駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
第一章、お読みいただきありがとうございます。本当に感謝しています。
ここから第二章開幕です。
フレイヴィアのもとに弟子入りして、どれだけ時間がたったのか。力をつけたルキウスが何を目指し、何を為すのか。
第二章も引き続き楽しんで頂ければ、私としましてはそれ以上の喜びはありません。
長くなりましたが、私の感謝の気持ちでした。
それでは、本編どうぞ。
第二章 第一話『受付嬢は少年を心配しすぎる』
◆001 受付嬢は少年を心配しすぎる
瞼を刺す朝日に気づいた瞬間、僕は毛布を跳ね除けた。
まずい――完全に寝過ごした。
半ば転がるように身を起こし、飛んでくるはずの木剣に備えて両腕を上げる。
けれど、しばらく待っても頭上から何かが降ってくる気配はない。恐る恐る腕の隙間から見上げると、そこにあったのは見慣れた木組みの天井だった。
「……そっか。もうフレイヴィアさんの家じゃないんだった」
ゆっくりと腕を下ろし、室内を見回す。
窓辺には古びた机があり、壁際には旅荷物がまとめて置かれている。寝台の脇に並んでいるのも、木剣を構えた竜族ではなく、昨日のうちに揃えておいた装備一式だ。
ここは角兎亭の二階にある、僕の部屋。
フレイヴィアさんの家から戻って一週間ほどしか経っていないせいか、自分の部屋なのに、まだ少しだけ他人の部屋のように見える。
彼女の家で寝起きしていた頃は、朝日を見てから起きるのでは遅かった。
目を開けた瞬間に木剣が飛んでくる日もあれば、毛布ごと寝台から引きずり下ろされる日もある。酷い時には、僕が眠っているうちに修行が始まっていた。
「意味が分からない……」
眠っている人間に、いったい何を学ばせるつもりだったのだろう。
「今日は、飛んでこない」
念のため、誰もいない室内へ言い聞かせてみる。
当然ながら何も飛んでこなかったので、僕はようやく肩の力を抜き、寝台から足を下ろした。
床板の冷たさが足の裏から這い上がり、残っていた眠気を追い払う。
水差しの水で顔を洗い、机の前へ立つ。脚部の防具、靴、胴当ての順に身につけ、腰のベルトへ道具袋を通した。
革紐を強く引いたところで、右の脇腹に鈍い痛みが走る。
「……まだ、少し残ってるな」
手を止め、服の上から脇腹を押さえる。
ゆっくり息を吸い込んでみても、痛みは強くならない。ただ、傷の奥に細い糸でも残っているような、引きつる感覚があった。
半年前、ランク4への昇格試験で負った傷だ。
魔物の動きを読み違え、仲間を庇った結果、僕は自分の足でエルドランへ帰れなかった。
傷そのものは、もう塞がっている。
セラフィーンさんからも戦って構わないと言われているし、身体を大きく捻らなければ違和感もない。
脇腹から手を離し、もう一度ベルトを締め直す。
「動けるなら、大丈夫」
声に出すと、少しだけ胸が軽くなる。
……たぶん気のせいだ。
最後にフード付きの外套を羽織り、机の脇へ立てかけた鏡の前へ移動する。
フードを深く被ると、その奥に二年前より伸びた髪と、ほんの少しだけ大きくなった身体が映った。
装備の位置も悪くない。
ベルトは正しい向きで、道具袋も逆さではなく、武器の柄も椅子へ引っかかっていない。
二年前の僕は、その三つを一度にやって派手に転んだ。
「うん。問題なし」
今なら、さすがに同じ失敗はしない。
……しないはずだ。
「おぉーい、坊や! 朝飯できてるよ!」
一階から響いた女将さんの声に、僕は鏡から離れた。
「はい! 今行きます!」
扉へ向かい、椅子を避けて部屋を出る。
階段を下りるにつれ、煮込んだ肉と香辛料の匂いが濃くなっていった。
角兎亭の食堂には、すでに何人もの客が集まっている。
依頼へ出る準備を整えたハンターに、荷物を足元へ置いた商人。隅の卓では眠そうな獣人が、器を両手で抱えながらスープを啜っていた。
食器の触れ合う音と低い話し声の間を、大柄な女将さんが危なげなく歩き回っている。片手には料理を載せた皿を三枚も持っているのに、少しも傾いていない。
「僕なら、一枚でも危ないな……」
足元を確かめながら、空いている卓へ向かう。
「おはようございます」
「あいよ、おはよう。今日は早いじゃないか」
女将さんは僕が椅子を引くより早く、卓へ深皿を置いた。
角兎肉と豆の煮込みがたっぷりと入り、その横には黒パンと、表面を軽く炙った野菜が並んでいる。
