駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第二章 第四話『少年は聖女の羽に触れる』

 

 ◆

 

 ギルドを出た頃には、茜色だった空へ薄い紫が混じり始めていた。

 昼間の熱はまだ石畳や建物の壁に残っている。それでも、港から流れてくる風は涼しく、汗の引いた左腕へ触れるたび、打ち身の奥から鈍い痛みが浮かんだ。

 

「……これくらいなら、明日には治りそうですけど」

 

 肘を曲げ、腕を軽く回してみる。

 動かせないほどではない。

 痛みも、我慢するほど強くはなかった。

 

 ――なら、問題はないはずだ。

 

「坊主」

 

 隣を歩いていたガルドさんが、呆れたようにこちらを見る。

 大盾を背負った肩は僅かに下がり、二つの犬耳も横へ寝ていた。

 

「今、教会へ行かなくていい理由を探してただろ」

「探していません」

「なら、何で腕を回した?」

「状態の確認です」

 

 僕が真っすぐ答えると、ガルドさんは鼻から長く息を吐いた。

 

「逃げられる状態かの確認だな」

「違いますよ」

「本当か?」

「本当に本当です」

 

 言い切ったところで、反対側から黒い尾が伸びてきた。

 外套ごと腰へ巻きつかれ、半歩ほど後ろへ引き戻される。

 

「主。教会はあちらだ」

「分かっています、フレイヴィアさん」

 

 僕は腰の尾へ手を添えた。

 黒い鱗の表面は滑らかで、触れるとほんのり温かい。

 

「足が角兎亭へ向いていたぞ」

「道の端へ寄っただけです」

「ならば、このままでも問題あるまい」

「歩きづらいです」

 

 尾は解かれなかった。

 逃げないと言っているのに、まるで信用がないらしい。

 

「半年前に担ぎ込まれた奴が、信用を語るな」

 

 ガルドさんの言葉に、僕は少しだけ眉を寄せた。

 

「女将さんにも同じことを言われました」

「皆、正しいからな」

「二人とも、しつこいですよ」

「余も言った」

「三人でしたね……」

 

 反論する相手が増えただけだった。

 僕は諦めて前を向く。

 

 夕暮れのエルドランは、昼間とは違う賑わいに包まれていた。

 露店では残った品を売り切ろうと商人が声を張り、仕事を終えた荷運び人たちが食事処へ流れていく。開いた酒場の扉からは、肉の焼ける匂いと、腹の底へ響くような笑い声が溢れていた。

 

「……お腹が空きました」

「女将から二人分以上の昼飯を持たされていただろ」

「戦いましたから」

 

 僕が答えると、ガルドさんの犬耳がぴくりと動いた。

 

「ほとんど一人で食ってたよな?」

「戦いましたから」

「便利な言葉を覚えやがって」

 

 便利ではなく、事実である。

 灰牙犬の群れを相手に動けば、その分だけ腹も減る。

 

 群れの長を含めて八体。

 最後に現れた異常個体は、身体の大きさからは考えられないほど強い力を持っていた。

 

 脚を折っても止まらない。

 痛みに反応せず、盾へ牙を食い込ませたまま離れようともしなかった。

 

 次に同じ個体と出会ったなら、最初から首か背骨を狙うべきだろう。

 ただ、あの動きなら――。

 

「主」

 

 フレイヴィアさんの声で、思考が途切れた。

 

「何を考えていた」

「今日の灰牙犬のことです」

「異常個体か?」

「はい」

 

 僕はもう一度、左腕を軽く曲げる。

 痛みよりも先に、盾へ食らいついた灰牙犬の姿が浮かんだ。

 

「次に戦うなら、もっと早く倒せると思います」

 

 口にした途端、ガルドさんがこちらを見る。

 フレイヴィアさんも黄金の瞳を僅かに細めた。

 

「……どうしました?」

「いや」

 

 ガルドさんは犬耳の後ろを掻き、前を向き直る。

 

