駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~ 作:木乃実なぎ
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谷の奥から響いた咆哮は、吹雪が戻ってきても消えなかった。
地面を踏み砕く振動が一歩ごとに近づき、腰へ巻いた縄まで細かく震えている。僕は木板の担架を引く手へ力を込め、雪へ取られそうになる足を必死に前へ運んだ。
「止まるな、坊主!」
ガルドさんはイリナさんを背負い、大盾に載せたバルクさんを引きながら前を進んでいる。
その背で、イリナさんの長い耳が外套の襟へ押しつけられていた。
「止まっていません!」
「なら、後ろを見るな!」
「見ていません!」
答えた直後、背後で大きく雪が爆ぜた。
肩が勝手に強張り、振り返りそうになるのを堪える。
ティナさんは意識を失ったままだった。
小柄な身体を包む毛布は風に煽られ、その隙間から固定した右腕が覗いている。胸はまだ動いているものの、その呼吸は岩窟を出た時よりも浅くなっていた。
「もう少しです」
聞こえているか分からない相手へ呼びかけ、担架を引き上げる。
谷を抜ければ拠点は近い。そこまで戻れば地下へ三人を運び、傷口を押さえ直せる。
あと少し。
そう考えたところで、背後の足音が途絶えた。
地面を揺らしていた振動まで、前触れなく消えている。
聞こえるのは吹雪の音と、僕たちが雪を踏む音だけだった。
「ガルドさん」
声を落として呼ぶ。
前を進んでいたガルドさんも速度を僅かに緩め、二つの犬耳を後方へ向けた。
「分かってる」
「止まりましたか?」
「音はな」
ガルドさんは振り返らない。
けれど、盾を引く右腕には先ほどまで以上の力が入っていた。
「イリナ。あいつはいつもこうなのか」
「はい……音を消して、見えなくなって……」
イリナさんの震える指が、ガルドさんの肩を強く掴む。
「次に見えた時には、すぐ近くにいるんです」
「嬉しくねぇ話だな」
ガルドさんが足を速める。
僕も続こうとした時、ティナさんを載せた担架が雪の下の岩へ引っかかった。
「っ……!」
縄が腰へ食い込み、身体が後ろへ引かれる。
足を踏ん張って担架を持ち上げようとしたものの、木板の端は岩へ深く噛み込んでいた。
「ガルドさん、少し待ってください!」
「どうした!」
「担架が引っかかりました!」
ガルドさんが振り返る。
その瞬間、彼の犬耳がぴたりと止まった。
「坊主」
声が低い。
僕は担架の端を持ち上げたまま顔を上げた。
「動くな」
「……後ろですか?」
「ああ」
首筋を撫でる風が、急に冷たく感じられた。
振り返るなと言われている。
それでも、背中へ向けられている何かの気配が、嫌でも身体を強張らせる。
――rrrrrrrr……。
獣の喉が鳴った。
低く湿った振動が、すぐ後ろの雪から足元へ伝わってくる。
僕はゆっくり息を吐き、担架を掴んだまま視線だけを横へ動かした。
吹雪の中へ、白い影が立っている。
最初は、雪が盛り上がっているようにしか見えなかった。
けれど、その雪山は呼吸に合わせて上下し、長い前脚を僅かに動かしていた。
全身を覆う白い毛は、水を吸って重く垂れ下がっている。
背はガルドさんよりも高く、異様に長い前脚の先には、凍った地面まで抉れそうな黒い爪が並んでいた。
狼に似ている。
けれど、狼と呼ぶにはあまりにも大きい。
首から背中にかけての毛には、折れた矢や刃の欠けた槍先がいくつも絡みついていた。
古い傷も、新しい傷もある。裂けた皮膚からは血とともに透明な水が溢れ、雪の上へ落ちても凍ることなく黒い染みを広げていた。
「……あれです」
ガルドさんの背で、イリナさんが掠れた声を漏らす。
白い大型は、その声にも反応しなかった。
青白い瞳は濁っている。
僕たちを見ているようで、何も見ていない。頭を低く垂れ、谷の先――さらに西の方角へ顔を向けていた。
