駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第二章 第十一話『少年は雪の中で声を探す』

 

 ◆

 

 地下通路は、人が一人通れるほどの幅しかなかった。

 

 発光石の淡い光が、濡れた石壁を照らしている。

 天井は低く、ガルドさんが進むたび、背負った大盾の縁が何度も岩へ擦れた。

 

「たす……けて……!」

 

 声は、通路の先から聞こえてくる。

 風に呑まれ、途切れながらも――確かに、人の声だった。

 

「聞こえています!」

 

 僕は暗闇へ向かって叫ぶ。

 

「今、そちらへ向かっています! もう一度、声を出してください!」

 

 返事はすぐには来なかった。

 代わりに、冷たい風が狭い通路を駆け抜け、外套の裾を強く揺らす。

 

「急ぐぞ」

 

 ガルドさんが歩みを速めた。

 僕も発光石を掲げ、その背を追う。

 

 床には、いくつもの足跡が残っていた。

 人の靴跡。

 毛布か担架を引きずった跡。

 そして、ところどころへ落ちた血。

 

 どれも外へ向かっている。

 

「三人で間違いなさそうです」

 

 足跡を見ながら言うと、ガルドさんは正面を向いたまま頷いた。

 

「ああ。一人が負傷者を引きずって、もう一人が支えてる」

「途中から、足跡が乱れていますね」

 

 発光石を下げ、壁際へ続く血痕を照らす。

 

「何かあったんだろうな」

 

 通路の途中から、血の量が増えていた。

 壁には手をついた跡があり、指の形に赤黒く汚れている。

 

 けれど、亡骸はない。

 

 ――まだ生きている。

 

 そう思いたかった。

 

「エルドランのハンターです!」

 

 もう一度、声を張る。

 

「聞こえていたら、返事をしてください!」

 

 今度は、少し間を置いてから声が返ってきた。

 

「ここ……です……!」

 

 先ほどより近い。

 けれど、ひどく弱々しかった。

 

「あと少しです!」

 

 足が自然と速くなる。

 その肩を、前を歩くガルドさんの腕が止めた。

 

「坊主」

「聞こえましたよね?」

 

 顔を上げると、ガルドさんの犬耳は通路の先へ硬く向けられていた。

 

「ああ。だから落ち着け」

「何か聞こえますか?」

 

 彼は通路の壁へ片手を触れ、目を細める。

 

「声の向こうから、別の音がする」

「別の音?」

 

 僕も息を止めた。

 

 風。

 雪が地面を擦る音。

 遠くで木が軋む音。

 

 その奥に――かすかな唸りが混じっている。

 

「人の声ではありませんね」

「獣か、風が穴を抜けてるか。まだ分からねぇ」

 

 ガルドさんは大盾を背中から下ろし、狭い通路の前へ構えた。

 

「俺より前に出るな」

「でも、負傷者がいます」

「お前が襲われたら、助ける奴が一人増える」

 

 低い声だった。

 僕は片刃剣を握り直し、半歩下がる。

 

「……分かりました」

「よし。行くぞ」

 

 再び歩き出す。

 今度は、先ほどより慎重に。

 

 通路の先に、白い光が見え始めた。

 出口だ。

 

 ただし、扉は失われている。

 岩を組んだ出口の半分が崩れ、吹雪が容赦なく地下へ入り込んでいた。

 

「外へ出るぞ」

 

 ガルドさんが大盾を傾け、吹き込む雪を受け止める。

 

「離れるなよ」

「はい」

 

 盾の陰へ身を寄せ、一緒に外へ踏み出した。

 

 ◆

 

 通路の外は、拠点の北東側にある谷間だった。

 

 左右を低い岩壁に挟まれ、その上には黒い針葉樹が並んでいる。

 谷を抜ける風が雪を巻き上げ、目を開けているだけでも痛かった。

 

「声は、どちらからですか!」

 

 フードを押さえながら叫ぶ。

 

「……こっち……!」

 

 右前方。

 岩壁の奥から、かすかな返事が届いた。

 

「聞こえたか?」

 

 ガルドさんが大盾の陰から顔を向ける。

 

「はい。右です」

 

 彼も頷き、道具袋から長い縄を取り出した。

 片方を自分の腰へ巻き、もう片方を僕へ差し出す。

 

「結べ」

「離れないように、ですか?」

「この吹雪じゃ、二歩離れたら見失う」

 

 受け取った縄を腰へ巻き、金具で固定する。

 少し強く引くと、ガルドさんの腰まで確かな重みが伝わった。

 

