駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
翌日の正午前。
僕は休養日を使い、ハンターギルドを訪れていた。
「休養日という言葉の意味、分かっていますか?」
受付へ着くなり、アルナさんから尋ねられた。
柔らかな笑顔ではあるけれど、二つの猫耳はぴんと前を向いている。
「依頼は受けませんよ」
「本当ですか?」
「本当に本当です」
いつもの返事をすると、アルナさんの耳が僅かに揺れた。
けれど、今日はそれだけでは誤魔化されてくれないらしい。
「では、その装備は何ですか?」
「普段着です」
「片刃剣を佩いた普段着が?」
「街の外へ出るつもりはありません」
腰へ視線を落とす。
確かに片刃剣はある。
外套の下には胴当ても着けていた。
……言われてみれば、少しだけ普段着からは遠いかもしれない。
「街の中で何かあったら困りますから」
「街中で武器が必要になるような何かを、探してはいませんよね?」
「探してはいません」
見つけた時にどうするかは、また別の話だけれど。
そこまで口にする必要はないだろう。
僕は道具袋から一枚の紙を取り出し、受付台へ載せた。
「昨日の異常個体について、セラフィーンさんから追加の所見を預かってきました」
「教会から?」
アルナさんが紙を受け取り、素早く目を通す。
笑顔の奥に隠れていた仕事の顔が表れ、猫耳が僅かに外へ傾いた。
「水に含まれる魔力が、港の患者から検出されたものと似ている……」
「はい。ただ、同じものかはまだ分からないそうです」
「異常個体の調査も、まだ続いています」
書類を揃えながら、アルナさんが素材保管庫の方角へ目を向けた。
「今朝確認した時も、遺体は濡れたままでした」
「やっぱり、乾いていないんですね」
「はい。調査員が水を採取していますが、汲み取っても毛の奥から滲み出てくるそうです」
死んだ灰牙犬の毛から、何刻経っても流れ続ける水。
昨日の冷たさが、指先へ蘇る。
「今から見に行っても?」
「駄目です」
間髪を入れずに断られた。
「まだ何もしていません」
「ルキウスさんの目が、少し輝きました」
「そんなに分かりやすいですか?」
「最近は、少しだけ」
アルナさんは追加の所見を別の書類へ挟み、紐でまとめる。
それから、逃げ道を塞ぐように僕を見上げた。
「今日は休養日です」
「見るだけですよ」
「昨日も同じことを言って、港へ行こうとしたそうですね?」
「誰から聞いたんですか?」
「セラフィーン様です」
昨日のうちに伝わっていたらしい。
教会とギルドの連携が早いのはよいことだけれど、僕の行動まで共有されているのは少し困る。
「ガルドさんからも、見張っておくように言われました」
「ガルドさんまで……」
「フレイヴィア様からは、危険な依頼票へ近づけるなと」
「皆さん、僕を何だと思っているんでしょう」
「目を離すと狩りへ行く人です」
はっきりと言われた。
「僕は、そんなに狩りへ行っていませんよ」
「昨日も行きました」
「依頼ですから」
「一昨日も討伐依頼の掲示板を見ていました」
「確認しただけです」
「その前の日は?」
「……採取依頼の帰りに足跡を見つけたので」
「追いましたね?」
「少しだけです」
獲物の種類と数を確かめるため、森の入り口まで追っただけだ。
結局、別のハンターが追っていた獲物だと分かり、すぐ引き返した。
つまり、狩りには行っていない。
「狩ってはいません」
「そこは重要ではありません」
アルナさんは額へ手を当て、細く息を吐いた。
猫耳まで少し疲れて見える。
「ともかく、異常個体の保管庫には入りません」
「分かりました」
「本当に?」
「本当に本当です」
しばらく見つめられたあと、ようやく警戒が解かれる。
アルナさんは胸元で小さく息を吐き、次の書類へ手を伸ばした。
「追加所見は、調査担当へ渡しておきます」
「お願いします」
用事は済んだ。
そのまま帰るべきなのだろう。
けれど、受付台の横には朝から積まれたままらしい書類の山。
アルナさんの手元には、冷めた茶の入ったカップだけが置かれていた。
