駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
フレイヴィアさんの家を出てから、僕は少しだけ急いでギルドへ戻った。
待ち合わせの時間にはまだ余裕がある。それでも、背後から大きな音が聞こえた気がするたび、つい足が止まりそうになる。
「……大丈夫だよね」
布の山には埋もれていたけれど、声も尾も元気だった。
何より、僕より遥かに頑丈な人だ。
――たぶん、心配する相手を間違えている。
振り返っても、家はすでに通りの向こうへ隠れていた。
僕は腰に佩いた片刃剣の位置を直し、今度こそ前を向く。
朝の通りには、先ほどより多くの人が行き交っていた。
石畳を荷車が鳴らし、その隙間を縫うように商人やハンターが歩いている。
焼きたてのパン。炙った肉。港から届く潮風――いくつもの匂いが混ざり合い、フードの裾を揺らして通り過ぎた。
今日向かう東部丘陵は、海とは反対の方角にある。
空は晴れ、依頼の危険度も僕たちなら問題のない範囲だ。
「初めてでもないのに、緊張するな……」
二年間の修行を終え、角兎亭へ戻ってからは初めての討伐依頼。
昨日までできていたことが、今日になって急にできなくなるわけではない。
分かっている。
それでも、腰の武器へ触れる指には自然と力が入った。
ギルドの両開きの扉を押す。
重たい扉をくぐった瞬間、朝のざわめきと紙や革、金属の匂いが押し寄せてきた。
掲示板と受付の前には、まだ大勢のハンターが集まっている。
ガルドさんの姿を探したけれど、広い大広間のどこにも犬耳は見当たらなかった。
「まだ、少し早かったかな」
待ち合わせまでは、もうしばらくある。
僕は人の流れを避け、掲示板の脇へ移動した。
道具袋から依頼票を取り出し、もう一度内容へ目を通す。
東部丘陵地帯に現れた、灰牙犬の群れ。
確認数は七から十体。
荷車やケルンが襲われたとの報告はあるが、今のところ死者は出ていない。
危険度はランク3相当。ただし、群れの規模によってはランク4以上、または複数人での受注が推奨される。
受注者は僕。
同行者はガルドさん。
フレイヴィアさんは、依頼へ参加するというより監督役だ。
「薬、信号弾、食料、水……」
依頼票を片手に、道具袋の中身を確かめる。
予備の薬瓶は二本。
信号弾は赤と黄色。
女将さんが持たせてくれた昼食は、袋の一番奥に入っていた。
かなり大きな包みだ。
本当に二人分なのだろうか。
「おい」
すぐ横から声がした。
けれど、自分に向けられたものだとは思わず、僕は薬瓶を数え続ける。
「聞こえてねぇのか、フード」
「……僕ですか?」
顔を上げると、二人の男性ハンターが立っていた。
一人は鳥の羽根を肩へ飾った革鎧姿の獣人族。
もう一人は竜族らしく、頬に古い切り傷があり、腰には幅広の剣を提げている。
ギルドで見かけたことはある。
ただ、話した覚えはなかった。
「他に、そんな深く被ってる奴がいるかよ」
獣人族の男が、僕のフードを指差す。
確かに、ギルドの中でもここまで顔を隠している者は珍しい。
だからといって――これから「フード」と呼ばれるたびに振り返る習慣をつけるつもりはなかった。
「何かご用ですか?」
「大した用じゃねぇよ」
男の視線が、僕の持っている依頼票へ落ちる。
「それ、受けたのか?」
「はい。今から出発するところです」
依頼票を畳んでいると、頬に傷のある竜族が僕の背後を覗き込んだ。
「一人で?」
「ガルドさんと一緒です。ここで待ち合わせています」
「例の運送屋か」
「元、です」
ガルドさんは今でも時折、運送の仕事を手伝っている。
けれど、すでにハンターとして再登録しているため、そこだけは訂正しておく。
二人は顔を見合わせた。
竜族の男が腕を組み、僕の装備を値踏みするように目を細める。
「随分と余裕だな。半年前、昇格試験で担ぎ込まれたそうじゃないか」
「その話なら本当です」
