駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第二章 第八話『少年は宴の続きを約束する』

 

 ◆

 

 卓の中央では、切り分けられた大角鹿の肉が、まだ湯気を立てていた。

 杯には酒が残り、別の台へ並べられた焼き菓子には、まだ誰も手をつけていない。

 

 けれど――宴の続きを考えている者は、もういなかった。

 

「南東方面、隣町クレイス近郊の山道で、大型魔物の痕跡が確認されました。推定危険度はランク6です」

 

 若いギルド職員が、一通目の封書を読み上げる。

 ここまで走ってきたのだろう。額には汗が浮かび、呼吸もまだ整いきっていなかった。

 

「北部雪原の中継拠点は、昨夜から定時連絡が途絶えています。周辺で大型と思われる足跡が見つかっていますが、種類までは確認できていません」

 

 アルナさんは差し出された二通の封書を受け取り、素早く封を切った。

 若草色の私服姿のまま、それでも表情は完全に受付嬢へ戻っている。

 

「北部拠点には、現在何名が滞在していますか?」

「常駐職員が四名。調査班が六名です」

 

 職員は息を整えながら、記憶を確かめるように続けた。

 

「護衛としてランク3のハンターが二名。ただし、昨日の昼に周辺の地形調査へ出たままです」

「その二名からの連絡は?」

「ありません」

 

 アルナさんの猫耳が、ぴんと前を向く。

 

「近隣の拠点から、人員を回すことはできませんか?」

「西部森林でも魔物の群れが活発化しています。今夜動けるランク4以上のハンターは、すでにほかの依頼へ割り振られていて……」

 

 そこで言葉が途切れた。

 職員の視線が、卓を囲む僕たちへ向けられる。

 

 ランク7のフレイヴィアさん。

 元ランク5で、現在も同等の実力を持つガルドさん。

 ランク4の僕。

 

 そして、ギルドと教会に属するアルナさんとセラフィーンさん。

 

「……だから、ここへ来たんですね」

 

 僕が尋ねると、職員は申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「宴の席だとは承知しております。しかし、アルナさんが緊急連絡先に指定されていましたので」

「あなたが謝る必要はありません」

 

 アルナさんは一通目の依頼書へ目を戻す。

 私服の袖口を押さえながら、南東方面の地図を卓へ広げた。

 

「大型の種類は?」

「残された爪痕と、折られた木の高さから、岩殻竜の成体と思われます」

 

 答えを聞き、ガルドさんの犬耳が前へ向く。

 

「岩殻竜か。放っておきゃ街道を塞ぐな」

「はい。すでに隣町からこちらへ向かう荷車が、何台か引き返しています」

 

 岩殻竜は、背中を岩のような外殻で覆った大型種だ。

 動きこそ速くないけれど、巨体と硬さは厄介で、街道へ居座られれば荷車も騎獣も近づけない。

 

「余が行こう」

 

 フレイヴィアさんが、静かに告げた。

 

 誰も驚かなかった。

 ランク6相当の大型を単独で押さえられる者が、この場にいるとすれば彼女だけだ。

 

「お願いできますか、フレイヴィア様」

「元より、そのためのランクであろう」

 

 フレイヴィアさんは酒杯を卓へ置く。

 先ほどまで緩やかに揺れていた黒い尾も、床の上で静止していた。

 

「出発は?」

「夜明け前に南門から出る隊商へ同行していただきます。隣町で現地支部と合流し、その後、山道へ向かってください」

「帰還まで、どの程度を見ておる」

「移動と現地調査を含め、短くても三週間。討伐後の安全確認まで行う場合は――」

 

 職員は一度言葉を切り、慎重に答えた。

 

「およそ一か月です」

「一か月……」

 

 僕の声が、思わず零れる。

 

 フレイヴィアさんは僅かに眉を動かしたものの、驚いた様子は見せなかった。

 

「妥当であろう。岩殻竜を倒したところで、道がすぐ使えるとは限らぬからな」

「一か月も、帰ってこられないんですか?」

 

 尋ねると、黄金の瞳が僕へ向く。

 

「早く済めば、早く戻る」

「そうですよね」

「寂しいか?」

「それは……少し」

 

