駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
~前回までのあらすじ~
前回は、病室で目を覚ましたルキウスがセラフィ―ン、そしてフレイヴィアに自分の正体を知られている、ということを知った回でした。そして今回は、その続きからです。
◆
廊下の向こうから、足音が近づいてくる。
軽い。けれど、速い。
石床を細かく叩くその音だけで、誰が来るのか分かってしまった。
「ルキウスさんが目を覚ましたって、本当ですかぁぁぁ!?」
扉の外から響いた声に、僕は寝台へ沈んだまま天井を見上げた。
知らない天井だ。
いや、もう知っている。目を覚ましてから、ずっと眺め続けている天井だった。
人生で一度は口にしてみたかった台詞も、すでに言った。ささやかな夢は叶ったけれど、今となってはそんなことを喜んでいる場合ではない。
アルナさんが来る。
しかも、たぶん怒っている。
……いや、たぶんではない。
「セラフィーンさん」
「はい」
「今から、もう一度寝たことにはできませんか?」
「できません」
「ですよね」
寝台の横に立つセラフィーンさんは、少しだけ困ったように笑った。
「無理に起き上がらないでくださいね。傷はまだ完全には塞がっていません」
「はい」
「アルナさんに怒られても、逃げようとしないでください」
「逃げられる身体ではないので、大丈夫です」
「そういう問題ではありません」
柔らかい声なのに、逃げ道がない。
どうやら僕は、アルナさんが入ってくる前から一度怒られたらしい。
足音が、すぐそこまで近づいてくる。
セラフィーンさんは扉へ目を向け、それから僕の顔を見た。
青い瞳が僅かに見開かれる。
次いで、枕元へ綺麗に畳まれていたフードへ手を伸ばした。
「ルキウスさん。少し失礼します」
「え?」
聞き返すより先に、セラフィーンさんがフードを持ち上げる。
そこでようやく、僕は自分の顔が何にも隠されていないことを思い出した。
「あ……」
「アルナさんには、まだお話ししないと決めたばかりでしょう」
「すみません。すっかり忘れていました」
「目覚めたばかりですから、仕方ありません。頭を少しだけ上げられますか?」
「はい。これくらいなら」
枕から頭を僅かに浮かせる。
セラフィーンさんは片手で僕の後頭部を支え、髪を巻き込まないよう、ゆっくりとフードを被せてくれた。
額から頬へ布が落ち、見慣れた薄暗さが視界へ戻ってくる。
最後に首元を整え、外から顔が見えないことを確かめるように、布の端を指先でそっと撫でた。
「苦しくありませんか?」
「大丈夫です」
「では、今はこのままで」
セラフィーンさんは一度だけ、顔を隠す布へ目を落とした。
「アルナさんへ黙っているのは、ルキウスさんが信用していないからではありません」
「はい」
「私が、まだ知らせるべきではないとお願いしたからです。ですから、ご自分だけで隠し事をしているような顔をしないでください」
「そんな顔をしていました?」
「少しだけ」
「フードを被っていても分かるんですね」
「治療を担当していますから」
治療と表情を読むことに、何の関係があるのだろう。
けれどセラフィーンさんは聖女だ。僕の知らない技術があっても、おかしくはない。
たぶん。
「治療の際には、また外していただきますからね」
「ここでなら構いません」
「はい。その時は遠慮なく」
一度外したあとだからか、見慣れたフードの内側が少しだけ窮屈に感じる。
それでも、今はこれでいい。
僕には、人間がどんな存在なのかさえ分からない。
なら、少なくとも今は――事情を知るセラフィーンさんの判断に従うべきなのだろう。
彼女がフードを整え終えたのと、扉が勢いよく開いたのは、ほとんど同時だった。
入ってきたのは、いつもの受付嬢の制服を着たアルナさんだった。
髪はきちんと整えられている。
けれど目元は赤く、猫耳は力なく伏せられ、尻尾だけが落ち着かないように揺れていた。
普段なら、受付へ顔を出した僕を少し呆れたように迎えてくれる人だ。
今日のアルナさんは――笑っていなかった。