「これなら大丈夫です」

「転んだら声を出せよ」

「ガルドさんも」

「俺は転ばねぇ」

「僕も転ぶつもりはありません」

 

 言い終わる前に、足元の雪が崩れた。

 片脚が膝まで沈み、身体が前へ傾く。

 

「おっと」

 

 縄が張り、ガルドさんに引き戻された。

 

「……今のは雪が悪いです」

「吹雪の中で雪に文句を言うな」

 

 笑うような余裕はなかったけれど、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 二人で谷の奥へ進む。

 

 足元には、人の痕跡が残っていた。

 ただし、雪に埋もれ始めている。

 

「ここです」

 

 岩陰に、赤い染みを見つける。

 その先には、毛布を引きずった跡も続いていた。

 

「まだ新しいな」

 

 ガルドさんが血の表面へ手をかざす。

 

「完全には凍ってねぇ」

「近くにいます」

 

 顔を上げ、吹雪の向こうへ呼びかける。

 

「聞こえていますか!」

「……はい……!」

 

 今度は、はっきり聞こえた。

 

「もう少しだけ、声を出し続けてください!」

「こっち……岩の……下……!」

 

 岩の下。

 

 谷の右側には、雪に覆われた大きな岩が連なっている。

 その一つの下に、黒い隙間が見えた。

 

「ガルドさん」

 

 僕が指差すと、彼もすぐに大盾を向けた。

 

「見えてる」

 

 大盾を前へ構えたまま近づく。

 

 隙間の前には、折れた木の板が何枚も立てかけられていた。

 即席の壁だ。

 

「エルドランのハンターだ!」

 

 ガルドさんが板の向こうへ声を張る。

 

「中に何人いる!」

「三人……です……!」

 

 返事は、若い女性の声だった。

 

「動ける者は?」

 

 ガルドさんが周囲を警戒したまま問い返す。

 

「私だけ……でも、脚を……」

 

 言葉の途中で、苦しそうな息が混じった。

 

 僕は板へ手を伸ばす。

 

「今、開けます」

「待て」

 

 ガルドさんが周囲へ目を向ける。

 大きな足跡や獣の気配がないことを確かめてから、僕へ頷いた。

 

「開けろ」

「はい」

 

 雪を掻き分け、板を一枚ずつ外す。

 最後の一枚を退かすと、狭い岩窟が現れた。

 

 その奥で、三人が身を寄せ合っている。

 

「……来て、くれた」

 

 入口に近い場所へ座っていたのは、若い女性だった。

 乱れた金髪の隙間から長い耳が覗き、凍えた先端が痛々しいほど赤くなっている。

 

 拠点職員の厚手の上着を纏い、左脚には血に染まった布が巻かれていた。

 

 その奥には、獣耳を力なく伏せた大柄な男性と、小柄ながら肩や腕の太い女性。

 二人とも毛布へ包まれ、意識がない。

 

「救助に来ました」

 

 岩窟の中へ入ろうとする。

 けれど、長い耳の女性は僕の姿を見た途端、震える手を伸ばした。

 

「静かに……」

「何がいるんです?」

 

 声を落として尋ねる。

 女性は唇を震わせ、岩窟の外へ視線を向けた。

 

「戻って……くる」

 

 唇は青く、呼吸も浅い。

 それでも、見開かれた瞳だけは吹雪の向こうを追っていた。

 

「白いのが……私たちを、探してる……」

 

 ガルドさんの犬耳が、ぴくりと動く。

 

「大型か?」

「分かりません……大きくて……白くて……水を……」

 

 女性の長い耳が、恐怖を思い出したように震えた。

 腕で自分の身体を抱き、何度も首を振る。

 

「斬っても、刺しても……止まらなかった」

「今はどこにいます?」

 

 僕が周囲へ視線を走らせると、彼女は力なく首を振った。

 

「分からない……音が消えて……でも、何度も戻ってきて……」

 

 怯え方からして、見間違いではない。

 

 ガルドさんは岩窟の入口へ立ち、吹雪の向こうを警戒する。

 僕は女性の前へ膝をついた。

 

「名前を教えてください」

「……イリナ」

「イリナさん。こちらの二人は?」

 

 僕が奥へ目を向けると、イリナさんも毛布に包まれた二人を見た。

 

「バルクと……ティナです」

 

 獣耳の男性――バルクさんは、俯せに近い姿勢で横たわっている。

 灰色の毛に覆われた太い腕が毛布からはみ出し、その指先はぴくりとも動かなかった。

 

 隣のティナさんは、イリナさんの肩にも届かないほど小柄だ。

 それでも骨格は太く、毛布の下から覗く腕には、長く力仕事をしてきた者らしい筋肉が浮かんでいた。

 

