駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
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ベルを鳴らしても、扉を叩いても返事はなかった。
けれど、家の奥からは何かが崩れるような音が聞こえている。
「…………」
留守ではない――おそらく。
無事かどうかについては、少し自信がない。
「フレイヴィアさん、入りますよ」
念のため扉越しに声をかけ、懐から二年前にもらった合鍵を取り出す。
鍵は抵抗なく回った。
引き抜いてから、僕はゆっくりと扉を開く。
そして――戦慄した。
「……嘘だ」
扉を開けた姿勢のまま、しばらく動けなかった。
フレイヴィアさんの家を出てから、まだ一週間しか経っていない。
人が家をここまで荒らすには、あまりにも短い時間だ。
少なくとも、昨日までの僕はそう信じていた。
「まず……床がない」
正確には、床が見えない。
玄関から居間へ続くはずの廊下には、大小さまざまな木箱が積まれていた。
箱の隙間には、片方だけの手甲。
刃の欠けた短剣。
何に使うのか分からない金属棒。
装飾の施された壺の上には、獣の頭ほどもある黒い石が鎮座している。
壁際へ立てかけられた巻物の横では、薄紫色の布が箱から垂れ、その端が別の鎧へ絡みついていた。
雑然としている、などという可愛らしい状態ではない。
増え続けた物に、家そのものが押し負けようとしている。
「……一週間ですよね?」
窓は荷物に塞がれ、朝だというのに室内は薄暗い。
閉め切られた空気には、埃と金属、それから乾燥した薬草の匂いが混じっていた。
靴の先で、何か硬い物を踏む。
「おっと」
慌てて足を退けると、金色の留め具が床を転がり、木箱の下へ消えていった。
「…………」
今の物が必要だった場合、僕にはもう見つけられる気がしない。
玄関へ片足を残したまま、もう一度室内を見渡す。
最後に来た時は、少なくとも居間まで真っすぐ歩けた。
今は右へ進めば木箱。
左へ避ければ鎧。
その間には、三本ほどの角が束ねて置かれている。
「何の角だろう……」
一本だけ、今にも脈打ちそうな色をしていた。
詳しく確認する機会は、できれば一生訪れないでほしい。
「フレイヴィアさん?」
少し声を張って呼んでみる。
返事はない。
けれど、奥の部屋から人の気配だけは感じられた。
家の中にはいる。
この惨状の中心で無事に暮らせているかは――別の話だけれど。
「失礼します」
誰も返事をしてくれないので、自分で断ってから中へ進む。
足元の木箱を跨ぎ、倒れかけた槍を片手で支える。
ところが、その石突きが隣の箱へ触れ、上に並んでいた小瓶が一斉に揺れ始めた。
「待ってください」
誰に頼んだのか、自分でも分からない。
反射的に両手を伸ばし、落ちてきた小瓶を胸元で受け止める。
一つ。
二つ。
三つ。
透明な瓶の中では、粘り気のある赤い液体がゆっくりと揺れていた。
「……危なかった」
何の液体かは知らない。
知らないからこそ、絶対に割りたくなかった。
小瓶を箱の中央へ戻し、今度は身体を横向きにして隙間を抜ける。
腰の片刃剣が何かへ引っかかりそうになり、慌てて鞘を手で押さえた。
進むたび、金属が擦れる。
床を這う布が靴へ絡みつく。
自分の家でもないのに、ただ歩くだけでひどく緊張した。
「一つ動かしたら、全部崩れそうだな……」
いや。
さっき、実際に何かが崩れていた。
どうにか居間へ辿り着く。
予想はしていたけれど――そこも廊下と大差なかった。
長椅子は半分ほど荷物に埋まり、卓の上では紙束と食器、正体不明の金属片が仲良く同居している。
暖炉の前には外套が脱ぎ捨てられ、椅子の背には何本ものベルトが巻きつけられていた。
そして、その部屋の中央に。
「む」
フレイヴィアさんがいた。
