駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
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目を開けると、白い天井があった。
木目のない、綺麗な天井だ。
山奥の家の天井とも違う。角兎亭の部屋とも違う。ギルドの医務室、と呼べるほど僕はギルドに詳しくないけれど、少なくとも見覚えはない。
つまり、これはあれだ。
人生で一度は言ってみたかったやつだ。
僕はしばらく天井を見つめたまま、口元を少しだけ緩める。
「……知らない天井だ」
言えた。
ついに言えた。
思っていたより感動は薄かったけれど、こういうものは言えたことに意味がある。いつか誰かに「言ったことある?」と聞かれたら、堂々と頷ける。そんな日が来るかどうかは知らない。
満足感に浸っていると、薬草の匂いが鼻をくすぐった。
それから、水の匂い。
清潔な布の匂い。
そして、自分の身体がやたらと重いことに気づいた。
腕を動かそうとする。
動かない。
いや、動くには動く。でも、動かす前に身体のあちこちから「やめておけ」という声が聞こえるような気がした。
肩、脇腹、脚、背中。全部がまとめて文句を言っている。
そこで、記憶が戻ってきた。
白い雪原。
背中に感じたミミルさんの体温。
追ってくる重い足音。
折れた枝。
巨大な影。
目の前に迫る爪。
そうだ。
僕は確か、大型モンスターにやられて――。
「ミミルさんは!?」
反射的に身体を起こそうとして、全身に痛みが走った。
「いっ、つ……!」
痛い。
洒落にならないくらい痛い。
けれど、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「ミミルさんは!?リュシアさんは!?ちゃんと、助かって――」
言いかけたところで、扉の方から何かが落ちる音がした。
視線を向けると、天使族の職員さんが立っていた。
白い衣を着た、若い女性の職員さんだ。
手には紙束を持っていたらしいけれど、その紙束は今、床にばさっと散らばっている。
彼女は僕を見て、完全に固まっていた。
目が合う。
僕はとりあえず、動く方の手を少しだけ上げようとした。
「あ、おはようございます」
「せ……」
「せ?」
「セラフィーンさまぁぁぁー!!!」
叫んだ。
ものすごく叫んだ。
そして、紙束を床に散らしたまま、職員さんは廊下の向こうへ走っていった。
残された僕は、寝台の上で半端に身体を起こした姿勢のまま、しばらく扉を見つめる。
「……僕、そんなに死にそうだったんだ」
いや、たぶん死にそうだったのだろう。
それこそ、死人が目を覚ました反応をされるくらいには。
それは分かる。
分かるけれど、起きただけで人に悲鳴を上げられる経験は、人生で初めてだった。
知らない天井に続いて、知らない反応である。
なんて考えていれば、数分もしないうちに、廊下から足音が近づいてきた。
扉が開く。
入ってきたのは、セラフィーンさんだった。
白と淡青の衣。淡い金色の髪。深い湖みたいな青い瞳。いつも通りの静かな雰囲気を纏っているけれど、少しだけ足取りが早い。
「ルキウスさん」
「はい。おはようございます。ええと、知らない天井でした」
「……知らない、天井?」
セラフィーンさんが目を瞬かせる。
「人生で一度は言ってみたかったんです」
少し間があった。
セラフィーンさんは、困ったように眉を下げる。
「目が覚めて最初に言うことが、それなんですね」
「正確には、そのあとすぐミミルさんの心配をしました」
「そこは、順番を誇るところではありません」
穏やかな声だった。
けれど、ほんの少し呆れていた。
セラフィーンさんは寝台の横へ来ると、僕の額に手を当てた。冷たい手ではない。柔らかくて、少しだけ温かい。彼女の指が首筋に触れ、脈を確かめる。
その仕草があまりにも手慣れていて、僕は少しだけ安心した。
「気分はどうですか」
「全身が、自分のものじゃないみたいです」
「痛みは?」
「あります。でも、生きている感じがしますね」
そう言うと、セラフィーンさんの目がわずかに伏せられた。
以前、彼女に言われたことを思い出す。
痛みに耐えられることと、体が壊れないことは違います。
あの時は、確かにそうだな、くらいに思っていた。
けれど今は、ちょっと違う。
