駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
ギルドを出た頃には、茜色だった空へ薄い紫が混じり始めていた。
昼間の熱はまだ石畳や建物の壁に残っている。それでも、港から流れてくる風は涼しく、汗の引いた左腕へ触れるたび、打ち身の奥から鈍い痛みが浮かんだ。
「……これくらいなら、明日には治りそうですけど」
肘を曲げ、腕を軽く回してみる。
動かせないほどではない。
痛みも、我慢するほど強くはなかった。
――なら、問題はないはずだ。
「坊主」
隣を歩いていたガルドさんが、呆れたようにこちらを見る。
大盾を背負った肩は僅かに下がり、二つの犬耳も横へ寝ていた。
「今、教会へ行かなくていい理由を探してただろ」
「探していません」
「なら、何で腕を回した?」
「状態の確認です」
僕が真っすぐ答えると、ガルドさんは鼻から長く息を吐いた。
「逃げられる状態かの確認だな」
「違いますよ」
「本当か?」
「本当に本当です」
言い切ったところで、反対側から黒い尾が伸びてきた。
外套ごと腰へ巻きつかれ、半歩ほど後ろへ引き戻される。
「主。教会はあちらだ」
「分かっています、フレイヴィアさん」
僕は腰の尾へ手を添えた。
黒い鱗の表面は滑らかで、触れるとほんのり温かい。
「足が角兎亭へ向いていたぞ」
「道の端へ寄っただけです」
「ならば、このままでも問題あるまい」
「歩きづらいです」
尾は解かれなかった。
逃げないと言っているのに、まるで信用がないらしい。
「半年前に担ぎ込まれた奴が、信用を語るな」
ガルドさんの言葉に、僕は少しだけ眉を寄せた。
「女将さんにも同じことを言われました」
「皆、正しいからな」
「二人とも、しつこいですよ」
「余も言った」
「三人でしたね……」
反論する相手が増えただけだった。
僕は諦めて前を向く。
夕暮れのエルドランは、昼間とは違う賑わいに包まれていた。
露店では残った品を売り切ろうと商人が声を張り、仕事を終えた荷運び人たちが食事処へ流れていく。開いた酒場の扉からは、肉の焼ける匂いと、腹の底へ響くような笑い声が溢れていた。
「……お腹が空きました」
「女将から二人分以上の昼飯を持たされていただろ」
「戦いましたから」
僕が答えると、ガルドさんの犬耳がぴくりと動いた。
「ほとんど一人で食ってたよな?」
「戦いましたから」
「便利な言葉を覚えやがって」
便利ではなく、事実である。
灰牙犬の群れを相手に動けば、その分だけ腹も減る。
群れの長を含めて八体。
最後に現れた異常個体は、身体の大きさからは考えられないほど強い力を持っていた。
脚を折っても止まらない。
痛みに反応せず、盾へ牙を食い込ませたまま離れようともしなかった。
次に同じ個体と出会ったなら、最初から首か背骨を狙うべきだろう。
ただ、あの動きなら――。
「主」
フレイヴィアさんの声で、思考が途切れた。
「何を考えていた」
「今日の灰牙犬のことです」
「異常個体か?」
「はい」
僕はもう一度、左腕を軽く曲げる。
痛みよりも先に、盾へ食らいついた灰牙犬の姿が浮かんだ。
「次に戦うなら、もっと早く倒せると思います」
口にした途端、ガルドさんがこちらを見る。
フレイヴィアさんも黄金の瞳を僅かに細めた。
「……どうしました?」
「いや」
ガルドさんは犬耳の後ろを掻き、前を向き直る。
「次がある前提なんだなと思ってよ」
「同じ異常が起こる可能性はありますから」
「だからって、少し嬉しそうに言うことか?」
「嬉しそうでしたか?」
自分の口元へ指を当てる。
笑っていたつもりはない。
「普通でしたよね?」
フレイヴィアさんへ尋ねると、彼女は僕の腰から尾を解き、代わりに片刃剣の鞘へ視線を落とした。
「余に聞くな」
「フレイヴィアさんまで」
「まあよい。次があれば、今日より上手く狩れ」
「はい」
