駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
卓の中央では、切り分けられた大角鹿の肉が、まだ湯気を立てていた。
杯には酒が残り、別の台へ並べられた焼き菓子には、まだ誰も手をつけていない。
けれど――宴の続きを考えている者は、もういなかった。
「南東方面、隣町クレイス近郊の山道で、大型魔物の痕跡が確認されました。推定危険度はランク6です」
若いギルド職員が、一通目の封書を読み上げる。
ここまで走ってきたのだろう。額には汗が浮かび、呼吸もまだ整いきっていなかった。
「北部雪原の中継拠点は、昨夜から定時連絡が途絶えています。周辺で大型と思われる足跡が見つかっていますが、種類までは確認できていません」
アルナさんは差し出された二通の封書を受け取り、素早く封を切った。
若草色の私服姿のまま、それでも表情は完全に受付嬢へ戻っている。
「北部拠点には、現在何名が滞在していますか?」
「常駐職員が四名。調査班が六名です」
職員は息を整えながら、記憶を確かめるように続けた。
「護衛としてランク3のハンターが二名。ただし、昨日の昼に周辺の地形調査へ出たままです」
「その二名からの連絡は?」
「ありません」
アルナさんの猫耳が、ぴんと前を向く。
「近隣の拠点から、人員を回すことはできませんか?」
「西部森林でも魔物の群れが活発化しています。今夜動けるランク4以上のハンターは、すでにほかの依頼へ割り振られていて……」
そこで言葉が途切れた。
職員の視線が、卓を囲む僕たちへ向けられる。
ランク7のフレイヴィアさん。
元ランク5で、現在も同等の実力を持つガルドさん。
ランク4の僕。
そして、ギルドと教会に属するアルナさんとセラフィーンさん。
「……だから、ここへ来たんですね」
僕が尋ねると、職員は申し訳なさそうに頭を下げた。
「宴の席だとは承知しております。しかし、アルナさんが緊急連絡先に指定されていましたので」
「あなたが謝る必要はありません」
アルナさんは一通目の依頼書へ目を戻す。
私服の袖口を押さえながら、南東方面の地図を卓へ広げた。
「大型の種類は?」
「残された爪痕と、折られた木の高さから、岩殻竜の成体と思われます」
答えを聞き、ガルドさんの犬耳が前へ向く。
「岩殻竜か。放っておきゃ街道を塞ぐな」
「はい。すでに隣町からこちらへ向かう荷車が、何台か引き返しています」
岩殻竜は、背中を岩のような外殻で覆った大型種だ。
動きこそ速くないけれど、巨体と硬さは厄介で、街道へ居座られれば荷車も騎獣も近づけない。
「余が行こう」
フレイヴィアさんが、静かに告げた。
誰も驚かなかった。
ランク6相当の大型を単独で押さえられる者が、この場にいるとすれば彼女だけだ。
「お願いできますか、フレイヴィア様」
「元より、そのためのランクであろう」
フレイヴィアさんは酒杯を卓へ置く。
先ほどまで緩やかに揺れていた黒い尾も、床の上で静止していた。
「出発は?」
「夜明け前に南門から出る隊商へ同行していただきます。隣町で現地支部と合流し、その後、山道へ向かってください」
「帰還まで、どの程度を見ておる」
「移動と現地調査を含め、短くても三週間。討伐後の安全確認まで行う場合は――」
職員は一度言葉を切り、慎重に答えた。
「およそ一か月です」
「一か月……」
僕の声が、思わず零れる。
フレイヴィアさんは僅かに眉を動かしたものの、驚いた様子は見せなかった。
「妥当であろう。岩殻竜を倒したところで、道がすぐ使えるとは限らぬからな」
「一か月も、帰ってこられないんですか?」
尋ねると、黄金の瞳が僕へ向く。
「早く済めば、早く戻る」
「そうですよね」
「寂しいか?」
「それは……少し」
隠す理由もなかった。
素直に答えると、フレイヴィアさんは一度だけ瞬きをした。
「ふむ」
短く頷き、酒杯へ伸ばしかけた手を止める。
「ならば、主が雪原から戻るより早く帰るとしよう」
「競争ではありませんよ」
「余が勝つ」
「話を聞いていましたか?」
こんな時でも変わらない返事に、胸の奥の重さが少しだけ薄れた。