「朝日が出てから起きました。フレイヴィアさんの家なら遅刻です」
「ここはうちだよ。朝飯に間に合えば十分さ」
女将さんは空いた手で、早く座れと椅子を叩く。
「それは助かります」
「朝から木剣でも投げられてたのかい?」
「……投げられていました」
僕が椅子へ腰を下ろすと、女将さんは一瞬だけ目を丸くした。
けれど、深く聞かない方がよいと判断したのか、すぐに背を向ける。
「いただきます」
「あいよ。たんと食べな」
煮込みを掬って口へ運ぶと、柔らかな肉と豆が舌の上で崩れた。
野菜の甘みが溶けた汁は少し濃いめで、朝の身体へゆっくりと染み込んでいく。黒パンを浸せば、香ばしさのあとから肉の旨味が追いかけてきた。
修行中にも何度か食べに戻ってきてはいたけれど、自分の部屋から階段を下りて食べる朝食は久しぶりだ。
「女将さん、おかわりありまふか?」
「口に詰めたまま喋るんじゃないよ!」
食堂中へ響く声で叱られた。
近くの卓にいた商人が肩を揺らしている。
僕は目を伏せ、慌てて口の中のパンを飲み込んだ。
「……おかわり、ありますか」
女将さんは呆れたように腰へ手を当てたものの、空になりかけた皿を持ち上げる。
「もちろんさ。なんだい、今日は朝から元気だねぇ」
鍋から煮込みがたっぷりと追加される。
その量を見て、僕は素直に匙を握り直した。
「昨日も帰りが遅かっただろ。変な店にでも入り浸ってるんじゃないだろうね」
「入っていませんよ」
即座に首を振る。
けれど女将さんは疑わしそうに目を細めた。
「どうだかねぇ」
「装備の手入れを頼んでいただけです。本当に何もありません」
僕がもう一度首を振ると、女将さんは腕を組み、フードの先から靴までを順番に眺めた。
「坊やは妙なところで真面目だからねぇ。けどまあ、見違えたもんだよ」
「そうですか?」
「ああ。最初に来た頃は、フードを被った細っこい坊やだったのにね」
女将さんの視線を追い、自分の腕へ目を落とす。
「今もフードを被っていますし、細いと思います」
「前よりはましさ」
そう言って、女将さんは僕の肩を軽く叩いた。
確かに、二年前よりは少し太くなっている。
「二年もあれば、変わるものですね」
「二年かい。早いもんだねぇ」
女将さんが目を細めた。
その視線につられ、僕も手元の皿へ目を落とす。
二年という言葉は短い。
けれど、その間には走った日も、転がされた日も、依頼に失敗した日もあった。ほんの少しだけ上手くいって、また翌日に失敗した日だって数え切れない。
それでも今は、こうして角兎亭で朝食を食べている。
「ぼうっとしてないで食べな。冷めるよ」
「あっ、はい」
女将さんの声で我に返り、残っていた煮込みを急いで食べる。
空になった皿を卓の端へ寄せ、椅子から立ち上がると、別の客へ料理を運んでいた女将さんがこちらへ片手を上げた。
「もう行くのかい?」
「はい。今日はガルドさんと依頼です」
なら、と女将さんは立ち止まり、僕の装備をもう一度眺める。
「なら、あの犬耳のお兄さんから離れるんじゃないよ」
「僕も、もうランク4ですよ」
「半年前に担ぎ込まれた奴が言う台詞じゃないね」
女将さんの視線が、僕の右脇腹へ落ちた。
「……それは、そうですが」
つられるように、服の上から傷へ手を当てる。
反論する言葉は見つからなかった。
「まあ、気をつけて行ってきな。帰ったら腹いっぱい食わせてやるよ」
「はい。行ってきます!」
僕が扉へ向かうと、女将さんは料理の皿を持ったまま声を張る。
「あいよ。行ってらっしゃい!」
温かな声を背中に受け、角兎亭を出る。
朝のエルドランは、すでに賑やかに動き始めていた。
石畳の上を荷車が行き交い、露店では商人たちが客を呼び込んでいる。
港から流れてくる潮風には魚の匂いが混じり、建物の間を抜けるたびに外套の裾が小さく揺れた。
空は澄み、天気もいい。
フードの端を片手で押さえながら、人の流れに沿ってギルドへ続く道を歩く。
「おぉーい、ルキウス!」
港近くの露店から、聞き覚えのある声が飛んできた。
足を止めて振り向くと、魚を並べていた狐耳の獣人――ラッツさんが、日に焼けた腕を大きく振っている。
「今日もリーヴァウォを買ってけよ! 朝に揚がったばっかりだ!」
「すみません。さっき朝ごはんを食べたばかりで」
膨れた腹を軽く押さえてみせると、ラッツさんは声を上げて笑った。