身体が、全力でその言葉に頷いている。
「ミミルさんとリュシアさんは」
僕がもう一度聞くと、セラフィーンさんは少し息を吐いた。
「ミミルさんも、リュシアさんも無事です。怪我は重かったですが、命に別状はありません」
「本当ですか?」
「本当です」
「本当に本当ですか?」
言ってから、しまったと思った。
これはアルナさんとのやり取りだった。
でも、セラフィーンさんは少しだけ目を瞬かせたあと、静かに頷いた。
「本当に本当です」
胸の奥に詰まっていたものが、ゆっくりと抜けていく。
「……よかった」
声がこぼれた。
本当に、よかった。
ミミルさんが生きている。
リュシアさんも生きている。
僕があそこで稼いだ時間が、完全な無駄ではなかった。
そう思った瞬間、身体から力が抜けた。寝台へ沈み込む。全身が痛いのに、安心したせいで眠りそうになる。
けれど、まだ聞きたいことがあった。
「ところで、僕はどれくらい寝ていたのでしょうか?」
セラフィーンさんは、僕の包帯を確認しながら、さらりと言った。
「二週間です」
……。
……。
ん。
「はい?」
いけない。寝起きで耳がおかしくなっているらしい。
そんな現実から逃がさないといわんばかりにセラフィ―ンさんは言葉を重ねた。
「二週間です」
「二週間って、十四日間ということですか?」
「はい。だいたい三百三十六時間ということです」
「急に数字が大きくなった」
「分かりやすくしたつもりだったのですが」
「いえ、分かりやすいです。分かりやすいんですけど、三百三十六時間って言われると、なんか罪の重さみたいに聞こえます」
「それくらい危なかった、ということです」
「あ、はい。すみません」
反射的に謝ると、セラフィーンさんは小さく息を吐いた。
「謝る相手は、私よりも他にいると思います」
「……アルナさんですか?」
「はい」
「怒ってます?」
「とても」
「とても」
「はい。とても」
僕は静かに天井を見上げた。
知らない天井だ、などと言っている場合ではなかった。
目を覚ました喜びより先に、猫耳の受付嬢に怒られる未来が見える。ものすごく鮮明に見える。たぶん耳をぴんと立てて、尻尾を膨らませている。想像だけで怖い。
「……今からもう一回寝たら、許してもらえませんかね」
「駄目です」
「ですよね」
セラフィーンさんは、少しだけ表情を緩めた。
けれど、すぐに真面目な顔へ戻る。
「それと、ルキウスさん。これは別件になるのですが」
そういってまじめな顔つきでこちらを見るセラフィ―ンさん。
そういう表情はドキドキしてしまうからやめてほしい。
「謝らなければいけないことがあります」
「え。治療費が払えないとかですか?」
「違います」
セラフィーンさんは首を横に振った。
そして、少しだけ視線を落とす。
「治療のために、あなたのフードを外しました」
僕は瞬きした。
セラフィーンさんは続ける。
「人前で外したくないものだと、分かっていました。けれど、怪我が重く、そのままでは顔色も呼吸も確認できませんでした。だから……勝手に外しました」
その声は静かだった。
でも、ただの報告ではなかった。
ちゃんと、僕に謝ろうとしてくれている声だった。
「ごめんなさい」
僕は少しだけ、ぽかんとしてしまった。
それから、思わず笑う。
「なんだ、そんなことですか」
「そんなこと、ではないと思います」
「いや、僕からすればそんなことですよ。命を助けてもらったんですから」
枕元を見ると、そこには畳まれたフードが置かれていた。
母さんに、絶対に外してはいけないと言われたもの。
外せば大変なことになるかもしれないと、何度も言われたもの。
僕にとって、それは確かに大事なものだった。
でも。
目の前にいるセラフィーンさんは、僕を助けるために外した。
なら、それは責めることではない。
「むしろ」
僕はゆっくりとフードへ手を伸ばした。
腕が痛んで、少しだけ顔が引きつる。それでも、指先で布を掴む。軽いはずなのに、今の僕にはやたらと重く感じた。
「窮屈だったんですよね、これ」
そう言って、僕は笑った。
それから、わざと軽い調子でフードを持ち上げる。
「こうしてフードを脱げる場所ができたのは、僕にとってはラッキーでした」
セラフィーンさんは、何か言いかけて、言葉を止めた。
その顔は、困っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「……ルキウスさんは、本当に」
