駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
~前回までのあらすじ~
前回は雪山で大型モンスターに遭遇し、絶体絶命のところでフレイヴィアさんに助けてもらったルキウス。今回はその続きからとなります。
◆
ギルドの扉が、乱暴に開いた。
吹き込んだ雪風に、入口近くにいたハンターたちが一斉に振り返る。
白い息に、濡れた外套。凍りついた靴が床を叩き、溶け始めた雪が石床へ黒い跡を残していく。
救援へ向かった者たちが戻ってきた。
誰もが、すぐにそう理解した。
けれど――安堵の声は上がらなかった。
先頭に立っていたのは、フレイヴィアだった。
黒髪に雪を散らし、黄金の瞳を鋭く細めた竜族の姫。
普段なら、彼女がギルドへ足を踏み入れただけで、自然と周囲の視線が集まる。
けれど今、誰も彼女自身を見てはいなかった。
見ていたのは、その背に負われた少年だった。
「……ルキウス?」
誰かの声が、静まり返った大広間へ落ちる。
ルキウスは動かなかった。
両腕は力なく垂れ、防寒具は裂け、雪と血を吸って重く濡れている。
外套の裾から落ちた赤い雫が、一つ、また一つと床へ染みを作った。
顔は深く被せられたフードの奥にあり、表情までは見えない。
雪原で外れたはずのそれは、今は不自然なほどしっかりと被せ直されていた。
誰がそうしたのか。
どうして、そうしたのか。
そんなことを尋ねられる空気ではなかった。
ギルドの喧騒が、音を失う。
受付カウンターの奥で、書類を握っていたアルナがゆっくりと顔を上げた。
「……ルキウス、さん?」
信じたくないものを見つけてしまったような、か細い声だった。
次の瞬間、アルナはカウンターを飛び出していた。
椅子が倒れる。
近くにいた職員が驚いて手を伸ばしたけれど、その指は届かなかった。
「ルキウスさん!」
フレイヴィアの前まで駆け寄り、アルナは足を止める。
触れようとして――その手も止まった。
肩も、腕も、胸元も、どこも血と雪で濡れている。
何をすればいいのか。
どこに触れればいいのか。
呼吸を確かめようと伸ばした指先が、冷えた外套へ触れる寸前で震えた。
「息は……っ、意識はありますか? どこを、どこを怪我して――」
「生きている」
フレイヴィアの声が落ちた。
短く、低い。
余計なものをすべて削ぎ落とした声だった。
アルナの猫耳が、ぴくりと震える。
生きている。
その一言だけを確かめるように、唇が僅かに動いた。
「ですが……」
「だが、急げ」
フレイヴィアは立ち止まらない。
ルキウスを背負ったまま、まっすぐ奥へ進んでいく。
彼女の肩にも腕にも、少年の血が移っていた。
それを拭おうともせず、ただ前を見る。
その一言で、止まっていた空気が動き出した。
「教会へ連絡!」
「もう送っています!」
「担架を!」
「いや、このまま運ぶ! 道を空けろ!」
ギルド職員たちが一斉に動く。
机が壁際へ寄せられ、入口近くのハンターたちが左右へ退く。
誰かが教会へ向かって走り出し、別の誰かが負傷者の受け入れを叫んだ。
その混乱の中、もう一つの担架が運び込まれてくる。
「ミミルさん……」
担架に横たわっていたのは、小人族の少女だった。
小さな身体は厚い毛布へ包まれ、傷ついた脚には応急処置の布が幾重にも巻かれている。
意識はあるらしい。
けれど顔色は土気色に近く、唇も青ざめていた。
それでもミミルは必死に首を動かし、フレイヴィアの背にいるルキウスを見ようとしている。
その後ろには、リュシアがいた。
別のハンターへ肩を借り、固定された片足を引きずっている。
唇は血の気を失い、長い耳も力なく伏せられていた。
アルナの視線に気づくと、リュシアは一瞬だけ目を伏せる。
「……私が、彼を残しました」
その声は、ギルドのざわめきに消えてしまいそうなほど細かった。
それでも、アルナには届いた。
「私が応援を呼びに行くしかありませんでした。けれど、彼は……彼は、ランク2で」
アルナの喉が、小さく鳴る。
責める言葉が、胸の奥までせり上がった。
――どうして。
どうして、彼を置いていったのですか。
どうして、ルキウスさんがそんな場所にいたのですか。
どうして、また――あの人は。
「……っ」
唇が開きかける。
けれど、その言葉は出てこなかった。
リュシアの固定された足。
ミミルの血に濡れた布。
雪と泥に塗れた救援隊。
