駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第二章 第三話『少年は二年分を示す』

 

 ◆

 

 フレイヴィアさんの家を出てから、僕は少しだけ急いでギルドへ戻った。

 待ち合わせの時間にはまだ余裕がある。それでも、背後から大きな音が聞こえた気がするたび、つい足が止まりそうになる。

 

「……大丈夫だよね」

 

 布の山には埋もれていたけれど、声も尾も元気だった。

 何より、僕より遥かに頑丈な人だ。

 

 ――たぶん、心配する相手を間違えている。

 

 振り返っても、家はすでに通りの向こうへ隠れていた。

 僕は腰に佩いた片刃剣の位置を直し、今度こそ前を向く。

 

 朝の通りには、先ほどより多くの人が行き交っていた。

 石畳を荷車が鳴らし、その隙間を縫うように商人やハンターが歩いている。

 焼きたてのパン。炙った肉。港から届く潮風――いくつもの匂いが混ざり合い、フードの裾を揺らして通り過ぎた。

 

 今日向かう東部丘陵は、海とは反対の方角にある。

 空は晴れ、依頼の危険度も僕たちなら問題のない範囲だ。

 

「初めてでもないのに、緊張するな……」

 

 二年間の修行を終え、角兎亭へ戻ってからは初めての討伐依頼。

 昨日までできていたことが、今日になって急にできなくなるわけではない。

 

 分かっている。

 それでも、腰の武器へ触れる指には自然と力が入った。

 

 ギルドの両開きの扉を押す。

 重たい扉をくぐった瞬間、朝のざわめきと紙や革、金属の匂いが押し寄せてきた。

 

 掲示板と受付の前には、まだ大勢のハンターが集まっている。

 ガルドさんの姿を探したけれど、広い大広間のどこにも犬耳は見当たらなかった。

 

「まだ、少し早かったかな」

 

 待ち合わせまでは、もうしばらくある。

 僕は人の流れを避け、掲示板の脇へ移動した。

 

 道具袋から依頼票を取り出し、もう一度内容へ目を通す。

 

 東部丘陵地帯に現れた、灰牙犬の群れ。

 確認数は七から十体。

 荷車やケルンが襲われたとの報告はあるが、今のところ死者は出ていない。

 危険度はランク3相当。ただし、群れの規模によってはランク4以上、または複数人での受注が推奨される。

 

 受注者は僕。

 同行者はガルドさん。

 フレイヴィアさんは、依頼へ参加するというより監督役だ。

 

「薬、信号弾、食料、水……」

 

 依頼票を片手に、道具袋の中身を確かめる。

 予備の薬瓶は二本。

 信号弾は赤と黄色。

 女将さんが持たせてくれた昼食は、袋の一番奥に入っていた。

 

 かなり大きな包みだ。

 本当に二人分なのだろうか。

 

「おい」

 

 すぐ横から声がした。

 けれど、自分に向けられたものだとは思わず、僕は薬瓶を数え続ける。

 

「聞こえてねぇのか、フード」

「……僕ですか?」

 

 顔を上げると、二人の男性ハンターが立っていた。

 

 一人は鳥の羽根を肩へ飾った革鎧姿の獣人族。

 もう一人は竜族らしく、頬に古い切り傷があり、腰には幅広の剣を提げている。

 

 ギルドで見かけたことはある。

 ただ、話した覚えはなかった。

 

「他に、そんな深く被ってる奴がいるかよ」

 

 獣人族の男が、僕のフードを指差す。

 確かに、ギルドの中でもここまで顔を隠している者は珍しい。

 

 だからといって――これから「フード」と呼ばれるたびに振り返る習慣をつけるつもりはなかった。

 

「何かご用ですか?」

「大した用じゃねぇよ」

 

 男の視線が、僕の持っている依頼票へ落ちる。

 

「それ、受けたのか?」

「はい。今から出発するところです」

 

 依頼票を畳んでいると、頬に傷のある竜族が僕の背後を覗き込んだ。

 

「一人で?」

「ガルドさんと一緒です。ここで待ち合わせています」

「例の運送屋か」

「元、です」

 

 ガルドさんは今でも時折、運送の仕事を手伝っている。

 けれど、すでにハンターとして再登録しているため、そこだけは訂正しておく。

 

 二人は顔を見合わせた。

 竜族の男が腕を組み、僕の装備を値踏みするように目を細める。

 

「随分と余裕だな。半年前、昇格試験で担ぎ込まれたそうじゃないか」

「その話なら本当です」

「それでランク4とは、随分と運がいい」

 

 右脇腹の古傷が、思い出したように引きつった。

 

「……運、ですか」

 