 隠す理由もなかった。

 素直に答えると、フレイヴィアさんは一度だけ瞬きをした。

 

「ふむ」

 

 短く頷き、酒杯へ伸ばしかけた手を止める。

 

「ならば、主が雪原から戻るより早く帰るとしよう」

「競争ではありませんよ」

「余が勝つ」

「話を聞いていましたか?」

 

 こんな時でも変わらない返事に、胸の奥の重さが少しだけ薄れた。

 

 アルナさんは北部雪原の地図を、料理の皿を避けながら卓へ広げる。

 

「こちらは、現時点でランク4相当と判定されています」

「ただし、現地の状況は不明か」

 

 ガルドさんが地図へ身を寄せる。

 北門から伸びる街道を太い指で辿り、途中の宿場と中継拠点の位置を確認した。

 

「依頼内容は拠点の状況確認と、生存者がいた場合の救助です」

 

 アルナさんの指が、中継拠点を示す印の上で止まる。

 

「大型と遭遇した場合は、可能な限り交戦を避け、信号弾で増援を要請してください」

「討伐依頼じゃねぇんだな」

「はい。大型の正体も分かっていません。あくまで、人命を最優先に」

 

 ガルドさんはしばらく地図を見つめた。

 やがて、その指が拠点の印を一度だけ叩く。

 

「俺と坊主が行く」

「ガルドさん……」

 

 アルナさんの猫耳が大きく揺れる。

 

「姫さんは南東へ向かう。北へすぐ動けるランク4以上は、俺たちだけなんだろ?」

「そうですが……」

 

 彼女の視線が、僕の右脇腹へ向けられた。

 私服の上からでは見えないはずの古傷を、確かめるように。

 

 二年前。

 僕は北部雪原で大型魔物と遭遇し、何もできずに逃げた。

 

 白い雪。

 青白い瞳。

 振り下ろされた前脚と、背中へ叩きつけられた衝撃。

 

 服の下で、右脇腹の古傷が思い出したように引きつった。

 

「僕も行きます」

 

 怖さはある。

 二年経っても、あの雪原を思い出すだけで呼吸が浅くなる。

 

 それでも――足が竦むほどではなかった。

 

 あの時とは違う。

 今の僕には、二年間で積み上げたものがある。

 

「ルキウスさん」

 

 アルナさんの声が、僅かに低くなる。

 

「依頼は、拠点の確認と救助です」

「分かっています」

「大型を探す依頼ではありません」

「はい」

「見つけても、追いませんね?」

 

 返事をする前に、ガルドさんが僕の肩へ手を置いた。

 

「判断する時は、俺にも言え」

「分かりました」

「一人で飛び出すなよ」

「はい」

 

 大きな手が、肩を一度だけ強く叩く。

 

「なら、行ける」

 

 ガルドさんの声に、アルナさんはすぐには頷かなかった。

 けれど、ほかに動ける者がいないことも分かっている。

 

 猫耳がゆっくり伏せられ、やがて小さな息が落ちた。

 

「……正式な依頼書を発行します」

「お願いします」

 

 アルナさんは地図を畳みながら、僕を見つめる。

 

「危険だと判断したら、必ず退いてください」

「はい」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 いつもの返事。

 それでも今日は、アルナさんの表情が緩まなかった。

 

「その言葉を、信じますからね」

「必ず戻ります」

 

 今度は、少しだけ猫耳が持ち上がった。

 

「待て」

 

 フレイヴィアさんの声が落ちる。

 

 黄金の瞳は、僕とガルドさんへ向けられている。

 

「話を進める前に、一つ問題がある」

「問題?」

 

 僕が首を傾げると、彼女は卓に並ぶ杯を指した。

 

「酒だ。このまま向かうつもりか?」

「あ……」

 

 全員の視線が、自分たちの杯へ落ちる。

 

 僕は薄い果実酒を一杯だけ。

 アルナさんとセラフィーンさんも、少量しか飲んでいない。

 けれど、ガルドさんは麦酒を何杯か空けている。

 

 そして、フレイヴィアさんに至っては――。

 

