駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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 ~前回までのあらすじ~
 前回は、病室で目を覚ましたルキウスがセラフィ―ン、そしてフレイヴィアに自分の正体を知られている、ということを知った回でした。そして今回は、その続きからです。


第一章 第二十五話『少年は見舞いに叱られる』

 

 ◆

 

 廊下の向こうから、足音が近づいてくる。

 軽い。けれど、速い。

 石床を細かく叩くその音だけで、誰が来るのか分かってしまった。

 

「ルキウスさんが目を覚ましたって、本当ですかぁぁぁ!?」

 

 扉の外から響いた声に、僕は寝台へ沈んだまま天井を見上げた。

 知らない天井だ。

 いや、もう知っている。目を覚ましてから、ずっと眺め続けている天井だった。

 人生で一度は口にしてみたかった台詞も、すでに言った。ささやかな夢は叶ったけれど、今となってはそんなことを喜んでいる場合ではない。

 

 アルナさんが来る。

 しかも、たぶん怒っている。

 ……いや、たぶんではない。

 

「セラフィーンさん」

「はい」

「今から、もう一度寝たことにはできませんか?」

「できません」

「ですよね」

 

 寝台の横に立つセラフィーンさんは、少しだけ困ったように笑った。

 

「無理に起き上がらないでくださいね。傷はまだ完全には塞がっていません」

「はい」

「アルナさんに怒られても、逃げようとしないでください」

「逃げられる身体ではないので、大丈夫です」

「そういう問題ではありません」

 

 柔らかい声なのに、逃げ道がない。

 どうやら僕は、アルナさんが入ってくる前から一度怒られたらしい。

 

 足音が、すぐそこまで近づいてくる。

 セラフィーンさんは扉へ目を向け、それから僕の顔を見た。

 青い瞳が僅かに見開かれる。

 次いで、枕元へ綺麗に畳まれていたフードへ手を伸ばした。

 

「ルキウスさん。少し失礼します」

「え?」

 

 聞き返すより先に、セラフィーンさんがフードを持ち上げる。

 そこでようやく、僕は自分の顔が何にも隠されていないことを思い出した。

 

「あ……」

「アルナさんには、まだお話ししないと決めたばかりでしょう」

「すみません。すっかり忘れていました」

「目覚めたばかりですから、仕方ありません。頭を少しだけ上げられますか?」

「はい。これくらいなら」

 

 枕から頭を僅かに浮かせる。

 セラフィーンさんは片手で僕の後頭部を支え、髪を巻き込まないよう、ゆっくりとフードを被せてくれた。

 額から頬へ布が落ち、見慣れた薄暗さが視界へ戻ってくる。

 最後に首元を整え、外から顔が見えないことを確かめるように、布の端を指先でそっと撫でた。

 

「苦しくありませんか?」

「大丈夫です」

「では、今はこのままで」

 

 セラフィーンさんは一度だけ、顔を隠す布へ目を落とした。

 

「アルナさんへ黙っているのは、ルキウスさんが信用していないからではありません」

「はい」

「私が、まだ知らせるべきではないとお願いしたからです。ですから、ご自分だけで隠し事をしているような顔をしないでください」

「そんな顔をしていました?」

「少しだけ」

「フードを被っていても分かるんですね」

「治療を担当していますから」

 

 治療と表情を読むことに、何の関係があるのだろう。

 けれどセラフィーンさんは聖女だ。僕の知らない技術があっても、おかしくはない。

 たぶん。

 

「治療の際には、また外していただきますからね」

「ここでなら構いません」

「はい。その時は遠慮なく」

 

 一度外したあとだからか、見慣れたフードの内側が少しだけ窮屈に感じる。

 それでも、今はこれでいい。

 僕には、人間がどんな存在なのかさえ分からない。

 なら、少なくとも今は――事情を知るセラフィーンさんの判断に従うべきなのだろう。

 

 彼女がフードを整え終えたのと、扉が勢いよく開いたのは、ほとんど同時だった。

 

 入ってきたのは、いつもの受付嬢の制服を着たアルナさんだった。

 髪はきちんと整えられている。

 けれど目元は赤く、猫耳は力なく伏せられ、尻尾だけが落ち着かないように揺れていた。

 普段なら、受付へ顔を出した僕を少し呆れたように迎えてくれる人だ。

 今日のアルナさんは――笑っていなかった。

 喉の奥が、きゅっと狭くなる。

 僕はフードの奥から、できるだけいつも通りの声を出した。

 

