駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
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ギルドの扉が、乱暴に開いた。
吹き込んだ雪風に、入口近くにいたハンターたちが一斉に振り返る。白い息。濡れた外套。凍りついた靴音。救援に出ていた者たちが戻ってきたのだと、その場にいた誰もがすぐに理解した。
けれど、安堵の声は上がらなかった。
先頭に立っていたのは、フレイヴィアだった。
黒髪に雪を散らし、黄金の瞳を鋭く細めた竜族の姫。普段ならば、彼女がギルドへ足を踏み入れただけで、周囲の視線は自然と集まる。だがこの時、誰も彼女自身を見てはいなかった。
見ていたのは、その背に負われた少年だった。
ルキウス。
彼は、動かなかった。
両腕は力なく垂れ、防寒具は裂け、雪と血で重く濡れている。足元からぽたぽたと落ちた赤い雫が、ギルドの床に小さな染みを作った。顔は深く被せられたフードに隠れていて、表情は見えない。
雪原で外れたはずのそれは、今は不自然なほどしっかりと被せ直されていた。
誰がそうしたのか。
その理由を、この場で問える者はいなかった。
ギルドの喧噪が、音を失った。
受付カウンターの奥で、書類を握りしめていたアルナが、ゆっくりと顔を上げる。
「……ルキウス、さん?」
小さな声だった。
震えるような、信じたくないものを見た声だった。
次の瞬間、アルナはカウンターを飛び出していた。椅子が倒れる音がした。近くにいた職員が驚いて手を伸ばしたが、止められなかった。
「ルキウスさん!」
アルナはフレイヴィアの前で足を止めた。
触れようとして、手が止まる。
どこに触れていいのか分からなかった。肩も、腕も、胸元も、全部が血と雪で濡れている。呼吸を確かめようと伸ばした指先が、彼の冷えた外套に触れる直前で震えた。
「息は……っ、意識はありますか? どこを、どこを怪我して――」
「生きている」
フレイヴィアの声が落ちた。
短く、低く、余計なものを削ぎ落とした声だった。
アルナの耳がぴくりと震える。
フレイヴィアはルキウスを背負ったまま、まっすぐ奥へ進む。彼女の肩にも腕にも、ルキウスの血が移っていた。それを拭う様子もなく、ただ前を見る。
「だが、急げ」
その一言で、止まっていた空気が動き出した。
「教会へ連絡!」
「もう送っています!」
「担架を!」
「いや、このまま運ぶ! 道を空けろ!」
ギルド職員たちが一斉に動く。机が寄せられ、扉の近くにいたハンターたちが壁際へ下がる。誰かが外へ駆け出し、誰かが負傷者の受け入れを叫ぶ。
その混乱の中、別の担架が運び込まれてきた。
ミミルだった。
小さな身体は毛布に包まれ、脚には応急処置の布が幾重にも巻かれている。意識はあるらしいが、顔色は土気色に近かった。それでも彼女は、担架の上から必死に首を動かし、ルキウスの方を見ようとしていた。
その後ろでは、リュシアが別のハンターに肩を借りている。足は固定され、唇は血の気を失っていた。
アルナの視線が、そちらへ動く。
リュシアは一瞬だけ目を伏せた。
「……私が、彼を残しました」
その声は、か細かった。
ギルドのざわめきの中でも、アルナには確かに届いた。
「私が応援を呼びに行くしか、ありませんでした。けれど、彼は……彼は、ランク2で」
アルナの喉が、小さく鳴った。
責める言葉が、胸の奥までせり上がった。
どうして。
どうして彼を置いていったんですか。
どうしてルキウスさんがそんな場所に。
どうして、そんなことを。
けれど、その言葉は口から出なかった。
リュシアの足。
ミミルの傷。
救援隊の顔。
そして、フレイヴィアの背で動かないルキウス。
どこか一つでも間違っていたら、誰も帰ってこなかったかもしれない。
アルナは拳を握った。
爪が手袋越しに掌へ食い込む。
「……今は」
声が震えた。
それでも、アルナは顔を上げる。
「今は、治療が先です」
受付嬢としての声だった。
