駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
◆
地下通路は、人が一人通れるほどの幅しかなかった。
発光石の淡い光が、濡れた石壁を照らしている。
天井は低く、ガルドさんが進むたび、背負った大盾の縁が何度も岩へ擦れた。
「たす……けて……!」
声は、通路の先から聞こえてくる。
風に呑まれ、途切れながらも――確かに、人の声だった。
「聞こえています!」
僕は暗闇へ向かって叫ぶ。
「今、そちらへ向かっています! もう一度、声を出してください!」
返事はすぐには来なかった。
代わりに、冷たい風が狭い通路を駆け抜け、外套の裾を強く揺らす。
「急ぐぞ」
ガルドさんが歩みを速めた。
僕も発光石を掲げ、その背を追う。
床には、いくつもの足跡が残っていた。
人の靴跡。
毛布か担架を引きずった跡。
そして、ところどころへ落ちた血。
どれも外へ向かっている。
「三人で間違いなさそうです」
足跡を見ながら言うと、ガルドさんは正面を向いたまま頷いた。
「ああ。一人が負傷者を引きずって、もう一人が支えてる」
「途中から、足跡が乱れていますね」
発光石を下げ、壁際へ続く血痕を照らす。
「何かあったんだろうな」
通路の途中から、血の量が増えていた。
壁には手をついた跡があり、指の形に赤黒く汚れている。
けれど、亡骸はない。
――まだ生きている。
そう思いたかった。
「エルドランのハンターです!」
もう一度、声を張る。
「聞こえていたら、返事をしてください!」
今度は、少し間を置いてから声が返ってきた。
「ここ……です……!」
先ほどより近い。
けれど、ひどく弱々しかった。
「あと少しです!」
足が自然と速くなる。
その肩を、前を歩くガルドさんの腕が止めた。
「坊主」
「聞こえましたよね?」
顔を上げると、ガルドさんの犬耳は通路の先へ硬く向けられていた。
「ああ。だから落ち着け」
「何か聞こえますか?」
彼は通路の壁へ片手を触れ、目を細める。
「声の向こうから、別の音がする」
「別の音?」
僕も息を止めた。
風。
雪が地面を擦る音。
遠くで木が軋む音。
その奥に――かすかな唸りが混じっている。
「人の声ではありませんね」
「獣か、風が穴を抜けてるか。まだ分からねぇ」
ガルドさんは大盾を背中から下ろし、狭い通路の前へ構えた。
「俺より前に出るな」
「でも、負傷者がいます」
「お前が襲われたら、助ける奴が一人増える」
低い声だった。
僕は片刃剣を握り直し、半歩下がる。
「……分かりました」
「よし。行くぞ」
再び歩き出す。
今度は、先ほどより慎重に。
通路の先に、白い光が見え始めた。
出口だ。
ただし、扉は失われている。
岩を組んだ出口の半分が崩れ、吹雪が容赦なく地下へ入り込んでいた。
「外へ出るぞ」
ガルドさんが大盾を傾け、吹き込む雪を受け止める。
「離れるなよ」
「はい」
盾の陰へ身を寄せ、一緒に外へ踏み出した。
◆
通路の外は、拠点の北東側にある谷間だった。
左右を低い岩壁に挟まれ、その上には黒い針葉樹が並んでいる。
谷を抜ける風が雪を巻き上げ、目を開けているだけでも痛かった。
「声は、どちらからですか!」
フードを押さえながら叫ぶ。
「……こっち……!」
右前方。
岩壁の奥から、かすかな返事が届いた。
「聞こえたか?」
ガルドさんが大盾の陰から顔を向ける。
「はい。右です」
彼も頷き、道具袋から長い縄を取り出した。
片方を自分の腰へ巻き、もう片方を僕へ差し出す。
「結べ」
「離れないように、ですか?」
「この吹雪じゃ、二歩離れたら見失う」
受け取った縄を腰へ巻き、金具で固定する。
少し強く引くと、ガルドさんの腰まで確かな重みが伝わった。
「これなら大丈夫です」
「転んだら声を出せよ」
