駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第二章 第九話『少年は北へ戻る』

 

 ◆

 

 北門を抜けてから、しばらくは誰も口を開かなかった。

 

 聞こえるのは、夜の街道を叩く騎獣の蹄と、鞍の脇で荷袋が揺れる音だけ。

 夜風は冷たく、外套の隙間から入り込むたび、酒楼に残してきた熱を少しずつ奪っていった。

 

 振り返れば、エルドランの灯りがまだ見える。

 城壁の上に並ぶ篝火。

 夜空へ伸びる教会の尖塔。

 そのすべてが、進むほど小さくなっていく。

 

「……まだ、見えますね」

 

 呟くと、少し前を走っていたガルドさんの犬耳がこちらへ向いた。

 

「何がだ?」

「街の灯りです」

 

 ガルドさんは一度だけ肩越しに振り返り、すぐ進行方向へ顔を戻す。

 

「出てから、大して経ってねぇからな」

「そうなんですけどね」

 

 もっともな答えだった。

 

 それでも、見えなくなるまでは何度も振り返ってしまう。

 角兎亭も、ギルドも、先ほどまで宴をしていた酒楼も、この距離からでは見分けられない。

 

 けれど――あそこにある。

 

 帰る場所は、まだ背中側に残っていた。

 

「坊主」

「はい?」

「前を見ろ。落ちるぞ」

 

 ガルドさんが片手で、自分の目の前を指す。

 

「見ています」

「後ろをな」

 

 言われた直後、騎獣が街道の窪みを踏んだ。

 身体が大きく揺れ、僕は慌てて鞍の前部へ掴まる。

 

「危なっ……」

「だから言っただろ」

「少し振り返っただけです」

「三回目だ」

 

 数えられていたらしい。

 僕は今度こそ正面を向き、手綱を握り直した。

 

 夜の街道は暗い。

 雲の切れ間から月明かりは差しているものの、道の端までは届いていなかった。

 

 木々の間。

 草の陰。

 荷車が退避するために削られた窪地。

 

 何かが潜んでいないか、一つずつ視線を通していく。

 

「……何もいませんね」

 

 ガルドさんの犬耳が、呆れたように横へ倒れた。

 

「残念そうに言うな」

「警戒しているだけです」

「だったら、もう少し安心した声を出せ」

 

 何も起きないことが、一番いい。

 分かっている。

 

 ただ、緊急依頼を受けて装備を整えた身体が、まだ張り詰めたままだった。

 

 ――早く動けと、急かされているような。

 

「坊主」

 

 再び呼ばれ、ガルドさんへ顔を向ける。

 

「片刃剣の柄から手を離せ」

「……触っていました?」

 

 気づけば、右手が腰の柄へ添えられていた。

 僕は指を開き、手綱へ戻す。

 

「ずっとな」

「癖ですね」

「その癖が出てる時のお前は、余計な方へ行きたがる」

「今日は行きませんよ」

 

 ガルドさんは疑うように目を細めた。

 

「本当か?」

「拠点へ向かうのが最優先です」

「ならいい」

 

 短く答え、ガルドさんは騎獣の速度を僅かに上げる。

 僕も置いていかれないよう、手綱を操った。

 

 街道は北へ進むほど、緩やかな上り坂へ変わっていく。

 周囲の畑が途切れ、代わりに背の低い木々と岩肌が増えてきた。

 

 空気も少しずつ乾いている。

 港から届いていた潮の匂いは消え、代わりに土と冷えた草の匂いが鼻へ残った。

 

「最初の宿場までは、あとどのくらいですか?」

「この速度なら、一刻半ってところだな」

 

 ガルドさんが雲の切れ間へ目を向ける。

 月の位置を確かめているらしい。

 

「そこで騎獣を替えて、少し食う。長く休む暇はねぇが、脚は休ませるぞ」

「僕たちのですか?」

「騎獣のだ」

 

 こちらを見ないまま、ガルドさんが鼻を鳴らす。

 

「お前は飯を食え。俺は地図を確認する」

「ガルドさんは休まないんですか?」

「道中で眠くなったら、お前に前を任せる」

「それなら今、休んだ方がいいのでは?」

 

 ガルドさんが肩越しにこちらを見る。

 

