駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第二章 第七話『少年は初めて宴を知る』

 

 

 ◆

 

 約束の刻限より、四半刻ほど早く店へ着いた。

 

 西通りの一角に建つ、三階建ての酒楼。

 磨かれた木の看板には、金色の角を持つ獣が描かれている。

 

 入口には高級そうな馬車が何台も止まり、扉の前には揃いの服を着た店員が立っていた。

 

「……ここで合ってるよね」

 

 昨日、ガルドさんから渡された紙をもう一度開く。

 店の名前も、場所も間違っていない。

 

 ただ、僕が想像していた酒場とは――かなり違った。

 

 宴と聞いて思い浮かべたのは、大きな酒樽と長机が並ぶ騒がしい店だ。

 酔ったハンターが肩を組み、肉へ齧りつき、誰かが歌い始める。

 

 目の前にある店から聞こえるのは、楽器の静かな音色だけだった。

 

「ガルドさん、店選びを間違えてないかな……」

 

 そう呟きながら扉へ近づくと、店員の男性が深く頭を下げた。

 

「ルキウス様でいらっしゃいますか?」

「はい」

 

 名前まで知られている。

 ますます落ち着かない。

 

「ヴォルグラート様がお待ちです。ご案内いたします」

「もう来ているんですか?」

「はい。お料理について、最終確認をなさっております」

 

 料理の最終確認。

 

 その言葉へ小さな不安を覚えながら、店員の後ろについて店へ入った。

 

 磨かれた床。

 白い布を掛けられた卓。

 壁には、海や山を描いた大きな絵が並んでいる。

 

 酒と肉の匂いはする。

 ただし、普段立ち寄る酒場よりも穏やかで、香草や焼き菓子の甘い香りまで混じっていた。

 

 階段を上がり、三階の奥へ進む。

 案内された先にあったのは、十人以上が入れそうな大部屋だった。

 

「主。遅かったな」

「まだ約束より早いですよ」

 

 窓辺へ立っていたフレイヴィアさんが、こちらを振り返る。

 

 一瞬、誰だか分からなかった。

 

 いつもの黒い戦装束ではない。

 肩を出した濃紺の上衣に、足元まで流れる黒い長衣。腰には細い金の飾り帯が巻かれ、長い黒髪も普段より緩くまとめられていた。

 

 武器もない。

 大剣を背負っていない姿を見るのは、かなり珍しい。

 

「どうした」

「いえ。服が違うので」

「宴へ鎧を着てくる者があるか」

 

 フレイヴィアさんは呆れたように言い、僕の姿を上から下まで眺めた。

 

 僕も今日は胴当てを外し、薄い灰色の上衣と黒い長衣を身につけている。

 顔を隠すためのフード付き外套だけは、いつもどおりだ。

 

「主も、きちんと着替えてきたようだな」

「女将さんに、鎧を着ていこうとしたら止められました」

「当然であろう」

「何かあった時に、動きやすい方がいいと思ったんですけど」

「今夜は何も起こらぬ」

 

 フレイヴィアさんは言い切り、窓辺の卓へ視線を戻した。

 

 大きな円卓には、まだ料理が並んでいない。

 その代わり、銀の皿や硝子の杯が人数分用意され、中央には色鮮やかな花が飾られていた。

 

「ずいぶん立派な店ですね」

「気に入らぬか?」

「いえ。ただ、ガルドさんが選んだにしては……」

 

「どういう意味だ、坊主」

 

 背後から声がした。

 

 振り返ると、扉の前にガルドさんが立っていた。

 普段の革鎧ではなく、白いシャツの上から濃茶色の上着を羽織っている。背中に盾がないせいか、いつもより肩幅が広く見えた。

 

「ガルドさん」

「俺がこういう店を選んじゃ悪いか?」

「悪くはありませんけど、少し意外です」

「安心しろ。俺が選んだ店じゃねぇ」

 

 ガルドさんは部屋へ入り、空いている椅子へ腰を下ろした。

 

「昨日、予約しに来たら、姫さんが先回りしてやがった」

「先回り?」

「ガルドが選んだ店では狭かったのでな」

 

