駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
約束の刻限より、四半刻ほど早く店へ着いた。
西通りの一角に建つ、三階建ての酒楼。
磨かれた木の看板には、金色の角を持つ獣が描かれている。
入口には高級そうな馬車が何台も止まり、扉の前には揃いの服を着た店員が立っていた。
「……ここで合ってるよね」
昨日、ガルドさんから渡された紙をもう一度開く。
店の名前も、場所も間違っていない。
ただ、僕が想像していた酒場とは――かなり違った。
宴と聞いて思い浮かべたのは、大きな酒樽と長机が並ぶ騒がしい店だ。
酔ったハンターが肩を組み、肉へ齧りつき、誰かが歌い始める。
目の前にある店から聞こえるのは、楽器の静かな音色だけだった。
「ガルドさん、店選びを間違えてないかな……」
そう呟きながら扉へ近づくと、店員の男性が深く頭を下げた。
「ルキウス様でいらっしゃいますか?」
「はい」
名前まで知られている。
ますます落ち着かない。
「ヴォルグラート様がお待ちです。ご案内いたします」
「もう来ているんですか?」
「はい。お料理について、最終確認をなさっております」
料理の最終確認。
その言葉へ小さな不安を覚えながら、店員の後ろについて店へ入った。
磨かれた床。
白い布を掛けられた卓。
壁には、海や山を描いた大きな絵が並んでいる。
酒と肉の匂いはする。
ただし、普段立ち寄る酒場よりも穏やかで、香草や焼き菓子の甘い香りまで混じっていた。
階段を上がり、三階の奥へ進む。
案内された先にあったのは、十人以上が入れそうな大部屋だった。
「主。遅かったな」
「まだ約束より早いですよ」
窓辺へ立っていたフレイヴィアさんが、こちらを振り返る。
一瞬、誰だか分からなかった。
いつもの黒い戦装束ではない。
肩を出した濃紺の上衣に、足元まで流れる黒い長衣。腰には細い金の飾り帯が巻かれ、長い黒髪も普段より緩くまとめられていた。
武器もない。
大剣を背負っていない姿を見るのは、かなり珍しい。
「どうした」
「いえ。服が違うので」
「宴へ鎧を着てくる者があるか」
フレイヴィアさんは呆れたように言い、僕の姿を上から下まで眺めた。
僕も今日は胴当てを外し、薄い灰色の上衣と黒い長衣を身につけている。
顔を隠すためのフード付き外套だけは、いつもどおりだ。
「主も、きちんと着替えてきたようだな」
「女将さんに、鎧を着ていこうとしたら止められました」
「当然であろう」
「何かあった時に、動きやすい方がいいと思ったんですけど」
「今夜は何も起こらぬ」
フレイヴィアさんは言い切り、窓辺の卓へ視線を戻した。
大きな円卓には、まだ料理が並んでいない。
その代わり、銀の皿や硝子の杯が人数分用意され、中央には色鮮やかな花が飾られていた。
「ずいぶん立派な店ですね」
「気に入らぬか?」
「いえ。ただ、ガルドさんが選んだにしては……」
「どういう意味だ、坊主」
背後から声がした。
振り返ると、扉の前にガルドさんが立っていた。
普段の革鎧ではなく、白いシャツの上から濃茶色の上着を羽織っている。背中に盾がないせいか、いつもより肩幅が広く見えた。
「ガルドさん」
「俺がこういう店を選んじゃ悪いか?」
「悪くはありませんけど、少し意外です」
「安心しろ。俺が選んだ店じゃねぇ」
ガルドさんは部屋へ入り、空いている椅子へ腰を下ろした。
「昨日、予約しに来たら、姫さんが先回りしてやがった」
「先回り?」
「ガルドが選んだ店では狭かったのでな」
フレイヴィアさんは何でもないことのように答える。
ガルドさんの犬耳が、面倒そうに横へ倒れた。
「五人で飲むだけだって言っただろ」
「だからこそ、落ち着ける場所がよかろう」
「広すぎんだよ、この部屋」
「狭いよりはよい」
「料理の量もおかしいって聞いたぞ」
「足りぬよりはよい」
迷いのない返事だった。