「アルナさん」
「はい?」
書類へ向けられていた顔が上がる。
僕は受付奥の時計へ目を向けた。
「もうすぐ昼ですよ」
「そうですね」
「お昼は?」
「あとでいただきます」
答えながら、アルナさんは次の依頼報告書を開いた。
その横顔には迷いがない。
――これは、食べない顔だ。
「昨日も、あとでと言っていませんでしたか?」
「昨日は食べましたよ」
「何をです?」
「焼き菓子を一つ」
「それは昼食ではありません」
アルナさんのペンが、僅かに止まる。
「忙しかったので」
「今日も忙しそうですね」
「ですから、あとで――」
「今日は何を食べるつもりですか?」
尋ねると、今度こそ手が止まった。
猫耳が片方だけ外へ傾く。
「……まだ決めていません」
「持ってきていないんですか?」
「朝、少し急いでいまして」
「では、食べに行きましょう」
僕が言うと、アルナさんが瞬きをした。
受付台の上で、握ったままのペンが小さく揺れる。
「私と、ですか?」
「ほかに誰がいるんです?」
「いえ、その……」
アルナさんは左右の受付へ視線を走らせた。
同僚たちは忙しそうに依頼人へ対応している。
「まだ仕事が残っています」
「休憩時間も仕事のうちだと、女将さんが言っていました」
「女将さんが?」
「休まず働くと、あとで余計に迷惑をかけるそうです」
僕も昨日、似たようなことを言われた。
休むよう言われた日にギルドへ来ている時点で、説得力には少し欠けるかもしれない。
――そこは黙っておこう。
「それに、アルナさんは僕へ休めと言いましたよね」
「言いました」
「自分だけ休まないのは、不公平です」
「それとこれとは……」
アルナさんの声が少しだけ弱くなる。
僕は受付台へ両手をつき、僅かに身を乗り出した。
「昼休みを、僕に貸してください」
「貸す?」
「きちんと食べたら、お返しします」
どう返すのかまでは考えていない。
けれど、食べ終わるまで借りればいい。
アルナさんはしばらく僕を見つめ、それから小さく口元を緩めた。
「変なお願いですね」
「駄目ですか?」
「……少し、待っていてください」
猫耳を僅かに伏せ、アルナさんは隣の受付へ向かう。
同僚の職員へ何かを相談すると、相手は一度こちらを見た。
目が合う。
職員の女性は、なぜか楽しそうに笑った。
「ゆっくりしてきてください」
「ですが、混雑していますし」
「午後の交代を少し早めます。アルナさん、昨日もまともに休んでいないでしょう?」
「それは……」
言葉を詰まらせるアルナさんへ、女性は追い払うように手を振る。
「行ってきてください。ルキウスさん、よろしくお願いしますね」
「はい。きちんと食べてもらいます」
「ルキウスさんまで……」
アルナさんは少し困ったように眉を下げた。
けれど、猫耳の先は嬉しそうにぴくぴくと動いていた。
◆
ギルドを出ると、真昼の陽射しが石畳へ白く降り注いでいた。
通りには屋台が並び、炙った肉や香辛料、焼きたてのパンの匂いが風に乗って流れている。
アルナさんは仕事用の上着だけを脱ぎ、淡い色のシャツと膝下まであるスカート姿になっていた。
いつも受付台を挟んで向き合っているせいか、隣を歩く姿は少し新鮮に見える。
「どこで食べましょうか」
「ルキウスさんにお任せします」
「僕が決めても?」
「昼休みを借りているのでしょう?」
アルナさんは、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「貸している間は、ルキウスさんが責任を持ってください」
「分かりました」
責任は重い。
少なくとも、焼き菓子一つで済ませるわけにはいかなかった。
「何か食べたいものはありますか?」
「何でも大丈夫ですよ」
「何でも、が一番難しいんですよね……」
女将さんに尋ねても、同じことを言われる時がある。
そして本当に何でも作ると、もっと肉が欲しかったなどと言われるのだ。
「では、魚にしましょう」
「魚ですか?」
「ラッツさんの店なら、今日のおすすめを知っていると思います」
港へ続く通りへ曲がる。