「おはようございます、アルナさん」

 

 返事はない。

 アルナさんは扉を閉めると、ゆっくり寝台の横まで歩いてきた。

 近くで見ると、目元は思っていた以上に赤い。

 泣いていたのだと、すぐに分かった。

 

「……おはようございます、ではありません」

 

 小さな声だった。

 怒鳴られるよりも、ずっと重かった。

 僕は何も言えなくなる。

 アルナさんは寝台の横に立ち、フードに隠れた僕の顔をじっと見つめていた。

 いつもなら、血や泥がついていないか、変なものを拾ってきていないかを確認するような目だ。

 今は違う。

 僕が本当にここにいるのか――それだけを確かめているようだった。

 

「二週間です」

「……はい」

「ルキウスさん、二週間も目を覚まさなかったんですよ」

「はい」

「分かっていますか?」

「……はい」

 

 分かっている。

 そのつもりだった。

 僕にとっては、知らない天井の下で目を覚ましただけだ。眠っている間のことは何も覚えていないから、二週間と言われても、それだけの時間が過ぎた実感はない。

 けれど、待っていた人にとっては違う。

 僕が知らない二週間は、何もなかった空白ではない。

 

「何度も、様子を聞きました」

 

 アルナさんの声が揺れる。

 

「セラフィーン様が大丈夫だと仰ってくださっても、それでも、本当に目を覚ますのか分からなくて……」

 

 大きな瞳へ涙が浮かんだ。

 それを見た瞬間、胸の奥が痛くなる。

 身体の傷とは違う場所。

 薬でも治癒術でも、すぐには治らないところだった。

 

「毎日、来ました。仕事の前も、終わったあとも。まだ起きていないと聞いて、それでも息はしていると聞いて……それで」

 

 声が詰まる。

 アルナさんは一度、口元を手で覆った。

 そのまま俯くのかと思ったけれど、すぐに顔を上げる。

 泣いているのに、僕から目を逸らさなかった。

 

「帰ってきてくださいって、言いました」

 

 その言葉に、僕は視線を落とす。

 

「無事に帰ってきてくださいって、何度も言いました」

「……はい」

「なのに、どうして毎回、血だらけなんですか」

 

 返す言葉がなかった。

 怒鳴られてはいない。

 責め立てるような声でもない。

 それなのに、一つ一つの言葉が胸へ深く刺さった。

 

「どうして、そんなに無茶をするんですか」

「……すみません」

「謝ってほしいのではありません」

 

 即座に返され、僕は顔を上げる。

 アルナさんは唇を引き結び、少しだけ目を伏せた。

 

「いえ。謝ってほしいです。すごく、たくさん謝ってほしいです」

「はい」

「でも、それだけではなくて……」

 

 伏せられた猫耳が、小さく震える。

 

「ちゃんと、帰ってきてほしいんです」

 

 言葉が出なかった。

 だから、僕はただ頷く。

 何度も心配をかけて。

 何度も帰ってくると答えて。

 そのたびに怪我をして戻ってきた。

 僕は、自分が傷つくことばかり考えていたのかもしれない。

 痛くても動ける。

 血を流しても、最後に生きて帰ればそれでいい。

 どこかで、そんなふうに思っていた。

 けれど、帰りを待つ人にとっては。

 血だらけで戻ることも、二週間も目を覚まさないことも、無事とは呼べなかった。

 

「すみませんでした」

 

 今度は、きちんと頭を下げようとした。

 寝台へ手をつき、少しだけ上体を起こす。

 その瞬間、脇腹へ鋭い痛みが走った。

 

「っ……」

「動かないでください!」

 

 アルナさんとセラフィーンさんの声が、綺麗に重なった。

 僕は慌てて寝台へ戻る。

 

「……すみません」

「謝るために怪我を悪化させないでください」

「はい」

 

 怒られた。

 けれど、ほんの少しだけいつものアルナさんに戻った気がした。

 それが嬉しくて――同じくらい、申し訳なかった。

 

「心配をかけました。本当に、すみません」

 

 寝台へ横になったまま、できる限りまっすぐアルナさんを見る。

 

「でも、ミミルさんを置いていくことはできませんでした。リュシアさんが助けを呼びに行ってくれたから、僕はそれまで繋ぐしかないと思って」

「分かっています」

 

 アルナさんは頬を伝った涙を、手の甲で拭った。

 

「分かっています。だから、怒っているんです」

「……はい」

「ルキウスさんが、そういう人なのは知っています。困っている人を見捨てられなくて、止めても行ってしまう人だって……分かっています」

 