「次がある前提なんだなと思ってよ」

「同じ異常が起こる可能性はありますから」

「だからって、少し嬉しそうに言うことか?」

「嬉しそうでしたか?」

 

 自分の口元へ指を当てる。

 笑っていたつもりはない。

 

「普通でしたよね?」

 

 フレイヴィアさんへ尋ねると、彼女は僕の腰から尾を解き、代わりに片刃剣の鞘へ視線を落とした。

 

「余に聞くな」

「フレイヴィアさんまで」

「まあよい。次があれば、今日より上手く狩れ」

「はい」

 

 答えた瞬間、胸の奥が少し弾んだ。

 

 今日より上手く。

 もっと速く、無駄なく、確実に。

 

 その言葉が妙に心地よく、自然と歩調が軽くなる。

 

「……ほらな」

「何がですか?」

「今、明らかに足取りが軽くなったぞ」

「教会が近いからですよ」

「よくもまあ、そんな顔で言えるな」

 

 ガルドさんは呆れていたけれど、僕には何がおかしいのか分からなかった。

 

 大通りを抜けると、白い石造りの教会が見えてきた。

 尖塔の上には水晶飾り。夕日を受けた淡い青の光が、白壁の上へ静かに揺れている。

 開かれた窓からは、薬草と清水の匂いが流れていた。

 

 エルドラン教会支部。

 僕が何度も運び込まれ、何度も叱られた場所である。

 

「着きましたね」

「ああ」

 

 ガルドさんが入口の階段へ足をかける。

 僕も続こうとしたところで、フレイヴィアさんが足を止めた。

 

「余はギルドへ戻る」

「一緒に来ないんですか?」

 

 振り向くと、フレイヴィアさんは港の方角へ目を向けていた。

 

「異常個体を見ておく。調査員も、余へ確認したいことがあるそうだ」

「そうですか」

 

 彼女の視線が、僕の左腕へ移る。

 

「治療が終わるまで、待っていてもいいですよ」

「主が逃げぬならば、その必要はない」

「逃げません」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 いつもの返事をすると、黄金の瞳がじっと僕を見つめた。

 それからフレイヴィアさんは、隣のガルドさんへ顔を向ける。

 

「ガルド」

「分かってる。宿まで連れて帰る」

 

 ガルドさんが面倒そうに片手を上げる。

 けれど、フレイヴィアさんはまだ尾を動かさなかった。

 

「寄り道もさせるな」

「分かってる」

「訓練は?」

「させねぇよ」

「食事は?」

「角兎亭で食わせる」

 

 答えるたび、ガルドさんの指が一本ずつ折られていく。

 最後に開いた手のひらを見せ、彼は肩を落とした。

 

「ほら、全部分かった。俺は保護者じゃねぇんだぞ」

「似たようなものだろう」

「違う」

 

 二人のやり取りを聞きながら、僕は首を傾げた。

 

「僕はもう十九歳なんですが」

「年齢の話はしておらぬ」

「行動の話だ、坊主」

「……そうですか」

 

 まったく納得できない。

 しかし、二人とも譲る気はなさそうだった。

 

 フレイヴィアさんは最後に僕へ近づき、フードの上から頭を軽く叩いた。

 

「終わったら帰れ」

「はい」

「何か分かれば、明日伝える」

「お願いします」

 

 彼女は短く頷き、黒い外套を翻して大通りへ戻っていく。

 背中で揺れる黒髪を見送りながら、ふと気づいた。

 

「髪紐、無事でしたね」

「今それ言うのか、坊主」

 

 ガルドさんに背中を押され、僕は教会へ入った。

 

 ◆

 

 重たい扉が閉じると、街の喧騒が急に遠ざかった。

 高い天井に、白い石壁。水色の硝子窓から差し込む夕日が、床へ細長い模様を落としている。

 

 薬草と香油。

 清められた水。

 その奥から、僅かに血の匂いも混じっていた。

 

