃げることさえできない。
フレイヴィアさんにも、アルナさんにも、ガルドさんにも、セラフィーンさんにも、何度も言われてきた。
生きて帰ること。
ハンターにとって、それが一番大切なのだと。
でも、背中ではミミルさんが息をしている。
リュシアさんも、助けを呼ぶために怪我をした足で走ってくれた。
なら――僕も、ここでは止まれない。
止まれば、全部が終わる。
誰かが助けに来てくれるかもしれない。
ギルドの救援が間に合うかもしれない。
フレイヴィアさんが、来てくれるかもしれない。
けれどそれは、僕がその時まで生きていればの話だ。
背中のミミルさんを、生かしていられたらの話だった。
「……ねぇ、ルキウス君」
「はい」
「私を置いていきな」
雪を踏む足が止まりかける。
けれど、止めなかった。
「嫌です」
「即答かい。少しは悩んでおくれよ」
「悩んだら、置いていけって言われると思ったので」
無理やり笑って答えると、ミミルさんがまた小さく息を漏らした。
「君は……本当に、変な子だねぇ」
「よく言われます」
「受付嬢のお嬢ちゃんに?」
「主に」
アルナさんの顔が、脳裏に浮かぶ。
本当に? と猫耳を揺らす、あの疑わしそうな顔。
帰ってきた僕を見るたびに、血だの泥だの雪だのを確かめ、眉を寄せる顔。
無事に帰ってきてくださいね、と少しだけ声を低くする顔。
「……怒られるだろうな」
胸の奥が痛くなる。
今帰ったら、怒られるだろうか。
怒ってくれるだろうか。
――怒ってほしい。
そのためには、帰らないといけない。
「だから、置いていきません」
「……死ぬよ」
「死にません」
「死ぬよ。私を背負っていたら、君は逃げ切れない」
ミミルさんの声は、震えていなかった。
諦めた声でもない。
ただ職人が壊れた道具を見て判断するように、淡々と事実を告げている。
それが、余計に怖かった。
「私を降ろせば、君一人ならまだ走れる。君が街へ戻って場所を伝えれば、救援が来る。私は……まあ、運が良ければ、まだ間に合うかもしれない」
「嫌です」
「ルキウス君」
「嫌です」
「子どもみたいなことを言うんじゃないよ」
「ここであなたを置いていくのが大人なら、僕は子どもでいい」
息が荒くなる。
視界も滲む。
寒さのせいか、痛みのせいか、怖さのせいか――もう、よく分からなかった。
「だって僕は、ミミルさんを助けに来たんです」
「助けるっていうのはね、自分も生き残ることだよ」
「知ってます」
「知っていて、それかい」
「知ってます。だから――僕も助かります」
後ろで、重い音が近づく。
木々の向こうを、白い影が動いた気がした。
「見るな……」
見たら、足が止まる。
僕は前だけを見た。
「……本当に、馬鹿だねぇ」
「はい」
否定できなかった。
馬鹿だ。
無謀だ。
ランク2のくせに、何をしているのだろう。
でも、これをしなければ、僕はきっと胸を張って帰れない。
英雄になりたいと言った自分を――もう二度と、まともに見られなくなる。
「もう少しだけ……!」
そう呟いて踏み出した足が、不意に深く沈んだ。
「っ!」
身体が傾く。
背中の重さに引かれ、膝から雪へ崩れ落ちた。咄嗟についた手が、雪の下に隠れていた石へぶつかる。
鈍い痛みが腕を駆け上がった。
ミミルさんを庇うように身体を捻り、そのまま横へ倒れ込む。
「ルキウス君!」
「大丈夫、です……!」
大丈夫。
そう言いながら、立ち上がれなかった。
足に力が入らない。
手袋の中では指が震え、肺は空気を求めて暴れている。それなのに吸い込める空気は細く冷たく、喉を刺すだけだった。
「……降ろします」
背中のミミルさんを雪の上へ下ろす。
いや――下ろしたというより、崩れるように横たえた。
ミミルさんが顔をしかめる。脚の傷から滲んだ血が、ぽたりと白い雪へ落ちた。
――赤い。
嫌になるほど、赤い。
その色を見た瞬間、頭の中が少しだけ静かになった。
このままでは無理だ。
ミミルさんを背負って逃げ続けることは、もうできない。
「なら……どうする」
僕一人で逃げる?