 服の上から傷へ触れそうになり、途中で手を止める。

 代わりに依頼票を道具袋へ収めた。

 

「怪我をしたことと、昇格したことは別だと思います」

「どうだかな」

 

 竜族の男は、面白くなさそうに鼻を鳴らす。

 

「竜姫様に気に入られていれば、ギルドも無下にはできねぇだろ」

「フレイヴィアさんは、試験の判定には関わっていません」

「口では何とでも言える」

 

 ……なるほど。

 

 ようやく、二人が何を言いたいのか分かった。

 僕が自分の実力ではなく、フレイヴィアさんの口添えでランク4になったと思っているらしい。

 

 もちろん、そんな事実はない。

 むしろ怪我が治った直後、同じ失敗をしないための修行を一日中やらされた。

 

 口添えどころか、傷口へ塩を塗られたようなものだ。

 

 ――実際に塩を塗られなかっただけ、優しかったのかもしれない。

 

「二年前まで駆け出しだった奴が、竜姫様の弟子になった途端にランク4だ。疑うなという方が無理だろ」

 

 男の声に、近くにいたハンターがちらりとこちらを見る。

 僕は小さく息を吐いた。

 

「二年も経っていますよ」

「だから何だ?」

「何もせず、二年間を過ごしたわけではありません」

 

 毎日走った。

 片刃剣を振った。

 何度も地面へ転がされた。

 

 失敗した理由を考え、翌日にはまた同じことを繰り返した。

 僕にとっては、ランク4になるまで随分とかかった気がしている。

 

「本当に竜姫様の弟子なのか?」

 

 獣人族の男が、僕のフードへ視線を向ける。

 

「顔も見せねぇ奴が?」

「顔は、関係ないと思いますけど」

「なら、隠す必要もねぇだろ」

 

 男が、僕のフードへ手を伸ばした。

 

 触れられる前に避けようと、半歩だけ足を引く。

 けれど、その指が僕へ届くことはなかった。

 

 黒い手袋に包まれた手が、男の手首を掴んでいたからだ。

 

「その手を、ルキウスへ触れさせるな」

 

 低く、静かな声だった。

 

「フレイヴィアさん」

 

 いつの間に来たのだろう。

 僕の隣には、黒い戦装束へ着替えたフレイヴィアさんが立っていた。

 

 腰には大剣。

 長い黒髪も、きちんと後ろでまとめられている。

 

 ただし――。

 

「髪、少し曲がってますね」

「今、それを言うか?」

 

 黄金の瞳が、一瞬だけ僕を睨む。

 やはり、布の山へ埋もれた時に崩れたらしい。

 

「フ、フレイヴィア様……」

 

 手首を掴まれた獣人族の顔が、見る間に引きつっていく。

 フレイヴィアさんは男を見たまま、ゆっくり目を細めた。

 

「今、何と言った」

「いや、俺はただ……」

 

 黒い尾が床を打つ。

 ばしん、と硬い音が響き、周囲のハンターたちが何食わぬ顔で数歩ずつ離れた。

 

「余の気まぐれで、ルキウスがランク4になったと?」

 

 声は大きくない。

 だからこそ、余計に怖かった。

 

 男の手首を掴んだまま、フレイヴィアさんが僅かに顔を近づける。

 

「こやつの力を疑うのは、好きにすればよい。見たことのない者が判断を誤るなど、珍しくもないからな」

「ち、違います。俺は――」

「だが、ルキウスが積み上げた二年を、余の威光で得たものと侮ることは許さぬ」

 

 掴んでいる指へ、僅かに力が入る。

 獣人族の男の膝が、じわじわと沈んでいった。

 

「い、痛い……!」

「フレイヴィアさん」

 

 僕は彼女の腕へ手を置いた。

 フレイヴィアさんは顔を動かさず、黄金の瞳だけをこちらへ向ける。

 

「何だ」

「もう大丈夫です」

「何がだ」

「僕は、それほど気にしていません」

 

 フレイヴィアさんの尾が、もう一度床を打つ。

 

「もう大丈夫です」

「何がだ」

「僕は、それほど気にしていません」

「余が気にする。主が気にせずとも、余は許さぬ」

「でも、このままだと腕が折れます」

「治せばよい」

「よくありません」

 

 以前、僕の骨を折りかけた時にも似たことを言っていた。

 治るかどうかではなく――最初から折らないという選択肢を覚えてほしい。

 

「フレイヴィアさん」

「……何だ」

「離してください」

 

 腕へ置いた手に、少しだけ力を込める。

 彼女は不満そうに僕を見つめたものの、やがて男の手首を放した。

 