アルナさんは北部雪原の地図を、料理の皿を避けながら卓へ広げる。
「こちらは、現時点でランク4相当と判定されています」
「ただし、現地の状況は不明か」
ガルドさんが地図へ身を寄せる。
北門から伸びる街道を太い指で辿り、途中の宿場と中継拠点の位置を確認した。
「依頼内容は拠点の状況確認と、生存者がいた場合の救助です」
アルナさんの指が、中継拠点を示す印の上で止まる。
「大型と遭遇した場合は、可能な限り交戦を避け、信号弾で増援を要請してください」
「討伐依頼じゃねぇんだな」
「はい。大型の正体も分かっていません。あくまで、人命を最優先に」
ガルドさんはしばらく地図を見つめた。
やがて、その指が拠点の印を一度だけ叩く。
「俺と坊主が行く」
「ガルドさん……」
アルナさんの猫耳が大きく揺れる。
「姫さんは南東へ向かう。北へすぐ動けるランク4以上は、俺たちだけなんだろ?」
「そうですが……」
彼女の視線が、僕の右脇腹へ向けられた。
私服の上からでは見えないはずの古傷を、確かめるように。
二年前。
僕は北部雪原で大型魔物と遭遇し、何もできずに逃げた。
白い雪。
青白い瞳。
振り下ろされた前脚と、背中へ叩きつけられた衝撃。
服の下で、右脇腹の古傷が思い出したように引きつった。
「僕も行きます」
怖さはある。
二年経っても、あの雪原を思い出すだけで呼吸が浅くなる。
それでも――足が竦むほどではなかった。
あの時とは違う。
今の僕には、二年間で積み上げたものがある。
「ルキウスさん」
アルナさんの声が、僅かに低くなる。
「依頼は、拠点の確認と救助です」
「分かっています」
「大型を探す依頼ではありません」
「はい」
「見つけても、追いませんね?」
返事をする前に、ガルドさんが僕の肩へ手を置いた。
「判断する時は、俺にも言え」
「分かりました」
「一人で飛び出すなよ」
「はい」
大きな手が、肩を一度だけ強く叩く。
「なら、行ける」
ガルドさんの声に、アルナさんはすぐには頷かなかった。
けれど、ほかに動ける者がいないことも分かっている。
猫耳がゆっくり伏せられ、やがて小さな息が落ちた。
「……正式な依頼書を発行します」
「お願いします」
アルナさんは地図を畳みながら、僕を見つめる。
「危険だと判断したら、必ず退いてください」
「はい」
「本当に?」
「本当に本当です」
いつもの返事。
それでも今日は、アルナさんの表情が緩まなかった。
「その言葉を、信じますからね」
「必ず戻ります」
今度は、少しだけ猫耳が持ち上がった。
「待て」
フレイヴィアさんの声が落ちる。
黄金の瞳は、僕とガルドさんへ向けられている。
「話を進める前に、一つ問題がある」
「問題?」
僕が首を傾げると、彼女は卓に並ぶ杯を指した。
「酒だ。このまま向かうつもりか?」
「あ……」
全員の視線が、自分たちの杯へ落ちる。
僕は薄い果実酒を一杯だけ。
アルナさんとセラフィーンさんも、少量しか飲んでいない。
けれど、ガルドさんは麦酒を何杯か空けている。
そして、フレイヴィアさんに至っては――。
「その瓶、半分ほど減っていますね」
「この程度、余には水と変わらぬ」
「匂いだけで喉が痛くなる酒ですよ」
透明な酒の入った瓶を見つめ、僕は僅かに身を引く。
フレイヴィアさんの顔色は変わっていないが、酒が残っていないとは限らない。
「出発は半刻後だ。俺は少し酔いを冷ます」
ガルドさんが椅子から立ち上がろうとする。
けれど、その肩をセラフィーンさんが静かに押さえた。
「その必要はありませんよ」
「何?」
セラフィーンさんは椅子から立ち上がり、白い翼をゆっくりと広げた。
私服の袖を僅かに捲り、卓を囲む僕たちへ両手を向ける。
「少し、じっとしていてくださいねぇ」
淡い光が、指先から零れた。
水面へ落ちた光のように、柔らかな波紋が部屋の中へ広がっていく。
胸元へ光が触れた瞬間、身体の内側が僅かに温かくなった。
「……あれ?」
酒で火照っていた頬から、熱が引いていく。
頭の奥にあった薄い浮遊感も消え、視界がはっきりした。
