駆け出しハンターは英雄に憧れる ~だけども、どうやら人間は滅んでいるらしい~   作:木乃実なぎ

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第二章 第十二話『少年は白き恐怖を見る』

 

 ◆

 

 谷の奥から響いた咆哮は、吹雪が戻ってきても消えなかった。

 地面を踏み砕く振動が一歩ごとに近づき、腰へ巻いた縄まで細かく震えている。僕は木板の担架を引く手へ力を込め、雪へ取られそうになる足を必死に前へ運んだ。

 

「止まるな、坊主!」

 

 ガルドさんはイリナさんを背負い、大盾に載せたバルクさんを引きながら前を進んでいる。

 その背で、イリナさんの長い耳が外套の襟へ押しつけられていた。

 

「止まっていません!」

「なら、後ろを見るな!」

「見ていません!」

 

 答えた直後、背後で大きく雪が爆ぜた。

 肩が勝手に強張り、振り返りそうになるのを堪える。

 

 ティナさんは意識を失ったままだった。

 小柄な身体を包む毛布は風に煽られ、その隙間から固定した右腕が覗いている。胸はまだ動いているものの、その呼吸は岩窟を出た時よりも浅くなっていた。

 

「もう少しです」

 

 聞こえているか分からない相手へ呼びかけ、担架を引き上げる。

 谷を抜ければ拠点は近い。そこまで戻れば地下へ三人を運び、傷口を押さえ直せる。

 

 あと少し。

 そう考えたところで、背後の足音が途絶えた。

 

 地面を揺らしていた振動まで、前触れなく消えている。

 聞こえるのは吹雪の音と、僕たちが雪を踏む音だけだった。

 

「ガルドさん」

 

 声を落として呼ぶ。

 前を進んでいたガルドさんも速度を僅かに緩め、二つの犬耳を後方へ向けた。

 

「分かってる」

「止まりましたか?」

「音はな」

 

 ガルドさんは振り返らない。

 けれど、盾を引く右腕には先ほどまで以上の力が入っていた。

 

「イリナ。あいつはいつもこうなのか」

「はい……音を消して、見えなくなって……」

 

 イリナさんの震える指が、ガルドさんの肩を強く掴む。

 

「次に見えた時には、すぐ近くにいるんです」

「嬉しくねぇ話だな」

 

 ガルドさんが足を速める。

 僕も続こうとした時、ティナさんを載せた担架が雪の下の岩へ引っかかった。

 

「っ……!」

 

 縄が腰へ食い込み、身体が後ろへ引かれる。

 足を踏ん張って担架を持ち上げようとしたものの、木板の端は岩へ深く噛み込んでいた。

 

「ガルドさん、少し待ってください!」

「どうした!」

「担架が引っかかりました!」

 

 ガルドさんが振り返る。

 その瞬間、彼の犬耳がぴたりと止まった。

 

「坊主」

 

 声が低い。

 僕は担架の端を持ち上げたまま顔を上げた。

 

「動くな」

「……後ろですか?」

「ああ」

 

 首筋を撫でる風が、急に冷たく感じられた。

 

 振り返るなと言われている。

 それでも、背中へ向けられている何かの気配が、嫌でも身体を強張らせる。

 

 ――rrrrrrrr……。

 

 獣の喉が鳴った。

 低く湿った振動が、すぐ後ろの雪から足元へ伝わってくる。

 

 僕はゆっくり息を吐き、担架を掴んだまま視線だけを横へ動かした。

 

 吹雪の中へ、白い影が立っている。

 

 最初は、雪が盛り上がっているようにしか見えなかった。

 けれど、その雪山は呼吸に合わせて上下し、長い前脚を僅かに動かしていた。

 

 全身を覆う白い毛は、水を吸って重く垂れ下がっている。

 背はガルドさんよりも高く、異様に長い前脚の先には、凍った地面まで抉れそうな黒い爪が並んでいた。

 

 狼に似ている。

 けれど、狼と呼ぶにはあまりにも大きい。

 

 首から背中にかけての毛には、折れた矢や刃の欠けた槍先がいくつも絡みついていた。

 古い傷も、新しい傷もある。裂けた皮膚からは血とともに透明な水が溢れ、雪の上へ落ちても凍ることなく黒い染みを広げていた。

 

「……あれです」

 

 ガルドさんの背で、イリナさんが掠れた声を漏らす。

 白い大型は、その声にも反応しなかった。

 

 青白い瞳は濁っている。

 僕たちを見ているようで、何も見ていない。頭を低く垂れ、谷の先――さらに西の方角へ顔を向けていた。

 

「俺たちを追ってきたんじゃねぇのか」

 