「もしかして、今日の宴は……」
「余の驕りだ」
フレイヴィアさんが胸へ手を添える。
「主が二年の修行を終え、無事にエルドランへ戻った祝いである。金のことは考えず、好きなだけ食え」
「でも、こんな店だとかなり高いのでは?」
「余に金の心配をさせるな」
「そういう意味ではなくて……」
僕が戸惑っていると、ガルドさんが片手を振った。
「諦めろ、坊主。姫さんはもう払ってる」
「全部ですか?」
「店から料理、酒まで全部だ。俺も半分出すって言ったんだが、聞きやしねぇ」
「余が開く宴だからな」
黒い尾が、得意そうに床を撫でる。
「二年間、主を預かっていた区切りでもある。これくらいは当然だ」
「ありがとうございます」
頭を下げると、フレイヴィアさんは少しだけ目を逸らした。
「礼は、料理を食い尽くしてから言え」
「それなら任せてください」
「その返事だけは頼もしいな」
ガルドさんが喉を鳴らして笑った。
ほどなくして、廊下から軽い足音が聞こえてくる。
「こんばんは。お待たせしました」
扉を開けたアルナさんも、受付で見る姿とはまるで違っていた。
淡い若草色の上衣に、足首まである白い長衣。
いつもは仕事の邪魔にならないようまとめている栗色の髪も、今日は片側だけ細く編み込まれている。
腰の後ろから伸びる尻尾には、小さな飾り紐が結ばれていた。
「アルナさん」
「こんばんは、ルキウスさん」
僕へ笑いかけたあと、アルナさんは部屋の広さへ目を丸くした。
「ガルドさん。ずいぶん立派なお店を選ばれたのですね」
「俺じゃねぇ。姫さんだ」
「余だ」
フレイヴィアさんが堂々と答える。
アルナさんの猫耳が、卓と部屋を見比べるように動いた。
「もしかして、こちらのお支払いも……」
「余が持つ」
「ですが、私までご馳走になってしまってよいのでしょうか」
「ルキウスが世話になっている」
フレイヴィアさんは当然のように言い、空いている席を指した。
「遠慮するな。今夜は食えるだけ食えばよい」
「ありがとうございます」
アルナさんは丁寧に頭を下げ、僕の右隣へ座った。
近くへ来ると、花に似た柔らかな香りがする。
普段の制服姿とは違うせいか、なぜか顔を見るのが少し落ち着かなかった。
「どうかしましたか?」
アルナさんが猫耳をこちらへ傾ける。
「いえ。いつもと雰囲気が違うと思って」
「私服ですから」
「よく似合っています」
思ったことをそのまま口にすると、アルナさんの耳がぴんと立った。
「……ありがとうございます」
「少し顔が赤いですけど、暑いですか?」
「まだお酒も飲んでいませんから、気のせいです」
そう言って顔を逸らす。
猫耳の付け根まで赤い気がしたけれど、本人が気のせいと言うなら、そうなのだろう。
「相変わらずだな、坊主」
ガルドさんが呟く。
何が相変わらずなのか尋ねようとしたところで、扉がもう一度開いた。
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
最後に現れたのは、セラフィーンさんだった。
教会の法衣ではなく、白い長衣の上から淡い水色の肩掛けを羽織っている。
背中の翼を隠してはいない。大きな白翼は部屋へ入る際に少し畳まれ、羽先が床へ触れないよう静かに揺れていた。
淡い金色の髪も普段より低い位置で結ばれ、小さな硝子飾りが灯りを反射している。
「こんばんは、セラフィーンさん」
「こんばんは、ルキウス様」
セラフィーンさんは柔らかく微笑み、僕の向かいへ座った。
「皆様、素敵なお召し物ですね」
「セラフィーンさんも、よく似合っています」
「まあ」
白い翼が、嬉しそうに僅かに広がる。
「ありがとうございます。ルキウス様も、とても素敵ですよ」
「僕は普段とあまり変わりませんけど」
「そのようなことはありません。いつもより柔らかな印象です」
外套の下にある服へ視線を落とす。
女将さんが選んでくれたものなので、僕自身には違いがよく分からない。