泣き出しそうな少女の声を、無理やり押し殺した声だった。
リュシアは何かを言おうとして、言えなかった。ただ深く、頭を下げる。
フレイヴィアはそれを見届けることもなく、ルキウスを背負ったままギルドを出た。
外はまだ白かった。
雪は弱まっていたが、風は冷たい。ギルドから教会へ続く道を、職員とハンターたちが先導する。通りの人々が何事かと振り返り、血に濡れたフードの少年を見るなり、息を呑んで道を空けた。
アルナはその後ろを走った。
何度も足がもつれそうになる。視界が滲む。それでも止まらなかった。フレイヴィアの背に負われたルキウスから、目を離したら消えてしまうような気がした。
「ルキウスさん……」
名前を呼んでも、返事はない。
いつもなら、困ったように笑うはずだった。
大丈夫です、と言うはずだった。
本当に? と聞けば、本当に本当です、と少し慌てて答えるはずだった。
けれど、今は何も返ってこない。
教会の扉の前には、すでにセラフィーンが立っていた。
白と淡青の衣。水紋の刺繍。普段はやわらかな空気を纏う彼女の表情から、その穏やかさは消えていた。深い湖のような青い瞳が、フレイヴィアの背にいるルキウスを見た瞬間、ほんのわずかに揺れる。
だが、それも一瞬だった。
「個室へ」
セラフィーンはすぐに指示を出した。
「清潔布、温石、止血薬を。体温が落ちています。急いでください」
「はい!」
「補助に二人。残りはミミルさんとリュシアさんの処置へ。重傷者を優先します」
教会の者たちが慌ただしく動く。
フレイヴィアはルキウスを背負ったまま、セラフィーンの案内で奥へ進んだ。アルナも続こうとしたが、個室の前でセラフィーンが振り返る。
「アルナさん」
優しい声だった。
けれど、拒む声だった。
「ここから先は、治療です」
「でも……!」
アルナは扉の向こうを見た。
フレイヴィアが、寝台へルキウスを下ろしている。彼の身体は糸が切れた人形のように力がなく、フードの奥からは浅い呼吸だけがかろうじて聞こえた。
「お願い、します。私は、邪魔しません。だから」
「アルナ」
フレイヴィアが言った。
短い呼びかけだった。
アルナは息を詰める。
フレイヴィアは振り返らない。寝台に横たえたルキウスの外套を、教会の者へ預ける。その手の動きは乱れていなかった。だが、尾の先だけが、わずかに床を叩いていた。
「待て」
「……っ」
「余も待つ」
それ以上は言わなかった。
アルナは唇を噛む。
それから、小さく頷いた。
「……お願いします」
セラフィーンは頷き、個室の扉を閉めた。
厚い木の扉が、音を立てて閉じる。
その向こうに、ルキウスの姿が消えた。
個室の中は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。
寝台の上で、ルキウスは動かない。
セラフィーンはまず、濡れた防寒具を切り開いた。裂けた布の下から、赤黒く滲んだ傷が現れる。肩、腕、脇腹、太腿。浅いものも深いものも混じっている。打撲も多い。低体温。失血。呼吸は浅く、脈も弱い。
ひどい。
そう思った瞬間、以前自分が言った言葉が脳裏をよぎった。
痛みに耐えられることと、体が壊れないことは違います。
あの時、彼は少し困ったように笑っていた。
今、その身体は言葉の通りに壊れかけている。
セラフィーンは奥歯を噛み、すぐに表情を戻した。
「温石を脇へ。布を替えます。止血を先に」
「はい」
「水術を通します。合わせてください」
補助の者が動く。
淡い水色の光が、セラフィーンの手のひらに宿る。それは祈りの形を取り、傷口へと静かに流れ込んでいった。
だが、すぐにセラフィーンは眉を寄せた。
通る。
あまりにも、通る。
以前、軽い治療をした時にも違和感はあった。魔力の通りが良い。珍しい体質かもしれない。そう思っていた。
けれど、今回は違った。
傷が深いからこそ、分かる。
治癒の力が、抵抗らしい抵抗もなく、彼の身体の内側へ落ちていく。竜族のような熱もない。獣人族のような濃い生命力の跳ね返りもない。エルフのような森に似た魔力の巡りも、天使族の水の響きも、淫魔族の甘い魔性も、精霊族の澄んだ気配も、小人族の重く細かな土と鉄の感覚もない。
