駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

35 / 35
第二章 第九話『少年は北へ戻る』

 

 ◆

 

 北門を抜けてから、しばらくは誰も口を開かなかった。

 

 聞こえるのは、夜の街道を叩く騎獣の蹄と、鞍の脇で荷袋が揺れる音だけ。

 夜風は冷たく、外套の隙間から入り込むたび、酒楼に残してきた熱を少しずつ奪っていった。

 

 振り返れば、エルドランの灯りがまだ見える。

 城壁の上に並ぶ篝火。

 夜空へ伸びる教会の尖塔。

 そのすべてが、進むほど小さくなっていく。

 

「……まだ、見えますね」

 

 呟くと、少し前を走っていたガルドさんの犬耳がこちらへ向いた。

 

「何がだ?」

「街の灯りです」

 

 ガルドさんは一度だけ肩越しに振り返り、すぐ進行方向へ顔を戻す。

 

「出てから、大して経ってねぇからな」

「そうなんですけどね」

 

 もっともな答えだった。

 

 それでも、見えなくなるまでは何度も振り返ってしまう。

 角兎亭も、ギルドも、先ほどまで宴をしていた酒楼も、この距離からでは見分けられない。

 

 けれど――あそこにある。

 

 帰る場所は、まだ背中側に残っていた。

 

「坊主」

「はい?」

「前を見ろ。落ちるぞ」

 

 ガルドさんが片手で、自分の目の前を指す。

 

「見ています」

「後ろをな」

 

 言われた直後、騎獣が街道の窪みを踏んだ。

 身体が大きく揺れ、僕は慌てて鞍の前部へ掴まる。

 

「危なっ……」

「だから言っただろ」

「少し振り返っただけです」

「三回目だ」

 

 数えられていたらしい。

 僕は今度こそ正面を向き、手綱を握り直した。

 

 夜の街道は暗い。

 雲の切れ間から月明かりは差しているものの、道の端までは届いていなかった。

 

 木々の間。

 草の陰。

 荷車が退避するために削られた窪地。

 

 何かが潜んでいないか、一つずつ視線を通していく。

 

「……何もいませんね」

 

 ガルドさんの犬耳が、呆れたように横へ倒れた。

 

「残念そうに言うな」

「警戒しているだけです」

「だったら、もう少し安心した声を出せ」

 

 何も起きないことが、一番いい。

 分かっている。

 

 ただ、緊急依頼を受けて装備を整えた身体が、まだ張り詰めたままだった。

 

 ――早く動けと、急かされているような。

 

「坊主」

 

 再び呼ばれ、ガルドさんへ顔を向ける。

 

「片刃剣の柄から手を離せ」

「……触っていました?」

 

 気づけば、右手が腰の柄へ添えられていた。

 僕は指を開き、手綱へ戻す。

 

「ずっとな」

「癖ですね」

「その癖が出てる時のお前は、余計な方へ行きたがる」

「今日は行きませんよ」

 

 ガルドさんは疑うように目を細めた。

 

「本当か?」

「拠点へ向かうのが最優先です」

「ならいい」

 

 短く答え、ガルドさんは騎獣の速度を僅かに上げる。

 僕も置いていかれないよう、手綱を操った。

 

 街道は北へ進むほど、緩やかな上り坂へ変わっていく。

 周囲の畑が途切れ、代わりに背の低い木々と岩肌が増えてきた。

 

 空気も少しずつ乾いている。

 港から届いていた潮の匂いは消え、代わりに土と冷えた草の匂いが鼻へ残った。

 

「最初の宿場までは、あとどのくらいですか?」

「この速度なら、一刻半ってところだな」

 

 ガルドさんが雲の切れ間へ目を向ける。

 月の位置を確かめているらしい。

 

「そこで騎獣を替えて、少し食う。長く休む暇はねぇが、脚は休ませるぞ」

「僕たちのですか?」

「騎獣のだ」

 

 こちらを見ないまま、ガルドさんが鼻を鳴らす。

 

「お前は飯を食え。俺は地図を確認する」

「ガルドさんは休まないんですか?」

「道中で眠くなったら、お前に前を任せる」

「それなら今、休んだ方がいいのでは?」

 