「女将さんに礼を言っておきます」
「選ばれたのは女将さんなのですね」
「僕だと鎧を着てくると思われていたみたいです」
「正しい判断ですねぇ」
セラフィーンさんは穏やかに笑う。
アルナさんとガルドさんも、なぜか揃って頷いていた。
「全員揃ったな」
フレイヴィアさんが指を鳴らす。
すると、待っていたように扉が開き、何人もの店員が料理を運び込んできた。
最初に置かれたのは、大きな鱗魚種を丸ごと焼いた一皿だった。
銀色の皮には香草と薄切りの果実が詰められ、表面から香ばしい湯気が上がっている。
次に、厚く切られた角兎肉。
骨付き肉を煮込んだ深い鍋。
彩りのよい野菜。
白いパンと黒パン。
香辛料の利いた腸詰め。
料理はそれだけで終わらなかった。
甘辛いタレを塗った鳥の丸焼き。
貝を山のように盛った皿。
薄く切った燻製肉。
果物と乳酪。
蜂蜜を使った焼き菓子まで次々と卓へ並べられていく。
「……まだ来るんですか?」
卓の端まで料理で埋まっている。
けれど、店員たちは空いた場所を探しながら、新しい皿を運び続けていた。
「前菜だそうだ」
「これが?」
ガルドさんの犬耳まで立っている。
「姫さん。何人分頼んだ」
「人数は伝えた」
「量の指定は?」
「最上のものを、可能な限りと」
「店側も張り切ったんだろうな……」
最後に、銀色の蓋を載せた巨大な皿が運び込まれた。
店員が蓋を持ち上げる。
中にあったのは、大角鹿の腿肉を時間をかけて焼き上げたものだった。
表面へ細かな切れ目が入り、そこから肉汁がゆっくり流れている。
香草と脂の匂いが立ち上った瞬間、自然と身体が卓へ寄った。
「すごい……」
「それは今日の主役だそうだ」
フレイヴィアさんが満足そうに尾を揺らす。
「主が昨日、気にしていた獲物であろう」
「大角鹿ですか?」
「ああ。狩りへ行かせぬ代わりに、食わせてやろうと思ってな」
「もう料理になっているなら、追いかけようがありませんね」
少しだけ残念な気がしたものの、焼き上がった肉の匂いがすぐにそれを上回った。
「食べてもいいですか?」
「まだ乾杯してねぇ」
ガルドさんに止められ、伸ばしかけた手を戻す。
「危なかった……」
「何がだよ」
「料理が冷めるところでした」
「一瞬で冷めるか」
続いて酒が運ばれてきた。
ガルドさんには濃い麦酒。
フレイヴィアさんには、竜族の地で作られた強い蒸留酒。
アルナさんには香草と果実を漬けた甘い酒。
セラフィーンさんには淡い金色の果実酒。
僕の前へ置かれたのは――果実水だった。
「お酒ではありませんね」
「余が頼んだ」
フレイヴィアさんは自分の杯へ透明な酒を注ぎながら答える。
「主は酒に弱いのであろう」
「まだ決まったわけではありません」
「以前、一杯で眠ったと聞いたぞ」
「空腹だっただけです」
「今夜は料理を食ってから、一杯だけにしろ」
ガルドさんが口を挟む。
アルナさんも僕の前にある果実水を確かめ、満足そうに耳を揺らした。
「私も、それがよいと思います」
「僕だけ扱いが違いませんか?」
「主賓を潰すわけにはいかぬからな」
フレイヴィアさんはそう言って、自分の杯を持ち上げた。
「今夜は余の宴だ。遠慮は不要である」
黄金の瞳が、卓を囲む全員を順番に見る。
最後に、僕のところで止まった。
「主が二年の修行を終え、またこの街へ戻ったこと。そして、昨日も全員が無事に帰ったことを祝う」
短く息を吸い、杯を中央へ掲げる。
「好きなだけ食い、好きなだけ飲め。足りなければ、いくらでも追加させよう」
「もう十分すぎると思うぞ」
「まだ前菜だ」
「嘘だろ?」
ガルドさんの声に、皆から笑いが漏れた。
「では――乾杯だ」
「乾杯!」
杯が中央で触れ合い、澄んだ音を鳴らす。
果実水を口へ運ぶ。
甘酸っぱい香りと、細かな泡の刺激が舌の上へ広がった。
「おいしいです」
「まだ酒じゃねぇぞ」