「ガルドさんも」
「俺は転ばねぇ」
「僕も転ぶつもりはありません」
言い終わる前に、足元の雪が崩れた。
片脚が膝まで沈み、身体が前へ傾く。
「おっと」
縄が張り、ガルドさんに引き戻された。
「……今のは雪が悪いです」
「吹雪の中で雪に文句を言うな」
笑うような余裕はなかったけれど、少しだけ肩の力が抜けた。
二人で谷の奥へ進む。
足元には、人の痕跡が残っていた。
ただし、雪に埋もれ始めている。
「ここです」
岩陰に、赤い染みを見つける。
その先には、毛布を引きずった跡も続いていた。
「まだ新しいな」
ガルドさんが血の表面へ手をかざす。
「完全には凍ってねぇ」
「近くにいます」
顔を上げ、吹雪の向こうへ呼びかける。
「聞こえていますか!」
「……はい……!」
今度は、はっきり聞こえた。
「もう少しだけ、声を出し続けてください!」
「こっち……岩の……下……!」
岩の下。
谷の右側には、雪に覆われた大きな岩が連なっている。
その一つの下に、黒い隙間が見えた。
「ガルドさん」
僕が指差すと、彼もすぐに大盾を向けた。
「見えてる」
大盾を前へ構えたまま近づく。
隙間の前には、折れた木の板が何枚も立てかけられていた。
即席の壁だ。
「エルドランのハンターだ!」
ガルドさんが板の向こうへ声を張る。
「中に何人いる!」
「三人……です……!」
返事は、若い女性の声だった。
「動ける者は?」
ガルドさんが周囲を警戒したまま問い返す。
「私だけ……でも、脚を……」
言葉の途中で、苦しそうな息が混じった。
僕は板へ手を伸ばす。
「今、開けます」
「待て」
ガルドさんが周囲へ目を向ける。
大きな足跡や獣の気配がないことを確かめてから、僕へ頷いた。
「開けろ」
「はい」
雪を掻き分け、板を一枚ずつ外す。
最後の一枚を退かすと、狭い岩窟が現れた。
その奥で、三人が身を寄せ合っている。
「……来て、くれた」
入口に近い場所へ座っていたのは、若い女性だった。
乱れた金髪の隙間から長い耳が覗き、凍えた先端が痛々しいほど赤くなっている。
拠点職員の厚手の上着を纏い、左脚には血に染まった布が巻かれていた。
その奥には、獣耳を力なく伏せた大柄な男性と、小柄ながら肩や腕の太い女性。
二人とも毛布へ包まれ、意識がない。
「救助に来ました」
岩窟の中へ入ろうとする。
けれど、長い耳の女性は僕の姿を見た途端、震える手を伸ばした。
「静かに……」
「何がいるんです?」
声を落として尋ねる。
女性は唇を震わせ、岩窟の外へ視線を向けた。
「戻って……くる」
唇は青く、呼吸も浅い。
それでも、見開かれた瞳だけは吹雪の向こうを追っていた。
「白いのが……私たちを、探してる……」
ガルドさんの犬耳が、ぴくりと動く。
「大型か?」
「分かりません……大きくて……白くて……水を……」
女性の長い耳が、恐怖を思い出したように震えた。
腕で自分の身体を抱き、何度も首を振る。
「斬っても、刺しても……止まらなかった」
「今はどこにいます?」
僕が周囲へ視線を走らせると、彼女は力なく首を振った。
「分からない……音が消えて……でも、何度も戻ってきて……」
怯え方からして、見間違いではない。
ガルドさんは岩窟の入口へ立ち、吹雪の向こうを警戒する。
僕は女性の前へ膝をついた。
「名前を教えてください」
「……イリナ」
「イリナさん。こちらの二人は?」
僕が奥へ目を向けると、イリナさんも毛布に包まれた二人を見た。
「バルクと……ティナです」
獣耳の男性――バルクさんは、俯せに近い姿勢で横たわっている。
灰色の毛に覆われた太い腕が毛布からはみ出し、その指先はぴくりとも動かなかった。
隣のティナさんは、イリナさんの肩にも届かないほど小柄だ。
それでも骨格は太く、毛布の下から覗く腕には、長く力仕事をしてきた者らしい筋肉が浮かんでいた。