人混みの間を抜けていくと、見慣れた狐耳が魚の並ぶ露店の向こうで揺れていた。
「おっ、ルキウス!」
ラッツさんがこちらへ大きく手を振る。
その視線が僕の隣へ移り、狐耳がぴんと立った。
「なんだなんだ。今日は受付嬢さんと一緒か?」
「はい。昼食を食べに来ました」
「へぇ」
ラッツさんは顎へ手を添え、僕とアルナさんを交互に見る。
なぜか笑いを堪えているようだった。
「昼食ねぇ」
「何かおかしいですか?」
「いやいや。昼食なら、昼食だ」
繰り返しただけで、答えになっていない。
アルナさんへ目を向けると、猫耳が少しだけ横へ伏せていた。
暑いのだろうか。
頬も僅かに赤い。
「アルナさん、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
「本当に?」
「本当に本当です」
僕の言葉を使われた。
ならば、大丈夫なのだろう。
「ラッツさん、すぐ食べられるものはありますか?」
「ちょうどリーヴァウォを焼いてるところだ。二人なら、向こうの卓を使えよ」
ラッツさんが露店の脇を指差す。
簡素な屋根の下に、小さな木の卓と椅子が二つ並んでいた。
「ありがとうございます」
「礼なら、代金を払ってからにしな」
「もちろんです」
財布を出そうとすると、アルナさんが素早く僕の手首を押さえた。
「自分の分は払います」
「昼休みを借りたのは僕です」
「それと支払いは別です」
「責任を持ってと言いましたよね?」
「食べる場所を決める責任です」
アルナさんが財布を取り出す。
僕も引くつもりはない。
「僕が誘いました」
「でも、私の食事です」
「昨日も食べていなかった分があります」
「それは関係ありません」
「あります」
互いに財布を持ったまま、少しの間見つめ合う。
すると、間にいたラッツさんが楽しそうに笑い始めた。
「かかっ! そんなに揉めるなら、まとめて後払いにしてやるよ」
「それでは解決していません」
「食ったあとに決めろ。魚が焦げちまう」
網の上では、確かに二尾の魚が焼けている。
皮の表面から脂が落ち、炭の上で小さく炎が上がった。
「……先に食べましょうか」
「そうですね」
ひとまず財布を収め、アルナさんと卓へ向かう。
僕が椅子を引くと、彼女は少し意外そうに目を丸くした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
アルナさんが腰を下ろす。
向かいの椅子へ座ると、受付台を挟んでいる時より距離が近く感じられた。
しばらくして、ラッツさんが大きな皿を運んでくる。
炙ったリーヴァウォに刻んだ香草。薄く切った黒パンと、酢漬けの野菜も添えられていた。
「ほらよ。今日は身が太いぞ」
「美味しそうですね」
「だろ? そっちの嬢ちゃんも、遠慮せず食えよ」
「ありがとうございます」
アルナさんが丁寧に頭を下げる。
ラッツさんは満足そうに鼻を鳴らし、露店へ戻っていった。
「いただきます」
「いただきます」
皮へ刃物を入れると、ぱりりと小気味よい音が鳴る。
白い身から湯気が上がり、香草と魚の脂が混ざった匂いが鼻をくすぐった。
一口食べる。
塩気は強すぎず、柔らかな身の甘さがよく分かった。
「おいしいです」
「本当ですね」
アルナさんの猫耳が、嬉しそうに立つ。
その動きが食事の感想よりも分かりやすく、僕は思わず見つめた。
「どうしました?」
「いえ。耳が」
「耳?」
アルナさんが片手を頭へ伸ばす。
触れられた猫耳が、少しだけ後ろへ倒れた。
「何かついていますか?」
「何もついていません。美味しい時は、立つんですね」
「……見ていたんですか?」
「目の前にありますから」
答えると、アルナさんは片手で両耳を隠そうとした。
当然ながら、一つの手では両方を隠せない。
「見ないでください」
「どうしてです?」
「恥ずかしいので」
「可愛いと思いますけど」
猫耳が、ぴたりと止まった。
「……もう一度、お願いします」
「何をです?」
「いえ、何でもありません」
アルナさんは顔を伏せ、魚の身を小さく切り分け始めた。
耳の付け根まで赤くなっている。
やはり暑いのかもしれない。