答えた瞬間、胸の奥が少し弾んだ。
今日より上手く。
もっと速く、無駄なく、確実に。
その言葉が妙に心地よく、自然と歩調が軽くなる。
「……ほらな」
「何がですか?」
「今、明らかに足取りが軽くなったぞ」
「教会が近いからですよ」
「よくもまあ、そんな顔で言えるな」
ガルドさんは呆れていたけれど、僕には何がおかしいのか分からなかった。
大通りを抜けると、白い石造りの教会が見えてきた。
尖塔の上には水晶飾り。夕日を受けた淡い青の光が、白壁の上へ静かに揺れている。
開かれた窓からは、薬草と清水の匂いが流れていた。
エルドラン教会支部。
僕が何度も運び込まれ、何度も叱られた場所である。
「着きましたね」
「ああ」
ガルドさんが入口の階段へ足をかける。
僕も続こうとしたところで、フレイヴィアさんが足を止めた。
「余はギルドへ戻る」
「一緒に来ないんですか?」
振り向くと、フレイヴィアさんは港の方角へ目を向けていた。
「異常個体を見ておく。調査員も、余へ確認したいことがあるそうだ」
「そうですか」
彼女の視線が、僕の左腕へ移る。
「治療が終わるまで、待っていてもいいですよ」
「主が逃げぬならば、その必要はない」
「逃げません」
「本当に?」
「本当に本当です」
いつもの返事をすると、黄金の瞳がじっと僕を見つめた。
それからフレイヴィアさんは、隣のガルドさんへ顔を向ける。
「ガルド」
「分かってる。宿まで連れて帰る」
ガルドさんが面倒そうに片手を上げる。
けれど、フレイヴィアさんはまだ尾を動かさなかった。
「寄り道もさせるな」
「分かってる」
「訓練は?」
「させねぇよ」
「食事は?」
「角兎亭で食わせる」
答えるたび、ガルドさんの指が一本ずつ折られていく。
最後に開いた手のひらを見せ、彼は肩を落とした。
「ほら、全部分かった。俺は保護者じゃねぇんだぞ」
「似たようなものだろう」
「違う」
二人のやり取りを聞きながら、僕は首を傾げた。
「僕はもう十九歳なんですが」
「年齢の話はしておらぬ」
「行動の話だ、坊主」
「……そうですか」
まったく納得できない。
しかし、二人とも譲る気はなさそうだった。
フレイヴィアさんは最後に僕へ近づき、フードの上から頭を軽く叩いた。
「終わったら帰れ」
「はい」
「何か分かれば、明日伝える」
「お願いします」
彼女は短く頷き、黒い外套を翻して大通りへ戻っていく。
背中で揺れる黒髪を見送りながら、ふと気づいた。
「髪紐、無事でしたね」
「今それ言うのか、坊主」
ガルドさんに背中を押され、僕は教会へ入った。
◆
重たい扉が閉じると、街の喧騒が急に遠ざかった。
高い天井に、白い石壁。水色の硝子窓から差し込む夕日が、床へ細長い模様を落としている。
薬草と香油。
清められた水。
その奥から、僅かに血の匂いも混じっていた。
礼拝堂の長椅子では、老人が目を閉じて祈っている。
壁際には包帯を巻いた幼い獣人族の子供と、その手を握る母親。
白い衣を纏った治療師たちが、静かな足取りで廊下を行き交っていた。
「何回来ても、静かですね」
「お前はここへ来る時、だいたい意識が半分ないからな」
「今日はあります」
「珍しいことみたいに言うな」
受付へ向かおうとしたところで、礼拝堂の奥から白と青の衣が現れた。
「おかえりなさい」
穏やかな声。
けれど、その声を聞いた瞬間、僕の背筋は自然と伸びた。
セラフィーンさんは白い翼を小さく畳み、こちらへ歩いてくる。
淡い金色の髪が夕日を受け、肩の上で柔らかく光っていた。
僕たちの前まで来ると、まずガルドさんの右肩を確認する。
続いて僕の外套と左腕へ目を向け、金色の瞳を僅かに細めた。
「お二人とも、治療室へ」
「セラフィーンさん。僕は腕を少し打っただけで――」
「治療室へ」
声の調子は変わらない。
笑顔も、いつもと同じだ。
なのに――拒否できる気がしなかった。