 また声が揺れた。

 けれど今度は、涙を隠そうとはしなかった。

 

「でも、分かっていることと、平気なことは違うんです」

 

 僕は黙って、その言葉を聞いた。

 分かっていることと、平気なことは違う。

 僕がそうするだろうと予想できても。

 正しい判断だったと納得できても。

 それで心配せずにいられるわけではない。

 たぶん――僕が思っていたより、ずっと大切な違いだった。

 

「次は、もっとちゃんと帰ってきます」

 

 真剣に答えたつもりだった。

 けれどアルナさんは、即座に眉を吊り上げる。

 

「次がある前提で話さないでください」

「……はい」

 

 正論だった。

 まったく反論できない。

 僕が静かになったところで、セラフィーンさんが小さく咳払いをした。

 

「アルナさん。お気持ちはよく分かりますが、ルキウスさんはまだ病み上がりです」

「あっ」

 

 アルナさんは、はっとしたように顔を上げた。

 

「す、すみません。つい……」

「いえ。僕は怒られて当然なので」

「そうですね」

 

 セラフィーンさんが、穏やかに頷く。

 

「では、続きは一日三十分までにしましょう」

「続くんですか?」

 

 思わず聞き返す。

 アルナさんは涙の残った顔で、きっぱりと言った。

 

「続きます」

「……はい」

 

 僕は天井を見上げる。

 

「知らない天井だ……」

「もう知っている天井ですよね?」

「はい」

「先ほども言っていましたよね?」

「はい」

「逃げようとしないでください」

「はい」

 

 完全に見抜かれていた。

 隣では、セラフィーンさんが口元へ手を添えて笑っている。

 笑ってくれているだけ、まだましなのかもしれない。

 

 その時だった。

 廊下の向こうから、今度は重い足音が近づいてくる。

 先ほどの軽い足音とは違う。

 どしん、どしんと――床板が僅かに震えるような音だった。

 僕とアルナさん、セラフィーンさんが、ほとんど同時に扉を見る。

 扉が開き、そこに立っていたのはフレイヴィアさんだった。

 

 夜のような黒髪に、黄金の瞳。背筋を伸ばした堂々たる立ち姿。

 ここまでは、いつものフレイヴィアさんだ。

 問題は、その後ろにあった。

 教会の職員さんが二人がかりで、大きな包みを抱えている。

 さらに、その後ろにも包み。

 そのまた後ろにも――包み。

 焼いた肉に、干した肉。塩漬けの肉と骨付き肉、それから何の部位なのか分からない、僕の上半身ほどもある塊肉。

 廊下から流れ込んでくる匂いだけで、すべてが肉だと分かる。

 明らかに、病室へ持ち込む量ではなかった。

 僕は固まった。

 アルナさんも固まった。

 セラフィーンさんだけが、静かに目を細めている。

 

「見舞いだ」

 

 フレイヴィアさんは、当然のことのように言った。

 

「え、ええと……ありがとうございます?」

 

 とりあえず礼を言う。

 それ以外に、どう答えればいいのか分からなかった。

 だって、見舞いだと言われたのだ。

 たとえそれが、病室へ持ち込む量ではない肉の山だったとしても。

 僕の返事を聞き、フレイヴィアさんは満足げに頷いた。

 

「肉を食えば治る」

「治りません」

 

 セラフィーンさんが、即座に否定する。

 フレイヴィアさんは納得できないように首を傾げた。

 

「治るだろう」

「治りません」

「竜族は治る」

「ルキウスさんは竜族ではありません」

「む」

 

 フレイヴィアさんが黙った。

 いつも堂々としていて、何を言われても揺らがない人なのに、肉の効能を否定されて少し困っている。

 なんだか、とても珍しいものを見た気がした。

 セラフィーンさんは、病室へ入りかけている肉の山へ視線を向ける。

 

「そもそも、現在のルキウスさんに、これを食べさせるおつもりですか」

「……少しずつなら」

「駄目です」

「スープにすればよい」

「脂が強すぎます」

「ならば、よく噛めば」

「そういう問題ではありません」

 

 フレイヴィアさんが、不満そうに腕を組む。

 先ほどまで泣いていたアルナさんの口元が、僅かに緩んだ。

 僕も、つられて笑ってしまう。

 傷が痛い。

 笑うと、本当に痛い。

 でも――止められなかった。

 

「フレイヴィア様」

 