「俺たちを追ってきたんじゃねぇのか」
ガルドさんが大盾の縄を外しながら呟く。
背負っていたイリナさんをゆっくり雪へ下ろし、代わりに盾を腕へ戻した。
「声へ寄ってきただけ、でしょうか」
「かもしれねぇな。あとは別の何かを追ってる」
大型は傷ついた身体を引きずるでもなく、西へ向かって一歩を踏み出した。
太い爪が雪へ沈み、身体から滴った水が足跡の底へ溜まっていく。
僕たちの存在など気にしていない。
「刺激するな」
ガルドさんが大盾を構え、大型との間へ立った。
「こいつがこのまま行くなら、進路から外れる。お前は三人を連れて拠点まで戻れ」
「ガルドさんは?」
「後ろを見ながら下がる。戦う必要はねぇ」
正しい判断だった。
依頼は討伐ではない。生存者を救助し、状況を持ち帰ることが僕たちの役目だ。
「分かりました」
腰から縄を外し、担架の端へ手を掛ける。
木板を僅かに持ち上げ、引っかかっていた岩からずらした。
「イリナさん。立てますか?」
「少しなら……」
「僕の肩へ掴まってください。ティナさんの担架も一緒に引きます」
イリナさんは痛む左脚を庇いながら立ち上がった。
長い耳を伏せ、僕の肩へ片腕を回す。
ガルドさんがバルクさんの載った大盾を再び引けるよう、片腕へ縄を巻いた。
もう片方の腕では盾の取っ手を握り、大型へ向けて構えている。
「ゆっくり右へ寄るぞ」
「はい」
白い大型の進路から外れるよう、斜め後ろへ下がる。
一歩進むたび、担架が雪を擦り、イリナさんの負傷した脚が細かく震えた。
大型も西へ向かって歩いている。
急いでいる様子はない。それでも一歩が大きく、僕たちとの距離は少しずつ縮まっていた。
近づくほど、潮の匂いが濃くなる。
獣の臭い。血の臭い。そのすべてを覆うように、海から遠く離れた雪原へ湿った臭気が漂っていた。
「右へ、もう少しだ」
ガルドさんが盾越しに指示を出す。
「そこの岩を越えれば進路から外れる」
「イリナさん、あと少しです」
「はい……」
彼女は僕の肩へ掴まったまま、負傷した脚を雪から引き抜いた。
その拍子に身体が傾き、担架の縄が僕の腰へ強く食い込む。
「っ……!」
足元が崩れた。
僕は片膝を雪へつき、イリナさんも隣へ倒れ込む。
ティナさんの担架が横へ傾いた。
「ティナ!」
イリナさんが慌てて毛布へ手を伸ばす。
僕も担架を押さえ、横転する寸前でどうにか支えた。
「大丈夫です。落ちていません」
「すみません、私が……」
「謝るのは後です。立てますか?」
イリナさんの腕を肩へ戻し、身体を持ち上げる。
その間に、大型の足音が一度だけ止まった。
雪原が静かになる。
「坊主」
ガルドさんの声が低くなった。
「顔を上げろ」
担架を支えながら、白い大型へ視線を向ける。
西を見ていた頭が、ゆっくりこちらへ動いていた。
濁った青白い瞳がイリナさんを通り過ぎ、ティナさんを通り過ぎる。
最後に、僕のところで止まった。
鼻先が動く。
何かの匂いを確かめるように、湿った息を長く吐いた。
大型の顔から右肩へかけて、古い傷が走っている。
浅く裂け、白い毛に埋もれかけた傷。
それでも、僕の身体は見た瞬間に思い出していた。
二年前。
逃げる直前、夢中で振り回した剣が触れた場所。
雪の冷たさ。
口の中へ広がった血の味。
頭上から振り下ろされた爪。
脇腹の古傷が、内側から強く引きつった。
「……同じ個体」
自分の口から漏れた声に、大型の小さな耳が動いた。
青白い瞳から、霞が引いていく。
先ほどまで何も映していなかった目が、はっきりと僕を捉えた。
白い大型が前脚を置き直す。
西へ向いていた身体がゆっくりと回り、正面からこちらへ向き直った。
「お前を見てやがる」
ガルドさんが大盾を両手で構える。
大型はイリナさんも、意識のない二人も見ていなかった。
僕だけを見ている。
低く垂れていた頭が、さらに雪へ近づく。