「……はい」
「素直だな、坊主」
「ガルドさんもですよ」
隣から逃げようとした犬耳を見逃さず、セラフィーンさんの視線がそちらへ移る。
「ガルド様も、治療室へ」
「俺は盾を受けただけだ」
「治療室へ」
犬耳が、ぺたりと伏せた。
「……はい」
僕より素直だった。
治療室の並ぶ廊下まで案内されると、年配の天使族の女性が待っていた。
ガルドさんの肩へ一度触れ、すぐに眉を寄せる。
「こちらへ」
「いや、本当に痺れただけで」
「こちらへ」
女性が扉を開く。
ガルドさんは僕へ助けを求めるような目を向けた。
「坊主」
「頑張ってください」
「見捨てるのが早ぇよ」
それでも、抵抗することなく別室へ入っていった。
閉まった扉を見送り、僕は小さく息を吐く。
「ガルドさん、大丈夫でしょうか」
「あの方は腕のよい治療師です」
セラフィーンさんはそう答え、隣の扉へ手をかける。
「心配なのは、治療されることではなく、叱られることだと思います」
「でしたら、なおさら大丈夫です」
「大丈夫なんですか?」
「必要なことですから」
柔らかな笑顔のまま、逃げ道だけが消えていく。
「ルキウス様はこちらへ」
「……はい」
呼び方が変わった。
廊下には誰もいない。
それでも一度周囲を確かめてから、僕はセラフィーンさんに続いて治療室へ入った。
扉が閉じられる。
鍵が掛かる、小さな音。
外の足音が遠ざかり、部屋には僕と彼女だけが残った。
◆
治療室には、白い寝台と木製の椅子、薬瓶を並べた棚が置かれていた。
窓は港の方角へ向いている。暮れかけた街並みと、その向こうに並ぶ帆柱が見えた。
セラフィーンさんは窓の薄布を引き、外から室内が見えないことを確かめる。
「もう大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
フードの端へ手をかける。
一瞬だけ指が止まった。
人前で外すな。
母に何度も言われた言葉は、今でも身体の奥へ残っている。
けれど――ここには、僕が何者なのかを知る人しかいない。
ゆっくりとフードを下ろす。
隠れていた額へ涼しい空気が触れ、少し伸びた髪が頬へ落ちた。
「ふぅ……」
息がしやすい。
それだけのことなのに、肩から余計な力が抜けていく。
セラフィーンさんは僕の顔を見ても驚かない。
ただ、金色の瞳を柔らかく細めた。
「おかえりなさい、ルキウス様」
「ただいま戻りました」
ギルドではアルナさんに言われた。
今度はセラフィーンさん。
同じ言葉なのに、響き方が少し違う。
どちらも温かく、胸の内側へゆっくり染み込んできた。
「では、左腕を見せてください」
「これくらいなら、放っておいても治ると思います」
「見せてください」
セラフィーンさんは椅子を寝台の前へ引き、そこへ腰を下ろす。
僕も観念して寝台の端へ座り、外套と左腕の防具を外した。
袖を捲る。
前腕には、赤黒い痣が広がっていた。
「まあ」
セラフィーンさんの眉が僅かに下がる。
「腕を少し打った、と聞いていましたけれど」
「少しです」
「ルキウス様の『少し』は、あまり信用できませんねぇ」
責められているわけではない。
それなのに、なぜか素直に謝りたくなる声だった。
「動かせますよ」
証明しようと肘を曲げる。
皮膚の下が引きつり、鈍い痛みが腕を走った。
顔には出さなかった――つもりだった。
「痛みましたね?」
「……少しだけ」
セラフィーンさんは小さく息を吐き、僕の手首へ指を添える。
「やっぱり」
「顔に出ていましたか?」
「目が僅かに動きました」
「そこまで見ているんですね」
「治療師ですから」
細い指が痣の周囲をゆっくりと辿った。
「ここは?」
「大丈夫です」
「こちらは?」
少し上へ触れられ、僕は僅かに息を止める。
「……そこは痛いです」
「初めから、そう言ってくださいね」
「すみません」
反省している。
本当である。