「かかっ! そりゃ仕方ねぇな。また寄れよ!」
「はい!」
手を振り返し、再びギルドへ向かう。
行き交う人を避けながら歩いていると、背後からもう一度ラッツさんの呼び声が聞こえた。今度は別の客へ向けたものだった。
二年前、この街へ来たばかりの僕は、深くフードを被った正体不明の新人だった。
道には迷うし、店へ入るたびに緊張するし、話しかけられれば必要以上に身構えていた気がする。
けれど今は、道端から名前を呼ばれる。
食事をする店も、装備を任せる相手もいる。
「……少しは、馴染めたのかな」
少し先に見えてきたギルドの建物へ目を向け、そのまま人混みの中を進む。
両開きの扉を押すと、朝のざわめきと熱気が一度に押し寄せてきた。
掲示板の前では新人らしい二人組が依頼票を見比べ、受付の近くには素材の買い取りを待つハンターが並んでいる。
床へ木箱を置く重い音に、怒鳴り声と笑い声。紙や墨、革と金属に混じって、朝から酒を飲んでいる誰かの匂いまで漂っていた。
「あら、ルキウスくんじゃない」
声のした方を見る。
二年前にも声を掛けてくれた女ハンター、マリカさんが卓から片手を上げていた。
相変わらず露出の多い装備を身につけ、相変わらず僕よりずっと豪快に笑っている。
「おはようございます、マリカさん」
「今日は討伐?」
「はい。ガルドさんと行く予定です」
マリカさんは僕の装備を一通り確認し、満足そうに頷いた。
「そう。まあ、今のあんたなら心配ないか」
「ありがとうございます」
「でも、怪我して帰ったら笑うからね」
「どうしてですか?」
そう尋ねると、マリカさんは悪戯っぽく口元を緩めた。
「そういう気分だから」
「さっきの言葉、返してください」
「もう遅いわよ」
マリカさんは笑いながら、追い払うように手を振った。
僕は小さく息を吐き、受付へ向かって歩き出す。
「おはよう、ルキウス」
その途中、資料を広げていたエルフの調査員――リュシアさんが顔を上げた。
「おはようございます」
「今日はガルドさんと?」
「はい。でも、僕一人でもそれなりに戦えますよ」
少しだけ胸を張ってみせる。
リュシアさんは僕の装備を確かめるように緑の瞳を細め、柔らかく笑った。
「うん。知ってる」
そう言って、広げていた資料を丁寧に重ねる。
けれど、その手を止めたリュシアさんは、もう一度僕へ顔を向けた。
「でも、一人で戦えることと、一人で戦うことは違うでしょう?」
「……はい」
以前の僕なら、何が違うのか分からなかったかもしれない。
今は、ほんの少しだけ分かる。
リュシアさんへ頭を下げ、再び受付へ向かう。
その背後から、今度は大きな声が飛んできた。
「ルキウス! 今日は何を狩るんだ!」
同時に、重たい手が肩へ落ちてくる。
大柄な男ハンター、ボルドさんだった。
「東の丘陵地帯で、小型の群れを討伐します」
「地味だな!」
ボルドさんは不満そうに眉を寄せる。
僕は肩へ置かれた手を押し退けながら、首を振った。
「依頼に地味も派手もありません」
「そういうところは変わらねぇな!」
機嫌よく肩を叩かれ、一歩ほど前へよろめく。
ボルドさんは慌てて手を離したものの、反省しているようには見えなかった。
「おっと。まだ軽いな」
「ボルドさんの力が強いんです」
「鍛え方が足りん!」
太い腕を曲げ、ボルドさんが力瘤を見せつけてくる。
「二年も鍛えたんですが」
「なら、あと二年だ!」
増えた。
思わず周囲へ目を走らせる。
当然ながら、フレイヴィアさんの姿はない。
「……聞かれてませんよね」
「何がだ?」
ボルドさんも僕につられて周囲を見回した。
僕は胸を撫で下ろし、首を振る。
「こちらの話です」
「そうか! なら鍛えろ!」
「あと二年については、少し考えさせてください」
「考えるな! 鍛えろ!」
肩へ伸びてくる手を避け、受付へ逃げる。
空いたカウンターの前で足を止めると、書類を整理していたアルナさんが顔を上げた。
僕と目が合った瞬間、淡い栗色の猫耳がぴこりと揺れる。
「おはようございます、ルキウスさん」
「おはようございます、アルナさん」
今日も耳が可愛い。
揺れた耳を目で追いかけそうになり、慌てて依頼票の束へ視線を落とす。
一度くらい触らせてもらえないだろうか――などと口に出せば、何か大切なものを失う気がする。
胸の内だけに留めておこう。
「本日は、こちらの依頼ですね」
アルナさんが一枚の依頼票を差し出した。
受け取って内容を確認する。