「お前に全部任せて眠れるほど、俺は肝が太くねぇ」

「二年間、何度も一緒に依頼へ行ったのに」

「その二年間で、夜道に獣の足跡を見つけて三回逸れた奴が何を言う」

「三回だけです」

 

 即座に返すと、犬耳が大きく横へ倒れた。

 

「あるのかよ」

「全部、依頼には間に合いました」

「そういう問題じゃねぇ」

「一度は希少種でした」

「だから問題なんだよ」

 

 追った価値はあったと思う。

 あの時に見つけた毛皮は、ギルドでも珍しいと評価された。

 

 ……依頼人のところへ着くのが、少し遅れたけれど。

 

「今日は逸れません」

「本当だな?」

 

 ガルドさんの声から、冗談めいた響きが消える。

 

「はい。拠点へ向かうのが最優先です」

「なら、任せる」

 

 その一言が、胸の奥へ静かに落ちた。

 

「はい」

 

 短く答え、正面へ目を向ける。

 

 同時に――右脇腹が僅かに引きつった。

 

 風の冷たさのせいだ。

 たぶん、それだけではない。

 

 僕たちは北へ近づいている。

 

 二年前、僕が何もできずに逃げた雪原へ。

 

 ◆

 

 最初の宿場へ着いた時には、夜も深くなっていた。

 

 街道沿いに建つ小さな宿場。

 石壁の内側には厩舎と食堂、それから旅人用の寝床が並んでいる。

 

 篝火の近くでは、夜番らしい獣人族の男性が槍を抱えて立っていた。

 

「エルドランのハンターか?」

 

 門を開けながら、男が僕たちの装備を確かめる。

 ガルドさんは騎獣を降り、胸元から依頼証を取り出した。

 

「北部雪原の中継拠点へ向かう」

「……あそこか」

 

 依頼証を見た途端、男性の顔が曇る。

 

「何か知っているんですか?」

 

 僕も鞍から下り、固くなった脚を伸ばした。

 男性は依頼証をガルドさんへ返し、北へ続く街道へ目を向ける。

 

「昨日、向こうから来るはずの荷車が来なかった。今朝もだ」

「定期便か?」

 

 ガルドさんが依頼証をしまいながら尋ねる。

 

「ああ。二日に一度、毛皮と鉱石を運んでくる」

「天候が荒れた様子は?」

「ねぇな。雪崩の知らせも届いてない」

 

 男性は槍の石突きを地面へ置き、両腕を組んだ。

 

「それで二便も戻らないってのは、気味が悪い」

「ほかに、変わったことはありませんか?」

「獣が下りてきてる」

 

 その一言に、ガルドさんの犬耳が前を向いた。

 

「種類は?」

「小型ばかりだ。白角兎に雪鼠、あとは山鳥。昨日の夕方には氷爪狐まで森を抜けてきた」

 

 男性は北の暗闇へ顎を向ける。

 

「どいつも、後ろから追われてるみたいに必死だったな」

「大型の姿は?」

「いや。ここまで来た痕跡も見てねぇ」

 

 大型がいると決まったわけではない。

 けれど、雪原に棲む獣が一斉に南へ逃げているなら――何かは起きている。

 

「坊主」

 

 外套の背を軽く引かれた。

 

「まず食え」

「もう少し話を聞いてからでも」

「俺が聞いておく。お前は騎獣と荷を見ろ」

 

 ガルドさんの犬耳はこちらを向いていない。

 けれど、有無を言わせない声だった。

 

「……分かりました」

 

 騎獣を厩舎の係員へ預け、荷袋を下ろす。

 酒楼から持たされた料理は、厚手の布と保温用の容器で包まれていた。

 

 蓋を開けると、まだ僅かに温かい。

 

 大角鹿の肉と香草を挟んだ黒パン。

 角兎肉の腸詰め。

 乾燥果実と、蜂蜜を使った焼き菓子。

 

「本当に多いな……」

 

 一つの包みを開いただけでも、二人では食べきれそうになかった。

 

「拠点の連中に食わせる分を残せよ」

 

 宿場の男性と話しながら、ガルドさんが釘を刺す。

 

「分かっています」

 

 黒パンを半分に分け、片方をガルドさんへ渡す。

 彼は礼の代わりに軽く手を上げ、そのまま大きく齧った。

 

 僕も口へ運ぼうとして――食堂の隅へ目が止まった。

 