「それでランク4とは、随分と運がいい」
右脇腹の古傷が、思い出したように引きつった。
「……運、ですか」
服の上から傷へ触れそうになり、途中で手を止める。
代わりに依頼票を道具袋へ収めた。
「怪我をしたことと、昇格したことは別だと思います」
「どうだかな」
竜族の男は、面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「竜姫様に気に入られていれば、ギルドも無下にはできねぇだろ」
「フレイヴィアさんは、試験の判定には関わっていません」
「口では何とでも言える」
……なるほど。
ようやく、二人が何を言いたいのか分かった。
僕が自分の実力ではなく、フレイヴィアさんの口添えでランク4になったと思っているらしい。
もちろん、そんな事実はない。
むしろ怪我が治った直後、同じ失敗をしないための修行を一日中やらされた。
口添えどころか、傷口へ塩を塗られたようなものだ。
――実際に塩を塗られなかっただけ、優しかったのかもしれない。
「二年前まで駆け出しだった奴が、竜姫様の弟子になった途端にランク4だ。疑うなという方が無理だろ」
男の声に、近くにいたハンターがちらりとこちらを見る。
僕は小さく息を吐いた。
「二年も経っていますよ」
「だから何だ?」
「何もせず、二年間を過ごしたわけではありません」
毎日走った。
片刃剣を振った。
何度も地面へ転がされた。
失敗した理由を考え、翌日にはまた同じことを繰り返した。
僕にとっては、ランク4になるまで随分とかかった気がしている。
「本当に竜姫様の弟子なのか?」
獣人族の男が、僕のフードへ視線を向ける。
「顔も見せねぇ奴が?」
「顔は、関係ないと思いますけど」
「なら、隠す必要もねぇだろ」
男が、僕のフードへ手を伸ばした。
触れられる前に避けようと、半歩だけ足を引く。
けれど、その指が僕へ届くことはなかった。
黒い手袋に包まれた手が、男の手首を掴んでいたからだ。
「その手を、ルキウスへ触れさせるな」
低く、静かな声だった。
「フレイヴィアさん」
いつの間に来たのだろう。
僕の隣には、黒い戦装束へ着替えたフレイヴィアさんが立っていた。
腰には大剣。
長い黒髪も、きちんと後ろでまとめられている。
ただし――。
「髪、少し曲がってますね」
「今、それを言うか?」
黄金の瞳が、一瞬だけ僕を睨む。
やはり、布の山へ埋もれた時に崩れたらしい。
「フ、フレイヴィア様……」
手首を掴まれた獣人族の顔が、見る間に引きつっていく。
フレイヴィアさんは男を見たまま、ゆっくり目を細めた。
「今、何と言った」
「いや、俺はただ……」
黒い尾が床を打つ。
ばしん、と硬い音が響き、周囲のハンターたちが何食わぬ顔で数歩ずつ離れた。
「余の気まぐれで、ルキウスがランク4になったと?」
声は大きくない。
だからこそ、余計に怖かった。
男の手首を掴んだまま、フレイヴィアさんが僅かに顔を近づける。
「こやつの力を疑うのは、好きにすればよい。見たことのない者が判断を誤るなど、珍しくもないからな」
「ち、違います。俺は――」
「だが、ルキウスが積み上げた二年を、余の威光で得たものと侮ることは許さぬ」
掴んでいる指へ、僅かに力が入る。
獣人族の男の膝が、じわじわと沈んでいった。
「い、痛い……!」
「フレイヴィアさん」
僕は彼女の腕へ手を置いた。
フレイヴィアさんは顔を動かさず、黄金の瞳だけをこちらへ向ける。
「何だ」
「もう大丈夫です」
「何がだ」
「僕は、それほど気にしていません」
フレイヴィアさんの尾が、もう一度床を打つ。
「もう大丈夫です」
「何がだ」
「僕は、それほど気にしていません」
「余が気にする。主が気にせずとも、余は許さぬ」
「でも、このままだと腕が折れます」
「治せばよい」
「よくありません」
以前、僕の骨を折りかけた時にも似たことを言っていた。
治るかどうかではなく――最初から折らないという選択肢を覚えてほしい。
