駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

23 / 69

 ~前回までのあらすじ~

 前回は雪山で大型モンスターに遭遇し、絶体絶命のところでフレイヴィアさんに助けてもらったルキウス。今回はその続きからとなります。


第一章 第二十二話『少年は姿を知られる』

 

 ◆

 

 ギルドの扉が、乱暴に開いた。

 吹き込んだ雪風に、入口近くにいたハンターたちが一斉に振り返る。

 白い息に、濡れた外套。凍りついた靴が床を叩き、溶け始めた雪が石床へ黒い跡を残していく。

 救援へ向かった者たちが戻ってきた。

 誰もが、すぐにそう理解した。

 けれど――安堵の声は上がらなかった。

 

 先頭に立っていたのは、フレイヴィアだった。

 黒髪に雪を散らし、黄金の瞳を鋭く細めた竜族の姫。

 普段なら、彼女がギルドへ足を踏み入れただけで、自然と周囲の視線が集まる。

 けれど今、誰も彼女自身を見てはいなかった。

 

 見ていたのは、その背に負われた少年だった。

 

「……ルキウス?」

 

 誰かの声が、静まり返った大広間へ落ちる。

 ルキウスは動かなかった。

 両腕は力なく垂れ、防寒具は裂け、雪と血を吸って重く濡れている。

 外套の裾から落ちた赤い雫が、一つ、また一つと床へ染みを作った。

 顔は深く被せられたフードの奥にあり、表情までは見えない。

 雪原で外れたはずのそれは、今は不自然なほどしっかりと被せ直されていた。

 誰がそうしたのか。

 どうして、そうしたのか。

 そんなことを尋ねられる空気ではなかった。

 

 ギルドの喧騒が、音を失う。

 受付カウンターの奥で、書類を握っていたアルナがゆっくりと顔を上げた。

 

「……ルキウス、さん?」

 

 信じたくないものを見つけてしまったような、か細い声だった。

 次の瞬間、アルナはカウンターを飛び出していた。

 椅子が倒れる。

 近くにいた職員が驚いて手を伸ばしたけれど、その指は届かなかった。

 

「ルキウスさん!」

 

 フレイヴィアの前まで駆け寄り、アルナは足を止める。

 触れようとして――その手も止まった。

 肩も、腕も、胸元も、どこも血と雪で濡れている。

 何をすればいいのか。

 どこに触れればいいのか。

 呼吸を確かめようと伸ばした指先が、冷えた外套へ触れる寸前で震えた。

 

「息は……っ、意識はありますか? どこを、どこを怪我して――」

「生きている」

 

 フレイヴィアの声が落ちた。

 短く、低い。

 余計なものをすべて削ぎ落とした声だった。

 アルナの猫耳が、ぴくりと震える。

 生きている。

 その一言だけを確かめるように、唇が僅かに動いた。

 

「ですが……」

「だが、急げ」

 

 フレイヴィアは立ち止まらない。

 ルキウスを背負ったまま、まっすぐ奥へ進んでいく。

 彼女の肩にも腕にも、少年の血が移っていた。

 それを拭おうともせず、ただ前を見る。

 その一言で、止まっていた空気が動き出した。

 

「教会へ連絡!」

「もう送っています!」

「担架を!」

「いや、このまま運ぶ! 道を空けろ!」

 

 ギルド職員たちが一斉に動く。

 机が壁際へ寄せられ、入口近くのハンターたちが左右へ退く。

 誰かが教会へ向かって走り出し、別の誰かが負傷者の受け入れを叫んだ。

 その混乱の中、もう一つの担架が運び込まれてくる。

 

「ミミルさん……」

 

 担架に横たわっていたのは、小人族の少女だった。

 小さな身体は厚い毛布へ包まれ、傷ついた脚には応急処置の布が幾重にも巻かれている。

 意識はあるらしい。

 けれど顔色は土気色に近く、唇も青ざめていた。

 それでもミミルは必死に首を動かし、フレイヴィアの背にいるルキウスを見ようとしている。

 

