駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
北門を抜けてから、しばらくは誰も口を開かなかった。
聞こえるのは、夜の街道を叩く騎獣の蹄と、鞍の脇で荷袋が揺れる音だけ。
夜風は冷たく、外套の隙間から入り込むたび、酒楼に残してきた熱を少しずつ奪っていった。
振り返れば、エルドランの灯りがまだ見える。
城壁の上に並ぶ篝火。
夜空へ伸びる教会の尖塔。
そのすべてが、進むほど小さくなっていく。
「……まだ、見えますね」
呟くと、少し前を走っていたガルドさんの犬耳がこちらへ向いた。
「何がだ?」
「街の灯りです」
ガルドさんは一度だけ肩越しに振り返り、すぐ進行方向へ顔を戻す。
「出てから、大して経ってねぇからな」
「そうなんですけどね」
もっともな答えだった。
それでも、見えなくなるまでは何度も振り返ってしまう。
角兎亭も、ギルドも、先ほどまで宴をしていた酒楼も、この距離からでは見分けられない。
けれど――あそこにある。
帰る場所は、まだ背中側に残っていた。
「坊主」
「はい?」
「前を見ろ。落ちるぞ」
ガルドさんが片手で、自分の目の前を指す。
「見ています」
「後ろをな」
言われた直後、騎獣が街道の窪みを踏んだ。
身体が大きく揺れ、僕は慌てて鞍の前部へ掴まる。
「危なっ……」
「だから言っただろ」
「少し振り返っただけです」
「三回目だ」
数えられていたらしい。
僕は今度こそ正面を向き、手綱を握り直した。
夜の街道は暗い。
雲の切れ間から月明かりは差しているものの、道の端までは届いていなかった。
木々の間。
草の陰。
荷車が退避するために削られた窪地。
何かが潜んでいないか、一つずつ視線を通していく。
「……何もいませんね」
ガルドさんの犬耳が、呆れたように横へ倒れた。
「残念そうに言うな」
「警戒しているだけです」
「だったら、もう少し安心した声を出せ」
何も起きないことが、一番いい。
分かっている。
ただ、緊急依頼を受けて装備を整えた身体が、まだ張り詰めたままだった。
――早く動けと、急かされているような。
「坊主」
再び呼ばれ、ガルドさんへ顔を向ける。
「片刃剣の柄から手を離せ」
「……触っていました?」
気づけば、右手が腰の柄へ添えられていた。
僕は指を開き、手綱へ戻す。
「ずっとな」
「癖ですね」
「その癖が出てる時のお前は、余計な方へ行きたがる」
「今日は行きませんよ」
ガルドさんは疑うように目を細めた。
「本当か?」
「拠点へ向かうのが最優先です」
「ならいい」
短く答え、ガルドさんは騎獣の速度を僅かに上げる。
僕も置いていかれないよう、手綱を操った。
街道は北へ進むほど、緩やかな上り坂へ変わっていく。
周囲の畑が途切れ、代わりに背の低い木々と岩肌が増えてきた。
空気も少しずつ乾いている。
港から届いていた潮の匂いは消え、代わりに土と冷えた草の匂いが鼻へ残った。
「最初の宿場までは、あとどのくらいですか?」
「この速度なら、一刻半ってところだな」
ガルドさんが雲の切れ間へ目を向ける。
月の位置を確かめているらしい。
「そこで騎獣を替えて、少し食う。長く休む暇はねぇが、脚は休ませるぞ」
「僕たちのですか?」
「騎獣のだ」
こちらを見ないまま、ガルドさんが鼻を鳴らす。
「お前は飯を食え。俺は地図を確認する」
「ガルドさんは休まないんですか?」
「道中で眠くなったら、お前に前を任せる」
「それなら今、休んだ方がいいのでは?」