 暖炉の近くに、旅人らしい親子が座っている。

 幼い小人族の子供が、僕の手にした包みをじっと見つめていた。

 

「…………」

 

「坊主」

 

 背を向けたまま、ガルドさんが声をかける。

 

「全部やるなよ」

「まだ何も言っていません」

「顔を見りゃ分かる」

 

 親子の卓には、薄いスープと硬そうなパンしか置かれていない。

 

「少しくらいなら」

「拠点の連中に食わせる分だ」

「全部ではありません」

「お前の分は?」

「あとで食べます」

 

 ガルドさんが、ゆっくりこちらへ振り返った。

 

「駄目だ」

「ですが――」

「半分食え」

 

 自分の黒パンを持ったまま、ガルドさんは荷袋へ近づく。

 腸詰めと焼き菓子をいくつか取り出し、小さな皿へ移した。

 

「残りは俺が渡してくる」

「ガルドさんも同じことをしているじゃないですか」

「俺は自分の飯を食ってから分けてる」

 

 彼は口元に残ったパン屑を親指で払う。

 

「お前は最初から全部渡そうとしただろ」

「あとで食べればいいかと」

「その『あとで』をやめろって言ってんだ」

 

 以前、アルナさんへ言ったことを思い出す。

 食事を後回しにしてはいけない。

 

 人に言うのと、自分で守るのは――少し違うらしい。

 

「……気をつけます」

「本当に?」

「本当に本当です」

 

 僕が黒パンを口へ運ぶと、ガルドさんはようやく親子の方へ歩いていった。

 

 何かを話し、料理の皿を卓へ置く。

 母親は驚いた顔で何度も頭を下げ、子供は焼き菓子を胸元へ抱えて笑っていた。

 

「ガルドさんも、放っておけないんじゃないですか」

 

 戻ってきた彼へ言う。

 すると、大きな犬耳が僅かに後ろへ倒れた。

 

「俺は選んでる」

「困っている人でした」

「食料には余裕がある。時間もかからねぇ。だから分けた」

 

 ガルドさんは僕の手元を見下ろす。

 

「お前は?」

「……自分の分を食べてから、考えます」

「よし」

 

 満足そうに頷かれた。

 少しだけ、子供扱いされている気がする。

 

 ◆

 

 休憩は四半刻ほどで切り上げた。

 

 新しい騎獣へ荷を移し、保温用の布を掛け直す。

 宿場の男性から北の状況を聞いたガルドさんは、地図へいくつか印を書き足していた。

 

「何か分かりましたか?」

「獣が下りてきたのは、三日前かららしい」

「拠点との連絡が途絶える前ですね」

 

 僕が地図を覗き込むと、ガルドさんの指が街道東側の森を叩いた。

 

「それと、北へ向かった猟師が一人戻ってねぇ」

「捜索は?」

「明るくなってから、宿場の連中が出る予定だ」

 

 猟師が入った森は、僕たちの進路から東へ外れている。

 

「行きませんよ」

 

 考えを読んだように、ガルドさんが先に言った。

 

「まだ何も言っていません」

「拠点が先だ」

「分かっています」

 

 僕は森の印から視線を外し、拠点までの道筋へ戻す。

 

「猟師の情報は、戻る時に確認する」

「……はい」

「置いていくわけじゃねぇ。順番を決めてるだけだ」

「分かっています」

 

 今度は迷わず答えた。

 

 すぐに追えないことと、見捨てることは違う。

 ガルドさんが教えようとしていたのは、きっとそういうことなのだろう。

 

「出るぞ」

「はい」

 

 騎獣へ跨がる。

 

 宿場の門が開くと、北から冷たい風が流れ込んできた。

 先ほどまでの街道とは、温度がまるで違う。

 

 ――雪が近い。

 

 肌で分かるほど、空気が変わっていた。

 

 ◆

 

 夜が明ける頃、街道の脇に白いものが見え始めた。

 

 最初は、岩陰へ残った小さな塊。

 次に、草の上へ薄く積もった霜。

 

 やがて土の色が消え、街道の両側を雪が覆っていく。

 

「……戻ってきた」

 

 自分でも気づかないうちに、声が漏れていた。

 

 白い大地。

 遠くに並ぶ黒い針葉樹。

 曇った空から落ちる、細かな雪。

 