 その後ろには、リュシアがいた。

 別のハンターへ肩を借り、固定された片足を引きずっている。

 唇は血の気を失い、長い耳も力なく伏せられていた。

 アルナの視線に気づくと、リュシアは一瞬だけ目を伏せる。

 

「……私が、彼を残しました」

 

 その声は、ギルドのざわめきに消えてしまいそうなほど細かった。

 それでも、アルナには届いた。

 

「私が応援を呼びに行くしかありませんでした。けれど、彼は……彼は、ランク2で」

 

 アルナの喉が、小さく鳴る。

 責める言葉が、胸の奥までせり上がった。

 

 ――どうして。

 

 どうして、彼を置いていったのですか。

 どうして、ルキウスさんがそんな場所にいたのですか。

 どうして、また――あの人は。

 

「……っ」

 

 唇が開きかける。

 けれど、その言葉は出てこなかった。

 リュシアの固定された足。

 ミミルの血に濡れた布。

 雪と泥に塗れた救援隊。

 そして、フレイヴィアの背で動かないルキウス。

 どこか一つでも判断を誤っていれば、誰も帰ってこなかったかもしれない。

 

 アルナは拳を握る。

 爪が手袋越しに掌へ食い込んだ。

 

「……今は」

 

 声が震えた。

 それでも、アルナは顔を上げる。

 

「今は、治療が先です」

 

 泣き出しそうな少女の声を押し込めた、受付嬢の声だった。

 リュシアは何かを言おうとした。

 けれど言葉にはできず、ただ深く頭を下げる。

 フレイヴィアはそれを振り返ることなく、ルキウスを背負ったままギルドを出た。

 

 外は、まだ白かった。

 雪は弱まり始めている。

 けれど、吹き抜ける風は冷たい。

 ギルドから教会へ続く石畳を、職員とハンターたちが先導して走る。

 通りを歩いていた者たちは何事かと振り返り、血に濡れたフードの少年を見るなり、息を呑んで道を空けた。

 

 アルナは、その後ろを走った。

 何度も足がもつれそうになる。

 息も切れ、視界も少しずつ滲んでいく。

 それでも止まれなかった。

 フレイヴィアの背にいるルキウスから目を離した瞬間、彼がどこかへ消えてしまうような気がした。

 

「ルキウスさん……」

 

 名前を呼んでも、返事はない。

 いつもなら、困ったように笑うはずだった。

 大丈夫です、と言うはずだった。

 本当に? と聞けば、本当に本当です、と少し慌てて答えるはずだった。

 

「返事を、してください……」

 

 掠れた声だけが、冷たい風へ溶けていった。

 

 ◆

 

 教会の扉の前には、すでにセラフィーンが立っていた。

 白と淡青の衣に、水紋を描いた刺繍。

 普段は柔らかな空気を纏う彼女の表情から、その穏やかさは消えている。

 深い湖のような青い瞳が、フレイヴィアの背にいるルキウスを捉えた。

 ほんの僅かに、その目が揺れる。

 けれど――それも一瞬だった。

 

「個室へ」

 

 短く告げ、すぐに踵を返す。

 

「清潔布、温石、止血薬を。体温が落ちています。急いでください」

「はい!」

「補助に二人。残りはミミルさんとリュシアさんの処置へ。重傷者を優先します」

 

 教会の者たちが慌ただしく動き出す。

 扉が開かれ、奥の廊下へ道が作られた。

 フレイヴィアはルキウスを背負ったまま、セラフィーンのあとへ続く。

 アルナも中へ入った。

 そのまま個室へ続こうとして――扉の前で、セラフィーンに止められる。

 

「アルナさん」

 

 優しい声だった。

 けれど、ここから先へは通せないと告げる声でもあった。

 

「ここから先は、治療です」

「でも……!」

 

 アルナは扉の向こうを見る。

 フレイヴィアが、寝台へルキウスを下ろしていた。

 その身体は糸が切れた人形のように力がなく、フードの奥からは浅い呼吸だけが、かろうじて聞こえている。

 

「お願い、します。私は邪魔しません。だから――」

「アルナ」

 