 礼拝堂の長椅子では、老人が目を閉じて祈っている。

 壁際には包帯を巻いた幼い獣人族の子供と、その手を握る母親。

 白い衣を纏った治療師たちが、静かな足取りで廊下を行き交っていた。

 

「何回来ても、静かですね」

「お前はここへ来る時、だいたい意識が半分ないからな」

「今日はあります」

「珍しいことみたいに言うな」

 

 受付へ向かおうとしたところで、礼拝堂の奥から白と青の衣が現れた。

 

「おかえりなさい」

 

 穏やかな声。

 けれど、その声を聞いた瞬間、僕の背筋は自然と伸びた。

 

 セラフィーンさんは白い翼を小さく畳み、こちらへ歩いてくる。

 淡い金色の髪が夕日を受け、肩の上で柔らかく光っていた。

 

 僕たちの前まで来ると、まずガルドさんの右肩を確認する。

 続いて僕の外套と左腕へ目を向け、金色の瞳を僅かに細めた。

 

「お二人とも、治療室へ」

「セラフィーンさん。僕は腕を少し打っただけで――」

「治療室へ」

 

 声の調子は変わらない。

 笑顔も、いつもと同じだ。

 

 なのに――拒否できる気がしなかった。

 

「……はい」

「素直だな、坊主」

「ガルドさんもですよ」

 

 隣から逃げようとした犬耳を見逃さず、セラフィーンさんの視線がそちらへ移る。

 

「ガルド様も、治療室へ」

「俺は盾を受けただけだ」

「治療室へ」

 

 犬耳が、ぺたりと伏せた。

 

「……はい」

 

 僕より素直だった。

 

 治療室の並ぶ廊下まで案内されると、年配の天使族の女性が待っていた。

 ガルドさんの肩へ一度触れ、すぐに眉を寄せる。

 

「こちらへ」

「いや、本当に痺れただけで」

「こちらへ」

 

 女性が扉を開く。

 ガルドさんは僕へ助けを求めるような目を向けた。

 

「坊主」

「頑張ってください」

「見捨てるのが早ぇよ」

 

 それでも、抵抗することなく別室へ入っていった。

 閉まった扉を見送り、僕は小さく息を吐く。

 

「ガルドさん、大丈夫でしょうか」

「あの方は腕のよい治療師です」

 

 セラフィーンさんはそう答え、隣の扉へ手をかける。

 

「心配なのは、治療されることではなく、叱られることだと思います」

「でしたら、なおさら大丈夫です」

「大丈夫なんですか?」

「必要なことですから」

 

 柔らかな笑顔のまま、逃げ道だけが消えていく。

 

「ルキウス様はこちらへ」

「……はい」

 

 呼び方が変わった。

 廊下には誰もいない。

 それでも一度周囲を確かめてから、僕はセラフィーンさんに続いて治療室へ入った。

 

 扉が閉じられる。

 鍵が掛かる、小さな音。

 

 外の足音が遠ざかり、部屋には僕と彼女だけが残った。

 

 ◆

 

 治療室には、白い寝台と木製の椅子、薬瓶を並べた棚が置かれていた。

 窓は港の方角へ向いている。暮れかけた街並みと、その向こうに並ぶ帆柱が見えた。

 

 セラフィーンさんは窓の薄布を引き、外から室内が見えないことを確かめる。

 

「もう大丈夫ですよ」

「ありがとうございます」

 

 フードの端へ手をかける。

 一瞬だけ指が止まった。

 

 人前で外すな。

 母に何度も言われた言葉は、今でも身体の奥へ残っている。

 

 けれど――ここには、僕が何者なのかを知る人しかいない。

 

 ゆっくりとフードを下ろす。

 隠れていた額へ涼しい空気が触れ、少し伸びた髪が頬へ落ちた。

 

「ふぅ……」

 

 息がしやすい。

 それだけのことなのに、肩から余計な力が抜けていく。

 