喉の奥が、きゅっと狭くなる。
僕はフードの奥から、できるだけいつも通りの声を出した。
「おはようございます、アルナさん」
返事はない。
アルナさんは扉を閉めると、ゆっくり寝台の横まで歩いてきた。
近くで見ると、目元は思っていた以上に赤い。
泣いていたのだと、すぐに分かった。
「……おはようございます、ではありません」
小さな声だった。
怒鳴られるよりも、ずっと重かった。
僕は何も言えなくなる。
アルナさんは寝台の横に立ち、フードに隠れた僕の顔をじっと見つめていた。
いつもなら、血や泥がついていないか、変なものを拾ってきていないかを確認するような目だ。
今は違う。
僕が本当にここにいるのか――それだけを確かめているようだった。
「二週間です」
「……はい」
「ルキウスさん、二週間も目を覚まさなかったんですよ」
「はい」
「分かっていますか?」
「……はい」
分かっている。
そのつもりだった。
僕にとっては、知らない天井の下で目を覚ましただけだ。眠っている間のことは何も覚えていないから、二週間と言われても、それだけの時間が過ぎた実感はない。
けれど、待っていた人にとっては違う。
僕が知らない二週間は、何もなかった空白ではない。
「何度も、様子を聞きました」
アルナさんの声が揺れる。
「セラフィーン様が大丈夫だと仰ってくださっても、それでも、本当に目を覚ますのか分からなくて……」
大きな瞳へ涙が浮かんだ。
それを見た瞬間、胸の奥が痛くなる。
身体の傷とは違う場所。
薬でも治癒術でも、すぐには治らないところだった。
「毎日、来ました。仕事の前も、終わったあとも。まだ起きていないと聞いて、それでも息はしていると聞いて……それで」
声が詰まる。
アルナさんは一度、口元を手で覆った。
そのまま俯くのかと思ったけれど、すぐに顔を上げる。
泣いているのに、僕から目を逸らさなかった。
「帰ってきてくださいって、言いました」
その言葉に、僕は視線を落とす。
「無事に帰ってきてくださいって、何度も言いました」
「……はい」
「なのに、どうして毎回、血だらけなんですか」
返す言葉がなかった。
怒鳴られてはいない。
責め立てるような声でもない。
それなのに、一つ一つの言葉が胸へ深く刺さった。
「どうして、そんなに無茶をするんですか」
「……すみません」
「謝ってほしいのではありません」
即座に返され、僕は顔を上げる。
アルナさんは唇を引き結び、少しだけ目を伏せた。
「いえ。謝ってほしいです。すごく、たくさん謝ってほしいです」
「はい」
「でも、それだけではなくて……」
伏せられた猫耳が、小さく震える。
「ちゃんと、帰ってきてほしいんです」
言葉が出なかった。
だから、僕はただ頷く。
何度も心配をかけて。
何度も帰ってくると答えて。
そのたびに怪我をして戻ってきた。
僕は、自分が傷つくことばかり考えていたのかもしれない。
痛くても動ける。
血を流しても、最後に生きて帰ればそれでいい。
どこかで、そんなふうに思っていた。
けれど、帰りを待つ人にとっては。
血だらけで戻ることも、二週間も目を覚まさないことも、無事とは呼べなかった。
「すみませんでした」
今度は、きちんと頭を下げようとした。
寝台へ手をつき、少しだけ上体を起こす。
その瞬間、脇腹へ鋭い痛みが走った。
「っ……」
「動かないでください!」
アルナさんとセラフィーンさんの声が、綺麗に重なった。
僕は慌てて寝台へ戻る。
「……すみません」
「謝るために怪我を悪化させないでください」
「はい」
怒られた。
けれど、ほんの少しだけいつものアルナさんに戻った気がした。
それが嬉しくて――同じくらい、申し訳なかった。
「心配をかけました。本当に、すみません」
寝台へ横になったまま、できる限りまっすぐアルナさんを見る。
「でも、ミミルさんを置いていくことはできませんでした。リュシアさんが助けを呼びに行ってくれたから、僕はそれまで繋ぐしかないと思って」
「分かっています」
アルナさんは頬を伝った涙を、手の甲で拭った。
「分かっています。だから、怒っているんです」