「果実水もおいしいですよ」
杯を置き、すぐに大角鹿の肉へ目を向ける。
店員が切り分けた一枚を皿へ取り、刃物を入れた。
柔らかい。
表面は香ばしいのに、内側には赤みと肉汁が残っている。
一口食べる。
「…………」
噛むたび、濃い肉の味と香草の香りが広がった。
角兎よりも歯応えがあり、それでいて硬くはない。
「どうだ、主」
「おいしいです」
もう一切れ、すぐに口へ運ぶ。
「狩りへ行けなかった顔ではないな」
「これはこれで、いいものです」
「餌づけされてんなぁ」
ガルドさんが笑う。
僕は気にせず、二枚目を皿へ取った。
料理はどれも、普段食べるものとは少し違っていた。
鱗魚種の皮は薄く焼かれ、口へ入れると小さく音を立てる。
煮込まれた骨付き肉は、刃物を使わなくても骨から外れた。
香辛料の利いた腸詰めを食べると、舌が熱くなり、果実水がすぐ欲しくなる。
「ルキウスさん、少しゆっくり食べてください」
「まだ料理が来るそうなので」
「それなら、なおさらです」
アルナさんが僕の皿へ野菜を載せる。
「肉だけではなく、こちらも」
「野菜も食べていますよ」
「今、私が載せた分が最初です」
「見ていたんですか?」
「隣ですから」
以前、僕が猫耳を見ていた時と同じ答えを返された。
仕方なく野菜を口へ運ぶ。
甘い。
焼いた果実のような味がして、思っていたより肉に合った。
「おいしいですね」
「でしょう?」
「アルナさんが作ったわけではありませんけど」
「それでも、選んだのは私です」
なぜか少し得意そうだった。
猫耳も、ぴんと立っている。
宴が進むにつれ、最初の緊張も薄れていった。
ガルドさんは上着を椅子の背へ掛け、袖を肘まで捲っている。
フレイヴィアさんも椅子へ深く腰を下ろし、透明な酒をゆっくり飲んでいた。
セラフィーンさんは翼を少し広げ、窮屈にならない姿勢で料理を口へ運ぶ。
アルナさんの尻尾も、椅子の後ろで穏やかに揺れていた。
私服姿で同じ卓を囲んでいると、普段とは少し違って見える。
ランク7の竜姫でも。
教会の聖女でも。
ギルドの受付嬢でも。
元ランク5のハンターでもない。
ただ、一緒に食べて笑う人たちだった。
「ところで」
アルナさんが杯を置き、僕とガルドさんを交互に見た。
「お二人は、いつから一緒に依頼へ行くようになったのですか?」
「坊主が教会から出た直後だな」
ガルドさんは腸詰めを切りながら答える。
「一度だけ同行するつもりだったんだ」
「一度だけだったのですか?」
セラフィーンさんも興味を引かれたらしく、白い翼が僅かに動く。
「ああ。こいつ、まだ傷も治りきってねぇのに、俺のところへ来やがってな」
「ほとんど治っていました」
「歩くたびに脇腹を押さえてた奴が言うな」
ガルドさんが刃物の先をこちらへ向ける。
危ないので、僕は少しだけ身体を引いた。
「それで、ルキウスさんは何と?」
アルナさんの猫耳が前を向く。
「一人で無茶をしなくなるまで、依頼へ同行してほしいとお願いしました」
「『俺が死に急がなくなるまで、見張ってください』みてぇな顔だったけどな」
「そんな言い方はしていません」
「意味は同じだ」
ガルドさんは杯へ口をつけ、大きく息を吐いた。
「一回行って終わりにするつもりだった。ところが、次の日も依頼票を持って現れやがった」
「別の依頼がありましたから」
「その次の日もだ」
「断られませんでした」
「断ったら一人で行くだろうが」
そこで言葉が止まった。
ガルドさんは何でもないことのように肉へ手を伸ばす。
けれど、犬耳だけが少し後ろへ倒れていた。
「それで、二年間ですか」
アルナさんが柔らかく笑う。
「まあな」
「ガルドさんがいてくれて、助かりました」
僕が言うと、肉を取ろうとしていた手が止まった。
「急に何だよ」
「一人だと、今より多く失敗していたと思います」
「当たり前だ。だから俺がついてたんだろ」
「はい」
素直に頷く。