ただ、次も同じように最初から言えるかについては――今は黙っておこう。
「では、治しますね」
白い指先から淡い光が広がった。
温かな魔力が手首から腕へ入り込み、腫れた場所を優しく包む。
熱いというより、ぬるい水へ腕を沈めた時のような、穏やかな温かさだった。
光が傷へ触れるたび、強張っていた筋肉が少しずつ緩んでいく。
同時に、手首を支えるセラフィーンさんの指の感触まで、妙にはっきりと伝わってきた。
細い指。
柔らかな手のひら。
脈を確かめるように添えられた親指。
治療を受けることには慣れているはずなのに、今日は少しだけ落ち着かない。
「痛みはどうですか?」
「さっきより、ずっと楽です」
セラフィーンさんが目を伏せる。
長い睫毛の下で、金色の瞳が治癒の光を淡く反射していた。
「よかったです」
「ありがとうございます」
僕が腕の力を抜くと、セラフィーンさんは少しだけ首を傾げた。
「相変わらず、とても素直ですねぇ」
「何がですか?」
「私の魔力です」
光を送り込みながら、彼女の指が腕をゆっくり撫でるように動く。
「ほとんど抵抗せず、身体の奥まで入っていきます。どこを傷めているのかも、すぐに分かるんですよ」
「便利な身体ですね」
「便利、と言ってよいのでしょうか」
セラフィーンさんは少し考え、困ったように笑った。
「ルキウス様が怪我をしなければ、もっと良いことですけれど」
「それは難しいかもしれません」
「そこは、もう少し考えてから答えてほしかったです」
「すみません」
呆れられた。
けれど、声は最後まで柔らかいままだった。
「今日は、もう戦いませんね?」
「戦う予定はありません」
「予定外に、獲物を見つけても?」
白い指が、僕の手首の上で止まる。
「…………」
すぐには答えられなかった。
帰り道に、あの異常な灰牙犬が現れたら。
街の中なら、誰かが襲われる前に止める必要がある。
街の外でも、逃がせば次の荷車を襲うかもしれない。
それに、もう一度戦えば――今日より上手く仕留められる。
「ルキウス様?」
「状況によります」
セラフィーンさんの翼が、少しだけ下がった。
「そこは、戦いませんと言っていただきたかったです」
「必要なら、戦うべきでは?」
「必要かどうかを、まず周りの方と相談してください」
「……はい」
少しだけ間を置いて答える。
治癒の光が弱まり、セラフィーンさんの指が腕から離れた。
触れられていた場所へ遅れて涼しい空気が当たり、ほんの僅かに物足りなく感じる。
「終わりましたか?」
「大きな損傷は治しました。ただし、痛みは少し残しています」
「どうしてですか?」
「完全に消すと、すぐ動かすでしょう?」
「……動かすかもしれません」
「ですので」
袖を戻され、僕は左腕を軽く曲げる。
痛みはほとんど消えていたものの、筋の奥には確かに小さな違和感が残っている。
「信用がありませんね」
「信用しているから、先回りしているのです」
「難しいですね」
「はい。とても」
セラフィーンさんは外套を持ち上げ、袖口に残った黒い染みへ目を止めた。
「こちらは何でしょう」
「異常個体の水だと思います」
灰牙犬がガルドさんの盾へ衝突した際に飛んだ雫だろう。
何刻も経っているはずなのに、布はまだ僅かに湿っていた。
セラフィーンさんは白い布を手に取り、染みを拭う。
移った水分を灯りへ透かすと、金色の瞳が僅かに細くなった。
「まだ乾いていません」
「死んだあとも、ずっと濡れていました」
硝子皿へ布を置く。
セラフィーンさんは指先を近づけ、何かを探るように目を閉じた。
白い翼がゆっくりと広がる。
羽の隙間から淡い光が零れ、室内の空気が僅かに湿った。
「……水の魔力があります」
「海水ですか?」
「よく似ていますが、同じではありません」
目を開いたセラフィーンさんは、硝子皿を見つめたまま眉を寄せる。