 ガルドさんが肩越しにこちらを見る。

 

「お前に全部任せて眠れるほど、俺は肝が太くねぇ」

「二年間、何度も一緒に依頼へ行ったのに」

「その二年間で、夜道に獣の足跡を見つけて三回逸れた奴が何を言う」

「三回だけです」

 

 即座に返すと、犬耳が大きく横へ倒れた。

 

「あるのかよ」

「全部、依頼には間に合いました」

「そういう問題じゃねぇ」

「一度は希少種でした」

「だから問題なんだよ」

 

 追った価値はあったと思う。

 あの時に見つけた毛皮は、ギルドでも珍しいと評価された。

 

 ……依頼人のところへ着くのが、少し遅れたけれど。

 

「今日は逸れません」

「本当だな?」

 

 ガルドさんの声から、冗談めいた響きが消える。

 

「はい。拠点へ向かうのが最優先です」

「なら、任せる」

 

 その一言が、胸の奥へ静かに落ちた。

 

「はい」

 

 短く答え、正面へ目を向ける。

 

 同時に――右脇腹が僅かに引きつった。

 

 風の冷たさのせいだ。

 たぶん、それだけではない。

 

 僕たちは北へ近づいている。

 

 二年前、僕が何もできずに逃げた雪原へ。

 

 ◆

 

 最初の宿場へ着いた時には、夜も深くなっていた。

 

 街道沿いに建つ小さな宿場。

 石壁の内側には厩舎と食堂、それから旅人用の寝床が並んでいる。

 

 篝火の近くでは、夜番らしい獣人族の男性が槍を抱えて立っていた。

 

「エルドランのハンターか?」

 

 門を開けながら、男が僕たちの装備を確かめる。

 ガルドさんは騎獣を降り、胸元から依頼証を取り出した。

 

「北部雪原の中継拠点へ向かう」

「……あそこか」

 

 依頼証を見た途端、男性の顔が曇る。

 

「何か知っているんですか?」

 

 僕も鞍から下り、固くなった脚を伸ばした。

 男性は依頼証をガルドさんへ返し、北へ続く街道へ目を向ける。

 

「昨日、向こうから来るはずの荷車が来なかった。今朝もだ」

「定期便か?」

 

 ガルドさんが依頼証をしまいながら尋ねる。

 

「ああ。二日に一度、毛皮と鉱石を運んでくる」

「天候が荒れた様子は?」

「ねぇな。雪崩の知らせも届いてない」

 

 男性は槍の石突きを地面へ置き、両腕を組んだ。

 

「それで二便も戻らないってのは、気味が悪い」

「ほかに、変わったことはありませんか?」

「獣が下りてきてる」

 

 その一言に、ガルドさんの犬耳が前を向いた。

 

「種類は?」

「小型ばかりだ。白角兎に雪鼠、あとは山鳥。昨日の夕方には氷爪狐まで森を抜けてきた」

 

 男性は北の暗闇へ顎を向ける。

 

「どいつも、後ろから追われてるみたいに必死だったな」

「大型の姿は?」

「いや。ここまで来た痕跡も見てねぇ」

 

 大型がいると決まったわけではない。

 けれど、雪原に棲む獣が一斉に南へ逃げているなら――何かは起きている。

 

「坊主」

 

 外套の背を軽く引かれた。

 

「まず食え」

「もう少し話を聞いてからでも」

「俺が聞いておく。お前は騎獣と荷を見ろ」

 

 ガルドさんの犬耳はこちらを向いていない。

 けれど、有無を言わせない声だった。

 

「……分かりました」

 

 騎獣を厩舎の係員へ預け、荷袋を下ろす。

 酒楼から持たされた料理は、厚手の布と保温用の容器で包まれていた。

 

 蓋を開けると、まだ僅かに温かい。

 

 大角鹿の肉と香草を挟んだ黒パン。

 角兎肉の腸詰め。

 乾燥果実と、蜂蜜を使った焼き菓子。

 

「本当に多いな……」

 

 一つの包みを開いただけでも、二人では食べきれそうになかった。

 