「前にいてくれると、安心するんです。ガルドさんが盾を構えている間は、僕は敵だけを見ていられますから」
「それは、お前が後ろを考えなさすぎなんだよ」
「最近は見ています」
「最近はな」
口では呆れながらも、ガルドさんの犬耳は少しだけ持ち上がっていた。
「相棒ですものね」
セラフィーンさんの言葉に、ガルドさんが咳き込んだ。
「誰から聞いた」
「ルキウス様からです」
「もう教会で話したのかよ」
「嬉しかったので」
ガルドさんが片手で顔を覆う。
「お前は、そういうのを本人の前で何度も言うな」
「嫌でしたか?」
「嫌じゃねぇから困るんだよ」
その返事が少しおかしく、僕は笑った。
アルナさんも口元へ手を添え、セラフィーンさんの翼が楽しそうに揺れる。
「余は?」
向かいから声が飛んできた。
フレイヴィアさんは頬杖をつき、黄金の瞳で僕を見ていた。
「余については、何もないのか」
「フレイヴィアさんには、二年間ずっと教えてもらいました」
「それだけか?」
「かなり打たれました」
「必要な指導だ」
「庭に埋まるほど打つ必要はありました?」
「避けぬ主が悪い」
尾が椅子の脚を軽く叩く。
機嫌が悪いわけではないらしい。
「でも、感謝しています」
僕は姿勢を整え、フレイヴィアさんを見る。
「片刃剣の使い方も、敵との距離も、怪我をしないための考え方も教えてもらいました」
「怪我はしておるがな」
「前より減りました」
「ようやく、だ」
フレイヴィアさんは杯を傾ける。
透明な酒を飲み込み、口元を僅かに緩めた。
「主は、余が教えたことをよく耐えた」
「褒めていますか?」
「褒めておる」
短い答えだった。
けれど、それだけで胸の奥が少し温かくなった。
「ありがとうございます」
「うむ」
フレイヴィアさんは満足そうに頷き、大角鹿の肉を僕の皿へ追加した。
「食え」
「まだあります」
「余の分だ」
「フレイヴィアさんも食べてください」
「余は酒でよい」
「駄目です」
反射的に言うと、黄金の瞳が瞬いた。
「料理も食べないと、酔いますよ」
「余は酔わぬ」
「空腹で飲むのは身体によくありません」
昨日、自分が似たようなことを言われた気がする。
それでも、正しいことは正しい。
フレイヴィアさんはしばらく僕を見つめ、それから渋々と肉を一切れ取った。
「主が食えと言うならな」
「はい」
僕が安心して自分の皿へ戻ると、ガルドさんが呆れたように笑った。
「お前ら、似た者同士になってきたな」
「どこがです?」
「自覚がねぇところだよ」
理由はよく分からなかった。
その後も料理は追加され続けた。
最初の皿が空く前に、新しい煮込みが来る。
魚を食べ終える頃には、香ばしく焼いた蟹が並べられる。
甘い菓子まで運ばれてきた時には、さすがに卓へ載りきらず、別の台が用意された。
「本当に大盤振る舞いですね」
アルナさんが、山のような料理を見渡す。
フレイヴィアさんは酒杯を片手に、当然のように答えた。
「宴とは、こういうものであろう」
「竜族の宴は、もっと多いぞ」
ガルドさんが眉を上げる。
「まだ増えるのか?」
「国では、大型を数頭焼く」
「今日は五人だぞ」
「余も少し抑えた」
「これで?」
全員の視線が卓へ集まる。
フレイヴィアさんは、ほんの僅かに目を逸らした。
「……多少は」
「姫さんに任せた俺が悪かった」
ガルドさんはそう言いながらも、楽しそうに杯を傾けていた。
僕も一杯だけ、薄めた果実酒を出してもらった。
淡い桃色の酒は甘く、喉を通ると身体の内側がゆっくり温かくなる。
「ゆっくり飲んでくださいね」
アルナさんが隣から杯を見張っている。
「まだ一口です」
「一口で、少し顔が赤くなっています」
「部屋が暖かいので」
「窓を開けましょうか?」
「それは寒いと思います」
セラフィーンさんが僕の顔を覗き込む。
金色の瞳が近づき、白い指先が額へ触れた。
「熱はありませんねぇ」