 フレイヴィアさんは何でもないことのように答える。

 ガルドさんの犬耳が、面倒そうに横へ倒れた。

 

「五人で飲むだけだって言っただろ」

「だからこそ、落ち着ける場所がよかろう」

「広すぎんだよ、この部屋」

「狭いよりはよい」

「料理の量もおかしいって聞いたぞ」

「足りぬよりはよい」

 

 迷いのない返事だった。

 

「もしかして、今日の宴は……」

「余の奢りだ」

 

 フレイヴィアさんが胸へ手を添える。

 

「主が二年の修行を終え、無事にエルドランへ戻った祝いである。金のことは考えず、好きなだけ食え」

「でも、こんな店だとかなり高いのでは?」

「余に金の心配をさせるな」

「そういう意味ではなくて……」

 

 僕が戸惑っていると、ガルドさんが片手を振った。

 

「諦めろ、坊主。姫さんはもう払ってる」

「全部ですか?」

「店から料理、酒まで全部だ。俺も半分出すって言ったんだが、聞きやしねぇ」

「余が開く宴だからな」

 

 黒い尾が、得意そうに床を撫でる。

 

「二年間、主を預かっていた区切りでもある。これくらいは当然だ」

「ありがとうございます」

 

 頭を下げると、フレイヴィアさんは少しだけ目を逸らした。

 

「礼は、料理を食い尽くしてから言え」

「それなら任せてください」

「その返事だけは頼もしいな」

 

 ガルドさんが喉を鳴らして笑った。

 

 ほどなくして、廊下から軽い足音が聞こえてくる。

 

「こんばんは。お待たせしました」

 

 扉を開けたアルナさんも、受付で見る姿とはまるで違っていた。

 

 淡い若草色の上衣に、足首まである白い長衣。

 いつもは仕事の邪魔にならないようまとめている栗色の髪も、今日は片側だけ細く編み込まれている。

 

 腰の後ろから伸びる尻尾には、小さな飾り紐が結ばれていた。

 

「アルナさん」

「こんばんは、ルキウスさん」

 

 僕へ笑いかけたあと、アルナさんは部屋の広さへ目を丸くした。

 

「ガルドさん。ずいぶん立派なお店を選ばれたのですね」

「俺じゃねぇ。姫さんだ」

「余だ」

 

 フレイヴィアさんが堂々と答える。

 アルナさんの猫耳が、卓と部屋を見比べるように動いた。

 

「もしかして、こちらのお支払いも……」

「余が持つ」

「ですが、私までご馳走になってしまってよいのでしょうか」

「ルキウスが世話になっている」

 

 フレイヴィアさんは当然のように言い、空いている席を指した。

 

「遠慮するな。今夜は食えるだけ食えばよい」

「ありがとうございます」

 

 アルナさんは丁寧に頭を下げ、僕の右隣へ座った。

 

 近くへ来ると、花に似た柔らかな香りがする。

 普段の制服姿とは違うせいか、なぜか顔を見るのが少し落ち着かなかった。

 

「どうかしましたか?」

 

 アルナさんが猫耳をこちらへ傾ける。

 

「いえ。いつもと雰囲気が違うと思って」

「私服ですから」

「よく似合っています」

 

 思ったことをそのまま口にすると、アルナさんの耳がぴんと立った。

 

「……ありがとうございます」

「少し顔が赤いですけど、暑いですか?」

「まだお酒も飲んでいませんから、気のせいです」

 

 そう言って顔を逸らす。

 猫耳の付け根まで赤い気がしたけれど、本人が気のせいと言うなら、そうなのだろう。

 

「相変わらずだな、坊主」

 

 ガルドさんが呟く。

 何が相変わらずなのか尋ねようとしたところで、扉がもう一度開いた。

 

「遅くなってしまい、申し訳ありません」

 

 最後に現れたのは、セラフィーンさんだった。

 