「はい?」
「いえ。なんでもありません」
セラフィーンさんは静かに首を振る。
けれど、その目は僕の顔を見ていた。
僕自身よりも、ずっと大事なものを見るように。
少しだけ、胸の奥がざわついた。
「それと、もう一つ」
「まだあるんですか?」
「はい」
セラフィーンさんの声は、先ほどより慎重だった。
「あなたの素顔を見た方が、もう一人います」
「もう一人?」
「フレイヴィア様です」
「えっ」
思わず、変な声が出た。
フレイヴィアさん。
あのフレイヴィアさん。
竜族の姫で、ランク7のハンターで、僕を助けてくれた人。
僕が目指していたものに、あまりにも近い人。
その人に、素顔を見られた。
いや、命を助けてもらったのだから当然なのかもしれない。雪原でフードが外れた気がするし、たぶんその時だ。
それは分かる。
分かるけれど。
「え、ええと……そうですか。フレイヴィアさんに……」
「嫌でしたか?」
「嫌じゃないです! 嫌じゃないですけど、なんかこう、すごい人に寝顔を見られたみたいな……いや、寝顔どころではなかったんでしょうけど」
言いながら、自分でもよく分からなくなってきた。
死にかけていたところを見られたのは恥ずかしくないのに、素顔を見られたのは少し恥ずかしい。よく考えたら、順番がおかしい。
セラフィーンさんは、少しだけ困ったように微笑んだ。
「フレイヴィア様は、あなたのフードをかけ直してくださったそうです。ギルドに戻るまで、誰にも見えないように」
「……そう、なんですか」
胸の奥が、少し温かくなる。
あの人は、何も聞かずに隠してくれたのだ。
僕が大事にしていたものだと、たぶん分かってくれたのだと思う。
そう考えると、嬉しいような、申し訳ないような、不思議な気持ちになった。
セラフィーンさんは、そこで一度言葉を切った。
そして、僕を見る。
「ルキウスさん」
「はい」
「ルキウスさんは、その……人間、なんでしょうか」
人間。
その言葉に、僕は首を傾げた。
「はい。母からはそう聞いてます」
普通に答えたつもりだった。
でも、セラフィーンさんは黙ってしまった。
その反応に、少しだけ不安になる。
「あれ。何か変でしたか?」
「いえ。確認したかったんです」
セラフィーンさんは慎重に言葉を選ぶように言った。
「ちなみに、人間という種族について、何か聞いていますか?」
「ええと……僕が人間だってことくらいですかね。あと、体があんまり強くないとか、魔力が薄いとか、フードは絶対に外しちゃ駄目だとか。母さんから聞いたのはそれくらいです」
「他に、人間の方に会ったことは?」
「ないです」
「お母様は?」
「母さんはエルフです」
セラフィーンさんの表情が、少しだけ深くなる。
僕はようやく、何かがおかしいことに気づき始めた。
「……あの。もしかして、人間って珍しいんですか?」
「珍しい、というより」
セラフィーンさんは言葉を切った。
どう言えばいいか、考えているようだった。
僕は黙って待つ。
「いないんです」
「え?」
部屋の外から、かすかに足音が聞こえる。遠くで誰かが水を運んでいる音。布が擦れる音。教会の中は静かなのに、不思議と生きている音が多い。
セラフィーンさんは、ゆっくりと言葉を続ける。
「いないって何が」
「人間が、です」
いや。
いやいやいや。
「そんな、いないなんてことあります?」
「少なくとも、今の世界で生きている人間を、私は知りません」
「え」
声が、間抜けに漏れた。
「だって人間は、二千万年ほど前に滅んだ種族だとされていますから」
二千年。
頭の中で、その言葉が転がる。
千年がニ回。
百年がニ百回。
「千年って、何年ですか?」
「千年は、千年ですね」
「ですよね」
僕は布団の上で固まった。
なんというか、受け止めきれない。
人間が珍しいとか、少ないとかなら、まだ分かる。
けれど、滅んだ。
千年前に。
それは、つまり。
「……え。僕、もしかして珍獣ですか?」
「珍獣ではありません」
セラフィーンさんが即答した。
「でも、今生きている人間を知らないんですよね?」
「はい」
「滅んだことになってるんですよね?」
「はい」
「じゃあ珍獣じゃないですか」
「違います」
「希少種?」
「違います」
「絶滅危惧種?」
「言い方を選んでください」