ガルドさんが肩越しにこちらを見る。
「お前に全部任せて眠れるほど、俺は肝が太くねぇ」
「二年間、何度も一緒に依頼へ行ったのに」
「その二年間で、夜道に獣の足跡を見つけて三回逸れた奴が何を言う」
「三回だけです」
即座に返すと、犬耳が大きく横へ倒れた。
「あるのかよ」
「全部、依頼には間に合いました」
「そういう問題じゃねぇ」
「一度は希少種でした」
「だから問題なんだよ」
追った価値はあったと思う。
あの時に見つけた毛皮は、ギルドでも珍しいと評価された。
……依頼人のところへ着くのが、少し遅れたけれど。
「今日は逸れません」
「本当だな?」
ガルドさんの声から、冗談めいた響きが消える。
「はい。拠点へ向かうのが最優先です」
「なら、任せる」
その一言が、胸の奥へ静かに落ちた。
「はい」
短く答え、正面へ目を向ける。
同時に――右脇腹が僅かに引きつった。
風の冷たさのせいだ。
たぶん、それだけではない。
僕たちは北へ近づいている。
二年前、僕が何もできずに逃げた雪原へ。
◆
最初の宿場へ着いた時には、夜も深くなっていた。
街道沿いに建つ小さな宿場。
石壁の内側には厩舎と食堂、それから旅人用の寝床が並んでいる。
篝火の近くでは、夜番らしい獣人族の男性が槍を抱えて立っていた。
「エルドランのハンターか?」
門を開けながら、男が僕たちの装備を確かめる。
ガルドさんは騎獣を降り、胸元から依頼証を取り出した。
「北部雪原の中継拠点へ向かう」
「……あそこか」
依頼証を見た途端、男性の顔が曇る。
「何か知っているんですか?」
僕も鞍から下り、固くなった脚を伸ばした。
男性は依頼証をガルドさんへ返し、北へ続く街道へ目を向ける。
「昨日、向こうから来るはずの荷車が来なかった。今朝もだ」
「定期便か?」
ガルドさんが依頼証をしまいながら尋ねる。
「ああ。二日に一度、毛皮と鉱石を運んでくる」
「天候が荒れた様子は?」
「ねぇな。雪崩の知らせも届いてない」
男性は槍の石突きを地面へ置き、両腕を組んだ。
「それで二便も戻らないってのは、気味が悪い」
「ほかに、変わったことはありませんか?」
「獣が下りてきてる」
その一言に、ガルドさんの犬耳が前を向いた。
「種類は?」
「小型ばかりだ。白角兎に雪鼠、あとは山鳥。昨日の夕方には氷爪狐まで森を抜けてきた」
男性は北の暗闇へ顎を向ける。
「どいつも、後ろから追われてるみたいに必死だったな」
「大型の姿は?」
「いや。ここまで来た痕跡も見てねぇ」
大型がいると決まったわけではない。
けれど、雪原に棲む獣が一斉に南へ逃げているなら――何かは起きている。
「坊主」
外套の背を軽く引かれた。
「まず食え」
「もう少し話を聞いてからでも」
「俺が聞いておく。お前は騎獣と荷を見ろ」
ガルドさんの犬耳はこちらを向いていない。
けれど、有無を言わせない声だった。
「……分かりました」
騎獣を厩舎の係員へ預け、荷袋を下ろす。
酒楼から持たされた料理は、厚手の布と保温用の容器で包まれていた。
蓋を開けると、まだ僅かに温かい。
大角鹿の肉と香草を挟んだ黒パン。
角兎肉の腸詰め。
乾燥果実と、蜂蜜を使った焼き菓子。
「本当に多いな……」
一つの包みを開いただけでも、二人では食べきれそうになかった。
「拠点の連中に食わせる分を残せよ」
宿場の男性と話しながら、ガルドさんが釘を刺す。
「分かっています」
黒パンを半分に分け、片方をガルドさんへ渡す。
彼は礼の代わりに軽く手を上げ、そのまま大きく齧った。
僕も口へ運ぼうとして――食堂の隅へ目が止まった。