そして、フレイヴィアの背で動かないルキウス。
どこか一つでも判断を誤っていれば、誰も帰ってこなかったかもしれない。
アルナは拳を握る。
爪が手袋越しに掌へ食い込んだ。
「……今は」
声が震えた。
それでも、アルナは顔を上げる。
「今は、治療が先です」
泣き出しそうな少女の声を押し込めた、受付嬢の声だった。
リュシアは何かを言おうとした。
けれど言葉にはできず、ただ深く頭を下げる。
フレイヴィアはそれを振り返ることなく、ルキウスを背負ったままギルドを出た。
外は、まだ白かった。
雪は弱まり始めている。
けれど、吹き抜ける風は冷たい。
ギルドから教会へ続く石畳を、職員とハンターたちが先導して走る。
通りを歩いていた者たちは何事かと振り返り、血に濡れたフードの少年を見るなり、息を呑んで道を空けた。
アルナは、その後ろを走った。
何度も足がもつれそうになる。
息も切れ、視界も少しずつ滲んでいく。
それでも止まれなかった。
フレイヴィアの背にいるルキウスから目を離した瞬間、彼がどこかへ消えてしまうような気がした。
「ルキウスさん……」
名前を呼んでも、返事はない。
いつもなら、困ったように笑うはずだった。
大丈夫です、と言うはずだった。
本当に? と聞けば、本当に本当です、と少し慌てて答えるはずだった。
「返事を、してください……」
掠れた声だけが、冷たい風へ溶けていった。
◆
教会の扉の前には、すでにセラフィーンが立っていた。
白と淡青の衣に、水紋を描いた刺繍。
普段は柔らかな空気を纏う彼女の表情から、その穏やかさは消えている。
深い湖のような青い瞳が、フレイヴィアの背にいるルキウスを捉えた。
ほんの僅かに、その目が揺れる。
けれど――それも一瞬だった。
「個室へ」
短く告げ、すぐに踵を返す。
「清潔布、温石、止血薬を。体温が落ちています。急いでください」
「はい!」
「補助に二人。残りはミミルさんとリュシアさんの処置へ。重傷者を優先します」
教会の者たちが慌ただしく動き出す。
扉が開かれ、奥の廊下へ道が作られた。
フレイヴィアはルキウスを背負ったまま、セラフィーンのあとへ続く。
アルナも中へ入った。
そのまま個室へ続こうとして――扉の前で、セラフィーンに止められる。
「アルナさん」
優しい声だった。
けれど、ここから先へは通せないと告げる声でもあった。
「ここから先は、治療です」
「でも……!」
アルナは扉の向こうを見る。
フレイヴィアが、寝台へルキウスを下ろしていた。
その身体は糸が切れた人形のように力がなく、フードの奥からは浅い呼吸だけが、かろうじて聞こえている。
「お願い、します。私は邪魔しません。だから――」
「アルナ」
フレイヴィアが呼んだ。
短い一言に、アルナは息を詰める。
フレイヴィアは振り返らなかった。
ルキウスから外した外套を教会の者へ預け、寝台から落ちないよう身体の位置を整えている。
手の動きは乱れていない。
けれど、竜族の尾の先だけが僅かに床を叩いていた。
「待て」
「……っ」
「余も待つ」
それ以上は言わなかった。
アルナは唇を噛む。
閉じかけた扉の向こうへ、もう一度だけ目を向けた。
「……お願いします」
セラフィーンが頷く。
厚い木の扉が、音を立てて閉じた。
その向こうへ、ルキウスの姿が消える。
◆
個室の中は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。
寝台の上で、ルキウスは動かない。
セラフィーンはすぐに、濡れた防寒具を切り開いた。
裂けた布の下から、赤黒く滲んだ傷が現れる。
肩に、腕。脇腹から太腿にかけても、浅い傷と深い傷が入り交じっていた。
身体のあちこちには大きな打撲が浮かび、呼吸は浅い。
脈も弱く、冷えきった肌からは血の気が失われている。
「……ひどい」
思わず漏れた声に、以前、自分が彼へ伝えた言葉が重なった。
『痛みに耐えられることと、身体が壊れないことは違います』
あの時、ルキウスは少し困ったように笑っていた。
今、その身体は――言葉の通りに壊れかけている。
セラフィーンは奥歯を噛み、すぐに表情を戻した。
怒りも、悲しみも、今は必要ない。
必要なのは、治療だけだ。
「温石を脇へ。濡れた布を替えます。止血を先に」
「はい」
「水術を通します。私の魔力に合わせてください」
「分かりました」
補助の者たちが動く。