 教会の法衣ではなく、白い長衣の上から淡い水色の肩掛けを羽織っている。

 背中の翼を隠してはいない。大きな白翼は部屋へ入る際に少し畳まれ、羽先が床へ触れないよう静かに揺れていた。

 

 淡い金色の髪も普段より低い位置で結ばれ、小さな硝子飾りが灯りを反射している。

 

「こんばんは、セラフィーンさん」

「こんばんは、ルキウス様」

 

 セラフィーンさんは柔らかく微笑み、僕の向かいへ座った。

 

「皆様、素敵なお召し物ですね」

「セラフィーンさんも、よく似合っています」

「まあ」

 

 白い翼が、嬉しそうに僅かに広がる。

 

「ありがとうございます。ルキウス様も、とても素敵ですよ」

「僕は普段とあまり変わりませんけど」

「そのようなことはありません。いつもより柔らかな印象です」

 

 外套の下にある服へ視線を落とす。

 女将さんが選んでくれたものなので、僕自身には違いがよく分からない。

 

「女将さんに礼を言っておきます」

「選ばれたのは女将さんなのですね」

「僕だと鎧を着てくると思われていたみたいです」

「正しい判断ですねぇ」

 

 セラフィーンさんは穏やかに笑う。

 アルナさんとガルドさんも、なぜか揃って頷いていた。

 

「全員揃ったな」

 

 フレイヴィアさんが指を鳴らす。

 すると、待っていたように扉が開き、何人もの店員が料理を運び込んできた。

 

 最初に置かれたのは、大きな鱗魚種を丸ごと焼いた一皿だった。

 銀色の皮には香草と薄切りの果実が詰められ、表面から香ばしい湯気が上がっている。

 

 次に、厚く切られた角兎肉。

 骨付き肉を煮込んだ深い鍋。

 彩りのよい野菜。

 白いパンと黒パン。

 香辛料の利いた腸詰め。

 

 料理はそれだけで終わらなかった。

 

 甘辛いタレを塗った鳥の丸焼き。

 貝を山のように盛った皿。

 薄く切った燻製肉。

 果物と乳酪。

 蜂蜜を使った焼き菓子まで次々と卓へ並べられていく。

 

「……まだ来るんですか?」

 

 卓の端まで料理で埋まっている。

 けれど、店員たちは空いた場所を探しながら、新しい皿を運び続けていた。

 

「前菜だそうだ」

「これが?」

 

 ガルドさんの犬耳まで立っている。

 

「姫さん。何人分頼んだ」

「人数は伝えた」

「量の指定は?」

「最上のものを、可能な限りと」

「店側も張り切ったんだろうな……」

 

 最後に、銀色の蓋を載せた巨大な皿が運び込まれた。

 店員が蓋を持ち上げる。

 

 中にあったのは、大角鹿の腿肉を時間をかけて焼き上げたものだった。

 

 表面へ細かな切れ目が入り、そこから肉汁がゆっくり流れている。

 香草と脂の匂いが立ち上った瞬間、自然と身体が卓へ寄った。

 

「すごい……」

「それは今日の主役だそうだ」

 

 フレイヴィアさんが満足そうに尾を揺らす。

 

「主が昨日、気にしていた獲物であろう」

「大角鹿ですか?」

「ああ。狩りへ行かせぬ代わりに、食わせてやろうと思ってな」

「もう料理になっているなら、追いかけようがありませんね」

 

 少しだけ残念な気がしたものの、焼き上がった肉の匂いがすぐにそれを上回った。

 

「食べてもいいですか?」

「まだ乾杯してねぇ」

 

 ガルドさんに止められ、伸ばしかけた手を戻す。

 

「危なかった……」

「何がだよ」

「料理が冷めるところでした」

「一瞬で冷めるか」

 

 続いて酒が運ばれてきた。

 

 ガルドさんには濃い麦酒。

 フレイヴィアさんには、竜族の地で作られた強い蒸留酒。

 アルナさんには香草と果実を漬けた甘い酒。

 セラフィーンさんには淡い金色の果実酒。

 

 僕の前へ置かれたのは――果実水だった。

 

「お酒ではありませんね」

「余が頼んだ」

 