暖炉の近くに、旅人らしい親子が座っている。
幼い小人族の子供が、僕の手にした包みをじっと見つめていた。
「…………」
「坊主」
背を向けたまま、ガルドさんが声をかける。
「全部やるなよ」
「まだ何も言っていません」
「顔を見りゃ分かる」
親子の卓には、薄いスープと硬そうなパンしか置かれていない。
「少しくらいなら」
「拠点の連中に食わせる分だ」
「全部ではありません」
「お前の分は?」
「あとで食べます」
ガルドさんが、ゆっくりこちらへ振り返った。
「駄目だ」
「ですが――」
「半分食え」
自分の黒パンを持ったまま、ガルドさんは荷袋へ近づく。
腸詰めと焼き菓子をいくつか取り出し、小さな皿へ移した。
「残りは俺が渡してくる」
「ガルドさんも同じことをしているじゃないですか」
「俺は自分の飯を食ってから分けてる」
彼は口元に残ったパン屑を親指で払う。
「お前は最初から全部渡そうとしただろ」
「あとで食べればいいかと」
「その『あとで』をやめろって言ってんだ」
以前、アルナさんへ言ったことを思い出す。
食事を後回しにしてはいけない。
人に言うのと、自分で守るのは――少し違うらしい。
「……気をつけます」
「本当に?」
「本当に本当です」
僕が黒パンを口へ運ぶと、ガルドさんはようやく親子の方へ歩いていった。
何かを話し、料理の皿を卓へ置く。
母親は驚いた顔で何度も頭を下げ、子供は焼き菓子を胸元へ抱えて笑っていた。
「ガルドさんも、放っておけないんじゃないですか」
戻ってきた彼へ言う。
すると、大きな犬耳が僅かに後ろへ倒れた。
「俺は選んでる」
「困っている人でした」
「食料には余裕がある。時間もかからねぇ。だから分けた」
ガルドさんは僕の手元を見下ろす。
「お前は?」
「……自分の分を食べてから、考えます」
「よし」
満足そうに頷かれた。
少しだけ、子供扱いされている気がする。
◆
休憩は四半刻ほどで切り上げた。
新しい騎獣へ荷を移し、保温用の布を掛け直す。
宿場の男性から北の状況を聞いたガルドさんは、地図へいくつか印を書き足していた。
「何か分かりましたか?」
「獣が下りてきたのは、三日前かららしい」
「拠点との連絡が途絶える前ですね」
僕が地図を覗き込むと、ガルドさんの指が街道東側の森を叩いた。
「それと、北へ向かった猟師が一人戻ってねぇ」
「捜索は?」
「明るくなってから、宿場の連中が出る予定だ」
猟師が入った森は、僕たちの進路から東へ外れている。
「行きませんよ」
考えを読んだように、ガルドさんが先に言った。
「まだ何も言っていません」
「拠点が先だ」
「分かっています」
僕は森の印から視線を外し、拠点までの道筋へ戻す。
「猟師の情報は、戻る時に確認する」
「……はい」
「置いていくわけじゃねぇ。順番を決めてるだけだ」
「分かっています」
今度は迷わず答えた。
すぐに追えないことと、見捨てることは違う。
ガルドさんが教えようとしていたのは、きっとそういうことなのだろう。
「出るぞ」
「はい」
騎獣へ跨がる。
宿場の門が開くと、北から冷たい風が流れ込んできた。
先ほどまでの街道とは、温度がまるで違う。
――雪が近い。
肌で分かるほど、空気が変わっていた。
◆
夜が明ける頃、街道の脇に白いものが見え始めた。
最初は、岩陰へ残った小さな塊。
次に、草の上へ薄く積もった霜。
やがて土の色が消え、街道の両側を雪が覆っていく。
「……戻ってきた」
自分でも気づかないうちに、声が漏れていた。
