駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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少年は、理想には届かない

 

 ◆

 

 白い。

 どこを見ても、白い。

 空も、地面も、吐く息も、視界の端を流れていくものすべてが、同じ色に溶けていた。

 

 足が沈む。

 一歩踏み出すたびに、膝の奥が悲鳴を上げる。背中に背負ったミミルさんの体重が、じわじわと肩紐を食い込ませてくる。防寒具の内側は汗で濡れているはずなのに、指先だけは凍ったみたいに感覚が薄かった。

 

 耳元で、ミミルさんの呼吸が聞こえる。

 浅い。

 弱い。

 でも、まだある。

 それだけを確かめながら、僕は前へ進んでいた。

 

「……ルキウス、君」

 

 背中から、掠れた声がした。

 僕は返事をしようとして、喉が張りついていることに気づいた。雪を吸い込んだみたいに、喉の奥が冷たくて痛い。

 

「大丈夫、です」

 

 何が大丈夫なのか、自分でも分からない。

 足は震えている。腕も上がらない。左の脇腹は、呼吸するたびに鈍い痛みを返してくる。さっき魔物の爪が掠めた場所だ。掠めただけ。そう思いたかったけれど、服の内側を伝う生温かさが、都合のいい言い訳を許してくれなかった。

 それでも、僕は笑おうとした。

 背中のミミルさんには、見えないのに。

 

「もう少しです。たぶん、もう少しで、開けた場所に出ます」

「……見えて、いるのかい?」

「見えてません」

「正直だねぇ……」

 

 ミミルさんが、小さく笑った。

 その笑い声があまりにも弱くて、僕は奥歯を噛んだ。

 後ろから、音が聞こえる。

 雪を踏み砕く、重い音。

 ずしん、と地面が揺れる。枝に積もった雪が、ぱらぱらと落ちる。遠くない。離れられていない。むしろ、少しずつ近づかれている。

 

 分かっている。

 分かっているのに、足は速くならなかった。

 僕はランク2のハンターだ。

 雪原の奥に出る資格なんて、本来はない。大型と出会えば、逃げることしかできない。いや、逃げることすらできない。分かっていた。フレイヴィアさんにも、アルナさんにも、ガルドさんにも、セラフィーンさんにも、何度も言われていた。

 生きて帰ること。

 ハンターは、それが一番大事だって。

 

 でも。

 背中で、ミミルさんが息をしている。

 リュシアさんは走った。

 助けを呼ぶために、怪我をした足で、あの白い雪の中を走ってくれた。

 なら、僕はここで止まれない。

 止まったら、全部が終わる。

 

 誰かが助けに来てくれるかもしれない。ギルドの救援が間に合うかもしれない。フレイヴィアさんが、来てくれるかもしれない。

 けれど、それは僕がその時まで生きていたらの話だ。

 背中のミミルさんを、生かしていられたらの話だ。

 

「……ねぇ、ルキウス君」

「はい」

「私を置いていきな」

 

 雪を踏む足が、止まりかけた。

 けれど、止めなかった。

 

「嫌です」

「即答かい。少しは悩んでおくれよ」

「悩んだら、置いていけって言われると思ったので」

 

 無理やり笑って言うと、ミミルさんはまた小さく息を漏らした。

 

「君は……本当に、変な子だねぇ」

「よく言われます」

「受付嬢のお嬢ちゃんに?」

「主に」

 

 アルナさんの顔が、脳裏に浮かんだ。

 本当に? と耳を揺らす、あの疑わしそうな顔。

 帰ってきた僕を見るたびに、血だの泥だの雪だのを確認して、眉を寄せる顔。

 無事に帰ってきてくださいねと、少しだけ声を低くする顔。

 

 胸の奥が、痛くなった。

 今帰ったら、怒られるだろうか。

 怒ってくれるだろうか。

 怒ってほしいな、と思った。

 そのためには、帰らないといけない。

 

「だから、置いていきません」

「……死ぬよ」

「死にません」

「死ぬよ。私を背負っていたら、君は逃げ切れない」

 

 ミミルさんの声は、震えていなかった。

 諦めた声ではなかった。

 ただ、職人が壊れた道具を見て判断するみたいに、淡々と事実を告げていた。

 それが、余計に怖かった。

 

「私を降ろせば、君一人ならまだ走れる。君が街に戻って、場所を伝えれば、救援が来る。私は……まあ、運が良ければ、まだ間に合うかもしれない」

「嫌です」

「ルキウス君」

「嫌です」

「子どもみたいなことを言うんじゃないよ」

「ここであなたを置いていくのが大人なら、僕は子どもでいい」

 