 セラフィーンさんは僕の顔を見ても驚かない。

 ただ、金色の瞳を柔らかく細めた。

 

「おかえりなさい、ルキウス様」

「ただいま戻りました」

 

 ギルドではアルナさんに言われた。

 今度はセラフィーンさん。

 

 同じ言葉なのに、響き方が少し違う。

 どちらも温かく、胸の内側へゆっくり染み込んできた。

 

「では、左腕を見せてください」

「これくらいなら、放っておいても治ると思います」

「見せてください」

 

 セラフィーンさんは椅子を寝台の前へ引き、そこへ腰を下ろす。

 僕も観念して寝台の端へ座り、外套と左腕の防具を外した。

 

 袖を捲る。

 前腕には、赤黒い痣が広がっていた。

 

「まあ」

 

 セラフィーンさんの眉が僅かに下がる。

 

「腕を少し打った、と聞いていましたけれど」

「少しです」

「ルキウス様の『少し』は、あまり信用できませんねぇ」

 

 責められているわけではない。

 それなのに、なぜか素直に謝りたくなる声だった。

 

「動かせますよ」

 

 証明しようと肘を曲げる。

 

 皮膚の下が引きつり、鈍い痛みが腕を走った。

 顔には出さなかった――つもりだった。

 

「痛みましたね?」

「……少しだけ」

 

 セラフィーンさんは小さく息を吐き、僕の手首へ指を添える。

 

「やっぱり」

「顔に出ていましたか?」

「目が僅かに動きました」

「そこまで見ているんですね」

「治療師ですから」

 

 細い指が痣の周囲をゆっくりと辿った。

 

「ここは?」

「大丈夫です」

「こちらは?」

 

 少し上へ触れられ、僕は僅かに息を止める。

 

「……そこは痛いです」

「初めから、そう言ってくださいね」

「すみません」

 

 反省している。

 本当である。

 

 ただ、次も同じように最初から言えるかについては――今は黙っておこう。

 

「では、治しますね」

 

 白い指先から淡い光が広がった。

 

 温かな魔力が手首から腕へ入り込み、腫れた場所を優しく包む。

 熱いというより、ぬるい水へ腕を沈めた時のような、穏やかな温かさだった。

 

 光が傷へ触れるたび、強張っていた筋肉が少しずつ緩んでいく。

 同時に、手首を支えるセラフィーンさんの指の感触まで、妙にはっきりと伝わってきた。

 

 細い指。

 柔らかな手のひら。

 脈を確かめるように添えられた親指。

 

 治療を受けることには慣れているはずなのに、今日は少しだけ落ち着かない。

 

「痛みはどうですか?」

「さっきより、ずっと楽です」

 

 セラフィーンさんが目を伏せる。

 長い睫毛の下で、金色の瞳が治癒の光を淡く反射していた。

 

「よかったです」

「ありがとうございます」

 

 僕が腕の力を抜くと、セラフィーンさんは少しだけ首を傾げた。

 

「相変わらず、とても素直ですねぇ」

「何がですか?」

「私の魔力です」

 

 光を送り込みながら、彼女の指が腕をゆっくり撫でるように動く。

 

「ほとんど抵抗せず、身体の奥まで入っていきます。どこを傷めているのかも、すぐに分かるんですよ」

「便利な身体ですね」

「便利、と言ってよいのでしょうか」

 

 セラフィーンさんは少し考え、困ったように笑った。

 

「ルキウス様が怪我をしなければ、もっと良いことですけれど」

「それは難しいかもしれません」

「そこは、もう少し考えてから答えてほしかったです」

「すみません」

 

 呆れられた。

 けれど、声は最後まで柔らかいままだった。

 

「今日は、もう戦いませんね?」

「戦う予定はありません」

「予定外に、獲物を見つけても?」

 

 白い指が、僕の手首の上で止まる。

 

「…………」

 

 すぐには答えられなかった。

 