白い大地。
遠くに並ぶ黒い針葉樹。
曇った空から落ちる、細かな雪。
二年前と同じ――そう見えてしまう。
もちろん、まったく同じ場所ではない。
季節も時間も、あの日とは違っている。
それでも、身体は覚えていた。
右脇腹の古傷が硬くなる。
呼吸が浅くなり、手袋の中へ汗が滲んだ。
「止まるか?」
ガルドさんが騎獣の速度を落とす。
僕の横へ並び、フードの奥を覗き込んできた。
「大丈夫です」
「聞いてんのは、止まるかどうかだ」
すぐに返そうとして――一度、息を飲む。
「……少しだけ」
僕たちは街道脇の岩陰へ騎獣を寄せた。
鞍から下りる。
雪へ足を置くと、思っていたよりも大きな音が鳴った。
足首まで沈み、靴越しに冷気が伝わってくる。
「息を整えろ」
ガルドさんは騎獣の手綱を岩へ結び、僕の隣へ立った。
「吸って、吐け」
「子供ではありませんよ」
外套の前を押さえながら、ゆっくり息を吸う。
「なら、自分でやれ」
「やっています」
冷たい空気が喉を刺した。
右脇腹が引きつり、あの日の痛みを思い出す。
息を吐く。
白い靄が目の前へ広がり、すぐに風へ攫われた。
「怖いです」
昨夜と同じ言葉。
けれど、雪を前にして口にすると、重さが違った。
「ああ」
ガルドさんは雪原を見たまま答える。
「身体が、先に思い出しています」
「そりゃそうだ。死にかけた場所だからな」
「死んではいません」
「だから、死にかけたと言ってんだ」
大きな手が、僕の右肩へ置かれる。
押すでも、引くでもない。
ただ、そこにあった。
「帰ってもいいぞ」
「……帰りません」
「無理に格好をつける必要はねぇ」
ガルドさんの指が、肩の上で僅かに動く。
「格好をつけているわけではありません」
雪原を見つめる。
怖い。
今すぐ背を向ければ、少し楽になるかもしれない。
けれど、拠点には十人いる。
全員が無事かは分からない。
傷つき、助けを待っている可能性もある。
「行きたいんです」
口にしてから、小さく息を吐く。
「拠点の人たちを、確かめたい」
「ああ」
「それに……」
雪の中で、指先を握る。
二年前。
何も見えなかった。
考える余裕もなく、ただ逃げた。
今は、あの時より少しだけ前を見られる。
「僕が、どこまで変わったのかも知りたいです」
ガルドさんは、すぐには答えなかった。
大きな犬耳だけが、風の音を拾うように前へ傾いている。
「救助が先です」
「ああ」
「大型を探すつもりもありません」
「分かってる」
ガルドさんは僕の肩から手を離し、背中の大盾を一度叩いた。
「でも、遭遇したら――今度は一人で決めるな」
「はい」
「戦うか、逃げるか。二人で決める」
「分かりました」
僕は彼の横顔を見る。
「怖くなった時も、言えばいいですか?」
「言え」
「そうしたら?」
「一緒に逃げる」
迷いのない答えだった。
「戦うのでは?」
「戦うべきなら戦う。逃げるべきなら逃げる」
ガルドさんはこちらへ向き直り、僕の胸元を太い指で軽く叩いた。
「それを二人で決めるんだよ、相棒」
「……はい」
胸の奥へ残っていた硬さが、少しだけ解ける。
「行きましょう」
「ああ」
騎獣へ戻ろうとしたところで――雪の中に、不自然な窪みが見えた。
「待ってください」
街道から数歩外れた場所。
薄く積もった新雪の下へ、大きな足跡が残っている。
僕は雪へ膝をつき、手袋で表面を払った。
「大型か?」
ガルドさんが隣へしゃがむ。
現れた足跡は、僕の胸ほどの幅があった。
丸みのある前脚。
指は四本。
爪痕が深く、雪の下の凍った地面まで抉っている。