「拠点の連中に食わせる分を残せよ」

 

 宿場の男性と話しながら、ガルドさんが釘を刺す。

 

「分かっています」

 

 黒パンを半分に分け、片方をガルドさんへ渡す。

 彼は礼の代わりに軽く手を上げ、そのまま大きく齧った。

 

 僕も口へ運ぼうとして――食堂の隅へ目が止まった。

 

 暖炉の近くに、旅人らしい親子が座っている。

 幼い小人族の子供が、僕の手にした包みをじっと見つめていた。

 

「…………」

 

「坊主」

 

 背を向けたまま、ガルドさんが声をかける。

 

「全部やるなよ」

「まだ何も言っていません」

「顔を見りゃ分かる」

 

 親子の卓には、薄いスープと硬そうなパンしか置かれていない。

 

「少しくらいなら」

「拠点の連中に食わせる分だ」

「全部ではありません」

「お前の分は?」

「あとで食べます」

 

 ガルドさんが、ゆっくりこちらへ振り返った。

 

「駄目だ」

「ですが――」

「半分食え」

 

 自分の黒パンを持ったまま、ガルドさんは荷袋へ近づく。

 腸詰めと焼き菓子をいくつか取り出し、小さな皿へ移した。

 

「残りは俺が渡してくる」

「ガルドさんも同じことをしているじゃないですか」

「俺は自分の飯を食ってから分けてる」

 

 彼は口元に残ったパン屑を親指で払う。

 

「お前は最初から全部渡そうとしただろ」

「あとで食べればいいかと」

「その『あとで』をやめろって言ってんだ」

 

 以前、アルナさんへ言ったことを思い出す。

 食事を後回しにしてはいけない。

 

 人に言うのと、自分で守るのは――少し違うらしい。

 

「……気をつけます」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 僕が黒パンを口へ運ぶと、ガルドさんはようやく親子の方へ歩いていった。

 

 何かを話し、料理の皿を卓へ置く。

 母親は驚いた顔で何度も頭を下げ、子供は焼き菓子を胸元へ抱えて笑っていた。

 

「ガルドさんも、放っておけないんじゃないですか」

 

 戻ってきた彼へ言う。

 すると、大きな犬耳が僅かに後ろへ倒れた。

 

「俺は選んでる」

「困っている人でした」

「食料には余裕がある。時間もかからねぇ。だから分けた」

 

 ガルドさんは僕の手元を見下ろす。

 

「お前は?」

「……自分の分を食べてから、考えます」

「よし」

 

 満足そうに頷かれた。

 少しだけ、子供扱いされている気がする。

 

 ◆

 

 休憩は四半刻ほどで切り上げた。

 

 新しい騎獣へ荷を移し、保温用の布を掛け直す。

 宿場の男性から北の状況を聞いたガルドさんは、地図へいくつか印を書き足していた。

 

「何か分かりましたか?」

「獣が下りてきたのは、三日前かららしい」

「拠点との連絡が途絶える前ですね」

 

 僕が地図を覗き込むと、ガルドさんの指が街道東側の森を叩いた。

 

「それと、北へ向かった猟師が一人戻ってねぇ」

「捜索は?」

「明るくなってから、宿場の連中が出る予定だ」

 

 猟師が入った森は、僕たちの進路から東へ外れている。

 

「行きませんよ」

 

 考えを読んだように、ガルドさんが先に言った。

 

「まだ何も言っていません」

「拠点が先だ」

「分かっています」

 

 僕は森の印から視線を外し、拠点までの道筋へ戻す。

 

「猟師の情報は、戻る時に確認する」

「……はい」

「置いていくわけじゃねぇ。順番を決めてるだけだ」

「分かっています」

 

 今度は迷わず答えた。

 

 すぐに追えないことと、見捨てることは違う。

 ガルドさんが教えようとしていたのは、きっとそういうことなのだろう。

 

「出るぞ」

「はい」

 

 騎獣へ跨がる。

 

 宿場の門が開くと、北から冷たい風が流れ込んできた。

 先ほどまでの街道とは、温度がまるで違う。

 

 ――雪が近い。

 

 肌で分かるほど、空気が変わっていた。

 