「フレイヴィアさん」
「……何だ」
「離してください」
腕へ置いた手に、少しだけ力を込める。
彼女は不満そうに僕を見つめたものの、やがて男の手首を放した。
解放された獣人族は、赤くなった腕を抱えながら後ずさる。
隣にいた竜族も、先ほどまでの勢いを失っていた。
「僕が弱いと思うなら、それでも構いません」
二人へ身体を向ける。
言葉だけで納得させられるとは思っていない。
僕は道具袋へ手を置き、収めた依頼票の感触を確かめた。
「今から依頼へ行ってきます」
「……は?」
「僕がどのくらい戦えるかは、戻ったあとの結果を見てもらえば分かります」
二人から認められたいわけではない。
けれど、フレイヴィアさんが怒るほど大切にしてくれている二年間を、何もなかったことにされるのは――少しだけ嫌だった。
「主」
隣から呼ばれ、顔を向ける。
フレイヴィアさんは、僅かに口元を緩めていた。
「よい答えだ」
「ありがとうございます」
僕が頷いたところで、人混みの向こうから聞き慣れた声が飛んできた。
「朝っぱらから、何してんだお前ら」
大きな盾を背負ったガルドさんが、ハンターたちを掻き分けて歩いてくる。
片手には紙で包まれた串焼きを持ち、甘辛い肉を頬張っていた。
「おはようございます、ガルドさん」
「おう。待たせたな、坊主」
僕たちの前で足を止め、ガルドさんは周囲を順番に見た。
僕。
明らかに機嫌の悪いフレイヴィアさん。
手首を抱える獣人族。
目を逸らす竜族。
咀嚼を終え、ガルドさんが静かに頷いた。
「……だいたい分かった」
「分かるんですか?」
「姫さんの顔を見りゃな」
残っていた肉を串から抜き、ガルドさんは僕の道具袋へ目を向ける。
「そいつらは、坊主が弱いって?」
「そのようです」
食べ終えた串を紙へ包み、近くのごみ箱へ放った。
「なら、外で見りゃいい。ギルドの中で口を動かしても、魔物は倒れねぇからな」
「あっさりしていますね」
「面倒な話は短い方がいいんだよ」
ガルドさんは、先ほどの二人へ一度だけ視線を向けた。
それだけで話は終わりらしい。
「灰牙犬だったな。確認数は?」
「七から十体です」
「街道沿いか」
「はい。荷車が二台襲われています」
内容を聞き終えると、ガルドさんは出口へ顎を向けた。
「よし。日が高くなる前に着くぞ」
続いて、フレイヴィアさんへ視線を移す。
「姫さんも来るのか?」
「ルキウスを見る」
「手ぇ出すなよ」
「必要がなければな」
フレイヴィアさんは平然と答える。
ガルドさんの犬耳が、面倒そうに横へ倒れた。
「その必要があるか決めるのが早すぎんだよ」
「主が傷つく前に決めるのは当然だ」
「それだよ」
深い溜め息が落ちる。
僕も隣で小さく頷いた。
「僕たちで対処できる間は、見ていてください」
「そのつもりだ」
「本当に?」
「なるべくな」
フレイヴィアさんの尾が、機嫌よく床を撫でる。
「もう怪しくなりましたね」
「主は余を信用しておらぬのか」
「戦闘に関しては信用しています」
「ならばよい」
「見守ることに関しては、少し不安です」
フレイヴィアさんが腕を組む。
「細かいことを気にするな」
「細かくはありませんよ」
「まあ、姫さんが動く前に俺が止める」
ガルドさんが割って入る。
僕は思わず彼を見上げた。
「止められますか?」
「止めるんじゃねぇ。話しかけて気を逸らすんだ」
「数秒は稼げそうですね」
「余を何だと思っておる」
不満そうな尾が、左右へ大きく揺れた。
「ほら、行くぞ」
ガルドさんが先に歩き出す。
僕もそのあとへ続き、途中で先ほどの二人の横を通った。
「行ってきます」
声をかけてみたけれど、二人は何とも言えない顔をしたまま返事をしなかった。
◆
エルドランの東門からケルンを走らせ、およそ一刻半。
街道を外れた丘陵地帯には、腰ほどの高さまで乾いた草が生い茂っていた。
風が吹くたび、薄茶色の草原が波のように揺れ、陽射しに温められた土と草の匂いを運んでくる。