「二年前の個体と、似ています」
「同じ種類か?」
「おそらく」
心臓が強く鳴った。
古傷が引きつる。
喉の奥も乾いていく。
怖さは、確かにある。
なのに――指先は、不思議なほど落ち着いていた。
足跡の深さ。
向き。
雪の崩れ方。
二年前には見る余裕すらなかったものが、今は一つずつ目へ入ってくる。
「いつ頃の跡だ?」
「新しくはありません。上に雪が積もっています」
足跡の縁へ指を沿わせる。
「少なくとも昨夜以前です。ただ、何日も前というほどではありません」
「向きは?」
「北東です」
視線を移す。
一つ。
二つ。
三つ。
足跡は街道を横切り、針葉樹の林へ続いていた。
そして――。
「……濡れている?」
足跡の底だけ、雪が黒く沈んでいる。
僕は手を伸ばしかけ、途中で止めた。
昨日の異常個体を思い出したからだ。
「触るなよ」
隣から、ガルドさんの低い声が飛ぶ。
「分かっています」
道具袋から小さな金属匙と布を取り出す。
足跡の底に溜まった水を掬い、布へ僅かに吸わせた。
「凍っていません」
「この寒さでか?」
ガルドさんが身を寄せる。
僕は布を鼻へ近づけた。
冷たい石。
湿った獣。
その奥に――。
「潮の匂いがします」
風の音が、急に大きく聞こえた。
「ここでもか」
ガルドさんも鼻を動かす。
直後、大きな犬耳が硬く立った。
「間違いねぇな」
「灰牙犬と同じです」
「あいつだけじゃなかったらしい」
海から遠く離れた北部雪原。
凍った大地に残る大型の足跡から、潮の匂いが漂っている。
「ギルドへ知らせますか?」
「拠点へ着いてからだ。信号弾は緊急用に残す」
「はい」
水を吸わせた布を小さな硝子瓶へ収める。
蓋を閉めたところで、息が少し速くなっていることへ気づいた。
恐怖。
警戒。
そして、その奥で――身体だけが僅かに熱を帯びている。
二年前とは違う。
足跡を見つけても、周囲が見える。
手も動く。
ガルドさんの声も聞こえている。
「坊主」
呼ばれ、顔を上げる。
「足跡は追わねぇぞ」
「分かっています」
僕は林の奥から視線を外した。
「拠点が先です」
「ああ」
少しだけ残った高ぶりを、白い息と一緒に吐き出す。
今は追わない。
この先に何がいるとしても――まずは、拠点だ。
◆
昼前には、雪がさらに強くなった。
空と地面の境目が白く霞み、少し離れるだけで互いの姿も見えづらくなる。
僕たちは騎獣の速度を落とし、街道沿いに立てられた標柱を頼りに進んだ。
「次の標柱、見えますか?」
「右前だ」
ガルドさんが雪の向こうを指す。
黒い棒のような影が、風の合間に僅かに見えた。
「道は合っています」
「拠点まで、あと半刻ってところだ」
距離が縮まるほど、周囲から生き物の気配が消えていった。
鳥の声がない。
雪鼠の足跡もない。
林の中から、枝が揺れる音すら聞こえない。
「静かですね」
「静かすぎる」
ガルドさんの犬耳が、何度も向きを変える。
「風の音しか聞こえねぇ」
「獣たちは南へ逃げたんでしょうか」
「かもな」
その時、騎獣が急に足を止めた。
「どうした?」
ガルドさんが手綱を引く。
僕の騎獣も鼻を鳴らし、前へ進もうとしない。
二頭とも耳を伏せ、白い息を荒く吐いている。
街道の先を、ひどく警戒していた。
「何かあります」
鞍から下りる。
片刃剣の柄へ手を添えながら、吹雪の向こうへ目を凝らした。
街道の脇。
黒いものが、雪の中へ倒れている。
「行くぞ」
ガルドさんが大盾を構え、先へ進む。
僕も片刃剣を抜き、斜め後ろへついた。