 ガルドさんが大盾の縄を外しながら呟く。

 背負っていたイリナさんをゆっくり雪へ下ろし、代わりに盾を腕へ戻した。

 

「声へ寄ってきただけ、でしょうか」

「かもしれねぇな。あとは別の何かを追ってる」

 

 大型は傷ついた身体を引きずるでもなく、西へ向かって一歩を踏み出した。

 太い爪が雪へ沈み、身体から滴った水が足跡の底へ溜まっていく。

 

 僕たちの存在など気にしていない。

 

「刺激するな」

 

 ガルドさんが大盾を構え、大型との間へ立った。

 

「こいつがこのまま行くなら、進路から外れる。お前は三人を連れて拠点まで戻れ」

「ガルドさんは?」

「後ろを見ながら下がる。戦う必要はねぇ」

 

 正しい判断だった。

 依頼は討伐ではない。生存者を救助し、状況を持ち帰ることが僕たちの役目だ。

 

「分かりました」

 

 腰から縄を外し、担架の端へ手を掛ける。

 木板を僅かに持ち上げ、引っかかっていた岩からずらした。

 

「イリナさん。立てますか?」

「少しなら……」

「僕の肩へ掴まってください。ティナさんの担架も一緒に引きます」

 

 イリナさんは痛む左脚を庇いながら立ち上がった。

 長い耳を伏せ、僕の肩へ片腕を回す。

 

 ガルドさんがバルクさんの載った大盾を再び引けるよう、片腕へ縄を巻いた。

 もう片方の腕では盾の取っ手を握り、大型へ向けて構えている。

 

「ゆっくり右へ寄るぞ」

「はい」

 

 白い大型の進路から外れるよう、斜め後ろへ下がる。

 一歩進むたび、担架が雪を擦り、イリナさんの負傷した脚が細かく震えた。

 

 大型も西へ向かって歩いている。

 急いでいる様子はない。それでも一歩が大きく、僕たちとの距離は少しずつ縮まっていた。

 

 近づくほど、潮の匂いが濃くなる。

 獣の臭い。血の臭い。そのすべてを覆うように、海から遠く離れた雪原へ湿った臭気が漂っていた。

 

「右へ、もう少しだ」

 

 ガルドさんが盾越しに指示を出す。

 

「そこの岩を越えれば進路から外れる」

「イリナさん、あと少しです」

「はい……」

 

 彼女は僕の肩へ掴まったまま、負傷した脚を雪から引き抜いた。

 その拍子に身体が傾き、担架の縄が僕の腰へ強く食い込む。

 

「っ……!」

 

 足元が崩れた。

 僕は片膝を雪へつき、イリナさんも隣へ倒れ込む。

 

 ティナさんの担架が横へ傾いた。

 

「ティナ!」

 

 イリナさんが慌てて毛布へ手を伸ばす。

 僕も担架を押さえ、横転する寸前でどうにか支えた。

 

「大丈夫です。落ちていません」

「すみません、私が……」

「謝るのは後です。立てますか?」

 

 イリナさんの腕を肩へ戻し、身体を持ち上げる。

 その間に、大型の足音が一度だけ止まった。

 

 雪原が静かになる。

 

「坊主」

 

 ガルドさんの声が低くなった。

 

「顔を上げろ」

 

 担架を支えながら、白い大型へ視線を向ける。

 

 西を見ていた頭が、ゆっくりこちらへ動いていた。

 濁った青白い瞳がイリナさんを通り過ぎ、ティナさんを通り過ぎる。

 

 最後に、僕のところで止まった。

 

 鼻先が動く。

 何かの匂いを確かめるように、湿った息を長く吐いた。

 

 大型の顔から右肩へかけて、古い傷が走っている。

 

 浅く裂け、白い毛に埋もれかけた傷。

 それでも、僕の身体は見た瞬間に思い出していた。

 

 二年前。

 逃げる直前、夢中で振り回した剣が触れた場所。

 

 雪の冷たさ。

 口の中へ広がった血の味。

 頭上から振り下ろされた爪。

 

 脇腹の古傷が、内側から強く引きつった。

 

「……同じ個体」

 

 自分の口から漏れた声に、大型の小さな耳が動いた。

 

 青白い瞳から、霞が引いていく。

 先ほどまで何も映していなかった目が、はっきりと僕を捉えた。

 

 白い大型が前脚を置き直す。

 西へ向いていた身体がゆっくりと回り、正面からこちらへ向き直った。

 

「お前を見てやがる」

 

 ガルドさんが大盾を両手で構える。

 大型はイリナさんも、意識のない二人も見ていなかった。

 

 僕だけを見ている。

 

 低く垂れていた頭が、さらに雪へ近づく。

 長い前脚が身体を支え、後脚の筋肉が白い毛の下で盛り上がった。

 