遠くには、針葉樹の群れ。
空は青く、陽射しも強い。
それでも、丘を越えてくる風には涼しさが残っていた。
「荷車が襲われたのは、この辺りだ」
ガルドさんが地図を畳んだ。
僕たちは街道脇の木へケルンを繋ぎ、そこから歩いて痕跡を探している。
フレイヴィアさんは、少し離れた丘の上に立っていた。
腕を組み、こちらを眺めたまま動こうとしない。
「本当に見てるだけですね」
「今のところはな」
僕の呟きへ、ガルドさんが肩を竦める。
――今のところ。
そこが少し不安だった。
「車輪の跡があります」
乾いた地面へ膝をつく。
荷車の車輪。ケルンの蹄。
その周囲を、小さな獣の足跡が幾重にも取り囲んでいる。
土の表面へ指を近づけ、輪郭を確かめた。
「灰牙犬ですね」
「数は読めるか?」
「少なくとも八体です。ただ、同じ場所を何度も通っています」
前脚の幅。
地面への沈み方。
重なっている向き。
「……こっちは大きい」
足跡を一つずつ分けていく。
「一回り大きな個体がいます。おそらく群れの長です」
「進んだ方角は?」
「北東ですね」
顔を上げ、草が倒れている方向へ目を向ける。
風下から、乾いた獣の匂いが流れてきた。
毛。
糞。
食い荒らされた獲物の血――その奥に、場違いな匂いが混じっている。
「……水?」
「どうした?」
ガルドさんが隣へしゃがむ。
僕は地面に残る足跡の一つを指差した。
「ここだけ、濡れています」
「雨は降ってねぇぞ」
足跡の輪郭だけが、黒く湿っている。
指先で触れると、乾いた土の上へ薄い泥がついた。
鼻へ近づける。
「血ではありません。ただの水だと思います」
「この近くに水場はねぇはずだがな」
ガルドさんが地図をもう一度広げる。
川も沢も、ここからは離れていた。
「小さな水溜まりでも踏んだんでしょうか」
「かもしれねぇ」
地図を畳みながら、ガルドさんの犬耳が前を向く。
「だが、頭には置いとけ」
「はい」
立ち上がり、片刃剣の柄へ手を添える。
風に混じる獣臭が、先ほどより濃くなっていた。
「近いです」
「分かるか?」
「風に匂いが乗っています」
ガルドさんも鼻を動かし、丘の向こうへ目を細める。
「確かにな。十体より多いかもしれねぇ」
「依頼の情報より増えていますね」
犬耳を前へ向けたまま、ガルドさんが低く答える。
「子連れか、別の群れと合流したか。見てから判断するぞ」
「はい」
草を掻き分け、足音を抑えながら丘を登る。
以前の僕なら、敵の気配を感じた時点で武器へ力を込めていた。
失敗しないように。
怪我をしないように。
敵の姿を見る前から、自分のことばかり考えていた。
今は――周囲を見る余裕がある。
草が揺れる方向。
足元の傾き。
風向き。
ガルドさんの位置。
丘の上にいるフレイヴィアさんまでの距離。
「大丈夫」
小さく息を吐く。
必要なものを、一つずつ拾っていけばいい。
頂上が近づいたところで、先を進んでいたガルドさんが拳を上げた。
停止の合図だ。
僕も腰を落とし、草の隙間から反対側の窪地を覗く。
灰色の毛並み。
口元から伸びた、長い牙。
狼に似た姿の灰牙犬が、仕留めた角兎を囲んでいた。
「十一体ですね」
予想より一体多い。
群れの中央には、他より一回り大きな個体がいる。
首元の毛だけが黒く、その周囲をほかの灰牙犬が避けるように集まっていた。
「坊主。どうする?」
ガルドさんは答えを教えない。
二年前から、まず僕へ考えさせるようになった。
判断を間違えれば止める。
それまでは――黙って待っている。
窪地の形と、群れの位置を確認する。
正面は緩やかな下り坂。
右側には背の高い草。
左側は開けているが、その先には街道がある。
「正面から入れば、左右へ広がられます」
「ああ」
「ガルドさんが下から姿を見せて、群れを引きつけてください。僕は風上から右へ回ります」
ガルドさんが、群れの中央へ目を向ける。