 息が荒くなる。

 視界が滲む。

 寒さのせいか、痛みのせいか、怖さのせいか、もうよく分からない。

 

「だって僕は、ミミルさんを助けに来たんです」

「助けるっていうのはね、自分も生き残ることだよ」

「知ってます」

「知っていて、それかい」

「知ってます。だから僕も助かります」

 

 後ろで、重い音が近づく。

 木々の向こうで、白い影が動いた気がした。

 見ない。

 見たら、足が止まる。

 僕は前だけを見た。

 

「……本当に、馬鹿だねぇ」

「はい」

 

 否定できなかった。

 馬鹿だ。

 無謀だ。

 

 ランク2のくせに、何をしているんだろう。

 でも、これをしなかったら、僕はきっと、胸を張って帰れない。

 英雄になりたいなんて言った自分を、一生笑えなくなる。

 足元の雪が、不意に深く沈んだ。

 

「っ」

 

 身体が傾く。

 背中の重さに引かれて、膝から崩れた。咄嗟に腕をつこうとして、雪の下に隠れていた石に手をぶつける。鈍い痛みが走った。

 ミミルさんを庇うように横へ倒れる。

 雪が舞った。

 

「ルキウス君!」

「大丈夫、です……!」

 

 大丈夫。

 言いながら、立ち上がれなかった。

 足に力が入らない。

 手袋の中の指が震えている。

 肺が空気を求めて暴れているのに、吸い込める空気は細く、冷たく、喉を刺すだけだった。

 

 背中からミミルさんを降ろす。

 いや、降ろしたというより、崩れるように雪の上へ下ろした。

 ミミルさんが顔をしかめる。脚の傷から滲んだ血が、白い雪に落ちた。

 

 赤い。

 嫌になるほど、赤い。

 その赤を見た瞬間、頭の中が少しだけ静かになった。

 このままじゃ、無理だ。

 背負って逃げるのは、もう無理だ。

 

 なら、どうする。

 僕一人で逃げる?

 違う。

 ミミルさんを置いて、救援を呼びに行く?

 違う。

 救援は、リュシアさんが呼びに行ってくれている。

 

 なら、僕がするべきことは一つだ。

 ここで、時間を稼ぐ。

 ミミルさんを、少しでも遠ざける。

 あいつの目を、僕に向ける。

 

「ミミルさん」

「……嫌な予感しかしないねぇ」

 

 ミミルさんが、僕の顔を見た。

 小人族の彼女の顔は青ざめていて、それでも目だけは鋭かった。

 

「少しだけ、隠れていてください」

「君は?」

「僕は、あいつを止めます」

「止められるわけがないだろう!」

 

 初めて、ミミルさんが声を荒げた。

 その声に、僕の肩が跳ねる。

 

「君はランク2だ! あれは、そんな子どもがどうにかできる相手じゃない! 時間稼ぎにすらならない!」

「でも、少しなら」

「その少しで君が死ぬ!」

「でも、その少しでミミルさんが生きるかもしれない」

 

 言ってから、自分の声が思ったより穏やかなことに気づいた。

 怖くないわけじゃない。

 むしろ、怖い。

 足なんて震えている。逃げたい。泣きたい。母さんに会いたい。アルナさんに怒られたい。セラフィーンさんに、また呆れたように手当てされたい。ガルドさんに、英雄になるんじゃなかったのかって笑われたい。フレイヴィアさんに、たわけが、と言われたい。

 

 全部、まだ欲しい。

 でも、背中を向けられない。

 僕はミミルさんの身体を、倒木の陰へ引きずった。

 傷に触れないように。なるべく雪で冷えないように。できることなんて、その程度しかない。

 ミミルさんが、僕の袖を掴んだ。

 

「行くな」

 

 小さな手だった。

 煤と血で汚れた、小人族の職人の手。

 その手が、必死に僕を止めていた。

 

「お願いだよ。行くな」

 

 その声に、心が折れそうになった。

 ここで頷けたら、どれだけ楽だろう。

 行かないと言えたら、どれだけ救われるだろう。

 でも、後ろから音がする。

 

 近い。

 もう、近い。

 僕はミミルさんの手に、自分の手を重ねた。

 

「大丈夫です」

「嘘をお言い」

「嘘です」

「馬鹿」

「はい」

 

 ミミルさんの目が、滲んだ。

 僕は立ち上がる。

 ナイフを抜く。手に馴染んだはずの柄が、今日はやけに遠く感じた。指がうまく閉じない。握り直す。もう一度。強く。

 腰の小さな袋に残っていた罠具を確認する。ほとんどない。薬もない。道具もない。あるのは、ナイフと、空っぽに近い体と、意地だけだ。

 