 二年前と同じ――そう見えてしまう。

 

 もちろん、まったく同じ場所ではない。

 季節も時間も、あの日とは違っている。

 

 それでも、身体は覚えていた。

 

 右脇腹の古傷が硬くなる。

 呼吸が浅くなり、手袋の中へ汗が滲んだ。

 

「止まるか?」

 

 ガルドさんが騎獣の速度を落とす。

 僕の横へ並び、フードの奥を覗き込んできた。

 

「大丈夫です」

「聞いてんのは、止まるかどうかだ」

 

 すぐに返そうとして――一度、息を飲む。

 

「……少しだけ」

 

 僕たちは街道脇の岩陰へ騎獣を寄せた。

 

 鞍から下りる。

 雪へ足を置くと、思っていたよりも大きな音が鳴った。

 

 足首まで沈み、靴越しに冷気が伝わってくる。

 

「息を整えろ」

 

 ガルドさんは騎獣の手綱を岩へ結び、僕の隣へ立った。

 

「吸って、吐け」

「子供ではありませんよ」

 

 外套の前を押さえながら、ゆっくり息を吸う。

 

「なら、自分でやれ」

「やっています」

 

 冷たい空気が喉を刺した。

 右脇腹が引きつり、あの日の痛みを思い出す。

 

 息を吐く。

 白い靄が目の前へ広がり、すぐに風へ攫われた。

 

「怖いです」

 

 昨夜と同じ言葉。

 けれど、雪を前にして口にすると、重さが違った。

 

「ああ」

 

 ガルドさんは雪原を見たまま答える。

 

「身体が、先に思い出しています」

「そりゃそうだ。死にかけた場所だからな」

「死んではいません」

「だから、死にかけたと言ってんだ」

 

 大きな手が、僕の右肩へ置かれる。

 押すでも、引くでもない。

 

 ただ、そこにあった。

 

「帰ってもいいぞ」

「……帰りません」

「無理に格好をつける必要はねぇ」

 

 ガルドさんの指が、肩の上で僅かに動く。

 

「格好をつけているわけではありません」

 

 雪原を見つめる。

 

 怖い。

 今すぐ背を向ければ、少し楽になるかもしれない。

 

 けれど、拠点には十人いる。

 全員が無事かは分からない。

 傷つき、助けを待っている可能性もある。

 

「行きたいんです」

 

 口にしてから、小さく息を吐く。

 

「拠点の人たちを、確かめたい」

「ああ」

「それに……」

 

 雪の中で、指先を握る。

 

 二年前。

 何も見えなかった。

 考える余裕もなく、ただ逃げた。

 

 今は、あの時より少しだけ前を見られる。

 

「僕が、どこまで変わったのかも知りたいです」

 

 ガルドさんは、すぐには答えなかった。

 大きな犬耳だけが、風の音を拾うように前へ傾いている。

 

「救助が先です」

「ああ」

「大型を探すつもりもありません」

「分かってる」

 

 ガルドさんは僕の肩から手を離し、背中の大盾を一度叩いた。

 

「でも、遭遇したら――今度は一人で決めるな」

「はい」

「戦うか、逃げるか。二人で決める」

「分かりました」

 

 僕は彼の横顔を見る。

 

「怖くなった時も、言えばいいですか?」

「言え」

「そうしたら?」

「一緒に逃げる」

 

 迷いのない答えだった。

 

「戦うのでは?」

「戦うべきなら戦う。逃げるべきなら逃げる」

 

 ガルドさんはこちらへ向き直り、僕の胸元を太い指で軽く叩いた。

 

「それを二人で決めるんだよ、相棒」

「……はい」

 

 胸の奥へ残っていた硬さが、少しだけ解ける。

 

「行きましょう」

「ああ」

 

 騎獣へ戻ろうとしたところで――雪の中に、不自然な窪みが見えた。

 

「待ってください」

 

 街道から数歩外れた場所。

 薄く積もった新雪の下へ、大きな足跡が残っている。

 

 僕は雪へ膝をつき、手袋で表面を払った。

 

「大型か?」

 

 ガルドさんが隣へしゃがむ。

 現れた足跡は、僕の胸ほどの幅があった。

 

 丸みのある前脚。

 指は四本。

 爪痕が深く、雪の下の凍った地面まで抉っている。

 