「バルクは背中を……ティナは、腕とお腹を……」
イリナさんの視線が二人の傷へ移る。
「治療したけど、傷が閉じなくて……」
「セラフィーンさんから、治療薬を預かっています」
道具袋を開き、教会でもらった薬と聖布を取り出す。
「ガルドさん。三人とも生きています」
「運べそうか?」
ガルドさんが外を見たまま尋ねる。
「確認します」
まず、バルクさんへ近づく。
獣耳の下へ指を添え、首の脈を探した。
弱い。
それでも、確かに動いている。
背中へ巻かれた包帯は、水と血で濡れきっていた。
布を少し持ち上げると、分厚い毛皮ごと爪で裂かれたような傷が見える。
「……深い」
傷口が黒ずみ、周囲の毛まで濡れている。
血だけではない。
透明な水が、傷の奥から少しずつ滲み続けていた。
「灰牙犬と同じです」
「治るか?」
ガルドさんが外を見たまま尋ねる。
「完全には無理です。止血して、運べる状態にします」
治療薬を傷の周囲へ塗る。
けれど、薬は流れ出す水へ薄められ、なかなか留まらない。
「イリナさん。傷を押さえるのを手伝えますか?」
「はい……」
イリナさんが立ち上がろうとする。
けれど、負傷した脚へ力を入れた途端、長い耳が大きく揺れ、身体が横へ傾いた。
「無理をしないでください」
肩を支える。
左脚の布からは、まだ血が滲んでいた。
「僕がやります」
「でも……」
「三人とも連れて帰ります」
イリナさんを毛布の上へ座らせる。
「そのために、今は休んでいてください」
「……お願いします」
「任せてください」
聖布を傷口へ当て、強く押さえる。
白い布へ淡い光が灯り、水に流されながらも出血を抑えていく。
「セラフィーンさん、すごいですね……」
昨日までなら、ただの白い布だった。
今は遠く離れた雪原で、誰かの命をつないでいる。
「坊主」
ガルドさんの低い声が飛んだ。
「長くいられねぇぞ」
「外に何か?」
顔を上げると、彼の犬耳は絶えず吹雪の中を探っていた。
「まだ何も聞こえねぇ。だからこそ気味が悪い」
「獣の鳴き声も?」
「鳥の羽音すらねぇ」
ガルドさんは大盾の握りを確かめる。
「急ぎます」
聖布を固定し、次はティナさんを調べる。
右腕は不自然な方向へ曲がっていた。
腹部にも傷があるものの、こちらは厚い布で押さえられている。
「骨を戻します」
僕はイリナさんへ顔を向けた。
「意識を失っている間に行います。身体を支えてもらえますか?」
「できます」
イリナさんは長い耳を伏せながらも、今度は立ち上がらなかった。
座ったままティナさんの太い肩へ腕を回す。
「ガルドさん。少し大きな音が出ます」
「分かった。周りは見とく」
折れた腕へ手を添える。
関節ではなく、前腕の中央だ。
「……いきます」
息を吐きながら、骨の位置を戻す。
鈍い音。
意識のないティナさんの身体が跳ね、イリナさんが必死に支えた。
「終わりました」
「これで……大丈夫?」
「添え木で固定します」
道具袋から木板を取り出し、ティナさんの腕へ当てる。
「少なくとも、運ぶ時に悪化はしません」
包帯で巻き終える頃には、自分の額にも汗が滲んでいた。
寒いはずなのに、身体の内側だけが熱い。
焦っている。
三人は生きている。
けれど、このままでは長く持たない。
「どう運びます?」
僕が尋ねると、ガルドさんは岩窟の中を一度振り返った。
「担架を二つ作る。重傷の二人をそれぞれ載せる」
「イリナさんは?」
ガルドさんは自分の背を親指で示した。
「俺が背負う」
「三人とも運べますか?」
「騎獣のところまで戻れりゃな」
彼は大盾の留め具を外す。
「盾を一枚、担架代わりに使う」
「でも、そうすると戦えません」
大盾が雪の上へ置かれる。
ガルドさんは取っ手へ縄を通しながら、短く息を吐いた。