「流れているのに、流れていない。生き物の中へ留まりながら、どこかへ向かおうとしているような……」
「水が、ですか?」
「上手く説明できませんねぇ」
困ったような声。
それでも、広がった翼は警戒するように硬くなっていた。
「ギルドから、異常個体について簡単な連絡が届いています」
「もうですか?」
「はい。海水に似た水が付着しているため、教会にも照会がありました」
セラフィーンさんは硝子皿へ蓋をし、棚の端へ置く。
「最近、港で働く方の中に、傷の治りが遅い方が増えています」
「この水が原因なんですか?」
「まだ、分かりません」
彼女はすぐ首を振った。
「荷物で手を切った方。鱗魚種に噛まれた方。水路へ落ちた方……理由はそれぞれです。ただ、傷口に妙な水の魔力が残っている方が、何人かいました」
「今日の水と似ています?」
「よく似ています」
窓の向こうへ目を向ける。
夕日に染まっていた港は、いつの間にか薄い霧へ覆われ始めていた。
帆柱だけが、白い靄の中から細く伸びている。
「……調べに行きますか?」
気づけば、そう尋ねていた。
港はここから近い。
今見に行けば、異常個体に付着していた水と比べられるかもしれない。
それに――もし、同じようなものが港にもいるなら。
「ルキウス様」
名前を呼ばれ、立ち上がりかけた腰を戻す。
セラフィーンさんの金色の瞳は、少しだけ呆れていた。
「今日の依頼は終わっています」
「でも、気になります」
「私も気になります」
「でしたら――」
続けようとしたところで、セラフィーンさんが立ち上がる。
広げていた翼が棚へ触れそうになり、僕は反射的に手を伸ばした。
「危ないですよ」
白い羽の外側を支え、木枠へ挟まらないよう手前へ寄せる。
「…………」
セラフィーンさんの身体が止まった。
「あっ、すみません」
慌てて手を離そうとする。
けれど、指先へ触れた羽が思っていたより柔らかく、動きが僅かに遅れた。
表面はさらさらとしている。
その内側には、羽毛に包まれた温かな感触があった。
「翼を触られるのは、嫌でしたか?」
「……いいえ」
セラフィーンさんは少しだけ頬を伏せた。
淡い金髪の間から覗く耳が、僅かに赤くなっている。
「ルキウス様でしたら、構いません」
「そうですか」
許されたのなら、急いで離す必要もないのだろうか。
とはいえ、ずっと持っている理由もない。
迷いながら指先を離すと、セラフィーンさんが翼を少しだけ僕へ向けた。
「もう一度、触れますか?」
「いいんですか?」
尋ねると、金色の瞳が一度だけ伏せられる。
それから、秘密を隠すような笑みが浮かんだ。
「はい。ルキウス様でしたら」
差し出された羽へ、今度は慎重に触れる。
表面を指先で撫でると、細かな羽が流れに沿って整っていく。
付け根へ近づくほど温かく、柔らかい。
「温かいんですね」
「生きていますから」
「外側は、もっと冷たいものだと思っていました」
「風を受ける場所ですからねぇ。けれど、内側には体温があります」
セラフィーンさんは、くすぐったそうに僅かに肩を竦めた。
その動きに合わせて翼が震え、柔らかな羽が指先を撫でる。
「すみません。くすぐったいですか?」
「少しだけです」
「では、やめます」
「……もう少しでしたら、大丈夫ですよ」
離しかけた手を止める。
セラフィーンさんの翼は、そのまま僕へ差し出されていた。
「天使族にとって、翼は大切なものですよね」
「はい」
「僕が触っても、本当に大丈夫なんですか?」
セラフィーンさんは答えようとして、一度口を閉じた。
金色の瞳が、翼へ触れる僕の手と顔を交互に見る。
やがて、自分の翼へそっと手を添えた。
僕の指のすぐそばを、白い指先がゆっくり撫でる。
「今は、まだ内緒です」
「何がですか?」
「翼へ触れさせることの意味が、です」
「意味があるんですね」
驚いて手を離すと、セラフィーンさんは少しだけ名残惜しそうに翼を畳んだ。