「その瓶、半分ほど減っていますね」

「この程度、余には水と変わらぬ」

「匂いだけで喉が痛くなる酒ですよ」

 

 透明な酒の入った瓶を見つめ、僕は僅かに身を引く。

 フレイヴィアさんの顔色は変わっていないが、酒が残っていないとは限らない。

 

「出発は半刻後だ。俺は少し酔いを冷ます」

 

 ガルドさんが椅子から立ち上がろうとする。

 けれど、その肩をセラフィーンさんが静かに押さえた。

 

「その必要はありませんよ」

「何?」

 

 セラフィーンさんは椅子から立ち上がり、白い翼をゆっくりと広げた。

 私服の袖を僅かに捲り、卓を囲む僕たちへ両手を向ける。

 

「少し、じっとしていてくださいねぇ」

 

 淡い光が、指先から零れた。

 

 水面へ落ちた光のように、柔らかな波紋が部屋の中へ広がっていく。

 胸元へ光が触れた瞬間、身体の内側が僅かに温かくなった。

 

「……あれ?」

 

 酒で火照っていた頬から、熱が引いていく。

 頭の奥にあった薄い浮遊感も消え、視界がはっきりした。

 

 ガルドさんも何度か瞬きをし、自分の頭を軽く振る。

 

「おい。本当に抜けたぞ」

「身体が、急に軽くなりました」

 

 アルナさんが頬へ手を当てる。

 赤みが消え、伏せ気味だった猫耳も、すっかりいつもの動きへ戻っていた。

 

 フレイヴィアさんは自分の手を握ったり開いたりしたあと、黄金の瞳を見開く。

 

「すごいな。こんなこともできるのか」

 

 素直に驚くフレイヴィアさんは、少し珍しい。

 セラフィーンさんは翼を静かに畳みながら、穏やかに微笑んだ。

 

「元より酔いとは、酒に含まれる酒精――エタノールが血へ溶け込み、脳や神経の働きを鈍らせることで起こります」

「えたのーる?」

 

 フレイヴィアさんが、聞き慣れない言葉を繰り返す。

 

「酒精の正式な呼び方です。肝臓が分解しきれず、血の中へ残った酒精と、その分解途中に生じる物質を浄化すれば、酔いを醒ますことは難しくありません」

 

 セラフィーンさんは自分の胸元へ手を添えた。

 

「治癒魔法で分解を助け、身体の外へ流しただけですよ」

「だけ、で済ませていいことなのか?」

 

 ガルドさんが、自分の手を見つめながら呟く。

 僕も頭を左右へ傾けてみたけれど、先ほどまでの熱はすっかり消えていた。

 

「すごいです。これなら――」

 

 僕が口を開くより先に、フレイヴィアさんが卓へ両手をついた。

 

「――すごいな。それなら、いくらでも飲めるではないか」

 

 黄金の瞳が、これまで以上に輝いていた。

 

「駄目です」

 

 アルナさんとガルドさんの声が重なる。

 

 セラフィーンさんは少しだけ困ったように眉を下げ、それから口元へ手を添えた。

 

「そんな野暮なことはしませんがね。いつもなら」

「何故だ?」

「酔うことも含めて、お酒を楽しむものだからです」

 

 白い翼が、楽しそうに一度だけ揺れる。

 

「今夜は皆様がすぐに出発されますので、特別です」

「では、帰ったあとは?」

「普通に酔っていただきます」

「解せぬ」

「何のために酒を飲んでいるんだ、姫さん」

 

 ガルドさんが呆れた声を上げる。

 フレイヴィアさんは納得していない顔で、空になった杯を見つめた。

 

「飲んだ分をなかったことにできるなら、何度でも最初から楽しめるではないか」

「姫さん。それは、宴じゃなくて耐久戦だ」

「望むところだ」

「誰も相手しねぇよ」

 

 少し前まで張り詰めていた部屋へ、笑い声が戻る。

 アルナさんの猫耳も、柔らかく横へ揺れていた。

 

 緊急依頼は消えない。

 これから向かう先に、何が待っているのかも分からない。

 

 それでも――笑えた。

 