 ◆

 

 夜が明ける頃、街道の脇に白いものが見え始めた。

 

 最初は、岩陰へ残った小さな塊。

 次に、草の上へ薄く積もった霜。

 

 やがて土の色が消え、街道の両側を雪が覆っていく。

 

「……戻ってきた」

 

 自分でも気づかないうちに、声が漏れていた。

 

 白い大地。

 遠くに並ぶ黒い針葉樹。

 曇った空から落ちる、細かな雪。

 

 二年前と同じ――そう見えてしまう。

 

 もちろん、まったく同じ場所ではない。

 季節も時間も、あの日とは違っている。

 

 それでも、身体は覚えていた。

 

 右脇腹の古傷が硬くなる。

 呼吸が浅くなり、手袋の中へ汗が滲んだ。

 

「止まるか?」

 

 ガルドさんが騎獣の速度を落とす。

 僕の横へ並び、フードの奥を覗き込んできた。

 

「大丈夫です」

「聞いてんのは、止まるかどうかだ」

 

 すぐに返そうとして――一度、息を飲む。

 

「……少しだけ」

 

 僕たちは街道脇の岩陰へ騎獣を寄せた。

 

 鞍から下りる。

 雪へ足を置くと、思っていたよりも大きな音が鳴った。

 

 足首まで沈み、靴越しに冷気が伝わってくる。

 

「息を整えろ」

 

 ガルドさんは騎獣の手綱を岩へ結び、僕の隣へ立った。

 

「吸って、吐け」

「子供ではありませんよ」

 

 外套の前を押さえながら、ゆっくり息を吸う。

 

「なら、自分でやれ」

「やっています」

 

 冷たい空気が喉を刺した。

 右脇腹が引きつり、あの日の痛みを思い出す。

 

 息を吐く。

 白い靄が目の前へ広がり、すぐに風へ攫われた。

 

「怖いです」

 

 昨夜と同じ言葉。

 けれど、雪を前にして口にすると、重さが違った。

 

「ああ」

 

 ガルドさんは雪原を見たまま答える。

 

「身体が、先に思い出しています」

「そりゃそうだ。死にかけた場所だからな」

「死んではいません」

「だから、死にかけたと言ってんだ」

 

 大きな手が、僕の右肩へ置かれる。

 押すでも、引くでもない。

 

 ただ、そこにあった。

 

「帰ってもいいぞ」

「……帰りません」

「無理に格好をつける必要はねぇ」

 

 ガルドさんの指が、肩の上で僅かに動く。

 

「格好をつけているわけではありません」

 

 雪原を見つめる。

 

 怖い。

 今すぐ背を向ければ、少し楽になるかもしれない。

 

 けれど、拠点には十人いる。

 全員が無事かは分からない。

 傷つき、助けを待っている可能性もある。

 

「行きたいんです」

 

 口にしてから、小さく息を吐く。

 

「拠点の人たちを、確かめたい」

「ああ」

「それに……」

 

 雪の中で、指先を握る。

 

 二年前。

 何も見えなかった。

 考える余裕もなく、ただ逃げた。

 

 今は、あの時より少しだけ前を見られる。

 

「僕が、どこまで変わったのかも知りたいです」

 

 ガルドさんは、すぐには答えなかった。

 大きな犬耳だけが、風の音を拾うように前へ傾いている。

 

「救助が先です」

「ああ」

「大型を探すつもりもありません」

「分かってる」

 

 ガルドさんは僕の肩から手を離し、背中の大盾を一度叩いた。

 

「でも、遭遇したら――今度は一人で決めるな」

「はい」

「戦うか、逃げるか。二人で決める」

「分かりました」

 

 僕は彼の横顔を見る。

 

「怖くなった時も、言えばいいですか?」

「言え」

「そうしたら?」

「一緒に逃げる」

 

 迷いのない答えだった。

 

「戦うのでは?」

「戦うべきなら戦う。逃げるべきなら逃げる」

 

 ガルドさんはこちらへ向き直り、僕の胸元を太い指で軽く叩いた。

 

「それを二人で決めるんだよ、相棒」

「……はい」

 