「気になります」
「では、ご自分で調べてみますか?」
「教会の本に載っています?」
「どうでしょう」
「載っていない顔ですね」
「秘密です」
口元へ指を当て、セラフィーンさんが小さく笑う。
「いつか意味を知った時に、今日のことを思い出してください」
「分かりました」
理由は分からない。
けれど、たぶん忘れないだろう。
羽の柔らかさも。
内側にあった温かさも。
すぐ近くで見た、セラフィーンさんの赤い横顔も。
「それでは、港へ――」
「行きませんよ」
外套へ伸ばしかけた僕の手を、セラフィーンさんが先に押さえた。
「まだ何も言っていません」
「お顔に書いてありました」
「フードを被っていないのは不便ですね」
「そういう問題ではありません」
セラフィーンさんは外套を持ち上げ、僕の肩へ掛ける。
留め具を閉じながら、少しだけ眉を下げた。
「ギルドと教会へ任せてください」
「ですが、異常個体と同じものがいるかもしれません」
「だからこそ、です」
彼女の指が、外套の襟を整える。
「分からないものへ、治療したばかりの身体で飛び込んではいけません」
「見に行くだけです」
「獲物がいれば?」
「…………」
また、すぐに答えられなかった。
セラフィーンさんは困ったように笑い、僕の額へ落ちていた髪を指先で払う。
「狩ることを前提に考えないでくださいね」
「前提にはしていません」
「本当に?」
「本当に本当です」
少し間が空いた。
彼女は僕の目を見つめ、やがて小さく息を吐く。
「……今は、信じておきます」
「今は?」
「今夜、無事に角兎亭へ戻ったと分かるまでです」
「アルナさんみたいですね」
「アルナさんのお気持ちが、よく分かります」
フードを被り直す。
布が顔へ影を落とし、さっきまで頬へ触れていた空気が遠くなった。
少し息苦しい。
けれど、外へ出るなら必要だ。
セラフィーンさんは何も言わず、僕が被り終えるのを待ってから扉の鍵を開けた。
◆
廊下へ出ると、ちょうど向かいの治療室からガルドさんが現れた。
右肩には新しい包帯が巻かれ、犬耳はすっかり力を失っている。
「ガルドさん」
「坊主」
目が合う。
ガルドさんは一度、自分の肩を見下ろした。
「生きてるか?」
「はい」
「俺もだ」
「よかったです」
その後ろから、治療師の女性が姿を現す。
「本日は、右肩へ負担をかけないように」
「分かってる」
「明日も依頼は控えてください」
「分かってるって」
「本当に?」
女性の視線が鋭くなる。
ガルドさんは一度口を閉じ、僕を見た。
「……本当に本当だ」
「便利に使いましたね」
「お前に言われたくねぇ」
僕が少し笑うと、ガルドさんの視線が左腕へ移った。
「そっちは?」
「筋を痛めていたそうです」
「明日は?」
「休むように言われました」
「そうか。じゃあ、一緒だな」
少し嬉しそうだった。
休まされる仲間ができて安心したらしい。
「宿へ帰るぞ」
「その前に、ギルドの異常個体を――」
ガルドさんの左腕が、僕の首へ回る。
右肩を使わないまま引き寄せられ、そのまま入口へ向かって歩かされた。
「帰るぞ」
「少し確認するだけです」
「帰るぞ」
「まだ調査員がいる時間ですよ」
「帰るぞ」
同じ言葉しか返ってこない。
「苦しいです」
「逃げるよりましだ」
「逃げません」
「なら、真っすぐ歩け」
後ろから、セラフィーンさんの小さな笑い声が聞こえた。
教会の入口まで来ると、ガルドさんはようやく腕を解く。
夜の冷たい風が、開いた扉から流れ込んできた。
「ルキウス様」
呼ばれて振り返る。
セラフィーンさんは、白い翼を背中へ畳んだまま僕を見つめていた。
「今日は、まっすぐ宿へ」
「はい」
「食事をして、眠ってください」
彼女は僕の返事を確かめるように、僅かに目を細める。
「明日のことは、明日考えましょう」
「……はい」
明日のことは、明日考える。
今日は帰る。