「バルクは背中を……ティナは、腕とお腹を……」

 

 イリナさんの視線が二人の傷へ移る。

 

「治療したけど、傷が閉じなくて……」

「セラフィーンさんから、治療薬を預かっています」

 

 道具袋を開き、教会でもらった薬と聖布を取り出す。

 

「ガルドさん。三人とも生きています」

「運べそうか?」

 

 ガルドさんが外を見たまま尋ねる。

 

「確認します」

 

 まず、バルクさんへ近づく。

 獣耳の下へ指を添え、首の脈を探した。

 

 弱い。

 それでも、確かに動いている。

 

 背中へ巻かれた包帯は、水と血で濡れきっていた。

 布を少し持ち上げると、分厚い毛皮ごと爪で裂かれたような傷が見える。

 

「……深い」

 

 傷口が黒ずみ、周囲の毛まで濡れている。

 血だけではない。

 

 透明な水が、傷の奥から少しずつ滲み続けていた。

 

「灰牙犬と同じです」

「治るか?」

 

 ガルドさんが外を見たまま尋ねる。

 

「完全には無理です。止血して、運べる状態にします」

 

 治療薬を傷の周囲へ塗る。

 けれど、薬は流れ出す水へ薄められ、なかなか留まらない。

 

「イリナさん。傷を押さえるのを手伝えますか?」

「はい……」

 

 イリナさんが立ち上がろうとする。

 けれど、負傷した脚へ力を入れた途端、長い耳が大きく揺れ、身体が横へ傾いた。

 

「無理をしないでください」

 

 肩を支える。

 左脚の布からは、まだ血が滲んでいた。

 

「僕がやります」

「でも……」

「三人とも連れて帰ります」

 

 イリナさんを毛布の上へ座らせる。

 

「そのために、今は休んでいてください」

「……お願いします」

「任せてください」

 

 聖布を傷口へ当て、強く押さえる。

 白い布へ淡い光が灯り、水に流されながらも出血を抑えていく。

 

「セラフィーンさん、すごいですね……」

 

 昨日までなら、ただの白い布だった。

 今は遠く離れた雪原で、誰かの命をつないでいる。

 

「坊主」

 

 ガルドさんの低い声が飛んだ。

 

「長くいられねぇぞ」

「外に何か?」

 

 顔を上げると、彼の犬耳は絶えず吹雪の中を探っていた。

 

「まだ何も聞こえねぇ。だからこそ気味が悪い」

「獣の鳴き声も?」

「鳥の羽音すらねぇ」

 

 ガルドさんは大盾の握りを確かめる。

 

「急ぎます」

 

 聖布を固定し、次はティナさんを調べる。

 

 右腕は不自然な方向へ曲がっていた。

 腹部にも傷があるものの、こちらは厚い布で押さえられている。

 

「骨を戻します」

 

 僕はイリナさんへ顔を向けた。

 

「意識を失っている間に行います。身体を支えてもらえますか?」

「できます」

 

 イリナさんは長い耳を伏せながらも、今度は立ち上がらなかった。

 座ったままティナさんの太い肩へ腕を回す。

 

「ガルドさん。少し大きな音が出ます」

「分かった。周りは見とく」

 

 折れた腕へ手を添える。

 関節ではなく、前腕の中央だ。

 

「……いきます」

 

 息を吐きながら、骨の位置を戻す。

 

 鈍い音。

 意識のないティナさんの身体が跳ね、イリナさんが必死に支えた。

 

「終わりました」

「これで……大丈夫?」

「添え木で固定します」

 

 道具袋から木板を取り出し、ティナさんの腕へ当てる。

 

「少なくとも、運ぶ時に悪化はしません」

 

 包帯で巻き終える頃には、自分の額にも汗が滲んでいた。

 

 寒いはずなのに、身体の内側だけが熱い。

 

 焦っている。

 

 三人は生きている。

 けれど、このままでは長く持たない。

 

「どう運びます?」

 

 僕が尋ねると、ガルドさんは岩窟の中を一度振り返った。

 

「担架を二つ作る。重傷の二人をそれぞれ載せる」

「イリナさんは?」

 

 ガルドさんは自分の背を親指で示した。

 

「俺が背負う」

「三人とも運べますか?」

「騎獣のところまで戻れりゃな」

 

 彼は大盾の留め具を外す。

 

「盾を一枚、担架代わりに使う」

「でも、そうすると戦えません」

 