 解放された獣人族は、赤くなった腕を抱えながら後ずさる。

 隣にいた竜族も、先ほどまでの勢いを失っていた。

 

「僕が弱いと思うなら、それでも構いません」

 

 二人へ身体を向ける。

 言葉だけで納得させられるとは思っていない。

 

 僕は道具袋へ手を置き、収めた依頼票の感触を確かめた。

 

「今から依頼へ行ってきます」

「……は?」

「僕がどのくらい戦えるかは、戻ったあとの結果を見てもらえば分かります」

 

 二人から認められたいわけではない。

 けれど、フレイヴィアさんが怒るほど大切にしてくれている二年間を、何もなかったことにされるのは――少しだけ嫌だった。

 

「主」

 

 隣から呼ばれ、顔を向ける。

 フレイヴィアさんは、僅かに口元を緩めていた。

 

「よい答えだ」

「ありがとうございます」

 

 僕が頷いたところで、人混みの向こうから聞き慣れた声が飛んできた。

 

「朝っぱらから、何してんだお前ら」

 

 大きな盾を背負ったガルドさんが、ハンターたちを掻き分けて歩いてくる。

 片手には紙で包まれた串焼きを持ち、甘辛い肉を頬張っていた。

 

「おはようございます、ガルドさん」

「おう。待たせたな、坊主」

 

 僕たちの前で足を止め、ガルドさんは周囲を順番に見た。

 

 僕。

 明らかに機嫌の悪いフレイヴィアさん。

 手首を抱える獣人族。

 目を逸らす竜族。

 

 咀嚼を終え、ガルドさんが静かに頷いた。

 

「……だいたい分かった」

「分かるんですか?」

「姫さんの顔を見りゃな」

 

 残っていた肉を串から抜き、ガルドさんは僕の道具袋へ目を向ける。

 

「そいつらは、坊主が弱いって?」

「そのようです」

 

 食べ終えた串を紙へ包み、近くのごみ箱へ放った。

 

「なら、外で見りゃいい。ギルドの中で口を動かしても、魔物は倒れねぇからな」

「あっさりしていますね」

「面倒な話は短い方がいいんだよ」

 

 ガルドさんは、先ほどの二人へ一度だけ視線を向けた。

 それだけで話は終わりらしい。

 

「灰牙犬だったな。確認数は?」

「七から十体です」

「街道沿いか」

「はい。荷車が二台襲われています」

 

 内容を聞き終えると、ガルドさんは出口へ顎を向けた。

 

「よし。日が高くなる前に着くぞ」

 

 続いて、フレイヴィアさんへ視線を移す。

 

「姫さんも来るのか?」

「ルキウスを見る」

「手ぇ出すなよ」

「必要がなければな」

 

 フレイヴィアさんは平然と答える。

 ガルドさんの犬耳が、面倒そうに横へ倒れた。

 

「その必要があるか決めるのが早すぎんだよ」

「主が傷つく前に決めるのは当然だ」

「それだよ」

 

 深い溜め息が落ちる。

 僕も隣で小さく頷いた。

 

「僕たちで対処できる間は、見ていてください」

「そのつもりだ」

「本当に?」

「なるべくな」

 

 フレイヴィアさんの尾が、機嫌よく床を撫でる。

 

「もう怪しくなりましたね」

「主は余を信用しておらぬのか」

「戦闘に関しては信用しています」

「ならばよい」

「見守ることに関しては、少し不安です」

 

 フレイヴィアさんが腕を組む。

 

「細かいことを気にするな」

「細かくはありませんよ」

「まあ、姫さんが動く前に俺が止める」

 

 ガルドさんが割って入る。

 僕は思わず彼を見上げた。

 

「止められますか?」

「止めるんじゃねぇ。話しかけて気を逸らすんだ」

「数秒は稼げそうですね」

「余を何だと思っておる」

 

 不満そうな尾が、左右へ大きく揺れた。

 

「ほら、行くぞ」

 

 ガルドさんが先に歩き出す。

 僕もそのあとへ続き、途中で先ほどの二人の横を通った。

 

「行ってきます」

 

 声をかけてみたけれど、二人は何とも言えない顔をしたまま返事をしなかった。

 

 ◆

 

 エルドランの東門からケルンを走らせ、およそ一刻半。

 

 街道を外れた丘陵地帯には、腰ほどの高さまで乾いた草が生い茂っていた。

 風が吹くたび、薄茶色の草原が波のように揺れ、陽射しに温められた土と草の匂いを運んでくる。

 

 遠くには、針葉樹の群れ。

 空は青く、陽射しも強い。

 

 それでも、丘を越えてくる風には涼しさが残っていた。

 

「荷車が襲われたのは、この辺りだ」

 