ない。
何も、当てはまらない。
セラフィーンは一瞬だけ手を止めかけた。
すぐに自分を叱る。
今は考える時ではない。
この人は、患者だ。
「出血が多いです。右側、押さえてください」
「はい」
処置は続く。
だが、フードが邪魔だった。
ルキウスの顔は深く覆われている。雪と血で濡れた布が頬に張りつき、首元の確認を妨げていた。顔色が見えない。呼吸の状態が見えない。首筋の脈も、魔力の流れも、正確には分からない。
セラフィーンはフードへ手を伸ばし、止めた。
彼が、人前でフードを外さないことは知っている。
ギルド登録の時も、教会に来た時も、治療を受けた時でさえ、ルキウスはそれを外さなかった。理由を尋ねることはしなかった。けれど、それが彼にとって大切なものだということくらいは、分かっている。
それを、外す。
本人の許可もなく。
眠っている彼から。
セラフィーンの指先が、わずかに震えた。
だが、ルキウスの呼吸は浅い。
迷っている時間はない。
「……ごめんなさい」
小さく呟いて、セラフィーンはフードを外した。
布が滑り落ちる。
隠されていた顔が、灯りの下に晒された。
セラフィーンは息を止めた。
そこにあったのは、ただの少年の顔だった。
青ざめ、血に汚れ、意識を失った、傷だらけの少年。
だが、同時に。
どの種族にも、当てはまらなかった。
角はない。
翼もない。
鱗もない。
獣の耳も、尾もない。
エルフのように尖った耳ではない。
小人族のような骨格でもない。
天使族でも、淫魔族でも、精霊族でもない。
ただ、何もない。
何も持たない。
だからこそ、あまりにも異質だった。
「セラフィーン様?」
補助の一人が、不安げに声をかける。
セラフィーンは瞬きをした。
視線を戻す。
「治療を続けます」
声は震えていなかった。
震わせなかった。
「顔色を確認。呼吸を補助します。清潔布を」
「はい」
彼が何者なのか。
それは、今考えることではない。
今、目の前にいるのは、死にかけている一人のハンターだ。
セラフィーンは両手を重ね、祈るように魔力を流した。
水の光が、ルキウスの胸元を淡く包む。
傷が塞がる。血が止まる。冷えきった身体へ、少しずつ熱を戻していく。内側の損傷を探り、裂けたものを繋ぎ、壊れかけた呼吸を支える。
時間の感覚が消えた。
外で誰が待っているのかも、一瞬ごとに遠ざかっていく。
ただ、脈を追う。
呼吸を拾う。
命を、繋ぐ。
治療が終わった時、セラフィーンの額には汗が滲んでいた。
ルキウスの呼吸はまだ浅い。
顔色も悪い。
けれど、先ほどまで消えかけていた命の灯は、細く、かすかに、しかし確かに残っていた。
セラフィーンは深く息を吐く。
それから、寝台の横に置かれていた新しい布を取った。
血と雪で濡れてしまったフードは使えない。代わりに清潔な布を、彼の顔にかからないよう、けれど外から見えすぎないように整える。
彼が目を覚ました時。
ほんの少しでも、安心できるように。
「……ごめんなさい」
もう一度、セラフィーンは小さく言った。
その声は、誰にも聞こえなかった。
個室の扉が開いた。
外にいたアルナが、弾かれたように顔を上げる。
フレイヴィアも壁際から身を起こした。腕を組んだ姿勢のまま、視線だけがセラフィーンを捉える。
セラフィーンは二人を見た。
最初に言うべきことは、決まっていた。
「命は、繋ぎました」
アルナの膝が崩れかける。
近くにいた教会の者が支えようとしたが、アルナは自分で踏みとどまった。両手を胸の前で握りしめ、今にも泣き出しそうな顔でセラフィーンを見つめる。
「目は……覚ましますか?」
「今はまだ、分かりません。けれど、峠は越えました」
「……っ」
アルナは声にならない息を漏らした。
涙が一粒、頬を伝う。
それでも彼女は、すぐに拭った。
「会えますか」
「今は安静が必要です。しばらくは、面会も控えてください」
「……はい」
聞き分けのいい返事だった。