「長はどうする?」
「最初には狙いません」
「理由は?」
群れの長へ目を向けた。
「先に倒すと、群れが散る可能性があります。街道へ逃がしたくありません」
「なら、外側から減らすか」
「はい。長がガルドさんへ集中したところで仕留めます」
ガルドさんの口元が、僅かに持ち上がる。
「よし。それでいくぞ」
少し離れた丘の上へ目を向ける。
フレイヴィアさんは腕を組んだまま、黄金の瞳で僕を見つめていた。
視線が重なる。
彼女は、ほんの僅かに顎を引いた。
「……行ける」
認められたらしい。
僕は草の中へ身体を沈め、群れの側面へ回り込んだ。
◆
「おぉい、犬っころども!」
丘の下から、ガルドさんの大声が響いた。
角兎を囲んでいた灰牙犬たちが、一斉に顔を上げる。
血に濡れた牙が剥き出しになり、群れの長が短く吠えた。
その合図に従い、五体がガルドさんへ向かって駆け出す。
先頭の一体が飛びかかった。
ガルドさんは大盾を斜めに構え、牙を受け流す。
弾かれた灰牙犬が地面へ転がった。
「今だ、坊主!」
僕は草を蹴り、群れの側面から飛び出す。
すぐ近くにいた灰牙犬へ一歩で迫り、前脚を斬った。
悲鳴とともに体勢が崩れる。
その横を抜け、二体目の後脚へ刃を走らせる。
振り返る勢いのまま、最初の一体の首へ切っ先を通した。
温かな血が、乾いた草へ飛び散る。
「次――」
二体目は、傷ついた脚を庇っていた。
動ける方向は限られている。
進路へ刃を置く。
灰牙犬は自ら飛び込むように、首元を晒した。
「左だ!」
ガルドさんの声が飛ぶ。
考えるより先に身体を沈めた。
鋭い爪がフードの上を掠め、布の端を僅かに引く。
地面へ片手をつき、そのまま灰牙犬の脚を払った。
横倒しになった獣の喉へ、刃を差し込む。
三体。
以前なら、一体を倒すたびに足を止めていた。
次に何をすればいいのか分からず、敵の中で周囲を見回していたはずだ。
今は違う。
ガルドさんの位置。
残った敵の数。
群れの長が向けている視線。
逃走しようとしている個体。
「見えてる」
次に必要なものが、きちんと見えていた。
ガルドさんも二体を仕留め、残る灰牙犬を大盾で押し返している。
仲間を倒された群れの長が、低く唸りながら僕へ顔を向けた。
「やっと来た」
片刃剣を構える。
怖くないわけではない。
それでも、恐怖だけで身体が動かなくなることはなかった。
群れの長が地面を蹴る。
草と土が後方へ弾け、灰色の巨体が一息に距離を詰めてきた。
牙が届く直前で横へ避ける。
すれ違いざまに刃を振った。
けれど、長は空中で身体を捻った。
切っ先は厚い毛の表面を裂いただけだった。
「浅い……!」
着地と同時に、太い尾が横から迫る。
腕で受けると、鈍い痛みが骨へ響いた。
足が半歩滑る。
長が牙を剥き、もう一度飛び込んでくる。
その正面へ、ガルドさんの大盾が差し込まれた。
牙と盾が激突し、重たい音が窪地へ響く。
「一人で全部やろうとすんな!」
「すみません!」
僕が足を整える間、ガルドさんが長を押し返す。
「謝る暇があるなら動け!」
「はい!」
長の意識が盾へ向いている。
その間に背後へ回り、後脚の腱を斬った。
群れの長の身体が大きく傾く。
ガルドさんが吠えるように息を吐き、盾を正面から押し込んだ。
「坊主!」
一歩踏み込む。
喉元へ刃を入れると、厚い毛と肉の抵抗が腕へ伝わった。
「っ……!」
腕だけでは押し切れない。
腰を落とし、背中と脚を使って刃を進める。
抵抗が――途切れた。
温かな血が溢れ、群れの長が草の上へ倒れる。
残っていた一体を、ガルドさんが盾の縁で打ち倒した。
長を失った三体は、身を翻して丘の向こうへ逃げていく。
「追うな!」
ガルドさんの声に、踏み出しかけた足を止める。
三体が向かったのは、街道とは反対の北東。
群れの大半と長は討伐した。
これ以上追えば、森の中へ誘い込まれる可能性がある。
「……はい」
刃についた血を振り払い、息を整える。