淡い水色の光が、セラフィーンの手のひらへ宿った。
祈りの形を取った光が、傷口から静かに身体の内側へ流れ込んでいく。
「……?」
セラフィーンの眉が、僅かに寄った。
通る。
魔力が、あまりにも素直に通っていく。
以前、軽い治療をした時にも違和感はあった。
魔力の通りが良い。
珍しい体質なのかもしれない――その程度に考えていた。
けれど、今回は違う。
傷が深いからこそ、はっきりと分かった。
治癒の力が、抵抗らしい抵抗もなく、ルキウスの身体へ落ちていく。
竜族が持つ燃えるような熱もない。
獣人族の濃い生命力が押し返してくる感覚もない。
エルフの森に似た巡りも、天使族の水へ響く気配も。
夜魔族の甘い魔性も、精霊族の澄んだ流れも、小人族の土と鉄を思わせる重さもなかった。
「何も……当てはまらない」
セラフィーンの手が、一瞬だけ止まりかける。
すぐに指先へ力を戻した。
今は考える時ではない。
何者であろうと、この人は患者だ。
「出血が多いです。右側を押さえてください」
「はい」
処置を続ける。
水色の光を深く流し、身体の内側にある損傷を探る。
けれど――顔を覆うフードが、治療の妨げになっていた。
雪と血で濡れた布が頬へ張りつき、首元の確認を邪魔している。
顔色が見えない。
呼吸の状態も、首筋の脈も、魔力の巡りも正確には分からない。
セラフィーンはフードへ手を伸ばし、止めた。
「…………」
彼が、人前でフードを外さないことは知っている。
ギルド登録の時も。
教会へ運ばれてきた時も。
治療を受けた時でさえ、ルキウスはそれを外さなかった。
理由を尋ねたことはない。
けれど、それが彼にとって大切なものだということくらいは分かっている。
それを、外す。
本人の許可もなく。
意識を失っている彼から。
「……っ」
指先が僅かに震えた。
けれど、ルキウスの呼吸は浅い。
迷っている時間はなかった。
「……ごめんなさい」
小さく呟き、セラフィーンはフードを外した。
濡れた布が滑り落ちる。
隠されていた顔が、教会の灯りの下へ晒された。
「…………」
セラフィーンは息を止めた。
そこにあったのは、ただの少年の顔だった。
青ざめ、血に汚れ、意識を失った傷だらけの少年。
けれど、同時に――どの種族にも当てはまらなかった。
角はない。
翼も、鱗もない。
獣の耳や尾もなく、耳はエルフのように尖っていない。
小人族とは骨格が違い、天使族でも、夜魔族でも、精霊族でもない。
何もない。
何も、持っていない。
だからこそ――あまりにも異質だった。
「セラフィーン様?」
補助の一人が、不安げに声を掛ける。
セラフィーンは瞬きをし、ルキウスの傷へ視線を戻した。
「治療を続けます」
声は震えていなかった。
――震わせなかった。
「顔色を確認。呼吸を補助します。清潔布を」
「はい」
彼が何者なのか。
それは今、考えることではない。
目の前にいるのは、死にかけている一人のハンターだ。
セラフィーンは両手を重ね、祈るように魔力を流す。
水色の光が、ルキウスの胸元を淡く包んだ。
「戻ってきてください……」
傷を塞ぐ。
血を止める。
冷えきった身体へ、少しずつ熱を戻していく。
内側の損傷を探り、裂けたものを繋ぎ、壊れかけた呼吸を支える。
時間の感覚が消えていった。
外で誰が待っているのかも、自分が何を知ってしまったのかも、一瞬ごとに遠ざかっていく。
「……まだです」
弱くなりかけた光へ、さらに魔力を重ねる。
ただ、脈を追う。
呼吸を拾う。
消えかけた命を――繋ぐ。
「あなたは、まだ終わっていません」
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
治療を終えた時、セラフィーンの額には汗が滲んでいた。
ルキウスの呼吸は、まだ浅い。
顔色も悪い。
けれど先ほどまで消えかけていた命の灯は、細く、かすかに――それでも確かに残っている。
「……よかった」
セラフィーンは深く息を吐いた。
寝台の横に置かれていた新しい布を手に取る。
血と雪で濡れたフードは、もう使えない。
代わりの布を、顔へかからないように。
それでも外から見えすぎないよう、丁寧に整えた。
ルキウスが目を覚ました時、ほんの少しでも安心できるように。
「……ごめんなさい」
もう一度、セラフィーンは小さく言った。
その声は、誰にも聞こえなかった。
◆
個室の扉が開いた。