「滅んだって言ったのセラフィーンさんですよ!?」
思わず声を上げると、脇腹に痛みが走った。
「いっ……!」
「動かないでください」
「はい……」
怒られた。
いや、怒られてはいないのかもしれない。
でも、今はセラフィーンさんの静かな声が一番怖い。
僕はおとなしく寝台に沈む。
すると、少しだけ沈黙が落ちた。
笑って誤魔化したけれど、胸の奥には妙な重さが残っている。
人間は、千年前に滅んだ。
今の世界で生きている人間を、セラフィーンさんは知らない。
母さんは、何を知っていたのだろう。
どうして僕を山奥で育てたのだろう。
どうして、フードを外すなと言ったのだろう。
どうして僕は、自分のことを何も知らなかったのだろう。
考えようとすると、頭の奥がぼんやりする。
二週間も寝ていたせいかもしれない。
怪我のせいかもしれない。
あるいは、考えるには大きすぎる話だったのかもしれない。
セラフィーンさんは、そんな僕を静かに見ていた。
心配そうな顔だった。
だから、僕は少しだけ笑う。
「まあ、いっか」
考えても仕方のないことは、考えたって仕方がない。
そう考えていれば、セラフィーンさんが、目を瞬かせた。
「人間だろうと、珍獣だろうと、僕がランク2の駆け出しハンターであることは変わりませんからね」
「珍獣ではありません」
「そこは譲らないんですね」
「はい」
セラフィーンさんは、ほんの少しだけ笑った。
それを見て、少し安心した。
たぶん、大変な話なのだろう。
僕が思っているよりずっと。
でも、今すぐ全部を理解することはできない。
だったら、とりあえず目の前のことから考えるしかない。
僕は生きている。
ミミルさんも、リュシアさんも生きている。
フレイヴィアさんが助けてくれた。
セラフィーンさんが治してくれた。
アルナさんには、これから怒られる。
それだけでもう、手一杯だった。
「それと、このことは、しばらく伏せておいた方がいいと思います」
セラフィーンさんが言った。
「僕が人間だってことですか?」
「はい」
「ギルドにも?」
「はい」
「アルナさんにも?」
セラフィーンさんの表情が、少しだけ苦しそうになった。
「……今は、まだ」
僕は少し黙った。
アルナさんには、話したいと思った。
だって、あの人にはたくさん心配をかけている。いつも怒ってくれるし、呆れてくれるし、それでも依頼に行く僕を送り出してくれる。隠し事をするのは、なんだか胸が痛い。
でも、セラフィーンさんがそう言うなら、きっと理由があるのだろう。
僕よりずっと、この世界のことを知っている人だ。
「分かりました」
そう答えると、セラフィーンさんが少し驚いたように僕を見る。
「よろしいんですか?」
「はい。僕、こういう難しい話はよく分からないので、分かってる人の言うことを聞きます」
「……そうですか」
「でも」
僕は天井を見上げた。
白い天井。
知らない天井。
言ってみたかった台詞を言えた天井。
そして、自分が知らなかったことを知った天井。
「いつかは、アルナさんにも話したいです。あの人には、いっぱい心配をかけてますから」
セラフィーンさんは、静かに頷いた。
「その時は、きっと」
その言葉を聞いて、少しだけほっとする。
すると、身体が急に重くなった。
会話をしているだけなのに、随分疲れていたらしい。二週間寝ていたのだから、むしろ元気な方がおかしいのかもしれない。
セラフィーンさんは、僕に布をかけ直した。
「今は眠ってください。かなり危ない状態だったんですから」
「分かりました」
素直に頷く。
それから、ふと思い出した。
「ところでセラフィーンさん」
「はい」
「僕が起きたこと、アルナさんには……」
その瞬間だった。
廊下の向こうから、ものすごい勢いの足音が聞こえてきた。
軽い。
速い。
そして、聞き慣れた声。
「ルキウスさんが目を覚ましたって本当ですかぁぁぁ!?」
僕は固まった。
セラフィーンさんは、静かに微笑む。
「伝わったようですね」
「……僕、怒られます?」
「はい。たぶん、とても」
僕はもう一度、天井を見上げた。
知らない天井だ、なんて言っている場合ではなかった。
この日、僕は自分が最後の人間かもしれないことよりも先に、アルナさんに怒られる覚悟をすることになった。
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