 笑いが落ち着いたあと、セラフィーンさんが卓を囲む僕たちへ目を向ける。

 

「これで、お身体から酒精は抜けました。すぐに動いても問題ありません」

「助かる」

 

 ガルドさんが短く礼を告げる。

 

「では、私は教会へ戻ります。北部拠点に負傷者がいる可能性がありますから、携帯用の治療薬と保温用の聖布を用意しましょう」

「お願いします」

 

 僕が頷くと、セラフィーンさんの金色の瞳が右脇腹へ向けられた。

 

「ルキウス様。古傷に痛みは?」

「少しだけです」

「思い出したから、でしょうか」

「たぶん」

 

 白い指先が、私服の上から傷へ近づく。

 触れる寸前で止まり、状態を探るように淡い光が揺れた。

 

「無理に強がらなくてもよいのですよ」

「強がってはいません」

 

 怖い。

 それは、自分でも分かっている。

 

 以前の僕なら、怖くないふりをしたかもしれない。

 けれど、二年間で少しだけ学んだ。

 

 恐怖が消えないなら――持ったまま動けばいい。

 

「怖いです」

 

 声に出すと、思っていたよりも素直に言えた。

 

「でも、行けます」

「……そうですか」

 

 セラフィーンさんの指が、僕の袖口へ触れる。

 掴むわけではなく、そこにいることを確かめるような触れ方だった。

 

「でしたら、必ず帰ってきてください」

「はい」

「治療が必要でしたら、私のところへ」

「怪我をしないようにします」

「その言葉も、信じておきますねぇ」

 

 穏やかな微笑み。

 けれど、金色の瞳には隠しきれない心配が残っていた。

 

「主」

 

 フレイヴィアさんに呼ばれ、顔を向ける。

 

 彼女は私服の長い裾を整え、僕の前まで歩いてきた。

 黒い尾が、落ち着かない様子で一度だけ床を擦る。

 

「余と来るか?」

 

 予想していなかった問いだった。

 

「南東へ、ですか?」

「ああ」

 

 フレイヴィアさんは腕を組み、黄金の瞳で僕を見る。

 

「隣町までの道中であれば、主のランクでも問題はない。岩殻竜との戦いでは後方へ置く」

「でも、北部拠点は」

「ガルド一人でも、状況確認はできよう」

「坊主がいなくても行くには行く」

 

 ガルドさんはそう答えた。

 けれど、僕に選択を譲るように、その場から動かなかった。

 

 フレイヴィアさんと行けば、安全だ。

 少なくとも、二年前と同じように何もできず倒れる可能性は低くなる。

 

 それに、一か月も帰ってこない彼女と、もう少し一緒にいられる。

 

 ――でも。

 

「北へ行きます」

 

 答えると、フレイヴィアさんの尾が止まった。

 

「理由は?」

「拠点で、人が待っているかもしれません」

「南の街道にも人がおる」

「はい。だから、フレイヴィアさんが行くんです」

 

 僕は卓に広げられた二枚の地図へ目を落とした。

 

「フレイヴィアさんが南東へ行けば、街道を使う人たちが助かります。僕とガルドさんが北へ行けば、拠点の人たちを助けられるかもしれない」

「かもしれない、だ」

「だから、確かめに行きます」

 

 フレイヴィアさんは何も答えない。

 ただ、黄金の瞳だけが僕を見つめ続けていた。

 

「北には、主が恐れるものがおるかもしれぬぞ」

「はい」

「二年前と同じ大型であったなら?」

「……怖いと思います」

 

 古傷が、また僅かに引きつる。

 それでも、視線は逸らさなかった。

 

「でも、今度は一人ではありません」

「ガルドがおる」

「はい。それに、二年前の僕とも違います」

 

 胸元へ手を置く。

 鼓動は少し速い。

 

「逃げるべきなら逃げます。助けられる人がいるなら助けます。必要なら、戦います」

「主」

 

「僕は、北へ行きます」

 

 もう一度、はっきりと答えた。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 ガルドさんも、アルナさんも、セラフィーンさんも口を挟まない。

 

 やがて――。

 

「ふ。良い」

 

 フレイヴィアさんの口元が、ゆっくり持ち上がった。

 