床へ座り込み、長い黒髪を背中へ流しながら、木箱の中を探っている。
黄金の瞳は真剣そのものだった。
この家が現在進行形で荷物に呑み込まれていることなど、少しも気にしていないらしい。
「フレイヴィアさん」
「来たか、主」
「来ました」
「遅かったな」
フレイヴィアさんは箱の中から何かを持ち上げ、違うと判断したのか、背後の山へ放った。
「約束した時間どおりです」
「そうか」
「はい。むしろ、フレイヴィアさんが準備できていないように見えます」
「準備はしている」
そう言いながら、今度は片方だけの靴を取り出す。
少し眺めたあと、それも別の箱へ入れた。
「何を探しているんですか?」
「髪紐だ」
「髪紐?」
フレイヴィアさんの黒髪を見る。
普段は綺麗に整えられているけれど、今日は寝起きのままなのか、毛先がところどころ跳ねていた。
「いつも使っている物ですか?」
「ああ。ここに置いたはずなのだが」
「ここ、というのは?」
「この辺りだ」
フレイヴィアさんは、部屋の半分ほどを尾で示した。
「範囲が広すぎませんか?」
「この辺りには違いない」
「最後に見たのはいつです?」
「昨夜だ」
「昨夜なら、もっと簡単に見つかりそうですけど」
「そう思っていた」
思っていたらしい。
けれど、現実はこの有り様である。
僕も足元を確認しながら近づき、木箱の横へしゃがんだ。
「一緒に探します」
「よい」
「このままだと、待ち合わせに遅れます」
「余は遅れぬ」
「今の時点で、着替えてもいませんよ」
「主が急かすからだ」
「僕が来る前から探していましたよね?」
フレイヴィアさんは答えず、箱の底から古びた布を引っ張り出した。
どうやら、聞こえなかったことにしたらしい。
「黒い紐ですか?」
「黒に金が入っている」
「長さは?」
「この程度だ」
両手を少し広げて示される。
それなら、細長い物を探せばよい。
近くに積まれていた布を一枚ずつ持ち上げる。
青い外套。
赤い帯。
何かの毛皮。
その下から、小さな木箱が現れた。
「これは?」
蓋には何の印もない。
持ち上げると、内部で硬い物が触れ合う音がした。
「開けてもいいですか?」
「ああ」
膝の上へ載せ、蓋を開く。
「……あれ?」
中に入っていたのは、使い古された革手袋だった。
右手の指先には穴が開き、手のひらには何度も縫い直した跡がある。
見覚えがあった。
「これ、僕が最初に使っていた手袋ですよね」
「ああ」
「どうして、ここに?」
革手袋を持ち上げる。
今の僕の手には、もう少し小さい。
二年前、剣を握るだけで手の皮が剥けていた頃に使っていた物だ。
「主が置いていったからだ」
「捨てたと思っていました」
「何故、捨てる」
フレイヴィアさんは、本当に分からないという顔をした。
「もう穴も開いていますし、使えませんよ」
「使えずとも、なくす理由にはならぬ」
「そういうものですか?」
「そういうものだ」
箱の中を覗き込む。
手袋の下には、折れた木剣の柄が入っていた。
革の紐が巻かれたままになっている。
「これも……僕のですね」
「主が初めて折った木剣だ」
「初めて、ということは、ほかにもあるんですか?」
「ある」
フレイヴィアさんは背後の木箱を指差した。
そこには、折れた木剣が何本も突き刺さっている。
「全部残しているんですか?」
「当然だ」
「全部、僕が折ったんですよね」
「半分は余が折った」
「それも残すんですか?」
「主と余が使った物だ」
短く言って、フレイヴィアさんは再び探し物へ戻った。
僕は手の中にある木剣の柄を見つめる。
最初の頃は、構え方さえ満足にできなかった。
振れば転び、避ければ壁へぶつかり、持ち方を直されているうちに日が暮れた。
その頃に使っていた物が、まだここにある。
「……こういう物まで、全部覚えているんですね」
「余の物だからな」
「僕の物だったと思います」
「置いていった時点で、余の物だ」
「勝手では?」