「二年前の個体と、似ています」

「同じ種類か?」

「おそらく」

 

 心臓が強く鳴った。

 

 古傷が引きつる。

 喉の奥も乾いていく。

 

 怖さは、確かにある。

 

 なのに――指先は、不思議なほど落ち着いていた。

 

 足跡の深さ。

 向き。

 雪の崩れ方。

 

 二年前には見る余裕すらなかったものが、今は一つずつ目へ入ってくる。

 

「いつ頃の跡だ?」

「新しくはありません。上に雪が積もっています」

 

 足跡の縁へ指を沿わせる。

 

「少なくとも昨夜以前です。ただ、何日も前というほどではありません」

「向きは?」

「北東です」

 

 視線を移す。

 

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 

 足跡は街道を横切り、針葉樹の林へ続いていた。

 

 そして――。

 

「……濡れている?」

 

 足跡の底だけ、雪が黒く沈んでいる。

 

 僕は手を伸ばしかけ、途中で止めた。

 昨日の異常個体を思い出したからだ。

 

「触るなよ」

 

 隣から、ガルドさんの低い声が飛ぶ。

 

「分かっています」

 

 道具袋から小さな金属匙と布を取り出す。

 足跡の底に溜まった水を掬い、布へ僅かに吸わせた。

 

「凍っていません」

「この寒さでか?」

 

 ガルドさんが身を寄せる。

 僕は布を鼻へ近づけた。

 

 冷たい石。

 湿った獣。

 

 その奥に――。

 

「潮の匂いがします」

 

 風の音が、急に大きく聞こえた。

 

「ここでもか」

 

 ガルドさんも鼻を動かす。

 直後、大きな犬耳が硬く立った。

 

「間違いねぇな」

「灰牙犬と同じです」

「あいつだけじゃなかったらしい」

 

 海から遠く離れた北部雪原。

 凍った大地に残る大型の足跡から、潮の匂いが漂っている。

 

「ギルドへ知らせますか?」

「拠点へ着いてからだ。信号弾は緊急用に残す」

「はい」

 

 水を吸わせた布を小さな硝子瓶へ収める。

 

 蓋を閉めたところで、息が少し速くなっていることへ気づいた。

 

 恐怖。

 警戒。

 

 そして、その奥で――身体だけが僅かに熱を帯びている。

 

 二年前とは違う。

 

 足跡を見つけても、周囲が見える。

 手も動く。

 ガルドさんの声も聞こえている。

 

「坊主」

 

 呼ばれ、顔を上げる。

 

「足跡は追わねぇぞ」

「分かっています」

 

 僕は林の奥から視線を外した。

 

「拠点が先です」

「ああ」

 

 少しだけ残った高ぶりを、白い息と一緒に吐き出す。

 

 今は追わない。

 この先に何がいるとしても――まずは、拠点だ。

 

 ◆

 

 昼前には、雪がさらに強くなった。

 

 空と地面の境目が白く霞み、少し離れるだけで互いの姿も見えづらくなる。

 僕たちは騎獣の速度を落とし、街道沿いに立てられた標柱を頼りに進んだ。

 

「次の標柱、見えますか?」

「右前だ」

 

 ガルドさんが雪の向こうを指す。

 黒い棒のような影が、風の合間に僅かに見えた。

 

「道は合っています」

「拠点まで、あと半刻ってところだ」

 

 距離が縮まるほど、周囲から生き物の気配が消えていった。

 

 鳥の声がない。

 雪鼠の足跡もない。

 林の中から、枝が揺れる音すら聞こえない。

 

「静かですね」

「静かすぎる」

 

 ガルドさんの犬耳が、何度も向きを変える。

 

「風の音しか聞こえねぇ」

「獣たちは南へ逃げたんでしょうか」

「かもな」

 

 その時、騎獣が急に足を止めた。

 

「どうした?」

 

 ガルドさんが手綱を引く。

 僕の騎獣も鼻を鳴らし、前へ進もうとしない。

 

 二頭とも耳を伏せ、白い息を荒く吐いている。

 街道の先を、ひどく警戒していた。

 

「何かあります」

 

 鞍から下りる。

 片刃剣の柄へ手を添えながら、吹雪の向こうへ目を凝らした。

 

 街道の脇。

 黒いものが、雪の中へ倒れている。

 

「行くぞ」

 

