駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
壊れた門を越えた瞬間、潮の匂いが一段濃くなった。
雪と冷えた木材。
獣の毛。
凍りついた血――そのすべてを覆うように、海から吹きつけるはずのない湿った臭気が鼻腔へまとわりつく。
「……ひどいですね」
拠点の中庭には、折れた木材や荷箱が散乱していた。
見張り台へ続く梯子は半ばから砕かれ、雪の上には無数の足跡が重なっている。
人。
騎獣。
そして、そのすべてを踏み潰すような巨大な四足獣。
大型の足跡は、壊れた門から中庭の中央まで一直線に続いていた。
「門を破ったあと、迷わず入ってきてる」
ガルドさんは大盾を前へ構え、拠点の奥へ視線を走らせる。
二つの犬耳が別々の方角を向き、僅かな物音まで拾おうとしていた。
「獲物の場所を知っていたんでしょうか」
「匂いを追っただけかもしれねぇ。決めつけるな」
短く注意され、僕は頷く。
「はい」
片刃剣を両手で構え、ガルドさんの斜め後ろへつく。
二人で歩幅を合わせ、まずは中庭の左側にある詰め所へ向かった。
風に押された扉が、ぎい、と小さく鳴る。
「俺が開ける」
ガルドさんが扉の脇へ立つ。
僕は反対側へ回り、内部へ刃を向けた。
「いきます」
「ああ」
彼が盾の縁で扉を押した。
暗い室内。
倒れた椅子。
床へ散らばった紙。
人影はない。
「入ります」
先に踏み込もうとすると、大盾が行く手を塞いだ。
「俺が先だ」
「狭い場所なら、僕の方が動きやすいですよ」
「だからだ。何かいたら、お前は俺の横から刺せ」
ガルドさんは盾を斜めに構えたまま、ゆっくり室内へ入っていく。
「相棒は並んで歩くんじゃなかったんですか?」
「扉の幅まで広くはならねぇよ」
「それは、そうですけど」
僕もあとへ続く。
詰め所の中は、ひどく荒れていた。
受付用の卓は横倒しになり、棚から落ちた書類が濡れた床へ貼りついている。
窓硝子は割れていた。
外から入った雪が床へ薄く積もり、その上へ赤黒い足跡が残っている。
「血ですね」
しゃがみ込もうとすると、ガルドさんが片手を上げた。
「周りを見てからだ」
「……はい」
先に部屋の四隅へ視線を通す。
棚の陰。
卓の下。
奥にある小さな物置。
動くものはない。
「大丈夫です」
「ああ。見ていいぞ」
今度こそ足跡へ膝をつく。
人の靴跡だった。
右足だけが深く沈み、その周囲へ血が落ちている。
「怪我をしたまま、奥へ向かっています」
指で進行方向を示す。
足跡は室内を横切り、裏口へ続いていた。
「外へ逃げたか?」
「分かりません。途中から、ほかの足跡と重なっています」
雪と泥。
血。
それに、透明な水。
床は異様なほど濡れていた。
「屋根は残ってる」
ガルドさんが天井を見上げる。
「雪が吹き込んだだけじゃ、ここまでは濡れねぇな」
「大型が持ち込んだ水でしょうか」
金属匙で水を掬う。
すでに冷えきっているのに、凍る様子はなかった。
「たぶんな」
ガルドさんは濡れた床から一歩離れ、鼻を動かす。
「昨日の灰牙犬より濃い」
「はい」
口の中に塩気を感じるほどだった。
海から遠く離れた雪原で。
壁も床も、人の足跡さえ――潮に濡れている。
「書類を見ます」
倒れた卓のそばへ移動する。
散乱した紙の多くは水を吸い、文字が滲んでいた。
無事なものを一枚ずつ拾い上げる。
物資の受領記録。
天候の報告。
調査班の予定表。
「昨日の分があります」
紙の端を押さえ、書かれた文字を追う。
「昼過ぎ、周辺の小型魔物が南へ移動。夕刻、北東の林で大型の鳴き声を確認……」
最後の行は、途中で途切れていた。
筆が大きく滑り、黒い線を残している。
「襲われた時に書いてたのか」
「かもしれません」
紙の隅には、乾いた血がついていた。
それでも大型の種類までは記されていない。
見た者に書き残す余裕がなかったのだろう。
「ほかに使えそうなものは?」
「拠点の見取り図があります」