「来るぞ!」

 

 雪が爆ぜた。

 

 大型は傷だらけの身体からは考えられない速度で、僕たちとの距離を一息に詰めてくる。

 

 ガルドさんが前へ出た。

 大盾と白い前脚が激突し、金属の軋む音が谷へ響く。

 

「ぐっ……!」

 

 ガルドさんの両脚が雪の上を滑った。

 盾の縁が深く沈み、その背中が僕のすぐ目の前まで押し戻される。

 

「ガルドさん!」

「見るな! 三人を連れて行け!」

 

 大型が前脚を引き、もう一度振り上げる。

 ガルドさんは盾を斜めへ傾け、振り下ろされた爪を正面から受けずに横へ流した。

 

 黒い爪が盾の表面を滑る。

 大型の身体が僅かに横へ崩れた。

 

「今だ、行け!」

 

「はい!」

 

 イリナさんを支え、担架を引く。

 ガルドさんは大型の進路を塞ぎながら、僕たちと歩調を合わせて少しずつ後退してきた。

 

 真正面から受け止めているわけではない。

 前脚が落ちるたびに盾の角度を変え、力を逃がしている。

 

 それでも一撃ごとに、ガルドさんの足が雪を削っていた。

 盾の裏から漏れる息も、少しずつ荒くなっていく。

 

「ガルドさん!」

「前を見ろ!」

 

 怒鳴られ、拠点の方角へ顔を戻す。

 壊れた木柵は、吹雪の向こうへ薄く見えていた。

 

 あと少し。

 けれど、負傷者を連れた僕たちの足では、その僅かな距離が遠い。

 

 背後で盾が鳴った。

 続いて、ガルドさんの声が飛ぶ。

 

「右へ避けろ!」

 

 考えるより先に、イリナさんを抱えるようにして身体を倒す。

 白い前脚がすぐ横を薙ぎ、爪の先が外套の裾を裂いた。

 

 ティナさんの担架が雪へ倒れる。

 僕も肩から地面へ落ち、イリナさんが隣で息を呑んだ。

 

「ティナさん!」

 

 担架へ手を伸ばす。

 毛布はずれていたものの、身体は木板から落ちていない。

 

「大丈夫です。起こします」

「ルキウスさん、後ろ……!」

 

 イリナさんの長い耳がぴたりと伏せられる。

 

 振り返ると、白い大型がこちらへ頭を向けていた。

 ガルドさんが横から盾を叩きつけても、青白い瞳は僕から離れない。

 

「俺を無視してんじゃねぇ!」

 

 ガルドさんがもう一度盾を打ち込む。

 大型の頭が僅かに逸れた隙に、僕はティナさんの担架を引き起こした。

 

「立てますか?」

「はい……!」

 

 イリナさんが僕の腕へ掴まる。

 再び雪を進み始めたものの、大型はガルドさんを振り切ろうと何度も身体を捻っていた。

 

 このままでは追いつかれる。

 

 道具袋へ手を伸ばす。

 煙玉。閃光筒。予備の縄。火打ち道具。

 

 倒すためではない。

 今は、逃げるために使えるものを探す。

 

「ガルドさん! 煙を使います!」

「やれ!」

 

 煙玉へ火を入れ、大型と僕たちの間へ投げる。

 雪へ落ちた玉が割れ、灰色の煙を一気に噴き出した。

 

 白い巨体の輪郭が煙へ呑まれる。

 

「今です!」

 

 イリナさんの身体を引き上げ、拠点へ向かう。

 ガルドさんも煙の中から後退し、大盾に載せたバルクさんを引きながら追いついてきた。

 

「いけるか!」

「行けます!」

 

 数歩進んだところで、煙の中から白い影が飛び出した。

 

「速い……!」

 

 迷う様子がない。

 こちらの姿が見えていないはずなのに、大型は真っすぐ僕へ向かってくる。

 

「鼻か?」

「分かりません!」

 

 ガルドさんが横から割り込み、大盾を大型の肩へ叩きつけた。

 巨体の進路が僅かに逸れ、黒い爪が僕のすぐ横の雪を抉る。

 

「もう一つあるか!」

「閃光筒があります!」

「上へ投げろ! こいつらまで巻き込むな!」

 

 ガルドさんが大型の前へ盾を出す。

 僕は閃光筒の発火紐を引き、頭上へ向けて投げた。

 

 白い光が弾ける。

 吹雪に閉ざされていた谷が、一瞬だけ昼のように明るくなった。

 

 白い大型が低く唸り、頭を激しく振る。

 青白い瞳が閉じられ、その前脚が雪を乱暴に掻いた。

 

「走るな! 担架を落とすぞ!」

「分かっています!」

 