「返してほしいのか?」
フレイヴィアさんが手を止め、こちらを見る。
黄金の瞳には、ほんの僅かに警戒するような色があった。
「いえ。使えませんし」
「ならばよい」
すぐに視線が箱へ戻る。
黒い尾の先も、どこか安心したように緩く揺れた。
「でも、これ以上増えたら本当に住めなくなりますよ」
「まだ住める」
「玄関から居間まで来るだけで、命懸けでした」
「主は大袈裟だな」
「赤い液体の入った瓶が三本落ちてきました」
「割れなかったであろう」
「僕が受け止めたからです」
「ならば問題ない」
「問題しかありません」
木箱を閉じ、元の場所へ戻す。
ただし、上へ物を積むのはやめた。
せめて、次に開ける時くらいは簡単に取り出せるだろう。
「不要な物は、本当にないんですか?」
「ない」
「壊れた武器も?」
「ない」
「片方だけの靴も?」
「もう片方がどこかにある」
「見つかっていないなら、片方だけでは?」
「いずれ見つかる」
「いつです?」
「じきに」
「髪紐と同じ答えですね」
「じきに見つかるからな」
フレイヴィアさんは迷いなく言い切った。
片づけることは諦めよう。
下手に僕が触れば、必要な物を行方不明にするだけでなく、帰る道まで消してしまいそうだった。
「主」
呼ばれて顔を上げる。
フレイヴィアさんは、僕の頭の横を指差していた。
「そこだ」
「どこです?」
「右だ。青い布の下」
身体を捻り、積まれた布の隙間へ手を伸ばす。
青い外套を持ち上げると、その下から細い黒紐が現れた。
金色の糸が、端へ一本だけ織り込まれている。
「ありました」
「うむ」
差し出すと、フレイヴィアさんは満足そうに頷いた。
けれど、受け取っただけで髪を結ぼうとはしない。
「結ばないんですか?」
「主」
「はい」
「結べ」
「僕がですか?」
「余は着替えを探す」
今度は、近くに積まれた衣類へ手を伸ばし始める。
両手が空いていないから、ということらしい。
「自分で結んだ方が早いのでは?」
「主がいる」
「理由になっていますか?」
「なっている」
断る理由も見つからず、僕はフレイヴィアさんの後ろへ回った。
「座ったままでお願いします」
「ああ」
長い黒髪を両手で集める。
指の間を滑る髪は、思っていたより柔らかい。
癖のない髪がさらさらと流れ、少し気を抜けば手から零れてしまいそうだった。
「フレイヴィアさんの髪は、結びづらいですね」
「何故だ」
「僕よりずっと長いので」
「主も伸ばせ」
「修行の邪魔になりませんか?」
「余が結ぶ」
「毎朝ですか?」
「当然だ」
本当に毎朝やりそうだった。
それはそれで、角兎亭から通う必要が出てくる。
「今の長さでいいです」
「そうか」
髪を低い位置でまとめ、黒い紐を巻く。
慣れていないので、左右の長さが少し違ってしまった。
「少し曲がりました」
「構わぬ」
「見なくていいんですか?」
「主が結んだのだろう」
「はい」
「ならば問題ない」
振り返ることもなく、フレイヴィアさんは言った。
「…………」
どういう理屈なのだろう。
けれど、悪い気はしなかった。
結び終えた髪から手を離す。
黒い髪が背中の中央で一つにまとまり、金糸の入った紐が小さく光った。
「できました」
「うむ。礼を言う」
「どういたしまして」
フレイヴィアさんは立ち上がり、結ばれた髪を肩越しに確認しようとした。
当然、背中までは見えない。
それでも尾が満足そうに一度だけ床を叩いた。
「それで、今日はどうするんですか?」
「主のクエストについていこうと思っていてな」
あまりにも自然に言われ、僕は一度瞬きをした。
「今日の依頼にですか?」
「ああ」
フレイヴィアさんは床から黒い上着を拾い上げ、埃を軽く払った。
「珍しいですね。普段は、もっと難しい依頼を直接頼まれているでしょう」
「今日は空いている」
「それだけですか?」
「それだけではない」