 ガルドさんが地図を畳んだ。

 僕たちは街道脇の木へケルンを繋ぎ、そこから歩いて痕跡を探している。

 

 フレイヴィアさんは、少し離れた丘の上に立っていた。

 腕を組み、こちらを眺めたまま動こうとしない。

 

「本当に見てるだけですね」

「今のところはな」

 

 僕の呟きへ、ガルドさんが肩を竦める。

 ――今のところ。

 そこが少し不安だった。

 

「車輪の跡があります」

 

 乾いた地面へ膝をつく。

 荷車の車輪。ケルンの蹄。

 その周囲を、小さな獣の足跡が幾重にも取り囲んでいる。

 

 土の表面へ指を近づけ、輪郭を確かめた。

 

「灰牙犬ですね」

「数は読めるか?」

「少なくとも八体です。ただ、同じ場所を何度も通っています」

 

 前脚の幅。

 地面への沈み方。

 重なっている向き。

 

「……こっちは大きい」

 

 足跡を一つずつ分けていく。

 

「一回り大きな個体がいます。おそらく群れの長です」

「進んだ方角は?」

「北東ですね」

 

 顔を上げ、草が倒れている方向へ目を向ける。

 風上から、乾いた獣の匂いが流れてきた。

 

 毛。

 糞。

 食い荒らされた獲物の血――その奥に、場違いな匂いが混じっている。

 

「……水?」

「どうした?」

 

 ガルドさんが隣へしゃがむ。

 僕は地面に残る足跡の一つを指差した。

 

「ここだけ、濡れています」

「雨は降ってねぇぞ」

 

 足跡の輪郭だけが、黒く湿っている。

 指先で触れると、乾いた土の上へ薄い泥がついた。

 

 鼻へ近づける。

 

「血ではありません。ただの水だと思います」

「この近くに水場はねぇはずだがな」

 

 ガルドさんが地図をもう一度広げる。

 川も沢も、ここからは離れていた。

 

「小さな水溜まりでも踏んだんでしょうか」

「かもしれねぇ」

 

 地図を畳みながら、ガルドさんの犬耳が前を向く。

 

「だが、頭には置いとけ」

「はい」

 

 立ち上がり、片刃剣の柄へ手を添える。

 風に混じる獣臭が、先ほどより濃くなっていた。

 

「近いです」

「分かるか?」

「風に匂いが乗っています」

 

 ガルドさんも鼻を動かし、丘の向こうへ目を細める。

 

「確かにな。十体より多いかもしれねぇ」

「依頼の情報より増えていますね」

 

 犬耳を前へ向けたまま、ガルドさんが低く答える。

 

「子連れか、別の群れと合流したか。見てから判断するぞ」

「はい」

 

 草を掻き分け、足音を抑えながら丘を登る。

 

 以前の僕なら、敵の気配を感じた時点で武器へ力を込めていた。

 失敗しないように。

 怪我をしないように。

 

 敵の姿を見る前から、自分のことばかり考えていた。

 

 今は――周囲を見る余裕がある。

 

 草が揺れる方向。

 足元の傾き。

 風向き。

 ガルドさんの位置。

 丘の上にいるフレイヴィアさんまでの距離。

 

「大丈夫」

 

 小さく息を吐く。

 必要なものを、一つずつ拾っていけばいい。

 

 頂上が近づいたところで、先を進んでいたガルドさんが拳を上げた。

 停止の合図だ。

 

 僕も腰を落とし、草の隙間から反対側の窪地を覗く。

 

 灰色の毛並み。

 口元から伸びた、長い牙。

 

 狼に似た姿の灰牙犬が、仕留めた角兎を囲んでいた。

 

「十一体ですね」

 

 予想より一体多い。

 群れの中央には、他より一回り大きな個体がいる。

 首元の毛だけが黒く、その周囲をほかの灰牙犬が避けるように集まっていた。

 

「坊主。どうする?」

 

 ガルドさんは答えを教えない。

 二年前から、まず僕へ考えさせるようになった。

 

 判断を間違えれば止める。

 それまでは――黙って待っている。

 

 窪地の形と、群れの位置を確認する。

 正面は緩やかな下り坂。

 右側には背の高い草。

 左側は開けているが、その先には街道がある。

 

「正面から入れば、左右へ広がられます」

「ああ」

「ガルドさんが下から姿を見せて、群れを引きつけてください。僕は風上から右へ回ります」

 

 ガルドさんが、群れの中央へ目を向ける。

 

「長はどうする?」

「最初には狙いません」

「理由は?」

 

 群れの長へ目を向けた。

 