壁へ貼られていた地図を剥がす。
中庭を中心に、詰め所、宿舎、食料庫、治療室、騎獣舎が描かれている。
拠点の北東側には、小さな印があった。
「これは何でしょう」
「旧観測坑?」
ガルドさんが地図へ顔を寄せる。
「拠点ができる前に使われてた穴じゃねぇか。雪崩の時の避難場所にもなってる」
「人が入れるんですね」
「ああ。だが、ここから少し離れてる」
地図では、北東の林を越えた先だった。
大型の足跡が向かっていた方角とも重なる。
「避難した可能性はあります」
「まだ決めるな」
ガルドさんは地図を受け取り、内側へ折り畳んだ。
「まず、拠点の中を全部見る」
「分かっています」
気が急いている。
それを見抜かれたらしい。
僕は一度息を吐き、室内へ視線を戻した。
「……ここには、もう誰もいません」
「ああ。次だ」
詰め所を出る。
吹雪は先ほどより強くなり、足跡の輪郭を少しずつ消し始めていた。
◆
次に入ったのは、宿舎だった。
扉は内側から半分壊れている。
何かが外へ出ようとして押し破ったのか、それとも大型が前脚を差し入れたのか――裂けた木材だけでは判別できない。
「ガルドさん」
扉の下に、細いものが挟まっていた。
指差すと、彼が大盾を構えたまま目を細める。
「腕だな」
「……はい」
雪に埋まりかけた手。
手袋は破れ、指先は青白く変色していた。
「開けるぞ」
ガルドさんが扉を持ち上げる。
重たい木材が軋み、下敷きになっていた身体が露わになった。
獣人族の男性。
拠点職員の上着を着ている。
背中から腰にかけて、大きく裂かれていた。
「…………」
片刃剣を下げ、亡骸の横へ膝をつく。
首へ指を当てる必要はなかった。
身体は完全に冷え、開いた目には薄い氷が張っている。
「死んでから、どのくらいでしょう」
「昨夜だろうな」
ガルドさんが周囲を確かめながら答える。
「雪の積もり方から見ても、それより前じゃねぇ」
「名簿を確認します」
亡骸の胸元を探り、身分札を取り出す。
刻まれていた名前を、依頼書の一覧と照らし合わせた。
「常駐職員の一人です。名前は、ドニスさん」
「覚えとけ」
「はい」
札を元へ戻し、開いた瞼へ手を添える。
「必ず、連れて帰ります」
声は返らなかった。
代わりに、建物のどこかから木が軋む音が響く。
反射的に片刃剣を持ち上げる。
同時に、ガルドさんの大盾が僕の前へ出た。
「右奥」
低い声。
部屋の奥。
布の仕切りが、ゆっくり揺れていた。
風ではない。
窓は閉じている。
「出てこい!」
ガルドさんが声を張る。
返事はない。
僕は盾の左から刃を覗かせ、足音を殺して距離を詰めた。
一歩。
もう一歩。
布の向こうで、何かが動く。
「――っ!」
飛び出してきた白い影へ、刃を振りかける。
「待て!」
ガルドさんの声に、寸前で止めた。
床へ転がったのは、破れた寝具だった。
中に入り込んでいた雪鼠が一匹、壁の穴から逃げていく。
「……雪鼠」
「ああ」
刃の先が、僅かに震えていた。
「すみません」
「謝るな。止められたならいい」
ガルドさんは盾を下げ、僕の刃へ目を向ける。
「だが、動いたものへすぐ斬りかかるな。生存者だったらどうする」
「はい」
言葉が重かった。
拠点の中には、傷ついて隠れている者がいるかもしれない。
魔物だけを警戒していては、救助にはならない。
「次は声をかけます」
「俺も先に止める」
「お願いします」
片刃剣を構え直す。
怖さで視野が狭くなっていた。
大型と戦う以前の問題だ。
――落ち着け。
僕たちは、狩りに来たのではない。
「中を確認しましょう」
「ああ」
宿舎には二段寝台が六つ並んでいた。
十二人分。
毛布は引き剥がされ、いくつかの寝台には血が残っている。
けれど、亡骸は入口にいた一人だけだった。
「ここで応戦したようです」
壁へ刃物の傷がある。
床には折れた槍。
窓の近くには、使い切った信号筒が落ちていた。
「信号弾を撃とうとしたんでしょうか」