これで依頼は達成できる。
そう思った。
けれど――一体だけ、逃げなかった。
「坊主」
ガルドさんの声が低くなる。
群れの端にいた、小柄な灰牙犬。
乾いた草原の中で、その個体の毛だけが濡れていた。
水の中から這い上がった直後のように、透明な雫が身体を伝っている。
青白く濁った目が、真っすぐ僕たちへ向けられていた。
口元から水が垂れ、乾いた土へ黒い染みを作る。
「さっきの足跡は、あれですね」
「ああ。俺にも見えてる」
仲間は逃げた。
群れの長も倒れている。
それなのに、灰牙犬は牙を剥いたまま動こうとしない。
風が吹いた。
周囲の草は揺れたのに、その個体だけが地面へ縫いつけられたように立ち続けている。
「来るぞ」
次の瞬間、小柄な身体が地面を蹴った。
ガルドさんが盾を構える。
激しい衝突音が響き、受け止めた彼の足が半歩下がった。
「重い……!」
身体の大きさに似合わない力だった。
灰牙犬は牙を盾へ食い込ませ、離れようとしない。
僕は側面へ回り、前脚へ刃を入れた。
確かに肉を斬った。
けれど――獣は痛がる素振りすら見せない。
「反応がない……?」
もう一度、同じ脚へ深く刃を入れる。
骨が折れ、身体が傾いても、灰牙犬は盾へ食らいついたままだった。
「何だ、こいつ……!」
ガルドさんが盾を強く捻り、牙を無理やり外す。
地面へ転がった灰牙犬は、折れた脚を引きずりながら、それでも起き上がろうとした。
逃げようとしているのではない。
生きようとしているようにも見えない。
ただ、僕たちへ噛みつくためだけに――身体を動かしている。
「止めます!」
首へ刃を入れる。
一度では止まらない。
刃を引き抜き、もう一度、同じ場所へ振り下ろした。
二度目で、ようやく灰牙犬の身体から力が抜ける。
丘陵地帯へ静けさが戻った。
自分の呼吸と、草が擦れる音だけが耳へ残る。
「終わったか」
「……はい」
ガルドさんが盾を下ろす。
表面には、灰牙犬の牙が食い込んだ跡が残っていた。
「大丈夫ですか?」
「腕が少し痺れただけだ。お前は?」
僕は左腕を曲げる。
鈍い痛みはあったものの、骨に異常はなさそうだった。
「尾を受けましたが、動かせます」
「あとで見てもらえ」
「はい」
返事をしてから、倒れた灰牙犬へ近づく。
濡れた毛へ、手袋越しに触れた。
「……冷たい」
身体から流れる血は赤い。
肉も骨も、ほかの個体と変わらない。
それなのに、毛を濡らす水だけは、指先が痛むほど冷たかった。
「脚を斬られても、まったく反応しませんでした」
「長が倒れても逃げなかった」
ガルドさんも隣へしゃがみ、灰牙犬の濁った目を覗き込む。
「どう見ても普通じゃねぇな」
「この水もです」
手袋についた水分を鼻へ近づける。
湿った獣臭の奥に、僅かな塩気が混じっていた。
「……潮の匂いがします」
「潮?」
ガルドさんも顔を寄せる。
鼻を動かしたあと、犬耳がぴんと前へ向いた。
「本当だな」
「ここは、海から離れているはずですよね」
「ああ。近くに沢すらねぇ」
背後で、草を踏む音がした。
「フレイヴィアさん」
丘の上にいた彼女が、こちらへ降りてくる。
戦闘中、一度も手は出さなかった。
かなり我慢していたのか、黒い尾だけが落ち着かなさそうに左右へ揺れている。
「どうでしたか?」
尋ねると、フレイヴィアさんは最初に倒れた群れへ視線を向けた。
次に、僕の足元と片刃剣を見る。
「群れの長へ斬りかかったあと、止まり方が一度甘かった」
「……はい」
褒められる前に、反省点が来た。
「予想より動きが速くて」
「予想が外れた時ほど、身体を固めるな」
「分かりました」
フレイヴィアさんは、しばらく僕の姿を眺めた。
黄金の瞳が、片刃剣から足元、肩へゆっくり上がってくる。
「だが――」
短く言葉を切った。
「二年分はあった」
胸の奥へ、温かなものが落ちる。
「ありがとうございます」
「以前の主なら、二体目で転んでいた」