 フレイヴィアが呼んだ。

 短い一言に、アルナは息を詰める。

 フレイヴィアは振り返らなかった。

 ルキウスから外した外套を教会の者へ預け、寝台から落ちないよう身体の位置を整えている。

 手の動きは乱れていない。

 けれど、竜族の尾の先だけが僅かに床を叩いていた。

 

「待て」

「……っ」

「余も待つ」

 

 それ以上は言わなかった。

 アルナは唇を噛む。

 閉じかけた扉の向こうへ、もう一度だけ目を向けた。

 

「……お願いします」

 

 セラフィーンが頷く。

 厚い木の扉が、音を立てて閉じた。

 その向こうへ、ルキウスの姿が消える。

 

 ◆

 

 個室の中は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。

 寝台の上で、ルキウスは動かない。

 セラフィーンはすぐに、濡れた防寒具を切り開いた。

 裂けた布の下から、赤黒く滲んだ傷が現れる。

 肩に、腕。脇腹から太腿にかけても、浅い傷と深い傷が入り交じっていた。

 身体のあちこちには大きな打撲が浮かび、呼吸は浅い。

 脈も弱く、冷えきった肌からは血の気が失われている。

 

「……ひどい」

 

 思わず漏れた声に、以前、自分が彼へ伝えた言葉が重なった。

 

『痛みに耐えられることと、身体が壊れないことは違います』

 

 あの時、ルキウスは少し困ったように笑っていた。

 今、その身体は――言葉の通りに壊れかけている。

 セラフィーンは奥歯を噛み、すぐに表情を戻した。

 怒りも、悲しみも、今は必要ない。

 必要なのは、治療だけだ。

 

「温石を脇へ。濡れた布を替えます。止血を先に」

「はい」

「水術を通します。私の魔力に合わせてください」

「分かりました」

 

 補助の者たちが動く。

 淡い水色の光が、セラフィーンの手のひらへ宿った。

 祈りの形を取った光が、傷口から静かに身体の内側へ流れ込んでいく。

 

「……?」

 

 セラフィーンの眉が、僅かに寄った。

 

 通る。

 魔力が、あまりにも素直に通っていく。

 

 以前、軽い治療をした時にも違和感はあった。

 魔力の通りが良い。

 珍しい体質なのかもしれない――その程度に考えていた。

 けれど、今回は違う。

 傷が深いからこそ、はっきりと分かった。

 治癒の力が、抵抗らしい抵抗もなく、ルキウスの身体へ落ちていく。

 竜族が持つ燃えるような熱もない。

 獣人族の濃い生命力が押し返してくる感覚もない。

 エルフの森に似た巡りも、天使族の水へ響く気配も。

 夜魔族の甘い魔性も、精霊族の澄んだ流れも、小人族の土と鉄を思わせる重さもなかった。

 

「何も……当てはまらない」

 

 セラフィーンの手が、一瞬だけ止まりかける。

 すぐに指先へ力を戻した。

 今は考える時ではない。

 何者であろうと、この人は患者だ。

 

「出血が多いです。右側を押さえてください」

「はい」

 

 処置を続ける。

 水色の光を深く流し、身体の内側にある損傷を探る。

 けれど――顔を覆うフードが、治療の妨げになっていた。

 雪と血で濡れた布が頬へ張りつき、首元の確認を邪魔している。

 顔色が見えない。

 呼吸の状態も、首筋の脈も、魔力の巡りも正確には分からない。

 セラフィーンはフードへ手を伸ばし、止めた。

 

「…………」

 

 彼が、人前でフードを外さないことは知っている。

 ギルド登録の時も。

 教会へ運ばれてきた時も。

 治療を受けた時でさえ、ルキウスはそれを外さなかった。

 理由を尋ねたことはない。

 けれど、それが彼にとって大切なものだということくらいは分かっている。

 

 それを、外す。

 本人の許可もなく。

 意識を失っている彼から。

 

「……っ」

 

 指先が僅かに震えた。

 けれど、ルキウスの呼吸は浅い。

 迷っている時間はなかった。

 

「……ごめんなさい」

 

 小さく呟き、セラフィーンはフードを外した。

 濡れた布が滑り落ちる。

 隠されていた顔が、教会の灯りの下へ晒された。

 

「…………」

 