 帰り道に、あの異常な灰牙犬が現れたら。

 街の中なら、誰かが襲われる前に止める必要がある。

 街の外でも、逃がせば次の荷車を襲うかもしれない。

 

 それに、もう一度戦えば――今日より上手く仕留められる。

 

「ルキウス様?」

「状況によります」

 

 セラフィーンさんの翼が、少しだけ下がった。

 

「そこは、戦いませんと言っていただきたかったです」

「必要なら、戦うべきでは?」

「必要かどうかを、まず周りの方と相談してください」

「……はい」

 

 少しだけ間を置いて答える。

 治癒の光が弱まり、セラフィーンさんの指が腕から離れた。

 

 触れられていた場所へ遅れて涼しい空気が当たり、ほんの僅かに物足りなく感じる。

 

「終わりましたか?」

「大きな損傷は治しました。ただし、痛みは少し残しています」

「どうしてですか?」

「完全に消すと、すぐ動かすでしょう?」

「……動かすかもしれません」

「ですので」

 

 袖を戻され、僕は左腕を軽く曲げる。

 痛みはほとんど消えていたものの、筋の奥には確かに小さな違和感が残っている。

 

「信用がありませんね」

「信用しているから、先回りしているのです」

「難しいですね」

「はい。とても」

 

 セラフィーンさんは外套を持ち上げ、袖口に残った黒い染みへ目を止めた。

 

「こちらは何でしょう」

「異常個体の水だと思います」

 

 灰牙犬がガルドさんの盾へ衝突した際に飛んだ雫だろう。

 何刻も経っているはずなのに、布はまだ僅かに湿っていた。

 

 セラフィーンさんは白い布を手に取り、染みを拭う。

 移った水分を灯りへ透かすと、金色の瞳が僅かに細くなった。

 

「まだ乾いていません」

「死んだあとも、ずっと濡れていました」

 

 硝子皿へ布を置く。

 セラフィーンさんは指先を近づけ、何かを探るように目を閉じた。

 

 白い翼がゆっくりと広がる。

 羽の隙間から淡い光が零れ、室内の空気が僅かに湿った。

 

「……水の魔力があります」

「海水ですか?」

「よく似ていますが、同じではありません」

 

 目を開いたセラフィーンさんは、硝子皿を見つめたまま眉を寄せる。

 

「流れているのに、流れていない。生き物の中へ留まりながら、どこかへ向かおうとしているような……」

「水が、ですか?」

「上手く説明できませんねぇ」

 

 困ったような声。

 それでも、広がった翼は警戒するように硬くなっていた。

 

「ギルドから、異常個体について簡単な連絡が届いています」

「もうですか?」

「はい。海水に似た水が付着しているため、教会にも照会がありました」

 

 セラフィーンさんは硝子皿へ蓋をし、棚の端へ置く。

 

「最近、港で働く方の中に、傷の治りが遅い方が増えています」

「この水が原因なんですか?」

「まだ、分かりません」

 

 彼女はすぐ首を振った。

 

「荷物で手を切った方。鱗魚種に噛まれた方。水路へ落ちた方……理由はそれぞれです。ただ、傷口に妙な水の魔力が残っている方が、何人かいました」

「今日の水と似ています?」

「よく似ています」

 

 窓の向こうへ目を向ける。

 夕日に染まっていた港は、いつの間にか薄い霧へ覆われ始めていた。

 帆柱だけが、白い靄の中から細く伸びている。

 

「……調べに行きますか?」

 

 気づけば、そう尋ねていた。

 

 港はここから近い。

 今見に行けば、異常個体に付着していた水と比べられるかもしれない。

 それに――もし、同じようなものが港にもいるなら。

 

「ルキウス様」

 

 名前を呼ばれ、立ち上がりかけた腰を戻す。

 セラフィーンさんの金色の瞳は、少しだけ呆れていた。

 