長い前脚が身体を支え、後脚の筋肉が白い毛の下で盛り上がった。
「来るぞ!」
雪が爆ぜた。
大型は傷だらけの身体からは考えられない速度で、僕たちとの距離を一息に詰めてくる。
ガルドさんが前へ出た。
大盾と白い前脚が激突し、金属の軋む音が谷へ響く。
「ぐっ……!」
ガルドさんの両脚が雪の上を滑った。
盾の縁が深く沈み、その背中が僕のすぐ目の前まで押し戻される。
「ガルドさん!」
「見るな! 三人を連れて行け!」
大型が前脚を引き、もう一度振り上げる。
ガルドさんは盾を斜めへ傾け、振り下ろされた爪を正面から受けずに横へ流した。
黒い爪が盾の表面を滑る。
大型の身体が僅かに横へ崩れた。
「今だ、行け!」
「はい!」
イリナさんを支え、担架を引く。
ガルドさんは大型の進路を塞ぎながら、僕たちと歩調を合わせて少しずつ後退してきた。
真正面から受け止めているわけではない。
前脚が落ちるたびに盾の角度を変え、力を逃がしている。
それでも一撃ごとに、ガルドさんの足が雪を削っていた。
盾の裏から漏れる息も、少しずつ荒くなっていく。
「ガルドさん!」
「前を見ろ!」
怒鳴られ、拠点の方角へ顔を戻す。
壊れた木柵は、吹雪の向こうへ薄く見えていた。
あと少し。
けれど、負傷者を連れた僕たちの足では、その僅かな距離が遠い。
背後で盾が鳴った。
続いて、ガルドさんの声が飛ぶ。
「右へ避けろ!」
考えるより先に、イリナさんを抱えるようにして身体を倒す。
白い前脚がすぐ横を薙ぎ、爪の先が外套の裾を裂いた。
ティナさんの担架が雪へ倒れる。
僕も肩から地面へ落ち、イリナさんが隣で息を呑んだ。
「ティナさん!」
担架へ手を伸ばす。
毛布はずれていたものの、身体は木板から落ちていない。
「大丈夫です。起こします」
「ルキウスさん、後ろ……!」
イリナさんの長い耳がぴたりと伏せられる。
振り返ると、白い大型がこちらへ頭を向けていた。
ガルドさんが横から盾を叩きつけても、青白い瞳は僕から離れない。
「俺を無視してんじゃねぇ!」
ガルドさんがもう一度盾を打ち込む。
大型の頭が僅かに逸れた隙に、僕はティナさんの担架を引き起こした。
「立てますか?」
「はい……!」
イリナさんが僕の腕へ掴まる。
再び雪を進み始めたものの、大型はガルドさんを振り切ろうと何度も身体を捻っていた。
このままでは追いつかれる。
道具袋へ手を伸ばす。
煙玉。閃光筒。予備の縄。火打ち道具。
倒すためではない。
今は、逃げるために使えるものを探す。
「ガルドさん! 煙を使います!」
「やれ!」
煙玉へ火を入れ、大型と僕たちの間へ投げる。
雪へ落ちた玉が割れ、灰色の煙を一気に噴き出した。
白い巨体の輪郭が煙へ呑まれる。
「今です!」
イリナさんの身体を引き上げ、拠点へ向かう。
ガルドさんも煙の中から後退し、大盾に載せたバルクさんを引きながら追いついてきた。
「いけるか!」
「行けます!」
数歩進んだところで、煙の中から白い影が飛び出した。
「速い……!」
迷う様子がない。
こちらの姿が見えていないはずなのに、大型は真っすぐ僕へ向かってくる。
「鼻か?」
「分かりません!」
ガルドさんが横から割り込み、大盾を大型の肩へ叩きつけた。
巨体の進路が僅かに逸れ、黒い爪が僕のすぐ横の雪を抉る。
「もう一つあるか!」
「閃光筒があります!」
「上へ投げろ! こいつらまで巻き込むな!」
ガルドさんが大型の前へ盾を出す。
僕は閃光筒の発火紐を引き、頭上へ向けて投げた。
白い光が弾ける。
吹雪に閉ざされていた谷が、一瞬だけ昼のように明るくなった。
白い大型が低く唸り、頭を激しく振る。
青白い瞳が閉じられ、その前脚が雪を乱暴に掻いた。
「走るな! 担架を落とすぞ!」
「分かっています!」
走りたい衝動を堪え、足元を確かめながら進む。
ガルドさんも大型から視線を外さず、僕たちの後ろを下がってきた。
木柵が近づく。