「先に倒すと、群れが散る可能性があります。街道へ逃がしたくありません」

「なら、外側から減らすか」

「はい。長がガルドさんへ集中したところで仕留めます」

 

 ガルドさんの口元が、僅かに持ち上がる。

 

「よし。それでいくぞ」

 

 少し離れた丘の上へ目を向ける。

 フレイヴィアさんは腕を組んだまま、黄金の瞳で僕を見つめていた。

 

 視線が重なる。

 彼女は、ほんの僅かに顎を引いた。

 

「……行ける」

 

 認められたらしい。

 僕は草の中へ身体を沈め、群れの側面へ回り込んだ。

 

 ◆

 

「おぉい、犬っころども!」

 

 丘の下から、ガルドさんの大声が響いた。

 

 角兎を囲んでいた灰牙犬たちが、一斉に顔を上げる。

 血に濡れた牙が剥き出しになり、群れの長が短く吠えた。

 

 その合図に従い、五体がガルドさんへ向かって駆け出す。

 

 先頭の一体が飛びかかった。

 ガルドさんは大盾を斜めに構え、牙を受け流す。

 

 弾かれた灰牙犬が地面へ転がった。

 

「今だ、坊主!」

 

 僕は草を蹴り、群れの側面から飛び出す。

 

 すぐ近くにいた灰牙犬へ一歩で迫り、前脚を斬った。

 悲鳴とともに体勢が崩れる。

 

 その横を抜け、二体目の後脚へ刃を走らせる。

 振り返る勢いのまま、最初の一体の首へ切っ先を通した。

 

 温かな血が、乾いた草へ飛び散る。

 

「次――」

 

 二体目は、傷ついた脚を庇っていた。

 動ける方向は限られている。

 

 進路へ刃を置く。

 灰牙犬は自ら飛び込むように、首元を晒した。

 

「左だ!」

 

 ガルドさんの声が飛ぶ。

 

 考えるより先に身体を沈めた。

 鋭い爪がフードの上を掠め、布の端を僅かに引く。

 

 地面へ片手をつき、そのまま灰牙犬の脚を払った。

 横倒しになった獣の喉へ、刃を差し込む。

 

 三体。

 

 以前なら、一体を倒すたびに足を止めていた。

 次に何をすればいいのか分からず、敵の中で周囲を見回していたはずだ。

 

 今は違う。

 

 ガルドさんの位置。

 残った敵の数。

 群れの長が向けている視線。

 逃走しようとしている個体。

 

「見えてる」

 

 次に必要なものが、きちんと見えていた。

 

 ガルドさんも二体を仕留め、残る灰牙犬を大盾で押し返している。

 仲間を倒された群れの長が、低く唸りながら僕へ顔を向けた。

 

「やっと来た」

 

 片刃剣を構える。

 

 怖くないわけではない。

 それでも、恐怖だけで身体が動かなくなることはなかった。

 

 群れの長が地面を蹴る。

 草と土が後方へ弾け、灰色の巨体が一息に距離を詰めてきた。

 

 牙が届く直前で横へ避ける。

 すれ違いざまに刃を振った。

 

 けれど、長は空中で身体を捻った。

 切っ先は厚い毛の表面を裂いただけだった。

 

「浅い……!」

 

 着地と同時に、太い尾が横から迫る。

 腕で受けると、鈍い痛みが骨へ響いた。

 

 足が半歩滑る。

 長が牙を剥き、もう一度飛び込んでくる。

 

 その正面へ、ガルドさんの大盾が差し込まれた。

 牙と盾が激突し、重たい音が窪地へ響く。

 

「一人で全部やろうとすんな!」

「すみません!」

 

 僕が足を整える間、ガルドさんが長を押し返す。

 

「謝る暇があるなら動け!」

「はい!」

 

 長の意識が盾へ向いている。

 その間に背後へ回り、後脚の腱を斬った。

 

 群れの長の身体が大きく傾く。

 ガルドさんが吠えるように息を吐き、盾を正面から押し込んだ。

 

「坊主!」

 

 一歩踏み込む。

 喉元へ刃を入れると、厚い毛と肉の抵抗が腕へ伝わった。

 

「っ……!」

 

 腕だけでは押し切れない。

 腰を落とし、背中と脚を使って刃を進める。

 

 抵抗が――途切れた。

 

 温かな血が溢れ、群れの長が草の上へ倒れる。

 残っていた一体を、ガルドさんが盾の縁で打ち倒した。

 

 長を失った三体は、身を翻して丘の向こうへ逃げていく。

 

「追うな!」

 

 ガルドさんの声に、踏み出しかけた足を止める。

 

 三体が向かったのは、街道とは反対の北東。

 群れの大半と長は討伐した。

 