「お酒ですか?」
「おそらくは」
「まだ少ししか飲んでいないんですが」
「ですから、ゆっくりと」
今度は両側から注意された。
僕は大人しく酒を置き、代わりに果実水へ手を伸ばした。
「素直だな」
「宴の途中で眠りたくないので」
「一度学んだらしい」
ガルドさんは笑い、大きな杯を僕の方へ掲げた。
時間が経つにつれ、会話も途切れなくなった。
アルナさんはギルドで起きた小さな失敗を話す。
上下逆さまの依頼票を持っていった新人。
討伐証明の代わりに、魔物の糞を袋いっぱいに詰めてきたハンター。
フレイヴィアさんの姿を見た瞬間、報告内容を忘れた受付職員。
「最後の者は誰だ」
「名前は伏せておきます」
「余は怒らぬぞ」
「だからこそ、伏せておきます」
アルナさんの猫耳が、楽しそうに揺れる。
どうやら本人を守っているらしい。
セラフィーンさんは、教会の裏庭で飼われている角兎の話をした。
雨の日に迷い込み、供物をすべて食べたうえ、今では治療師たちから野菜をもらって暮らしているという。
「一度、見てみたいです」
「大人しい子ですよ」
「逃げた場合も、すぐ捕まえられます」
「捕まえる必要はありませんからね」
セラフィーンさんの翼が警戒するように少し縮む。
「見に行くだけです」
「その言葉は、少し不安ですねぇ」
「僕は飼われている角兎を狩りませんよ」
「それなら安心しました」
セラフィーンさんは穏やかに笑い、翼を元へ戻した。
ほんの少しだけ、野生の個体だった場合について考えた。
けれど、今は宴の最中だ。
――そのくらいの分別はある。
「坊主。今、一瞬だけ変な顔したぞ」
「気のせいです」
「ならいいけどよ」
ガルドさんは追及せず、また酒へ口をつけた。
食べて。
飲んで。
話して。
誰かの失敗を笑い、自分の失敗も笑われる。
英雄譚の宴とは違う。
喧嘩も起きない。
酒樽を壊す者もいない。
武勇を叫びながら卓へ立つ者もいなかった。
それでも――楽しかった。
「宴って、いいものですね」
口にすると、ガルドさんが杯越しに笑う。
「ようやく分かったか」
「はい。もっと騒がしいものだと思っていました」
「騒ぎたきゃ、大広間へ行けばいい」
「ここがいいです」
すぐに答えた。
静かな部屋。
卓いっぱいの料理。
よく知った人たちの顔。
「僕は、ここがいいです」
もう一度言う。
酒のせいか、いつもより言葉が素直に出た。
「二年前は、皆さんとこうして食事をするなんて思っていませんでした」
「それは、私もです」
アルナさんが杯を両手で包む。
猫耳は少しだけこちらへ傾いていた。
「最初のルキウスさんは、今よりずっと危なっかしかったですから」
「今は違いますか?」
「少しは」
「少しだけなんですね」
「ご自分で分かっていないところは、あまり変わりません」
柔らかく笑われる。
「私は、初めてお会いした時から、また来られると思っていましたよ」
セラフィーンさんが続ける。
白い翼が椅子の後ろで、ゆっくり揺れた。
「怪我をして、ですか?」
「それもありますけれど」
金色の瞳が、僕の顔を見つめる。
「あなたは、何度倒れても歩こうとしていましたから」
「歩かなければ、帰れませんので」
「そういうところです」
なぜか少し困ったように微笑まれた。
「余は、主が二年耐えるとは思っておらなんだ」
フレイヴィアさんが酒杯を卓へ置く。
僕が顔を向けると、黒い尾がゆっくり床を撫でていた。
「途中で逃げると思っていたんですか?」
「一月は持つと思っておった」
「一月……」
「実際、何度か逃げようとしたであろう」
「休憩しようとしただけです」
「家の門まで走っていた」
「帰って寝ようと」
「それを逃げると言う」
皆の笑い声が重なる。
「でも、最後までいました」
笑いが落ち着いたところで、僕はフレイヴィアさんを見る。
「はい。最後までいた」
彼女も同じ言葉を返した。
それだけだった。