 胸の奥へ残っていた硬さが、少しだけ解ける。

 

「行きましょう」

「ああ」

 

 騎獣へ戻ろうとしたところで――雪の中に、不自然な窪みが見えた。

 

「待ってください」

 

 街道から数歩外れた場所。

 薄く積もった新雪の下へ、大きな足跡が残っている。

 

 僕は雪へ膝をつき、手袋で表面を払った。

 

「大型か?」

 

 ガルドさんが隣へしゃがむ。

 現れた足跡は、僕の胸ほどの幅があった。

 

 丸みのある前脚。

 指は四本。

 爪痕が深く、雪の下の凍った地面まで抉っている。

 

「二年前の個体と、似ています」

「同じ種類か?」

「おそらく」

 

 心臓が強く鳴った。

 

 古傷が引きつる。

 喉の奥も乾いていく。

 

 怖さは、確かにある。

 

 なのに――指先は、不思議なほど落ち着いていた。

 

 足跡の深さ。

 向き。

 雪の崩れ方。

 

 二年前には見る余裕すらなかったものが、今は一つずつ目へ入ってくる。

 

「いつ頃の跡だ?」

「新しくはありません。上に雪が積もっています」

 

 足跡の縁へ指を沿わせる。

 

「少なくとも昨夜以前です。ただ、何日も前というほどではありません」

「向きは?」

「北東です」

 

 視線を移す。

 

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 

 足跡は街道を横切り、針葉樹の林へ続いていた。

 

 そして――。

 

「……濡れている?」

 

 足跡の底だけ、雪が黒く沈んでいる。

 

 僕は手を伸ばしかけ、途中で止めた。

 昨日の異常個体を思い出したからだ。

 

「触るなよ」

 

 隣から、ガルドさんの低い声が飛ぶ。

 

「分かっています」

 

 道具袋から小さな金属匙と布を取り出す。

 足跡の底に溜まった水を掬い、布へ僅かに吸わせた。

 

「凍っていません」

「この寒さでか?」

 

 ガルドさんが身を寄せる。

 僕は布を鼻へ近づけた。

 

 冷たい石。

 湿った獣。

 

 その奥に――。

 

「潮の匂いがします」

 

 風の音が、急に大きく聞こえた。

 

「ここでもか」

 

 ガルドさんも鼻を動かす。

 直後、大きな犬耳が硬く立った。

 

「間違いねぇな」

「灰牙犬と同じです」

「あいつだけじゃなかったらしい」

 

 海から遠く離れた北部雪原。

 凍った大地に残る大型の足跡から、潮の匂いが漂っている。

 

「ギルドへ知らせますか?」

「拠点へ着いてからだ。信号弾は緊急用に残す」

「はい」

 

 水を吸わせた布を小さな硝子瓶へ収める。

 

 蓋を閉めたところで、息が少し速くなっていることへ気づいた。

 

 恐怖。

 警戒。

 

 そして、その奥で――身体だけが僅かに熱を帯びている。

 

 二年前とは違う。

 

 足跡を見つけても、周囲が見える。

 手も動く。

 ガルドさんの声も聞こえている。

 

「坊主」

 

 呼ばれ、顔を上げる。

 

「足跡は追わねぇぞ」

「分かっています」

 

 僕は林の奥から視線を外した。

 

「拠点が先です」

「ああ」

 

 少しだけ残った高ぶりを、白い息と一緒に吐き出す。

 

 今は追わない。

 この先に何がいるとしても――まずは、拠点だ。

 

 ◆

 

 昼前には、雪がさらに強くなった。

 

 空と地面の境目が白く霞み、少し離れるだけで互いの姿も見えづらくなる。

 僕たちは騎獣の速度を落とし、街道沿いに立てられた標柱を頼りに進んだ。

 

「次の標柱、見えますか?」

「右前だ」

 

 ガルドさんが雪の向こうを指す。

 黒い棒のような影が、風の合間に僅かに見えた。

 

「道は合っています」

「拠点まで、あと半刻ってところだ」

 

 距離が縮まるほど、周囲から生き物の気配が消えていった。

 