屋根の下とはいえ、今日は陽射しが強かった。
「水をもらってきましょうか?」
「大丈夫です。本当に」
少し強めに断られた。
本人が大丈夫と言うなら、無理に動く必要もないだろう。
食事を進めていると、通りの向こうを三人組のハンターが歩いていく。
背中には弓と槍。
腰には採取袋があり、会話の端から北の林での狩りへ向かうらしいと分かった。
「大角鹿が出たらしいぞ」
「角の大きな雄か?」
「昨日、採取班が足跡を見つけたってよ」
思わず、通りを歩く三人へ目が向く。
大角鹿。
気性は荒くないが、追い詰めると鋭い角を振り回す。
成長した雄なら突進も速く、正面から受けるのは危険だ。
昨日の灰牙犬で使った傷薬は補充済み。
左腕も、ほとんど痛まない。
今から向かえば、日が傾く前には――。
「ルキウスさん」
目の前で指を鳴らされた。
「はい?」
「今、何を考えていました?」
「大角鹿についてです」
「追いかけませんよ」
「追いかけるとは言っていません」
「腰が少し浮いていました」
「……本当ですか?」
椅子を確かめる。
確かに、立ち上がる直前のような姿勢になっていた。
「話を聞こうと思っただけです」
「何の話を?」
「足跡が見つかった場所や、大きさを」
「そのあと、どうしますか?」
「見に行けるなら――」
そこまで答え、アルナさんの耳がゆっくり伏せていくのが見えた。
「……今日は休養日でした」
「はい」
僕は椅子へ深く座り直す。
通りの向こうでは、三人組の姿が人混みへ消えていた。
「でも、少し気になりませんか?」
「なりません」
「大角鹿ですよ?」
「知っています」
「角が大きいらしいです」
「だから何なのですか?」
尋ねられ、答えに迷う。
角が大きい。
突進も速い。
狩り応えがありそうだ。
――だから、何なのだろう。
「……見てみたいと思いませんか?」
「思いません」
即答だった。
アルナさんは黒パンを一口食べ、じっとこちらを見る。
「ルキウスさん」
「はい」
「自覚がないのが、一番困ります」
「何のです?」
「そのうち、ご自分で気づいてください」
教えてはくれなかった。
ただ、その猫耳は呆れたように横へ広がっている。
「食べましょう」
「そうですね」
大角鹿について考えるのを一度やめ、皿へ戻る。
今は昼食を食べる時間だ。
……もし次に依頼票が出ていたら、その時考えればいい。
◆
食事を終え、代金は結局、僕が払った。
アルナさんが魚を食べ終えた隙に、ラッツさんへ先に渡したのだ。
「ずるいです」
「誘ったのは僕ですから」
「では、次は私が払います」
「次?」
聞き返すと、アルナさんの歩みが僅かに止まった。
けれど、すぐに何事もなかったように歩き出す。
「また私の昼休みを借りることがあるかもしれません」
「なるほど」
それなら、次は任せてもよいだろう。
昼食をきちんと取らせる機会も増える。
「分かりました。次はお願いします」
「……はい」
アルナさんの尾が、スカートの後ろで小さく揺れた。
ギルドへ戻るには、まだ少し時間がある。
そのまま市場の中を歩いていると、装備店の軒先へ水色の外套が飾られていた。
表面には光沢があり、裾には細かな紋様が縫い込まれている。
「耐水加工の外套ですね」
「最近、港で働く方によく売れているそうです」
アルナさんも足を止め、外套へ目を向けた。
「雨だけでなく、海水にも強い布を使っています。普通の外套より高いですけれど」
「これなら、昨日の水も染みにくかったでしょうか」
「分かりません。あれが普通の水ではないなら、完全には防げないと思います」
店の硝子越しに値札を見る。
今の僕が使っている外套の、何倍もの値段だった。
「高いですね」
「ランク5以上のハンターが使う物ですから」
「いつか買い替えた方がいいでしょうか」
「今の外套も、かなり傷んでいますよ」
アルナさんの指が、僕の袖口へ触れる。
昨日の戦闘で爪が掠めた場所は、布が少し裂けていた。
「補修すれば、まだ使えます」
「そう言い続けて、二年使っていますよね」
「物持ちがいいんです」
「フレイヴィア様ほどではありませんけれどね」