「今日の依頼は終わっています」

「でも、気になります」

「私も気になります」

「でしたら――」

 

 続けようとしたところで、セラフィーンさんが立ち上がる。

 広げていた翼が棚へ触れそうになり、僕は反射的に手を伸ばした。

 

「危ないですよ」

 

 白い羽の外側を支え、木枠へ挟まらないよう手前へ寄せる。

 

「…………」

 

 セラフィーンさんの身体が止まった。

 

「あっ、すみません」

 

 慌てて手を離そうとする。

 けれど、指先へ触れた羽が思っていたより柔らかく、動きが僅かに遅れた。

 

 表面はさらさらとしている。

 その内側には、羽毛に包まれた温かな感触があった。

 

「翼を触られるのは、嫌でしたか?」

「……いいえ」

 

 セラフィーンさんは少しだけ頬を伏せた。

 淡い金髪の間から覗く耳が、僅かに赤くなっている。

 

「ルキウス様でしたら、構いません」

「そうですか」

 

 許されたのなら、急いで離す必要もないのだろうか。

 とはいえ、ずっと持っている理由もない。

 

 迷いながら指先を離すと、セラフィーンさんが翼を少しだけ僕へ向けた。

 

「もう一度、触れますか?」

「いいんですか?」

 

 尋ねると、金色の瞳が一度だけ伏せられる。

 それから、秘密を隠すような笑みが浮かんだ。

 

「はい。ルキウス様でしたら」

 

 差し出された羽へ、今度は慎重に触れる。

 表面を指先で撫でると、細かな羽が流れに沿って整っていく。

 付け根へ近づくほど温かく、柔らかい。

 

「温かいんですね」

「生きていますから」

「外側は、もっと冷たいものだと思っていました」

「風を受ける場所ですからねぇ。けれど、内側には体温があります」

 

 セラフィーンさんは、くすぐったそうに僅かに肩を竦めた。

 その動きに合わせて翼が震え、柔らかな羽が指先を撫でる。

 

「すみません。くすぐったいですか?」

「少しだけです」

「では、やめます」

「……もう少しでしたら、大丈夫ですよ」

 

 離しかけた手を止める。

 セラフィーンさんの翼は、そのまま僕へ差し出されていた。

 

「天使族にとって、翼は大切なものですよね」

「はい」

「僕が触っても、本当に大丈夫なんですか?」

 

 セラフィーンさんは答えようとして、一度口を閉じた。

 金色の瞳が、翼へ触れる僕の手と顔を交互に見る。

 

 やがて、自分の翼へそっと手を添えた。

 僕の指のすぐそばを、白い指先がゆっくり撫でる。

 

「今は、まだ内緒です」

「何がですか?」

「翼へ触れさせることの意味が、です」

「意味があるんですね」

 

 驚いて手を離すと、セラフィーンさんは少しだけ名残惜しそうに翼を畳んだ。

 

「気になります」

「では、ご自分で調べてみますか?」

「教会の本に載っています?」

「どうでしょう」

「載っていない顔ですね」

「秘密です」

 

 口元へ指を当て、セラフィーンさんが小さく笑う。

 

「いつか意味を知った時に、今日のことを思い出してください」

「分かりました」

 

 理由は分からない。

 けれど、たぶん忘れないだろう。

 

 羽の柔らかさも。

 内側にあった温かさも。

 すぐ近くで見た、セラフィーンさんの赤い横顔も。

 

「それでは、港へ――」

「行きませんよ」

 

 外套へ伸ばしかけた僕の手を、セラフィーンさんが先に押さえた。

 

「まだ何も言っていません」

「お顔に書いてありました」

「フードを被っていないのは不便ですね」

「そういう問題ではありません」

 

 セラフィーンさんは外套を持ち上げ、僕の肩へ掛ける。

 留め具を閉じながら、少しだけ眉を下げた。

 

「ギルドと教会へ任せてください」

「ですが、異常個体と同じものがいるかもしれません」

「だからこそ、です」

 