 鳥の声がない。

 雪鼠の足跡もない。

 林の中から、枝が揺れる音すら聞こえない。

 

「静かですね」

「静かすぎる」

 

 ガルドさんの犬耳が、何度も向きを変える。

 

「風の音しか聞こえねぇ」

「獣たちは南へ逃げたんでしょうか」

「かもな」

 

 その時、騎獣が急に足を止めた。

 

「どうした?」

 

 ガルドさんが手綱を引く。

 僕の騎獣も鼻を鳴らし、前へ進もうとしない。

 

 二頭とも耳を伏せ、白い息を荒く吐いている。

 街道の先を、ひどく警戒していた。

 

「何かあります」

 

 鞍から下りる。

 片刃剣の柄へ手を添えながら、吹雪の向こうへ目を凝らした。

 

 街道の脇。

 黒いものが、雪の中へ倒れている。

 

「行くぞ」

 

 ガルドさんが大盾を構え、先へ進む。

 僕も片刃剣を抜き、斜め後ろへついた。

 

 近づくにつれ、その形が分かってくる。

 

「ケルン……」

 

 倒れていたのは、荷運び用の騎獣だった。

 

 身体は半分ほど雪へ埋まり、鞍と荷袋がついたままになっている。

 首元には深い傷。

 

 けれど、周囲へ広がっているはずの血は、ほとんど雪に残っていなかった。

 

「凍ったのか?」

 

 ガルドさんが周囲へ視線を走らせる。

 僕はケルンの横へ膝をつき、傷口を確認した。

 

「違います」

 

 毛が濡れている。

 灰牙犬と同じように、全身から透明な水が滴っていた。

 

「また水か」

「はい」

 

 血は赤い。

 けれど、その上を覆うように冷たい水が溢れ、雪へ染み込んでいる。

 

 匂いを確かめるまでもない。

 潮の気配が、周囲へ濃く漂っていた。

 

「荷を確認するぞ」

 

 ガルドさんが鞍へ手を伸ばす。

 荷袋の中には、毛布と乾燥食料。それから、ギルドの印が押された書類筒が入っていた。

 

「拠点のものです」

 

 筒の印を確かめる。

 中には、エルドランへ送る予定だった定期報告書が収められていた。

 

「逃げる途中だったのか?」

「それとも、届けに出たところで襲われたか……」

 

 僕はケルンの周囲へ視線を移す。

 雪の中には、人の足跡も残っていた。

 

「一人分です」

「向きは?」

「拠点から南へ」

 

 足跡は街道を外れ、森の方へ逸れている。

 けれど、新しい雪に覆われ、途中で消えていた。

 

 追えば、誰かを見つけられるかもしれない。

 

「坊主」

 

 ガルドさんの声に、足跡から視線を外す。

 

「拠点まで半刻だ」

「……はい」

「生きてるなら、森へ逃げた一人より、拠点に残った連中の方が多い」

「分かっています」

 

 それでも、気にはなる。

 

 僕は道具袋から黄色い布を取り出し、近くの標柱へ結びつけた。

 

「印だけ残します」

「ああ」

 

 地図にも位置を書き込む。

 帰りか、増援が来た時に探せるように。

 

「これでいいです」

「忘れたわけじゃねぇ」

「はい」

 

 すぐに追えないことと、見捨てることは違う。

 

 自分へ言い聞かせ、騎獣へ戻った。

 

 吹雪の向こうに、やがて黒い輪郭が見えてくる。

 

 木製の柵。

 見張り台。

 石と丸太で作られた建物。

 

「北部拠点です」

 

 ようやく着いた。

 

 そう思ったのに――。

 

「門が開いてるぞ」

 

 ガルドさんの声が低くなる。

 

 拠点を囲む木柵の一部が、外側へ大きく倒れていた。

 門扉は片方が外れ、雪の上へ横たわっている。

 

 見張り台に人の姿はない。

 煙突から上がるはずの煙も見えなかった。

 

 風に乗って、何かが軋む音だけが届く。

 

「……遅かった?」

 

 口から漏れた声が、雪へ吸い込まれる。

 

「まだ決めるな」

 