「……はい」
「ルキウスさんが、そういう人なのは知っています。困っている人を見捨てられなくて、止めても行ってしまう人だって……分かっています」
また声が揺れた。
けれど今度は、涙を隠そうとはしなかった。
「でも、分かっていることと、平気なことは違うんです」
僕は黙って、その言葉を聞いた。
分かっていることと、平気なことは違う。
僕がそうするだろうと予想できても。
正しい判断だったと納得できても。
それで心配せずにいられるわけではない。
たぶん――僕が思っていたより、ずっと大切な違いだった。
「次は、もっとちゃんと帰ってきます」
真剣に答えたつもりだった。
けれどアルナさんは、即座に眉を吊り上げる。
「次がある前提で話さないでください」
「……はい」
正論だった。
まったく反論できない。
僕が静かになったところで、セラフィーンさんが小さく咳払いをした。
「アルナさん。お気持ちはよく分かりますが、ルキウスさんはまだ病み上がりです」
「あっ」
アルナさんは、はっとしたように顔を上げた。
「す、すみません。つい……」
「いえ。僕は怒られて当然なので」
「そうですね」
セラフィーンさんが、穏やかに頷く。
「では、続きは一日三十分までにしましょう」
「続くんですか?」
思わず聞き返す。
アルナさんは涙の残った顔で、きっぱりと言った。
「続きます」
「……はい」
僕は天井を見上げる。
「知らない天井だ……」
「もう知っている天井ですよね?」
「はい」
「先ほども言っていましたよね?」
「はい」
「逃げようとしないでください」
「はい」
完全に見抜かれていた。
隣では、セラフィーンさんが口元へ手を添えて笑っている。
笑ってくれているだけ、まだましなのかもしれない。
その時だった。
廊下の向こうから、今度は重い足音が近づいてくる。
先ほどの軽い足音とは違う。
どしん、どしんと――床板が僅かに震えるような音だった。
僕とアルナさん、セラフィーンさんが、ほとんど同時に扉を見る。
扉が開き、そこに立っていたのはフレイヴィアさんだった。
夜のような黒髪に、黄金の瞳。背筋を伸ばした堂々たる立ち姿。
ここまでは、いつものフレイヴィアさんだ。
問題は、その後ろにあった。
教会の職員さんが二人がかりで、大きな包みを抱えている。
さらに、その後ろにも包み。
そのまた後ろにも――包み。
焼いた肉に、干した肉。塩漬けの肉と骨付き肉、それから何の部位なのか分からない、僕の上半身ほどもある塊肉。
廊下から流れ込んでくる匂いだけで、すべてが肉だと分かる。
明らかに、病室へ持ち込む量ではなかった。
僕は固まった。
アルナさんも固まった。
セラフィーンさんだけが、静かに目を細めている。
「見舞いだ」
フレイヴィアさんは、当然のことのように言った。
「え、ええと……ありがとうございます?」
とりあえず礼を言う。
それ以外に、どう答えればいいのか分からなかった。
だって、見舞いだと言われたのだ。
たとえそれが、病室へ持ち込む量ではない肉の山だったとしても。
僕の返事を聞き、フレイヴィアさんは満足げに頷いた。
「肉を食えば治る」
「治りません」
セラフィーンさんが、即座に否定する。
フレイヴィアさんは納得できないように首を傾げた。
「治るだろう」
「治りません」
「竜族は治る」
「ルキウスさんは竜族ではありません」
「む」
フレイヴィアさんが黙った。
いつも堂々としていて、何を言われても揺らがない人なのに、肉の効能を否定されて少し困っている。
なんだか、とても珍しいものを見た気がした。
セラフィーンさんは、病室へ入りかけている肉の山へ視線を向ける。
「そもそも、現在のルキウスさんに、これを食べさせるおつもりですか」
「……少しずつなら」
「駄目です」
「スープにすればよい」
「脂が強すぎます」
「ならば、よく噛めば」
「そういう問題ではありません」
フレイヴィアさんが、不満そうに腕を組む。
先ほどまで泣いていたアルナさんの口元が、僅かに緩んだ。
僕も、つられて笑ってしまう。
傷が痛い。
笑うと、本当に痛い。