「それでこそ、余の弟子だ」

 

 黄金の瞳に、僅かな誇らしさが浮かぶ。

 黒い尾も、先ほどまでとは違い、穏やかに床を撫でていた。

 

「止めないんですか?」

「止めてほしかったのか?」

「いえ」

「ならば、胸を張れ」

 

 フレイヴィアさんは僕の胸元を、拳の背で軽く叩く。

 

「余は余の。主は主の」

「はい」

「いいな」

「はい」

 

 強く頷く。

 

「必ず戻ります」

「当然だ」

 

 フレイヴィアさんの手が伸びてくる。

 フードのない頭をそのまま掴まれ、少し乱暴に引き寄せられた。

 

「戻らなければ、余が雪原をすべて焼く」

「焼け野原になってしまいます」

「知ったことか」

「生存者や拠点も巻き込まれますよ」

「ならば、その前に戻れ」

 

 掴む指へ、僅かに力が入る。

 痛くはない。

 

 けれど、彼女がどれほど心配しているのかは、それだけで伝わった。

 

「分かりました」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 いつもの返事をすると、ようやく手が離れる。

 

「その言葉を破ったこともありますよね」

 

 アルナさんが静かに付け加えた。

 僕は少し考え、否定できずに目を逸らす。

 

「今回は守ります」

「今回は、ではありません」

 

 アルナさんは椅子から立ち上がり、僕の前へ来る。

 猫耳を前へ向けたまま、少しだけ眉を下げた。

 

「これからも、です」

「……はい」

 

 頷くと、ようやく彼女の表情が僅かに緩んだ。

 

 ガルドさんが地図を畳み、私服の袖を下ろす。

 

「出発は半刻後だ。坊主は宿へ戻って装備を取ってこい。俺は騎獣と荷を用意する」

「はい」

「姫さんは?」

「余も装備を整え、南門へ向かう」

 

 フレイヴィアさんは大盤振る舞いの名残が残る卓を見渡す。

 

「料理は、どうしますか?」

 

 僕が尋ねると、彼女は迷うことなく答えた。

 

「持っていけ」

「全部ですか?」

「食えるだけだ」

 

 フレイヴィアさんが指を鳴らす。

 扉の外で待機していた店員が、すぐに顔を覗かせた。

 

「料理を包め。北へ向かう二人へ持たせる」

「承知しました!」

 

 店員は事情を聞いていたらしい。

 迷うことなく返事をし、廊下へ向かって声を張る。

 

「保存容器と布を! 携行できる料理を、できる限りまとめろ!」

 

 その声をきっかけに、店全体が動き始めた。

 

 焼いた肉は黒パンへ挟まれ、煮込みは蓋つきの容器へ移される。

 魚は骨を外され、塩と香草を足して包みへ。

 焼き菓子と乾燥果実は、小分けにして袋へ詰められていく。

 

「そんなに持てませんよ」

 

 僕が慌てて止めようとすると、年配の店主らしい男性が大きな籠を抱えて入ってきた。

 

「騎獣に載せりゃいい! 雪原じゃ食える時に食っとくもんだ!」

「でも、料金は――」

「ヴォルグラート様から、余るほどいただいてる!」

 

 店主は豪快に笑い、僕の背中を叩く。

 

「だったら、その分しっかり働いてきな!」

「……はい」

 

 個室を出ると、一階の大広間まで話が伝わっていた。

 酒を飲んでいた客たちがこちらを向き、店員と一緒に料理を包んでいる。

 

「北部雪原へ行くんだって?」

「これも持ってけ! 干し肉なら凍っても食える!」

「俺の注文したパンもやるよ!」

「お前、まだ一口も食ってないだろ!」

「だから綺麗なんだよ!」

 

 笑い声とともに、籠へ食料が増えていく。

 

 厨房からは料理人たちが顔を出し、保存の利く煮込みや香辛料を利かせた肉を次々と渡してきた。

 事情を聞いたほかの客も、自分たちの卓から手のついていない料理を持ち寄ってくれる。

 

「こんなに……」

「遠慮すんな!」

 