東部丘陵で増えた小型モンスターの討伐。
危険度はランク3相当。ただし群れの数が多いため、ランク4以上、もしくは複数人での受注が推奨されている。
「はい。ガルドさんと受けます」
「同行者の登録も確認しています」
アルナさんは手元の記録と依頼票を見比べ、確認欄へ印をつける。
「準備は済んでいますか?」
「問題ありません」
「予備の薬と信号弾は?」
「両方とも持っています」
返事を聞いても、アルナさんはすぐに判子へ手を伸ばさなかった。
依頼票をカウンターへ置き、僕をまっすぐ見上げる。
「撤退条件を確認します」
「群れの数が情報より多かった場合と、大型個体を確認した場合。あとは、ガルドさんが撤退を決めた時です」
アルナさんは僕の返答を一つずつ確かめるように、ゆっくり頷いた。
「はい。問題ありません」
判子が依頼票へ押され、乾いた音がカウンターへ響く。
アルナさんは紙面をもう一度確認してから、僕の前へ差し出した。
「それでは、依頼の受注を承認します」
「ありがとうございます」
依頼票を道具袋へしまい、カウンターから離れようとする。
いつもなら、これで終わりだ。
僕が行ってきますと言えば、アルナさんは受付嬢らしい笑顔で送り出してくれる。
「ガルドさんにも、よろしくお伝えください」
「はい。それでは、行ってきます」
僕が軽く手を上げると、アルナさんもいつもの笑顔を浮かべた。
「はい。行ってらっしゃい」
明るい声も、柔らかな笑顔も、いつもと変わらない。
僕もそのまま踵を返し、一歩踏み出した。
その時、外套の裾へ小さな重みが加わった。
「……アルナさん?」
振り返る。
アルナさんの指が、外套の端をつまんでいた。
強く引き止めているわけではない。自分でも気づかないうちに手を伸ばしてしまったような、頼りない触れ方だった。
「あっ……すみません」
僕と目が合うと、アルナさんはすぐに指を離した。
胸元で両手を重ね、何でもないように笑おうとしている。
けれど、二つの猫耳は先ほどより低く伏せられていた。
「どうしました?」
「傷は……もう、痛みませんか?」
一瞬、何のことを聞かれたのか分からなかった。
けれど、アルナさんの視線が右脇腹へ向いていることに気づき、無意識にそこへ手を当てる。
「少し引きつる時はあります。でも、戦闘には問題ありません」
「そうですか」
アルナさんは僕の脇腹を見つめたまま、僅かに眉を寄せた。
「セラフィーンさんにも診てもらいました」
「はい。それも聞いています」
アルナさんは、全部知っている。
傷が塞がっていることも、今日の依頼が今の僕なら受けられることも、ガルドさんが同行することも。
知っているからこそ、受付嬢として僕を止められないのだろう。
「半年前は、驚かせてしまいましたね」
僕がそう言うと、アルナさんの口元から僅かに力が抜けた。
「……少しだけです」
少し、という顔ではなかった。
昇格試験へ出発した僕は、自分の足で戻ってこられなかった。
教会で目を覚ました時、アルナさんはいつも通りに笑っていた。
けれど、その目元が赤かったことを僕は覚えている。
右脇腹へ置いていた手を離し、アルナさんへ向き直る。
「今回は普通の討伐依頼です。無理もしません」
「はい」
「危険だと思ったら、すぐに戻ります」
アルナさんは小さく頷いた。
それでも、伏せられた耳は持ち上がらない。
「……はい」
「約束します」
そう言って小指を立てると、アルナさんは意外そうに目を丸くした。
「そこまでしなくても大丈夫ですよ」
「した方が安心できませんか?」
アルナさんは僕の小指と顔を交互に見比べ、困ったように視線を揺らした。
「それは……そうかもしれませんけど」
やがて観念したように、アルナさんも小指を差し出す。
触れ合った指先は、思っていたより少し冷たい。
「無事に帰ってきてください」
静かな声だった。
アルナさんは自分へ言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を続ける。
「怪我をしないで、とは言いません。ハンターへ、それを約束させるのは難しいですから」
重ねた小指へ、僅かに力が込められた。
「でも、帰ってきてください」
その言葉だけは、受付嬢としてのものではなかった気がした。
「帰ってきます」
「本当に?」
アルナさんが念を押すように、僕の小指を引く。
「本当に本当です」