「窓が閉じてる。外へ出る前に襲われたかもな」
ガルドさんが信号筒を拾い、内部を覗く。
「火薬は使われてる」
「では、撃った?」
「屋根か、見張り台からかもしれねぇ。吹雪で見えなかったんだろ」
救援を呼んだ。
けれど、その光は誰にも届かなかった。
「……僕たちが、もっと早ければ」
口にした瞬間、ガルドさんの手が肩へ置かれた。
「それは考えるな」
「でも」
「連絡が来た時点で、俺たちは宴の席にいた。そこから最速で来た」
大きな手に、少しだけ力が入る。
「お前が二日前へ戻れるなら好きに悔やめ。戻れねぇなら、今やれることを考えろ」
「……はい」
正しい。
分かっている。
それでも、入口の亡骸から目を逸らすには、少し時間が必要だった。
「今やれることは、生存者を探すことです」
「ああ」
ガルドさんは手を離し、次の部屋へ顎を向けた。
「治療室を見るぞ」
「はい」
◆
治療室の扉には、大きな爪痕が三本刻まれていた。
扉そのものは壊れていない。
大型は中へ入れなかったのか、それとも途中で別の獲物へ向かったのか。
「鍵が掛かっています」
取っ手を引いて確かめる。
「中に誰かいるかもしれねぇ」
ガルドさんが扉へ拳を当てた。
「エルドランのハンターだ! 誰かいるなら返事をしろ!」
声が建物へ響く。
返事はない。
僕も扉へ耳を寄せる。
風。
木の軋み。
遠くで何かが落ちた音。
人の息遣いは聞こえなかった。
「開けますか?」
「ああ。下がれ」
ガルドさんが盾を背へ戻し、扉の横へ肩を入れた。
一度。
二度。
三度目で閂が砕け、扉が内側へ倒れる。
「誰かいますか!」
僕が声を張る。
返事はない。
治療室の中は、ほかの建物よりも整っていた。
寝台が四つ。
薬棚。
水を張るための鉢。
ただし、寝台には誰もいない。
「使った跡があります」
一番奥の寝台だけ、敷布が血で濡れている。
床には包帯と、空になった薬瓶が散らばっていた。
「ここで手当てしたあと、移動したんでしょうか」
「そう見えるな」
ガルドさんが薬棚を確認する。
治療薬の大半が持ち出され、残っているのは空瓶ばかりだった。
「自分たちで逃げたなら、薬と毛布を持っていく」
「旧観測坑へ?」
僕は壁へ目を向ける。
治療室の端に、小さな掲示板があった。
当番表や薬の在庫表に混じって、緊急避難手順が貼られている。
「大型魔物による拠点放棄時は、北東の旧観測坑へ移動……」
文字を読み上げる。
「移動できない負傷者がいる場合は、治療室または地下倉庫へ残り、救援を待つ」
「地下倉庫は?」
「食料庫の下です」
見取り図へ目を落とす。
「まだ、そっちを見ていません」
「行くぞ」
治療室を出ようとしたところで、床に落ちた白い布が目に入った。
「待ってください」
拾い上げる。
腕へ巻くための包帯だった。
血に染まっている。
その上から、黒い炭で文字が書かれていた。
「……何だ?」
ガルドさんが隣へ立つ。
僕は皺を伸ばし、掠れた文字を読んだ。
「『動ける者は坑道へ。三名、地下に残る』」
その下にも、文字が続いている。
「『大型は水を纏う。傷が治らない』……」
最後の一文は、途中で途切れていた。
包帯を握る手へ力が入る。
「三人が地下倉庫に残った」
「ああ」
ガルドさんはすぐに部屋を出る。
僕も包帯を道具袋へしまい、その背を追った。
「生きているでしょうか」
「行って確かめる」
「はい」
食料庫は、中庭を挟んだ反対側だ。
外へ出る。
吹雪が顔へ叩きつけられ、視界が一瞬白く染まった。
「ガルドさん!」
声を上げる。
すぐ前にいるはずの背中が、雪に霞んでいた。
「ここだ!」
大きな手が伸び、僕の腕を掴む。
「離れるな!」
「はい!」
二人で中庭を横切る。
雪は、先ほどより明らかに強くなっていた。
大型の足跡も、人の足跡も、次々と白く埋められていく。
食料庫の前へ着く。
扉は閉じていた。
けれど、錠前は外側から壊されている。
「大型が入ったのか?」
「分かりません」