近づくにつれ、その形が分かってくる。
「ケルン……」
倒れていたのは、荷運び用の騎獣だった。
身体は半分ほど雪へ埋まり、鞍と荷袋がついたままになっている。
首元には深い傷。
けれど、周囲へ広がっているはずの血は、ほとんど雪に残っていなかった。
「凍ったのか?」
ガルドさんが周囲へ視線を走らせる。
僕はケルンの横へ膝をつき、傷口を確認した。
「違います」
毛が濡れている。
灰牙犬と同じように、全身から透明な水が滴っていた。
「また水か」
「はい」
血は赤い。
けれど、その上を覆うように冷たい水が溢れ、雪へ染み込んでいる。
匂いを確かめるまでもない。
潮の気配が、周囲へ濃く漂っていた。
「荷を確認するぞ」
ガルドさんが鞍へ手を伸ばす。
荷袋の中には、毛布と乾燥食料。それから、ギルドの印が押された書類筒が入っていた。
「拠点のものです」
筒の印を確かめる。
中には、エルドランへ送る予定だった定期報告書が収められていた。
「逃げる途中だったのか?」
「それとも、届けに出たところで襲われたか……」
僕はケルンの周囲へ視線を移す。
雪の中には、人の足跡も残っていた。
「一人分です」
「向きは?」
「拠点から南へ」
足跡は街道を外れ、森の方へ逸れている。
けれど、新しい雪に覆われ、途中で消えていた。
追えば、誰かを見つけられるかもしれない。
「坊主」
ガルドさんの声に、足跡から視線を外す。
「拠点まで半刻だ」
「……はい」
「生きてるなら、森へ逃げた一人より、拠点に残った連中の方が多い」
「分かっています」
それでも、気にはなる。
僕は道具袋から黄色い布を取り出し、近くの標柱へ結びつけた。
「印だけ残します」
「ああ」
地図にも位置を書き込む。
帰りか、増援が来た時に探せるように。
「これでいいです」
「忘れたわけじゃねぇ」
「はい」
すぐに追えないことと、見捨てることは違う。
自分へ言い聞かせ、騎獣へ戻った。
吹雪の向こうに、やがて黒い輪郭が見えてくる。
木製の柵。
見張り台。
石と丸太で作られた建物。
「北部拠点です」
ようやく着いた。
そう思ったのに――。
「門が開いてるぞ」
ガルドさんの声が低くなる。
拠点を囲む木柵の一部が、外側へ大きく倒れていた。
門扉は片方が外れ、雪の上へ横たわっている。
見張り台に人の姿はない。
煙突から上がるはずの煙も見えなかった。
風に乗って、何かが軋む音だけが届く。
「……遅かった?」
口から漏れた声が、雪へ吸い込まれる。
「まだ決めるな」
ガルドさんが大盾を背中から下ろす。
僕も騎獣から降り、片刃剣を抜いた。
刃が鞘を滑る音。
それだけが、静まり返った雪原へ鋭く響いた。
「まずは周囲を確認する」
「はい」
ガルドさんは壊れた門へ身体を向けたまま、こちらへ片手を上げる。
「生存者を探す。大型がいても追うな」
「分かっています」
「俺の見えないところへ行くなよ」
「ガルドさんもです」
彼の犬耳が、僅かに持ち上がった。
「言うようになったな」
「相棒ですから」
「……そうだったな」
二人で壊れた門の向こうへ目を向ける。
建物の扉は開いたまま。
雪の上には、いくつもの足跡と、何かを引きずったような跡が残っている。
そして――そのすべてが、黒く濡れていた。
潮の匂いがする。
海など、どこにもないはずなのに。
「行くぞ、坊主」
「はい」
僕たちは並んで、壊れた拠点へ足を踏み入れた。
◆
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