でも――止められなかった。
「フレイヴィア様」
セラフィーンさんの声は穏やかだった。
ただし、逃げ道はなかった。
「病人へのお見舞いに、肉を山のように持ってくるのは控えてください」
「山ではない」
「山です」
「肉だ」
「肉の山です」
「む」
フレイヴィアさんは少しだけ視線を逸らし、小さく呟いた。
「見舞いに何を持ってくればよいか、分からなかった」
その一言で、空気が少し変わる。
フレイヴィアさんは、ただ僕のために何かを持ってきてくれようとしたのだ。
その結果が肉の山になっただけで。
……だけで済ませていいのかは分からないけれど。
それでも、嬉しかった。
「ありがとうございます」
今度は、きちんと伝える。
「今は食べられないかもしれませんけど、元気になったらちゃんと食べます」
フレイヴィアさんの尾が、ほんの少しだけ揺れた。
「うむ」
「治ってからです」
セラフィーンさんが、即座に釘を刺す。
「分かっている」
その答えに、アルナさんの猫耳がぴこりと動いた。
「本当に?」
僕は思わず、アルナさんを見る。
本人も言ってから気づいたらしく、あ、と口元を押さえた。
普段、僕に向けている確認が、そのままフレイヴィアさんへ飛んでしまったらしい。
黄金の瞳が、僅かに細められる。
「なぜ余が責められている」
「い、いえ、つい」
「本当に本当ですか?」
今度は僕が言ってしまった。
フレイヴィアさんの視線が、じろりとこちらへ向く。
「ルキウス」
「はい」
「怪我人でなければ、少し叩いていた」
「すみませんでした」
即座に謝る。
アルナさんがまた少し笑い、セラフィーンさんも困ったように口元を緩めた。
肉の山は、最終的に教会の厨房へ運ばれることになった。
フレイヴィアさんは最後まで少し不満そうだったけれど、セラフィーンさんに「治療の妨げです」と言われると、さすがに引き下がった。
職員さんたちが肉を運び出していく。
病室に漂っていた肉の匂いが薄くなり、ようやく薬草と清潔な布の匂いが戻ってきた。
フレイヴィアさんは寝台の横へ立ち、僕を見る。
「目を覚ましたか」
「はい。助けていただいて、ありがとうございました」
頭を下げようとしたけれど、少し動いただけで肩へ痛みが走る。
「動くな」
フレイヴィアさんの声が飛び、僕はぴたりと止まった。
「すみません」
「謝るなら、生きてからにしろ」
「生きています」
「ならば、それでよい」
短いやり取りだった。
けれど、その声にはほんの少しだけ安堵が滲んでいるような気がした。
気のせいかもしれない。
でも、そうだといいと思った。
雪原でのことを思い出す。
白い世界。
迫ってきた鉤爪。
死ぬと思った瞬間に落ちてきた、たわけが、という声。
黒い髪に、黄金の瞳。
僕と怪物の間へ立った、大きな背中。
あの時、僕はまた助けられた。
「フレイヴィアさん」
「なんだ」
「ありがとうございました」
「聞いた」
「もう一度、言わせてください」
フレイヴィアさんは黙った。
だから、僕は続ける。
「ありがとうございました。僕、また助けられました」
その言葉に、フレイヴィアさんは少しだけ目を細めた。
「助けられることは恥ではない」
「……でも、悔しかったです」
口にした瞬間、胸の奥が少し熱くなる。
あの白い雪原で見た背中。
自分がなりたかったもの。
自分では届かなかったもの。
それが、まだ胸の中へ残っていた。
「僕は、ミミルさんを助けたかった。リュシアさんが戻ってくるまで、なんとか繋ぎたかった。でも最後は、やっぱりフレイヴィアさんに助けてもらいました」
アルナさんは黙っている。
セラフィーンさんも、何も言わない。
フレイヴィアさんだけが、まっすぐ僕を見ていた。
「ミミルさんとリュシアさんが助かったことは、本当に嬉しいです。でも僕はまだ、何もできなかったんだと思いました」
「何も、ではない」
フレイヴィアさんが静かに言う。
「主が稼いだ時間で、救援が間に合った」
「それでも、です」
僕は首を横へ振る。
振っただけで少し頭が痛んだけれど、今は気にしないことにした。