 大柄なハンターが、僕の肩へ手を置く。

 

「向こうで腹減らしてる奴がいるかもしれねぇんだろ?」

「はい」

「なら、そいつらにも食わせてやれ」

 

 隣の卓から、年配の女性が厚手の布を差し出す。

 

「容器へ巻いときな。少しくらいなら温かさが残るよ」

「ありがとうございます」

 

 受け取るたび、胸の奥へ温かなものが積み重なっていく。

 

 僕たちが助けに行く。

 けれど、向かうのは僕たちだけではない。

 

 料理を作った人。

 荷を包んだ人。

 自分の食事を分けてくれた人。

 

 皆の手が、一緒に雪原へ届く。

 

「そっちの竜姫様も、一か月なんだってな!」

 

 奥の席から声が飛ぶ。

 フレイヴィアさんが振り返ると、酔った小人族の男性が杯を掲げた。

 

「隣町の街道、頼んだぞ!」

「任せよ」

 

 フレイヴィアさんは堂々と胸を張る。

 

「岩殻竜ごとき、余の行く手を塞げると思うな」

 

 店内から歓声が上がった。

 

「北へ行く二人もだ!」

「拠点の連中を連れて帰ってこいよ!」

「無茶すんな! 逃げる時は逃げろ!」

「宴の続き、忘れんなよ!」

 

 いくつもの声が重なる。

 最後には、誰かが大きく叫んだ。

 

「頼んだぞ、ハンター!」

 

「頼んだぞ!」

「絶対に戻ってこい!」

「土産話を待ってるからな!」

 

 店いっぱいの声が、僕たちへ押し寄せた。

 

 ガルドさんが隣で鼻を鳴らす。

 けれど、大きな犬耳は嬉しそうに持ち上がっていた。

 

「坊主」

「はい」

「返事しとけ」

「僕がですか?」

「お前もハンターだろ」

 

 一歩だけ前へ出る。

 これほど多くの人から見られると、少し緊張する。

 

 それでも――フードのない顔を、俯かせたくはなかった。

 

「必ず、皆さんを連れて帰ります!」

 

 大広間へ声を届ける。

 

「そして、僕たちも戻ってきます!」

 

 再び歓声が上がった。

 杯が卓を叩き、誰かが口笛を鳴らす。

 

 フレイヴィアさんも僕の隣へ並び、片手を掲げた。

 

「一月後には戻る。次の宴も、余の驕りだ!」

「おおっ!」

「今より増やすぞ!」

「それはやめろ、姫さん!」

 

 ガルドさんの声に、店中から笑いが起こった。

 

 緊急依頼へ向かう前だというのに。

 次に戻れる保証だって、どこにもないのに。

 

 それでも、笑って送り出してくれる。

 

「宴は終わりではない」

 

 フレイヴィアさんが、静かに告げる。

 黄金の瞳が、僕たち一人ひとりを捉えた。

 

「これは中断だ」

「はい」

 

 セラフィーンさんが、白い翼を小さく広げる。

 

「皆様で無事に帰り、続きをいたしましょう」

「次は、最後までですね」

 

 アルナさんの猫耳も、まっすぐ前を向いた。

 

「約束です」

「約束します」

 

 僕が答えると、ガルドさんが大きな手を差し出した。

 その上へ、僕の手を重ねる。

 

 アルナさん。

 セラフィーンさん。

 そして最後に、フレイヴィアさんの手が重なった。

 

「全員、戻るぞ」

 

 ガルドさんの言葉に、皆が頷く。

 

「はい」

「ええ」

「当然だ」

「必ず」

 

 重なった手が離れる。

 

 ここからは、それぞれの役目だ。

 

 フレイヴィアさんは南東へ。

 僕とガルドさんは北へ。

 アルナさんはギルドで、セラフィーンさんは教会で、帰ってくる者たちを支える。

 

 ――そして、また同じ卓へ。

 

 ◆

 

 半刻後。

 

 北門前には、夜の冷たい風が吹いていた。

 

 僕は角兎亭で私服から装備へ着替え、フード付き外套の下へ胴当てを身につけている。

 腰には片刃剣。

 道具袋には薬と信号弾、保存食。

 