 セラフィーンは息を止めた。

 そこにあったのは、ただの少年の顔だった。

 青ざめ、血に汚れ、意識を失った傷だらけの少年。

 けれど、同時に――どの種族にも当てはまらなかった。

 角はない。

 翼も、鱗もない。

 獣の耳や尾もなく、耳はエルフのように尖っていない。

 小人族とは骨格が違い、天使族でも、夜魔族でも、精霊族でもない。

 

 何もない。

 何も、持っていない。

 だからこそ――あまりにも異質だった。

 

「セラフィーン様?」

 

 補助の一人が、不安げに声を掛ける。

 セラフィーンは瞬きをし、ルキウスの傷へ視線を戻した。

 

「治療を続けます」

 

 声は震えていなかった。

 ――震わせなかった。

 

「顔色を確認。呼吸を補助します。清潔布を」

「はい」

 

 彼が何者なのか。

 それは今、考えることではない。

 目の前にいるのは、死にかけている一人のハンターだ。

 セラフィーンは両手を重ね、祈るように魔力を流す。

 水色の光が、ルキウスの胸元を淡く包んだ。

 

「戻ってきてください……」

 

 傷を塞ぐ。

 血を止める。

 冷えきった身体へ、少しずつ熱を戻していく。

 内側の損傷を探り、裂けたものを繋ぎ、壊れかけた呼吸を支える。

 時間の感覚が消えていった。

 外で誰が待っているのかも、自分が何を知ってしまったのかも、一瞬ごとに遠ざかっていく。

 

「……まだです」

 

 弱くなりかけた光へ、さらに魔力を重ねる。

 ただ、脈を追う。

 呼吸を拾う。

 消えかけた命を――繋ぐ。

 

「あなたは、まだ終わっていません」

 

 どれほどの時間が過ぎたのだろう。

 治療を終えた時、セラフィーンの額には汗が滲んでいた。

 ルキウスの呼吸は、まだ浅い。

 顔色も悪い。

 けれど先ほどまで消えかけていた命の灯は、細く、かすかに――それでも確かに残っている。

 

「……よかった」

 

 セラフィーンは深く息を吐いた。

 寝台の横に置かれていた新しい布を手に取る。

 血と雪で濡れたフードは、もう使えない。

 代わりの布を、顔へかからないように。

 それでも外から見えすぎないよう、丁寧に整えた。

 ルキウスが目を覚ました時、ほんの少しでも安心できるように。

 

「……ごめんなさい」

 

 もう一度、セラフィーンは小さく言った。

 その声は、誰にも聞こえなかった。

 

 ◆

 

 個室の扉が開いた。

 廊下で待っていたアルナが、弾かれたように顔を上げる。

 壁際に立っていたフレイヴィアも腕を解き、視線だけをセラフィーンへ向けた。

 二人の顔を見て、セラフィーンは一度だけ息を整える。

 最初に伝えるべきことは、決まっていた。

 

「命は、繋ぎました」

 

 アルナの膝が崩れかける。

 近くにいた教会の者が支えようとしたけれど、彼女は自分の足で踏みとどまった。

 両手を胸の前で握りしめ、今にも泣き出しそうな顔でセラフィーンを見つめる。

 

「目は……覚ましますか?」

「今はまだ、分かりません。ですが、峠は越えました」

「……っ」

 

 アルナの口から、声にならない息が漏れた。

 一粒の涙が頬を伝う。

 それでも彼女は、すぐに手の甲で拭った。

 

「会えますか」

「今は安静が必要です。しばらくは、面会も控えてください」

「……はい」

 

 聞き分けのいい返事だった。

 けれど、猫耳は力なく伏せられている。

 セラフィーンは、ほんの少し表情を和らげた。

 

「ミミルさんとリュシアさんも、処置を続けています。命に関わる状態は脱しました」

「よかった……」

 

 アルナが小さく呟く。

 その声には安堵と、それでも晴れない不安が混じっていた。

 

「アルナさん。少し、お休みください。ずっと立っていたのでしょう」

「いえ、私は」

「受付嬢として動くためにも、です」

 

 静かに言われ、アルナは言葉を詰まらせる。

 それから閉ざされた個室の扉を見つめ、小さく頷いた。

 