廊下で待っていたアルナが、弾かれたように顔を上げる。
壁際に立っていたフレイヴィアも腕を解き、視線だけをセラフィーンへ向けた。
二人の顔を見て、セラフィーンは一度だけ息を整える。
最初に伝えるべきことは、決まっていた。
「命は、繋ぎました」
アルナの膝が崩れかける。
近くにいた教会の者が支えようとしたけれど、彼女は自分の足で踏みとどまった。
両手を胸の前で握りしめ、今にも泣き出しそうな顔でセラフィーンを見つめる。
「目は……覚ましますか?」
「今はまだ、分かりません。ですが、峠は越えました」
「……っ」
アルナの口から、声にならない息が漏れた。
一粒の涙が頬を伝う。
それでも彼女は、すぐに手の甲で拭った。
「会えますか」
「今は安静が必要です。しばらくは、面会も控えてください」
「……はい」
聞き分けのいい返事だった。
けれど、猫耳は力なく伏せられている。
セラフィーンは、ほんの少し表情を和らげた。
「ミミルさんとリュシアさんも、処置を続けています。命に関わる状態は脱しました」
「よかった……」
アルナが小さく呟く。
その声には安堵と、それでも晴れない不安が混じっていた。
「アルナさん。少し、お休みください。ずっと立っていたのでしょう」
「いえ、私は」
「受付嬢として動くためにも、です」
静かに言われ、アルナは言葉を詰まらせる。
それから閉ざされた個室の扉を見つめ、小さく頷いた。
「……分かりました。少しだけ」
教会の者に案内され、アルナは待合室へ向かう。
何度も振り返りながら。
閉ざされた扉の中へ、視線を残すように。
その背中が廊下の角を曲がって見えなくなるまで、セラフィーンは見送った。
それから、処置記録を取りに行こうと足を動かす。
「待て」
低い声が、廊下へ落ちた。
セラフィーンは足を止める。
振り返ると、フレイヴィアが壁際に立っていた。
いつものように背筋は伸び、表情も崩れていない。
けれど、その黄金の瞳には、雪原で大剣を振るっていた時とは違う鋭さがあった。
フレイヴィアは閉ざされた扉を見る。
その向こうで眠る少年を、見透かそうとするように。
「――ルキウスは、何者だ」
セラフィーンは、すぐには答えなかった。
廊下の灯りが静かに揺れる。
遠くから、別の負傷者を運ぶ足音が聞こえた。
水を張った器の音。
布を洗う音。
教会の者たちが交わす低い声。
その中で――二人の間だけが、冷えていた。
「分かりません」
「分からぬ、か」
「はい」
セラフィーンは自分の手を見る。
まだ治療の感覚が残っていた。
ルキウスの命を繋いだ手応え。
魔力が抵抗なく通り抜けた、底の見えない違和感。
「少なくとも、私の知る七つの種族のどれにも当てはまりません」
その言葉を聞いても、フレイヴィアは驚かなかった。
ただ、深く沈黙する。
まるで、その答えをどこかで予想していたように。
セラフィーンは静かに問い返した。
「フレイヴィア様は、何かをご存じなのですか」
「知っている、とは言えぬ」
フレイヴィアは腕を組み直す。
その指先が、ほんの僅かに腕へ食い込んでいた。
「ただ、古い話にあった名を聞いたことがある」
「古い話、ですか」
フレイヴィアは一度、目を伏せた。
竜族は長命だ。
力を重んじ、血を重んじ、受け継がれた記憶を軽んじない。
真偽の定かでない古い話であっても、完全には消えず、火の奥へ残り続けることがある。
その中に――そんな種族の名があった。
角も翼も鱗も持たず、魔力も薄い。
ただ短く生きる、弱い種族。
脆く、弱く。
とうの昔に消えたとされる存在。
「……人間」
「人間、ですか?」
言葉そのものは、セラフィーンも聞いたことがある。
教会に残る古い童話。
子どもへ語る寓話。
弱く、短命で、かつて世界のどこかにいたかもしれない遠い種族。
「人間って、あのおとぎ話の?」
「余も詳しくは知らぬ。竜族の古い者が、酒の席で一度だけ口にしたのを聞いた程度だ。とうに滅んだ、弱き種族の名だと」
「滅んだ種族……」
セラフィーンは閉ざされた扉を見る。
その向こうで、ルキウスが眠っている。
血を流し、傷つき、今にも消えそうになりながら――それでも誰かを背負って帰ろうとした少年。
あれを、ただ童話の中にある種族の名で呼んでよいのだろうか。
そんな迷いが胸をよぎった。
「ですが、ルキウスさんは」
「あやつは何も知らぬ顔をしていた」
フレイヴィアが言う。
雪原で見たのだろう。