 さらに、酒楼の店員と客たちが用意してくれた食料が、騎獣の荷へ山のように積まれていた。

 

「これは、何人分だ?」

 

 ガルドさんが荷袋を持ち上げ、呆れた声を出す。

 

「店主さんは、二人と十人分だと言っていました」

「拠点に全員いる前提か」

「そうだと思います」

 

 助けたあと、皆で食べる。

 そのための料理だ。

 

 ガルドさんは何も言わず、荷袋を騎獣へ括りつけた。

 その手つきには迷いがなく、いつもの大盾も背中へ戻っている。

 

「腕は?」

「問題ねぇ。お前の脇腹は」

「少し引きつるだけです」

「無理に隠すなよ」

「隠していません」

 

 ガルドさんは僕の返事を聞き、フードの奥を覗き込む。

 何かを確かめるように、犬耳が僅かに前へ向いた。

 

「怖いか?」

「はい」

 

 今度は、すぐに答えられた。

 

 北門の向こうには、暗い街道が続いている。

 その先に、二年前の雪原がある。

 

「でも、足は動きます」

「なら、行ける」

 

 ガルドさんはそれ以上何も言わず、騎獣の鞍へ跨がった。

 

「ルキウスさん!」

 

 背後から呼ばれる。

 

 振り返ると、門の灯りの下にアルナさんが立っていた。

 宴で着ていた若草色の私服へ外套だけを羽織り、胸元には正式な依頼書を収めた筒を抱えている。

 

「アルナさん。ギルドへ戻ったのでは?」

「戻りました。こちらを届けに来たんです」

 

 差し出された筒を受け取る。

 封はギルドのもの。

 中には北部拠点の地図と、救助対象者の名前が収められているはずだ。

 

「ありがとうございます」

「それから……」

 

 アルナさんは胸元へ両手を重ねた。

 猫耳を僅かに伏せ、何かを選ぶように口を閉じる。

 

「絶対に怪我をしないで、とは言いません」

「え?」

 

「何が起きるか分からない依頼です。絶対に怪我をしないでください、依頼を成功させてください――そんなことを全部、約束させることはできません」

 

 門を抜ける風が、栗色の髪を揺らす。

 

「ですから、帰ってきてください」

「はい」

「怪我をしても。依頼に失敗しても。逃げることになっても」

 

 伏せられていた猫耳が、ゆっくりこちらへ向いた。

 

「それでも、帰ってきてください」

「分かりました」

 

 依頼を成功させる。

 生存者を助ける。

 必要なら、大型を退ける。

 

 それよりも先に――帰る。

 

「宴の続きがありますから」

「……はい」

 

 アルナさんが小さく笑った。

 

「私の昼休みも、また借りていただかないと困ります」

「次は、アルナさんの支払いでしたね」

「覚えていたんですか?」

「約束ですから」

 

 猫耳が、ほんの少し持ち上がった。

 

「では、行ってらっしゃいませ」

「行ってきます」

 

 騎獣へ跨がる。

 手綱を握り、ガルドさんの隣へ並んだ。

 

 北門が開いていく。

 

 夜の街道。

 冷たい風。

 その向こうには、まだ見えない雪原が待っている。

 

「坊主」

「はい」

「まずは拠点だ」

「分かっています」

「大型を見つけても?」

「拠点と生存者を優先します」

 

 ガルドさんが短く頷く。

 

「よし。行くぞ」

「はい」

 

 騎獣が地面を蹴った。

 

 蹄の音が、夜の街道へ響く。

 背後のエルドランが少しずつ遠ざかり、門の灯りも小さくなっていった。

 

 怖さは消えない。

 古傷も、まだ僅かに引きつっている。

 

 それでも――戻る場所がある。

 

 食べかけの料理。

 交わした言葉。

 途中で終わった、初めての宴。

 

「帰ったら、続きをしましょう」

 

 風へ消えそうな声で呟く。

 

「何か言ったか?」

「いえ」

 

 僕は前を向き、手綱を握り直した。

 

 次は、全員で最後まで。

 

 その約束を胸に、僕たちは北へ向かった。

 

 

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