ガルドさんも何度か瞬きをし、自分の頭を軽く振る。
「おい。本当に抜けたぞ」
「身体が、急に軽くなりました」
アルナさんが頬へ手を当てる。
赤みが消え、伏せ気味だった猫耳も、すっかりいつもの動きへ戻っていた。
フレイヴィアさんは自分の手を握ったり開いたりしたあと、黄金の瞳を見開く。
「すごいな。こんなこともできるのか」
素直に驚くフレイヴィアさんは、少し珍しい。
セラフィーンさんは翼を静かに畳みながら、穏やかに微笑んだ。
「元より酔いとは、酒に含まれる酒精――エタノールが血へ溶け込み、脳や神経の働きを鈍らせることで起こります」
「えたのーる?」
フレイヴィアさんが、聞き慣れない言葉を繰り返す。
「酒精の正式な呼び方です。肝臓が分解しきれず、血の中へ残った酒精と、その分解途中に生じる物質を浄化すれば、酔いを醒ますことは難しくありません」
セラフィーンさんは自分の胸元へ手を添えた。
「治癒魔法で分解を助け、身体の外へ流しただけですよ」
「だけ、で済ませていいことなのか?」
ガルドさんが、自分の手を見つめながら呟く。
僕も頭を左右へ傾けてみたけれど、先ほどまでの熱はすっかり消えていた。
「すごいです。これなら――」
僕が口を開くより先に、フレイヴィアさんが卓へ両手をついた。
「――すごいな。それなら、いくらでも飲めるではないか」
黄金の瞳が、これまで以上に輝いていた。
「駄目です」
アルナさんとガルドさんの声が重なる。
セラフィーンさんは少しだけ困ったように眉を下げ、それから口元へ手を添えた。
「そんな野暮なことはしませんがね。いつもなら」
「何故だ?」
「酔うことも含めて、お酒を楽しむものだからです」
白い翼が、楽しそうに一度だけ揺れる。
「今夜は皆様がすぐに出発されますので、特別です」
「では、帰ったあとは?」
「普通に酔っていただきます」
「解せぬ」
「何のために酒を飲んでいるんだ、姫さん」
ガルドさんが呆れた声を上げる。
フレイヴィアさんは納得していない顔で、空になった杯を見つめた。
「飲んだ分をなかったことにできるなら、何度でも最初から楽しめるではないか」
「姫さん。それは、宴じゃなくて耐久戦だ」
「望むところだ」
「誰も相手しねぇよ」
少し前まで張り詰めていた部屋へ、笑い声が戻る。
アルナさんの猫耳も、柔らかく横へ揺れていた。
緊急依頼は消えない。
これから向かう先に、何が待っているのかも分からない。
それでも――笑えた。
笑いが落ち着いたあと、セラフィーンさんが卓を囲む僕たちへ目を向ける。
「これで、お身体から酒精は抜けました。すぐに動いても問題ありません」
「助かる」
ガルドさんが短く礼を告げる。
「では、私は教会へ戻ります。北部拠点に負傷者がいる可能性がありますから、携帯用の治療薬と保温用の聖布を用意しましょう」
「お願いします」
僕が頷くと、セラフィーンさんの金色の瞳が右脇腹へ向けられた。
「ルキウス様。古傷に痛みは?」
「少しだけです」
「思い出したから、でしょうか」
「たぶん」
白い指先が、私服の上から傷へ近づく。
触れる寸前で止まり、状態を探るように淡い光が揺れた。
「無理に強がらなくてもよいのですよ」
「強がってはいません」
怖い。
それは、自分でも分かっている。
以前の僕なら、怖くないふりをしたかもしれない。
けれど、二年間で少しだけ学んだ。
恐怖が消えないなら――持ったまま動けばいい。
「怖いです」
声に出すと、思っていたよりも素直に言えた。
「でも、行けます」
「……そうですか」
セラフィーンさんの指が、僕の袖口へ触れる。
掴むわけではなく、そこにいることを確かめるような触れ方だった。
「でしたら、必ず帰ってきてください」
「はい」
「治療が必要でしたら、私のところへ」
「怪我をしないようにします」
「その言葉も、信じておきますねぇ」
穏やかな微笑み。
けれど、金色の瞳には隠しきれない心配が残っていた。
「主」
フレイヴィアさんに呼ばれ、顔を向ける。
彼女は私服の長い裾を整え、僕の前まで歩いてきた。
黒い尾が、落ち着かない様子で一度だけ床を擦る。