――違う。
ミミルさんを置いて、救援を呼びに行く?
それも違う。
救援は、リュシアさんが呼びに行ってくれている。
なら、僕がするべきことは一つしかない。
――ここで、時間を稼ぐ。
ミミルさんを少しでも遠ざける。
あいつの目を、僕へ向ける。
「ミミルさん」
「……嫌な予感しかしないねぇ」
ミミルさんが僕を見上げる。
顔は青ざめているのに、その目だけは鋭かった。
「少しだけ、隠れていてください」
「君は?」
「僕は、あいつを止めます」
「止められるわけがないだろう!」
初めて、ミミルさんが声を荒げた。
その声に、僕の肩が跳ねる。
「君はランク2だ! あれは、そんな子どもがどうにかできる相手じゃない! 時間稼ぎにすらならない!」
「でも、少しなら」
「その少しで君が死ぬ!」
「でも――その少しで、ミミルさんが生きるかもしれない」
口にしてから、自分の声が思ったより穏やかなことに気づいた。
怖くないわけではない。
むしろ、怖い。
足なんてずっと震えている。
逃げたい。
泣きたい。
母に会いたい。
アルナさんに怒られたい。
セラフィーンさんに、また呆れた顔で手当てされたい。
ガルドさんに、英雄になるんじゃなかったのか、と笑われたい。
フレイヴィアさんに――たわけが、と叱られたい。
「全部、まだ欲しいんです」
全部、諦めたくない。
それでも、背中を向けることはできなかった。
僕はミミルさんの身体を、近くにある倒木の陰まで引きずる。
傷へ触れないように。
なるべく雪で身体を冷やさないように。
今の僕にできることなど、その程度しかない。
倒木へ辿り着いたところで、ミミルさんが僕の袖を掴んだ。
「行くな」
小さな手だった。
煤と血で汚れた、小人族の職人の手。
その手が、必死に僕を止めている。
「お願いだよ。行くな」
その声に、心が折れそうになった。
ここで頷けたら、どれほど楽だろう。
行かないと言えたら、どれほど救われるだろう。
でも――後ろから音がする。
近い。
もう、近い。
僕は袖を掴むミミルさんの手へ、自分の手を重ねた。
「大丈夫です」
「嘘をお言い」
「……嘘です」
「馬鹿」
「はい」
ミミルさんの目が滲む。
その手をそっと外し、僕は立ち上がった。
片手剣を抜く。
馴染んだはずの柄が、今日はやけに遠く感じられた。
指がうまく閉じない。
一度、握り直す。
もう一度――強く。
「残っているのは……」
腰の小さな袋を確かめる。
罠具は、ほとんどない。
薬もない。
使えそうな道具も、残っていない。
あるのは片手剣と、空っぽに近い身体と――ほんの少しの意地だけだった。
「十分じゃないな」
十分なわけがない。
でも、今ここにある全部だった。
木々の奥から、白い巨体が姿を現す。
雪と同じ色の毛皮。
木の幹より太い脚。
裂けるように開いた口。
こちらを見下ろす、凍った水底のような瞳。
「……やっぱり、大きい」
初めて見た時よりも、ずっと大きく見えた。
たぶん、僕の足が止まっているからだ。
逃げる余地が、もうないからだ。
心臓が肋骨を内側から叩き、喉の奥から情けない音が漏れそうになる。
「笑え……笑え、僕」
一歩、前へ出る。
雪を踏み、片手剣を構えた。
ミミルさんが見ている。
せめて、これ以上怖がらせるな。
「こっちだ」
声が震えた。
だから、息を吸ってもう一度叫ぶ。
「僕は、ここにいる!」
グレイヴァルグの鼻先が動く。
凍った瞳がミミルさんから離れ、僕を捉えた。
成功だ。
――成功してしまった。
巨体が動く。