「そこまででしたか?」
フレイヴィアさんは真顔で頷く。
「二体目で転び、三体目に噛まれていた」
「具体的ですね」
「実際に似たことがあったからな」
思い出したくない修行の光景が、一瞬だけ頭をよぎった。
「……ありましたね」
「うむ」
それでも、二年間の成果を示せたのなら、今日はそれで十分だろう。
「それで」
フレイヴィアさんが、異常な灰牙犬へ視線を落とした。
「これは何だ」
「分かりません。ほかの個体とは違いました」
痛みに反応しなかったこと。
仲間が逃げても戦い続けたこと。
毛が水で濡れ、潮の匂いがすること。
一つずつ伝えると、フレイヴィアさんは膝をついた。
手袋越しに毛へ触れ、雫を指先で掬い上げる。
「水だけではないな」
「何か分かりますか?」
彼女は指先についた水を見つめたあと、小さく首を振った。
「いや。だが、自然なものではない」
その横で、ガルドさんが立ち上がる。
「持ち帰るぞ、坊主」
「はい。解体せず、このまま運びましょう」
「ギルドに調べさせる」
僕も立ち上がり、片刃剣についた血を布で拭った。
風が丘陵地帯を吹き抜ける。
薄茶色の草が、さらさらと波打った。
海から遠く離れた、乾いた土地で。
――倒れた灰牙犬の毛からだけ、冷たい雫が落ち続けていた。
◆
エルドランへ戻った頃には、空が茜色へ染まり始めていた。
討伐した灰牙犬を素材置き場へ運び、僕たちは受付で依頼の報告を行う。
異常個体だけは別の木箱へ収め、解体せず調査担当へ回してもらうことになった。
カウンターの向こうでは、アルナさんが報告書を広げている。
朝と同じ制服姿。
同じ柔らかな笑顔。
けれど、僕の姿を見る猫耳は、少しだけ前へ傾いていた。
「確認した群れは十一体でした。八体を討伐し、三体が北東へ逃走しています」
「街道とは反対方向ですね」
アルナさんのペンが紙面を滑る。
「はい。群れの長も討伐しました。すぐに同じ場所へ戻る可能性は低いと思います」
「分かりました。周辺の巡回担当へ、逃走した個体について共有します」
必要事項を書き終えたところで、アルナさんの視線が報告書から僕へ移った。
フード。
肩。
腕。
脇腹。
足元。
上から下まで確かめてから、左腕の汚れた場所で目が止まる。
「負傷は?」
「大きなものはありません。僕が腕を打った程度です」
「腕を」
猫耳が、僅かに伏せられる。
それでも表情は、すぐ受付嬢らしいものへ戻った。
「動かすことはできますか?」
「はい。問題ありません」
腕を曲げてみせる。
鈍い痛みが走ったものの、顔には出さない――つもりだった。
「今、痛みましたね?」
「少しだけです」
「教会へ寄ってください」
アルナさんはペンを置き、僕の腕をじっと見つめる。
「でも――」
「寄ってください」
「報告が終わったら行きます」
「あとで、ではありませんよ」
柔らかい声なのに、断れる気がしなかった。
「……はい」
「本当に?」
「本当に本当です」
いつもの返事を聞き、アルナさんの耳が僅かに持ち上がる。
「ガルドさんはいかがですか?」
「盾を受けた腕が痺れた程度だ」
ガルドさんは何でもないように肩を回してみせた。
アルナさんの視線が、すぐそちらへ移る。
「ガルドさんも、教会へ」
「俺もか?」
「当然です」
「動くぞ」
「動くかどうかを判断するのは治療師です」
ガルドさんの犬耳が、諦めたように横へ倒れた。
「……分かったよ」
「お二人で、きちんと診てもらってください」
「見張り合います」
「坊主が逃げないようにな」
「ガルドさんもですよ」
僕たちのやり取りを見て、アルナさんがようやく小さく息を吐いた。
「それから、異常な個体が一体いました」
僕が告げると、彼女はすぐ新しい紙へ手を伸ばした。
「異常な個体、ですか?」
「はい」
濡れていた毛。
青白く濁った目。
痛みに反応しなかったこと。
群れの長が倒れ、仲間が逃げても襲いかかってきたこと。