 フレイヴィアさんは自分の杯へ透明な酒を注ぎながら答える。

 

「主は酒に弱いのであろう」

「まだ決まったわけではありません」

「以前、一杯で眠ったと聞いたぞ」

「空腹だっただけです」

「今夜は料理を食ってから、一杯だけにしろ」

 

 ガルドさんが口を挟む。

 アルナさんも僕の前にある果実水を確かめ、満足そうに耳を揺らした。

 

「私も、それがよいと思います」

「僕だけ扱いが違いませんか?」

「主賓を潰すわけにはいかぬからな」

 

 フレイヴィアさんはそう言って、自分の杯を持ち上げた。

 

「今夜は余の宴だ。遠慮は不要である」

 

 黄金の瞳が、卓を囲む全員を順番に見る。

 最後に、僕のところで止まった。

 

「主が二年の修行を終え、またこの街へ戻ったこと。そして、昨日も全員が無事に帰ったことを祝う」

 

 短く息を吸い、杯を中央へ掲げる。

 

「好きなだけ食い、好きなだけ飲め。足りなければ、いくらでも追加させよう」

「もう十分すぎると思うぞ」

「まだ前菜だ」

「嘘だろ?」

 

 ガルドさんの声に、皆から笑いが漏れた。

 

「では――乾杯だ」

「乾杯!」

 

 杯が中央で触れ合い、澄んだ音を鳴らす。

 

 果実水を口へ運ぶ。

 甘酸っぱい香りと、細かな泡の刺激が舌の上へ広がった。

 

「おいしいです」

「まだ酒じゃねぇぞ」

「果実水もおいしいですよ」

 

 杯を置き、すぐに大角鹿の肉へ目を向ける。

 店員が切り分けた一枚を皿へ取り、刃物を入れた。

 

 柔らかい。

 表面は香ばしいのに、内側には赤みと肉汁が残っている。

 

 一口食べる。

 

「…………」

 

 噛むたび、濃い肉の味と香草の香りが広がった。

 角兎よりも歯応えがあり、それでいて硬くはない。

 

「どうだ、主」

「おいしいです」

 

 もう一切れ、すぐに口へ運ぶ。

 

「狩りへ行けなかった顔ではないな」

「これはこれで、いいものです」

「餌づけされてんなぁ」

 

 ガルドさんが笑う。

 僕は気にせず、二枚目を皿へ取った。

 

 料理はどれも、普段食べるものとは少し違っていた。

 

 鱗魚種の皮は薄く焼かれ、口へ入れると小さく音を立てる。

 煮込まれた骨付き肉は、刃物を使わなくても骨から外れた。

 香辛料の利いた腸詰めを食べると、舌が熱くなり、果実水がすぐ欲しくなる。

 

「ルキウスさん、少しゆっくり食べてください」

「まだ料理が来るそうなので」

「それなら、なおさらです」

 

 アルナさんが僕の皿へ野菜を載せる。

 

「肉だけではなく、こちらも」

「野菜も食べていますよ」

「今、私が載せた分が最初です」

「見ていたんですか?」

「隣ですから」

 

 以前、僕が猫耳を見ていた時と同じ答えを返された。

 仕方なく野菜を口へ運ぶ。

 

 甘い。

 焼いた果実のような味がして、思っていたより肉に合った。

 

「おいしいですね」

「でしょう?」

「アルナさんが作ったわけではありませんけど」

「それでも、選んだのは私です」

 

 なぜか少し得意そうだった。

 猫耳も、ぴんと立っている。

 

 宴が進むにつれ、最初の緊張も薄れていった。

 

 ガルドさんは上着を椅子の背へ掛け、袖を肘まで捲っている。

 フレイヴィアさんも椅子へ深く腰を下ろし、透明な酒をゆっくり飲んでいた。

 

 セラフィーンさんは翼を少し広げ、窮屈にならない姿勢で料理を口へ運ぶ。

 アルナさんの尻尾も、椅子の後ろで穏やかに揺れていた。

 