けれど、二年間がきちんと終わったのだと、ようやく実感できた気がした。
修行が終わった。
街へ戻った。
依頼へ行き、無事に帰った。
そして今、同じ卓を囲んでいる。
「この街へ来て、よかったです」
胸の中にあった言葉が、自然と零れた。
ガルドさん。
アルナさん。
セラフィーンさん。
フレイヴィアさん。
皆の顔を順番に見る。
「僕には、帰る場所が増えました」
角兎亭。
ギルド。
教会。
フレイヴィアさんの家。
それから――誰かが待つ場所。
「お前、やっぱり酔ってるだろ」
「酔っていません」
「顔が赤いぞ」
「料理が温かいので」
「声も少し柔らかいですよ」
アルナさんが口元へ手を当てる。
猫耳も、どこか楽しそうに立っていた。
「普段から、これくらい素直ならよいのだがな」
「僕はいつも素直ですよ」
「怪我についてを除けば、ですねぇ」
「依頼についてもだ」
セラフィーンさんとガルドさんが続く。
「三人とも、ひどいです」
「余は味方だぞ、主」
「フレイヴィアさんは、修行中に一番ひどかったです」
「ならば四人だな」
また笑い声が重なった。
――こんな時間が、ずっと続けばいい。
ふと、そう思った。
依頼へ行く。
無事に帰る。
また食事を囲む。
何度でも。
当たり前のように。
「次も、やりましょう」
「ああ」
ガルドさんが杯を掲げる。
「全員、無事に戻ったらな」
「なら、約束ですね」
「主。次も余が開こう」
「財布が泣くぞ」
「余の財布は泣かぬ」
フレイヴィアさんが胸を張る。
「次は、さらに多く用意する」
「もう増やさないでください」
「今日の料理、まだ半分残ってるぞ」
「持ち帰ればよい」
「女将さんが喜びそうですね」
僕たちが卓の料理を見回した、その時だった。
廊下から、早足が聞こえた。
先ほどまで料理を運んでいた店員のものとは違う。
床を強く踏み、迷わずこちらへ近づいてくる。
部屋の前で止まり、扉が三度叩かれた。
「失礼します。アルナさん、こちらにいらっしゃいますか」
聞き覚えのある、ギルド職員の声だった。
アルナさんの猫耳が、一瞬で前を向く。
手にしていた杯を置き、表情が受付に立つ時のものへ戻った。
「はい。入ってください」
扉が開く。
若い職員が肩で息をしながら、入口に立っていた。
仕事着の上から外套を羽織り、手には二通の封書を握っている。
どちらも縁を赤く染めた厚紙。
中央には、緊急依頼を示す黒い封蝋が押されていた。
ガルドさんが椅子から立ち上がる。
フレイヴィアさんは酒杯を置き、黄金の瞳を細めた。
セラフィーンさんの白い翼も、静かに畳まれる。
「何があった」
ガルドさんの声から、酔いが消える。
職員は一度息を整え、手にした封書を強く握った。
「緊急依頼が発令されました」
卓の上では、まだ料理から湯気が上がっている。
大盤振る舞いの宴は、始まってからそれほど時間も経っていない。
それでも、全員の目は封書へ向けられていた。
「南東の山道で、大型魔物の痕跡が確認されています。推定危険度はランク6」
一通目の封書が、フレイヴィアさんへ差し出される。
「もう一件は、北部雪原の中継拠点です。定時連絡が途絶えました」
職員の手が、僅かに震えた。
「近隣の調査班から、拠点周辺で大型の足跡を確認したと報告が入っています」
北部雪原。
その言葉へ、胸の奥が冷えた。
二年前。
白い雪。
青白い瞳。
背中へ叩きつけられた衝撃。
右脇腹の古傷が、思い出したように引きつる。
「推定危険度は?」
アルナさんが尋ねる。
職員は答える前に、一度唇を噛んだ。
「現時点では、ランク4相当です。ただし――」
握られた二通目の封書へ、黒い封蝋が鈍く光る。
「現地の状況は、確認できていません」
誰も言葉を発しなかった。
卓の中央には、食べきれないほどの料理。
杯には、まだ酒が残っている。
つい先ほどまで、次の宴を約束していた。
けれど――。
宴は、その一言で終わった。
◆