 大盾が雪の上へ置かれる。

 ガルドさんは取っ手へ縄を通しながら、短く息を吐いた。

 

「運んでる間は、どのみち片手しか使えねぇ」

「もう一つは?」

「板で作れ」

「分かりました」

 

 岩窟の入口に立てかけられていた木板を並べ、縄で固定する。

 幅は狭いが、小柄なティナさんなら載せられる。

 

「イリナさん」

 

 縄を締めながら、僕は彼女へ目を向ける。

 

「旧観測坑へ向かっていたんですよね?」

「はい……」

 

 イリナさんは傷ついた脚を抱え、長い耳を力なく伏せた。

 

「最初は……十五人いました」

「十五人?」

 

 僕とガルドさんが、同時に顔を上げる。

 

 依頼書にあった人数は十二人。

 常駐職員四人。

 調査班六人。

 護衛のハンターが二人。

 

「近くにいた猟師と……旅人が、拠点へ逃げてきて……」

 

 イリナさんは冷えた指を組み、途切れ途切れに続ける。

 

「みんなで坑道へ向かいました。でも、白いのが来て……」

「何人が坑道まで行けた?」

 

 ガルドさんの問いに、イリナさんは唇を噛んだ。

 

「分かりません。私たちは、負傷者を運んでいて……途中で離れました」

「ほかの人たちは、北東へ?」

「はい」

 

 小さく頷くたび、長い耳が震える。

 

 旧観測坑。

 大型の足跡が向かっていたのと、同じ方角だ。

 

「拠点に残った人は?」

「ドニスさんが……扉を閉めるって……」

 

 宿舎の入口で見つけた亡骸。

 あの人が、皆を逃がすために残ったのだろう。

 

「それから、ハンターの二人が大型を引きつけました」

 

 イリナさんの声が、さらに小さくなる。

 

「一人は……たぶん、もう……」

「もう一人は?」

 

 僕が問いかけると、彼女は岩窟の外へ視線を向けた。

 

「白いのを追って、森の方へ……」

 

 ガルドさんと目が合う。

 

 森へ向かった人の足跡。

 拠点近くで見つけた、倒れたケルン。

 

 まだ、誰かが生きている可能性がある。

 

「旧観測坑まで、どのくらいです?」

「ここからなら……歩いて、四半刻ほど……」

「負傷者を連れていけば、その倍だな」

 

 ガルドさんは担架代わりの盾を引き寄せ、バルクさんを慎重に載せる。

 

「まず拠点へ戻る」

「坑道へ行かないんですか?」

 

 思わず尋ねると、ガルドさんの目が鋭くなった。

 

「この三人を連れたままじゃ無理だ」

「でも、ほかにも生存者が」

「だからこそ、こいつらを安全な場所へ置く」

 

 バルクさんの太い腕を胸元へ固定しながら、ガルドさんは続ける。

 

「拠点の地下なら風を防げる。荷と騎獣もある。三人を運び、手当てをしてから坑道へ向かう」

「時間が――」

 

 言いかけたところで、ガルドさんの手が止まった。

 

「坊主」

「……はい」

「一度に全部は助けられねぇ」

 

 分かっている。

 宿場でも、同じことを教えられた。

 

「急いで三人を死なせるのと、順番に助けるのは違う」

「…………」

 

 今すぐ向かわなければ、坑道の人たちが危ないかもしれない。

 けれど、目の前の三人も今すぐ助けを必要としている。

 

 僕は握っていた縄を、一度緩めた。

 

「……分かりました」

「ああ」

「まず、この三人を拠点へ」

「それから旧観測坑だ」

 

 ガルドさんの犬耳が、僅かに持ち上がった。

 

「急ぐぞ、相棒」

「はい」

 

 ◆

 

 担架を外へ出すと、吹雪はさらに激しくなっていた。

 

 ガルドさんはイリナさんを背負い、その上から、大盾に載せたバルクさんを縄で引く。

 僕は木板の担架へティナさんを載せ、腰へ巻いた縄で引っ張った。

 

「重くないですか!」

 

 風に負けないよう声を張る。

 

「お前の方こそ、転ぶなよ!」

 

 ガルドさんが振り返らずに答える。

 その背では、イリナさんの長い耳が風に煽られないよう、外套の襟へ押し込まれていた。

 

 足を踏み出すたび、雪へ膝近くまで沈む。

 担架は何度も引っかかり、そのたびに持ち上げて進まなければならなかった。

 

「ティナさん。もう少しだけです」

 

 意識のない相手へ呼びかける。

 返事はない。

 

 小柄な胸が、毛布の下で僅かに上下している。

 