 私服姿で同じ卓を囲んでいると、普段とは少し違って見える。

 

 ランク7の竜姫でも。

 教会の聖女でも。

 ギルドの受付嬢でも。

 元ランク5のハンターでもない。

 

 ただ、一緒に食べて笑う人たちだった。

 

「ところで」

 

 アルナさんが杯を置き、僕とガルドさんを交互に見た。

 

「お二人は、いつから一緒に依頼へ行くようになったのですか?」

「坊主が教会から出た直後だな」

 

 ガルドさんは腸詰めを切りながら答える。

 

「一度だけ同行するつもりだったんだ」

「一度だけだったのですか?」

 

 セラフィーンさんも興味を引かれたらしく、白い翼が僅かに動く。

 

「ああ。こいつ、まだ傷も治りきってねぇのに、俺のところへ来やがってな」

「ほとんど治っていました」

「歩くたびに脇腹を押さえてた奴が言うな」

 

 ガルドさんが刃物の先をこちらへ向ける。

 危ないので、僕は少しだけ身体を引いた。

 

「それで、ルキウスさんは何と?」

 

 アルナさんの猫耳が前を向く。

 

「一人で無茶をしなくなるまで、依頼へ同行してほしいとお願いしました」

「『俺が死に急がなくなるまで、見張ってください』みてぇな顔だったけどな」

「そんな言い方はしていません」

「意味は同じだ」

 

 ガルドさんは杯へ口をつけ、大きく息を吐いた。

 

「一回行って終わりにするつもりだった。ところが、次の日も依頼票を持って現れやがった」

「別の依頼がありましたから」

「その次の日もだ」

「断られませんでした」

「断ったら一人で行くだろうが」

 

 そこで言葉が止まった。

 

 ガルドさんは何でもないことのように肉へ手を伸ばす。

 けれど、犬耳だけが少し後ろへ倒れていた。

 

「それで、二年間ですか」

 

 アルナさんが柔らかく笑う。

 

「まあな」

「ガルドさんがいてくれて、助かりました」

 

 僕が言うと、肉を取ろうとしていた手が止まった。

 

「急に何だよ」

「一人だと、今より多く失敗していたと思います」

「当たり前だ。だから俺がついてたんだろ」

「はい」

 

 素直に頷く。

 

「前にいてくれると、安心するんです。ガルドさんが盾を構えている間は、僕は敵だけを見ていられますから」

「それは、お前が後ろを考えなさすぎなんだよ」

「最近は見ています」

「最近はな」

 

 口では呆れながらも、ガルドさんの犬耳は少しだけ持ち上がっていた。

 

「相棒ですものね」

 

 セラフィーンさんの言葉に、ガルドさんが咳き込んだ。

 

「誰から聞いた」

「ルキウス様からです」

「もう教会で話したのかよ」

「嬉しかったので」

 

 ガルドさんが片手で顔を覆う。

 

「お前は、そういうのを本人の前で何度も言うな」

「嫌でしたか?」

「嫌じゃねぇから困るんだよ」

 

 その返事が少しおかしく、僕は笑った。

 アルナさんも口元へ手を添え、セラフィーンさんの翼が楽しそうに揺れる。

 

「余は?」

 

 向かいから声が飛んできた。

 

 フレイヴィアさんは頬杖をつき、黄金の瞳で僕を見ていた。

 

「余については、何もないのか」

「フレイヴィアさんには、二年間ずっと教えてもらいました」

「それだけか?」

「かなり打たれました」

「必要な指導だ」

「庭に埋まるほど打つ必要はありました?」

「避けぬ主が悪い」

 

 尾が椅子の脚を軽く叩く。

 機嫌が悪いわけではないらしい。

 

「でも、感謝しています」

 

 僕は姿勢を整え、フレイヴィアさんを見る。

 

「片刃剣の使い方も、敵との距離も、怪我をしないための考え方も教えてもらいました」

「怪我はしておるがな」

「前より減りました」

「ようやく、だ」

 

 フレイヴィアさんは杯を傾ける。

 透明な酒を飲み込み、口元を僅かに緩めた。

 