僕は片刃剣を構え、扉へ近づく。
ガルドさんが取っ手へ手をかける。
僕へ視線を向け、一度だけ頷いた。
「開けるぞ」
「はい」
扉が開く。
冷気とともに、腐った肉のような匂いが流れ出した。
「っ……」
思わず口元を覆う。
食料庫の中には、壊れた樽と袋が散乱している。
保存肉は床へ落ち、穀物は水を吸って黒く膨らんでいた。
その奥。
床へ続く階段の扉が、半分だけ開いている。
「地下です」
二人でゆっくり近づく。
扉の前には血があった。
ここまで来た人のものだ。
けれど――。
「中へ続いていない」
血の跡は、階段の直前で途切れていた。
「誰かに運ばれたのか?」
「それとも……」
横へ引きずられた跡がある。
食料庫の奥に開いた、暗い穴へ続いていた。
壁が壊されている。
大型の前脚が通るほどではない。
それでも、人一人を引きずり出すには十分な大きさだった。
「坊主。地下を先に見る」
「はい」
穴から視線を外し、階段の扉へ向かう。
ガルドさんが大盾を前へ。
僕はその左後ろ。
一段ずつ、暗い階段を下りていく。
「エルドランのハンターです!」
声を張る。
「誰かいませんか!」
返事はない。
地下へ降りるほど、潮の匂いが濃くなった。
床には水が溜まり、靴が沈むたび、ぴちゃりと小さな音が鳴る。
「灯りを」
ガルドさんに言われ、道具袋から発光石を取り出した。
淡い光が地下倉庫を照らす。
棚。
木箱。
毛布。
そして――空になった寝台が三つ。
「いない……」
治療薬や毛布を使った跡はある。
壁際には、食べかけの乾燥肉。
まだ完全には凍っていない水筒。
つい最近まで、誰かがここにいた。
「移動したのか?」
ガルドさんが周囲を見回す。
「負傷者が三人いたはずです」
「だが、血はここまで続いてねぇ」
床に残った水へ目を向ける。
濁った表面。
その中に、人の靴跡がいくつも残っている。
「こっちです」
足跡は、地下倉庫の奥へ続いていた。
木箱を退かす。
その裏に、小さな扉がある。
「見取り図にはありませんでした」
「古い通路かもな」
扉を開く。
冷たい風が、地下から吹き込んできた。
その先には、狭い通路。
外へ向かって緩やかに上っている。
雪の中へ逃げるための、裏口らしい。
「皆、ここから出たんでしょうか」
「負傷者を連れてな」
ガルドさんが通路の床へ目を向ける。
血の跡。
人の足跡。
毛布を引きずった痕跡。
少なくとも、三人以上がここを通った。
「旧観測坑へ向かった?」
「可能性は高い」
ガルドさんは通路の奥を睨む。
犬耳が僅かに動いた。
「……待て」
「何か聞こえましたか?」
僕も息を止める。
風が通路を抜ける音。
雪が壁を叩く音。
その中に――。
「…………けて」
声。
小さい。
かすれて、今にも消えそうな声。
「今、聞こえました」
ガルドさんが大盾を背負い直す。
「ああ」
「人です」
「落ち着け。距離が分からねぇ」
分かっている。
それでも、身体はすでに通路へ向いていた。
「もう一度、声を!」
暗闇へ叫ぶ。
「エルドランのハンターです! 聞こえていますか!」
しばらく、何も返ってこなかった。
聞き間違いだったのか。
風が、人の声に聞こえただけだったのか。
拳を握る。
その時――今度は、はっきりと届いた。
「たす……けて……!」
地下通路の向こう。
吹雪に閉ざされた雪原から。
誰かが、僕たちを呼んでいた。
「行きます!」
一歩踏み出す。
すぐに、ガルドさんが僕の外套を掴んだ。
「先走るな。並んで行くぞ」
「……はい」
僕は片刃剣を握り直す。
ガルドさんが大盾を構え、隣へ立った。
拠点は壊されていた。
一人は、すでに亡くなっていた。
それでも――まだ、声は残っている。
「行くぞ、相棒」
「はい」
僕たちは暗い通路へ踏み込んだ。
吹雪の向こうで助けを求める、その声を追って。
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