「僕は、英雄になりたくてここへ来ました」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
それでも、もう誤魔化したくなかった。
「でも、今の僕は誰かを助けるどころか、助けられてばかりです。アルナさんに心配をかけて、セラフィーンさんに治してもらって、フレイヴィアさんに守ってもらって……」
言葉にするたび、自分の弱さが形になっていく。
それを見るのは、少し怖かった。
けれど、見ないふりをしたままでは、きっと先へ進めない。
「僕は、弱いです」
部屋の空気が静かになる。
アルナさんが何かを言おうとして、口を閉じた。
セラフィーンさんも、ただ僕を見ている。
フレイヴィアさんは何も言わない。
僕は小さく息を吸った。
「でも、弱いまま終わりたくないです」
その瞬間、廊下から教会の職員さんが顔を出した。
「あの、セラフィーン様。お肉は厨房でよろしいでしょうか?」
「はい。全部お願いします」
「全部か」
フレイヴィアさんが反応する。
セラフィーンさんは、静かに振り返った。
「全部です」
「一切れくらい、ここへ残しても」
「駄目です」
「見舞いだぞ」
「治療中です」
「む」
せっかく少し真面目な空気になっていたのに、肉で戻された。
僕は笑いそうになり、慌てて脇腹を押さえる。
痛い。
それでも、さっきより少しだけ楽だった。
「元気になったら食べたいです」
僕が言うと、フレイヴィアさんは満足げに頷いた。
「ならば、余が焼く」
「フレイヴィア様、お料理できるんですか?」
アルナさんが不安そうに尋ねる。
フレイヴィアさんは胸を張った。
「肉を焼くことはできる」
セラフィーンさんが、静かに告げる。
「料理と肉を焼くことは、似ているようで別です」
「違うのか」
「違います」
フレイヴィアさんは、少しだけ納得がいかないような顔をした。
アルナさんは笑いをこらえ、僕は結局、また笑ってしまう。
病室なのに。
怒られて、肉が運び込まれ、今度は料理の話になっている。
二週間も眠っていたあとの目覚めにしては、あまりにも騒がしい。
でも――悪くない。
むしろ、とてもありがたかった。
しばらくして、セラフィーンさんから休むように言われた。
アルナさんも仕事の合間にまた来ると言い、扉へ向かう。
けれど部屋を出る直前、もう一度だけ僕を振り返った。
「ルキウスさん」
「はい」
「次に無茶をしたら、もっと怒りますからね」
「はい」
「本当に?」
「本当に本当です」
アルナさんは少しだけ目を細めた。
けれど、今度は泣かなかった。
「では、また後で」
「はい。また後で」
アルナさんが部屋を出ていく。
閉じる扉を見つめながら、胸の奥に小さな痛みが残った。
僕の顔を隠すフード。
僕が人間だということ。
いつかは、話さなければならない。
今はまだ、セラフィーンさんの判断に従う。
それでも――隠したままでいいとは思えなかった。
セラフィーンさんも薬の準備をすると言って、一度部屋を離れた。
肉の山を完全に厨房へ移すためでもあるらしい。
部屋には、僕とフレイヴィアさんだけが残された。
正確には扉も開いているし、教会の人たちの気配も近くにある。
けれど、先ほどまでの騒がしさが嘘のように、室内は静かだった。
フレイヴィアさんは帰ろうとしているのか、扉へ向かって歩き出す。
その背中を見た瞬間、胸の奥が強く鳴った。
黒い背中。
雪原で見た背中。
僕が届かなかった背中。
今、言わなければ。
きっと僕は、また何かを理由に先延ばしにする。
身体は痛い。
声を出すだけでも、少し疲れる。
それでも――今、言わなければ駄目だと思った。
「フレイヴィアさん」
僕が呼ぶと、フレイヴィアさんは足を止める。
ゆっくりと振り返り、黄金の瞳をこちらへ向けた。
「ぬ? なんだ」
僕は寝台の上から、彼女をまっすぐ見る。
起き上がろうとして脇腹が痛んだけれど、目だけは逸らさなかった。
「一つ、お願いがあるんです――」
次の一歩を踏み出すために。
◆
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