 十分じゃない。

 十分なわけがない。

 でも、今ある全部だった。

 木々の奥から、白い巨体が現れた。

 

 雪と同じ色の毛皮。

 木の幹より太い脚。

 裂けるように開いた口。

 こちらを見下ろす、濁った瞳。

 

 大きい。

 やっぱり、大きい。

 初めて見た時よりも、ずっと大きく見える。たぶん、僕の足が止まっているからだ。逃げる余地がないからだ。目の前にすると、こんなにも違う。

 

 息が、止まりかける。

 身体が逃げろと叫んでいる。

 心臓が、肋骨を内側から叩いている。

 喉の奥から、情けない音が漏れそうになる。

 それでも、僕は一歩前へ出た。

 

 雪を踏む。

 ナイフを構える。

 笑え。笑え、僕。

 ミミルさんが見ている。

 せめて、怖がらせるな。

 

「こっちだ」

 

 声が震えた。

 だから、もう一度言った。

 

「僕は、ここにいる」

 

 魔物の鼻先が動く。

 その濁った目が、ミミルさんではなく、僕を見た。

 成功だ。

 成功してしまった。

 

 魔物が動く。

 速い。

 大きいくせに、速い。

 咄嗟に横へ跳ぶ。爪が、僕のいた場所を抉った。雪と土が爆ぜる。飛んできた破片が頬を切った。

 

 転がる。

 起き上がる。

 足が滑る。

 それでも、走る。

 魔物の注意を引くように、わざと倒木の向こうへ回り込む。あいつが僕を追えば、ミミルさんから少し離れる。

 それだけでいい。

 それだけで。

 

「っ、は……!」

 

 胸が痛い。

 呼吸が苦しい。

 でも、動ける。

 まだ動ける。

 魔物の脚が振るわれる。避けきれない。身体を捻って、直撃だけを避ける。肩に衝撃が走った。視界が白く弾ける。身体が吹き飛び、雪の上を転がった。

 

 痛い。

 痛い。

 ちゃんと痛い。

 でも、腕は動く。

 足も、たぶん動く。

 なら、立て。

 

 僕は雪を掴んで起き上がった。

 口の中が鉄の味でいっぱいだった。吐き出すと、赤いものが雪に散った。

 魔物が、ゆっくりとこちらへ向き直る。

 怒っている。

 あるいは、遊んでいる。

 どっちでもいい。

 僕を見ているなら、それでいい。

 

「まだ……」

 

 剣を構える。

 

「まだ、僕は立っているぞ」

 

 魔物が吠えた。

 空気が震える。

 身体が竦む。

 その一瞬、避けるのが遅れた。

 

 爪が迫る。

 防ごうとして、ナイフを出す。意味なんてない。分かっている。それでも出した。

 衝撃。

 右腕が跳ね上がる。

 剣が手から離れる。

 肩から先が、自分のものじゃないみたいに痺れた。

 

 雪の上に転がった剣が、遠い。

 僕は手を伸ばす。

 届かない。

 魔物の影が、僕を覆った。

 

「あ」

 

 間抜けな声が漏れた。

 終わる。

 そう思った。

 その時、倒木の陰から小さな音がした。

 

 ミミルさんが、何かを投げた。

 小さな工具だった。

 それは魔物の鼻先に当たり、かん、と軽い音を立てて雪に落ちた。

 魔物の目が、そちらを向く。

 

 駄目だ。

 駄目だ駄目だ駄目だ。

 僕は雪を掻いた。

 立ち上がれ。

 立て。

 動け。

 あっちを見るな。

 見るな。

 

「こっちだ!」

 

 声が裂けた。

 魔物の視線が戻る。

 戻った。

 

 よかった。

 本当に、よかった。

 僕は近くに落ちていた折れ枝を掴んだ。武器にもならない。けれど、何も持たないよりはましだった。

 魔物が、今度こそ僕へ向かってくる。

 

 真正面。

 避けられない。

 身体が動かない。

 

 笑えているだろうか。

 どうだろう。

 たぶん、酷い顔をしている。

 情けなくて、怖くて、泣きそうで。

 英雄には、ほど遠い顔だ。

 

 ふと、フレイヴィアさんの背中を思い出す。

 黒い髪。

 黄金の瞳。

 身の丈ほどの大剣。

 あの人は、立っているだけで強かった。

 

 誰かを守れる人だった。

 僕が憧れたものに、あまりにも近い人だった。

 それに比べて、僕は。

 僕は、何だ。

 