「速っ……!」
大きいくせに、速い。
咄嗟に横へ跳ぶ。鉤爪が、ついさっきまで僕のいた場所を抉った。
雪と土が爆ぜ、飛んできた破片が頬を切る。
「まだ……!」
転がり、起き上がる。
足が滑る。
それでも走った。
わざと倒木の向こうへ回り込み、グレイヴァルグをミミルさんから引き離す。
あいつが僕を追えば、それでいい。
「っ、は……!」
胸が痛い。
呼吸も苦しい。
でも、動ける。
まだ――動ける。
直後、グレイヴァルグの前脚が横薙ぎに振るわれた。
「避け――」
間に合わない。
身体を捻り、直撃だけは避ける。
肩へ衝撃が走り、視界が白く弾けた。
身体が吹き飛び、雪の上を何度も転がる。
「……痛い」
痛い。
ちゃんと、痛い。
でも、腕は動く。
足も――たぶん、動く。
「なら、立て」
雪を掴み、身体を起こす。
口の中は鉄の味でいっぱいだった。吐き出すと、赤いものが雪の上へ散った。
グレイヴァルグが、ゆっくりとこちらへ向き直る。
怒っているのか。
それとも、遊んでいるのか。
どちらでもよかった。
僕を見ているなら、それでいい。
「まだ……」
片手剣を構える。
「まだ、僕は立っているぞ」
グレイヴァルグが吠えた。
空気が震え、身体が竦む。
その一瞬――反応が遅れた。
鉤爪が迫る。
僕は反射的に片手剣を差し出した。
意味などない。
分かっている。それでも、出すことしかできなかった。
「ぐっ……!」
衝撃で右腕が跳ね上がる。
片手剣が手から離れ、雪の上を滑っていった。
肩から先が、自分のものではないように痺れている。
「剣……」
遠い。
手を伸ばしても、届かない。
グレイヴァルグの影が、僕の身体を覆った。
「あ……」
間抜けな声が漏れる。
終わる。
そう思った時、倒木の陰から小さな音がした。
――かん。
何かが、グレイヴァルグの鼻先に当たる。
小さな工具だった。
ミミルさんが投げたのだ。
グレイヴァルグの目が、倒木の方へ向く。
「駄目だ……!」
駄目だ。
駄目だ駄目だ駄目だ。
僕は必死に雪を掻いた。
立ち上がれ。
立て。
動け。
あっちを見るな。
ミミルさんを見るな。
「こっちだ!」
声が裂ける。
グレイヴァルグの視線が、もう一度こちらへ戻った。
「……よかった」
本当に、よかった。
近くに落ちていた折れ枝を掴む。
武器にもならない。
何も持っていないのと、大して変わらない。
それでも、素手よりはましだった。
グレイヴァルグが、今度こそ真正面から向かってくる。
避けられない。
身体も、もう動かない。
「笑えてるかな……」
どうだろう。
きっと、酷い顔をしている。
情けなくて、怖くて、泣きそうで――英雄には、ほど遠い顔だ。
ふと、フレイヴィアさんの背中を思い出す。
夜のような黒髪。
黄金の瞳。
身の丈ほどの大剣。
あの人は、立っているだけで強かった。
誰かを守れる人だった。
僕が憧れたものに、あまりにも近い人だった。
それに比べて、僕は――何だ。
ミミルさん一人、ちゃんと助けきれない。
リュシアさんを安心させることもできない。
アルナさんとの約束も守れない。
セラフィーンさんの言葉も、また破っている。
ガルドさんへ返した百ソルより、ずっと重いものを踏み倒そうとしている。
「母……ごめん」
僕は、やっぱりまだ全然だった。
英雄なんて、遠かった。
遠くて。
高くて。
眩しくて――手を伸ばしても、届かない。
「それでも……」
それでも、僕は。
グレイヴァルグが跳んだ。
巨大な影が、白い空を覆う。
その瞬間、強い風が吹きつけた。