「……分かりました。少しだけ」

 

 教会の者に案内され、アルナは待合室へ向かう。

 何度も振り返りながら。

 閉ざされた扉の中へ、視線を残すように。

 その背中が廊下の角を曲がって見えなくなるまで、セラフィーンは見送った。

 それから、処置記録を取りに行こうと足を動かす。

 

「待て」

 

 低い声が、廊下へ落ちた。

 セラフィーンは足を止める。

 振り返ると、フレイヴィアが壁際に立っていた。

 いつものように背筋は伸び、表情も崩れていない。

 けれど、その黄金の瞳には、雪原で大剣を振るっていた時とは違う鋭さがあった。

 フレイヴィアは閉ざされた扉を見る。

 その向こうで眠る少年を、見透かそうとするように。

 

「――ルキウスは、何者だ」

 

 セラフィーンは、すぐには答えなかった。

 廊下の灯りが静かに揺れる。

 遠くから、別の負傷者を運ぶ足音が聞こえた。

 水を張った器の音。

 布を洗う音。

 教会の者たちが交わす低い声。

 その中で――二人の間だけが、冷えていた。

 

「分かりません」

「分からぬ、か」

「はい」

 

 セラフィーンは自分の手を見る。

 まだ治療の感覚が残っていた。

 ルキウスの命を繋いだ手応え。

 魔力が抵抗なく通り抜けた、底の見えない違和感。

 

「少なくとも、私の知る七つの種族のどれにも当てはまりません」

 

 その言葉を聞いても、フレイヴィアは驚かなかった。

 ただ、深く沈黙する。

 まるで、その答えをどこかで予想していたように。

 セラフィーンは静かに問い返した。

 

「フレイヴィア様は、何かをご存じなのですか」

「知っている、とは言えぬ」

 

 フレイヴィアは腕を組み直す。

 その指先が、ほんの僅かに腕へ食い込んでいた。

 

「ただ、古い話にあった名を聞いたことがある」

「古い話、ですか」

 

 フレイヴィアは一度、目を伏せた。

 竜族は長命だ。

 力を重んじ、血を重んじ、受け継がれた記憶を軽んじない。

 真偽の定かでない古い話であっても、完全には消えず、火の奥へ残り続けることがある。

 その中に――そんな種族の名があった。

 角も翼も鱗も持たず、魔力も薄い。

 ただ短く生きる、弱い種族。

 脆く、弱く。

 とうの昔に消えたとされる存在。

 

「……人間」

「人間、ですか?」

 

 言葉そのものは、セラフィーンも聞いたことがある。

 教会に残る古い童話。

 子どもへ語る寓話。

 弱く、短命で、かつて世界のどこかにいたかもしれない遠い種族。

 

「人間って、あのおとぎ話の?」

「余も詳しくは知らぬ。竜族の古い者が、酒の席で一度だけ口にしたのを聞いた程度だ。とうに滅んだ、弱き種族の名だと」

「滅んだ種族……」

 

 セラフィーンは閉ざされた扉を見る。

 その向こうで、ルキウスが眠っている。

 血を流し、傷つき、今にも消えそうになりながら――それでも誰かを背負って帰ろうとした少年。

 あれを、ただ童話の中にある種族の名で呼んでよいのだろうか。

 そんな迷いが胸をよぎった。

 

「ですが、ルキウスさんは」

「あやつは何も知らぬ顔をしていた」

 

 フレイヴィアが言う。

 雪原で見たのだろう。

 フードが外れた、その一瞬。

 誰よりも先に、彼女が見た。

 

「自分が何者かなど、考えたこともない顔だ。少なくとも、余にはそう見えた」

「……はい」

 

 セラフィーンも頷いた。

 

「ルキウスさんは、自分のことを普通の人だと思っています」

「普通の人、か」

 

 フレイヴィアの口元が、ほんの僅かに歪む。

 笑ったのではない。

 あまりにも皮肉な響きに、そうするしかなかったような表情だった。

 

「雪原で、フードが外れた」

 

 フレイヴィアは続ける。

 