「余と来るか?」
予想していなかった問いだった。
「南東へ、ですか?」
「ああ」
フレイヴィアさんは腕を組み、黄金の瞳で僕を見る。
「隣町までの道中であれば、主のランクでも問題はない。岩殻竜との戦いでは後方へ置く」
「でも、北部拠点は」
「ガルド一人でも、状況確認はできよう」
「坊主がいなくても行くには行く」
ガルドさんはそう答えた。
けれど、僕に選択を譲るように、その場から動かなかった。
フレイヴィアさんと行けば、安全だ。
少なくとも、二年前と同じように何もできず倒れる可能性は低くなる。
それに、一か月も帰ってこない彼女と、もう少し一緒にいられる。
――でも。
「北へ行きます」
答えると、フレイヴィアさんの尾が止まった。
「理由は?」
「拠点で、人が待っているかもしれません」
「南の街道にも人がおる」
「はい。だから、フレイヴィアさんが行くんです」
僕は卓に広げられた二枚の地図へ目を落とした。
「フレイヴィアさんが南東へ行けば、街道を使う人たちが助かります。僕とガルドさんが北へ行けば、拠点の人たちを助けられるかもしれない」
「かもしれない、だ」
「だから、確かめに行きます」
フレイヴィアさんは何も答えない。
ただ、黄金の瞳だけが僕を見つめ続けていた。
「北には、主が恐れるものがおるかもしれぬぞ」
「はい」
「二年前と同じ大型であったなら?」
「……怖いと思います」
古傷が、また僅かに引きつる。
それでも、視線は逸らさなかった。
「でも、今度は一人ではありません」
「ガルドがおる」
「はい。それに、二年前の僕とも違います」
胸元へ手を置く。
鼓動は少し速い。
「逃げるべきなら逃げます。助けられる人がいるなら助けます。必要なら、戦います」
「主」
「僕は、北へ行きます」
もう一度、はっきりと答えた。
しばらく沈黙が続いた。
ガルドさんも、アルナさんも、セラフィーンさんも口を挟まない。
やがて――。
「ふ。良い」
フレイヴィアさんの口元が、ゆっくり持ち上がった。
「それでこそ、余の弟子だ」
黄金の瞳に、僅かな誇らしさが浮かぶ。
黒い尾も、先ほどまでとは違い、穏やかに床を撫でていた。
「止めないんですか?」
「止めてほしかったのか?」
「いえ」
「ならば、胸を張れ」
フレイヴィアさんは僕の胸元を、拳の背で軽く叩く。
「余は余の。主は主の」
「はい」
「いいな」
「はい」
強く頷く。
「必ず戻ります」
「当然だ」
フレイヴィアさんの手が伸びてくる。
フードのない頭をそのまま掴まれ、少し乱暴に引き寄せられた。
「戻らなければ、余が雪原をすべて焼く」
「焼け野原になってしまいます」
「知ったことか」
「生存者や拠点も巻き込まれますよ」
「ならば、その前に戻れ」
掴む指へ、僅かに力が入る。
痛くはない。
けれど、彼女がどれほど心配しているのかは、それだけで伝わった。
「分かりました」
「本当に?」
「本当に本当です」
いつもの返事をすると、ようやく手が離れる。
「その言葉を破ったこともありますよね」
アルナさんが静かに付け加えた。
僕は少し考え、否定できずに目を逸らす。
「今回は守ります」
「今回は、ではありません」
アルナさんは椅子から立ち上がり、僕の前へ来る。
猫耳を前へ向けたまま、少しだけ眉を下げた。
「これからも、です」
「……はい」
頷くと、ようやく彼女の表情が僅かに緩んだ。
ガルドさんが地図を畳み、私服の袖を下ろす。
「出発は半刻後だ。坊主は宿へ戻って装備を取ってこい。俺は騎獣と荷を用意する」
「はい」
「姫さんは?」
「余も装備を整え、南門へ向かう」
フレイヴィアさんは大盤振る舞いの名残が残る卓を見渡す。
「料理は、どうしますか?」
僕が尋ねると、彼女は迷うことなく答えた。
「持っていけ」
「全部ですか?」
「食えるだけだ」
フレイヴィアさんが指を鳴らす。
扉の外で待機していた店員が、すぐに顔を覗かせた。
「料理を包め。北へ向かう二人へ持たせる」
「承知しました!」
店員は事情を聞いていたらしい。
迷うことなく返事をし、廊下へ向かって声を張る。