 これ以上追えば、森の中へ誘い込まれる可能性がある。

 

「……はい」

 

 刃についた血を振り払い、息を整える。

 これで依頼は達成できる。

 

 そう思った。

 けれど――一体だけ、逃げなかった。

 

「坊主」

 

 ガルドさんの声が低くなる。

 

 群れの端にいた、小柄な灰牙犬。

 乾いた草原の中で、その個体の毛だけが濡れていた。

 

 水の中から這い上がった直後のように、透明な雫が身体を伝っている。

 青白く濁った目が、真っすぐ僕たちへ向けられていた。

 

 口元から水が垂れ、乾いた土へ黒い染みを作る。

 

「さっきの足跡は、あれですね」

「ああ。俺にも見えてる」

 

 仲間は逃げた。

 群れの長も倒れている。

 

 それなのに、灰牙犬は牙を剥いたまま動こうとしない。

 

 風が吹いた。

 周囲の草は揺れたのに、その個体だけが地面へ縫いつけられたように立ち続けている。

 

「来るぞ」

 

 次の瞬間、小柄な身体が地面を蹴った。

 

 ガルドさんが盾を構える。

 激しい衝突音が響き、受け止めた彼の足が半歩下がった。

 

「重い……!」

 

 身体の大きさに似合わない力だった。

 灰牙犬は牙を盾へ食い込ませ、離れようとしない。

 

 僕は側面へ回り、前脚へ刃を入れた。

 確かに肉を斬った。

 

 けれど――獣は痛がる素振りすら見せない。

 

「反応がない……?」

 

 もう一度、同じ脚へ深く刃を入れる。

 骨が折れ、身体が傾いても、灰牙犬は盾へ食らいついたままだった。

 

「何だ、こいつ……!」

 

 ガルドさんが盾を強く捻り、牙を無理やり外す。

 地面へ転がった灰牙犬は、折れた脚を引きずりながら、それでも起き上がろうとした。

 

 逃げようとしているのではない。

 生きようとしているようにも見えない。

 

 ただ、僕たちへ噛みつくためだけに――身体を動かしている。

 

「止めます!」

 

 首へ刃を入れる。

 一度では止まらない。

 

 刃を引き抜き、もう一度、同じ場所へ振り下ろした。

 

 二度目で、ようやく灰牙犬の身体から力が抜ける。

 

 丘陵地帯へ静けさが戻った。

 自分の呼吸と、草が擦れる音だけが耳へ残る。

 

「終わったか」

「……はい」

 

 ガルドさんが盾を下ろす。

 表面には、灰牙犬の牙が食い込んだ跡が残っていた。

 

「大丈夫ですか?」

「腕が少し痺れただけだ。お前は?」

 

 僕は左腕を曲げる。

 鈍い痛みはあったものの、骨に異常はなさそうだった。

 

「尾を受けましたが、動かせます」

「あとで見てもらえ」

「はい」

 

 返事をしてから、倒れた灰牙犬へ近づく。

 濡れた毛へ、手袋越しに触れた。

 

「……冷たい」

 

 身体から流れる血は赤い。

 肉も骨も、ほかの個体と変わらない。

 

 それなのに、毛を濡らす水だけは、指先が痛むほど冷たかった。

 

「脚を斬られても、まったく反応しませんでした」

「長が倒れても逃げなかった」

 

 ガルドさんも隣へしゃがみ、灰牙犬の濁った目を覗き込む。

 

「どう見ても普通じゃねぇな」

「この水もです」

 

 手袋についた水分を鼻へ近づける。

 湿った獣臭の奥に、僅かな塩気が混じっていた。

 

「……潮の匂いがします」

「潮?」

 

 ガルドさんも顔を寄せる。

 鼻を動かしたあと、犬耳がぴんと前へ向いた。

 

「本当だな」

「ここは、海から離れているはずですよね」

「ああ。近くに沢すらねぇ」

 

 背後で、草を踏む音がした。

 

「フレイヴィアさん」

 

 丘の上にいた彼女が、こちらへ降りてくる。

 戦闘中、一度も手は出さなかった。

 

 かなり我慢していたのか、黒い尾だけが落ち着かなさそうに左右へ揺れている。

 

「どうでしたか?」

 

 尋ねると、フレイヴィアさんは最初に倒れた群れへ視線を向けた。

 次に、僕の足元と片刃剣を見る。

 

「群れの長へ斬りかかったあと、止まり方が一度甘かった」

「……はい」

 

 褒められる前に、反省点が来た。

 

「予想より動きが速くて」

「予想が外れた時ほど、身体を固めるな」

「分かりました」

 