 まだ生きている。

 

 その事実だけで、腕に力を込められた。

 

「坊主、止まれ!」

 

 ガルドさんの声に、すぐ足を止める。

 

「どうしました!」

「足元だ!」

 

 雪の下。

 ティナさんの担架のすぐ横へ、深い窪みがあった。

 

 足跡だ。

 

 行きに見つけたものとは違う。

 雪がほとんど積もっていない。

 

「新しい……」

 

 吹雪の中でも分かるほど、輪郭がはっきり残っている。

 

 胸ほどの幅がある四本指。

 足跡の底には、透明な水が溜まっていた。

 

 海の匂いが、風に混じる。

 

「さっきは、ありませんでした」

 

 岩窟へ向かう時、この場所を通っている。

 その時には、こんな足跡はなかった。

 

「俺たちが中にいる間に通った」

 

 ガルドさんが背負ったイリナさんを支え直す。

 犬耳は、吹雪の向こうへ硬く向けられていた。

 

「近くにいます」

「ああ」

 

 片刃剣へ手を伸ばす。

 けれど、右手には担架の縄がある。

 

 今は抜けない。

 

「どうします?」

「止まらねぇ」

 

 ガルドさんは短く答え、再び歩き始める。

 

「今は戦えねぇ。拠点まで運ぶ」

「追ってきたら?」

 

 僕が足跡の向こうへ視線を走らせると、ガルドさんは前を向いたまま答えた。

 

「その時は俺が止める」

「大盾は担架に使っています」

「分かってる」

 

 ガルドさんの声には迷いがなかった。

 

「お前は三人を連れて走れ」

「一人で残るつもりですか?」

「必要ならな」

「それは駄目です」

 

 雪を踏みしめ、彼の横へ並ぶ。

 

「ガルドさんも一緒に戻ります」

「坊主」

「全員で帰ると約束しました」

 

 ガルドさんが一瞬だけこちらを見る。

 その背中では、イリナさんが苦しそうに息をしている。

 

「……なら、追いつかれねぇように急げ」

「はい」

 

 足を速める。

 

 足跡は、僕たちが進む方向と並行して続いていた。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 

 まるで、吹雪の向こうからこちらを見ながら歩いていたかのように。

 

 それでも、姿は見えない。

 

 聞こえるのは風だけ。

 雪を踏む僕たちの音だけ。

 

「イリナさん」

 

 ガルドさんの背中で、彼女の身体が僅かに動いた。

 長い耳が何かを捉えたように、力なく持ち上がる。

 

「……来る」

「何がです?」

 

 僕が尋ねると、青ざめた唇が震えた。

 

「あれは……声を、覚えるから……」

「声を?」

 

 ガルドさんの足が、僅かに鈍る。

 

「呼ぶと……来る……」

 

 誰も声を発しなくなった。

 

 先ほどまで、僕たちは何度も叫んでいた。

 助けを求める声へ、こちらから声を返し続けた。

 

 風が止んだ。

 

 ほんの一瞬だけ。

 吹雪の音が、すべて消える。

 

 静寂の中で――遠くから、何かが雪を踏み砕く音が響いた。

 

 ずしん。

 地面が、僅かに揺れる。

 

 ずしん。

 もう一度。

 先ほどより近い。

 

「走れ!」

 

 ガルドさんの怒号と同時に、僕は担架の縄を強く引いた。

 

 雪を蹴る。

 ティナさんを落とさないよう、何度も後ろを確かめる。

 

 拠点は、まだ見えない。

 

 吹雪の向こう。

 白い世界のどこかで、巨大なものが僕たちを追っている。

 

 姿は見えない。

 

 ただ、足音だけが近づいてくる。

 雪を踏み潰す音と、喉の奥で燻る低い唸りだけが、少しずつ近づいてくる。

 そして、

 

 ――rrrRRRRAAAAAAH――!

 

 その声が、突然大きく裂けた。

 地を這っていた低音が、獣じみた長い咆哮へ変わる。

 谷の岩壁が震え、反響した声が四方から押し寄せた。

 

 近い。

 そう理解した瞬間、右脇腹の古傷が強く引きつった。

 

「来る……!」

 

 イリナさんが、ガルドさんの背へしがみつく。

 伏せられた長い耳は、震えたまま持ち上がらない。

 

 僕は振り返らなかった。

 

 今は戦う時ではない。

 担架を引く手へ力を込め、ただ拠点を目指す。

 

 それでも――右脇腹の古傷は、はっきりと痛んでいた。

 

 二年前に聞いたものと、同じ咆哮だった。

 

 





 ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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