「保存容器と布を! 携行できる料理を、できる限りまとめろ!」
その声をきっかけに、店全体が動き始めた。
焼いた肉は黒パンへ挟まれ、煮込みは蓋つきの容器へ移される。
魚は骨を外され、塩と香草を足して包みへ。
焼き菓子と乾燥果実は、小分けにして袋へ詰められていく。
「そんなに持てませんよ」
僕が慌てて止めようとすると、年配の店主らしい男性が大きな籠を抱えて入ってきた。
「騎獣に載せりゃいい! 雪原じゃ食える時に食っとくもんだ!」
「でも、料金は――」
「ヴォルグラート様から、余るほどいただいてる!」
店主は豪快に笑い、僕の背中を叩く。
「だったら、その分しっかり働いてきな!」
「……はい」
個室を出ると、一階の大広間まで話が伝わっていた。
酒を飲んでいた客たちがこちらを向き、店員と一緒に料理を包んでいる。
「北部雪原へ行くんだって?」
「これも持ってけ! 干し肉なら凍っても食える!」
「俺の注文したパンもやるよ!」
「お前、まだ一口も食ってないだろ!」
「だから綺麗なんだよ!」
笑い声とともに、籠へ食料が増えていく。
厨房からは料理人たちが顔を出し、保存の利く煮込みや香辛料を利かせた肉を次々と渡してきた。
事情を聞いたほかの客も、自分たちの卓から手のついていない料理を持ち寄ってくれる。
「こんなに……」
「遠慮すんな!」
大柄なハンターが、僕の肩へ手を置く。
「向こうで腹減らしてる奴がいるかもしれねぇんだろ?」
「はい」
「なら、そいつらにも食わせてやれ」
隣の卓から、年配の女性が厚手の布を差し出す。
「容器へ巻いときな。少しくらいなら温かさが残るよ」
「ありがとうございます」
受け取るたび、胸の奥へ温かなものが積み重なっていく。
僕たちが助けに行く。
けれど、向かうのは僕たちだけではない。
料理を作った人。
荷を包んだ人。
自分の食事を分けてくれた人。
皆の手が、一緒に雪原へ届く。
「そっちの竜姫様も、一か月なんだってな!」
奥の席から声が飛ぶ。
フレイヴィアさんが振り返ると、酔った小人族の男性が杯を掲げた。
「隣町の街道、頼んだぞ!」
「任せよ」
フレイヴィアさんは堂々と胸を張る。
「岩殻竜ごとき、余の行く手を塞げると思うな」
店内から歓声が上がった。
「北へ行く二人もだ!」
「拠点の連中を連れて帰ってこいよ!」
「無茶すんな! 逃げる時は逃げろ!」
「宴の続き、忘れんなよ!」
いくつもの声が重なる。
最後には、誰かが大きく叫んだ。
「頼んだぞ、ハンター!」
「頼んだぞ!」
「絶対に戻ってこい!」
「土産話を待ってるからな!」
店いっぱいの声が、僕たちへ押し寄せた。
ガルドさんが隣で鼻を鳴らす。
けれど、大きな犬耳は嬉しそうに持ち上がっていた。
「坊主」
「はい」
「返事しとけ」
「僕がですか?」
「お前もハンターだろ」
一歩だけ前へ出る。
これほど多くの人から見られると、少し緊張する。
それでも――フードのない顔を、俯かせたくはなかった。
「必ず、皆さんを連れて帰ります!」
大広間へ声を届ける。
「そして、僕たちも戻ってきます!」
再び歓声が上がった。
杯が卓を叩き、誰かが口笛を鳴らす。
フレイヴィアさんも僕の隣へ並び、片手を掲げた。
「一月後には戻る。次の宴も、余の驕りだ!」
「おおっ!」
「今より増やすぞ!」
「それはやめろ、姫さん!」
ガルドさんの声に、店中から笑いが起こった。
緊急依頼へ向かう前だというのに。
次に戻れる保証だって、どこにもないのに。
それでも、笑って送り出してくれる。
「宴は終わりではない」
フレイヴィアさんが、静かに告げる。
黄金の瞳が、僕たち一人ひとりを捉えた。
「これは中断だ」
「はい」
セラフィーンさんが、白い翼を小さく広げる。
「皆様で無事に帰り、続きをいたしましょう」
「次は、最後までですね」
アルナさんの猫耳も、まっすぐ前を向いた。
「約束です」
「約束します」
僕が答えると、ガルドさんが大きな手を差し出した。
その上へ、僕の手を重ねる。
アルナさん。
セラフィーンさん。
そして最後に、フレイヴィアさんの手が重なった。
「全員、戻るぞ」