そして――海から離れた土地で、潮に似た匂いがしたことを説明する。
報告を書き留めていたペンが止まった。
「潮の匂い……」
「フレイヴィアさんも、自然なものではないと言っていました」
アルナさんの視線が、少し離れた場所に立つフレイヴィアさんへ向く。
彼女は腕を組んだまま、小さく頷いた。
「同じような報告は、今のところ届いていません」
アルナさんは紙面へ視線を戻し、異常個体の欄へ印をつける。
「その個体は解体せず、調査担当へ回します。持ち帰っていただいて正解でした」
「お願いします」
すべての報告を終え、依頼票と引き換えに報酬を受け取る。
硬貨の入った袋を道具袋へ収めると、アルナさんが書類を揃えて顔を上げた。
朝よりも少しだけ柔らかな笑顔が、僕へ向けられる。
「おかえりなさい、ルキウスさん」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥へ溜まっていた息が抜けた。
「はい。ただいま戻りました」
約束は守れた。
少しだけ持ち上がった猫耳を見ていると、朝に触れた冷たい小指の感触を思い出す。
「怪我については、まだ報告が終わっていませんからね」
「教会へ行きます」
「本当に?」
アルナさんが念を押すように、僅かに身を乗り出す。
「本当に本当です」
「では、信じます」
それでようやく、彼女は満足したように頷いた。
受付を離れようとしたところで、朝に絡んできた二人のハンターが酒場の席にいることへ気づく。
目が合った。
獣人族の男が、何かを言おうと口を開く。
けれど、僕の道具袋に収めた討伐証明と、素材置き場へ運び込まれた群れの長を見る。
「…………」
結局、何も言わなかった。
僕も声はかけず、そのまま横を通り過ぎる。
「気分はどうだ、坊主」
ガルドさんが、隣から低い声で尋ねた。
「何がですか?」
「見返した気分だよ」
「見返すために倒したわけではありません」
僕の返事を聞き、ガルドさんが喉を鳴らして笑う。
「お前なら、そう言うと思った」
その反対側では、フレイヴィアさんが満足そうに頷いていた。
「ルキウスの力を疑った者も、これで理解しただろう」
「一度の依頼だけでは、分からないと思います」
僕が首を振ると、フレイヴィアさんの尾がゆっくり揺れる。
「ならば、何度でも見せればよい」
「何度でも?」
「依頼をこなし、生きて帰ればよい。それだけだ」
当然のことのように言われ、僕は道具袋へ手を置いた。
何度でも依頼を受ける。
何度でも生きて戻る。
二年間で身につけたものも。
これから、もっと強くなることも。
言葉ではなく、自分の行動で示していけばいい。
「はい」
頷くと、フレイヴィアさんの尾が一度だけ床を叩いた。
そこへ、ガルドさんが大きく息を吐く。
「話がまとまったなら、教会へ行くぞ」
「ガルドさんも一緒ですよ」
「分かってるよ」
僕は先に歩き出した彼の背中へ声をかける。
「途中で逃げませんか?」
「それは俺の台詞だ」
「僕は約束しました」
「俺は約束してねぇ」
「アルナさん」
振り返ると、受付の向こうで猫耳がぴんと立つ。
ガルドさんの足が止まった。
「……汚ぇぞ、坊主」
「逃げるつもりだったんですか?」
「念のためだよ」
「やはり、お二人で行ってくださいね」
アルナさんの笑顔を受け、ガルドさんの肩が力なく落ちた。
三人でギルドの出口へ向かう。
その途中――素材置き場の方から、ぽたりと小さな音が聞こえた。
「……ん?」
足を止める。
異常な灰牙犬を収めた木箱の下に、透明な雫が落ちていた。
乾いた床へ、小さな黒い染みが広がっていく。
「まだ、濡れてる……」
死んでから、もう何刻も経っている。
それなのに、毛から流れる水は止まっていなかった。
夕暮れのギルドに。
――丘陵地帯にはないはずの潮の匂いが、微かに漂っていた。
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