「主は、余が教えたことをよく耐えた」

「褒めていますか?」

「褒めておる」

 

 短い答えだった。

 

 けれど、それだけで胸の奥が少し温かくなった。

 

「ありがとうございます」

「うむ」

 

 フレイヴィアさんは満足そうに頷き、大角鹿の肉を僕の皿へ追加した。

 

「食え」

「まだあります」

「余の分だ」

「フレイヴィアさんも食べてください」

「余は酒でよい」

「駄目です」

 

 反射的に言うと、黄金の瞳が瞬いた。

 

「料理も食べないと、酔いますよ」

「余は酔わぬ」

「空腹で飲むのは身体によくありません」

 

 昨日、自分が似たようなことを言われた気がする。

 それでも、正しいことは正しい。

 

 フレイヴィアさんはしばらく僕を見つめ、それから渋々と肉を一切れ取った。

 

「主が食えと言うならな」

「はい」

 

 僕が安心して自分の皿へ戻ると、ガルドさんが呆れたように笑った。

 

「お前ら、似た者同士になってきたな」

「どこがです?」

「自覚がねぇところだよ」

 

 理由はよく分からなかった。

 

 その後も料理は追加され続けた。

 

 最初の皿が空く前に、新しい煮込みが来る。

 魚を食べ終える頃には、香ばしく焼いた蟹が並べられる。

 甘い菓子まで運ばれてきた時には、さすがに卓へ載りきらず、別の台が用意された。

 

「本当に大盤振る舞いですね」

 

 アルナさんが、山のような料理を見渡す。

 フレイヴィアさんは酒杯を片手に、当然のように答えた。

 

「宴とは、こういうものであろう」

「竜族の宴は、もっと多いぞ」

 

 ガルドさんが眉を上げる。

 

「まだ増えるのか?」

「国では、大型を数頭焼く」

「今日は五人だぞ」

「余も少し抑えた」

「これで?」

 

 全員の視線が卓へ集まる。

 フレイヴィアさんは、ほんの僅かに目を逸らした。

 

「……多少は」

「姫さんに任せた俺が悪かった」

 

 ガルドさんはそう言いながらも、楽しそうに杯を傾けていた。

 

 僕も一杯だけ、薄めた果実酒を出してもらった。

 淡い桃色の酒は甘く、喉を通ると身体の内側がゆっくり温かくなる。

 

「ゆっくり飲んでくださいね」

 

 アルナさんが隣から杯を見張っている。

 

「まだ一口です」

「一口で、少し顔が赤くなっています」

「部屋が暖かいので」

「窓を開けましょうか?」

「それは寒いと思います」

 

 セラフィーンさんが僕の顔を覗き込む。

 金色の瞳が近づき、白い指先が額へ触れた。

 

「熱はありませんねぇ」

「お酒ですか?」

「おそらくは」

「まだ少ししか飲んでいないんですが」

「ですから、ゆっくりと」

 

 今度は両側から注意された。

 僕は大人しく酒を置き、代わりに果実水へ手を伸ばした。

 

「素直だな」

「宴の途中で眠りたくないので」

「一度学んだらしい」

 

 ガルドさんは笑い、大きな杯を僕の方へ掲げた。

 

 時間が経つにつれ、会話も途切れなくなった。

 

 アルナさんはギルドで起きた小さな失敗を話す。

 上下逆さまの依頼票を持っていった新人。

 討伐証明の代わりに、魔物の糞を袋いっぱいに詰めてきたハンター。

 フレイヴィアさんの姿を見た瞬間、報告内容を忘れた受付職員。

 

「最後の者は誰だ」

「名前は伏せておきます」

「余は怒らぬぞ」

「だからこそ、伏せておきます」

 

 アルナさんの猫耳が、楽しそうに揺れる。

 どうやら本人を守っているらしい。

 

 セラフィーンさんは、教会の裏庭で飼われている角兎の話をした。

 雨の日に迷い込み、供物をすべて食べたうえ、今では治療師たちから野菜をもらって暮らしているという。

 