「余がかけ直した。ギルドへ戻るまで、誰にも見せぬように」

「……ありがとうございます」

「礼を言われることではない」

 

 短く返し、フレイヴィアは閉ざされた扉へ目を戻した。

 

「問題は、これをどう扱うかだ」

 

 廊下の空気が、さらに重くなる。

 セラフィーンはすぐに答えられなかった。

 本来ならば、報告すべきなのかもしれない。

 七種族のどれにも当てはまらない存在。

 滅んだおとぎ話の種族かもしれない少年。

 しかも、本人はそれを知らない。

 教会の上層部へ伝えれば、保護されるかもしれない。

 けれど――保護という名の監視になるかもしれない。

 ギルドへ正式に報告すれば、調査されるだろう。

 場合によっては彼は、ハンターではなく何か別のものとして扱われるかもしれない。

 

 患者ではなく。

 少年ではなく。

 ルキウスではなく。

 

「このことは、報告すべきなのでしょうか」

 

 セラフィーンが尋ねる。

 フレイヴィアはしばらく沈黙し、やがて低く答えた。

 

「今はするな」

「よろしいのですか」

「よいわけがなかろう」

 

 フレイヴィアの声は硬かった。

 怒っているのではない。

 迷いを踏み潰し、無理やり選び取ったような硬さだった。

 

「だが、今報告すれば、あやつは患者でもハンターでもなくなる」

「…………」

「何か、別のものとして扱われる」

 

 その言葉は、セラフィーンの胸へ深く落ちた。

 彼女は治療者だ。

 目の前で倒れた者を、種族や立場で分けるために祈りを捧げているわけではない。

 ルキウスが何者であれ、先ほどまで彼は死にかけていた。

 そしてセラフィーンは、その命を繋いだ。

 

「……ルキウスさんは、患者です」

 

 静かに告げると、フレイヴィアが頷く。

 

「そして、ハンターだ」

 

 二人の間に、短い沈黙が落ちた。

 それは、約束に近かった。

 セラフィーンは少し迷ってから、問いかける。

 

「アルナさんには……?」

 

 フレイヴィアは、すぐには答えなかった。

 アルナの顔が思い浮かんだのだろう。

 ギルドでルキウスを見た瞬間、崩れかけた受付嬢。

 何度も彼の名を呼び、泣きそうになりながらも職員として動こうとしていた少女。

 彼女が知れば、きっと抱え込む。

 隠されたことに傷つくかもしれない。

 それでも、今はまだ。

 

「言うな」

「……はい」

「今のあやつには、抱えさせるな」

 

 セラフィーンは目を伏せる。

 隠すことは、優しさだけではない。

 時に、それは誰かを傷つける。

 けれど今、眠るルキウスの正体を広げることで、誰が救われるのか分からなかった。

 少なくとも――彼自身は救われない。

 

 フレイヴィアは扉の前まで歩いた。

 開けはしない。

 ただ、その向こうにいる少年の気配を確かめるように立ち止まる。

 

「ルキウスは、しばらく目を覚まさぬか」

「はい。命は繋ぎましたが、消耗が大きすぎます。数日は安静が必要です」

「そうか」

 

 短い返事だった。

 けれど、フレイヴィアの尾が一度だけ床を打つ。

 静かな怒り。

 安堵。

 それから、どうしようもない苛立ち。

 すべてを押し殺すように、彼女は扉越しへ呟いた。

 

「勝手に終わるなと言っただろう」

 

 セラフィーンは、その横顔を見た。

 強い人だと思っていた。

 誰よりも堂々と立ち、迷わない人だと思っていた。

 けれど今、その横顔には、ほんの少しだけ年相応の少女のような疲れが滲んでいる。

 セラフィーンは静かに目を伏せ、祈りの形に指を組んだ。

 

 個室の中で、ルキウスは眠っている。

 自分が何者なのかも知らずに。

 自分の名が、誰かの古い記憶を揺らしたことも知らずに。

 ただ浅く――それでも確かに、息をしている。

 

 その夜、ルキウスは命を繋いだ。

 そして同時に、彼自身も知らない問いを、二人の少女に残した。

 

 





 ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

 感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。
 少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひよろしくお願いいたします
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。