「運んでる間は、どのみち片手しか使えねぇ」
「もう一つは?」
「板で作れ」
「分かりました」
岩窟の入口に立てかけられていた木板を並べ、縄で固定する。
幅は狭いが、小柄なティナさんなら載せられる。
「イリナさん」
縄を締めながら、僕は彼女へ目を向ける。
「旧観測坑へ向かっていたんですよね?」
「はい……」
イリナさんは傷ついた脚を抱え、長い耳を力なく伏せた。
「最初は……十五人いました」
「十五人?」
僕とガルドさんが、同時に顔を上げる。
依頼書にあった人数は十二人。
常駐職員四人。
調査班六人。
護衛のハンターが二人。
「近くにいた猟師と……旅人が、拠点へ逃げてきて……」
イリナさんは冷えた指を組み、途切れ途切れに続ける。
「みんなで坑道へ向かいました。でも、白いのが来て……」
「何人が坑道まで行けた?」
ガルドさんの問いに、イリナさんは唇を噛んだ。
「分かりません。私たちは、負傷者を運んでいて……途中で離れました」
「ほかの人たちは、北東へ?」
「はい」
小さく頷くたび、長い耳が震える。
旧観測坑。
大型の足跡が向かっていたのと、同じ方角だ。
「拠点に残った人は?」
「ドニスさんが……扉を閉めるって……」
宿舎の入口で見つけた亡骸。
あの人が、皆を逃がすために残ったのだろう。
「それから、ハンターの二人が大型を引きつけました」
イリナさんの声が、さらに小さくなる。
「一人は……たぶん、もう……」
「もう一人は?」
僕が問いかけると、彼女は岩窟の外へ視線を向けた。
「白いのを追って、森の方へ……」
ガルドさんと目が合う。
森へ向かった人の足跡。
拠点近くで見つけた、倒れたケルン。
まだ、誰かが生きている可能性がある。
「旧観測坑まで、どのくらいです?」
「ここからなら……歩いて、四半刻ほど……」
「負傷者を連れていけば、その倍だな」
ガルドさんは担架代わりの盾を引き寄せ、バルクさんを慎重に載せる。
「まず拠点へ戻る」
「坑道へ行かないんですか?」
思わず尋ねると、ガルドさんの目が鋭くなった。
「この三人を連れたままじゃ無理だ」
「でも、ほかにも生存者が」
「だからこそ、こいつらを安全な場所へ置く」
バルクさんの太い腕を胸元へ固定しながら、ガルドさんは続ける。
「拠点の地下なら風を防げる。荷と騎獣もある。三人を運び、手当てをしてから坑道へ向かう」
「時間が――」
言いかけたところで、ガルドさんの手が止まった。
「坊主」
「……はい」
「一度に全部は助けられねぇ」
分かっている。
宿場でも、同じことを教えられた。
「急いで三人を死なせるのと、順番に助けるのは違う」
「…………」
今すぐ向かわなければ、坑道の人たちが危ないかもしれない。
けれど、目の前の三人も今すぐ助けを必要としている。
僕は握っていた縄を、一度緩めた。
「……分かりました」
「ああ」
「まず、この三人を拠点へ」
「それから旧観測坑だ」
ガルドさんの犬耳が、僅かに持ち上がった。
「急ぐぞ、相棒」
「はい」
◆
担架を外へ出すと、吹雪はさらに激しくなっていた。
ガルドさんはイリナさんを背負い、その上から、大盾に載せたバルクさんを縄で引く。
僕は木板の担架へティナさんを載せ、腰へ巻いた縄で引っ張った。
「重くないですか!」
風に負けないよう声を張る。
「お前の方こそ、転ぶなよ!」
ガルドさんが振り返らずに答える。
その背では、イリナさんの長い耳が風に煽られないよう、外套の襟へ押し込まれていた。
足を踏み出すたび、雪へ膝近くまで沈む。
担架は何度も引っかかり、そのたびに持ち上げて進まなければならなかった。
「ティナさん。もう少しだけです」
意識のない相手へ呼びかける。
返事はない。
小柄な胸が、毛布の下で僅かに上下している。
まだ生きている。