「一度、見てみたいです」

「大人しい子ですよ」

「逃げた場合も、すぐ捕まえられます」

「捕まえる必要はありませんからね」

 

 セラフィーンさんの翼が警戒するように少し縮む。

 

「見に行くだけです」

「その言葉は、少し不安ですねぇ」

「僕は飼われている角兎を狩りませんよ」

「それなら安心しました」

 

 セラフィーンさんは穏やかに笑い、翼を元へ戻した。

 

 ほんの少しだけ、野生の個体だった場合について考えた。

 けれど、今は宴の最中だ。

 

 ――そのくらいの分別はある。

 

「坊主。今、一瞬だけ変な顔したぞ」

「気のせいです」

「ならいいけどよ」

 

 ガルドさんは追及せず、また酒へ口をつけた。

 

 食べて。

 飲んで。

 話して。

 誰かの失敗を笑い、自分の失敗も笑われる。

 

 英雄譚の宴とは違う。

 喧嘩も起きない。

 酒樽を壊す者もいない。

 武勇を叫びながら卓へ立つ者もいなかった。

 

 それでも――楽しかった。

 

「宴って、いいものですね」

 

 口にすると、ガルドさんが杯越しに笑う。

 

「ようやく分かったか」

「はい。もっと騒がしいものだと思っていました」

「騒ぎたきゃ、大広間へ行けばいい」

「ここがいいです」

 

 すぐに答えた。

 

 静かな部屋。

 卓いっぱいの料理。

 よく知った人たちの顔。

 

「僕は、ここがいいです」

 

 もう一度言う。

 酒のせいか、いつもより言葉が素直に出た。

 

「二年前は、皆さんとこうして食事をするなんて思っていませんでした」

「それは、私もです」

 

 アルナさんが杯を両手で包む。

 猫耳は少しだけこちらへ傾いていた。

 

「最初のルキウスさんは、今よりずっと危なっかしかったですから」

「今は違いますか?」

「少しは」

「少しだけなんですね」

「ご自分で分かっていないところは、あまり変わりません」

 

 柔らかく笑われる。

 

「私は、初めてお会いした時から、また来られると思っていましたよ」

 

 セラフィーンさんが続ける。

 白い翼が椅子の後ろで、ゆっくり揺れた。

 

「怪我をして、ですか?」

「それもありますけれど」

 

 金色の瞳が、僕の顔を見つめる。

 

「あなたは、何度倒れても歩こうとしていましたから」

「歩かなければ、帰れませんので」

「そういうところです」

 

 なぜか少し困ったように微笑まれた。

 

「余は、主が二年耐えるとは思っておらなんだ」

 

 フレイヴィアさんが酒杯を卓へ置く。

 僕が顔を向けると、黒い尾がゆっくり床を撫でていた。

 

「途中で逃げると思っていたんですか?」

「一月は持つと思っておった」

「一月……」

「実際、何度か逃げようとしたであろう」

「休憩しようとしただけです」

「家の門まで走っていた」

「帰って寝ようと」

「それを逃げると言う」

 

 皆の笑い声が重なる。

 

「でも、最後までいました」

 

 笑いが落ち着いたところで、僕はフレイヴィアさんを見る。

 

「はい。最後までいた」

 

 彼女も同じ言葉を返した。

 

 それだけだった。

 けれど、二年間がきちんと終わったのだと、ようやく実感できた気がした。

 

 修行が終わった。

 街へ戻った。

 依頼へ行き、無事に帰った。

 

 そして今、同じ卓を囲んでいる。

 

「この街へ来て、よかったです」

 

 胸の中にあった言葉が、自然と零れた。

 

 ガルドさん。

 アルナさん。

 セラフィーンさん。

 フレイヴィアさん。

 

 皆の顔を順番に見る。

 

「僕には、帰る場所が増えました」

 

 角兎亭。

 ギルド。

 教会。

 フレイヴィアさんの家。

 

 それから――誰かが待つ場所。

 

「お前、やっぱり酔ってるだろ」

「酔っていません」

「顔が赤いぞ」

「料理が温かいので」

「声も少し柔らかいですよ」

 