いつもの返事を聞き、アルナさんの耳がようやく元の位置へ戻る。
触れ合っていた小指が離れ、今度こそ彼女は受付嬢らしい笑顔を浮かべた。
「分かりました。行ってらっしゃい、ルキウスさん」
「はい。行ってきます!」
ギルドを出ると、朝の光が石畳へ白く降り注いでいた。
背後で扉が閉じる直前、僕は一度だけ振り返る。
受付の向こうでは、アルナさんが次のハンターへ笑顔を向けていた。
僕が見えなくなったあとも、きっと彼女はあの笑顔のまま仕事を続ける。
心配していることなど、誰にも気づかせないまま。
「……ちゃんと、帰ろう」
道具袋の上から依頼票へ触れ、ギルド前の時計塔へ目を向ける。
長針の位置を確認し、小さく息を吐いた。
「少し急がないとな」
ガルドさんとの待ち合わせまでは、まだ多少の余裕がある。
けれど、出発する前にもう一人だけ、顔を見ておきたい人がいた。
ギルド前の大通りを離れ、東通りへ向かう。
朝の人混みを抜け、何度か荷車を避けながら歩くと、見慣れたフレイヴィアさんの家が見えてきた。
玄関の前で足を止め、ベルを鳴らす。
朝のうちに顔を出すと伝えていたはずなのに、中から返事はない。
「フレイヴィアさん?」
もう一度鳴らす。
やはり反応はなかった。
念のため扉を叩いてみると、代わりに家の奥から、何か重たい物が崩れる音が聞こえてきた。
伸ばしていた手を止める。
「……嫌な予感がする」
こういう時の予感は、なぜか外れたことがない。
僕は懐から二年前にもらった合鍵を取り出し、フレイヴィアさんの家へ足を踏み入れた。
◆
同じ頃、ハンターギルドの受付では、アルナが閉じたばかりの扉を見つめていた。
ほんの少し前まで、受付台を挟んだ向こう側にルキウスがいた。
手を伸ばせば、外套の裾へ触れられるほど近い場所に。
けれど扉が閉じてしまえば、もうアルナの手が届くところにはいない。
外套を掴んだ指先を胸元へ戻す。
先ほど触れた布の感触が、まだ僅かに残っていた。
「……本当に、分かっているのでしょうか」
ぽつりと零れた声は、朝の喧騒へ紛れて消えていく。
依頼票を捲る紙の音。素材を詰めた木箱が床へ置かれる音。朝から酒を飲むハンターたちの、遠慮のない笑い声。
誰にも聞かれてはいない。
おそらく――そうでなければ困る。
アルナは背筋を伸ばし、カウンターの上へ残された書類を揃えた。
受付嬢がハンターを送り出した直後に、不安を口にするなど褒められたことではない。
まして相手が受注条件を満たし、危険について理解したうえで依頼へ向かったのなら、なおさらだった。
ギルドの受付嬢とは、ハンターを送り出す仕事だ。
依頼の内容と危険度を説明し、装備や同行者、撤退条件を確認する。
力量の足りない新人を止めることもあれば、傷ついた者を教会へ送ることもある。
そして時には、帰らなかった者の名前を記録へ残す。
それもまた、受付嬢の仕事だった。
だからアルナは、いつも笑っている。
『行ってらっしゃい』
『お気をつけて』
『無茶はしないでくださいね』
『また、報告に来てください』
同じような言葉を、これまで何度も口にしてきた。
笑って帰ってくる者もいれば、仲間の肩を借りて戻る者もいる。
血に濡れた担架だけが帰り、その上にいた者が二度と目を覚まさないこともあった。
ハンターとは、そういう生き方を選んだ人たちだ。
危険を承知で街の外へ出て、自分の力と判断を頼りに帰ってくる。
その挑戦を支えるのがギルドであり、受付嬢である。
「……分かっています」
誰へ聞かせるでもなく呟き、アルナは書類の端を揃え直す。
だから、ルキウスだけを特別に心配してはいけない。
ずっと、そう思っていた。
少なくとも――そう思おうとはしていた。
次の依頼票を取ろうとして、アルナは手を止める。
視線が、先ほどまでルキウスの立っていた場所へ戻ってしまった。
受付台の前。
少し困ったように笑いながら、小指を差し出してきた場所。
顔を隠すほど深く被ったフードは、初めて会った頃と変わっていない。
けれど、その下から聞こえる声は、あの頃よりずっと明るくなった。
背も伸び、細かった肩にも、ほんの少し厚みが増した。
武器を握る手には硬い豆ができ、依頼票を読む目にも迷いがない。
立ち方も、歩き方も、装備の扱い方も、もう二年前の駆け出しではなかった。
それは、誰より近くで見てきたアルナ自身が分かっている。
けれど。
閉じた扉から、すぐには目を離せなかった。