 ガルドさんが大盾を構え、先へ進む。

 僕も片刃剣を抜き、斜め後ろへついた。

 

 近づくにつれ、その形が分かってくる。

 

「ケルン……」

 

 倒れていたのは、荷運び用の騎獣だった。

 

 身体は半分ほど雪へ埋まり、鞍と荷袋がついたままになっている。

 首元には深い傷。

 

 けれど、周囲へ広がっているはずの血は、ほとんど雪に残っていなかった。

 

「凍ったのか?」

 

 ガルドさんが周囲へ視線を走らせる。

 僕はケルンの横へ膝をつき、傷口を確認した。

 

「違います」

 

 毛が濡れている。

 灰牙犬と同じように、全身から透明な水が滴っていた。

 

「また水か」

「はい」

 

 血は赤い。

 けれど、その上を覆うように冷たい水が溢れ、雪へ染み込んでいる。

 

 匂いを確かめるまでもない。

 潮の気配が、周囲へ濃く漂っていた。

 

「荷を確認するぞ」

 

 ガルドさんが鞍へ手を伸ばす。

 荷袋の中には、毛布と乾燥食料。それから、ギルドの印が押された書類筒が入っていた。

 

「拠点のものです」

 

 筒の印を確かめる。

 中には、エルドランへ送る予定だった定期報告書が収められていた。

 

「逃げる途中だったのか?」

「それとも、届けに出たところで襲われたか……」

 

 僕はケルンの周囲へ視線を移す。

 雪の中には、人の足跡も残っていた。

 

「一人分です」

「向きは?」

「拠点から南へ」

 

 足跡は街道を外れ、森の方へ逸れている。

 けれど、新しい雪に覆われ、途中で消えていた。

 

 追えば、誰かを見つけられるかもしれない。

 

「坊主」

 

 ガルドさんの声に、足跡から視線を外す。

 

「拠点まで半刻だ」

「……はい」

「生きてるなら、森へ逃げた一人より、拠点に残った連中の方が多い」

「分かっています」

 

 それでも、気にはなる。

 

 僕は道具袋から黄色い布を取り出し、近くの標柱へ結びつけた。

 

「印だけ残します」

「ああ」

 

 地図にも位置を書き込む。

 帰りか、増援が来た時に探せるように。

 

「これでいいです」

「忘れたわけじゃねぇ」

「はい」

 

 すぐに追えないことと、見捨てることは違う。

 

 自分へ言い聞かせ、騎獣へ戻った。

 

 吹雪の向こうに、やがて黒い輪郭が見えてくる。

 

 木製の柵。

 見張り台。

 石と丸太で作られた建物。

 

「北部拠点です」

 

 ようやく着いた。

 

 そう思ったのに――。

 

「門が開いてるぞ」

 

 ガルドさんの声が低くなる。

 

 拠点を囲む木柵の一部が、外側へ大きく倒れていた。

 門扉は片方が外れ、雪の上へ横たわっている。

 

 見張り台に人の姿はない。

 煙突から上がるはずの煙も見えなかった。

 

 風に乗って、何かが軋む音だけが届く。

 

「……遅かった?」

 

 口から漏れた声が、雪へ吸い込まれる。

 

「まだ決めるな」

 

 ガルドさんが大盾を背中から下ろす。

 僕も騎獣から降り、片刃剣を抜いた。

 

 刃が鞘を滑る音。

 それだけが、静まり返った雪原へ鋭く響いた。

 

「まずは周囲を確認する」

「はい」

 

 ガルドさんは壊れた門へ身体を向けたまま、こちらへ片手を上げる。

 

「生存者を探す。大型がいても追うな」

「分かっています」

「俺の見えないところへ行くなよ」

「ガルドさんもです」

 

 彼の犬耳が、僅かに持ち上がった。

 

「言うようになったな」

「相棒ですから」

「……そうだったな」

 

 二人で壊れた門の向こうへ目を向ける。

 

 建物の扉は開いたまま。

 雪の上には、いくつもの足跡と、何かを引きずったような跡が残っている。

 

 そして――そのすべてが、黒く濡れていた。

 

 潮の匂いがする。

 

 海など、どこにもないはずなのに。

 

「行くぞ、坊主」

「はい」

 

 僕たちは並んで、壊れた拠点へ足を踏み入れた。

 

 





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