けれど、耳は力なく伏せられている。
セラフィーンはほんの少し表情を和らげた。
「ミミルさんとリュシアさんも、処置を続けています。命に関わる状態は脱しました」
「よかった……」
アルナは小さく呟いた。
その声には安堵と、それでも晴れない不安が混じっていた。
「アルナさん。少し、お休みください。ずっと立っていたのでしょう」
「いえ、私は」
「受付嬢として動くためにも、です」
セラフィーンが静かに言うと、アルナは言葉を詰まらせた。
やがて、小さく頷く。
「……分かりました。少しだけ」
教会の者に案内され、アルナは個室の前を離れていく。何度も振り返りながら、それでも奥の待合室へ向かった。
その背中が角を曲がって見えなくなるまで、セラフィーンは見送った。
それから、処置記録を取りに行こうと足を動かす。
「待て」
低い声が、廊下に落ちた。
セラフィーンは足を止める。
振り返ると、フレイヴィアが壁際に立っていた。
いつものように背筋は伸び、表情は崩れていない。だが、その黄金の瞳には、雪原で刃を振るっていた時とは別の鋭さがあった。
彼女は閉じた扉を見る。
その向こうで眠る少年を、見るように。
「――あれは、ルキウスは何者だ」
セラフィーンは、すぐには答えなかった。
廊下の灯りが、静かに揺れる。
遠くから、別の負傷者を運ぶ足音が聞こえた。水を張った器の音。布を洗う音。教会の者たちの低い声。
その中で、二人の間だけが冷えていた。
「分かりません」
セラフィーンは答えた。
フレイヴィアの目が、わずかに細くなる。
「分からぬ、か」
「はい」
セラフィーンは自分の手を見る。
まだ、治療の余韻が残っている。ルキウスの命を繋いだ感覚。魔力が抵抗なく通り抜けた、あの底の見えない違和感。
「少なくとも、私の知る七つの種族のどれにも当てはまりません」
その言葉を聞いても、フレイヴィアは驚かなかった。
ただ、深く沈黙した。
まるで、その答えをどこかで予想していたように。
セラフィーンは静かに問い返す。
「フレイヴィア様は、何かをご存じなのですか」
「知っている、とは言えぬ」
フレイヴィアは腕を組み直した。
その指先が、ほんのわずかに腕へ食い込んでいる。
「ただ、古い話にあった名を、聞いたことがある」
「古い話?」
フレイヴィアは一度、目を伏せた。
竜族は長命だ。
力を重んじ、血を重んじ、記憶と伝承を軽んじない。真偽の定かでない古い話であっても、完全に消えず、火の奥に残り続けることがある。
その中に、そんな名があった。
角も翼も鱗も持たず、魔力も薄く、ただ短く生きる弱い種族。
弱く、脆く、とうの昔に消えたとされるもの。
フレイヴィアは低く呟いた。
「……人間」
セラフィーンは首を傾げた。
「人間、ですか?」
言葉そのものは、聞いたことがある。
教会の古い童話。子どもに語る寓話。弱く、短命で、世界のどこかにいたかもしれない遠い種族。
それくらいの認識だった。
「人間って、あの、おとぎ話の?」
「余も詳しくは知らぬ」
フレイヴィアは言った。
「竜族の古い者が、酒の席で一度だけ口にしたのを聞いた程度だ。とうに滅んだ、弱き種族の名だと」
「滅んだ種族……」
セラフィーンは閉じた扉を見る。
その向こうで、ルキウスが眠っている。
血を流し、傷つき、今にも消えそうになりながら、それでも誰かを背負って帰ろうとした少年。
あれを、ただの童話の名で呼んでいいのか。
そんな迷いが胸をよぎった。
「ですが、ルキウスさんは」
「あやつは何も知らぬ顔をしていた」
フレイヴィアが言った。
雪原で見たのだろう。
フードが外れた、その一瞬。
誰より先に、彼女が見た。
「自分が何者かなど、考えたこともない顔だ。少なくとも、余にはそう見えた」
「……はい」
セラフィーンも頷いた。
「ルキウスさんは、自分のことを普通の人だと思っています」
「普通の人、か」
フレイヴィアの口元が、ほんのわずかに歪んだ。
笑ったのではない。
あまりにも皮肉な響きに、そうするしかなかったような表情だった。
「雪原で、フードが外れた」