 ミミルさん一人、ちゃんと助けきれない。

 リュシアさんを安心させられない。

 アルナさんとの約束も守れない。

 セラフィーンさんの言葉も、また破っている。

 ガルドさんに返した百ソルより、ずっと重いものを踏み倒そうとしている。

 

 母さん、ごめん。

 僕、やっぱりまだ、全然だった。

 英雄なんて、遠かった。

 遠くて。

 高くて。

 眩しくて。

 手を伸ばしても、届かなくて。

 

 それでも。

 それでも、僕は。

 魔物が跳んだ。

 巨大な影が、白い空を覆う。

 その瞬間、風が吹いた。

 フードが、外れた。

 

 冷たい空気が、顔に触れる。

 母さんが絶対に外すなと言った布が、雪の上を滑っていく。

 僕はそれを目で追えなかった。

 目の前には、迫る爪がある。

 

 死ぬ。

 今度こそ、死ぬ。

 けれど、不思議と目は逸らせなかった。

 

 僕は折れた剣を握りしめた。

 意味なんてない。

 勝てるわけがない。

 届くわけがない。

 それでも、口が動いた。

 

「次は、勝つから」

 

 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 魔物にか。

 フレイヴィアさんにか。

 自分にか。

 

 それとも、届かなかった何かにか。

 ただ、その言葉だけが、白い世界に落ちた。

 そうして、僕の人生は幕を引いた――はずだった。

 

「たわけが」

 

 音が、割れた。

 白い世界を、黒が裂いた。

 僕と魔物の間に、誰かが立っていた。

 

 夜みたいな黒髪。

 黄金の瞳。

 雪原に似合わないほど堂々とした背中。

 身の丈ほどの大剣が、魔物の爪を受け止めていた。

 

 衝撃が遅れて広がる。

 雪が吹き飛び、倒木が軋み、僕の身体が後ろへ押された。

 でも、爪は届いていない。

 僕に、届いていない。

 

「フレイ、ヴィア……さん」

 

 声が出たのか、分からなかった。

 彼女は振り返らない。

 ただ、大剣を押し返す。

 あれほど大きく見えた魔物の腕が、わずかに浮いた。

 

 信じられない光景だった。

 僕が全身を使っても、意地を張っても、ほんの少しの時間しか稼げなかった相手を、彼女は正面から止めていた。

 竜族の尾が雪を叩く。

 黄金の瞳が、魔物を射抜く。

 

「言ったはずだ。生きろ、と」

 

 低い声だった。

 怒っていた。

 たぶん、ものすごく怒っていた。

 でも、その声を聞いた瞬間、胸の奥が緩んだ。

 

 ああ。

 来てくれた。

 間に合ってくれた。

 僕はまた、助けられた。

 

 フレイヴィアさんが踏み込む。

 雪が弾ける。

 大剣が弧を描き、魔物の爪を弾き飛ばした。音が遅れて耳に届く。魔物が呻き、巨体を後ろへ引く。

 彼女は追わない。

 僕とミミルさんの間に立つように、ただそこにいる。

 それだけで、世界が変わった。

 

 さっきまで死で満ちていた白い景色の中に、道ができた気がした。

 僕は雪の上に座り込んだまま、その背中を見ていた。

 大きい。

 あまりにも、大きい。

 

 憧れた英雄が、本から抜け出してきたら、きっとこんな背中をしているのだと思った。

 誰かの前に立てる背中。

 誰かを守れる背中。

 敵を前にしても揺らがない背中。

 

 僕が、なりたかったもの。

 僕が、届かなかったもの。

 フレイヴィアさんの背中が、滲む。

 雪のせいじゃない。

 寒さのせいでもない。

 

 悔しかった。

 助かったことが嬉しいのに。

 生きていることに安心しているのに。

 それでも、胸の奥が焼けるみたいに痛かった。

 

 僕は勝てなかった。

 守りきれなかった。

 結局、最後は助けられた。

 それが情けなくて。

 でも、その背中があまりにも眩しくて。

 

「くやしぃ、なぁ」

 

 声が漏れた。

 誰にも聞こえないくらい、小さな声だったと思う。

 でも、フレイヴィアさんの肩が、ほんの少しだけ動いた気がした。

 

 視界が暗くなる。

 身体から力が抜けていく。

 雪の冷たさも、痛みも、遠くなる。

 最後に見えたのは、白い雪原に立つ、黒い背中だった。

 僕はそれに手を伸ばそうとして。

 届かないまま、意識を手放した。

 

 ◆

 





 ここまで読んで下さりありがとうございます。
 次回の投稿は土曜日になります。

 第一章終わりまでもう残り数話。
 お付き合いいただければ、それ以上の喜びはありません。
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