昨日見た部屋を思い出す。
フレイヴィアさんの場合、物持ちがいいというより、何も手放せないに近かった。
「報酬が増えたら考えます」
「先に自分の装備を整えてくださいね」
「そのつもりです」
外套から離れ、隣の店へ目を向ける。
硝子の中には、上質な筆記具や装飾品、小さな生活用品が並べられていた。
落ち着いた色の髪留め。
羽根飾りのついたペン。
磨かれた調理用の小刀。
木製の小箱。
「こういう物も、報酬が余れば買いたいですね」
「装備以外もですか?」
アルナさんが僕の視線を追う。
「はい。お世話になった人たちへ、何か贈りたいです」
「お世話になった方?」
「女将さんやガルドさん。フレイヴィアさんと、セラフィーンさんにも」
二年間で受け取ったものを思い返す。
食事。
武器。
治療。
教え。
帰ってくる場所。
僕がランク4まで進めたのは、自分一人の力ではない。
分かってはいても、今まで返せたものはほとんどなかった。
「今の報酬では、大した物は買えませんけど」
「贈り物は、値段ではないと思いますよ」
「それでも、使える物がいいです」
「ルキウスさんらしいですね」
アルナさんが柔らかく笑う。
僕は店内に並ぶ品を眺めながら、一人ずつ似合いそうな物を考えた。
女将さんには、丈夫な調理道具。
ガルドさんには、盾の手入れに使える物。
フレイヴィアさんへ贈る場合は――。
「フレイヴィアさんには、何を渡しても収集物になりそうですね」
「収納箱などはいかがですか?」
「その箱の中へ、さらに物を詰めそうです」
「箱そのものも収集されるかもしれません」
「ありそうです」
二人で顔を見合わせ、少し笑う。
「セラフィーンさんには……」
白い翼を思い出す。
指先に触れた、柔らかな羽。
あの長い翼を手入れするなら、専用の櫛などが使えるかもしれない。
「翼の手入れに使う物がよさそうです」
「翼へ?」
アルナさんの猫耳が、ぴくりと動いた。
「昨日、触らせてもらったんです」
「…………」
返事がない。
顔を向けると、アルナさんは店の中に並ぶ筆記具を見つめていた。
「どうしました?」
「セラフィーン様の翼に、触れたのですか?」
「はい。とても柔らかかったです」
アルナさんの尻尾が、一度だけ左右へ揺れる。
それから、静かに僕へ向き直った。
「天使族の方は、あまり他人に翼を触らせないと聞きます」
「意味があるそうです」
「意味まで聞いたのですか?」
「それは秘密だと言われました」
答えると、猫耳がゆっくり後ろへ伏せられた。
「……そうですか」
「アルナさんは知っています?」
「知りません」
少しだけ声が硬い。
疲れが戻ってきたのだろうか。
「そろそろ戻りましょうか」
「はい。昼休みが終わってしまいます」
アルナさんが先に歩き出す。
僕も追いかけようとして――硝子の中にある一本のペンが目に入った。
深い緑色の軸。
先端には小さな金色の飾り。
派手ではないけれど、受付台で使えばよく似合いそうだった。
「アルナさん」
「はい?」
数歩先で、彼女が振り返る。
僕は店内のペンとアルナさんを見比べた。
「アルナさんには、何がいいですか?」
「私?」
猫耳が勢いよく立つ。
「はい。お世話になった人には、アルナさんも入っていますから」
「…………」
「欲しい物はありますか?」
アルナさんは口を開いたまま、しばらく動かなかった。
通りの人々が僕たちの間を通り過ぎていく。
「アルナさん?」
「急に聞くのは、ずるいです」
「どうしてです?」
「心の準備ができていません」
贈り物を尋ねるのに、準備が必要なのだろうか。
「今すぐ決めなくても大丈夫ですよ」
「そういう問題では……」
アルナさんは胸元へ片手を当て、一度深く息を吸った。
伏せられていた耳が、少しずつ元へ戻る。
「では、無事に帰ってきてください」
「物ではありませんね」
「一番欲しい物です」
「僕は物ではありませんよ」
「そういう意味ではありません」
今度は呆れられた。
けれど、その表情は先ほどより柔らかい。
「それなら、普段から持ち帰っています」
「毎回、怪我も一緒に持ち帰っています」