 彼女の指が、外套の襟を整える。

 

「分からないものへ、治療したばかりの身体で飛び込んではいけません」

「見に行くだけです」

「獲物がいれば?」

「…………」

 

 また、すぐに答えられなかった。

 

 セラフィーンさんは困ったように笑い、僕の額へ落ちていた髪を指先で払う。

 

「狩ることを前提に考えないでくださいね」

「前提にはしていません」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 少し間が空いた。

 彼女は僕の目を見つめ、やがて小さく息を吐く。

 

「……今は、信じておきます」

「今は?」

「今夜、無事に角兎亭へ戻ったと分かるまでです」

「アルナさんみたいですね」

「アルナさんのお気持ちが、よく分かります」

 

 フードを被り直す。

 布が顔へ影を落とし、さっきまで頬へ触れていた空気が遠くなった。

 

 少し息苦しい。

 けれど、外へ出るなら必要だ。

 

 セラフィーンさんは何も言わず、僕が被り終えるのを待ってから扉の鍵を開けた。

 

 ◆

 

 廊下へ出ると、ちょうど向かいの治療室からガルドさんが現れた。

 右肩には新しい包帯が巻かれ、犬耳はすっかり力を失っている。

 

「ガルドさん」

「坊主」

 

 目が合う。

 ガルドさんは一度、自分の肩を見下ろした。

 

「生きてるか?」

「はい」

「俺もだ」

「よかったです」

 

 その後ろから、治療師の女性が姿を現す。

 

「本日は、右肩へ負担をかけないように」

「分かってる」

「明日も依頼は控えてください」

「分かってるって」

「本当に?」

 

 女性の視線が鋭くなる。

 ガルドさんは一度口を閉じ、僕を見た。

 

「……本当に本当だ」

「便利に使いましたね」

「お前に言われたくねぇ」

 

 僕が少し笑うと、ガルドさんの視線が左腕へ移った。

 

「そっちは?」

「筋を痛めていたそうです」

「明日は?」

「休むように言われました」

「そうか。じゃあ、一緒だな」

 

 少し嬉しそうだった。

 休まされる仲間ができて安心したらしい。

 

「宿へ帰るぞ」

「その前に、ギルドの異常個体を――」

 

 ガルドさんの左腕が、僕の首へ回る。

 右肩を使わないまま引き寄せられ、そのまま入口へ向かって歩かされた。

 

「帰るぞ」

「少し確認するだけです」

「帰るぞ」

「まだ調査員がいる時間ですよ」

「帰るぞ」

 

 同じ言葉しか返ってこない。

 

「苦しいです」

「逃げるよりましだ」

「逃げません」

「なら、真っすぐ歩け」

 

 後ろから、セラフィーンさんの小さな笑い声が聞こえた。

 

 教会の入口まで来ると、ガルドさんはようやく腕を解く。

 夜の冷たい風が、開いた扉から流れ込んできた。

 

「ルキウス様」

 

 呼ばれて振り返る。

 セラフィーンさんは、白い翼を背中へ畳んだまま僕を見つめていた。

 

「今日は、まっすぐ宿へ」

「はい」

「食事をして、眠ってください」

 

 彼女は僕の返事を確かめるように、僅かに目を細める。

 

「明日のことは、明日考えましょう」

「……はい」

 

 明日のことは、明日考える。

 

 今日は帰る。

 食べる。

 眠る。

 

 異常個体のことも、港の霧も――今夜だけは誰かへ任せる。

 

「セラフィーンさん」

「はい」

「ありがとうございました」

 

 頭を下げると、彼女は穏やかに微笑んだ。

 

「無事に帰ってきてくださって、ありがとうございます」

 

 それは、こちらが言うべき言葉のような気がした。

 それでも、セラフィーンさんは本気でそう思っているらしい。

 

「はい」

 

 もう一度だけ頷き、ガルドさんと教会を出る。

 