 ガルドさんが大盾を背中から下ろす。

 僕も騎獣から降り、片刃剣を抜いた。

 

 刃が鞘を滑る音。

 それだけが、静まり返った雪原へ鋭く響いた。

 

「まずは周囲を確認する」

「はい」

 

 ガルドさんは壊れた門へ身体を向けたまま、こちらへ片手を上げる。

 

「生存者を探す。大型がいても追うな」

「分かっています」

「俺の見えないところへ行くなよ」

「ガルドさんもです」

 

 彼の犬耳が、僅かに持ち上がった。

 

「言うようになったな」

「相棒ですから」

「……そうだったな」

 

 二人で壊れた門の向こうへ目を向ける。

 

 建物の扉は開いたまま。

 雪の上には、いくつもの足跡と、何かを引きずったような跡が残っている。

 

 そして――そのすべてが、黒く濡れていた。

 

 潮の匂いがする。

 

 海など、どこにもないはずなのに。

 

「行くぞ、坊主」

「はい」

 

 僕たちは並んで、壊れた拠点へ足を踏み入れた。

 

 





 ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

 感想や評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。
 少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひよろしくお願いいたします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

ED傭兵、清純幼淫魔を誑かす 〜行き倒れ淫魔を哀れに思い、ED治療も兼ねて拾ったが――勃たんし、それを硬派で誠実と勘違いされるし〜(作者:ぞうきん)(オリジナルファンタジー/恋愛)

 過去の出来事から不能になったオッサン傭兵クレバーは、ある日淫魔の少女を拾う。あわよくばED治せないかななんて軽い気持ちで考えていたが、彼は淫魔という生物のことを全く分かっていなかった。淫魔は幼かろうがなんだろうが、好いた男のためならば――――人外の執着心を以って、あらゆる手段でその精を搾り尽くさんとするのだ。


総合評価:725/評価:7.57/連載:7話/更新日時:2026年08月02日(日) 01:59 小説情報

魔法少女世界で俺のエンカテーブルがクール系に偏り過ぎてるんだが(作者:TSから逃げるなぁぁ!!卑怯者おぉ!!)(オリジナル現代/冒険・バトル)

「大変だお前ら!魔物が現れ」「私には関係無い。」「騒ぎ立てる程の事ではないわ」「私が出る必要が無い…」「…………」「貴様に言われずとも分かっている!」「たぞああぁあああぁああッんああああぁあぁああ」


総合評価:1288/評価:7.86/連載:10話/更新日時:2026年07月27日(月) 19:00 小説情報

救えなかったら時が戻る人、やり遂げたら何故か周りが病み始める。(作者:ゲーミング千手観音)(オリジナル現代/日常)

▼ 普通に日常を過ごしていただけなのに、何故か突然「その日毎に救助対象が変わって、しかも助けられずに死なせてしまうと一日の最初に戻る」という状態に陥ってしまう主人公。▼ 絶望して、心を壊しながらも一年間やり遂げた主人公はその呪いから開放される。▼ ────そしたらなんか今まで助けた人全員病んだ。なんで?▼ そう言ったお話。▼ 尚、助けられた人達は呪いが無くな…


総合評価:948/評価:8.15/連載:8話/更新日時:2026年07月25日(土) 20:00 小説情報

義務レットは自由に生きてみる(作者:POTROT)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

義務と責務に追われて死んで、転生しても義務と責務に追われる日々。▼そんなある日、全てが嫌になったギムレットは義務を捨て、レットになった。


総合評価:2895/評価:8.57/連載:9話/更新日時:2026年07月26日(日) 15:56 小説情報

セックスが淘汰された世界で、唯一の『クソオス魔装鍛冶師』(作者:北川ニキタ)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

「この世界の女は、おっぱいに対する羞恥心がなさすぎる!」▼魔素のおかげで単為生殖が可能なので、セックスとか恋愛とかが概念ごと淘汰された世界▼だけど、前世で童貞のまま死んだ男――ディートは諦めきれず、今度こそ脱童貞を目指して魔装鍛冶師になるのだった。


総合評価:3129/評価:8.3/連載:13話/更新日時:2026年03月26日(木) 19:09 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>