 アルナさんが口元へ手を当てる。

 猫耳も、どこか楽しそうに立っていた。

 

「普段から、これくらい素直ならよいのだがな」

「僕はいつも素直ですよ」

「怪我についてを除けば、ですねぇ」

「依頼についてもだ」

 

 セラフィーンさんとガルドさんが続く。

 

「三人とも、ひどいです」

「余は味方だぞ、主」

「フレイヴィアさんは、修行中に一番ひどかったです」

「ならば四人だな」

 

 また笑い声が重なった。

 

 ――こんな時間が、ずっと続けばいい。

 

 ふと、そう思った。

 

 依頼へ行く。

 無事に帰る。

 また食事を囲む。

 

 何度でも。

 当たり前のように。

 

「次も、やりましょう」

「ああ」

 

 ガルドさんが杯を掲げる。

 

「全員、無事に戻ったらな」

「なら、約束ですね」

「主。次も余が開こう」

「財布が泣くぞ」

「余の財布は泣かぬ」

 

 フレイヴィアさんが胸を張る。

 

「次は、さらに多く用意する」

「もう増やさないでください」

「今日の料理、まだ半分残ってるぞ」

「持ち帰ればよい」

「女将さんが喜びそうですね」

 

 僕たちが卓の料理を見回した、その時だった。

 

 廊下から、早足が聞こえた。

 

 先ほどまで料理を運んでいた店員のものとは違う。

 床を強く踏み、迷わずこちらへ近づいてくる。

 

 部屋の前で止まり、扉が三度叩かれた。

 

「失礼します。アルナさん、こちらにいらっしゃいますか」

 

 聞き覚えのある、ギルド職員の声だった。

 

 アルナさんの猫耳が、一瞬で前を向く。

 手にしていた杯を置き、表情が受付に立つ時のものへ戻った。

 

「はい。入ってください」

 

 扉が開く。

 

 若い職員が肩で息をしながら、入口に立っていた。

 仕事着の上から外套を羽織り、手には二通の封書を握っている。

 

 どちらも縁を赤く染めた厚紙。

 中央には、緊急依頼を示す黒い封蝋が押されていた。

 

 ガルドさんが椅子から立ち上がる。

 フレイヴィアさんは酒杯を置き、黄金の瞳を細めた。

 

 セラフィーンさんの白い翼も、静かに畳まれる。

 

「何があった」

 

 ガルドさんの声から、酔いが消える。

 

 職員は一度息を整え、手にした封書を強く握った。

 

「緊急依頼が発令されました」

 

 卓の上では、まだ料理から湯気が上がっている。

 大盤振る舞いの宴は、始まってからそれほど時間も経っていない。

 

 それでも、全員の目は封書へ向けられていた。

 

「南東の山道で、大型魔物の痕跡が確認されています。推定危険度はランク6」

 

 一通目の封書が、フレイヴィアさんへ差し出される。

 

「もう一件は、北部雪原の中継拠点です。定時連絡が途絶えました」

 

 職員の手が、僅かに震えた。

 

「近隣の調査班から、拠点周辺で大型の足跡を確認したと報告が入っています」

 

 北部雪原。

 

 その言葉へ、胸の奥が冷えた。

 

 二年前。

 白い雪。

 青白い瞳。

 背中へ叩きつけられた衝撃。

 

 右脇腹の古傷が、思い出したように引きつる。

 

「推定危険度は?」

 

 アルナさんが尋ねる。

 職員は答える前に、一度唇を噛んだ。

 

「現時点では、ランク4相当です。ただし――」

 

 握られた二通目の封書へ、黒い封蝋が鈍く光る。

 

「現地の状況は、確認できていません」

 

 誰も言葉を発しなかった。

 

 卓の中央には、食べきれないほどの料理。

 杯には、まだ酒が残っている。

 

 つい先ほどまで、次の宴を約束していた。

 

 けれど――。

 

 宴は、その一言で終わった。

 

 ◆

 

 

 

 

 

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