 夜のエルドランには、まだ酒場の笑い声と屋台の灯りが残っていた。

 その向こう――港の上には薄い霧が広がっている。

 

 僕がそちらへ顔を向けると、外套の背を掴まれた。

 

「角兎亭はこっちだぞ、坊主」

「分かっています」

「足が港へ向いてた」

「少し見ただけです」

「見るだけで近づくな」

 

 宿の方角へ引き戻される。

 

「本当に信用がありませんね」

「行動で作った信用だ。受け入れろ」

「悪い意味の信用では?」

「今さら気づいたか」

 

 犬耳を揺らして笑うガルドさんの隣で、僕はもう一度だけ港を振り返った。

 

 薄い霧。

 静かな海。

 夜の灯りに濡れた帆柱。

 

 何も起きていないように見える。

 

 それでも――異常な灰牙犬を濡らしていた冷たさが、左手の指先へまだ残っている気がした。

 

 ◆

 

 扉が閉じたあと、セラフィーンはしばらくその場に立っていた。

 

 廊下には、ルキウスの姿はもうない。

 ガルドと話す声も、教会の外へ遠ざかっていく。

 

「……困りましたねぇ」

 

 小さく呟く。

 

 困っているのは、港の霧だけではない。

 濡れた獣に残っていた、奇妙な水の魔力だけでもなかった。

 

 セラフィーンは自分の翼へ手を伸ばす。

 ルキウスが触れた場所を、指先でそっと撫でた。

 

 天使族にとって、翼はただ空を飛ぶための器官ではない。

 魔力の流れを整え、祈りを捧げ、感情さえ映し出す――魂に近い場所だ。

 

 家族や治療師が、手入れのために触れることはある。

 けれど、それ以外の者へ自ら翼を差し出すことには、別の意味がある。

 

 信頼。

 親愛。

 そして、それよりも深いもの。

 

 ルキウスは知らない。

 知らないまま、何の疑いもなく触れた。

 

 けれど、自分は知っていた。

 知ったうえで、もう一度触れるかと尋ねた。

 

「本当に……困りました」

 

 先ほどまで彼がいた治療室へ目を向ける。

 寝台には僅かに外套の跡が残り、薬草の匂いの中へ、彼の気配がまだ残っているようだった。

 

 無事に帰ってきた。

 怪我も軽かった。

 

 それだけでよかったはずなのに。

 扉が閉じて姿が見えなくなった途端、もう少しだけ引き止めればよかったと思ってしまう。

 

 翼へ触れた指先を、忘れてほしくない。

 いつか意味を知った時、今日のことを思い出してほしい。

 

 ――そして、その時。

 

 彼は、どんな顔をするのだろう。

 

 セラフィーンは熱を持った頬へ手を添え、それから窓の外へ目を向けた。

 

 港の上には、薄い霧が残っている。

 水の魔力は、やはり落ち着かない。

 

 寄せては返すはずの流れが、どこか一方向へ引かれている。

 まだ小さい。

 注意していなければ、気づかないほどの揺らぎだ。

 

 けれど――確かに、何かが動いている。

 

「ルキウス様」

 

 誰もいない部屋で、その名を呼ぶ。

 

 彼は強くなった。

 以前より周囲を見て、仲間へ頼ることも覚え始めている。

 

 それでも、獲物や強敵の話をする時だけ、彼の瞳には別の光が宿る。

 恐怖を知らないわけではない。

 むしろ、人一倍怖がっている。

 

 なのに、その恐怖の奥で――刃が届くことを喜んでいる。

 

 本人は、まだ気づいていない。

 

「どうか、その熱に呑まれませんように」

 

 祈るように呟き、セラフィーンは翼を畳んだ。

 

 白い羽の奥には、触れられた温かさがまだ残っている。

 港から届く水のざわめきと、胸の内側に生まれた別のざわめき。

 

 どちらも、すぐには消えてくれそうになかった。

 

 





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