「今回は軽傷でした」
「軽傷も怪我です」
アルナさんが腰へ手を当てる。
猫耳も、こちらを叱るように前へ向いた。
「では、怪我を減らします」
「本当ですか?」
「本当に本当です」
答えると、彼女は少しだけ笑った。
「その約束を守ってくださるなら、贈り物はそれで十分です」
「でも、形に残る物も贈りたいです」
「でしたら……」
アルナさんの視線が、僕の後ろにある店へ向く。
硝子越しに並んだ筆記具を眺め、少し考えるように耳を揺らした。
「いつか、ルキウスさんが選んでください」
「僕が?」
「はい。私が自分で選ぶより、その方が嬉しいと思います」
難しい注文だった。
けれど、頼まれたのなら真剣に考えたい。
「分かりました」
「まだ買わなくて大丈夫ですからね」
「報酬が余った時にします」
「まずは装備です」
「分かっています」
念を押され、僕たちはギルドへ向かって歩き出す。
◆
ギルドへ戻ると、昼前より受付周辺の人が増えていた。
アルナさんは急いで仕事用の上着を羽織り、受付台の内側へ戻る。
「昼休み、ありがとうございました」
「きちんと食べてもらえたので、返却を確認しました」
「無事に戻ってきましたね」
「街の中ですから」
僕が答えると、アルナさんは受付台へ手を置いた。
「街の中でも、目を離すと狩りへ行きかけました」
「行ってはいません」
「大角鹿の話を聞いた瞬間、立ち上がりました」
「少し姿勢を変えただけです」
「腰に手も当てていました」
「片刃剣の位置を確認しただけです」
「どうして昼食中に確認する必要があるのですか?」
言われてみると、必要はなかった気がする。
「……癖でしょうか」
「直してください」
即答された。
アルナさんは溜め息をつきながらも、猫耳はどこか楽しそうに立っている。
午前中より顔色もよくなり、声にも張りが戻っていた。
「では、僕は帰ります」
「寄り道はしませんね?」
「大角鹿の足跡を見に行くくらいなら――」
「ルキウスさん」
笑顔のまま名前を呼ばれる。
僕は続く言葉を飲み込んだ。
「冗談です」
「本当ですか?」
「半分くらいは」
「それは冗談ではありません」
受付台の下で、栗色の尻尾が一度だけ強く揺れる。
「まっすぐ角兎亭へ帰ってください」
「はい」
「異常個体を見に、保管庫へも行かないでください」
「はい」
「討伐依頼の掲示板も見ません」
「…………」
「ルキウスさん?」
「……はい」
依頼票を見るだけなら問題ないと思ったけれど、今日はやめておこう。
「それでは、行ってきます」
「今日は帰る方ですよ」
「では、帰ります」
言い直して背を向ける。
扉へ向かって数歩進んだところで、後ろから声が届いた。
「ルキウスさん」
振り返る。
受付台の向こうで、アルナさんが胸元へ両手を重ねていた。
「今日は、ありがとうございました」
「昼食のことですか?」
「はい。それから――」
猫耳が少しだけ横へ傾く。
「次も、楽しみにしています」
「次の昼休みですね」
「……そういうことにしておきます」
少し不思議な答えだった。
けれど、次も一緒に食事へ行ってよいらしい。
「分かりました。また借りに来ます」
「はい。お待ちしています」
今度こそギルドを出る。
真昼を過ぎた通りには、まだ多くの人が行き交っていた。
遠くからは商人の呼び声。
港の方角からは、帆を下ろす音と潮風が届く。
その途中。
壁へ貼られた狩猟情報の紙が、風に揺れているのが見えた。
北の林に現れた、大角鹿の雄。
推定危険度はランク3。
角の大きさから、通常個体よりも――。
「…………」
立ち止まりかけた足を、無理やり前へ出す。
今日は休養日だ。
アルナさんにも、まっすぐ帰ると答えた。
だから、見ない。
詳しい場所も、報酬も、推奨人数も確認しない。
「明日、まだ残っていたら……」
小さく呟き、慌てて口を閉じる。
別に、狩りたいわけではない。
ただ――どれほど大きな角なのか、少し気になるだけだ。
……本当に、それだけである。
僕は狩猟情報へ背を向け、角兎亭へ続く道を歩き出した。
先ほどより少しだけ、足取りが重かった。
◆