強くなった今でも、アルナの目にはどこか危なっかしく映ってしまう。
初めてこのギルドを訪れた日のことを、今でも覚えている。
深くフードを被り、所在なさそうに大広間へ立っていた細い少年。
右も左も分からないはずなのに、掲示板の依頼だけは妙に真剣な眼差しで見つめていた。
『英雄になりたい』
そう口にした時も、彼の声には少しの迷いもなかった。
だからこそ、怖かった。
この人は、きっと止まらない。
困っている誰かを見つければ、自分のことなど後回しにしてでも手を伸ばす。
まだ彼のことをほとんど知らなかったはずのアルナでさえ、なぜかそう思えてしまった。
最初は、新人に対する当たり前の心配だった。
自分の力量を見誤らないように。
危険すぎる依頼へ手を出さないように。
怪我をしたら、無理をせずに帰ってくるように。
受付嬢としての、ありふれた心配。
そのはずだった。
アルナは、開いたままになっていた記録用紙へ視線を落とす。
東部丘陵、小型モンスター群の討伐。
危険度、ランク3相当。
受注者、ルキウス。
同行者、ガルド。
規定された危険度の範囲内。
受注条件も満たしている。
装備、薬、信号弾、撤退条件についても確認した。
手続きに問題はない。
彼を止める理由など、どこにもなかった。
「問題は、ありません」
声にして確認し、記録用紙へ指を滑らせる。
けれどルキウスはいつも、アルナが思っているより少しだけ先へ行ってしまう。
止めれば、素直に頷く。
注意すれば、「分かりました」と笑う。
それなのに、誰かのためとなれば迷わず足を踏み出す。
自分が傷ついている時でさえ、真っ先に他人の名前を呼ぶ。
痛くないはずがない。
怖くないはずもない。
それでも彼は、決まって笑うのだ。
『大丈夫です』
『心配しないでください』
まるで、その言葉を口にすれば、本当に何もかも大丈夫になると信じているように。
そのたび、アルナの胸の奥では何かが小さく軋んだ。
先ほど、ルキウスは右の脇腹へ手を当てていた。
治っている。
戦闘にも問題はない。
分かっているはずなのに、その仕草を思い出した瞬間、アルナの鼻の奥へ、もう消えたはずの血の匂いが蘇った。
――半年前。
ランク4への昇格試験から、ルキウスが運び込まれた日のことを、アルナは今も忘れられない。
ギルドの扉が乱暴に開き、誰かの叫ぶ声が大広間を貫いた。
運び込まれた担架から赤い雫が垂れ、床の上へ点々と跡を残していた。
担架の上には、顔色を失ったルキウスが横たわっていた。
深く被っていたはずのフードは外れかけ、閉じられた瞼は、いくら名前を呼んでも動かなかった。
「ルキウスさん……?」
あの時、自分がどんな顔をしていたのかは覚えていない。
ただ、指先がひどく冷たかったことだけは覚えている。
治療師たちが何かを叫びながら、彼を教会へ運んでいく。
けれど、その声は途中から意味のない音に変わり、何一つ頭へ入ってこなかった。
アルナは祈った。
受付嬢としてではなく、ギルドの職員としてでもなく。
ただ、アルナ・リュネットという一人の獣人族として。
どうか、帰ってきて。
まだ、この人を連れていかないで。
声には出せないまま、何度も同じ言葉を繰り返した。
命に別状はないと聞かされた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
それでも、その場では笑った。
必要な手続きを済ませ、ほかの職員へ状況を伝えた。
それから誰にも見つからない場所へ入り、ほんの少しだけ泣いた。
仕事へ戻るまでの、短い時間だけ。
受付嬢の顔へ戻れるようになるまで。
無意識に握り締めていた指へ、爪が食い込む。
僅かな痛みで、アルナは現在へ引き戻された。
「アルナさん?」
隣の受付から声を掛けられ、はっと顔を上げる。
同僚の職員が、手にした書類を胸元へ抱えながら、不思議そうにこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
アルナは反射的に笑顔を作る。
柔らかく、丁寧で、相手へ余計な不安を抱かせない、いつもの受付嬢の顔だ。
「少し、考え事をしていただけです」
同僚はアルナの顔をしばらく見つめたものの、やがて小さく頷いた。
「そうですか? ならいいんですけど」
「ありがとうございます。次の方をお願いしますね」
同僚は自分の受付へ戻っていった。