上着を腕に掛けたまま、フレイヴィアさんが僕を見る。
「修行を終えて、最初の討伐であろう」
「はい」
「ならば、成果を見ておきたい」
声は普段と変わらない。
けれど、黄金の瞳がほんの少し楽しそうに見えた。
「ガルドさんも一緒ですよ」
「知っている」
「では、僕たちだけでも大丈夫だと思いますけど」
「余は見るだけだ」
「本当に?」
思わず聞き返す。
フレイヴィアさんは腕を組み、少し考えるように視線を上げた。
「なるべく」
「もう不安になりました」
「主とガルドで片づけられるならば、手は出さぬ」
「片づけられると思います」
「ならば、余は眺めている」
「途中で倒したくなりませんか?」
「少しはなるだろうな」
「我慢してください」
「善処する」
予想していたより、ずっと信用できない返事だった。
「危なくなった場合は、お願いします」
「無論だ」
今度の返事には迷いがない。
それなら、十分だろう。
「では、一緒に待ち合わせ場所へ行きますか?」
「主は先に行け」
「どうしてです?」
「着替える」
フレイヴィアさんは、自分の姿へ視線を落とした。
薄い部屋着。
裸足。
腰には武器もない。
髪だけは、今しがた僕が結んだ。
「待っていますよ」
「よい。先に行け」
「でも、服は見つかっているんですか?」
僕が尋ねると、フレイヴィアさんは床に積まれた衣類へ目を向けた。
黒い布を持ち上げる。
首を振って元へ戻し、今度は赤い外套を脇へどかす。
その下から出てきた革の胴当てを眺め、また違う場所へ置いた。
「……どこに置いた」
「今、探していますよね?」
「確認しているだけだ」
「何をです?」
「場所を」
「それを探すと言うのでは?」
「細かいことを気にするな」
これ以上続ければ、ガルドさんとの待ち合わせに間に合わなくなる。
僕は小さく息を吐き、荷物の隙間へ身体を向けた。
「では、先に行っています」
「ああ」
「本当に、すぐ来てくださいね」
「任せろ」
任せてよいのだろうか。
少し不安に思いながら、木箱を跨ぎ、倒れかけた槍を避ける。
帰り道は、一度通った分だけ少し楽だった。
あと少しで玄関へ辿り着く。
そう思った時、背後から大きな音がした。
どさっ。
がらがら。
からん――。
「…………」
木箱が揺れ、金属が転がり、最後に柔らかな何かが床へ落ちる。
僕は振り返った。
「大丈夫ですか?」
「問題ない」
即答だった。
けれど、フレイヴィアさんの姿は大量の布に埋もれている。
山の中から黒い尾だけが伸び、何事もなかったように左右へ揺れていた。
「手伝いましょうか?」
「先に行け」
布の山から片腕が突き出し、僕を追い払うように手を振る。
「でも、埋まっていますよ」
「すぐに出る」
「髪、崩れていませんか?」
「……問題ない」
一瞬だけ返事が遅れた。
髪の方は、少し問題があるのかもしれない。
「分かりました。待っていますからね」
「ああ」
今度こそ家を出て、扉を閉める。
朝の涼しい空気が頬へ触れた。
室内にこもっていた埃と薬草の匂いが消え、代わりに焼きたてのパンと、遠くの港から流れてくる潮風が鼻をくすぐる。
「……一週間で、どうしてああなるんだろう」
誰も答えてくれない疑問を零しながら、ガルドさんとの待ち合わせ場所へ歩き始めた。
今日は、二年間の修行を終えてから初めての討伐依頼だ。
同行するのはガルドさん。
それから、荷物の山から無事に脱出できれば、フレイヴィアさんも来るらしい。
僕が二年間で身につけたものを、街の外で見せる日になる。
「よし」
腰に佩いた片刃剣へ触れ、少しだけ歩調を速める。
胸の奥には期待と、ほんの僅かな緊張があった。
できればその前に。
フレイヴィアさんには、きちんと服を見つけてきてほしい。
それから――せっかく結んだ髪も、無事であってほしかった。
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