フードが外れた、その一瞬。
誰よりも先に、彼女が見た。
「自分が何者かなど、考えたこともない顔だ。少なくとも、余にはそう見えた」
「……はい」
セラフィーンも頷いた。
「ルキウスさんは、自分のことを普通の人だと思っています」
「普通の人、か」
フレイヴィアの口元が、ほんの僅かに歪む。
笑ったのではない。
あまりにも皮肉な響きに、そうするしかなかったような表情だった。
「雪原で、フードが外れた」
フレイヴィアは続ける。
「余がかけ直した。ギルドへ戻るまで、誰にも見せぬように」
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
短く返し、フレイヴィアは閉ざされた扉へ目を戻した。
「問題は、これをどう扱うかだ」
廊下の空気が、さらに重くなる。
セラフィーンはすぐに答えられなかった。
本来ならば、報告すべきなのかもしれない。
七種族のどれにも当てはまらない存在。
滅んだおとぎ話の種族かもしれない少年。
しかも、本人はそれを知らない。
教会の上層部へ伝えれば、保護されるかもしれない。
けれど――保護という名の監視になるかもしれない。
ギルドへ正式に報告すれば、調査されるだろう。
場合によっては彼は、ハンターではなく何か別のものとして扱われるかもしれない。
患者ではなく。
少年ではなく。
ルキウスではなく。
「このことは、報告すべきなのでしょうか」
セラフィーンが尋ねる。
フレイヴィアはしばらく沈黙し、やがて低く答えた。
「今はするな」
「よろしいのですか」
「よいわけがなかろう」
フレイヴィアの声は硬かった。
怒っているのではない。
迷いを踏み潰し、無理やり選び取ったような硬さだった。
「だが、今報告すれば、あやつは患者でもハンターでもなくなる」
「…………」
「何か、別のものとして扱われる」
その言葉は、セラフィーンの胸へ深く落ちた。
彼女は治療者だ。
目の前で倒れた者を、種族や立場で分けるために祈りを捧げているわけではない。
ルキウスが何者であれ、先ほどまで彼は死にかけていた。
そしてセラフィーンは、その命を繋いだ。
「……ルキウスさんは、患者です」
静かに告げると、フレイヴィアが頷く。
「そして、ハンターだ」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
それは、約束に近かった。
セラフィーンは少し迷ってから、問いかける。
「アルナさんには……?」
フレイヴィアは、すぐには答えなかった。
アルナの顔が思い浮かんだのだろう。
ギルドでルキウスを見た瞬間、崩れかけた受付嬢。
何度も彼の名を呼び、泣きそうになりながらも職員として動こうとしていた少女。
彼女が知れば、きっと抱え込む。
隠されたことに傷つくかもしれない。
それでも、今はまだ。
「言うな」
「……はい」
「今のあやつには、抱えさせるな」
セラフィーンは目を伏せる。
隠すことは、優しさだけではない。
時に、それは誰かを傷つける。
けれど今、眠るルキウスの正体を広げることで、誰が救われるのか分からなかった。
少なくとも――彼自身は救われない。
フレイヴィアは扉の前まで歩いた。
開けはしない。
ただ、その向こうにいる少年の気配を確かめるように立ち止まる。
「ルキウスは、しばらく目を覚まさぬか」
「はい。命は繋ぎましたが、消耗が大きすぎます。数日は安静が必要です」
「そうか」
短い返事だった。
けれど、フレイヴィアの尾が一度だけ床を打つ。
静かな怒り。
安堵。
それから、どうしようもない苛立ち。
すべてを押し殺すように、彼女は扉越しへ呟いた。
「勝手に終わるなと言っただろう」
セラフィーンは、その横顔を見た。
強い人だと思っていた。
誰よりも堂々と立ち、迷わない人だと思っていた。
けれど今、その横顔には、ほんの少しだけ年相応の少女のような疲れが滲んでいる。
セラフィーンは静かに目を伏せ、祈りの形に指を組んだ。
個室の中で、ルキウスは眠っている。
自分が何者なのかも知らずに。
自分の名が、誰かの古い記憶を揺らしたことも知らずに。
ただ浅く――それでも確かに、息をしている。
その夜、ルキウスは命を繋いだ。
そして同時に、彼自身も知らない問いを、二人の少女に残した。
◆
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