アルナも手元へ視線を落とし、開いたままの記録を整える。
記録用紙の端を指で押さえたところで、薄い紙が僅かに歪んだ。
あの日からだ。
ルキウスを送り出す時の言葉が、以前とは違うものになってしまったのは。
『無茶はしないでください』
『危険なら戻ってください』
『ちゃんと報告に来てください』
口にする言葉は、ほかのハンターへ向けるものと変わらない。
けれど、その奥に隠しているものだけは、明らかに違っていた。
帰ってきて。
お願いだから。
今度は、自分の足で。
ルキウスは強くなった。
二年前とは違う。
依頼票の読み方を覚え、自分にできることと、できないことを考えられるようになった。
仲間と連携することも、危険を察して退くことも覚えた。
――少なくとも、以前よりは。
「……以前よりは、ですよね」
小さく呟き、アルナは記録用紙をそっと撫でて平らへ戻した。
ガルドも一緒だ。
ルキウス一人ではない。
フレイヴィアも彼の力を認め、セラフィーンも身体に問題はないと判断している。
「大丈夫です」
誰へ言うでもなく、アルナはもう一度呟く。
だから、きっと大丈夫。
――そう思わなければならない。
それなのに、先ほど触れた小指の感触が、まだ指先へ残っていた。
温かかった。
二年前より大きくなり、皮膚も硬くなっていた。
もう、道具の扱いにも慣れていなかった頃の、柔らかな少年の手ではない。
きちんと、ハンターの手になっていた。
アルナは、自分の小指へ親指を重ねる。
その温かさを知っているからこそ、怖くなる。
この手が、もう一度血に濡れたら。
冷たくなったまま、戻ってきたら。
今度こそ、帰ってこなかったら。
「……嫌」
声が漏れ、慌てて口を閉じる。
周囲へ視線を走らせても、こちらを見ている者はいない。
受付台の下では、栗色の尻尾が力なく垂れていた。
いけない。
そんなことを考えてはいけない。
ギルドには毎日、大勢のハンターが訪れる。
その一人ひとりに、帰りを待つ誰かがいる。
それぞれに事情があり、それぞれに失えないものがある。
ルキウスだけが特別ではない。
受付嬢である自分にとって、特別であってはならない。
「……分かっています」
そうでなければならないのに、胸の奥だけが言うことを聞かなかった。
どうして、彼の名前だけを目で追ってしまうのだろう。
どうして、彼が依頼票へ手を伸ばす時だけ胸が重くなるのだろう。
どうして「行ってきます」と笑われるたび、その外套を掴みたくなってしまうのだろう。
アルナは、依頼票を揃えていた手を止めた。
行かないで。
そう言えたなら、どれほど楽だろう。
今日は依頼へ行かないでください。
ギルドの中にいてください。
角兎亭で食事をして、危険のない街の中で過ごしてください。
英雄にならなくてもいい。
誰かを助けなくてもいい。
ただ、生きていてください。
――いっそ、そう言ってしまえたら。
けれど。
アルナは、ルキウスの名前が書かれた依頼記録へ目を落とした。
そんな言葉は、彼の願いを踏みにじる。
この二年間、血を流し、傷痕を残し、それでも積み上げてきた時間を、アルナの不安だけで縛ることになる。
「それは……嫌です」
彼の夢を否定したくはない。
強くなろうとする姿を、誰より近くで見てきたのだから。
それなのに、ほんの一瞬でも縛りたいと思ってしまう。
危険な依頼票を、彼の目へ入らない場所に隠してしまえたら。
ガルドへ頼み、無茶をしそうになったら力ずくでも連れ帰ってもらえたら。
フレイヴィアへ伝え、今日は修行だと引き止めてもらえたら。
そんな考えが頭の片隅をよぎる。
ほんの一瞬とはいえ、よぎってしまう。
アルナは、そっと自分の指先を見つめた。
先ほど、彼の外套を掴んだ手。
ほんの少し触れただけで、ルキウスは足を止めた。
振り返り、いつもの少し困ったような声で「アルナさん」と呼んでくれた。
そのことが、ひどく嬉しかった。
自分が手を伸ばせば、彼は一度だけ立ち止まってくれる。
自分の声なら、振り返ってくれる。
――それを知ってしまった。
「……駄目ですね、私」
呟くと、猫耳がゆっくり伏せていく。
ハンターの挑戦を支えるはずの自分が、彼の足を止めたいと思っている。
強くなったことは嬉しい。
難しい依頼を任せられるようになったことも、街の人々から名前を呼ばれるようになったことも誇らしい。
彼がこの街で居場所を作り、もう孤独ではなくなったことも、本当に嬉しかった。