食べる。
眠る。
異常個体のことも、港の霧も――今夜だけは誰かへ任せる。
「セラフィーンさん」
「はい」
「ありがとうございました」
頭を下げると、彼女は穏やかに微笑んだ。
「無事に帰ってきてくださって、ありがとうございます」
それは、こちらが言うべき言葉のような気がした。
それでも、セラフィーンさんは本気でそう思っているらしい。
「はい」
もう一度だけ頷き、ガルドさんと教会を出る。
夜のエルドランには、まだ酒場の笑い声と屋台の灯りが残っていた。
その向こう――港の上には薄い霧が広がっている。
僕がそちらへ顔を向けると、外套の背を掴まれた。
「角兎亭はこっちだぞ、坊主」
「分かっています」
「足が港へ向いてた」
「少し見ただけです」
「見るだけで近づくな」
宿の方角へ引き戻される。
「本当に信用がありませんね」
「行動で作った信用だ。受け入れろ」
「悪い意味の信用では?」
「今さら気づいたか」
犬耳を揺らして笑うガルドさんの隣で、僕はもう一度だけ港を振り返った。
薄い霧。
静かな海。
夜の灯りに濡れた帆柱。
何も起きていないように見える。
それでも――異常な灰牙犬を濡らしていた冷たさが、左手の指先へまだ残っている気がした。
◆
扉が閉じたあと、セラフィーンはしばらくその場に立っていた。
廊下には、ルキウスの姿はもうない。
ガルドと話す声も、教会の外へ遠ざかっていく。
「……困りましたねぇ」
小さく呟く。
困っているのは、港の霧だけではない。
濡れた獣に残っていた、奇妙な水の魔力だけでもなかった。
セラフィーンは自分の翼へ手を伸ばす。
ルキウスが触れた場所を、指先でそっと撫でた。
天使族にとって、翼はただ空を飛ぶための器官ではない。
魔力の流れを整え、祈りを捧げ、感情さえ映し出す――魂に近い場所だ。
家族や治療師が、手入れのために触れることはある。
けれど、それ以外の者へ自ら翼を差し出すことには、別の意味がある。
信頼。
親愛。
そして、それよりも深いもの。
ルキウスは知らない。
知らないまま、何の疑いもなく触れた。
けれど、自分は知っていた。
知ったうえで、もう一度触れるかと尋ねた。
「本当に……困りました」
先ほどまで彼がいた治療室へ目を向ける。
寝台には僅かに外套の跡が残り、薬草の匂いの中へ、彼の気配がまだ残っているようだった。
無事に帰ってきた。
怪我も軽かった。
それだけでよかったはずなのに。
扉が閉じて姿が見えなくなった途端、もう少しだけ引き止めればよかったと思ってしまう。
翼へ触れた指先を、忘れてほしくない。
いつか意味を知った時、今日のことを思い出してほしい。
――そして、その時。
彼は、どんな顔をするのだろう。
セラフィーンは熱を持った頬へ手を添え、それから窓の外へ目を向けた。
港の上には、薄い霧が残っている。
水の魔力は、やはり落ち着かない。
寄せては返すはずの流れが、どこか一方向へ引かれている。
まだ小さい。
注意していなければ、気づかないほどの揺らぎだ。
けれど――確かに、何かが動いている。
「ルキウス様」
誰もいない部屋で、その名を呼ぶ。
彼は強くなった。
以前より周囲を見て、仲間へ頼ることも覚え始めている。
それでも、獲物や強敵の話をする時だけ、彼の瞳には別の光が宿る。
恐怖を知らないわけではない。
むしろ、人一倍怖がっている。
なのに、その恐怖の奥で――刃が届くことを喜んでいる。
本人は、まだ気づいていない。
「どうか、その熱に呑まれませんように」
祈るように呟き、セラフィーンは翼を畳んだ。
白い羽の奥には、触れられた温かさがまだ残っている。
港から届く水のざわめきと、胸の内側に生まれた別のざわめき。
どちらも、すぐには消えてくれそうになかった。
◆
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