 セラフィーンさんの声は穏やかだった。

 ただし、逃げ道はなかった。

 

「病人へのお見舞いに、肉を山のように持ってくるのは控えてください」

「山ではない」

「山です」

「肉だ」

「肉の山です」

「む」

 

 フレイヴィアさんは少しだけ視線を逸らし、小さく呟いた。

 

「見舞いに何を持ってくればよいか、分からなかった」

 

 その一言で、空気が少し変わる。

 フレイヴィアさんは、ただ僕のために何かを持ってきてくれようとしたのだ。

 その結果が肉の山になっただけで。

 ……だけで済ませていいのかは分からないけれど。

 それでも、嬉しかった。

 

「ありがとうございます」

 

 今度は、きちんと伝える。

 

「今は食べられないかもしれませんけど、元気になったらちゃんと食べます」

 

 フレイヴィアさんの尾が、ほんの少しだけ揺れた。

 

「うむ」

「治ってからです」

 

 セラフィーンさんが、即座に釘を刺す。

 

「分かっている」

 

 その答えに、アルナさんの猫耳がぴこりと動いた。

 

「本当に?」

 

 僕は思わず、アルナさんを見る。

 本人も言ってから気づいたらしく、あ、と口元を押さえた。

 普段、僕に向けている確認が、そのままフレイヴィアさんへ飛んでしまったらしい。

 黄金の瞳が、僅かに細められる。

 

「なぜ余が責められている」

「い、いえ、つい」

「本当に本当ですか?」

 

 今度は僕が言ってしまった。

 フレイヴィアさんの視線が、じろりとこちらへ向く。

 

「ルキウス」

「はい」

「怪我人でなければ、少し叩いていた」

「すみませんでした」

 

 即座に謝る。

 アルナさんがまた少し笑い、セラフィーンさんも困ったように口元を緩めた。

 

 肉の山は、最終的に教会の厨房へ運ばれることになった。

 フレイヴィアさんは最後まで少し不満そうだったけれど、セラフィーンさんに「治療の妨げです」と言われると、さすがに引き下がった。

 職員さんたちが肉を運び出していく。

 病室に漂っていた肉の匂いが薄くなり、ようやく薬草と清潔な布の匂いが戻ってきた。

 フレイヴィアさんは寝台の横へ立ち、僕を見る。

 

「目を覚ましたか」

「はい。助けていただいて、ありがとうございました」

 

 頭を下げようとしたけれど、少し動いただけで肩へ痛みが走る。

 

「動くな」

 

 フレイヴィアさんの声が飛び、僕はぴたりと止まった。

 

「すみません」

「謝るなら、生きてからにしろ」

「生きています」

「ならば、それでよい」

 

 短いやり取りだった。

 けれど、その声にはほんの少しだけ安堵が滲んでいるような気がした。

 気のせいかもしれない。

 でも、そうだといいと思った。

 

 雪原でのことを思い出す。

 白い世界。

 迫ってきた鉤爪。

 死ぬと思った瞬間に落ちてきた、たわけが、という声。

 黒い髪に、黄金の瞳。

 僕と怪物の間へ立った、大きな背中。

 あの時、僕はまた助けられた。

 

「フレイヴィアさん」

「なんだ」

「ありがとうございました」

「聞いた」

「もう一度、言わせてください」

 

 フレイヴィアさんは黙った。

 だから、僕は続ける。

 

「ありがとうございました。僕、また助けられました」

 

 その言葉に、フレイヴィアさんは少しだけ目を細めた。

 

「助けられることは恥ではない」

「……でも、悔しかったです」

 

 口にした瞬間、胸の奥が少し熱くなる。

 あの白い雪原で見た背中。

 自分がなりたかったもの。

 自分では届かなかったもの。

 それが、まだ胸の中へ残っていた。

 

「僕は、ミミルさんを助けたかった。リュシアさんが戻ってくるまで、なんとか繋ぎたかった。でも最後は、やっぱりフレイヴィアさんに助けてもらいました」

 

 アルナさんは黙っている。

 セラフィーンさんも、何も言わない。

 フレイヴィアさんだけが、まっすぐ僕を見ていた。

 

「ミミルさんとリュシアさんが助かったことは、本当に嬉しいです。でも僕はまだ、何もできなかったんだと思いました」

「何も、ではない」

 

 フレイヴィアさんが静かに言う。

 

「主が稼いだ時間で、救援が間に合った」

「それでも、です」

 

 僕は首を横へ振る。

 振っただけで少し頭が痛んだけれど、今は気にしないことにした。

 