ガルドさんの言葉に、皆が頷く。
「はい」
「ええ」
「当然だ」
「必ず」
重なった手が離れる。
ここからは、それぞれの役目だ。
フレイヴィアさんは南東へ。
僕とガルドさんは北へ。
アルナさんはギルドで、セラフィーンさんは教会で、帰ってくる者たちを支える。
――そして、また同じ卓へ。
◆
半刻後。
北門前には、夜の冷たい風が吹いていた。
僕は角兎亭で私服から装備へ着替え、フード付き外套の下へ胴当てを身につけている。
腰には片刃剣。
道具袋には薬と信号弾、保存食。
さらに、酒楼の店員と客たちが用意してくれた食料が、騎獣の荷へ山のように積まれていた。
「これは、何人分だ?」
ガルドさんが荷袋を持ち上げ、呆れた声を出す。
「店主さんは、二人と十人分だと言っていました」
「拠点に全員いる前提か」
「そうだと思います」
助けたあと、皆で食べる。
そのための料理だ。
ガルドさんは何も言わず、荷袋を騎獣へ括りつけた。
その手つきには迷いがなく、いつもの大盾も背中へ戻っている。
「腕は?」
「問題ねぇ。お前の脇腹は」
「少し引きつるだけです」
「無理に隠すなよ」
「隠していません」
ガルドさんは僕の返事を聞き、フードの奥を覗き込む。
何かを確かめるように、犬耳が僅かに前へ向いた。
「怖いか?」
「はい」
今度は、すぐに答えられた。
北門の向こうには、暗い街道が続いている。
その先に、二年前の雪原がある。
「でも、足は動きます」
「なら、行ける」
ガルドさんはそれ以上何も言わず、騎獣の鞍へ跨がった。
「ルキウスさん!」
背後から呼ばれる。
振り返ると、門の灯りの下にアルナさんが立っていた。
宴で着ていた若草色の私服へ外套だけを羽織り、胸元には正式な依頼書を収めた筒を抱えている。
「アルナさん。ギルドへ戻ったのでは?」
「戻りました。こちらを届けに来たんです」
差し出された筒を受け取る。
封はギルドのもの。
中には北部拠点の地図と、救助対象者の名前が収められているはずだ。
「ありがとうございます」
「それから……」
アルナさんは胸元へ両手を重ねた。
猫耳を僅かに伏せ、何かを選ぶように口を閉じる。
「絶対に怪我をしないで、とは言いません」
「え?」
「何が起きるか分からない依頼です。絶対に怪我をしないでください、依頼を成功させてください――そんなことを全部、約束させることはできません」
門を抜ける風が、栗色の髪を揺らす。
「ですから、帰ってきてください」
「はい」
「怪我をしても。依頼に失敗しても。逃げることになっても」
伏せられていた猫耳が、ゆっくりこちらへ向いた。
「それでも、帰ってきてください」
「分かりました」
依頼を成功させる。
生存者を助ける。
必要なら、大型を退ける。
それよりも先に――帰る。
「宴の続きがありますから」
「……はい」
アルナさんが小さく笑った。
「私の昼休みも、また借りていただかないと困ります」
「次は、アルナさんの支払いでしたね」
「覚えていたんですか?」
「約束ですから」
猫耳が、ほんの少し持ち上がった。
「では、行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
騎獣へ跨がる。
手綱を握り、ガルドさんの隣へ並んだ。
北門が開いていく。
夜の街道。
冷たい風。
その向こうには、まだ見えない雪原が待っている。
「坊主」
「はい」
「まずは拠点だ」
「分かっています」
「大型を見つけても?」
「拠点と生存者を優先します」
ガルドさんが短く頷く。
「よし。行くぞ」
「はい」
騎獣が地面を蹴った。
蹄の音が、夜の街道へ響く。
背後のエルドランが少しずつ遠ざかり、門の灯りも小さくなっていった。
怖さは消えない。
古傷も、まだ僅かに引きつっている。
それでも――戻る場所がある。
食べかけの料理。
交わした言葉。
途中で終わった、初めての宴。
「帰ったら、続きをしましょう」
風へ消えそうな声で呟く。
「何か言ったか?」
「いえ」
僕は前を向き、手綱を握り直した。
次は、全員で最後まで。
その約束を胸に、僕たちは北へ向かった。
◆