その事実だけで、腕に力を込められた。
「坊主、止まれ!」
ガルドさんの声に、すぐ足を止める。
「どうしました!」
「足元だ!」
雪の下。
ティナさんの担架のすぐ横へ、深い窪みがあった。
足跡だ。
行きに見つけたものとは違う。
雪がほとんど積もっていない。
「新しい……」
吹雪の中でも分かるほど、輪郭がはっきり残っている。
胸ほどの幅がある四本指。
足跡の底には、透明な水が溜まっていた。
海の匂いが、風に混じる。
「さっきは、ありませんでした」
岩窟へ向かう時、この場所を通っている。
その時には、こんな足跡はなかった。
「俺たちが中にいる間に通った」
ガルドさんが背負ったイリナさんを支え直す。
犬耳は、吹雪の向こうへ硬く向けられていた。
「近くにいます」
「ああ」
片刃剣へ手を伸ばす。
けれど、右手には担架の縄がある。
今は抜けない。
「どうします?」
「止まらねぇ」
ガルドさんは短く答え、再び歩き始める。
「今は戦えねぇ。拠点まで運ぶ」
「追ってきたら?」
僕が足跡の向こうへ視線を走らせると、ガルドさんは前を向いたまま答えた。
「その時は俺が止める」
「大盾は担架に使っています」
「分かってる」
ガルドさんの声には迷いがなかった。
「お前は三人を連れて走れ」
「一人で残るつもりですか?」
「必要ならな」
「それは駄目です」
雪を踏みしめ、彼の横へ並ぶ。
「ガルドさんも一緒に戻ります」
「坊主」
「全員で帰ると約束しました」
ガルドさんが一瞬だけこちらを見る。
その背中では、イリナさんが苦しそうに息をしている。
「……なら、追いつかれねぇように急げ」
「はい」
足を速める。
足跡は、僕たちが進む方向と並行して続いていた。
一つ。
二つ。
三つ。
まるで、吹雪の向こうからこちらを見ながら歩いていたかのように。
それでも、姿は見えない。
聞こえるのは風だけ。
雪を踏む僕たちの音だけ。
「イリナさん」
ガルドさんの背中で、彼女の身体が僅かに動いた。
長い耳が何かを捉えたように、力なく持ち上がる。
「……来る」
「何がです?」
僕が尋ねると、青ざめた唇が震えた。
「あれは……声を、覚えるから……」
「声を?」
ガルドさんの足が、僅かに鈍る。
「呼ぶと……来る……」
誰も声を発しなくなった。
先ほどまで、僕たちは何度も叫んでいた。
助けを求める声へ、こちらから声を返し続けた。
風が止んだ。
ほんの一瞬だけ。
吹雪の音が、すべて消える。
静寂の中で――遠くから、何かが雪を踏み砕く音が響いた。
ずしん。
地面が、僅かに揺れる。
ずしん。
もう一度。
先ほどより近い。
「走れ!」
ガルドさんの怒号と同時に、僕は担架の縄を強く引いた。
雪を蹴る。
ティナさんを落とさないよう、何度も後ろを確かめる。
拠点は、まだ見えない。
吹雪の向こう。
白い世界のどこかで、巨大なものが僕たちを追っている。
姿は見えない。
ただ、足音だけが近づいてくる。
雪を踏み潰す音と、喉の奥で燻る低い唸りだけが、少しずつ近づいてくる。
そして、
――rrrRRRRAAAAAAH――!
その声が、突然大きく裂けた。
地を這っていた低音が、獣じみた長い咆哮へ変わる。
谷の岩壁が震え、反響した声が四方から押し寄せた。
近い。
そう理解した瞬間、右脇腹の古傷が強く引きつった。
「来る……!」
イリナさんが、ガルドさんの背へしがみつく。
伏せられた長い耳は、震えたまま持ち上がらない。
僕は振り返らなかった。
今は戦う時ではない。
担架を引く手へ力を込め、ただ拠点を目指す。
それでも――右脇腹の古傷は、はっきりと痛んでいた。
二年前に聞いたものと、同じ咆哮だった。
◆
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