「僕は、英雄になりたくてここへ来ました」

 

 言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。

 それでも、もう誤魔化したくなかった。

 

「でも、今の僕は誰かを助けるどころか、助けられてばかりです。アルナさんに心配をかけて、セラフィーンさんに治してもらって、フレイヴィアさんに守ってもらって……」

 

 言葉にするたび、自分の弱さが形になっていく。

 それを見るのは、少し怖かった。

 けれど、見ないふりをしたままでは、きっと先へ進めない。

 

「僕は、弱いです」

 

 部屋の空気が静かになる。

 アルナさんが何かを言おうとして、口を閉じた。

 セラフィーンさんも、ただ僕を見ている。

 フレイヴィアさんは何も言わない。

 僕は小さく息を吸った。

 

「でも、弱いまま終わりたくないです」

 

 その瞬間、廊下から教会の職員さんが顔を出した。

 

「あの、セラフィーン様。お肉は厨房でよろしいでしょうか?」

「はい。全部お願いします」

「全部か」

 

 フレイヴィアさんが反応する。

 セラフィーンさんは、静かに振り返った。

 

「全部です」

「一切れくらい、ここへ残しても」

「駄目です」

「見舞いだぞ」

「治療中です」

「む」

 

 せっかく少し真面目な空気になっていたのに、肉で戻された。

 僕は笑いそうになり、慌てて脇腹を押さえる。

 痛い。

 それでも、さっきより少しだけ楽だった。

 

「元気になったら食べたいです」

 

 僕が言うと、フレイヴィアさんは満足げに頷いた。

 

「ならば、余が焼く」

「フレイヴィア様、お料理できるんですか?」

 

 アルナさんが不安そうに尋ねる。

 フレイヴィアさんは胸を張った。

 

「肉を焼くことはできる」

 

 セラフィーンさんが、静かに告げる。

 

「料理と肉を焼くことは、似ているようで別です」

「違うのか」

「違います」

 

 フレイヴィアさんは、少しだけ納得がいかないような顔をした。

 アルナさんは笑いをこらえ、僕は結局、また笑ってしまう。

 病室なのに。

 怒られて、肉が運び込まれ、今度は料理の話になっている。

 二週間も眠っていたあとの目覚めにしては、あまりにも騒がしい。

 でも――悪くない。

 むしろ、とてもありがたかった。

 

 しばらくして、セラフィーンさんから休むように言われた。

 アルナさんも仕事の合間にまた来ると言い、扉へ向かう。

 けれど部屋を出る直前、もう一度だけ僕を振り返った。

 

「ルキウスさん」

「はい」

「次に無茶をしたら、もっと怒りますからね」

「はい」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 アルナさんは少しだけ目を細めた。

 けれど、今度は泣かなかった。

 

「では、また後で」

「はい。また後で」

 

 アルナさんが部屋を出ていく。

 閉じる扉を見つめながら、胸の奥に小さな痛みが残った。

 僕の顔を隠すフード。

 僕が人間だということ。

 いつかは、話さなければならない。

 今はまだ、セラフィーンさんの判断に従う。

 それでも――隠したままでいいとは思えなかった。

 

 セラフィーンさんも薬の準備をすると言って、一度部屋を離れた。

 肉の山を完全に厨房へ移すためでもあるらしい。

 部屋には、僕とフレイヴィアさんだけが残された。

 正確には扉も開いているし、教会の人たちの気配も近くにある。

 けれど、先ほどまでの騒がしさが嘘のように、室内は静かだった。

 

 フレイヴィアさんは帰ろうとしているのか、扉へ向かって歩き出す。

 その背中を見た瞬間、胸の奥が強く鳴った。

 

 黒い背中。

 雪原で見た背中。

 僕が届かなかった背中。

 

 今、言わなければ。

 きっと僕は、また何かを理由に先延ばしにする。

 身体は痛い。

 声を出すだけでも、少し疲れる。

 それでも――今、言わなければ駄目だと思った。

 

「フレイヴィアさん」

 

 僕が呼ぶと、フレイヴィアさんは足を止める。

 ゆっくりと振り返り、黄金の瞳をこちらへ向けた。

 

「ぬ? なんだ」

 

 僕は寝台の上から、彼女をまっすぐ見る。

 起き上がろうとして脇腹が痛んだけれど、目だけは逸らさなかった。

 

「一つ、お願いがあるんです――」

 

 次の一歩を踏み出すために。

 

 





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