フレイヴィアは続ける。
「余がかけ直した。ギルドへ戻るまで、誰にも見せぬように」
セラフィーンはそこで、ギルドに運び込まれた時のルキウスを思い出した。
不自然なほど深く被せられていたフード。
あれは、偶然ではなかった。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
フレイヴィアは短く返した。
「問題は、これをどう扱うかだ」
廊下の空気が、さらに重くなる。
セラフィーンはすぐに答えられなかった。
本来なら、報告すべきなのかもしれない。
七種族のどれにも当てはまらない存在。
滅んだおとぎ話の種族かもしれない少年。
しかも本人はそれを知らない。
教会の上層部に伝えれば、保護されるかもしれない。
けれど、保護という名の監視になるかもしれない。
ギルドに正式報告すれば、調査されるかもしれない。
場合によっては、彼はハンターではなく、何か別のものとして扱われるかもしれない。
患者ではなく。
少年ではなく。
ルキウスではなく。
「このことは、報告すべきなのでしょうか」
セラフィーンが言うと、フレイヴィアはしばらく沈黙した。
そして、低く答える。
「今はするな」
「よろしいのですか」
「よいわけがなかろう」
フレイヴィアの声は硬かった。
怒りではない。
迷いを踏み潰すような硬さだった。
「だが、今報告すれば、あやつは患者でもハンターでもなくなる」
セラフィーンの指が、わずかに動く。
「何か、別のものとして扱われる」
その言葉は、セラフィーンの胸に深く落ちた。
彼女は治療者だ。
目の前で倒れた者を、種族や立場で分けるために祈りを捧げているわけではない。
ルキウスが何者であれ、先ほどまで彼は死にかけていた。
そして、彼女はその命を繋いだ。
「……ルキウスさんは、患者です」
セラフィーンは静かに言った。
フレイヴィアは頷く。
「そして、ハンターだ」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
それは約束に近かった。
セラフィーンは少し迷ってから、問いかける。
「アルナさんには……?」
フレイヴィアは答えなかった。
アルナの顔が思い浮かんだのだろう。
ギルドで、ルキウスを見た瞬間に崩れかけた受付嬢。
何度も彼の名を呼び、泣きそうになりながらも職員として動こうとしていた少女。
彼女が知れば、きっと抱え込む。
隠されたことに傷つくかもしれない。
それでも、今はまだ。
「言うな」
フレイヴィアは言った。
「今のあやつには、抱えさせるな」
「……はい」
セラフィーンは目を伏せた。
隠すことは、優しさだけではない。
時に、それは誰かを傷つける。
けれど今、眠るルキウスの正体を広げることが、誰を救うのか分からなかった。
少なくとも、彼自身は救われない。
フレイヴィアは扉の方へ歩いた。
開けはしない。
ただ、その前で立ち止まる。
「ルキウスは、しばらく目を覚まさぬか」
「はい。命は繋ぎましたが、消耗が大きすぎます。数日は安静が必要です」
「そうか」
短い返事だった。
だが、フレイヴィアの尾が一度だけ床を打った。
静かな怒り。
安堵。
それから、どうしようもない苛立ち。
それらを全部押し殺すように、彼女は扉越しに呟いた。
「勝手に終わるなと言っただろう」
セラフィーンは、その横顔を見た。
強い人だと思っていた。
誰よりも堂々と立つ人だと思っていた。
けれど今、その横顔には、ほんの少しだけ、年相応の少女のような疲れが滲んでいた。
セラフィーンは静かに目を伏せる。
祈りの形に、指を組んだ。
個室の中で、ルキウスは眠っている。
自分が何者なのかも知らずに。
自分の名が、誰かの古い記憶を揺らしたことも知らずに。
ただ、浅く、けれど確かに息をしている。
その夜、ルキウスは命を繋いだ。
そして同時に、彼自身も知らない問いを、二人の少女に残した。
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