 フレイヴィアさんは、しばらく僕の姿を眺めた。

 黄金の瞳が、片刃剣から足元、肩へゆっくり上がってくる。

 

「だが――」

 

 短く言葉を切った。

 

「二年分はあった」

 

 胸の奥へ、温かなものが落ちる。

 

「ありがとうございます」

「以前の主なら、二体目で転んでいた」

「そこまででしたか?」

 

 フレイヴィアさんは真顔で頷く。

 

「二体目で転び、三体目に噛まれていた」

「具体的ですね」

「実際に似たことがあったからな」

 

 思い出したくない修行の光景が、一瞬だけ頭をよぎった。

 

「……ありましたね」

「うむ」

 

 それでも、二年間の成果を示せたのなら、今日はそれで十分だろう。

 

「それで」

 

 フレイヴィアさんが、異常な灰牙犬へ視線を落とした。

 

「これは何だ」

「分かりません。ほかの個体とは違いました」

 

 痛みに反応しなかったこと。

 仲間が逃げても戦い続けたこと。

 毛が水で濡れ、潮の匂いがすること。

 

 一つずつ伝えると、フレイヴィアさんは膝をついた。

 手袋越しに毛へ触れ、雫を指先で掬い上げる。

 

「水だけではないな」

「何か分かりますか?」

 

 彼女は指先についた水を見つめたあと、小さく首を振った。

 

「いや。だが、自然なものではない」

 

 その横で、ガルドさんが立ち上がる。

 

「持ち帰るぞ、坊主」

「はい。解体せず、このまま運びましょう」

「ギルドに調べさせる」

 

 僕も立ち上がり、片刃剣についた血を布で拭った。

 

 風が丘陵地帯を吹き抜ける。

 薄茶色の草が、さらさらと波打った。

 

 海から遠く離れた、乾いた土地で。

 ――倒れた灰牙犬の毛からだけ、冷たい雫が落ち続けていた。

 

 ◆

 

 エルドランへ戻った頃には、空が茜色へ染まり始めていた。

 

 討伐した灰牙犬を素材置き場へ運び、僕たちは受付で依頼の報告を行う。

 異常個体だけは別の木箱へ収め、解体せず調査担当へ回してもらうことになった。

 

 カウンターの向こうでは、アルナさんが報告書を広げている。

 朝と同じ制服姿。

 同じ柔らかな笑顔。

 

 けれど、僕の姿を見る猫耳は、少しだけ前へ傾いていた。

 

「確認した群れは十一体でした。八体を討伐し、三体が北東へ逃走しています」

「街道とは反対方向ですね」

 

 アルナさんのペンが紙面を滑る。

 

「はい。群れの長も討伐しました。すぐに同じ場所へ戻る可能性は低いと思います」

「分かりました。周辺の巡回担当へ、逃走した個体について共有します」

 

 必要事項を書き終えたところで、アルナさんの視線が報告書から僕へ移った。

 

 フード。

 肩。

 腕。

 脇腹。

 足元。

 

 上から下まで確かめてから、左腕の汚れた場所で目が止まる。

 

「負傷は?」

「大きなものはありません。僕が腕を打った程度です」

「腕を」

 

 猫耳が、僅かに伏せられる。

 それでも表情は、すぐ受付嬢らしいものへ戻った。

 

「動かすことはできますか?」

「はい。問題ありません」

 

 腕を曲げてみせる。

 鈍い痛みが走ったものの、顔には出さない――つもりだった。

 

「今、痛みましたね?」

「少しだけです」

「教会へ寄ってください」

 

 アルナさんはペンを置き、僕の腕をじっと見つめる。

 

「でも――」

「寄ってください」

「報告が終わったら行きます」

「あとで、ではありませんよ」

 

 柔らかい声なのに、断れる気がしなかった。

 

「……はい」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 いつもの返事を聞き、アルナさんの耳が僅かに持ち上がる。

 

「ガルドさんはいかがですか?」

「盾を受けた腕が痺れた程度だ」

 

 ガルドさんは何でもないように肩を回してみせた。

 アルナさんの視線が、すぐそちらへ移る。

 

「ガルドさんも、教会へ」

「俺もか?」

「当然です」

「動くぞ」

「動くかどうかを判断するのは治療師です」

 

 ガルドさんの犬耳が、諦めたように横へ倒れた。

 

「……分かったよ」

「お二人で、きちんと診てもらってください」

「見張り合います」

「坊主が逃げないようにな」

「ガルドさんもですよ」

 

 僕たちのやり取りを見て、アルナさんがようやく小さく息を吐いた。

 

「それから、異常な個体が一体いました」

 

 僕が告げると、彼女はすぐ新しい紙へ手を伸ばした。

 