壊れた門を越え、どうにか拠点の中庭へ戻った。
「食料庫へ!」
ガルドさんの声に頷き、三人を地下へ運ぶ。
ティナさん、バルクさん、最後にイリナさんを階段の下へ座らせた。
「扉を閉めます」
「ルキウスさんたちは……?」
「大型を拠点から離します」
僕が答えると、イリナさんの長い耳が大きく伏せられた。
「駄目です。あれは、あなたを……」
「だからこそです」
声を遮り、ずれていた毛布をティナさんの肩まで掛け直す。
「僕がここにいれば、地下まで来ます」
「でも……」
「必ず戻ります」
それが守れる約束なのかは分からない。
けれど、言わずにはいられなかった。
「傷を押さえていてください。何かあれば、残っている信号筒を使ってください」
「ルキウスさん!」
イリナさんの声を背に、地下の扉を閉める。
食料庫へ戻ると、ガルドさんが大盾を構えて待っていた。
「行けるか?」
「はい」
「北側から出る。こいつを森まで引っ張って、撒けるなら撒くぞ」
「分かりました」
外へ出る。
閃光から立ち直った白い大型が、壊れた門を越えて中庭へ入ってきたところだった。
青白い瞳が僕を見つける。
口元が僅かに開き、牙の間から透明な水が糸を引いて落ちた。
――rrrrrrrr……。
「こっちです!」
声を上げ、北側の木柵へ向かって走る。
白い大型の耳が立ち、その身体が僕を追って動き出した。
「ちゃんと来てるぞ!」
「嬉しくないですね!」
ガルドさんと並び、倒れた木柵を越える。
拠点から離れ、雪原を北へ走った。
古傷が痛む。
肺も焼けるように苦しい。それでも、負傷者を運んでいた時とは違い、今は足を止める理由がなかった。
大型の方が速い。
けれど、地面に散らばる岩を間へ挟み、細かく進路を変えれば距離は保てる。
「右だ!」
ガルドさんの声に従い、雪から突き出た岩の横へ回り込む。
大型は長い前脚で進路を変えようとしたものの、重い身体が外側へ流れ、肩を岩へぶつけた。
「やっぱり、急には曲がれません!」
「分析してる暇があるなら走れ!」
背後で岩の砕ける音が響く。
大型はすぐに体勢を立て直したものの、その僅かな時間で距離を広げられた。
前方には、雪の薄い斜面がある。
その先まで登れば岩場へ入れる。大型の巨体では動きづらく、撒ける可能性もあった。
「あそこを越えるぞ!」
ガルドさんが斜面を指す。
僕も頷き、雪を蹴った。
その時、拠点の方角から甲高い音が響いた。
赤い光が吹雪を貫き、白い空へ昇っていく。
地下へ残した信号筒だった。
「何かあった……?」
思わず足が鈍る。
ガルドさんも肩越しに拠点を振り返った。
白い大型の耳が、赤い光へ向く。
僕たちを追っていた足が止まった。
頭を上げ、信号の上がった拠点を見つめている。
「おい……まさか」
ガルドさんが低く呟く。
大型が身体の向きを変えた。
青白い瞳が僕から外れ、地下に負傷者を残した拠点へ向けられる。
僕たちがこのまま斜面を登れば、逃げられるかもしれない。
距離は開いている。大型も僕たちではなく、再び拠点へ興味を向けていた。
「坊主、行くぞ!」
ガルドさんが斜面へ足を向ける。
正しい。
いったん退き、助けを呼ぶべきだ。
依頼は討伐ではない。
大型と接触したなら撤退し、状況を報告する。それが何度も確認した約束だった。
もっと強い誰かに任せればいい。
フレイヴィアさんのように、確実に大型を倒せる誰かが来るのを待てばいい。
けれど、その誰かが来るまで、地下の三人は待てるのか。
白い大型が拠点へ向けて、一歩を踏み出す。
長い前脚が雪へ沈み、透明な水が黒い足跡を残した。
僕の右手は、いつの間にか片刃剣の柄へ触れていた。
逃げるか。
戦うか。
二年前には与えられなかった選択が、今は僕の目の前にある。
選ぶ時間は、もうほとんど残されていなかった。
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