「あ……」
フードが外れる。
冷たい空気が、剥き出しになった顔へ触れた。
母が絶対に外すなと言った布が、雪の上を滑っていく。
けれど、それを目で追う余裕はなかった。
目の前には、迫る爪がある。
死ぬ。
今度こそ、死ぬ。
それなのに――不思議と、目を逸らすことはできなかった。
折れ枝を強く握りしめる。
意味などない。
勝てるわけがない。
届くわけもない。
それでも、口が動いた。
「次は、勝つから」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。
グレイヴァルグにか。
フレイヴィアさんにか。
自分自身にか。
それとも――届かなかった何かにか。
ただ、その言葉だけが白い世界へ落ちた。
そうして、僕の人生は幕を引いた。
――はずだった。
「たわけが」
音が割れた。
白い世界を、黒が裂く。
僕とグレイヴァルグの間へ、誰かが立っていた。
夜のような黒髪。
黄金の瞳。
雪原に似合わないほど堂々とした背中。
身の丈ほどの大剣が、巨大な鉤爪を正面から受け止めている。
「フレイ、ヴィア……さん」
声が出たのか、自分でも分からなかった。
彼女は振り返らない。
ただ、大剣を押し返す。
あれほど大きく見えたグレイヴァルグの腕が、僅かに浮いた。
「嘘だろ……」
僕が全身を使い、意地まで振り絞って、ほんの少しの時間しか稼げなかった相手。
それを彼女は――正面から止めている。
竜族の尾が雪を叩く。
黄金の瞳が、グレイヴァルグを射抜いた。
「言ったはずだ。生きろ、と」
低い声だった。
怒っていた。
たぶん――ものすごく怒っていた。
けれど、その声を聞いた途端、胸の奥から力が抜ける。
「ああ……」
来てくれた。
間に合ってくれた。
僕はまた――助けられた。
フレイヴィアさんが踏み込む。
雪が弾け、大剣が鋭い弧を描いた。
グレイヴァルグの鉤爪が弾き飛ばされ、遅れて耳を叩くような轟音が響く。
巨体が呻き、後ろへ退いた。
彼女は追わない。
僕とミミルさんの前に立つように、ただそこへ留まっている。
それだけで――世界が変わった。
さっきまで死で満ちていた白い景色の中に、生きて帰るための道が生まれたように思えた。
僕は雪の上へ座り込んだまま、その背中を見上げる。
「遠い、なぁ……」
あまりにも、遠くて――大きい。
憧れた英雄が物語の中から抜け出してきたなら、きっとこんな背中をしているのだと思った。
誰かの前へ立てる背中。
誰かを守れる背中。
敵を前にしても、揺らがない背中。
僕が、なりたかったもの。
僕が――届かなかったもの。
フレイヴィアさんの背中が滲んでいく。
雪のせいではない。
寒さのせいでもない。
「くやしぃ、なぁ……」
助かったことは嬉しい。
生きていることに、心の底から安心している。
それでも、胸の奥が焼けるように痛かった。
僕は勝てなかった。
守りきれなかった。
結局、最後は助けられた。
それが情けなくて。
けれど、その背中があまりにも眩しくて。
声は、誰にも聞こえないくらい小さかったと思う。
それでも、フレイヴィアさんの肩がほんの少しだけ動いた気がした。
「次は……」
視界が暗くなる。
身体から力が抜け、雪の冷たさも痛みも遠ざかっていく。
最後に見えたのは、白い雪原に立つ黒い背中だった。
僕はその背中へ手を伸ばそうとして――届かないまま、意識を手放した。
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