「異常な個体、ですか?」

「はい」

 

 濡れていた毛。

 青白く濁った目。

 痛みに反応しなかったこと。

 群れの長が倒れ、仲間が逃げても襲いかかってきたこと。

 

 そして――海から離れた土地で、潮に似た匂いがしたことを説明する。

 

 報告を書き留めていたペンが止まった。

 

「潮の匂い……」

「フレイヴィアさんも、自然なものではないと言っていました」

 

 アルナさんの視線が、少し離れた場所に立つフレイヴィアさんへ向く。

 彼女は腕を組んだまま、小さく頷いた。

 

「同じような報告は、今のところ届いていません」

 

 アルナさんは紙面へ視線を戻し、異常個体の欄へ印をつける。

 

「その個体は解体せず、調査担当へ回します。持ち帰っていただいて正解でした」

「お願いします」

 

 すべての報告を終え、依頼票と引き換えに報酬を受け取る。

 硬貨の入った袋を道具袋へ収めると、アルナさんが書類を揃えて顔を上げた。

 

 朝よりも少しだけ柔らかな笑顔が、僕へ向けられる。

 

「おかえりなさい、ルキウスさん」

 

 その一言を聞いた瞬間、胸の奥へ溜まっていた息が抜けた。

 

「はい。ただいま戻りました」

 

 約束は守れた。

 少しだけ持ち上がった猫耳を見ていると、朝に触れた冷たい小指の感触を思い出す。

 

「怪我については、まだ報告が終わっていませんからね」

「教会へ行きます」

「本当に?」

 

 アルナさんが念を押すように、僅かに身を乗り出す。

 

「本当に本当です」

「では、信じます」

 

 それでようやく、彼女は満足したように頷いた。

 

 受付を離れようとしたところで、朝に絡んできた二人のハンターが酒場の席にいることへ気づく。

 

 目が合った。

 

 獣人族の男が、何かを言おうと口を開く。

 けれど、僕の道具袋に収めた討伐証明と、素材置き場へ運び込まれた群れの長を見る。

 

「…………」

 

 結局、何も言わなかった。

 僕も声はかけず、そのまま横を通り過ぎる。

 

「気分はどうだ、坊主」

 

 ガルドさんが、隣から低い声で尋ねた。

 

「何がですか?」

「見返した気分だよ」

「見返すために倒したわけではありません」

 

 僕の返事を聞き、ガルドさんが喉を鳴らして笑う。

 

「お前なら、そう言うと思った」

 

 その反対側では、フレイヴィアさんが満足そうに頷いていた。

 

「ルキウスの力を疑った者も、これで理解しただろう」

「一度の依頼だけでは、分からないと思います」

 

 僕が首を振ると、フレイヴィアさんの尾がゆっくり揺れる。

 

「ならば、何度でも見せればよい」

「何度でも?」

「依頼をこなし、生きて帰ればよい。それだけだ」

 

 当然のことのように言われ、僕は道具袋へ手を置いた。

 

 何度でも依頼を受ける。

 何度でも生きて戻る。

 

 二年間で身につけたものも。

 これから、もっと強くなることも。

 

 言葉ではなく、自分の行動で示していけばいい。

 

「はい」

 

 頷くと、フレイヴィアさんの尾が一度だけ床を叩いた。

 そこへ、ガルドさんが大きく息を吐く。

 

「話がまとまったなら、教会へ行くぞ」

「ガルドさんも一緒ですよ」

「分かってるよ」

 

 僕は先に歩き出した彼の背中へ声をかける。

 

「途中で逃げませんか?」

「それは俺の台詞だ」

「僕は約束しました」

「俺は約束してねぇ」

「アルナさん」

 

 振り返ると、受付の向こうで猫耳がぴんと立つ。

 ガルドさんの足が止まった。

 

「……汚ぇぞ、坊主」

「逃げるつもりだったんですか?」

「念のためだよ」

「やはり、お二人で行ってくださいね」

 

 アルナさんの笑顔を受け、ガルドさんの肩が力なく落ちた。

 三人でギルドの出口へ向かう。

 その途中――素材置き場の方から、ぽたりと小さな音が聞こえた。

 

「……ん?」

 

 足を止める。

 異常な灰牙犬を収めた木箱の下に、透明な雫が落ちていた。

 

 乾いた床へ、小さな黒い染みが広がっていく。

 

「まだ、濡れてる……」

 

 死んでから、もう何刻も経っている。

 それなのに、毛から流れる水は止まっていなかった。

 

 夕暮れのギルドに。

 

 ――丘陵地帯にはないはずの潮の匂いが、微かに漂っていた。

 

 




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