けれど。
アルナは、閉ざされた扉へもう一度目を向けた。
遠くへ行かないでほしい。
自分の見える場所にいてほしい。
声を掛ければ、すぐに振り返る場所にいてほしい。
そしていつか、無事に帰ってきてくれるだけでは足りないと思ってしまうのではないか。
「そんなことまで……」
掠れた声が、自分の耳へ届く。
そんなことまで考える自分が、少し怖かった。
誰かへ笑い掛ける彼を見る。
誰かを助ける彼を見る。
誰かに感謝され、フードの下で照れたように頬を掻く彼を見る。
それは良いことだ。
ルキウスらしいことだ。
この街で彼が受け入れられている証拠でもある。
分かっている。
……分かっているのに、胸の奥が僅かに痛む。
どうして、そんなふうに誰かを助けてしまうのですか。
どうして、自分のことを後回しにできるのですか。
どうして――私だけを、安心させてはくれないのですか。
そこまで考え、アルナは静かに息を呑んだ。
手元へ視線を戻し、散らばりかけた依頼票の端を揃える。
「違います」
彼を独り占めしたいわけではない。
たくさんの人に受け入れられてほしい。
この街で笑い、帰る場所をいくつも持ってほしい。
彼が誰かを大切にし、誰かから大切にされることは、きっと喜ぶべきことだ。
それでも。
整えた依頼票の一番上には、つい先ほどまでルキウスが見ていた空白が残っていた。
その帰る場所の中で、自分だけは少し特別でありたい。
誰よりも彼の帰りを待っているのは、自分であってほしい。
誰よりも先に「おかえりなさい」と言える場所へ、いたかった。
そんな願いが、湿った熱のように胸の奥へ沈んでいく。
「……お待ちしています」
本人には届かない声で、アルナは呟いた。
受付台の前へ、次のハンターが立つ。
アルナは顔を上げようとして、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
仕事は続く。
ルキウスが街の外へ出たあとも、ギルドは止まらない。
誰かが依頼を受け、誰かが報告へ訪れる。
誰かが怪我をして戻り、誰かが笑い、誰かが泣く。
そのすべてを受け止めるのが、この場所だ。
だからアルナは背筋を伸ばした。
伏せていた猫耳を立て、胸の奥に沈んだものへ蓋をする。
そして、いつもの笑顔を浮かべた。
「お待たせしました。本日のご用件をお伺いします」
声はいつも通りだった。
表情も、きっと変わってはいない。
誰にも気づかれていない。
胸の奥へ隠しているものは、きちんと隠せている。
けれど、隠したからといって消えるわけではなかった。
ルキウスが帰ってくるまで。
あの扉を開き、いつものように少し困った顔で笑うまで。
この不安は、きっと消えてくれない。
次のハンターへ依頼の説明をしながら、アルナはほんの一瞬だけ扉へ視線を向けた。
「……まだ、帰ってきませんよね」
――当たり前だ。
つい先ほど、出ていったばかりなのだから。
それなのに、もう待っている。
手元の依頼票へ判子を押し、次の書類を引き寄せる。
帰ってきたら、何と言おう。
『おかえりなさい』
『怪我はありませんか』
『無茶はしませんでしたか』
『約束を、守ってくれましたね』
口にしたい言葉はいくつもある。
けれど、最初に出てくるのは、きっといつもの言葉だ。
『お疲れさまでした。報告をお願いします』
受付嬢としての、何でもない言葉。
その裏にどれほどの安堵を隠しているかなど、きっとルキウスは気づかない。
気づかないまま、いつものように笑うのだ。
『大丈夫でした』
それから、少しだけ困った声で続ける。
『本当に本当です』
その笑顔を見て、アルナは安心する。
そして、次の依頼ではまた不安になる。
きっと、これからもその繰り返しだ。
「それでも、いいんです」
帰ってきてくれるなら、何度でも心配する。
何度でも笑って送り出し、何度でもこの場所で帰りを待つ。
けれど――いつか本当に耐えられなくなった時。
自分は、彼の外套を掴むだけで済むのだろうか。
その答えを、アルナはまだ知らなかった。
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ここまでお読みいただきありがとうございます。
私事になりますが。
いつも評価、感想を下さる読者様――大変、ありがとうございます。
本当にたくさんの励みと、大きなモチベーションをいただいております。