 走りたい衝動を堪え、足元を確かめながら進む。

 ガルドさんも大型から視線を外さず、僕たちの後ろを下がってきた。

 

 木柵が近づく。

 壊れた門を越え、どうにか拠点の中庭へ戻った。

 

「食料庫へ!」

 

 ガルドさんの声に頷き、三人を地下へ運ぶ。

 ティナさん、バルクさん、最後にイリナさんを階段の下へ座らせた。

 

「扉を閉めます」

「ルキウスさんたちは……?」

「大型を拠点から離します」

 

 僕が答えると、イリナさんの長い耳が大きく伏せられた。

 

「駄目です。あれは、あなたを……」

「だからこそです」

 

 声を遮り、ずれていた毛布をティナさんの肩まで掛け直す。

 

「僕がここにいれば、地下まで来ます」

「でも……」

「必ず戻ります」

 

 それが守れる約束なのかは分からない。

 けれど、言わずにはいられなかった。

 

「傷を押さえていてください。何かあれば、残っている信号筒を使ってください」

「ルキウスさん!」

 

 イリナさんの声を背に、地下の扉を閉める。

 食料庫へ戻ると、ガルドさんが大盾を構えて待っていた。

 

「行けるか?」

「はい」

「北側から出る。こいつを森まで引っ張って、撒けるなら撒くぞ」

「分かりました」

 

 外へ出る。

 閃光から立ち直った白い大型が、壊れた門を越えて中庭へ入ってきたところだった。

 

 青白い瞳が僕を見つける。

 口元が僅かに開き、牙の間から透明な水が糸を引いて落ちた。

 

 ――rrrrrrrr……。

 

「こっちです!」

 

 声を上げ、北側の木柵へ向かって走る。

 白い大型の耳が立ち、その身体が僕を追って動き出した。

 

「ちゃんと来てるぞ!」

「嬉しくないですね!」

 

 ガルドさんと並び、倒れた木柵を越える。

 拠点から離れ、雪原を北へ走った。

 

 古傷が痛む。

 肺も焼けるように苦しい。それでも、負傷者を運んでいた時とは違い、今は足を止める理由がなかった。

 

 大型の方が速い。

 けれど、地面に散らばる岩を間へ挟み、細かく進路を変えれば距離は保てる。

 

「右だ!」

 

 ガルドさんの声に従い、雪から突き出た岩の横へ回り込む。

 大型は長い前脚で進路を変えようとしたものの、重い身体が外側へ流れ、肩を岩へぶつけた。

 

「やっぱり、急には曲がれません!」

「分析してる暇があるなら走れ!」

 

 背後で岩の砕ける音が響く。

 大型はすぐに体勢を立て直したものの、その僅かな時間で距離を広げられた。

 

 前方には、雪の薄い斜面がある。

 その先まで登れば岩場へ入れる。大型の巨体では動きづらく、撒ける可能性もあった。

 

「あそこを越えるぞ!」

 

 ガルドさんが斜面を指す。

 僕も頷き、雪を蹴った。

 

 その時、拠点の方角から甲高い音が響いた。

 

 赤い光が吹雪を貫き、白い空へ昇っていく。

 地下へ残した信号筒だった。

 

「何かあった……?」

 

 思わず足が鈍る。

 ガルドさんも肩越しに拠点を振り返った。

 

 白い大型の耳が、赤い光へ向く。

 

 僕たちを追っていた足が止まった。

 頭を上げ、信号の上がった拠点を見つめている。

 

「おい……まさか」

 

 ガルドさんが低く呟く。

 

 大型が身体の向きを変えた。

 青白い瞳が僕から外れ、地下に負傷者を残した拠点へ向けられる。

 

 僕たちがこのまま斜面を登れば、逃げられるかもしれない。

 距離は開いている。大型も僕たちではなく、再び拠点へ興味を向けていた。

 

「坊主、行くぞ!」

 

 ガルドさんが斜面へ足を向ける。

 

 正しい。

 いったん退き、助けを呼ぶべきだ。

 

 依頼は討伐ではない。

 大型と接触したなら撤退し、状況を報告する。それが何度も確認した約束だった。

 

 もっと強い誰かに任せればいい。

 フレイヴィアさんのように、確実に大型を倒せる誰かが来るのを待てばいい。

 

 けれど、その誰かが来るまで、地下の三人は待てるのか。

 

 白い大型が拠点へ向けて、一歩を踏み出す。

 長い前脚が雪へ沈み、透明な水が黒い足跡を残した。

 

 僕の右手は、いつの間にか片刃剣の柄へ触れていた。

 

 逃げるか。

 戦うか。

 

 二年前には与えられなかった選択が、今は僕の目の前にある。

 

 選ぶ時間は、もうほとんど残されていなかった。

 

 





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